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2012-07-04 『始皇帝暗殺』ここら辺はまだ中国映画の良さがある。

LACROIX2012-07-04

[]『始皇帝暗殺』(1998)

監督チェン・カイコー 主演:コン・リー

中国映画らしさがありありと浮かんでいる。重く暗く汚れてどす黒くもあるが、それもいい意味で。

・映画として作品としての格、信念、心情、情熱、一本筋の通ったものがある。ただただ受けとヒットを狙ったような演出や脚本作りの今の中国映画とは別格と言えるだろう。

・中国映画がよかったのはこの辺りまでか。2000年を超える辺りから猛烈に変化し劣化が始まったのだ、

・コン・リーは「SAYURI」以来観ていないな。チェン・カイコーに見出されたコン・リー、チャン・イーモゥに見出されたチャン・ツィー・イー。どちらも可憐なる美形だが、最終的にはどっかの事業家とか大金持ちと結婚してセレブの仲間入りして女優はおさらば。そのほうが楽で優雅でお気楽悠々自適だろうが、女優業で名を上げたらあとは女優はポイって感じ、結局中国での女優というのはある程度の地位しかないし、大金持ちの懐に入って楽な暮らしっていうほうがいいのだろう。その意味で中国の役者は心底役者に打ち込んでいる訳でもないんだろうと思える。階段をのぼる一つの手段としてとらえている。

いかにも中国的な泥々感。それは映像と演技の重厚さとも言えるのだが、やはりこのどろどろと粘着怨念深く、人間の根っこにある意地汚いような雰囲気は中国映画独特だ。

・一時期の中国映画ブームがすっかり影を潜め、ここ数年は公開される中国映画もあまり話題にさえならない。ひっぱってくる配給会社も小さいところばかりだから、大した宣伝もしていないのだが、中堅会社も今の中国映画は日本にもってきてもダメと判断しているのだろう。

ハリウッド流行、日本のドラマ韓国映画典型的ラブストーリー模倣したような中国映画には中国本土での受けはあったとしても海外で人を動員するような力はない。それはいってみれば海外で全然ひっぱられない邦画と同じ。

・90年代初めまでかな?中国映画が独特の個性、色彩をもち、その特別性で海外においても文芸作として認められていたのは。今の中国映画は定型化された大衆受けの型にはめられた俗物映画であるともいえる。

・チャン・イーモゥの『HERO』って、この映画のかなりの部分を参考にしてる。というか焼き直し的でもある。

2012-07-02 『私の頭の中の消しゴム』わざとらしいが、まあ悪くないんじゃない。

LACROIX2012-07-02

[]『私の頭の中の消しゴム』(2004)

・美男美女のloveストーリー女性の方は美女というよりちょっと幼さののこ可愛い娘という感じでもある。

最初に《アルツハイマー記憶が無くなって行く女性と、それでも彼女を愛する男性のloveストーリー》を思いついて、そこから話に頭と尾ひれを付け足していったという感じがありありとする脚本で、前半部分などはもう態とらしさ全開であるが、これまた以下にも月9トレンディードラマという感じで、これなら見事に女性受けするだろうという典型的なつくり。

・あちこちの恋愛映画ドラマの女性をぽわ〜んと夢見心地にさせるような設定、お話が満載。なんだか「ゴーストニューヨークの幻」から取ってるなというシーンや「マイ・ブルーベリーナイツ」から持ってきたようなシーンだとかもアリアリ。

・まあ言うなれば、これは恋愛映画でカップル、女性受けを徹底的に狙い、いかにその層の動員を増やすかといった分析をしてそれを全編にもりこんだような脚本であり、ストーリーであり、キャスティングであり、作品である。

・「ここは天国なの?」・・・・どうせ最後はいかにもという落ちで中セル演出だろうと思ってはいたが、最後のコンビ二のシーンは想定内とはいえやはりちょっとウルウルしてしまうな。

・なんだか同じ時期に「1リットルの涙」とか難病恋愛映画があったせいか、どれがどれだ?という感じで話がこんがらがっていた。

・素敵な美男子との時めく出会い。はち切れそうな愛。そして悲劇のヒロイン。それでも愛し続ける男。態とらしく、あざとらしい映画ではあるが、いいんじゃないのこういうのも。映画を観ている間は夢の世界に漂っていられるだろう。

2011-11-10 『女帝 エンペラー』これはプロモーション・ビデオのようなもの。

LACROIX2011-11-10

[]『女帝 エンペラー』(2006)

原題: THE BANQUET/夜宴

・チャン・ツィー・イーは美しい、衣装も美しい、美術も美しい、演舞も美しい、この美術スタッフは相当以上の金と労力をかけている。それが一目で分かるのだが・・・・

カメラフレームもライティングも、光の捕まえ方も美しい、その質は高い・・・それも分かるのだが・・・・

・チャン・ツィー・イーと映画美術と演舞の美しさを観るような映画。あたかも機械的に模倣的に作られた映像、絵の美しさが目を引くが、その根本にあるべきである話の奥行き、深さがない。

・要するに人気のある、美しいチャン・ツィー・イーを使ったプロモーションビデオのようなもの。チャン・ツィー・イーの表情の変化、そこから作る感情表現の奥深さ、その練り上げられたような見事さ、そういうものを見て、セットの豪華さを見て、それだけでいいだろう。

