『海街diary』

・『誰も知らない』(2004)では親に置き去りにされた子どもたちの誰からの助けも受けず生きていこうとする生への足掻きを静かに、そして壮絶に描いた。『歩いても歩いても』(2008)では老いていく父母とその息子、そして嫁の関係とその中にある毒をこれぞまさしく小津の世界というべき見事さで描き切っていた。そう、『歩いても 歩いても』を観た時に強烈に感じた事、それは「是枝監督は名匠・小津安二郎のあの映画の雰囲気を、そしてあの映画の味を遂に、そして見事に現代の日本映画に蘇らせたのだ」という感激だった。『歩いても 歩いても』は小振りな作品ながらも、その年一番の作品だとも思った。日本での興行は振るわなかったが、その後海外で高く評価され、なんとあのクライテリオンがこの映画をソフト化した。これはきっと海外の映画ファンにとっても「歩いても 歩いても」は小津をほうふつさせる古き良き日本映画の伝統を継承する作品だと感じられたのだろう。

・チクリチクリと皮肉をうまい具合にまぶした「歩いても あるいても」は老舗の逸品のごとく味のある作品で、その年は何度も何度も観返し、ロケ地を探したりして歩いたものだった。

・この監督は次はどんな驚きを与えてくれるのだろうと期待した。そして次作の「空気人形」はエグさをも躊躇せず写しだし「歩いても 歩いても」とはまるで異なる作品。まさかこう来るとは予想もせず、その内容と表現にこれまた驚かされた。

・是枝作品といえば、毎回内容や描く対象ががらりと変わり、しかし多種多様に切り替わるその作品の中に一本ゆるがぬ筋が通っている。それはいってみれば社会性といわれるもので、今の社会や制度、この日本のあり方に対する批判であると考えている。その怒りや批判、悲しみのエネルギーが多種多様な作品の中でプツプツプツと温泉の底からたゆまず湧き続けている熱い泡のように、全ての作品の底流となっている。そんな感じを持っていた。

・そして『海街diary』だ。

・是枝監督の2年ぶりの新作ということで、さて今回は一体どんな映画を楽しませてくれるんだろう!と期待が膨らむ。今回はフジテレビや小学館と組んだということで公開前の番宣やコマーシャルも多々。住友林業と組んだCMはなかなか良かったし、BSの日本映画専門チャンネルでは是枝作品の特集が組まれ、その一部として放送されたメイキング番組である《映画『海街diary』が生まれるまで》が特に良かった。(前ページ)

・メイキングでは古民家の茶の間で、飯台を囲む三姉妹の位置や構図にこだわり、そのセリフの掛け合いから姉妹一人ひとりの心の中、表には見えない気持ちや、日々の生活の背景を浮かび上がらせ観客に伝えようとする是枝監督の撮影と演出の様子をがたっぷりと映しだされていた。「これぞまさに小津安二郎の様式美に成瀬巳喜男の人間味表現を加味した是枝作品のなんともいえぬ味わい、情緒の源なんだな」と、メイキングを見ながら更に映画への期待が膨らんだ。

・最初に言ってしまうと、この作品、絵は綺麗だ、絵は美しく、絵には情緒が漂っている。だが、途中まで観ていく内にその絵と話がゆるやかな流になっていないと感じ出す。パッ、パッと瞬間、瞬間にスクリーンいっぱいに映し出される“絵”に、はっとする美しさ、情緒、味がある。だが、それが繋がっていくにつれその情緒や味わいにちりちりと裂け目が入り、バラバラに細かく破れてスクリーンの外に飛び散って消えていく、そんな感じなのだ。

・この映画は四姉妹の一年の物語ということで、鎌倉を舞台として四姉妹の成長、変化を四季の移り変わりとともに映像にしている・・・ということなのだが、季節がまるで“移り変わって”いないのだ。季節から季節への移り変わりというものはゆっくりと気がつかないうちに、徐々にだけど早く、ある日ふと「ああ、季節が変わったんだなぁ」と気が付き感じるもの、そういうものだ。しかしこの「海街diary」の中での季節の変化は唐突にエッ!とう感じで出てくるのだ。たとえば桜が咲く春だなぁと思って見ていたら、なんでか急に半袖、夏服になって花火・・・え、いつの間に夏になったの? なんか急すぎない? と思っていたら、こんどは夏と思っていたのがセーラー服にマフラー・・・あれ、いつのまに冬になってるの? とそういう感じだ。

流れていないのだ。