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2017-12-22 『スターウォーズ/最期のジェダイ』完成度は高い、だけど何かが違う

[]『スターウォーズ最期ジェダイ

☆☆ネタバレあり☆☆

・待ちに待ったスターウォーズ EP8の公開! 事前の情報予告編などから想像していたことはすべていい意味でひっくり返され、期待にそぐわぬ素晴らしい作品に2時間33分スターウォーズの世界にどっぷり浸かって、物語を堪能! 目の前のスクリーンのなかで片時の別世界を味わえた。文句なしの満点だ、100点満点、映画映像としても極めてハイレベルなところに達している。人が絵をどうみたら、どういう角度でどういう配置で並べたら最も効果的に臨場感や恐怖感を味わえるかという点も極限まで計算されていると言えるだろう。そのくらい映画としてのできが良い。・・・だが、観終えて時間が立つに連れて・・・気持ちが少しずつ変化してくる。確かに素晴らしい映像、脚本の作品だ、だがそれ以上のなにか、満点を超える何かが無いかもしれないと。

・脚本は練に練られている。物語の整合性に疑問がでないように、きっちりとした話の理由けが明確になされていて「あれ?」とか「ここおかしいんじゃない?」と観ていて思うようなところはほぼなかった。」(後から何点か思いつくところが出てきたが) ストーリーの流れもほとんどひっかりがなくスムーズだ。上映中も上映が終わっても「うーん、これは隅々まで感覚が行き届いた実にクオリティーの高い映画だ」「拾にスキがない、なんて密度が高く、がっしりと四ツに構えた映像の集合体なんだろう」とほぼ陶酔状態だったのだが・・・しばらくすると、だんだんと魔術が解けてくるように何かが足りない気持ちが沸き上がってきた。

とりあえず一回観ただけなので記憶が不確かだったり、間違えてとらえてしまっているところもあるかもしれないが、気になるところを、気に入った所を羅列しておくとしよう。

☆《ヨーダの造形に泣けた!》

前作『フォース覚醒』では監督エイブラハムがSW過去作へのオマージュ、回顧に走りすぎているという批判があったが、長らくのスターウォーズ・ファンとしてはそれはそれでワクワクドキドキしてとても良かった。ハン・ソロチューバッカがミレニアム・ファルコンに戻ってくるシーンは感涙ものだったし。崩れ落ちたスターデストロイヤーや、AT-ATスノーウォーカーが画面に出てくるたびに歓喜した。

《 2015-12-22日記 『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』SWファンにとって最高の傑作 》

今作では前作で批判も受けた懐古主義的な部分は少なくなっているという話を聞いていたが・・・なんのなんの、所々にファンなら喜ぶ旧作SWのセリフや映像がさりげなく散りばめられていて、なかなか憎い作りであった。そんな中で1番良かったのはヨーダの登場シーン。CGIの技術は格段に進歩していて、もはやどんな映像でも作れないものはないという状態であるのに、今回のヨーダ−はなんとその最先端のCGIで「エピソード帝国の逆襲」に出てきたマペットのヨーダ−を復活させているとは・・・監督たちのこのこだわり、この意識には敬服するね。作品の時系列を合わせる意味でもヨーダはEP4-6よりもさらに年齢を重ねているのは分かるのだが、あの1970年当時のマペットの風貌、動きをそのままに再現させているとは・・・お見逸れしました。EP5そのままに、杖をつきながらよちよち歩きをするヨーダ。新三部作のEP1-3でありったけCGIを使ってあのピョンピョン素早く目にも止まらに速さでライトセーバーを振り回すヨーダには驚いたが、ちょっとやり過ぎという感もあった。それが今回はなんとでも動きを作れるはずのヨーダをわざわざマペットのぎこちない動きに合わせて作っている。ここにはスターウォーズへの愛を感じるなぁ。そしてヨーダがルークと並んで遠い空を見上げるシーン。見事にEP5の若きスカイウォーカーとヨーダの並んだシーンへのオマージュ。こういうところにSWファンとしては嬉しくて涙が出てしまう。

☆《完璧なまでに美しい配置》

バージョンアップしたAT-M6ウォーカーのなんともカッコよく強そうで恐怖感のあることあること。AT-ATスノーウォーカーのデザイン上の弱点、足の弱さなどを見事に取り除いてまるで強靭猛獣の如くにしあげている。並んで登場するシーンは画角、配置ともベスト小津安二郎人間、道具の配置へのこだわりのように、この登場シーンはそれぞれの位置関係、観客からの視点など徹底的に計算されて場の雰囲気を作り上げている。このシーンは素晴らしい絵であり写真だ。

《全然動かないスターデストロイヤー》

なんでもかんでも大きく、大きくすればいいってもんじゃないと思うが、今回の作品でメガ・スターデストロイヤーというやたら横にただ長いだけのような全長60kmとかいう設定の巨大艦船が出てきた。たしかにデカさに凄いなぁとは思うのだが、これただ浮かんでるだけ。そしてもっと悪いのは、いままでのシリーズ帝国軍の圧倒的な力の象徴でもあったスターデストロイヤーが相対的にちっちゃくなってしまって、後ろの方にこれまた浮かんでるだけ。ほぼ戦闘攻撃にも参加してない。「なんだよ、スターデストロイヤー全然動いてないじゃないか」とスクリーンを観ながらイライラ憤り。今回の作品からファースト・オーダー・ドレッドノートなるスターデストロイヤーの2.5倍、19kmもある新艦船も出てきているということだが、メガ・スターデストロイヤーがでかすぎてこのドレッドノートもまるで目立たず。というかこういう馬鹿みたいにデカイ船をわざわざ設定しちゃったために、旧3部作のEP4冒頭で、あのスターデストロイヤーがドーンと出てくるあの巨大感にのけぞって驚いた体験がちゃかされてしまった。正直意味なしというくらい大きさだけを強調した今作品の船艦のせいで、過去の作品が持っていた素晴らしい映像体験やイメージまでもぶち壊してしまったといえるだろう。これはSWファンとして声を大にして非難する! 

ポーグはただのおちゃらけキャラだったのか》

可愛らしい姿で公開前から注目されていたポーグ。ファルコン号でチューイと一緒にコックピットにいる映像などからも、このちっちゃくて可愛いキャラがどういう力をもっているのだろう。チューイと一緒にファルコンを操ってなにかもの凄い活躍をするのだろうか? などと想像していたら、ただ単に可愛いだけのおちゃらけキャラだった。重力がかかって窓にぎゅ〜っと押し付けられるシーンだとかは笑えたが、完全にディズニーのキャラ売り戦略部品というだけだったとは。もうフィギアぬいぐるみを売るためだけに追加したキャラという魂胆がミエミエでどうしょうもない。それとも次回作でなにか活躍するシーンでも加えられるのかな? そうでないとあざとすぎるもんな、このキャラは。それでもイウォークやジャージャービンクスよりは良いって? 確かにそうか・・・・(-_-;)

《スターウォーズに燃料切れの話はダメダメだろう》

宇宙の話はねぇ、色々あるけけど、それをやっちゃいけない、それは当然のこととして受け入れた上で観てないとどうしても辻褄合わなくなる部分は出てくる。1番はっきりしてるのは爆発の音。宇宙じゃ音しないでしょ、ドーッカーンとかね。でもそれは目をつぶって見てるわけだし、音がしなかったら映画としてやはりつまらない。(キューブリックは音を消したけど)、同じくこんな巨大船艦で食料はどうしてるの、水はどうしてるの、空気は・・・そして燃料は?? イオンエンジンは、ハイパースペースドライブは・・・いろいろ未来の技術が開発されて現実世界のように燃料に煩わされることはほぼなくなっているという仮定の上で宇宙物の映画をみんな見てるわけで、燃料どうしてるんだろう、こんなに飛べるはずないだろう、嘘だ!と言ってしまったら全部話が台無しになってしまう。だからそういった現実世界的な制約は取り除かれているとう仮定でSF映画はみんな観ているわけなのに・・・燃料がもちません、後何時間でなくなります・・・ていうのをストーリーにいれてしまうのは、大大大失敗、失策なのだけどねぇ。監督や脚本家はこれだけ素晴らしくまとまったストーリーを作り上げたのに、その部分は気が付かないのか? それとも話を作り上げる発想力が足りなくて、つじつま合わせで燃料不足をもちだしたのか? 何にしてもダメダメ。

ハイパードライブで敵艦に神風アタックダメだろう》

これも、今回やっちゃったら、今までだって危機に陥ったときにただ撃ち落とされるんじゃなくて、ハイパードライブで突っ込めばスターデストロイヤーもやっつけられただろう・・・と思うよねぇ。ホルド提督カミカゼアタックでメガ・スターデストロイヤーに突っ込み爆破するシーンは少しウルウルきたけれど。

《ハイパースペース・トラッキングシステム

ハックス将軍が「奴らに紐を付けておいた」とするハイパースペースを超えても相手を追跡出来るというシステム。これに対してフィンとローズが「奴らの追跡システムを破壊するのよ」というのが物語の大事な筋になっているのだが・・・なんで、追跡されてるって分かったら、本体の追跡システムを壊そうということになるのか? 相手の追跡システムを解除しない限り、永延に後を付けられてしまうと考えるんじゃなくて、普通に考えれば自分たちの居る船に何か追跡システムに信号を送る装置が付けられている、それを探して壊そうと考えるでしょ。つまり発振器、ビーコンがどこかにあるって考えるのが当然なんだけど。。。sらにおかしいのは、レイには居場所がわかるようにビーコンを持たせてる・・・ハイパースペース超えてルークの居る星にいってるのに?? んー、もうこういう部分でで突っ込み所満載なんだよなぁ。いや、全体的に脚本の出来は素晴らしいのだけれど、サラーッと見ていると粗にはあんまり気が付かないんだけど、よく考えると、監督や脚本家達が“よく考えていない”ところがあれこれ見えてくるんだよなぁ。大体にして30年以上前の設定となる『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』でオビワンが逃げるジャンゴ・フェットのポッドに追跡用の装置を投げつけてくっ付けるシーンがあるじゃない。てことは、ずっとまえからそういうシステムは出来ていたんじゃないの? とか言いたくなるんだよね。

コードブレイカーの話は伏線が回収されていない》

マズ・カナタがファーストオーダーの暗号破りはこの目印を探せ!といって示した花のバッジみたいなやつ。カジノでその目印を付けてた奴はあれ、誰なの? デルトロ扮するDJが実はあの目印を付けてるやつにだまされて監獄に入れられた、というなら話もまあ繋がるが、あの目印に関しては映画のなかで結局何のお話もなし。伏線がまるっきり回収されず投げ捨てられてる状態。今回の映画公開版は上映時間153分と現状でも長尺だが、監督のライアン・ジョンソンが完成版から50分近くをカットして劇場公開版にした、未公開部分はブルーレイに収録するなんてことを言っているので、ブルーレイになったところで、あれこれつじつまの合わないところや、なんかここが変だという部分が分かってくるのかもしれない。それにしても、2時間33分もありながら話として???と疑問に思った所が何箇所かあるので、この劇場公開版はディレクターズカットじゃなく、短縮版という扱いになってしまう可能性もある。ロード・オブ・ザ・リングのときも同じようなことやってたな。これもソフトを売るためのあざとさに思えるが。

いきなり出てきたけどマズ・カナタが「労使交渉やってるんだよ」といって銃撃戦してるのはちょっと笑った。マズ・カナタも不気味な老女じゃなく、なんかヨーダ的なウケ狙いキャラにしようとしてるのかもしれないが。

《毎度のことだがシスってあっさり殺られる》

ファーストオーダー最高指導者スノーク。フォースのダークサイドを使い手、シス。だけど・・・あっさり殺されるよなぁ。それだけ強いのに、人間の心も読めるのに・・・。真っ二つにされるというのはお約束をきちんと踏襲してるが、それにしてもなんかあっさり過ぎ。でも考えてみれば、EP1でのダース・モールもあっさり、あれぇ〜という感じで真っ二つ、いとも簡単に殺られた。ドウーク伯爵もあっさり首を落とされるし、絶対勝ち目なさそうだったパルパティーンは反応炉に突き落とされて死んじゃうわけだし、シスじゃないけどグリーパス将軍も、もの凄い強いという話だったのに、オイオイというような情けない殺られ方で死んじゃったし、スター・ウォーズに出てくる悪の皇帝やら支配者、将軍・・・なんか邪悪でもの凄い強そうな設定なのに、ぜんぶあっさり殺られてる。(ダース・ベイダーだけは例外?)ことさら今回のスノークの殺られ方って、余りに簡単すぎないか? なにが最高指導者でなにがシスなの、どこが邪悪でどこが強いの? と思わずにはいられない。

《レイは一体どうして強いフォースを持っているのか》

カイロ・レンがダークサイドに堕ちるきっかけとなった話は巧く出来ていた。ルークがその原因だったとはかなりの驚きであり衝撃的であった。しかしなぁ、ダース・ベイダーの息子であるルーク、双子の娘の子だから孫にあたるベンことカイロ・レンで、カイロ・レンがルークを押しのけてジェダイ寺院崩壊させるほどのフォースを持っていると言うのはイマイチ納得がいかない。母親であるレイアがダース・ベイダーの娘なのだからスカイウォーカー家の血筋を引いているとしても、母親も父親であるハン・ソロもジェダイにはならなかったし、レイアのフォースが特に強かったというわけでもないんだが。そしてそれ以上になぜレイは他のだれよりも強いフォースを持っているのか? この点に関してはなんら答えが示されていない。レンとレイの会話ではレイが両親から見捨てられたただの娘だという話レイがするわけだが。カイロ・レンとレイの会話のシーンです。カイロ・レンがレイに「お前の両親は何者でもなく、ジャクーでガラクタを回収していた夫婦ですでに死んでいる。お前は見捨てられたのだ」と衝撃の事実が告げられたが、じゃあなんでレイはあんなに強烈なフォースを持っているのか? 

《ハン・ソロは本当に死んだのか?》

これもまたレンとレイの会話でだが、レイが「あなたは父親を殺したのよ」と言ったところでレンが「本当にそうおもうのか」というようなことを言っていた。ん??? 確かに「フォースの覚醒」でハン・ソロはライトセーバーで体を射抜かれ、船艦の底へと落ちていくのだが、実際に死んだ様子の描写は一切なし。葬式もなし。でもレイア将軍が夫であるソロの死を感じたような部分はあった。でも完全に死んだという描写はなかった・・・さてここもどうなるのか?

《ルークのホログラムはダメでしょ》

もうさぁ、あれをやったらなんだってオッケーになってしまうじゃない。( ´Д`)=3 それとラストレジスタンス指輪を付けた子供がフォースを使うような場面があり、次回作への希望につながっていくようなシーンがあるが、なんかこれもわざとらしく、よくよく使われてきたような子供っぽいシーン。まるでディズニーの子供向け冒険物語的な終わり方だ。

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と、ここまで書いてきたら、否定的な所感ばかりになってしまった。この作品を観終えたときには「凄い完成度だ、スキがない、凄い映像だ」と溜息を付くほどにどっぷりスターウォーズの世界に取り込まれ、凄い凄いと感嘆し、かなりの満足感に浸っていたのだが・・・時間が立つに連れて、いろいろなシーンを振り返って考えるに連れて、どんどんと疑問や不満、納得の行かないところが出てきた。

映画の完成度は高い、でも何かスターウオーズ的でない変なものを感じる。商業主義、ディズニーの金儲けの道具的になった部分も大いに感じる。少なくともこれは絶対に言えることだが・・・

「帝国の逆襲」を超える最高傑作!・・・というのは違うな。

当初に予想していた展開は見事にほとんど外れた。カイロ・レンがまるで母親であるレイア将軍を攻撃するかのような予告編の作りや、ポスターで示されたダークサイドに落ちたようなルークの姿も、言ってみれば全部ブラフでありあったな。まるで思っていたこととは違った驚きの展開だったし。でも、その驚きとスター・ウォーズでこれまで感じてきた驚きはちょっと違う。やはり「帝国の逆襲」での「私はお前の父親だ」に勝る驚き、衝撃は無い。自分が映画に求めているものの一つである「やったー!」という爽快感、感動、気持ちよさというものは残念ながらなかったといえるだろう。改めて思い起こすと今までのスター・ウォーズ・シリーズのテイスト、雰囲気から少し違う方向に映画が向きを変えている感じがする。それが次のエピソード9でどうなるか? 新たな3部作まで作られるということなので、ディズニーにしてみればスター・ウォーズはやはり最大のドル箱であろう。

公開から今日で一週間。アチコチに書かれている考察感想、批判、賞賛などを読んでいると、一回の観賞では分からなかった、とらえきれなかった細かな部分を色々と説明してくれているサイトも多々あり、凄いなぁと思う次第。もう少しあちこち読んだり見たりしてから、年内にもう一回観賞しようかなと考えているところ。但し、普通なら二回目は日本語吹き替え版で観賞するのだが、日本語の予告編やCMなどで観るとどうも今回の吹き替えはレイの声にしても喋り方にしてもなんとも軽薄で脱力してしまう雰囲気なので、二回目も字幕で見るかもしれないな。

2017-12-12 いよいよ今週末公開『スターウォーズ/最後のジェダイ』どうなるか?