・チャン・ツィー・イーを全面に押し出し、派手に使って、派手な映像にして、そうすれば観客は寄せられるだろうという考えだけで作られたような映画。きっとプロデューサー監督は話の内容で観客を感動させようだとか、心を震わせようだとかとは考えていなかったのではないか

・要するに映画に向かってない映画。ミュージック・ビデオプロモーション・ビデオ感覚であり事物であり、そこに映画としてのストーリーは横たわっていない。

・それにしてもチャン・ツィー・イーは最近はめっきり映画になどでなくなったし、一時期あれこれ言動を批判されたりしていたこともあったが、すっかりハリウッドセレブ的になり、大金持ちと結婚して、もう女優をする気持ちもないということか。「初恋のきた道」で物凄い逸材が出てきたと思ったが、この娘はもともと演技を極めようだとか、女優として生きて行こうだとかそういう気持ちは薄かったのだろう。それでもあまたにいる女優などより格段に上の演技力を見せつけていたのだから、これは才能と言わざるを得まい。またひょんなことから女優に復活するかもしれないが、しばらくはセレブ妻という立場で映画や演技というところからは離れて暮らすのだろう。

2011-08-04 『ドラゴンへの道』ギャグやコメディーは不要な猥雑物でしかない。

LACROIX2011-08-04

[]『ドラゴンへの道』(1972)

●出だしからしばらくのギャグ、コメディー調の作りはまったく面白くない、笑えない、ブルース・リーにコメディーはまったく似合わない。おじおじした演技のブルース・リーを可愛いだ、キュートだというのもあるかもしれないが、それはファンの気持ち。ブルース・リーの一面としては面白いが、いずれにせよイマイチであり、詰まらない。

●画面に面白み、ブルース・リーの魅力が出てくるのはやはり当然だが、アクション・シーンが始まってから。

●武闘シーンは流石の一言。息を止めて見入り、終われば大きく息を吐く。チャック・ノリスとの戦いはやはり名シーン。ただし、チャック・ノリスがそれほどというか全然悪人に見えないのが残念な点。リーと闘っていると、太めでふっくら顔のチャック・ノリスのより、ブルース・リーの方が悪人に見えてくる。闘う相手はやはりもっと極悪人面しているほうがいい。

●ローマでの撮影とうことだが画面にローマの空気が漂っていない。擦れて紅みを帯びた画質のせいでもあるのだが、ほとんど香港で撮影しているような映像。要するに映像がその場所の空気を伝えるのではなく、撮影しているカメラマン、監督スタッフの心がその場所を伝える、映像に映し出されるという典型。外国人が日本を撮ると、なぜか中国や香港と変わらぬ雰囲気になってしまうというのと同じ。ローマで撮影していても、この作品はまるで香港。スタッフの心はローマではなく、香港のままということ。(撮影:西本正=賀蘭山)

●どんでん返しは相変わらずのアジア的ドロドロ〜。こういう愚俗な裏切り、騙しは何度観ても気持ちが良くない。もうこれはアジア映画の定番、定型なのだからどうしょうもない。労働者に未来は無いか・・・結局そういう搾取された側の恨み、卑屈、復讐といったものが生活の隅々に染み込んでいるのだから、これを無しに話は作れないということなのかもしれない。


○日本公開が1975年でブルース・リー主演映画では一番最後だったから”最後のブルース・リー”という副題が付いているらしいが、もう35年も経っているのだから、当時の状況でくっつけられたこんな副題を未だに使う必要などないだろう。

2011-08-02 『ドラゴン危機一髪』映画そのものを凌駕するブルース・リーの存在感

LACROIX2011-08-02

[]『ドラゴン危機一髪』(1971)

●ブルース・リーあっての映画。ブルース・リーが出て、動いているだけで画面が面白く躍動する。

ストーリーは古臭く、もう余りにありきたりな勧善懲悪なのだけれど、ブルース・リーものは細かいこと抜きで面白いわけであり、ブルース・リーが出ているだけで映画のセオリーを全部超越して面白くなる。

●同じストーリー、同じ演出で違う役者がリメイクしてもこの面白さはでてこない。それどころかまったく詰まらない、三流、四流ダメダメ映画として誰も振り向かないだろう。

●映画は何がなくても脚本、良い脚本からダメな映画が出来ることもあるが、悪い脚本から良い映画が出来ることは無い。そして脚本が決まれば何が何でも1,2が無くてもキャスティングと言われるが、この映画は何が無くてもブルース・リー。この一人だけで映画が映画の文法やセオリーを越えて面白くなる。やはりそれだけの希有の逸材。一人が作品の世界全てを担い、一人が全てを面白くしている。

●あらためてブルース・リーの凄さに感じ入る。

中国や香港、アジア映画に特徴的な人の殺し方のエグさ、賄賂、不正の薄汚さなどはもう定型化してしまっているが、何度見てもこういった部分は気持ち良くない。そのエグさがはいっているかどうかが邦画と他のアジア映画の顕著な特徴の違い。

2011-07-04 『胡同のひまわり』中国映画で感動するのは久しぶりだ。

LACROIX2011-07-04

[]『胡同のひまわり』(2005)

