『夜のピクニック』 

●冒頭の超長回しは見物。クレーン撮影を派手に行っているのはわかるが、クレーンがテント小屋をくぐって更に歩行祭を準備している生徒達を追い続けるシーンはクレーン先端にカメラマンがステディーカムを持って座り、テント小屋の手前でステディーカムごとカメラマンが地面に下りてそのままカメラを回して人物を追い続けるということをしているのであろう。なんにしてもカメラマンが目に物を見せてやろうとこれだけの超長回しをじっくり考えたのであろう。外国映画にも負けない位のテクであり努力である。まあ、それは映画の中身と繋がってクオリティーが上がればいいのであるが。

●夜の土手に寝転がる3人の少女をとらえたカメラワークもイイ。上手にアップを組み込みながら、子供の頃仲のいい友達と夜の川べりの土手に寝転がってちょっとドキドキしながら夜空を見上げていたあの感じが蘇る。露ですこし湿っているような草の感じ、そのニュアンスをフィルムに捉えているカメラマンの腕。ここでも「ん、これはカメラマンがいいな」と認識。皆が休んでいる体育館に差し込んでくる朝の光。その感じもなかなかいい。カメラマンの良さが兎に角気になる映画だ。

●若いころはこう言った特別なイベントでは何かいつもと違うことができる、背中をポンとおしてくれる力がその非日常の部分にあると思っていた。学園祭や卒業式、夏休み、そういったものかな? この映画のなかで寝転がった少女たちが「歩行祭にはなんだかそういった力があるよね」と言っているが、その通りだと思う。その何かの力、全体を覆うパワーみたいなものが「そうだよね、あのころのこういうことしてたときには、なにかそういう力があったよね」という目に見えないけどジーンとくる力を映画ではなんとかみるものに感じさせてくれている。そこはなかなかである。

●全体的に高校時代のあの頃の気持ちを実に巧く映しだしているのでとても甘酸っぱい気持ちになる、ジンときて懐かしく、ああ、そうだよね、あのころはこういう気持ちがあったよね。って懐かしく思える。その部分も非常に良い。だが・・・・

柄本佑扮するギターを持った男子高校生の役は全く意味不明。なんだこの存在は。

●歩くだけでは映画にならなかった、脚本家は歩くという行為だけの「歩行祭」では映画としての膨らみ、広がりを書ききれなかったのだろう。意味もないようなサブキャラや、余計な話、余計な演出が随所にみられる。脚本家と監督はなんとかこの「歩行祭」をベースに一本の映画をまとめたかったのだろうけど、それだけれ脚本を書いていたら余りに短い話になりすぎた、だから必要もない妙なストーリーを付け加えたりして結局¥2時間弱の長様で映画を伸ばした。だが、その殆どは蛇足、邪魔者、一体何なの?といったモノばかり。90分で潔くまとめていればいいものを、それをさせなかったのはプロデューサーや製作サイドのえげつなさか?

●ストーリーの中にアニメーションを挿入したり、プラートーンや地獄の黙示録のシーンを組み入れたり・・・・脚本もだめだが、こう言った邪魔で意味のないことをするのは監督としてもダメダメである。

アメリカに行った女友達(加藤ローサ)、そしてその弟が歩行祭にやって来て途中参加するという話も「なんだそりゃ?」状態。このストーリーは余分というかまるで意味がない。なにをボテボテと訳の分からない余計な話をくっつけてるのかなぁとちょっとムカムカしてくる。

●高校生活最後の「歩行祭」、そして高校時代のあの甘酸っぱくて胸が締めつけられるような思い出。そう言ったものは映画の中から凄くつたわってくるのだけれど、それはこの「歩行祭」というものを小説として書き上げた原作の持つ力だ。この映画はひとえにそ原作の持つ力があってこそ価値が生まれている。映画として原作をなんら昇華していない。余計な映画的トライアルをしたり、話しをベタベタ張りぼてのごとくくっつけたりしていて、映画としては未熟その物である。カメラマンの良さによって素晴らしいシーンが撮られている部分も有る。だが、全体の流れストーリーとしてはもうこれはまるで映画になっていない。

●所々で出てくるちょっといいシーンや、映像の美しさ、なかなかグッとくるセリフ。そういったものがあるから、心は少し揺さぶられるのだけれど、トータルでの映画!としてはダメな作品である。

●まあ、それでもあの頃の雰囲気を思いだしたりしたいというときには、ストーリーのダメさには目を瞑ってこの映画をみればジンとくるものが蘇ってくるかもしれない。そういう映画である。