[] いよいよ今週末公開『スターウォーズ最後ジェダイ

久しぶりだ、本当に久しぶりだ、これほどまでに公開が待ちどうしい、一体どうなるんだ、どんな展開になるんだと期待と不安に、こんなにもワクワクドキドキする映画は何年に一本だろう。今までのシリーズを通しで観てきたSWファンとしても、今回の『スターウォーズ/最後のジェダイ』ほど期待感と不安が交錯する作品はない、なかった。

ルーカスフィルムを買収したディズニーが作る新シリーズ第一エピソード7は不安だらけだった。ディズニーの商魂がスターウォーズという作品を新シリーズでめちゃくちゃにダメにしてしまうのではないか、そんな思いが強かった。しかし、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』はそんな不安を払拭し、やったぞ!という大喝采を贈ることの出来る素晴らしく気持ちのいい作品であった。(エピソード4の懐古的要素が強かったのが、かつてのファンにとってうれしかったという部分も大きいが)

そして2年を置いて公開される今回のエピソード8『スターウォーズ/最後のジェダイ』は新シーリーズの序章であったエピソード7の懐古的な内容から大きく話が飛躍し、大団円となるエピソード9に向かうほんとうの意味での本題となる作品であろう。

ちょろりちょろりと作品に関する噂や情報は流れてきているが、本筋に関わる部分はきっちりとした情報統制のおかげで、いったい話がどうなるかはまだまったく分からない。だが、SWファンとして今までの情報を元にして公開前に『スターウォーズ/最後のジェダイ』がどんな話になるだろうかと想像してみた。公開まであと3日。同じSWファン同士で、あーでもない、こーでもないと予想を話し合うのは映画を観る前の楽しい時間でもある。ワクワク感がさらに増幅する。さあどうなることだろうか!

勝手なそしてファンとしての期待を込めてこうなるだろう、こうなって欲しいという思いはこんな感じ。

◎まず第一に「ルークダークサイドに落ちる」

最期のジェダイという副題もそうだが、先日公開された劇場ポスターで示された、ダークサイドの赤に覆われるルークの顔。さrに、闇か!と書かれたポスターのルークはベールをまといまるで父であるダースベーダーの如くである。

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伝説のジェダイ、最期のジェダイであるルーク・スカイウォーカーはダークサイドに堕ちるのか・・・たぶんそうなりそうだ、そうであろう。だから、映画の副題が「THE LAST JEDI 最期のジェダイ」となっているのであろう。(レイアスカイウォーカーの血を引くがジェダイのトレーニングはしていないのでジェダイにはなっていない)

では、なぜルークはダークサイドに堕ちるのだろう。フォースの力を持ったものがダークサイドに堕ちるきっかけ、それはこれまでのSWシリーズで何度も繰り返し述べられてきたように“怒り”と“憎しみ”だ。怒りと憎しみに心が因われたた時、ジェダイはダークサイドに引きずり込まれる。愛するパドメを失った時のアナキンがダース・ベイダーになったのも悲しみを上回る怒りと憎しみに心が支配されたからだ。皇帝パルパティーンはその期を逃さず、アナキン・スカイウォーカーをダークサイドに導き、自らの下僕としてダース・ベイダーに変えた。

では、ルークがどんな怒りと憎しみでダークサイドに堕ちるのか。ジェダイとして帝国軍と皇帝パルパティーンを破り銀河平和を取り戻したほどのルークが、まさかのダークサイドに堕ちるほどの怒りと憎しみとは何か?

それはカイロ・レンによる親殺しであろう。

ピーソード1−6までのシリーズのテーマはダースベーダーの贖罪であった。またルーカスがこのシリーズにヨーロッパ神話から取り入れたものの一つとして、親殺しの罪とそれに対する右腕を切断する罰、そして贖罪というものがあった。その要素は新しいシリーズにも取り入れられていて、前作『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』ではカイロ・レンが父親であるハン・ソロを殺すといういたましい場面が衝撃的であった。(ハン・ソロがほんとうに死んだかどうかはまだ???だが)

ジェダイであるルークならば共に帝国軍を倒すために戦ったハン・ソロの死に気がつかないはずがない。しかし、遠く銀河の辺境の地でジェダイであることを隠し、身を潜めていたルークはフォースの力も内に閉じ込め自分の居場所を悟られないようにしていた可能性がある。するとつまり、ハン・ソロの死も感じ取る、知ることは出来なかったのかも知れない。

そして、今回の作品の予告編で分かるようにカイロ・レンは自分の中に残るライト・サイドを消し去るために母親であるレイアを殺す。あまりに酷い話だ、カイロ・レンは自分が師と仰ぐダース・ベイダーに近づくために息子でありながら自分を産んだ父と母をも殺すのだ。これはほんとうに酷い話である。

しかし、ルークは未だそのことを知らない。フォースを目覚めさせたレイにジェダイのトレーニングをする中で迷いや不安に苛まれている。そこに、レイアを殺したカイロ/レンが最期のジェダイであるルークを抹殺すべく、トレーニングを続けるルークとレイの前に現れる。そしてルークに告げるのだ「ハン・ソロもレイアも俺が殺した」と。

カイロ・レンが無二の親友であるハン・ソロと、双子の妹であるレイアの二人を殺したことに、ルークの怒りは爆発する、抑えていたフォースの力を解法する、それはカイロ・レンに対する激しい怒りと憎しみを伴って・・・そして、それはファーストオーダーの指揮者であり、シスの暗黒卿であるスノークが巧妙に仕組んだ罠だったのだ。スノークは善の心を残すカイロ・レンを利用して、本来のスカイウォーカー家の1人であり、ダース・ベイダーの子である最もフォースの強いルーク・スカイウォーカーをダークサイドに引き込むことが本当の目的だった。カイロ・レンはそのために利用されていたのだ・・・・。

と、ここまでは今までの情報から『スターウォーズ/最後のジェダイ』のストーリーを自分で勝手に推察したものである。さて、15日に公開される映画本編を観てどうなるか、楽しみでもある。

まあ、ここまで話がくれば「最期のジェダイ」という副題にもダークサイドの側に落ちたようなルークの劇場ポスターにも納得が行く。

さてと、その後はどうなるかだ。今時点で公開されているトレーラーでは、レイが泣きながら「私には誰かが必要なの、私の居場所を示してくれるだれかが・・・」というセリフに続けて、カイロ・レンが手を差し伸べるている。

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最初これを観た時、レイまでがダークサイドに引きずり込まれるのかと思ったが、ひょっとしたら・・・ジェダイのトレーニングをしていたルーク・スカイウォーカーがダークサイドに引きずり込まれてしまう、そしてカイロ・レンは、自分がスノークに利用され、父と母を殺し、それは実はルークをダークサイドに引き込むための罠であり自分はスノークに利用されただけなのだと気がつく。

そして、カイロ・レンとレイは二人で力を合わせて、ファースト・オーダーとスノークを倒す事を誓う。。。。それがエピソード9に繋がる・・・・なんていう結末を期待したい。

最初は『スターウォーズ/最後のジェダイ』はどうにも暗い暗い、どうしょうもなく重い、希望のないストーリーになるのではないかとも考えていたが、もしカイロ・レンとレイがスノークの陰謀に気が付き、二人で手を合わせてファースト・オーダーを破り銀河に再び平和を取り戻すんだ!という話につながるならば、夢と希望は潰えていない。ルーカスがSWシリーズに仕込んだ親殺しへの贖罪というテーマも、両親を殺してしまったカイロ・レンがその贖罪のために、ファースト・オーダーとスノークを叩き潰すというのであればなんとか話に筋も通りそうだ。

さてはて、どうなるか? なんにしても暗いストーリーで終わって欲しくはない。最期には次のエピソード9に繋がる大いなる希望を持たせたエンドになって欲しいと願ううばかりだ。

まだ他にもポー・ダメロンにしろフィンにしろ、色々なストーリーはありそうだが・・・とりあえずメインに3人に関しては色々話て、こんな感じかな? もしくはこうなって欲しいという希望がこれだな。

あとは、ちょっと冗談だが、フィンとキャプテンファズマが対決するシーンがあるが、もしかして、キャプテン・ファズマが「I am your mother 私がお前の母だ」なーんて言わないだろうなぁ〜。まあそうなったら笑っちゃいそうだけど。

さあ、15日金曜日を楽しみに待とう。

追記:12月9日に行われたハリウッドでのワールドプレミア上映後のツイートなどが少しづネットに上がってきているが、多くの人が今回のエピソード8を大絶賛しているようだ。しかもSWシリーズの中で最高傑作と言われるエピソード5「帝国の逆襲」をも凌ぐシリーズ最高傑作だという声も。そして多くの人がルーク・スカイウォーカーを賞賛している。ということは、ルークはダークサイドに落ちてスノークの配下になるというのは考えにくいか。いっときダークサイドに囚われるが、レイや他の登場人物の力でダークサイドから抜け出し、スノークに大打撃を加えそして死んでいく・・・そういう感じでエピソード9に繋がるのかも? いやはや詮索ばかりしていても仕方ないのではあるが、こうして期待に胸膨らませてあれこれ考えているのが一番楽しいかも。いや、実際の映画を観て、思い切り感動したときのほうがやはり最高だろう。公開が待ちきれない。

2017-12-05 『リトル・フォレスト 冬・春』

[]『リトル・フォレスト 冬・春』

2017-12-04 『リトル・フォレスト 夏・秋』

[]『リトル・フォレスト 夏・秋』

2017-11-28 『ジャスティス・リーグ』面白くはあるが、迷走してる。残念!

[]『ジャスティス・リーグ

・『ワンダーウーマン』がなかなか以上に良かったので、DCのヒーローシリーズであるこの『ジャスティス・リーグ』にはかなり期待していた・・・のだが・・・まあ、そこそこに面白いけれど、ちょっと期待しすぎたな。この手の映画に一番に期待する「やったぜ」「サイコー」といった爽快感、満足感というものは、いまひとつというところ。期待しすぎた分だけちとガッカリ。

・出だしからなんとも暗〜い歌詞の歌が淡々とながれる、なんだかこの世にはもう希望も何もない、諦めろ、悪が支配てしまってるんだ、とか言う感じの歌で「ん〜、なんだこれはダークナイトクリストファー・ノーラン趣味をジャスティス・リーグでも真似てるのか、違うだろう、こっちはもっと明るくカッコよく行かなくてはだめだろうと、なにか作品方向性に疑問が湧く。

・しかし、そのドーンと暗い出だしが終わると、なぜか今度はユーモアジョーク混じりの展開に変わる。んー、なんか脚本が迷走している感じ、これは嫌な予感。

・脚本の教科書みたいなものには、よく「主人公葛藤を描け、人間の深みを描け、そこに観客は惹かれるのだ」とか書いてあるものなのだが、なんだかそういった教科書の杓子定規な教えにしたがって、一人ひとりに無理やり妙な葛藤を組み入れている風でもある。サイボーグはなんで俺をこんなからだにした〜と親父にぶーたれてるし、フラッシュのお兄さんの件とか、アクアマンの王との確執だとか、そしてさらにはワンダーウーマンに「私は昔、愛している人がいた。ずっと・・・」なんて言わせて、バットマンに「何百年もそんなことに縛られて生きてる奴なんか」と、吐き捨てられたり。この辺は前二作に続いて、ダークナイトの成功に少しでもしがみつきたい、あのシリアスな脚本になんとか似せれば当たるかも?なんていう意識が相当に根っこを張っているんではないだろうか。

・もう、コミック映画なんだからそんなシリアスな裏話なんていらない。スカッと面白く話をつなげてくれればいいものを、どれもこれも取って付けたように話の中にポツン、ポツンと挿入しているし。テンポを崩して足踏みさせて、ストーリー展開のリズムをぶちこわしてしまっている。特にワンダーウーマンなんてそんなドロドロ怨念じみた女性内面なんか付け加えないで、思いっきりバサッと敵をやっつける痛快さを徹底して描けばいいものを・・・至極残念。

アマゾン部族の島にドスンと降りてきたステッペンウルフ、凄い重量感で「お、こいつは強そう」と思うわけだが・・・いや、実際にかなり強い! でも、このステッペン・ウルフの顔に全然怖さがない。そんな強力なダークサイド悪魔親玉みたいなやつなのに、なんか全然恐怖感が湧いてこない。顔がね、顔がシワクチャ年寄りって言う感じだから、全然強そうに見えないし、怖さがないんだよねぇ。観客恐怖心をもたせるくらいのキャラにしないとだめでしょ。最期はなんかパラデーモンに食いつかれてウギャーなんて叫んでるしさぁ。

・そうそう、アマゾン部族の女王が馬の下敷きになってうごけなくてウーンウーンっていうのも変。あれだけ強い戦士だったのに。本来なら足で馬を宙に蹴り上げてしまうくらいじゃなきゃおかしい。

・そういった首を傾げるような登場人物の描き方に、観ていて不満タラタラであったが、流石にスーパーマンの部分はカッコイイし、ちょっと涙ウルウルくるいい話。最終兵器を出せ!ってロイスを引っ張ってくるあたりはもうあまりに予定調和的に想像できてしまうが、ロイスを見て荒れ狂うこころが落ち着きを取り戻すってのはイイね。(でもキューブを使ってスーパーマンを再生するくだりはなんかチャラいし無理がある)

・と、まあ気に食わないところばかり羅列してしまっているが、一先ず一本の映画としてはそこそこに楽しめはする。ワンダーウーマンがかなり以上にいい出来栄えで、大満足だったので、ジャスティス・リーグにもかなり期待したのだが、その期待にはかなり及ばなかった。

・「マーベルシネティック・ユニバース(MCU)」も次から次へと出てきて、話を追いかけるのば面倒くさくなってきてるし。(お次のブラックパンサーはどうよ??)、「DCエクステンデッド・ユニバース」は第一作、第二作と失敗して、ワンダーウーマンでドン花火が打ち上がったが、今回のジャスティス・リーグを観ると、今後の展開もごちゃごちゃDCと同じように面倒くさくなりそうだな。

アメコミファンってわけでもないし、逐一細かな設定まで追いかけてるようなオタクでないかぎり、段々と話がわけわからなくなってくるから、今後のこういったシリーズは横目でチラチラ観ている程度でいいかも。

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予告編で使われていた「あなたを待っていました」っていうシーン。あれはカッコよかったんだけど、本編ではそのあたりが全部カットになっていた。んー、残念、またソフトにしたときに未公開シーンとかディレクターズカットとかで出すつもりなのかね?

ブルース・ウェインがアクアマンに「お前って、あれ、触手みたいなもの出せるのか?」とか聞いた後に、ジャスティス・リーグの5人が地下のようなところに集まって雑談みたいなことをしているシーンがあったが、そこでアクアマンが、1人でべちゃくちゃ喋ってるシーンがあり、その後になんだかウーンウーンとトイレで気張っているようなことをして・・・すると次に光るムチが出てきてそれをワンダーウーマンに渡す。アクアマンはフラッシュに「黙ってろよ」なんていう一連のシーンがあったのだが、なにかコミックでこういうエピソードでもあるのかな? どうもアクアマンがウ◯チみたいにムチを体から絞り出してるような雰囲気でもあったな。w アクアマンが喋ってるシーンは上半身だけ映してて下の方はなにやってるのかわからないし、ひょっとしてカットされたのかもしれないけど・・・あそこ、疑問。

日本のCMは酷いね。ワンダーウーマンのときも女性のカッコよさを出すんじゃなく、ギャグ路線で予告編作って外してるなぁと思ったが、今回のジャスティス・リーグの予告編もワンダーウーマンのへんてこな顔とか仕草をわざわざ集め、ナレーション採用!採用!って、どんだけセンスのないトレーラー作ってるんだよ日本は、と呆れ返るね。なんでワンダーウーマンがこれだけヒットしたのかってところが全く考えられていないじゃないのかね。女性ヒロインの最高のカッコよさ、強さが人を惹きつけた最大の要素なのに、それとは逆にギャグ、コケティッシュおちゃらけ、そんなもので宣伝打ってる。そして同じことをジャスティス・リーグでもやってる。どうしょうもない

☆スーパーマンは流石にカッコいいが、やっぱり映画の中ではワンダーウーマンが光ってるな、あの変な過去告白シーンはいらないけど。

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2017-09-04 『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』これもダメダメ

[]『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』

第一作に続き、この第二作ももうどうしょうもない

・「ワンダーウーマン」がなかなかに良かったので、シリーズ的に前作に当たるが未だ観ていなかった「バットマンVSスーパーマン」を観てみたのだが・・・。

・やっぱり暗くてなんかやだね。キッパリその一言に尽きる。なにせ、シリーズ第一作に当たる「マン・オブ・スティール」がどうしょうもない一作であったから、それに続く「バットマンVSスーパーマン」も、どうせ下らないだろうと観ないでしまっていたのであるが(予告編やCMも「エイリアンVSプレデター」みたいに、ただ人気のキャラを戦わせてるだけというおうな、なんだこりゃと言いたくなる程に酷かった)まあ予想通り溜息がでるような話であった。

アメコミの二大巨塔であるマーベルとDCのうち、マーベルはスパイダーマンから始まって、アイアンマンアベンジャーズとどんどんヒット作を量産し、イケイケドンドンの状態なので、DCとしてもそれをただ指をくわえてただ悔しがっているだけではならぬと奮起したのはいいのだが、新しいシリーズを生み出す方向性完璧に間違えてしまっているとしか思えない。