●胡同(ふーとん):北京市の旧城内を中心に点在する細い路地

2000年以降の中国映画ハリウッドに追いつけとばかりに、その模倣だらけ。国家にコントロールされた作品ばかりが量産されるようになり、以前のような味わい深い作品が殆どなくなてしまった。だから、暫く中国映画は観ていないかった。

●親と子の再開と確執を軸にしているが、文化大革命収束後の中国の歴史をなぞりながら時代の変遷を表している。

・文化大革命、明治、昭和、終戦前までの二回の戦争。

・1976年 中国 唐山大地震、

・1976年 毛沢東の死

・1985年 蠟小平、笹川良一会談

●文化大革命に翻弄された父親がつぶやく「時代が悪かった」そんな言葉しばらく聞いてないな。中国の目が光った状態で作られたこの作品中である意味文化大革命を非難するこんな言葉が出てくるというのは驚きでもある。《文化大革命は中国国家の礎を作る偉大な事業だった、だがこれからの中国の発展においては文化革命は過去のものでしかない》そんな中国共産党の思惑が滲んでいるのか。

●大学生になったシャンヤンが見初めた女性がスケートをするのーンは美しい、素敵だ。氷の上の光の輝き、光線の具合、見事だ。

●絵とも言える美しい映像。凍った川、逆光を多用したシーン。構図が素晴らしく美しい、上等な絵画になっている。

●光線の使い方、光のあてかたの良い映画は作品としても良い映画であることが多い。そんな方程式がこの作品にも当てはまる。

●父親役ガンニャン(スン・ハイイン)が名演

●中国、台湾、香港、韓国などの映画に必ずと言っていいほど出てくる、えぐいシーン、えげつないシーンがない。

●あり来たりな、薄っぺらな展開になっていない。単純素朴な話なのだが、その実、極めて深いところまで手が伸びている。考えが奥深くまで浸透している。何気ない映像を連ねた中に、深淵な情と哲学、その思いを見事に練りこんでいる。


●展覧会の部分までは予想できたがその後の展開は全く予想外。静かで美しく心揺さぶる話に急展開する。

●今までの人生を振り返り、自分のために生きていかなったことに気が付き、自分のために生きてみようと決めて家族の元を離れる老いた父親。それこそが文化大革命から始まる過去の中国を捨て、本当の自分探しを始めようとしている中国の姿だろうか。父親は過去の中国、これからの中国を象徴する暗喩になっているかのようだ。

最初最後に生命の誕生を持ってくる構成の巧みさ。

●玄関に置かれた向日葵が全てを物語る。太陽に向かって咲き続ける花。それは中国という国家か? 共産党という政党か? それとも今はそれらに支配されつづけているけれどいつかは本当の自由を掴み取ろうとする人民か?

●今の中国の非民主的、非人道的な体制、組織、内情を考えれば、夢や望みを語る全ての思想、文学、音楽、映像は皆、反体制、反中国共産党と言える。(強欲な守銭奴的な夢や理想は別物)

●太陽に向かって咲く向日葵。若い世代、産まれた子供たちの希望。それはこれからの中国の希望を表しているのか、それとも現在の中国に対する反旗か。どちらと捉えることも可能だ。

●文化大革命で下放され、人生を翻弄され、子供のことばかりを考え自分を忘れて生きてきた父親が、自分のために生きようと家族の元を離れ一人出てゆく。尊敬されるべく振るまい、子の未来を思い続けてきた父親は子から否定され、確執は取り除けないほどの深い溝となる。そして子供が成長し、新しい家族を持ったとき、父親は自分は間違っていたと気が付き一人旅立つ。

●父親は毛沢東であり、子は現代中国の青年達とも取れる。偉大なる建国の父とされた毛沢東は文化大革命という大虐殺、粛正、思想教育、洗脳で若者と国家を自分の思う通りの存在に仕上げようとしたが失敗した。表面的には建国の父とされながらも、今人民の間で毛沢東の数々の所業は否定され、毛沢東思想を押し付ける国家を若者の心は否定しはじめている。

●この映画で描かれている一つの家族、父と子の物語は、そのまま中国という国の今に繋がる歴史をなぞり、失った自分自信を求めて去って行く年老いた父親はこれまでの中国であり、過去の指導者達であり、自由に生きようとする息子、新しく生まれた子供、太陽に向かって咲く向日葵ははこれからの中国。過去の間違いを見つめ正しい方向に進まなければいけない、そんなことを暗示しているかのようでもある。

●捉え方は自由だ、なんとでも解釈できる。しかしこの作品は過去を分かち、これから発展していくであろう中国を賛美しているようにも、同じく過去を分かち、否定し、これから中国は今までとは別の本当に民主的な道を進まなければならないのだと現体制を否定しているかのようにも見える。

●しかし、今の中国とその指導部は民主化の動きを抑え封じ込め押し潰す事により、これまでの体制をなんとか維持しようと躍起になっている。

●はっきりと表現せず曖昧なままにしてあるが、この映画は中国を肯定しこれから伸び続けようと現体制を賛美しているようにも、それとは逆にこれからは今までの中国ではなくもっと明るい未来へ、民主主義が根付く本当の人民の為の国家へむかっていかなければならないのだと叫んでいるようにも見える。国家のコントロールの下で撮影さら、検閲され、編集された作品に巧みに二つの顔を同居させている、ばれないように。この映画を作った監督の心はどちらにあるだろうか? きっとそれは後者であろう。