クリストファー・ノーランに頼んだバットマンシリーズは、ノーラン独自の味付けで、今までのアメコミのイメージから離脱し、非常に重く、真面目、現実的路線に大きく舵を切り、それが「ダークナイト」で超特大の大成功を収めた。DCとワーナーとしてもその成功の味が忘れられないから、もう一回ノーランの手法に乗っかって、自分たちの持っているヒーローシリーズをまったく新たなものに作り変えて大ヒットをさせたいと期待しただろう。だから「ダークナイト」で思い切りシリアスで現実的な映画にバットマンを作り変えたやり方を、もう一度ノーランにやってもらって、事を上手く運ぼうとしたのだろう。だが、それは大いに裏目に出た。マーベルを真似て自社ヒーローでシリーズ化を狙った最初作品である「マン・オブ・スティール」は映像は充分に良いのだが、話が・・・コミックで親しんでいたスーパーマンのイメージを全く踏襲せず、いかに現実的に見せるかというところにばかり拘って、「このシリーズのスーパーマンはこういうことになりますから、今までの話とは違いますよ、今までのスーパーマンは忘れて下さい」とでも言っているかのようで、スーパーマンの出自やSマーク意味も、無理やりこじつけたとしか言いようのないとんでもストーリーをさも平然と観客に披露した。しかもそれが押し付けがましく、またクリストファー・ノーランの今までの作品にあまりにも似すぎ「ダークナイト」の成功体験をそのままスーパーマンに移し替えたような、ノーランの手垢がべっとりこびりついているような作品であった。

・大ヒットし評価の高かったダークナイトの味付けで、ストーリーも同じようにしてバッドマンをスーパーマンに置き換えて映画を作れば観客に受けることは間違いないだろう。DCのヒーローシリーズの第一弾として大成功を収め、その後にどんどんヒーローシリーズを量産してマーベルを凌いでやるんだ。と舌なめずりをしたが、大いなる大失敗となる。

・もともとスーパーマンとバットマンはアメコミのヒーロでも陽と陰をあらわす代表のようなもの。明るく健やかで健康的なスーパーマンに、暗く陰湿でダークなイメージのバットマンを重ねるとは言語道断。観客はなんだこれは、今までのイメージを無視するにも程がある!とそっぽを向いたわけだ。

ハリウッドマーケティングなんてそんなもの、元々暗いイメージのバットマンを雲が覆いかぶさっているような暗く現実的な映画にしたのは筋としてあっているが、普通に考えたらスーパーマンをその筋に重ねるなんてしないだろう。単に「こっちで大ヒットしたかあ、あっちでも同じやり方にすれば当たる」というような短絡的な考えしか見えてこない。

・この最初のとんでもないミスでDCコミックのシリーズ映画化には急ブレーキが掛かる。「マン・オブ・スティール」の続編製作は延期になり三年も掛かってようやく『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』に辿り着いたわけだが、前作のイメージを引きずった第二作も、アメコミヒーロー物であるから、そこそののヒットにはなるが、期待された大ヒットには程遠いもので終わる。

・映像的には文句無いクオリティなのだが、ストーリーが・・・相変わらずのノーマン節爆裂。(監督は違うのにそういう方向にさせられてるんだろう。またはノーランが指揮してる?)

どう考えても「ダークナイト」に似ているストーリー展開、キャラクターの配置。観客はそんなに甘くない。なんだこれはとスクリーンを見ながら不満が溜まっていったことだろう。

・まあ、これじゃダメだというところは山のようにあるのだが、いかにもなノーラン節というのが「バットマンVSスーパーマン」にもお決まりのように出てくる。そしてお決まりのようにガッカリさせられる。またこんなこと繰り返しやってるのかよノーランは、と。「ダークナイト」のジョーカー、「ダークナイト・ライジング」のペイン、こんな奴とっととやっつけてしまえと思うキャラクター設定でありながら、まさに無理に生き残らせる。普通ここでバーンとやってしまえばやっつけられるだろう、殺せるだろうと思うのに、それをしない、させないなんとも煮え切らないストーリー。もうワザと殺さないで生き残らせてるんだろうっていう作りのあざとさがバレバレで感じられるから白けてしまう。それがこの作品でもまたレックス・ルーサーJr.で同じことをやってるんだから、見ている途中でオイオイまたこれやってるのかよと頭にきてしまう。スーパーマンはレックスビル屋上ルーサーをぶち殺しちゃってもぜんぜん問題ないじゃないか。スーパーマンの能力があれば育ての母であるマーサ監禁されている場所なんて見つけられるだろうに。だれだってそう思うに違いないのに、ルーサーが「俺を殺したら母親の居場所はわからなくなるぜ」なんて幼稚なセリフを吐かれて手も足も出せずルーサーを逃してしまうスーパーマン。こういうところが馬鹿げているんだよなぁ。もうわざとらし過ぎて嫌悪感バリバリのシーンだ。ノーランの映画にはこういうお馬鹿シーンが必ず入っている。それまできっちりシリアスにリアルに映画を構築してきているというのに、こういう誰が見てもそりゃおかしいだろうという現実的には合わないシーンが、話の展開のつじつま合わせの為にはいっていて、それでガクンとトータルのクオリティーを落としてしまう。ノーラン病とでも言うべきアホさ加減であろう。それが「バットマンVSスーパーマン」でも予想に違わず出てきたので、ほとほと溜息。

・この映画のストーリーの基礎となるところは、バットマンがスーパーマンによって自社ビルを壊され、社員も死に、そこからウェインはスーパーマンを殺してやるというほどに憎むようになり、財力をふんだんに使ってスーパーマンをやっつけようとする、のだが・・・・途中スーパーマンが母親の名前を呼んだだけで、なんでお前それ知ってるの? と、それだけであっさりスーパーマンと和解して仲直りをする。ここまで激突繰り返してきたのが全部エッという驚きとともにチャラになる。これもまたノーランらしいズボラな手前勝手自己中のストーリー展開。(まあ、ノーランは監督ではないけど)

クリプトン星人を蘇らせるにしても「その行為禁止されています」と警告を受けながら「元老院はもうないんだ」というルーサーの一言で、人工知能が「はい、それではやります」と人間のルーサーにへいへいと従っちゃってるのも馬鹿げてるし。バットマンがあれだけブクブクのスーツというのも見るからに格好悪いし。モンスターも、なんじゃこれはウルクハイトロールかっていうなんの目新しさもないハルク奇形みたいなデザインだし。(デザイン以前の造形かも)

・ということで唯一この映画のなかで心が踊ったのは、やはりワンダーウーマンが登場するところからだな。ワンダーウーマンにはバットマンやスーパーマンみたいにドロドロ、ネチネチしたところがなく、スッキリ爽やかカッコイイ、アメコミ・ヒーローがそのまま描かれていて非常に好感が持てる。

・まあ、見なくてもいいやと放おっておいたこの作品だが「ワンダーウーマン」が非常に良かったので、前作からの流れをつかむためにと見てみたが、やっぱダメだねこの映画。前にも書いたが、DCとワーナーはマーベルの大成功に歯ぎしりして、なんとかこっちも大ヒットシリーズを作ろうと、ジャスティス・リーグの構想を思いついたのだろうが、「ダークナイト」でのクリストファー・ノーランの大成功にうつつを抜かし、きっちりとしたマーケティングも行わず「ダークナイト」の手法で「ジャスティス・リーグ」を構築しようとした、そして、それは第一作目「マン・オブ・スティール」で出だしから大コケし、第二作の「バットマンVSスーパーマン」でなんとか形勢逆転を図るが、結局「ダークナイト」成功の甘い呪縛から抜けだせず、またしても大コケ。ひょっとしてこのシリーズもう途中打ち切りにするんじゃないかという状態まできたところで、この方向性で次もやったらもうオシマイだと気がついたのだろう。そしてノーランやら「ダークナイト」の呪縛からまったく切り離された女性監督パティ・ジェンキンス採用して、リアリティーだとか、社会風刺だとか(まあそういうものもあってもいいが)それよりも本来のDCコミックが持っていたヒーロー物の良さ、アメリカ人に人気があった理由ねじ曲げず、伸び伸びと映画で表現したほうがやっぱりいんだろうと彼女に思いっきり自由に「ワンダーウーマン」を撮らせ、それがなんと全米で大々ヒットになったわけだから、今にしてジャスティス・リーグ最初の二作がなぜ失敗したのかに気がついたということだろう。愚かである。

・さてと、今年の秋にはついに「ジャスティス・リーグ」が公開されるが、「ワンダーウーマン」のこれだけのヒットを目にした後では、もう「ジャスティス・リーグ」をまたノーマン流の暗く陰鬱な方向を踏襲して撮るということはないだろう。それをやったら更にバカでしかない。幸いにして現時点で公開されている予告編を見る限りにおいては「ジャスティス・リーグ」はノーマンと「ダークナイト」の呪縛から離れて、というかもうそんなのダメだ、ヤメたヤメたあんな暗くてしかも当たらない作風なんて・・・と、考えを改めて、純然たるアメコミの良さを楽しさ、ワクワク感を映画に持たせているように感じる。BGMがカム・トゥゲザーっていうのもイケてる!!

・さてどうなるか、期待したいところだけどね。

☆ワンダーウーマンのこの登場シーンは最高!!

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2017-09-02 『ワンダーウーマン』かなりカッコイイ!!予想以上に楽しめた!良作

LACROIX2017-09-02

[]『ワンダーウーマン

●どうにも「スーパーガール」とか「キャット・ウーマン」とか女性主人公アメコミ映画はなんかいまひとつという印象があって、アメリカで大大ヒットということだが、ホント? どうなるかな? とちょっと疑いの目を向けつつ観た。しかし予想を超える面白さで、これはなかなかに良かったね。

時代背景が第一次世界大戦の頃というので、うっそ、あんな格好したワンダーウーマンがそんなところに入ってきたら、メチャ違和感バリバリで、もう全然合わないでしょう・・・という予想もしっかりひっくり返された。あのアマゾネスの格好をしてドイツイギリス戦闘シーンにとびこんできても、まったく変な感じがせず見ることが出来た。

●映画の作りが非常に巧いね

●正直なところ、このワンダーウーマンの役をキャプテン・アメリカやマイティー・ソーに置き換えたら、まあそれはそれで通用する似たような映画になるだろうなとは思った。ピョンピョン飛び跳ねて盾で銃撃よけて、もの凄い力で戦車をひっくりかえすなんて、そのまんまキャプテン・アメリカとかマイティー・ソーでやりそうな映像だ。だが、だがだ。そうは思うもののやはりガル・ガドットが演じるワンダーウーマンが銃火器をはね除け、戦車だろうが悪魔だろうがぶっ飛ばされようがなにしようが再び起き上がって戦うシーンは、それが女性ということもあるだろうが、キャプテン・アメリカやマイティー・ソーが同じことをするよりもはるかにワクワクするし、ようしヤッターという気持ちになる。

●同じシーンを演じたとしても、ワンダーウーマンがやるほうがきっと胸躍るのだ。実際そうだった。

●ガル・ガドットはもう三十路過ぎてるから、たしかに美人だけれど、アップになるとちょっとオバサンが入ってるのは否めない。でもそのくらいのほうがリアリティーが出るというものかな。キャピキャピとしたアイドルチックな女性が演じてたらこのワンダーウーマンの魅力はでなかっただろうし。

脚本も設定もいかにもという感じで定番中の定番、アメコミらしい展開。だがそれが王道でもあるだろう。中盤ちょっとまだるっこしいところはあったが、ワンダーウーマンが戦うシーンは満点をやってもいいくらいワクワクしたし、応援したくなる巧い作りだった。

相手役の男性いまいちパッとしないところもワンダーウーマンを際立たせるには役立っていたか。それにしても最近飛行機バーンというケリの付け方が多いな。昔は高いところからドーンと落とすが定番だったけど。

●なんだか日本プロモーション乃木坂46のへんな曲つかったりして、また馬鹿らしいことやってて非難浴びてたり。日本版ポスター予告編なども、ちょっとギャグっぽいおふざけ方向に振っていて、どれもこれもダメダメじゃんという感じ。アメリカで大ヒットなのに日本での出だしがイマイチなのは、プロモーションが下手クソな上に方向を間違ってるとしか言えまい。なんとかウケ狙いで客をよぼうとしてるんだろうが、それが大いに逆引き

アニオタとかに客層考えてこんな絵柄とコピーにしたのかね。日本版の予告編もそうだけど・・・作った連中はこの映画ホントにちゃんと見てるのかねと言いたくなる。

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●かなり真面目にカチッと作ってあるし、ワンダーウーマンという女性がかなりカッコイイんだから、おふざけウケ狙いの馬鹿げたトンチンカンプロモーションなんかせず。(実際に大失敗だとおもわれ)こんなポスターのように、超カッコイイ、女性キャラクターとして宣伝すればもっと違う結果になっていただろう。

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2017-08-04 『スワロウテイル』

2017-05-19 『エヴェレスト 神々の山嶺』

2017-04-08 『リップヴァンウィンクルの花嫁』

[]『リップヴァンウィンクル花嫁

脚本を元にして映画を撮るとき監督の頭の中には、ある程度「この映画はこういう観客に観せたい、こういう客層に観てもらいたい、こういうタイプのこういう人に訴えかけたい」という観客設定というものが少なからず頭のなかにあるだろう。

そのことを考えれば、この映画は明らかに女性向けであろうな。そう、映画を観終えて真っ先に頭に思い浮かんだのは「これって極めて女性向けの映画だな、いやもう極めてというよりも、もう限りなく極めつけに女性という一種類の人間生物のことを柔らかくしかし綿密に描いた映画だろうな」と思ったのだ。

カメラワークアングル、画面のトーン、演出、その全てにおいて実に岩井俊二らしい、岩井俊二的な映画の上手さ、技工の巧みさはう〜んと観ていて唸るほどのものだ。まるで別世界に連れて行かれたようなふんわりとした柔らかい空間に取り囲まれるような感覚に包まれるのも、これまた岩井俊二の映像技術であり魔法であり、それがよどみなく繋がって出来上がったこの「リップヴァンウィンクルの花嫁」という作品は実に作りが巧いし、映像作品としての緻密さ、完成度は極めて上質で極めて高いといえるだろう。

2017-04-02 『64(ロクヨン)前・後編』役者は粒揃い、演技もいいのだが・・・

[]『64(ロクヨン)前・後編』

久松真一 アカデミー賞優秀脚本賞

犯人の娘の心を砕いた。。。が痛々しい。

高い完成度で唸らせたNHKドラマの『64』からどうやって逃げるか。いや、それを越えようと務めた、だが超える術が見いだせなかった、だから逃げた、完成度の高いドラマ版をそのまま模倣は出来ない、映画としてのオリジナリティーも出したい、だからドラマ版にはないものを注ぎ込みたかった。だが、それが出来ず、迂回して逃げるしかなかった。

これはNHKドラマ「クライマーズ・ハイ」と映画「クライマーズ・ハイ」の関係に全く同じだ。

そして奇しくもこの2つの原作者は同じ横山秀夫であり、脚本大森寿美男演出井上剛も同じ

改めてNHKのドラマ『64』を観なおすと、これだけの重厚感、密度、練り上げに練り上げ、鍛錬に鍛錬を重ね、徹底的に組み上げられた脚本の完成度に驚く。このドラマ版『64』を超えることは並大抵のことではないだろうと痛感スル。

2017-03-28 『デッドプール』エグすぎ、やり過ぎでどうもイマイチ

[]『デッドプール

憎しみあり、復讐あり、派手なアクションラブストーリーあり、そして最後は万事上手く行ってきれいな彼女ハッピーエンド・・・っていう映画

つまりこれは定番中の定番の流れでありプロット

スパイダーマンと同じ。

てことで、スパイダーマンのストーリーを思いっきりグロく、エグく、残酷シモネタ下品ネタだらけに書き換えれば、ハイ「デッドプール」の出来上がり。

2017-02-28 『トリプルX:再起動』颯爽痛快!これはいいね!

2016-12-16 『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』最高だったね!!