●名作と呼ばれべき一本だと感じる作品だ。

2011-07-01 『天空の草原のナンサ』これぞ本当の癒しと言える一作。

LACROIX2011-07-17

[]『天空の草原のナンサ』(2005)

原題: DIE HOHLE DES GELBEN HUNDES/THE CAVE OF THE YELLOW DOG

●モンゴルのどこまでも広がる草原が清々しい美しさだ。

●その美しさの中で燃料につかう放牧ヤギや牛の糞集める子供だが、糞を集めているといっても不潔な感じはしない。モンゴルの澄んだ空気が黴菌など全部消してしまっているように感じるからだ。

●一つの家族、特に3人の小さな子供たちの姿を追いかけて撮影した、映画といよりドキュメンタリーに近いつくり。子供たちに演技指導などもほんの少ししかしていないだろう。ある程度の話の流れを教えたら、あとは子供たちのそのままの姿を撮影する。子供同士で遊んだり戯れたりしているシーンは何も演出していない素のままの姿。

●中盤で道に迷ってしまうところと、最後ちょっとどきどきする展開があるが、それ以外は特になんでもないモンゴルで遊牧生活をする家族の姿を淡々と撮っている。だが、それが実に味わいがあっていい。モンゴルの自然とモンゴルの家族の生活、それだけでもう充分魅力あるドラマになっているわけだ。

●この映画の主人公は小さな3兄弟と洞窟から連れてきた犬。こんな無垢で可愛い子供や犬を映していればそれだけでほのぼのとした、優しい気持ちになってしまうというものだ。子供や子犬といった本来可愛いものを登場させる映画はそれをダシに使って観客の気持ちを引きつけようという魂胆が見え透いているものが多い(とよく書いている)が、この作品にもそういう下心がないとはいえないだろうが、純朴な3兄弟とその両親の姿を見ていると「この映画はこのままでありだな、余計な詮索は持ち込まなくても素直にこの素直なモンゴルの家族の姿を観ていればいいのだな」と思った。

●原題は「黄色い犬の洞穴」とでも訳せるが、作品の内容との符号性が低い。何かモンゴルの諺か伝説なのかなとも思うが、邦題の方が作品内容をよく現している。

『むかしむかし、お金持ちの家族が住んでいました。ある日、その家のとても美しい娘が重い病気になってしまいました。どんな薬を飲んでも治りません。そこで父親は賢者に相談に行きました。すると賢者は、「黄色い犬を飼っているだろう? その犬を追い払わなくてはならない」と言うのです。でも父親は、家族や家畜を守ってくれている犬を殺すことなんてできません。そこで、犬をほら穴に入れて出られなくしました。父親は毎日エサを持っていきましたが、ある日、犬はいなくなってしまいました。すると、娘は本当に治ったのです。でも娘が元気になったのには、ほかに理由がありました。娘はある若者に恋をしていたのです。黄色い犬がいなくなり、2人は何者にも邪魔されずに会えるようになったのでした......』

チュルゴ火山ふもとの自然公園の中心部には「黄色い犬の洞窟」と呼ばれている場所が実際に存在するらしい。

アジア映画に分類するが、製作国はドイツ。監督のビヤンバスレン・ダバーはモンゴル出身。ドイツ資本で製作されたモンゴル映画というべきか。

2011-06-29 『チベットの女/イシの生涯 』これは中国が作った中国色したチベット

LACROIX2011-06-29

[]『チベットの女/イシの生涯 』(2000)

原題: SONG OF TIBET

日本公開2003年1月15日

●イシとギャツオが夫婦になるまでの話は『グリーンデスティニー』に非常によく似ている。身分の設定などの違いはあるが、これはチベット版『グリーンデスティニー』かと思ったほどだ。製作年度ではこの作品の方が一年早い。監督はシェ・フェイ。

●無頼漢の騎馬民族が中国の女を奪い、草原に連れ出し、抵抗をうけながらもだんだんに情を交わし、体を重ねて愛し合うようになる。これは中国映画の一つのパターンか?

●チベットの風景、ラサの街並み、寺院、僧侶の姿などに厳粛さ、荘厳さ、崇高さといった今までチベットに感じていたものが、チベットのそこかしこに鎮座する神仏が放つ神々しさが感じられない。激しくも静かに響くチベットの胎動、鼓動が映像の中では停止している。チベットを映している映画なのにチベットに思えないのだ。

●外国人の監督が東京を、日本を撮影すると、なにかいつも日常的に自分たちが感じる日本ではなく、アジア、香港、中国の街が映し出されているように感じることが多い。同じことがこの映画にも当てはまる。中国人の監督が撮影したチベットは中国の田舎、中国の街的であり、これまで感じていたチベットの空気感と違っている。この映画に映し出されているチベットは強圧支配を続けている中国人の目から見た中国色をしたチベットであり、本当のチベットの姿とは違っている。これは、チベットの文化、人、生活、そこに流れる脈動が無い、中国というフィルターで濾し取られた表面だけのチベットなのだ。

●映像からうけるこの印象が映画をどんよりと支配している。この映画は中国の領土拡大、侵略の政治的意図をものの見事に反映し、中国の強制支配者側の考えでコントロールされ、作られた映画ではないか、映画に漂う空気がそれを物の見事に現している。