LACROIX2016-12-16

[]『ローグ・ワン/スター・ウォーズストーリー

注)ネタバレあり

・正直、ローグ・ワンには全く期待していなかった。最初トレーラーが公開された時、主役であるジン・アーノの顔つきがなんともパッとせず、なんだか暗くて主役を務めるヒロインとしての華やかさや輝きがまったく感じられないというのが最初の印象。

監督ギャレス・エドワーズというのも“ う〜ん ”という感じだった。「あの2014年ハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』の監督。日本怪獣映画が大好きで日本のアニメなども好きでかなりのオタクというのはまあ映画製作にはプラスかもしれないが『GODZILLA ゴジラ』は内容も出来もチャンチャラ日本の真似事から脱しておらず、ゴジラの造形にしてもこれじゃどうしょうもない。という内容だった」ギャレスが監督するとなると作品のレベルは自ずと知れるだろうという気持ちでもあった。

・しばらくすると6月頃に「ローグ・ワン」の撮り直しがディズニー・スタジオから要求されているというニュースが。ギャレス監督の描く映像があまりに暗く、スターウォーズシリーズに馴染まないとか、監督を交代するだとかそういう話も。このニュースを聞いたときは「ああ、やっぱりなぁ、そうなるか」と思った。自分もトレーラーのイメージがあまりに悪かったからだ。

・その後、追加のトレーラーやキャラクターなどが発表になっていくと、まず第一にあまりにも中国市場に媚びたキャスティングをしている点が鼻についた。まあ、かって日本市場が有力視されたときはハリウッド映画でやたら日本で売ろうという魂胆がミエミエのキャスティングが度々行われた時期もあったので、巨大市場に育った中国無視するわけにはいかないというのはわかる。だが「ローグ・ワン」はスター・ウォーズという一連の作品の一部なのだ、単発の作品ではない。そこに作品世界の流れを無視したような金儲け主義のキャスティングや演出脚本を入れることは作品そのものを貶める。ファンが求めているものはスター・ウォーズという一つの夢の世界なのだ。何をやってるんだディズニーは、ギャレスは・・・どうしょうもない! そんな風に思った。

登場人物が並んだビジュアルが公開された時も、え、なんだこれ!と思った。まるで日本のアニメを真似たようなキャラクターの面々。ドラゴンボールとか、そんなアニメのイメージが真っ先に浮かんだ。「ああ、ギャレスはまたこんなことやってるのか、もうだめだ」と思った。やたらどでかい甲冑を身につけたようなゴリラみたいなのは・・・なんか、どこかで見たことあるな。中国人僧侶みたいなのも・・・んー。これはもう駄目かも・・・。

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・と、何一つ良いイメージが湧いてこないまま、ほんとに、ほんとに、まったく期待せず「まあ、一応観るだけは見ておくか」という程度の気持ちだった。

・そして映画が始まると・・・なんと、あのスターウォーズのオープニングが無い! えー、あれはスター・ウォーズ・シリーズとしては出だしに必須なのではないのか? あれがあるから、あのジャーンがあるから一気に現実の世界から映画の世界に気持ちが切り替わって映画を最高に楽しめるんじゃないか? あのオープニングを抜くなんてなんたることだ・・・と思った。

・そしてしばらく見ていると、なんだか雰囲気がこれまでのスターウォーズ・シリーズと違う。なにか奥行きのようなものが感じられない。薄っぺらな話がすすんいく。「ああ、やっぱりこれはスター・ウォーズらしさがないぞ、これは完璧な失敗作なんじゃないか」そう思えた・・・登場人物たちの演技もどうも軽薄で、重みがない。やはり売れ筋ではないあまり有名ではなない俳優でそろえたせいか、とにかくジワっとくる味のようなものがまるで感じられないのだ・・・。

・しかし、30分を過ぎた辺りからだろうか、ストーリーがムクムクと動き出してくると・・・ん、ん、ん、なんだか面白くなってきたぞ。あれ、なんか良くなってきたぞ・・・なんなんだったんだ最初のあのダメダメ感は、だんだかムチャクチャよくなってきてるじゃないか! と映画に夢中になっている自分に驚く。

・そしてラストまで突っ走る! ダメダメ映画だと思っていた自分のファーストインプレッション杞憂に終わった。ローグ・ワン!メチャクチャに面白かった。

・いかにもアニメチックなキャラ達で、なんだか冴えない顔つきの連中ばかりだったのだけど、驚いたことにこのキャラ全員が、もの凄くイイ奴らばかりなのだ。それこそ日本のアニメっぽいとも言えるのだけど、あざといなと思っていた例のジェダ寺院の僧侶も・・・いいやつなのだ。ベルズもキャシアンも今ひとつ冴えないのだけど、でも最後にはイイ奴だなって思えるのだ。まったくダメダメなパイロットに思えたボーディ−も・・・泣けるくらいイイ。主役のジーン・アーソも、ほんと今ひとつ華がないのだけど・・・でも、やっぱりイイ奴なのだ。そしてなんといってもロボットの K-2SO が見事なまでにイイ、ひねくれキャラのイイ奴なのだ。そう、ほんとにびっくりした、ローグワンのメンバーが全員、ホントにいいやつらばかりだったのだ。まるでワンピースの仲間みたいな感じだ!

・なんだかセリフも設定も演出も、日本のアニメからかなり持ってきてるなという感じがするのだが、それが却って馴染みやすさにもなっているのかもしれない。

・まあ、もちろん色々ツッコミたいところはあるのだが、見終わった感想は、素直に「よかった、楽しかった! これはなかなかの一作だ」となった。

ROGUE = 無法者、荒くれ者、はみ出し者・・・・俺たちはローグ・ワンだ! そうか、そうだ、なかなかカッコ良かったぞ!

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《以下完璧ネタバレなので、観終えた方のみどうぞ》

AT-ATスノーウォーカー描写はなかなかよかったね。脇からドカンミサイルを食らって首をガクンと振りながらもまたこっちを向くシーンはオオといいたくなるかっこよさだった。でもやっぱりエピソード5の雪の中のシーンのほうがいいかな?

ダース・ベイダーはスターウォーズ・シリーズ全作品のなかで一番凶暴だったかも? 愛するパドメを失って、ダークサイドに落ち、パルパティーンの元で今が権力とダークサイド・フォースの力の絶世期とも言える時期だろうから、もうぶった斬り殺しまくり・・・いやはや。

スターデストロイヤーに襲いかかるXウイング集団・・・しっかし、なんで TIEファイターが飛び出してこないんだ。スター・デストロイヤーを囲んで宇宙での戦闘機バトルをするシーンには TIEファイターとのドッグファイトが欠かせないだろう! それがいつまで経っても TIEファイターが飛び出してこなくて、Xウイングだけでスター・デストロイヤーを攻撃してる。「これはありえん」と思ってたらようやく一斉に TIEファイターが飛び出してきて戦闘本格化。オイオイ、遅すぎるぜ、TIEファイターが出てくるのがあまりに遅すぎるよギャレスさん、わかってんの?

・スター・デストロイヤーが真っ逆さまに落ちるシーンはオマージュとして最高!

・そしてだ、一番期待したシーンでもあり、一番よろこび飛び上がったシーンでもあるのだけど、改めて考えるとあれじゃ駄目だと思う、徹底的に駄目だとおもうのが、ラストだ。

反乱軍兵士が駆けつけた部屋には、白いあの衣服を着た女性がこちらに背を向けて立っていた。そうだ、そうだ、ついにレイア姫が出てくるんだ、どうなるんだ、と振り返ったレイア姫はCGで見事に合成されたエピソード4当時の若々しいレイア姫だった。このシーンを見た時は「うひょー」っとめちゃくちゃ嬉しくなった。「フォースの覚醒」でハン・ソロチューバッカが登場したシーンにも勝る最高のシーンだ。兵士が「これは、いったいなんなんですか」とレイア姫に尋ねる。するとレイア姫は・・・・・

・最高にいいシーンだった、めちゃくちゃ胸がドキドキした。しかしだ、ちょっと思い出すと、あのシーンであのレイア姫の顔つきはないな。なんだかちょっとにやけたような顔つきで「・・・・」と言う。いや、違うだろう。本当のレイア姫ならエピソード4の冒頭で見せたような不安と悲しみ、憂いをもったような表情であるべきだ。沢山の兵士が死んで、ジェダの都市デス・スター破壊され多くの人が死んだ中でもたらされたアレを受け取ったならレイア姫は、深い悲しみの中であの言葉を話すだろう。それが・・・なんだか半分にやけたような顔なのだ。ようやく手に入れて嬉しそうな、そんな顔なのだ。おいおい、ギャレス! あの顔はないだろう。せっかくレイア姫を復活させたのに、なんで表情にもっと気を配らなかった、その辺がまだまだギャレスの監督としての若造ぶりなのかも、しかしスタッフしろなんにしろ、あの表情はおかしいとすべきだろう。(ちょっと怒り)

・スター・デストロイヤーがなんかやたら真っ白で塗装をしてないプラモデルみたいなのがあったり、爆発して人やトゥルーパーが吹っ飛ぶシーンが、どれもこれもいかにもワイヤーで引っ張ってますってわかるような飛び方してたり、そしてそういうのが何度も繰り返されたり、そういう細かいとこにも気になる部分が多々あった。

・そしてまたラスト近くだが、ジーンとキャシアンの最後となるシーン・・・これってまんまディープ・インパクトじゃないか。もうちょっと工夫しろって言いたい。

・最後に、何よりも驚いたのは、いかにこのローグ・ワンがスターウオーズ・シリーズのスピンアウト作品で、一作限りの物語だとしても、まさか全員が最後に消滅してしまうとは思いもしなかった。俺たちは荒くれ者さ、ローグ・ワンさ! そういって仲間になり助けあってデス・スターの秘密を手に入れる。最初はおもっていなかったけど、ローグ・ワンの面々は本当にイイ奴ばかりだった。そのイイ奴らが全員最後には消滅してしまう物語だなんて、ちょっとそれは悲しすぎた。

・いずれにせよ、期待度ほぼゼロだったのに、この「ローグ・ワン スターウォーズ・ストーリー」はなかなかに最高の気分にさせてくれる映画だった。他のスターウオーズシリーズと色彩の並びはちょっと違うが、なんだか日本のアニメっぽくもあるが、そういう思い以上に、もの凄くいい作品、胸が高鳴り心躍る素晴らしい映画だったといえよう。

2016-12-13 スターウォーズ「ローグ・ワン」のプロモ映像ではこれが文句なしに最

[]スターウォーズローグ・ワンプロモーション映像

フィリピンで流れている映像とのことだが・・・感動した! 繰り返し見ているけど身震いするほど素晴らしい。

・何度か見ているとその作りの巧さ、演出の巧みさに驚く。

最初の映像からすっかりストーム・トゥルーパーのヘルメットを被っているのは少年だと思っていた。一度目は最後まで少女だって気が付かなかった。自転車のシーンとか少年そのものって感じ、騙されたねいい意味で。

・二度目をちゃんとみると・・・服が靴がセーラー服姿に変わってるんだもんなぁ。歯磨きのシーンもなるほど、こういうことだったのかと納得できる。なぜ重たそうなカバンキャリーで引っ張っているのかも・・・一度最後まで見た後でもう一度見返すと、感動が何倍にも増してくる。明るいテンポピアノの音の中で、この少女の悩みや苦しみがわかってくる。

・お兄ちゃんが同じくストーム・トゥルーパーのフードを被っているのも・・・妹を思う気持ち表現なんだね。

・きちっとした演出だ。声に出さない細部まで考えられたこれぞ映像の演出というものだ。

ダースベーダーのヘルメットにしろ、ストーム・トゥルーパーのヘルメットにしろ、表情が変わらないヘルメットなのに、ちょっとした仕草や角度の違いで、無機物のヘルメットに人間と同じような悩みや悲しみ、驚きの表情が浮かび上がる。日本能面の技だね。ほんと、同じ顔形、目も口も変化しないヘルメットなのに、そこにしっかり少女の悩みや驚きの感情がでてる、ラストのシーンなんて、お兄ちゃんと別れて教室に入ろうとしたそのときの驚きが、ヘルメットの後ろからしか写していないのに、どれだけこの少女が驚いたかということがシーンから滲み出るように伝わってくる。うーん凄い。

・こういう映像の技って、昔の日本映画、黒澤なんかがもってた素晴らしさなんだよなぁ・・・今は・・・だけど。

・感動したね!

D

2016-11-24 『オデッセイ』

[]『オデッセイ

・マット・ディモンの一人芝居映画という感じ。

・なるべく予算をかけないで、だけど安っぽく見せないで・・・そんな感じで作られた映画か。なにせ火星砂漠を模した場所で、で大した移動もなく同じ所で撮っていればいいんだから

2016-11-02 『ハドソン川の奇跡』

2016-09-25 『WOWOW連続ドラマW 沈まぬ太陽』

2016-09-01 『君の名は。』予想を遥かに超える日本でしか出来ない映像美

LACROIX2016-09-01

[]『君の名は。

・異様にでっかい目、瞳の中に星というか白い光が1つ2つ・・・なんかこういういかにも少女漫画雑誌に出てくるキャラそのまんまでアニメオタが好むようなキャラクターには正直もう、かなりの抵抗感があり、ちょっとそれはなぁ〜っていう拒絶感もあって、さてはてどうしようかと考えていたのだが、新海誠に関しては種子島舞台になっている『秒速5センチメートル』少女趣味ではあるがなかなかに良い作品であったし、とにかくロケット打ち上げのところとか、都会の春の映像とかがものすごく美しく綺麗だったので、今回もそういった部分に期待して観てみた。

最初は瀧にしろ三葉にしろ登場人物の顔つきがあまりに少女漫画、アニメっぽくて、やっぱり抵抗感がありありで、ちょっと引き気味であったのだが、段々、段々と非常にテンポのいい展開にドンドン引きずり込まれていき、しかも先がどうなるか全く予想が付かない、次から次へと驚きの展開にもう「これは面白い!」と夢中になってしまった。

・昨年、かなり早い段階で公開された特報の美しい彗星と雲を突き抜けて落ちてくる隕石らしきものの映像、まさかそれがこんな話になるとは、本当に予想外で見事であった。

D

・「誰そ彼」「彼は誰」薄暗くなった夕方は人の顔が見分けにくく、それが誰そ彼(たれそかれ)から黄昏という言葉になり、同じく薄暗い明け方を彼は誰(かわたれ)で、と古典の和の言葉が作中で語られる辺りから、ん、ん、なんだか話が深くなってきたぞと期待が膨らみ、それがこんな凄いストーリー展開に繋がっていくとは!!

・「誰そ彼」つまり夕方の薄暗くなる、昼と夜の移り変わる時刻、黄昏どきが、逢魔時(おうまがとき)、大禍時(おおまがとき)と呼ばれ、魔物に遭遇する、あるいは大きな災禍を蒙るという話はこの映画を観て初めて知った次第。

・入れ替わった瀧と三葉が、薄暗くなって、あなたは誰、彼は誰とわからなくなる時に時間空間の壁、距離を超えて巡り逢う、その黄昏時のほんの一瞬の恋、しかしそれは好きな人に出逢う時間でもありながら、逢魔、つまり魔物にも出会ってしまう時間、その魔物が大きな禍(わざわい)とは・・・んー、新海誠はなんて凄い物語を考えついたんだろう。素晴らしい、見事な脚本、物語だ。

・口噛み酒(くちかみさけ)なんていう神事とか、岩室のなかにあるお洞だとか、日本神話、伝記、古事記なんかに通じているようなモチーフも作品になんとも日本的神秘的な響きを与えている。

・日本の映画って、なんだか外国のヒット作の、ああ、これってあのシーンだとか、あの演出とかを取ってるなぁ、と感じてしまうところが多いのだが、この『君の名は。』に関してはそういった所がまったくなかった。男女が入れ替わってしまうというは大林監督転校生ばりではあるが、またそれとはまったく別物だし、兎に角観ていて他の作品を彷彿させる場面がほとんど全くないのだ。昨今の映画は作中に「これってあの映画のあのシーンに似てるな、取ってるな」なんて感じる所が一箇所、二箇所位あるものなのだが、この映画に限ってはまったくそういう風に感じさせる所がない。完全純粋100%オリジナルの絵であり、物語であり、展開であり、演出なのだ。もうそれは全部が今まで見たことのない映像、演出、物語と言ってよく、その連続は一瞬足りとも観ていて飽きない素晴らしい作品でありその体験でもあった。

・映像の美しさは言うまでもなく、美しいという以上に心がなんだかホッとする映像なんだな。日本人が生まれてからずっと身近に感じてきた日本の美しさ、すぐそこにあるいつも感じているだけどなかなか最近では見れなくなった美しさ、そんな感じだろうか。キラキラしてるけどキラキラした美しさではなくて、優しく包まれ心を撫でられているような美しさ、そう視覚的な美しさ以上に心情的、情緒のある心に伝わるあたたかい感覚的な美しさがあるというべきだろう。

・なんにしても、この映画は兎に角驚き! 日本にしてもハリウッドにしても最近はオリジナル脚本ダメ興行が読めない、見込めないから映画化は出来ない!なんて言って、ある程度売れていて知名度のある小説とか漫画とかのアニメーション化、または実写映像化しかやらないような絶対安全主義、超保守的で興行成績が見込めない映画なんて作らない!的な風潮が蔓延していて、実に新しさのない詰まらない映画ばかり量産される状況になってしまっているが、こんな風に完全無欠のオリジナルストーリーでこれだけ素晴らしい作品が出来るということにもう一度目を向けて、ネタ切れだ、もう新しい物語は作れない。コケたら責任取らされるから作れないなんていうのはヤメて、今まで誰も見たことのないようなストーリーを作ることに全身全霊を傾けて知恵を集結させるべきだろうな。

でも、新海誠というネームバリューがなかったら、完全オリジナルストーリーで映画化なんて・・・とても出来ないだろうなとも思えてしまうけど。

・こんな素晴らしいオリジナルストーリーの美しい映画を見せてくれた新海誠とスタッフにただただ感謝したいキモチだ。兎にも角にも観ていてワクワクドキドキ、この先どうなるんだと期待して最後まで全然飽きること無く楽しめた素晴らしい一作であった。

・RADWINPSの曲、見終わって一つとして曲の歌詞が頭に残っていなかった。普通音楽の歌詞が映像をさらにもりあげてくれたりするし、ジーンと染みこんできたりするんだけれど、全編に流れる野田洋次郎の声と、その音楽というかサウンド、音が余りに映像にマッチしすぎていて、歌詞が意識に到達しないくらい音になって歌もサウンドも全部がBGM化しているかのようだ。これって凄いことではあるが、ある意味歌詞が強い意味を持たなくなってしまっているとも言えるかも。

・最後に一言、皆が助かったのが防災訓練でどうとかこうとか・・・って説明されてたけど、それはちょっと話が飛躍しすぎてて繋がんないんじゃない? と思った。あの状況でどうやって防災訓練でみんな避難させたの? ちょっとそこだけが引っかかるというか、全部良かった中でなんか脚本ミスってるような気がするなぁ。どうなんだろ?あれ?

予告編の中ではこれが一番イイな。

D

2016-08-31 『二郎は鮨の夢を見る』鮨を食べたいって気持ちに全然ならない。

[]『二郎は鮨の夢を見る』(2011)

外国人が撮ると、どうしてもこういう映像になってしまう。情緒とか奥ゆかしさとか日本人としていつも自分が見ている日本とは違った絵が広がる。松田優作の『ブラック・レイン』のときも同じことを感じた。巨匠とまで言われるリドリー・スコット監督なのだからどんな日本が描かれるのだろうと期待していたら、出てくる映像はまるで中国香港映画のそれ。日本らしさ、日本的なものなんて全然ない。「これって香港で撮ってるの?」と言いたくなる絵だった。

・この映画も見ていると自分が感じている日本とは違った絵に見える。外人は日本というのはこういう風な色、こういうふうな場所、こういうふうな人として見ているということなのだろう。

・このドキュメンタリー映画を見ていて強く感じたことは、監督やスタッフは日本の鮨の素晴らしさ、その極上の美味さ、そういうものを映像で伝えようとしたのではないんだろうということだ。観ていて「これは美味そうだ」とか「こんな鮨を食べてみたい」という気持ちが全くもって、全然湧き上がってこない。ミシュラン三ツ星の日本でも最高と言われる鮨屋のドキュメンタリー映画なのに、観ていてヨダレが出てくるような美味しそうな場面は一つもなく、食欲が喚起されることもなく、まったくもって鮨の旨さだとか素晴らしさというものが伝わってこない。

・この監督は当代一の寿司職人を題材にして何を撮ろうとしたのだ。食の素晴らしさ、鮨と言うものの素晴らしさ、その限りなき奥深さ、その極めつけの美味。そういうものを撮ろうとしてないのだ。だから映画を観ていて美味そうだとも思わないし、食べたいなとも思わないし、腹も鳴らないし、ヨダレが出てくるわけでもない。一体何なんだこの映画はと見ている途中で怒りさえ覚える。

・百万歩譲って、鮨職人二郎とその息子たち、弟子という人間を描こうとしたのか? と考えてみるとしよう。人間に焦点を当てたのだと考えてみるとしよう。だとしても、二郎と二人の息子との関係や二郎本人がどういう苦労をしてきたかなどは映像の中で語られているが、それだからどうしたというのだ。こんな風に苦労をしてきて今ミシュランの三ツ星をもらう店になったんですよということを説明して、それでなんだというのだ。そんな説明を映画の中でされたって、誰も感動も感激もしないだろう。ただの情報として映像が流されているだけだ。必要なのはそれだけの苦労の末に、今コレだけ素晴らしいものが生み出されているんだというその点なのだ。今、二郎やその息子たちの手でどれだけ素晴らしい鮨が生み出されているか、それを伝えずして、それを感じさせずして何を況んやなのだ。

・鮨の素晴らしさ、旨さを映像で表現出来ずして、現在過去の苦労話を映像にしたとしてなんになる。そんなことなら《すきやばし次郎の鮨》でなくてもなんだっていいだろう。苦労の末にうみだされた傑作を伝えず苦労だけを伝える、本末転倒、愚かさの極み。この映画の監督は映画をつくる視点感覚洞察も表現もなにもかもが極めて薄っぺらで浅はか。ただ単に話題性になる題材、少しでも注目を集めそうな題材を選んで映画にしただけで、そこに深い思慮もなにもない、極めて低レベルのただ単に動く映像を編集しただけで感情がなにもこもっていない映画だ、正に愚策の極みである。

・これならNHKの「プロフェッショナル仕事流儀」ですきやばし次郎を取り上げた回のほうが何十倍もいい。二郎本人にも、鮨の旨さ、それをいかにしてうみだしているかという部分にしっかりと踏み込みそれを伝えようとしている。

・ようするに、この監督やらカメラマンやらスタッフらは鮨の素晴らしさやその奥深さ、その旨さというものを全くもって理解していないのだろう。分かりもしないし分かろうともしていないのだろう。日本というくにの世界でも稀な鮨という食の特異さに目を付けただけであり、その文化歴史などはこれっぽっちも描こうとしていない。だからこんなセメントを舐めているような無味な映画になっているのだ。

・しかもだ、魚や烏賊の腹わたを取っている場面だとか、血合いを洗っている場面だとか、築地市場にならんでいる魚を品定めしてマグロの尾肉に手を入れ肉をもんでいる場面だとか、通常の食を題材にした映像なら映すことのないような場面が多々みうけられる。食材を厳選し、美味いものに仕込むために避けられぬ作業はいえ、通常食を扱う番組、映像では映さない場面を相当に入れている。鴨肉の料理を伝える映像に、鴨の首を切り血抜きをしている映像を入れたらどうなる? ジビエの素晴らしさを伝える番組で毛をむしり、内蔵や血を取り出す場面を映したらどうなる、いかに美味い、上等な料理であろうともその前段階である言ってみれば汚れの部分を見せたら、人はその料理を食べたいと思うか? おいしいと感じるか。それはもう常識以前の問題だ。ナンセンス極まる。

・つまりこの映画の監督やスタッフは《すきやばし次郎の鮨の旨さ、素晴らしさ》を映像で伝えようなどとしていないのだ。外人に目から見た生魚を属する日本の鮨文化の奇異さ、奇特さに目をつけ、それを面白がり、好奇の目で取り上げているだけなのだ。

・外人が日本を撮ると、満員電車にギュウギュウ詰めの通勤ラッシュのシーンだとか、工場でやってる朝の体操だとか、ゲイシャキモノ、ニンジャ最近ではアキバコスプレ、そんなものがやたら出てくるが、つまりそういう好奇な外人視点とまったく同じ見方で当代きっての鮨職人を撮影しているキワモノ感覚で鮨をみている、それがこの映画なのだ。

自転車荷物用のエレベーターから下りてくるシーンにしても、ギャーギャーウルサイ六本木ヒルズエスカレータで上がっていくシーンにしても、好奇の目で日本を見ている外人が、そういう外人に受けるようなシーンを集めて撮った映画、それがこの映画だとも言えるだろう。

・ここまでこき下ろしたのでついでにもう一ついうと、カメラが全部見下ろし。店の中でも、鮨を握る姿も、同窓会も、とにかく全部上から見下ろし・・・背丈のデカイ外人がカメラ抱えて、しゃがみもせず、視点を対象によって変えフレームに区切られた絵が最高の姿になる場所を選ぶ・・・なんてこと、微塵も考えてないんだろうな。みんなおんなじ背の高さからただ撮ってるだけ、素人撮影、運動会家族ムービ撮ってるのと同じ。日本の文化《鮨》を撮るならもうちょい小津でも勉強してから撮りやがれ! とでもいって終わりにしよう。

2016-08-01 『シン・ゴジラ』おいおい、ゴジラが使徒になり巨神兵になってるよ。

LACROIX2016-08-01

[]『シン・ゴジラ

作品の内容に関する記述アリ。

・なんだか最後まで誰が監督なんだ? 結局樋口は監督じゃなくて特技監督か? と訳がわからない状態で公開まで来た「シン・ゴジラ」。

予告編で観る新しいゴジラは古めかしくもあるが、いかにも凶暴で知よりも本能で動くケダモノ的であり、子供人気を取るために日和った今までのゴジラと比べたらかなりいい感じだと思った。待望していたゴジラ新作ということでそれなり、いやそれなり以上に期待はあった。

・そして、観終えた後の最初の印象は・・・「面白かった、なかなかに面白かった、映画を観た満足感もそれなりにあった・・・だが・・・」というものだった。

・一つの映画としての面白さはあった。だが、なんだ、なんだこの納得のいかなさは、釈然としない感覚は。自分は本当にゴジラの映画を観たのか? これはゴジラ映画だったのか? なにかゴジラ映画を観た気がしない、待ちわびていたゴジラ映画を遂に観たのだという気持ちが全然しないのだ。

・この映画をポリティカル・サスペンス(まあ、日本語なら政治緊張劇とでもいうか?)と呼ぶ向きもあるようだが、まさに、そういう政治的な部分にかなり焦点を当てた話になっていることは確かだ。それが面白かった、それが良かったと、政治家官僚どもの描写評価する向きもあるようだが・・・そんなものを観たかったわけじゃない。たとえその部分の脚本演出、描写が今までに無く優れていたものだとしても、ゴジラ映画で観たかったものはそんなものじゃないんだ。

3.11東日本大震災メルトダウンを起こした福島原発をゴジラに置き換え、あの当時の本当にどうしょうもなかった民主党の最低で最悪な対応を元にして、今ゴジラがが東京に現れたらどうなる? と想定した話を作り上げた発想は非常に面白いクズ政治家やクズ官僚どもの描き方も至って緻密であり、よく観察し、よく調べ、よく練り上げて脚本にしていると感心する。しかしだ、この映画はその政治的な部分の作り込み、それを主として描くことに執心してしまい、一番肝心なものを、一番大事なものを、本来は主としてあるべきものを、あろうことか脇役に降ろしてしまったのだ。わずともがな、それがゴジラだ

《この映画は主役をゴジラから政治家や官僚どもに置き換えてしまっている》

・この映画の最大の批判すべきところは、ゴジラ映画からゴジラを主役から外し、危機対応する(のちに書くが全然危機感がない)政治家や官僚どもを主役として本を、映画を作っている点なのだ

・公開から日が経つにつれて「シン・ゴジラ」の評価は上り調子で、傑作だ、素晴らしい出来だ、その多くがこの映画の中の政治的なやりとり、駆け引きの部分、ポリティカル・サスペンスと言われる部分に面白さや、評価を与えているようだが・・・おい、ちょっと待てよ、話の面白さに巧くのせられて、ゴジラ映画であることを忘れていないか? この映画にはなにか大事なものが抜けて落ちていないか? 1954年に本多猪四郎が撮った「ゴジラ」にあったもの、それは《恐怖》だ! 得体のしれない巨大な未知の生物に襲ってくる恐怖、それがほぼ、全くと言っていいほどこの映画からは感じられないのだ。

その原因は、映画の描き方にもよる。

・巨大生物がやってきて逃げ惑う人々の恐怖・・・それがまるでスクリーンに描かれていないのだ。ゴジラがやってきて怯え、悲鳴を上げ、我先にと逃げようとする恐怖にかられた人間、その表情、そういったものがほぼまったく映し出されていない。

蒲田での人々が逃げ惑うシーンの撮影時に演出部からエキストラに配られたたという「蒲田文書」なる“演技心構え”の文書がネットに流れ、これを読むことが出来るが、そこには「巨大不明生物に襲われて逃げ惑う市井の人々」役の心得が書かれ、

《まず、巨大生物の恐怖を観客に感じさせる最も効率的方法は、「逃げ惑う市井の人々がまるで本当に襲われているように見えること」。だが、単に芝居で恐怖の表情をしたり、大きな叫び声をあげたりすれば良いわけではない》

《もし本当に巨大不明生物に襲われた場合、人はその人の個性によって違った反応をすると思います。猛ダッシュで逃げる人、ノロノロと逃げる人、体が固まり動けない人、興味が勝り写真を撮る人、顔を巨大生物から背けず体だけが逃げる人、子供を必死に守ろうとする人、連れとはぐれ人波の中で探し続ける人……それら個性の集合体が、画面に力強さと、リアリティと、本物の恐怖を与えてくれると、我々は考えています》

《それぞれのエキストラが「自分が巨大不明生物に遭遇したらどうするか」の想像力を稼働させることを求め、「皆さまお一方お一方にしかできないお芝居をしてください」》

等々、エキストラの人に対する演出部のお願いが書かれている。確かにこの文章を読むと製作スタッフの意気込みや熱い気持ちも伝わってくる・・・しかし! あの蒲田のシーンに恐怖はあったか! あの蒲田のシーンに巨大生物に襲われ我先にと必死に逃げる、生きたい、死にたくないと必死で逃げる人間の恐怖が映っていたか、映し出されていたか、映像にその恐怖が滲み出していたか! 断言する。あのシーンに恐怖はなかった。そしてあのシーンからブルブルと震えるような恐怖は微塵も感じられなかった、ゴジラが迫り来る恐ろしさなどあそこに映っている人、逃げ惑う群衆から、これっぽっちも、まったくスクリーンから伝わっては来なかったのだ。

それは、この映画が恐怖に逃げ惑う一般の市井の人々の表情をほとんど映していないことに大きく起因する。

1954年の「ゴジラ」にあった人々の恐怖、それはこの河内桃子のワンカットだけの表情でもありありと、ひしひしと伝わってくるものだった。

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・そういった人々の恐れおののく表情がシン・ゴジラにはまったく描かれていない。人々が逃げ惑うシーンに恐怖を感じさせようとしたではあろうが、出来上がった映画から感じられるのはただ単に逃げろと言われて逃げているふりをしている群衆の後ろ姿、動きまわる絵でしかない。表情はまったく映していない。そこに悲壮感、必死さがない、恐怖もない、だからゴジラにも恐怖が感じられなくなってしまっている。

・そして、この映画で主役の座を占めている、首相官房長官大臣官邸の人間、官僚にも、全くと言っていいほど、これっぽっちの欠片さえも、あんなょ巨大な生物が東京に襲いかかってきているという前代未聞の恐怖が感じられないのだ。まったくもって、ゴジラを恐れている、もう自分だけでも我先に逃げ出してしまいたいという震えや恐れが感じられないのだ。

・どいつもこいつも、あんなゴジラへの対応をしているというのに、全然シャキとしていてて、顔から恐怖や恐れが微塵も感じられない。未曾有の危機が間近に迫っているというのに、さも平然とした顔で会議をし、対策を練り合わせ、ミサイル攻撃が効かないとわかっても「はあそうですか」といった顔つきをしているの。まるで役者が映画の中で役作りの脚本読み合わせをしているかのように、全く以て1人として恐怖が演じられていない。唯一常にしかめっ面をして周りから浮いて見える余貴美子だけが、ゴジラに対する恐怖を演じているといえよう。しかし、その周り全部がさらっとした顔で平然としているものだから、余貴美子の演技と恐怖が逆に浮いてしまっているというなんとも惨憺たる状態だ。

長谷川博己竹野内豊しろ余りにスッキリ、シャッキリしていて、ゴジラに対峙しているなんていう恐怖がどこにも出ていない。この連中が退治しているのは、政治闘争権力闘争をしている同じ政治家や官僚どもであって、日本をまさに破壊し潰してしまおうとしている人知の及ばぬ怪獣ではないのだ。ゴジラと対峙している人間を描いているのではなく、決して心底の恐怖など感じない政敵出世ライバルである人間とやりあっているのだ。だから、なんども繰り返すがスクリーンから登場人物から、恐怖が、恐ろしさが、まったく、これっぽっちも感じられないのだ。それは市井の人々を誰一人としてしっかり描いていないからだ。ただ逃げる遠景を取っているだけだからなのだ。

・その他にも石原さとみにしろ市川実日子にしろ、完全におちゃらけギャグキャラ設定になっていて、もう全くなにも怖がっている様子がない。

・さも現実味をだそうと「シャツ臭いですよ」なんてシーンを入れているのも、まさに取って付け。そんなこと言っている場合かと言いたくなった。

・ゴジラ対策で会議室に泊まりこんで椅子で寝ている官房長官なんかよりも、まだボサボサ頭の市川実日子のほうが疲れているように見えるが、それにしても恐怖はどこにも存在していないのだ、まるで全部がギャグだ。

・で、結局この映画は何をいいたかったのか、何を表現したかったのか? それはゴジラの恐怖じゃないだろう。官邸の巨大生物登場対策シュミレーションの予行演習を描きたかったのか? それを見せられただけか?

・3.11をベースにした話の作り方は面白いが、それがゴジラ映画か?

・この映画を評価している側にしてもそうだ、おまえら災害政治シュミレーションを見て面白がっている、内容が濃かった、出来が良かったと言っているだろう。それは、ゴジラを、ゴジラ映画を語っていないだろう。脚本の上手さ、展開の早さに見事に騙され乗せられて拍手をしている。ならばこれがゴジラ映画である必要など全くないだろう。どこを見ているんだ!