●話の内容的にはそういった部分は見えないようになっているが、この映画をチベットの国民が観たらどう思うのか「これは本当にチベットの姿ではない」そう呟くのではないか。寝床の上にこれ見よがしに飾られた毛沢東の肖像画。こんな小さなシーンにさえ肩を震わせる人たちがたくさん居るのではないか。

●政治的な話ではなく、映画その物としてもこの作品のストーリーには疑問符が多い。

●初恋の僧侶、荘園の旦那、自分を略奪した行商人の頭と、その都度、その都度、あっちを愛してこっちを愛してと描かれているが、これではイシはただご都合主義で生きるためあちこちの男にしがみついている愚かで悲しい女だ。結局イシは誰を愛したのか、誰に愛を貫いたのか。これでは誰も愛していないというお話になっているではないか。結局イシには真の愛などどこにもなく、生きるために男を取っ換え引っ換えして、自分を生かすために男にしがみついて人生を送ってきた貧しく悲しい女にしかなっていない。

●ラストで「イシは幸せな生涯だった、人を心から愛し、愛された、愛は永遠のもの」なんて締め括りをしているが、なんなのだろう、この超ご都合主義的な語りは。ちょっとそれはないだろうという感じだ。そんな愛などこの映画のどこにもない。この映画は愛したり、愛されたりする男と女などどこにも描いていない、ただくっついたか離れたかというだけだ。

●なんとか一人の女性を巡る大河的な話を作り上げようと、話を無用に捏ねくり回した脚本が捏ねくっただけで一本の話の筋としてのまとまりも筋も客観性も失い、独善的で理の通らぬ愚かしい話になってしまっているのだ。

●反中国的な感情、政治思想がなくても、これは酷い映画だ。

●ラストに近付くにつれて映像が美しいものも出てくる。ポタラ宮と朝日に染まる山並が、この映画の中出てきた唯一チベットらしき風景であった。

●中国のシェ・フェイ監督は北京電影学院で副学長を務め、チャン・イーモウ等、第五世代の監督たちの教官でもあったということだし、ベルリン国際映画祭グランプリ、モントリオール国際映画祭監督賞を受賞などで中国映画界の巨匠という地位にあるということだが、この映画は強圧支配を強めていた中国が支配者側の立場と目で撮った、チベットを中国化した映画と言えるだろう。おそらく共産党指導部の徹底したコントロールと、彼らに気に入られるようにして作られた一種の政治誘導映画であろう。いやひょっとしたら中国人監督がこういったチベットを題材にした映画を撮ることで反中国のチベット人民意識をなだめようと言う意図があったのかもしれない。

●しかしそれはきっと逆効果にしかならなかっただろう。この映画を観たチベット人は目を細目、劇場の暗がりのなかでこの映画をしたたかに冷笑していたのではないだろうか。

●この映画撮影当時から激化していたチベット独立、中国支配に反対する運動は激化し、遂に「2008チベット動乱」が起き、市民や僧侶までが虐殺された・・・・。

http://www.tibet.to/

http://www.bitters.co.jp/tibet/

http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=3522

2011-05-12 『山の郵便配達』末長く語られるべき不朽の名作。

LACROIX2011-05-12

[]『山の郵便配達』(1999)

●父と子、純朴な生き方。その生き方を子に伝える旅。

●美しい山間地の映像。技術的なハイビジョンとか走査線の数とかいったもので表現される美しさを越えた、自然の風景そのものが持っている本当の美しさ。映る映像が高精細な映像ではなくても、映っている風景、自然に本当の美しさがあれば、観る物の心はその美しさを感じることが出来る。音楽もいい。

●川面をとびかう無数のトンボの映像が非常に美しい。簡単に撮れるような映像ではない。

●父を背負い川を渡るシーンに感涙。父と子、成長し父を越えてゆく息子、それを喜びながらも複雑な思いを持つ父、いつの世、どんな時代、どんな国でもこの思いは共通したもの。人生の喜び、哀しみ、侘びしさ。人は皆同じ道を辿るのだろう。

●公開から10年経って、あまり話題にのぼることもなくなった気もしているが、これは中国映画の中でも、いやもっと大きく映画全体の中でも末長く語られ多くの人に観てもらいたい不朽の名作。

●約10年前、日本ではちょっとした中国映画のブームだった。『初恋の来た道』と同じ年の公開でこの映画も銀座のテアトル西友かシャンテシネあたりでやっていたのを最終回に駆け込んで観た記憶がある。

あの頃の中国映画ブームはやはり癒しとか美しさを求めたものだった。今こういった中国映画は殆ど見ない。

最近はこういった文芸的中国映画が日本で公開されるというのは少ない。今の中国はこんな純朴で美しい作品を作っているのだろうか?ハリウッド的な映画にばかり傾倒してしまい文芸的作品が影をひそめてしまっている気がする。

●10年前はまだ日本も調子が良く、先進国として上の立場で中国を見ていた。都会のビルで勤めるOLやサラリーマンは「こんな純朴な美しい風景がいいね」「中国のこんな素朴さがいいね」などと言って無機質な日々に心の潤いを求めていたいた。10年経ってそんな状況はがらりとかわり、中国沿岸部は大都会になり、アメリカに行けばマンハッタンやニューヨークは中国、台湾、香港などの金持ちで溢れ日本人は目立たない。時代の流れ、変化に日本が取り残されたかのようでもある。