・まあ、巷では非常に評価が高まっている作品をここまで批判するのも、ゴジラ映画がゴジラ映画であってほしいからだ。

・最初に書いたように「面白かった、なかなかに面白かった、映画を観た満足感もそれなりにあった・・・だが・・・」なのだが、見終わって時間が経てば経つほど釈然としない気持ちが強くなってくる。

・すくなくともシン・ゴジラは、大量生産された第二作以後の子供向けゴジラシリーズよりはよっぽどイイ、平成ゴジラ・シリーズよりもよっぽどイイ、ミレニアム・シリーズなんかよりもずっとイイ。エメリッヒGODZILLAよりもずっとずっとイイ、ギャレスのGODZILLAなんかよりも何万倍もイイ・・・しかしだ、だからこそ厳しく言いたい「これがゴジラ映画なのか」と! ゴジラを主役から外して政治家や官僚の災害シュミレーション・ゲームに終始したこの映画はゴジラ映画とは言えない。本多猪四郎が描いた《恐怖》や《人類への警笛》がまるで感じられない映画など、ゴジラがでていようがゴジラ映画とは認めない。そういうことだ。

余談:

・それにしても最初に出てきた第二形態のゴジラには面食らった。まさかあんなものを出してくるとは。第三形態もボタボタと体液やら血肉の塊のようなものを落とす様子が描かれていて、両方共それなりに気持ち悪く、不気味であったが、あのピンポン球の目はなんなんだ? あのピンポン球の目のお陰でせっかく不気味な気持ち悪さが出ていた第二、第三形態のゴジラがまるでアニメのヘンテコキャラのようになってしまった。そう、なんというかあの第二、第三形態はまるでエヴァンゲリオン使徒じゃないか。予告編で見ていた白い目のゴジラは原始生物のような不気味な怖さがあって期待を持てたのだが、第二、第三形態のあのピンポン球はもうダメダメ。思わず笑ってしまうよあれは。

・都会に燃え上がる火の中をのっしのっしと歩くゴジラ・・・これ、巨神兵そっくり。

・背中から紫の放射能光線を四方八方に発射するのはまるでイデオンか? ゴジラじゃないだろうこれも。しかもその放射能光線があちこちビュンビュンとのべつまくなく飛び交っているのに、ビル屋上で放射能防護服に見を包んでぶつくさ言いながらゴジラを見ている官房長官らには笑った。おまえらそんな所にいたらあの放射能光線一発ビュンと来たら全員一瞬でお陀仏でしょう。いやはやまったく悠長なことだよ。

・最後の半減期の話はなんたるとってつけ、酷すぎ。

白組CG技術はここまで来たのかと思うほど凄い。ゴジラがビルに崩れ落ちるシーンなどもう見事としかいいようのない素晴らしい出来。「同じ予算を与えられて、ヨーイドンで同じCGIのシーンを作ったら日本の方がハリウッドなんかよりも上だ」と言っていた人がいたのだが、今回のシン・ゴジラを観たらその言葉に納得した。白組のCGI技術はレベルはもう世界水準といっても過言ではないだろう。

2017年7月8日再見

やっぱ、浅いな、コレは明らかに、おちゃらけ映画だなぁ。なにがポリティカルサスペンスだっちゅーの。という感想が。再び。やたら米国が、米国、米軍が、米軍ががとか、もううんざりうざったし。石原さとみの困ったちゃんアメリカ中枢に関わる女子ぶりは、改めてみていても、もうヘッ?という感じ。さらに評価は下がってしまった。なんだか再見したら、ギャレスのゴジラのほうがまだましだったかも? と思えてきた。いやはや、なんだこのゴジラ映画は。もうダメダメ。

2016-07-27 『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』なにこれ?守銭奴の餌食にされた原作

[]『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』

・『シン・ゴジラ』の公開前に、昨年公開されて映画史上イチニを争う超駄作、どうしょうもない映画と評される『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』の前後編を観てみたが・・・。

・なるほど、最近の映画製作ありがちな、人気女優俳優アイドルをズラリと並べて出演させれば、それだけ客の入りが見込めるという作品本質にはほとんど関係のない客寄せキャスティング典型のような映画。個々にどれだけ人気があろうが、雁首ずらりとならべたところでその人気が累乗して重なっていくわけではない。こういう見苦しく浅ましくおぞましいまでの“雁首並べキャスティング”が行われるようになったのは『20世紀少年』あたりからだろうか。豪華キャスト勢揃い!なんて宣伝コピーじゃ動員は稼げないってことが未だにわからないのか。作品の中身、クオリティーよりも兎に角コケないように、大失敗して自分責任とらされないようにってことで、人気者、知名度の有る者を集めよう!なんてやって、却って大ゴケを導いているってことに・・・気がついてもそれを是正できない、それが日本映画界というやつかもしれないが。

・それにしても本の酷さは有り余るほどだな。映画になにより大事なのは脚本だというのに、その脚本、物語がここまででたらめでメチャクチャじゃ誰も支持するまい。一本でまとまるような内容の作品を二本に分けて興行収入少しでも稼ごうってのも最近の邦画界のしょうもないところだが、今回の「進撃の巨人」に至っては前編が1時間38分、後編が1時間27分と・・・もうね、そこまでして観客から金を巻き上げたいのかと。前後編二本にするならどっちも2時間ものにして、内容もじっくり練り上げて、どっちを見ても充分満足というのにしろよと! 映画一本分の製作費で撮ったものを冗長編集して2本仕立てにして鑑賞料倍にして取り上げようという魂胆があまりに酷い。

監督樋口真嗣にしろ、脚本に顔をだした映画評論家町山智浩にしろ、また、今回の映画化に首を出した原作者諫山創に、この映画のラッシュでも見た時に「なんだこれ、話の整合性がなってない、筋が通ってない、わけわかんないじゃない」って思わなかったというのか。いやぁ、普通に考えたらこれだけメチャクチャな展開で「なんでこうなるの?」ってストーリーに疑問をもたないわけがない。というかもっと最初の脚本の段階で話のつながりがおかしいだろう!って気がつく。そして撮影をしている最中でも、編集をしてるさいちゅうでも、どうかんがえてもフツーにこうくるのは見ていて疑問詞が着くだろうと思うはず。少なくとも映画という世界仕事をしている人間なら、ギョーカイの外にいる一般の観客よりもその点にかんするアンテナは敏感なはずだ。いやそうでなくてはならない。それが・・・・

・その辺の裏事情に関しては嘘か誠かは不明として、ここに詳しく書いてあった。これを読むと町山は悪くない、悪いのは樋口渡辺と諫山だ!ってことになってしまうが。http://d.hatena.ne.jp/type-r/20150822

・結局のところ、いろんな人間がいろんなところから首を突っ込んで、自分勝手なことを主張して、エゴモロ出しにして、ひとつの作品としての全体像を誰も見ることをせず、あっちこっちネズミがガシガシ齧ってボロボロにするように脚本と映画をボロボロにしてしまったということだろう。

・正直、樋口真嗣にはアクションシーンや特撮シーンなどの「シーンをつくる」ことにかけては秀逸だと認めてはいるが、こと物語を紡ぐということ、一本の映画として物語をまとめあげるという能力にかんしてはもうダメダメどころかゼロといってしまってもいいくらいだ。特撮に力を集中させて監督なんて大業には今後手を出さない方がいい、出すのだとしたら脚本家が綿密に組み上げた映画の設計図である脚本を一字一句修正せず、脚本のままに映画として撮り上げることだろう。残念ながらこの『進撃の巨人』においては脚本そのものが最初からダメだった上にさらに改悪が随所に繰り返され、最後には見るも無残なボロボロつぎはぎだらけで、ストーリーにリズム一貫性もなにもない最低映画に成り下がってしまったというほかあるまい。

・最初にキャスティングのことを書いたが、一人ひとり単独で見てみると、石原さとみにあのクレイジーなトンデモキャラやらせたのは良かった。(話としてではなく、単純に一人のキャラとしてだ)映画のなかでは浮きまくりトンデモまくりだったが、石原さとみにあの手のキャラクターがこれほどピッタリとは驚きでもあった。

水原希子ミカサ役として映画のなかで他の登場人物と絡むと、なんだかなぁ〜という感じだが、じっと黙って何かを訴えるようなシーンで一人だけスクリーンに映っていると、なかなか味のある顔だし、顔だけで演技が出来る風でもある。顔に力があるのだな、モデルということもあるし。しかしそれが喋ったり演技をし始めると・・・ダメになる。

・サシャ役の桜庭ななみナイス。大食のお馬鹿ちゃん的イメージが実にピッタリだが、弓を射るときはなかなかの眼力でカッコイイ。まああんまりセリフもなかったし、この娘も他と絡むシーンになると大根っぷりが出てきてしまっていたが、それでも存在感はあった。

・それに引き換え、男性のキャストは、なんだか薄っぺらで印象に残らない連中ばかり。シキシマ役の長谷川博己はいい感じかと思ったが、リンゴを食わせたり、シャンパングラス傾けたり・・・オイオイ、勘弁してくれよという演出の軽薄さが俳優の良さを台無しにしていた。

・2004年は「デビルマン」「キャシャーン」と最悪の実写映画が続いたが、10年経って悪夢は蘇り、この「進撃の巨人」の後に「テラフォーマーズ」という更に最悪の漫画実写化作品が公開されたわけで、考えてみると2015年は史上最低映画といわれる「進撃の巨人」で、その次の2016年に更に最悪といわれる「テラフォーマーズ」が続いたわけだから、去年から今年は邦画史上でも最悪の年だったのかも。まあ、その間にも「ガッチャマン」とかもあったけどね。

・そして今年2016年夏は「シン・ゴジラ」が公開される。監督の樋口真嗣は最近じゃプロモーションに一切出てこない。噂では、当初は樋口真嗣に「進撃の巨人」の監督をさせて、そのヒットの勢いで樋口の名前を広め、次に“あの「進撃の巨人」の監督である樋口真嗣最新作「シン・ゴジラ」と宣伝するつもりだったのが、あまりに「進撃の巨人」の評判がわるく酷すぎたので「シン・ゴジラ」の宣伝班は「だめだ、樋口の名前は使うな。せっかくの東宝看板映画であるゴジラで失敗するわけにはいかん! 樋口の名前をだしたら「あの進撃の巨人を撮った監督だろう、じゃあだめじゃん」となってしまう。今後プロモーションで樋口の名前は極力伏せろ、そうだそのために総監督としてもっとオタク層に人気のある奴をもってきて樋口の名前を隠してしまえ」なーんてことになってるんじゃないだろうか。「シン・ゴジラ」の完成報告会見にも監督の樋口真嗣は顔も出さず、どこのも映らず、メディア取材記事も総監督庵野秀明統一されちゃってるからね。もう明らかに樋口の名前を伏せようという意図が見えていてなんというか可哀想というか・・・監督やってるのにねぇ。

・そんなことを思いながら、進撃の巨人に出てくるあの巨大な巨人を見ていたら・・・ん、なんかに似てないか? 体の表面の奥に筋肉というか赤い肉のようなものが見えているこの造形、イメージ・・・・おいおい、シン・ゴジラも似たデザインじゃない・・・大丈夫なんだろうか? シン・ゴジラ・・・・・

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2016-07-11 『インデペンデンス デイ リサージェンス』愛すべき最高お馬鹿映画

LACROIX2016-07-11

[]『インデペンデンス・デイ: リサージェンス』

・「インデペンデンス・デイ」第一からもう20年かぁ、時が経つのは本当に早いなぁという感じ。

・第一作はあの巨大なUFOが衝撃的で大ヒットしたけど、段々と中身のデタラメさに“お馬鹿映画”の称号が付き、それが高じてさらには「こういうお馬鹿映画も面白いじゃない!」と逆な意味でいう評価が上がった珍しい映画。自分映画館最初に見た時はそれまでになかった圧倒的な映像でスゲェ〜と思ったけれど、DVDとかで見返すと、なんともお馬鹿なシーン、ストーリーが満載で、次第に「これはSF映画じゃなくて、ギャグ映画だな」と思うようになった。

・その「インデペンデンス・デイ」が20年という時を経て続編の製作と聞いて、うわー、どうなるんだろうと面白半分で期待していた。なにせ監督ローランド・エメリッヒは「インデペンデンス・デイ」(1996年)以降はと、トンデモ映画、オイオイ映画ばかり作ってきている監督で、作品の質を期待することは殆どない。「エメリッヒでしょ? どうせ!」と言われるような監督だったからだ。(興行収入はそれなりにいってるところは凄いが)

GODZILLA ゴジラ」(1998年

デイ・アフター・トゥモロー」(2004年

紀元前1万年 10000 BC 」(2008年

「2012」2009年

・さて、そして20年ぶりに帰ってきた「インデペンデンス・ディ:リサージェンス」、CMや予告編を見るとCGIのレベルが相当に上がっているし(20年前の第一作の時は爆発シーンなどで火薬を使っていたり、日本特撮のような撮影方法であった)、真面目でしっかりした超SF大作のような雰囲気だ! 第一作を知らない人、見たことのない人がこのCM、予告編を見たら「なんか、凄そうな映画が来たな。映像も凄いし面白そう」と思うだろう。しかし第一作を知っていると、この映像を見ながらプッと思わず笑ってしまうのである。「雰囲気は真面目で凄そうなSF映画だけどこれって・・・」と笑えてしまうのである。

ジェフ・ゴールドブラムがまたマジ顔でセリフをしゃべっていると、それだけで思い出し笑いしてしまうし、ビル・プルマンが出てくると、おお!あの大統領がまだ生きてたのか!とか思ってしまうし。「今度のは前のよりでかいぞ」なんてセリフを聞くと「ギャッハー、20年経っても前と同じことをしようとしてるぅ、デカさで売ろうとするエメリッヒは健在だぁ!」と大笑いしてしまうのである。

・ということで、今回は作品の質に期待するというのではなく、20年経っても(映像はすごくなってるだろうが)また同じお馬鹿な映画作ってるのかなぁと、そういった期待が大きく、ある意味どれだけそのお馬鹿さの期待に応えてくれるかを大いに楽しみにしてこの映画を見た!

・そして、その期待は100%裏切られることはなかった! エメリッヒは全ての期待に応えてくれた。やっぱりエメリッヒは“お馬鹿監督だw!”

インデペンデンス・デイ:リサージェンス」は史上最高のおバカ映画と言っていい。ただし、頭に“愛すべき”という言葉を付け加えておく。

この映画は古今東西稀に見る、映画史上最高の“愛すべきおバカ映画”である。(監督のエメリッヒもお馬鹿映画の代表としよう)

・いやー、予告編を見て、なんかモノスゴイ、かっこいいSF映画を期待した人は逆に頭にくるんじゃないかな? なんだこの映画は!くだらん!と怒りだすかも。20年前の第一作を観て知っていて、そのバカバカしさに愛着を感じている人にとっては「20年経ってもおんなじバカなことやってるバカ映画だねぇ」と微笑んで楽しみながら観れるけれど、初見の人にとっては「どうしょうもない映画だ」となるかも。この映画を観る人には世代ギャップが大きく広がっているかもしれない。

・今回の宇宙船は前作よりはるかにデカイというのは聞いていたが、映画の中のセリフでは全長3000キロとか言ってたなぁ。www アホちゃう? 第一作の宇宙船が全長24キロでこれはデカイなぁと驚いたのだが、今回のは言ってみれば日本列島の端からは端までと同じくらいの大きさなわけで、ここまで大きくしちゃったら、人間から見たら空全部が宇宙船なわけで、逆に巨大さとか物凄さが感じられなくなってしまっている。頭の上、見渡す限り全部が宇宙船なんだから、大きいとか小さいとかじゃなく、空に蓋がかかってるようなもの。これはやり過ぎの大失敗、流石エメリッヒ!と言いたくなったね。

・まあ、その他にもツッコミ所は満載なのだが、この映画はツッコミ所をギャグとして観なければならない。いや、エメリッヒはスタッフは至極真面目に作っているのかもしれないが、それがことごとくお馬鹿なギャグ化しているのだから、そこを指摘してもしょうがない。楽しんで笑うのがこの映画の観方とも言えるだろう。

・それにしてもなぁ、まさかインデペンデンス・デイが怪獣映画になって帰ってくるとは思わなかった。日本の怪獣映画ファンオタクであるギレルモ・デル・トロが作った「パシフィック・リム」やギャレス・エドワーズの『GODZILLA ゴジラ』は日本のロボットや怪獣映画を尊敬し、その流儀スタイル踏襲してハリウッド方式日本映画を作ったものであり、作品の出来はイマイチだったが日本の怪獣映画をここまで愛してくれているんだなという気持ちは嬉しかった。しかし、しかしだ! なんとローランド・エメリッヒはその怪獣映画ヲタの二人よりも更に更に凄い日本映画式怪獣映画を作ってくれたのだな。

・いやー、もう驚き。エメリッヒの『GODZILLA ゴジラ』は日本のゴジラの良さを全然わかってないダメダメ作品だったが、今回の「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」は設定からバカバカしさはまるで日本のTV特撮怪獣シリーズウルトラマンタロウとかに近い)であり、怪獣の描写は日本の怪獣映画のニュアンスが強く感じられる。

・ほんと、科学特別捜査隊とか地球防衛軍とか宇宙科学警備隊とかが怪獣から地球を守るって設定とその中で出てきたお馬鹿な怪獣攻撃とかの映像が今回の「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」で巨大宇宙船や宇宙人に向かって戦いを挑むアメリカ軍の姿と似てるんだよね。おかしなくらい。この脚本家、日本のウルトラシリーズを土台にして脚本かいたんじゃない? ッて思う位。そしてなんとも、エイリアンとの戦いが・・・・おいおい、これってまんま日本の怪獣映画になっちゃったじゃないか〜と、スクリーンを観ながらびっくり仰天、そして大笑い。いやはやエメリッヒさん、ここまでやってくれるとは御見逸れしました。

・前作で出てきたキャラクターが沢山でてきて、前作をネタにしたようなギャグ(本当は真面目にやってるのかも)を披露するし、ビルブルマン前大統領のくせにエイリアンを格納している場所に入っていって「俺が犠牲になる!」といって首を触手でグゲゲと締められて、エイリアン語を翻訳するシーンとか、もうホントによくもここまでお馬鹿シーンを真面目に復活させるもんだなぁと恐れ入る。

・途中からは段々先が読めてきて、あのスフィア(球体)が出てきて「敵の敵は見方」なーんて言い出すところなんかもう予定調和アフリカ黒人部族長かなんかがスウォード(剣)でエイリアンをズッタバッタやっつけるところとか、あんまり名前が知れていないギャラの安い、だけでかなり美形で可愛い女優をぞろぞろ出演させてるところとか、中国の巨大市場意識して軍のトップ中国人だとか、その娘が美形のパイロットアンジェラベイビー(楊穎)という中国人アクトレス)だとか、この女優もぱっと見、日本の昔の女優の若いころみたいな感じで可愛いとおもったが、役はスカスカのただの飾りでしかなかったし、エイリアン研究者同性愛カップルだったんだとか、もう、いやはやサイコーですねと言えるお馬鹿の連発にただただ顔がほころぶばかり。

・意外と言えば超意外で、冒頭からシャルロットゲインズブールが出てきたこと。映画の情報サイトキャストの紹介でもシャルロット・ゲインズブールに言及したり取り上げている所はほとんどないね。あの「なまいきシャルロット」の時の妖精のように可愛らしかった女の子がこんなにシワクチャなオバサンになって出てくるのはちょっと目を背けたい気分も。同じフランス人女優でも「ラ・ブーム」でブレイクしたソフィー・マルソーは歳をとっても妖艶な美しい女に成長したのだけれど、S・ゲインズブールはそれとは逆になってしまっているみたいでちょっと悲しくもあり。

・まあそんなかんなで、この史上最高のお馬鹿SF映画は、お馬鹿をどんどんと積み上げていき、最後にはお馬鹿なりにスッキリ気持よく楽しめるラストでしめくくってある。ジトジト梅雨の湿っけと、ジリジリ暑い夏の中、ひんやりと冷えた映画館でこういうお馬鹿映画を観て、あんまり難しいことを考えず、頭を空っぽにして楽しむってのがこの映画の観方なんじゃないかね? そう考えていれば充分に楽しめる。

ただし、前にも書いたがそれは前作がおバカ映画に変化していき評価を逆の意味で上げたという前作を知って楽しんでいる世代に限ったものであり、まったくなにもその辺のことを知らない人が、期待してこの映画を見たら「なんだこれは、どうしょうもない、馬鹿げた映画だ」となる可能性は非常にたかいだろうな。現にこの映画のことをネットで書いているページはそういう内容のものが多いようだ。

・この映画を観て、くだらない、馬鹿げてると思った人は、前作を観て、そのお馬鹿加減をハッハッハと笑いながら楽しめるようになってから、もう一度この新作を見返せば、楽しめると思うな。

・愛すべき、史上最高のお馬鹿映画に乾杯

2015-12-22 『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』SWファンにとって最高の傑作

LACROIX2015-12-22

[]『スター・ウォーズ/フォース覚醒

(注)内容について詳しい記述あり。

・観賞の後の興奮や感動がまだ冷めやらない! 思い出す度に気持ちが高ぶり興奮が蘇る。

・大スクリーンに映しだされる撃ち落とされ破壊され砂漠に埋もれている戦艦。画面が流れていくと・・・スターデストロイヤーではないか! その瞬間、今自分が長い時間をかけてついにSTAR WARSサーガの続きに辿り着いたのだと強烈に、はっきりとそして感動を持って認識する。これは紛れも無くエピソード6の続きなんだ! このたったワンシークエンスだけで頭の中がスターウオーズ世界に引きずり込まれた。そして、戦艦の瓦礫から部品を集めている少女(レイ)が一人寂しそうに食事をしているシーン。レイの背後にあるものが最初はなにか壊れたシェルターかなにかだろうと思っていたが、カメラゆっくりと引いていくと、それがあのAT-ATスノーウォーカーが横倒しになっているものだったのだと分かる。もうこの2つのシーンだけで「やった!」「すごい!」と叫びだしたくなる、ワクワクして心臓がドクンドクンと鼓動する。エピソード4から6までに登場した宇宙船マシンがスクリーンに現れるたびに「おーっ!」「あーっ!」といった驚きや感激の声が劇場に沸き起こる。自分も拳を握りしめて心のなかで「やった!」「おお、すごい」と同じ言葉を繰り返し叫んでいる。堪らない興奮と魂を揺さぶるような感動が体中から湧き上がり満ちてくる。感激のあまり思わず目頭に涙さえ滲みだす。こんな興奮と感動は久しぶりだ。

・素晴らしい! この映画は、この映画のスタッフはSTAR WARSファンの心を、気持ちを、期待を、望みを、その全てをしっかりと心得ている。STAR WARSのファンが何を望み、期待し、待っていたのか、そのツボを全てしっかりと押さえている。最初の十数分を観ただけなのに、既に思い始めている自分がいる。「最高だ!」「これは傑作だ!」と!

・思い出の登場人物や宇宙船の出し方も心憎いまでに巧みな演出が施されている。「こう出すのかぁ!」とその上手さに思わず嫉妬してしまうほどだ。

「こんなに上手いことやりやがって、最高じゃないか!最高すぎるじゃないか!」嬉しさの余りそんな風にさえ思ってしまうほどだ。

・なかでも断トツにカッコ良かったシーンと言えば!

ファースト・オーダーのタイファイター攻撃され、レイがフィンと共に砂漠を走って逃げるとき、前方にあった宇宙船に乗り込んで逃げようと二人が必死に走って行くのだが、その宇宙船にたどり着く前にタイ・ファイターの攻撃で宇宙船が爆破されてしまう。唖然とする二人だが、とっさにレイが叫ぶ「あっちのポンコツに逃げ込むのよ!」指差し駆けていく先には砂に突き刺さり埋もれた放置されたようなガラクタが宇宙船が・・・・だがその宇宙船の姿がすべてスクリーンに映しだされた時、胸の鼓動がドクン!と張り裂けそうなほどに高まる! そのポンコツ宇宙船は、なんと、あのミレニアム・ファルコンなんだから! もうこの演出に涙が溢れだして堪らない。最高だ! またしても「やったー!」と叫んでしまう。劇場の興奮もかなり高まってきた!

このミレニアム・ファルコンの飛び方がまたいい! 今まではどちらかというと直線的な動きが多かったファルコン号だが、レイが操縦して飛び上がると、砂漠の上を追ってくるタイ・ファイターやスターデストロイヤーの残骸を、ひらりふわりと水の中を浮く魚のごとくかわしながら飛んで行く。予告編でも使われていたが、このミレニアム・ファルコンの飛び方がとてつもなくカッコイイ、最高だ。

☆レイとフィンが乗ったミレニアム・ファルコンはタイ・ファイターの攻撃から逃げ切り、惑星ジャク−から宇宙空間へと飛び出す。ようやく逃げ切った!と安心した次の瞬間、ファルコンの操作が効かない、ロック・オンされた!と二人が気付いた時、ファルコン号は巨大な船艦の格納庫に飲み込まれていく。これは正にエピソード4の冒頭でレイア姫の乗った宇宙船がスター・デストロイヤーにロックオンされ飲み込まれていくシーンをそのもの、きっちりとあのシーンをなぞらえたものではないか! なるほど、こういうオマージュも組み込んでいるのか! と感心しつつ、心のなかでは当然、エピソード4と同様にスター・デストロイヤーから敵が乗り込んでくると予想する。レイとフィンもファースト・オーダーに見つからないようにファルコン号の地下に身を潜める。さあ、どんな奴らがファルコンに乗り込んでくるのか、カイロ・レンか、ストーム・トゥルーパーか!エピソード4になぞらえるならダースベーダーがやってくるのだから、きっとカイロ・レンが来るんじゃないか、ワクワクどきどきしながら想像が掻き立てられる・・・・そして・・・予想は数百万%の驚きでひっくり返される! 

ファルコンに乗り込んできたのは・・・! まさか! 

劇場内がざわつき、歓喜の声があちこちから沸き上がる! こんな憎い演出してくるとは! くぅなんてサイコーなんだ!なんてカッコイイんだ! ヤッタ−と声を上げて拳を振り上げたくなる。身震いがする、嬉しくて涙が目の端に滲んでくる。

We are home! 我が家だ。帰ったぞ!・・・・2015年、STAR WARSシリーズにまた新たな名台詞が生まれた!

巧い! この映画は本当に巧い! 何度も繰り返すが、この映画は、この映画の監督は、脚本家は、スタッフは、2015年の今、STAR WARSファンがどうしたら喜ぶのか、どうやったら最高に喜ばせられるか、そのツボを本当にしっかり心得ている!

☆惑星タコダナに襲来したカイロ・レンとストーム・トゥルーパーの軍に追い込まれた時、はるか向こうからけたたましい水煙を上げて何かがやってくる!「援軍だ!」というセリフの後にスクリーンいっぱいに現れるのは、あのXウィングの編隊だ! これまた何度も同じことを書いてしまうが「ウォー!やったー」と見ている側が雄叫びを上げてしまうほどのかっこよさと嬉しさだ!

☆カイロ・レンの登場の仕方も、エピソード4でのダースベイダーの登場のシーンに重ねてあるし、カイロ・レンが姿を表わす前でも、スクリーンに移ったシャトルがダースベイダーの乗っていたインペリアル・シャトルに形と気がついて、乗っているのは奴なんだとわかるようになっている。なんとも細部まで作りこまれた映画だ。

☆かっこいいシーン、劇場に歓喜の雄叫びが上がるシーン、身震いして魂が震えるようなシーンが次々と繰り出される。これはまるで豪華絢爛多種多様料理の数々。最上級フルコースディナーか!中華満漢全席か! 最高の腕で料理された最高の料理が次から次へとスクリーンというテーブルに運ばれてくる。それがこれでもかというくらいのてんこ盛りで矢次早にだ。もう一杯だ、もうこれだけで充分に満足だ、いや、まだだ、もっともっとほしい、もっともっと味わいたい。そんな映画と言えるだろう。

・映画を観ながらこれだけワクワク・ドキドキし、次はどうなる、次は何が来る。と期待に満ち溢れ映像の世界に完全に取り込まれてしまうような作品はそうそうあるものではない。STAR WARSを初見という人や過去作を余り見ていないという人にとってはどうかわからないが・・・この《STAR WARS フォースの覚醒》はSWファンにとっては最高の、いや最高を更に超えたような、心躍り魂を揺さぶられ、感涙に咽び、涙しながら喜ぶ、傑作中の傑作と言っていいだろう。

・最初に届けられたこの特報第一弾、ファルコン号の飛ぶ姿のかっこよさに目を奪われたが、フィンが砂漠の中から画面に突如として顔を出すシーンは、これぞまさに黒澤明隠し砦の三悪人」の冒頭シーンのオマージュ。こんな所にもこの監督のSTAR WARSとその元となった作品に対する敬意と愛を感じる。

D

TV予告編でマズ・カナタの言っているこの言葉、

I have lived long enough to see the same eyes in different people.

I see your eyes.

I know your eyes.

わたしは充分に長く生きてきたさ、そして沢山の人のなかに同じ目を見てきたんだよ。

私はお前の目を見たことがあるよ。

私はお前の目を知っているよ。

このセリフの後にレイがアップで映しだされ、画面の中でレイの目がどこかを見上げている。

まさにレイの目を語っていると思われる繋ぎで編集している。

これを見た時に「そうか、そういうことなのか、レイはジェダイ系譜にいるんだ、レイこそがジェダイの正義銀河で受け継ぐその人物なのだ、そういっているんだ!」と謎が解けたように納得したのだが・・・

実際に映画を観たところマズ・カナタのこの言葉はレイではなくフィンに向けられたものだったのだ。えー、なんで? と思ってしまった。どう考えたってこのマズ・カナタのセリフはなにか重大なことを言っていると思えるじゃないか。ルークの子供、新しきジェダイであるレイを指している言葉じゃないか。それなのに、この言葉はフィンに向けられたものだった。これって予告編製作でよくある本編のいいとこ取り、本編内容無視勝手改変編集ってやつか? と憤ったのだが、いや、もっと深く考えると・・・次回作以降でやはりフィンがなにか重要役割をすることへの暗示なのかもしれない・・・ひょっとしてフィンもフォースの強い家系の一人? んー、どうなるんだろう。

D

ヒーローであるハン・ソロが死んでしまう場面。SWシリーズの原案にはギリシャ神話から“父親殺し”がテーマとして取り入れられているということであったが、まさかこの新シリーズでソロが息子に殺されるとは予想していなかった。4,5,6の三部作がダースベーダーの贖罪ということがテーマであるともいわれているが、新しい6,7,8の三部作はカイロレンの贖罪が一つの大きなテーマとなるのだろうか? 懲罰とも考えられる右手の切り落としもまたどこかで出てくるのだろうか? それにしてもソロがあんな殺され方、死に方をするとは・・・。

・ハン・ソロの最後で更に気になることといえば、その死に方が深い深い宇宙の底に落ちていくかのように、突き落とされて消えていくという点だ。この死に方はダース・シディアスダース・モールと全く同じではないか。我らがヒーロであるハン・ソロの死に方がダークサイドに囚われたシスと同じなのか! ここにも何か意味が込められているのか? それともこれは考え過ぎか? どちらにしろ、ハン・ソロのあの死に方は納得できないものがある。ソロはシスとはその存在が映画の中で全く違うのに・・。

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☆二回目観賞後

日本語吹替版のほうが言葉の情報量が圧倒的に多いのでストーリー理解には役立つ。二回目をみて疑問に思っていたところもなんとなく分かってきた。

それ以上に、一回目では細かく追いかけて見ていなかったところまで字幕を追う必要がないので良く観ることが出来た。

初回ではなぜか気が付かなかったのだが、これは笑えるという面白いシーンがあった。ハン・ソロとフィンがスターキラーに侵入し、シールド装置を停止させるために考えついたのが、キャプテンファズマを捕まえて装置を停止させようと言う案なのだが、二人がキャプテン・ファズマを捕まえたときにフィンのセリフや表情がめちゃくちゃに面白く笑えた。

フィンとしてはトウルーパ軍下っ端の一兵卒で一番偉いファズマには絶対服従、何を言われても文句を言えない立場だったわけだが、ソロと一緒にファズマを捕まえた途端、目をキラキラ輝かせてくっきり見開いて「はっはっはー、ざまーみろコノヤロー、もうお前なんか怖くないぞ」とばかりにファズマに食って掛かっている。それを隣で見ていたハン・ソロが「おい、落ち着け」と窘めるシーンがこの映画の中では一番に笑える所だった。その後、シールドを停止させたファズマをどうしようかとハン・ソロが言うと「へっへー、このバケツ野郎、どうしてくれようか」とフィンがもう狂喜乱舞しながらファズマに突っかかって行く・・・いやはやまったく、その姿を見てハン・ソロは肩をおとして「どうしょうもないやつだな」と呆れているようでもある。そしてファズマをどう処理するかということで「ダストシューターに落としてしまえ」となったときの、フィンのもう嬉しくて嬉しくて堪らないような顔・・・・まるで今までイジメられてきたガキ大将に恨みを晴らしてやっつけちまうときのようなガキの顔である・・・2回目は細かい所までじっくり見ることが出来たのでこんな点にも気が付き、熱中しながら見た一回目とは違った意味でスター・ウォーズ/フォースの覚醒を楽しむことが出来た。

関連日記

2010-07-23 『ファンボーイズ』つまらない話の駄作だがSWファンは楽しめる。

2010-07-12 「STAR WARS 〜伝説は語り継がれる〜」これはおぞましい。

2010-06-28 『STAR WARS 世界の兵士たち大行進!』

2009-06-27 『STAR WARS エピソード3/シスの復讐』

2015-06-15 『海街diary』期待は大きかったのだが・・・かなり期待外れ

[]『海街diary

『誰も知らない』(2004)では親に置き去りにされた子どもたちの誰からの助けも受けず生きていこうとする生への足掻きを静かに、そして壮絶に描いた。『歩いても歩いても』(2008)では老いていく父母とその息子、そして嫁の関係とその中にある毒をこれぞまさしく小津の世界というべき見事さで描き切っていた。そう、『歩いても 歩いても』を観た時に強烈に感じた事、それは「是枝監督は名匠・小津安二郎のあの映画雰囲気を、そしてあの映画の味を遂に、そして見事に現代日本映画に蘇らせたのだ」という感激だった。『歩いても 歩いても』は小振りな作品ながらも、その年一番の作品だとも思った。日本での興行は振るわなかったが、その後海外で高く評価され、なんとあのクライテリオンがこの映画をソフト化した。これはきっと海外の映画ファンにとっても「歩いても 歩いても」は小津をほうふつさせる古き良き日本映画の伝統継承する作品だと感じられたのだろう。

・チクリチクリと皮肉うまい具合にまぶした「歩いても あるいても」は老舗の逸品のごとく味のある作品で、その年は何度も何度も観返し、ロケ地を探したりして歩いたものだった。

・この監督は次はどんな驚きを与えてくれるのだろうと期待した。そして次作の「空気人形」はエグさをも躊躇せず写しだし「歩いても 歩いても」とはまるで異なる作品。まさかこう来るとは予想もせず、その内容と表現にこれまた驚かされた。

・是枝作品といえば、毎回内容や描く対象ががらりと変わり、しかし多種多様に切り替わるその作品の中に一本ゆるがぬ筋が通っている。それはいってみれば社会性といわれるもので、今の社会や制度、この日本のあり方に対する批判であると考えている。その怒りや批判、悲しみのエネルギーが多種多様な作品の中でプツプツプツと温泉の底からたゆまず湧き続けている熱い泡のように、全ての作品の底流となっている。そんな感じを持っていた。

・そして『海街diary』だ。

・是枝監督の2年ぶりの新作ということで、さて今回は一体どんな映画を楽しませてくれるんだろう!と期待が膨らむ。今回はフジテレビ小学館と組んだということで公開前の番宣コマーシャルも多々。住友林業と組んだCMはなかなか良かったし、BS日本映画専門チャンネルでは是枝作品の特集が組まれ、その一部として放送されたメイキング番組である《映画『海街diary』が生まれるまで》が特に良かった。(前ページ)