監督:霍建起(フォ・ジェンチー)

2010-11-16 『初恋のきた道』中国映画の良心がこの辺りまではあった。

LACROIX2010-11-16

[]『初恋のきた道』(2000)

●木々の葉が黄色く紅葉し、枯れた秋草が広がる田舎の風景、チャン・ツィー・イーの輝く強い美しい瞳。美しい赤、マジックアワーを思わせる煌く太陽の日差し。牧歌的音楽。映像の何もかも隅々までが美しい。

ストーリーにいやらしさやあざとらしさなどの外連味が全くない。純粋、純白、正統、正道、映画はこれでいいのだ、こうあるべきなのだ、これこそが本来の姿なのだと美しい映像を観ながら思ってしまう。

●10年経って見返しても、美しさも感動もなんら色褪せることはなかった。あの頃は、はるか遠くまで広がる美しい大地の映像は大きなスクリーンで観なければと思って映画館に足を運んだものだ。

アジア映画のお決まりシーンとなってしまっているが、料理をするシーンはやはりいい。だがそれ以上に瀬戸物を修理するシーンが非常にいい。そして脚本、ストーリーも素晴らしい。

●この映画の良さは何か? それは一にも二にも純粋、純朴さだろう。好きという純粋な気持ち、好きな人をずっと想い続ける姿。小手先の演出、あざとい演出、誤魔化しなどが殆ど無く実直に一人の若い女の子が男性を好きになるというストーリーが綴られていく。それが何にもまして良いのだ。

●きっとこの映画の映像の美しさ、ストーリーの純粋さは”癒し系”に当たるのだろう。そして2000年頃までの中国映画の田舎の風景や山の暮らし、貧乏でも質実に生きていく人々の姿などは”癒し系”だったのではないだろうか? だからあの頃中国映画が持てはやされ、ブームにもなっていたのではないだろうか? 

●10年ちょっと前、2000年前後に中国映画のブームというのがあった。あちこちの宣伝が煽っていた部分もあるが、純朴、純粋で非常に質実、良質の映画がミニシアター系中心に日本で次々公開されていた。人気もあった。この映画はそんな中国映画ブームの中でも特に人気があった作品だった。 有楽町の仕事帰りのOL向けにもぴったりだったし、チャン・ツィー・イーの可愛らしさ、美しさに男もだいぶ観に行っていた。

●あれから10年、最近の中国映画の話題は余り聞かない。中国映画ブームは今となっては見る影も無い。それは何故か? それは中国映画がガラリと豹変してしまったからだ。2000年頃までの中国映画にあった、たとえそれが小振りな作品であっても中国の奥深さ、人間の慎ましさ、良心、温かい心、儒教的な人間讃歌というべきものを描いていた中国映画がすっかりと消えて無くなってしまったのだ。中国映画の主流はあたかもハリウッド的スタイルを目指し、模倣し、ハリウッド映画的な嗜好に合わせたような作品ばかりになってしまった。それはあたかも中国の経済成長と共に、中国映画が持っていた美しさ、良さが失われていったかのようでもある。

●中国映画がハリウッド的に堕落した。金儲けビジネスが主体の商業映画に堕落し、塗り変わった。今の状況は極端な言い方をすればそういうことになる。

●中国映画の堕落と変貌はチャン・イーモウという監督の作品の経歴にも符号する。まだ中国映画に馴染みのなかった頃に衝撃を受けた『紅いコーリャン』から始まり、2000年頃までは中国的良心、人間の素晴らしさを描いた良作を撮影していた。しかし監督としての知名度が上がったこともあるだろうが2000年以降は『HERO』『LOVERS』とそれまでとは全く異なるブロックバスター的な映画を撮影し、その後は北京オリンピックの映像では世界中の非難を浴び『初恋のきた道』などで見られた素晴らしい人間描写は消えてしまった。チャン・イーモウの作品の変化、監督として歴史は、そのまま中国映画の変化、俗化、堕落の歴史を映している。

●金儲け至上主義的、守銭奴的になり、おかしな方向に走っている今の中国で、10年前に感じた中国映画の大陸的奥深さ、人間の慎ましい営みへの讃歌が、日本人が心を打たれ、感動した中国映画、その人間描写は再び戻ってくるだろうか? その期待は薄い、少なくとも今の様子では。

●2000年辺りを境として中国映画は変わった。『初恋のきた道』は中国人の良心、心の美しさ、人への愛の眼差しがまだ残っていた最後の時期の作品と言えるかもしれない。古い中国映画はものすごく良かった。だが今の中国映画は観る気も起きない。それが今の気持ちでもある。

◎原題『我的父親母親』を『初恋のきた道』という邦題にしたことは素晴らしい。原題以上に作品の良さを表している。

◎タイタニックの中国版のポスターが家の壁に貼ってあることには驚いた。思ったよりもこの村は町から近いのではないだろうか? と言っても一時間、二時間は掛かる距離かと思うが。

◎チャン・ツィー・イーのがヒョコヒョコと人形のように首を回しながら走る姿は、少し抵抗がある。知恵遅れの子供の動きといったら酷いが、この演出はそういうところから引っ張ってきたのではないだろうか? 可憐な少女であったチャン・ツィー・イーも今となっては、セレブの仲間入りをしたとは言えもうこの頃の素晴らしさの面影はまるでない。

チャン・イーモウ監督作品:『紅いコーリャン』(『紅高梁』1987)、『あの子を探して』(『一個都不能少』1997)、『初恋のきた道』(『我的父親母親』1999)、『至福のとき』『幸福時光』2000)、以降の『単騎千里を走る』『HERO』『LOVERS』は作品の質が低いというわけではないが、それまでの作品とはまるで方向性が変わってしまった。

http://www.sonypictures.jp/archive/movie/roadhome/

2010-11-14 『言えない秘密』良作だが一回観ただけで分からぬ作りは映画に非ず

LACROIX2010-11-14

[]『言えない秘密』(2007)

●いわゆる韓流、台湾、中国アジア恋愛映画特有のベタベタ、ドロドロ、クドクドさは、まるで古い日本トレンディードラマを今更に観せられているかのようであり辟易としてしまう。この作品の前半はまさにそんなパターン化したアジア映画そのものなのだが、後半で全く予想外の展開となり驚く。

●タイムトラベル物は数々あれど、ピアノで奏でる旋律に乗って時間を行き来するという発想は非常に斬新であり、今まで思いもよらなかったアイディアの素晴らしさ。

●グイ・ルンメイ演じるヒロイン小雨の、キャラクター設定が実に巧い。か細くて、病気で体も弱く、暗さや影が潜んでいるような表情。少し内向的、だけど好きになった人には積極的な部分も見せるという女学生の演出が見事。ステレオタイプなイメージかもしれないが、音楽学校の女学生というと派手で明るいというのではなく、静かで少し暗くて、内向的で芸術志向で、と確かに小雨のような女性が頭に浮かぶ。

●予備知識もなくまっさらで一回観ただけでは、大筋のストーリーは把握出来てある程度の驚きはすれど、頭の中に沢山の疑問符が浮かぶ作品でもある。

●良く練られた脚本ちょっとしたシーン、セリフ、仕掛け、伏線がタイムトラベルの仕組みに整合するようにしっかり考え、配置されている。だが一回観た段階でそれと気付くことは少ない。というか出来まい。映画を観る側はストーリーを追いかけ理解し感じていくわけで、最初から何気ないシーンまで意識して観ているわけではない。

●脚本を練り映画を撮った側は全体を俯瞰しながら作品を作っていくので、細かな仕掛け、伏線をあちこちに配置してほくそ笑む事も出来るだろうが、何もしらず最初から観ていく観客にとっては作る側の頭の中にある前提条件を知らないのだからストーリーを100%理解することは出来ない。一回観ただけではこの映画のストーリーは60%位しか分からないだろう。残りの40%は疑問符として頭の中に残り、もう一度か二度観た段階でようやくはっきりとシーンとシーンの繋がり、シーンの意味、セリフの意味、あれこれの伏線、その回収、演出の意図が分かってくる。

●この作品のプロット、ストーリーの構造が分かると「なるほど、良く考えられている、良く練り上げられている」と驚くし、改めて全体を観直すと爽やかであり、切なくもあり良いストーリーだ。だが、それは一回観て、?マークが頭の中に沢山出てきて、ネットで情報を調べ、この映画の前提条件とされている約束事を知り、二回目の鑑賞をして色々な仕掛けが分かってきてようやく湧き上がった感想だ。

●楽譜に書かれた「最初に出会った人が・・・・・・」という言葉だけで《小雨がタイムトラベルをして最初に見た人だけが小雨を認識することが出来る》という約束事を理解するのは余程想像力が豊かでなければ不可能だろう。自分もネットでこの作品を説明しているページを読むことで初めて分かった部分だ。たぶん監督がそのお約束事をどこかで「実はこうなんですよ」と説明していたのだろうと思うが、ストーリーの根幹となるこんな大事な前提条件が作品そのものでは全く語られておらず、観ている側には混迷のはてなマークばかりが湧いてくる。

●映画の文法という以前に、物事を表現し誰かに伝えるという文法、構造そのものが間違っている。他所の説明を聞かなければ作品を理解できないというのならば、その作品は自立していないということだ、作品そのものが自分だけで立脚していない。そういう作品は存在そのものが映画としての間違いなのだと言いたくもなる。

●小説ならば何度も前に戻ってセリフやストーリーを確認しながら読み進むということもできる。だが映画は時間とともに流れる映像で人を感動させるものだ。途中で立ち止まり、少し前にもどって確認し、また進むという鑑賞の仕方をするものではない。それは劇場では全く不可能だし、それが可能なDVDなどのメディアであったとしても最初からそんな鑑賞方法を取るなどありえない、というか以ての外だ。

●だから、この作品は如何に良いストーリーであったとしても”映画”としては、その在り方、立ち位置、存在そのものが違うのだ、間違っていると言ってもいい。

●だが、最近はこう言った作品も多く作られている。伏線、回収、伏線、回収に終始し、小細工を作品のあちこちに仕組んで、まるで何度も観て宝探し、秘密探しをさせようという考えの映画がやたらと目に付く。そんなものは映画の本筋ではないし正道でも王道でも覇道でもない、邪道でしかないのだ。そういうタイプの映画は正真正銘のストーリーで語り掛け、本当の話のおもしろさ、驚きで感動を観客に与えるものではない。