・メイキングでは古民家茶の間で、飯台を囲む三姉妹位置や構図にこだわり、そのセリフの掛け合いから姉妹一人ひとりの心の中、表には見えない気持ちや、日々の生活の背景を浮かび上がらせ観客に伝えようとする是枝監督の撮影演出の様子をがたっぷりと映しだされていた。「これぞまさに小津安二郎の様式美成瀬巳喜男人間味表現を加味した是枝作品のなんともいえぬ味わい、情緒の源なんだな」と、メイキングを見ながら更に映画への期待が膨らんだ。

最初に言ってしまうと、この作品、絵は綺麗だ、絵は美しく、絵には情緒が漂っている。だが、途中まで観ていく内にその絵と話がゆるやかな流になっていないと感じ出す。パッ、パッと瞬間、瞬間にスクリーンいっぱいに映し出される“絵”に、はっとする美しさ、情緒、味がある。だが、それが繋がっていくにつれその情緒や味わいにちりちりと裂け目が入り、バラバラに細かく破れてスクリーンの外に飛び散って消えていく、そんな感じなのだ

・この映画は四姉妹の一年物語ということで、鎌倉舞台として四姉妹の成長、変化を四季の移り変わりとともに映像にしている・・・ということなのだが、季節がまるで“移り変わって”いないのだ。季節から季節への移り変わりというものはゆっくりと気がつかないうちに、徐々にだけど早く、ある日ふと「ああ、季節が変わったんだなぁ」と気が付き感じるもの、そういうものだ。しかしこの「海街diary」の中での季節の変化は唐突にエッ!とう感じで出てくるのだ。たとえば桜が咲く春だなぁと思って見ていたら、なんでか急に半袖、夏服になって花火・・・え、いつの間に夏になったの? なんか急すぎない? と思っていたら、こんどは夏と思っていたのがセーラー服にマフラー・・・あれ、いつのまに冬になってるの? とそういう感じだ。

流れていないのだ。

2015-06-07 映画「海街diary」が生まれるまで

[]映画海街diary」が生まれるまで

・久しぶりに“これは観たい”と思える作品

・今週末の公開を前にしてメディアミックスプロモーションが相当に行なわれている。住友林業タイアップCMはかなりのGRPで流されている。人気番組に4姉妹が出演というPR企画ものも多々。この月曜日からはSWICHなどの雑誌で「海街Diary」「是枝作品」といった特集物が何冊か出され本屋の棚に並んでいる。

・是枝監督の前作である「そして父になる」もカンヌ審査員賞を取ったということで話題にはなったが、今回ほどのプロモーションは行なわれていなかっただろう。思うに「海街Diary」はこれまでの是枝監督作品の中で最大級のプロモーションが行なわれているであろう。

・前作「そして父になる」がテーマとしては重く、社会的告発的部分を持っていたのと違い、今回の「海街Diary」は家族の絆がテーマという部分では若干の重さはあるが、前作に比べれば圧倒的に観客にかかる負荷は少ない。観客にかかる負荷というものはある程度必要だ。まったく負荷のかからない、お笑いコメディー、アクション映画などと違って、適度な負荷は映画の深みにもなり、感動の源泉にもなる。重すぎては辛い、軽すぎては見応えがなくなり中身が浅くなる。“適度な、ちょっぐっとくるような負荷”それが当たる映画には丁度いい。そして観客にとっても。それは映画を見終えた後の観賞感として心に残る。一冊の本を読み終えた後の読了感に似たようなものが観客の心の中に生まれる。そういった意味で「海街Diary」は適度な緊張感をもって巧みにバランスを取っている作品と言えるだろう。いつもながら食べ物に例えれば、塩加減が、その塩梅が見る側にちょうどいい映画なのだ

小学館フジテレビ東宝とくればメディアミックスのプロモーションなどお手のもの。まさに自分たち土俵であり何をどうして作品を盛り上げていくかなど周知している組み合わせだ。だが、いくら手慣れた企業が手を組んだとしても映画のPRが必ずうまく行くなんてことはない。なによりも大事なのは作品そのものが世の中の期待や希望、映画を観る層に訴えかける、惹きつけるものを持っていなくてはどうにもならない。

吉田秋生原作マンガ、その質、そして登場人物が4人の姉妹だということ、4姉妹のキャスティング綾瀬はるか長澤まさみ夏帆広瀬すずという見事な組み合わせだということ、そして映画の舞台湘南鎌倉だということ。一つ一つが見事に押さえられたつぼであり、それが集積して仄かな優しい光に包まれている。温かい、人を惹きつける魅力を醸し出している。そういったものを内包した映画だからこそ、企業も「この映画に協力したい」「手を差し伸べたい」《この映画のイメージ企業イメージも一緒にアップしたい》と思うだろう。作品が持ち得た輝きと魅力があるからこそ、それを取り囲むPR戦略も上手く行く。公開前週にこれだけのクロスプロモーションが行なわれているのもやはり作品の良さありきだからだなぁとしみじみと思う。

・BS日本映画専門チャンネルで過去の是枝作品の特集と、“映画「海街Diary」が生まれるまで”という番組を放送していたので見てみた。作品を観賞するまえにメイキングなどを観るのはあまり良いこととは思わないのだが、今回の番組ではあまり深く作品内容に踏み込むことをせず、監督の撮影手法だとか、脚本を作るにあたっての監督の気持ちだとか、そういったものが映しだされていて、面白く興味深かった。

・是枝監督作品としては「歩いても歩いても」で小津安二郎の姿を感じたが、この作品ではさらにその小津安二郎的様式美が強く見られるようだ。鎌倉の古い民家で座卓を囲んで食事をする姉妹の姿は、まさに小津の様式美の世界。この番組の中では「小津から成瀬へ」なんていうことも言っていたようだったが、日本にいる数多の映画監督の中で小津の様式雰囲気、その手法を自作に取り入れ、取り入れただけではなく見事にそれを小津らしい様式美として映像に映し出している監督は是枝裕和だけかもしれない。

・監督というのは絶対君主のようなもので自分の思った通りい、自分の我のままに映画をとるというものだと思っているが、この番組のなかで是枝監督はカメラマンスタッフ意見を取り入れて、絵の構図や角度、人物配置、カメラの方向などを修正していた。修正前と修正後の映像を比較するなど、この番組には撮影技法解説などもあり、この手の番組としては実に面白い

劇場公開後の6月下旬にもう一本、同じくBS日本映画専門チャンネルで「海街Diaryメイキング」というのが放送されるらしい、これも楽しみだ。

・身近な場所である鎌倉を舞台にしたこの映画、「ああ、これはあそこだな、このシーンはあの角で撮ったな」なんいうのを見つけるのも楽しみだ。

・それにしても、湘南とか鎌倉、逗子なんかを舞台にすると映画ってなんていい感じなるんだろう。この辺は、町やそこに流れる空気そのものがなにか人を惹きつけるものをもっているんだなぁ。美味しい店も本当に多いし。(高いけど)

・生シラス丼を食べるシーンとその時のセリフはちょっとわざとらしいな〜と思ったが。

関連日記

2008-07-02 『歩いても 歩いても』是枝監督が手に入れた小津安二郎的映画感・・・久里浜葉山が舞台だった。

2006-05-15 『ラヴァーズ・キス』小粒だが、青春映画の佳作としてgood! ・・・吉田秋生の実写映画化として秀作。舞台は江ノ島から長者ヶ崎あたりまで色々。

2006-06-18 『タイヨウのうた』・・・・・・泣けた。・・・是枝、吉田秋生とは関係ないが、湘南鎌倉を舞台にした映画としてはとてもイイ作品。これは七里ヶ浜がメイン。

2015-03-20 『アメリカン スナイパー』静かに、淡々と語られるアメリカの自戒

[]『アメリカン スナイパー』

・秀作、傑作を毎年立て続けに出し続ける監督クリント・イーストウッドの新作ということで公開前からかなり話題になっていたし、数多の批評家芸能人文化人似非も含めて)が「素晴らしい作品だ」「最高傑作だ!」「これほど胸を打つ作品に出会えるとは」などとほぼ大絶賛の感想批評を繰り広げていた作品でもある。

・だが、この作品は正直、映画として余り面白くない。あと少し何かが欠けていたら“つまらない”という表現にも落ちていたかもしれないような映画である。だがこの映画はギリギリ一歩手前でいわゆる“つまらない”には落ちていない。この映画がギリギリの所で堕していない紙一重の“つまらない”は“くだらない”とか“観る価値がない”といった“つまらなさ”ではなく、ギリギリまで余計なものを削ぎ落とした、徹底的に飾りや、今の映画にありがちな常態定番化している虚栄的演出作為的演出を排除した監督の技量によって意識的つくられた“つまらなさ”なのだ

・それはあたかも、何一つ上に材料を乗せていない、塩すらほんの少ししか加えていない、本当にプレーンな素焼きにしただけのピザ生地のような映画なのだ。それはまるで“今の映画”であることを自ら否定しているかのような“映画”なのだ。

本来ならばトマトソースを塗り、チーズをまぶし、ベーコンコーンなどを上に散りばめてトッピングし焼きあげるのがピザだ。だがその全てを取り除き、生地だけを焼いたもの・・・まさにこの映画はそういう作品だ。

・本来(いや、それは本来ではないのかもしれないが)映画というものが、脚本撮影で長年かかって培ってきた観る者の気持ちを刺激し、興奮させ、楽しませ、わくわくさせ、泣かせ、悲しませるといった“演出”という作為がこの映画では稀なるほどに希薄なのだ。

・演出とはそもそも作為的なものだ。いかに観客を刺激し、鼓舞し、画面に観客  それが騙し、あざとらしさにつながったじてんで興ざめする、しかしさっこんの映画はそれが過度にいきすぎそれがあたりまえのようになってしまっている。

映画が素の状態である。

2014-12-01 『インターステラ−』2014年、今年の一作はこれになる!

LACROIX2014-12-01

[]『インターステラ−』

・2時間49分 映画映像をじわりと噛みしめるように堪能した! 素晴らしい! 久しぶりに《映画》を《観た》〚満足感〛〚充足感〛に浸れた一作。2014年ナンバーワン映画は『インターステラ−』にほぼ決まりだ。

・兎にも角にも話が面白い。難しいとも言えるが、実に巧くリズムテンポを保ちながら全く飽きる気配など感じることなく、どんどん話に引きずり込まれていく。いや、ほんとに映画の面白さ、映画ならではの映像、展開、映画そのものの素晴らしさをじっくりと味あわせてもらった、見終えた後のこれだけの充足感、満足感も久々だ。

クリストファー・ノーラン監督作品は映像は美しく素晴らしいのだが、脚本に毎回すっとんきょうとも言えるような大穴がある。致命的な欠陥というわけではないが、その一歩手前くらいのどうしょうもない話のすっ飛ばし、監督の脳内がうみだしたような超ご都合主義的な物語の運び、脚本の粗が必ずある。それがあるから「ああ、また今回もこんな超ご都合主義で登場人物に出来るはずもない不可能なことをやらせてる」「だれがどう考えたってここはおかしいだろう」というのが引っかかって、作品そのものを両手で評価するようなことが出来なかった。

・しかし、『インターステラ−』はそういった監督のご都合主義で書いたような展開はなく、科学検証もきっちりやったであろう、しっかりとした脚本、ストーリーであった。たぶん、こういう非常に難解な科学的な内容を含む話だからきっちりと科学者物理学者に話を検証させたという。それがあったからいつものとんでもない“大抜け”が無くなったんだろう。

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マッドデーモンのくだりは蛇足。あそこがなければもっと尺も切れただろう。あそこがあるせいでそれまで上品で高尚で気品のあった作品に濁りが出だ。まるで繊細で上品なお吸い物に醤油をどっぷりと掛けたようなおぞましい蛇足だ。

星野先生の作品に似ているという指摘はネット上でもかなりでているが、これは誠にもって否定しがたい。話そのものもそうであるが、宇宙船のデザイン、惑星と宇宙船のカットなど星野先生の作品のあの場面やこの場面が目に浮かぶ。星野作品は海外でも英語翻訳されてかなり出版されているが、それを基にしたというのは可能性はかなり高い、いや確実ではないか?

ラストで、一人惑星に辿り着いたアメリアアン・ハサウェイ)の姿が映る。そして新型の宇宙船に乗り込み旅立つクーパーの姿も・・・アメリアはあの後、凍眠カプセルに入り、誰かが自分を見つけてくれることを信じて眠り続けるしかない、たった一人惑星に辿り着いたアメリアにはそれしか選択肢がないのだ。自分はラストに期待した・・・荒れた惑星の大地で絶望に打ちひしがれたアメリアはきっと救われるんんだと、きっとこの後、ラストではアメリアがたどり着いた惑星にクーパーが時を超えて辿り着き、アメリアの凍眠カプセルを開けるのだと、そして眠りから覚めたアメリアとクーパーの抱擁でこの映画は終わるのだと。しかしそのラストシーンはなかった。・・・・・・そうあって欲しかった。きっと星野之宣であれば、それがラストシーンとして飾られたことだろう。しかし『インターステラ−』においては、アメリアの絶望とクーパーの旅立ちで映画が終わってしまった。この映画のラストは衝撃のラストだ、だが、本当に欲しかったのは身震いし慟哭するほどの《感動のラスト》だ。本当のハッピーエンドにしてほしかった。きっとクーパーはアメリアを救い出しただろう、そういう想像は出来る。だが、この素晴らしい映画のラストは本当に素晴らしい胸がすくような、涙と感動で体中がわなわなと震え出し、男でも女でもわっと感極まって泣き出してしまうようなラストにしてほしかった。そこが悔しいくらい残念なのだ

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事象の地平線( EVENT HORIZON )

吹き替えは秀逸。剛力彩芽は嫌いじゃないが、そんな実力も表現力も感情もだせない剛力に拙い日本語の吹き替えをさせて吹き替え版を最悪のものにしたフォックのプロメテウスみたいなお話にもならない愚挙ワーナーはとらなかったというだけで○

天体物理学者のロミリー(デビットジャージー)は「自分はここで待ってブラックホール研究をしたい」とエンデュランス号に一人残ったわけだが、アメリアとクーパーが最初の探査惑星(ブラックホールの超重力により時間軸が歪み、惑星での1時間は通常の7年分に相当すると計算されていた)から戻った時、アメリアが「何年経ったの」と尋ねると「23年だ」と答えているのだが、23年も経っているのにロミリーはちょっとヒゲを増やしただけで全然老けこんでいないというのがなんとも抜けている。

・星野之宣作品からの流用といっても過言ではあるまい。

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_☆2009-06-01 『天使と悪魔』:この映画も星野之宣作品からアイディアを取ったと思われる。


/ハンス・ジマーのサウンドは、壮大で荘厳。かってのヴァンゲリス彷彿させる素晴らしさ。

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☆インターステラ− 批評感想 by Lacroix

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2014-11-04 『標的の村』

2014-08-20 『GODZILLA ゴジラ (2014)』完璧に期待外れ、ガメラ対ギャオスか

[]『GODZILLA ゴジラ(2014)』

・これじゃムトーさんが主役じゃないの?

ゴジラが全然怖くない。おそろしさもない。凶悪でも凶暴でもない・・・おっきな猫か? ゴジラの意思が全然感じられない。

脚本は正直言って低レベル。あれこれお話を継ぎ合わせただけで、一本の物語として完成していない。もっとキツく言えば、なにがなんだかメタクソ状態の本からできた映画

・なんなんだ、このお話は・・・少し日本怪獣映画を観てる人なら、この第二弾ハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』のストーリーに ”ん?なんかあれそっくりじゃん” と思うところがあるだろう。そう、平成ガメラ第一話 1995年ガメラ 大怪獣空中決戦』にプロットの元となる設定が似すぎでしょ。ムトーさんはギャオスだし、そのムトーさんをやっつけに古代から生きていた生物が蘇ったって、平成ガメラ対ギャオスの戦いをGODZILLA 対 ムトーさんに置き換えたって、もうそのまんまじゃない。なんたる粗製ストーリーだっての。観ていてだんだん呆れてきた。

・脚本の最終稿が出来上がるまでにずいぶんと紆余曲折があったということだが、何人も脚本家を替えてスタジオ側が納得する脚本を作ろうとしても、これでは何のために何人もの脚本家を使ったのかまるで意味不明。映画不況以降、ハリウッドがダメになったその根本がここにも見え隠れしているようだ。ようするにスタジオ側は、スタジオの幹部連中が求めている映画、脚本は “金になる、動員の見込める”映画であり、そしてそれ以上に“株主から批判されぬ、自分たち責任が問われぬ” 映画なのだ

・まったく新しい、創造的な映画、今まで見たことがないような映画、映像、ストーリーは敬遠する。感性判断することを避ける、逃げる。心の声に従うことに怯える、逃げる。自分がイイと思った感覚感情を恐れる、信じようとしない。全てにおいてこの逆をする。なるべく多くの人が頷く可能性ばかり模索し失敗する可能性を少しでも下げようとする。思い切ってやってみようという気持ちがない。兎に角リスクの低いことだけをやろうとする。個性独創性などよりも、今までに受けたこと、過去に評判の良かったこと、周りがすでにやっていること、周りが直近でやっていることに倣おうとする。



大体似てること書いてる

http://newsphere.jp/entertainment/20140519-2/