●秘密探しをするような映画、映画そのものに含まれない説明や前提条件を他所から持ってこなければ理解が出来ないような作品を映画として扱いたくない。それは映画という入れ物を使ったTVゲームに類する映像ようなものだ。だが、最近そういた作品を映画のストーリーそのものよりも秘密探しを楽しみ、秘密の配置が巧妙で機智が含まれていれば面白い、いい映画だというような傾向すらある。TVゲームで育った監督や観客にはTVゲーム的映画のほうが親和性があるということなのだろうか? だたそんな映画は映画本来の文法から外れたものであり、しかも映画本来の文法を外したことによって革新が生じているものでもない。それは異形なのだ。

●良いストーリーであるし、切なさ爽やかさ、胸を締め付けるような恋愛の苦しさも非常に良く出ている作品だ、だが一度観ただけでは分かり得ないような作りをしていることが映画として非常に不満。映画というものは一度観て伏線も仕掛けも全てが最後にはきちんとわかって感動感激するものであるべきだと。もう一度見直したり、作品の外で説明される事柄を知らなければ理解出来ない様な映画ならそれは映画に非ずだ。

●美しい恋愛映画としてストーリーは良いし、アイディアも良い。これをもっと素直に純粋に映画として撮り上げたならば恋愛映画の傑作になりえたかもしれないのに、こましゃくれた引っ掛けや伏線を仕込むことに熱を上げて、素晴らしいアイディアの宝石のような輝きを、歪め、濁らせ、汚してしまっているのだ。

●韓国や中華系アジア映画]でいつも気になるところなのだが、作品の中に必ずと言っていいほどえげつない、ドロドロとしたシーンや状況が出てくる。美しいストーリーならばそのイメージを汚さないようそんなシーンは入れなければいいのに、と思うのに、なぜか必ず妙な場面が入っている。社会的弱者を徹底的に虐めるシーンだとか、身体的な部分や精神的な部分の異常さを取り上げ突付くようなシーンだ。この映画の中にもやはりそういう部分は見て取れる。

●自分も一回目に見たときは良く分からない部分、矛盾している部分、説明がなされていない部分があまりに目につき、なんだこれは? と非常に戸惑った。ネットでこの映画のことを少ししらべてから再見してようやく大体のストーリーが飲み込めてきたというものだった。(参考になったサイト ⇒ココ )

●台湾では岩井俊二の「ラブレター」が非常に人気が高いと聞くが、この映画のテイストは「ラブレター」に近いものがある。だが素晴らしいアイディアから生まれた素晴らしいストーリーを捏ねくり回し、切った貼った引っくり返したを繰り返した挙句、ダメな方向に引きずり落としてしまった作品と言えるだろう。 ダメになってもこれだけの輝きを持っているのだからきちんとつくっていたらきっと「ラブレター」を超えるような傑作になっていたかもしれないと思うのだ。

「言えない秘密HP」http://ienai-himitsu.com/index.html

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2010-10-08 『キャプテン・アブ・ライード』こんな暗い展開の作品とは・・・

LACROIX2010-10-08

[]『キャプテン・アブ・ライード』(2007)

●小さい子供は電車や飛行機といった乗り物が好きだ。子供に「将来は何になりたい?」とお決まりの質問をすると、野球選手やサッカー選手になりたいっていう子供と同じ位に電車の車掌さんや飛行機乗りになりたいっていう子が多かったのではないだろうか? 大きな乗り物を操つる人は偉い人、凄い人、子供の無垢な心は素直にそう感じるのかもしれない、そういう存在に憧れを抱くのかもしれない。

●空港の清掃係りをしているアブ・ライードが偶然ゴミ箱に捨てられていた機長帽を拾う。(機長が帽子をゴミ箱に捨てるというのは状況設定として無理があるが)その帽子を被って帰宅した姿を見た子供が、憧れのパイロットから色々な国の話を聞きたくて仲間を連れて家に押し掛ける。最初は拒否していたアブ・ライードだが子供たちの広場に自ら出向き話を始める。なかなかいい感じだ。いかにも中東、砂漠の中の街アンマンの夕焼けもエキゾチックで美しい。乾いた空気の中に穏やかな静けさが漂っている。これはとてもファンタジックな夢物語が展開するのかと期待感が高まる。が・・・

●そういったファンタジックな映画ではなかった。少年たちは貧困街に住み、学校にも通わせてもらえず、菓子を路上で売って金を稼いでこいと言われている。アブ・ライードの隣の家では家庭内暴力で夫が妻を毎晩怒鳴っている。子供たちは脅えて子供部屋に隠れている。

●最初に見たアンマンの美しい街並み、夕焼けの美しさの下では貧困国、いや先進国でも起きているものと全く同じ社会の歪みが横たわっている。そしてその行き着く先は・・・。

●あまりに予想外の展開に驚いた。まさかこんな結末を迎えるとは。ご都合主義的な話、設定、演出もかなり目に付くが、こじんまりとストーリーは上手くまとまっている。ただ、こういう話はやはり好きではない。

●ヨルダンが数十年ぶりに海外で公開した映画ということだが、ストーリー展開はどこかの映画から持ってきたような類似感が強い。それでも上手にまとまった一作を輩出した努力は讚えたい。(なんらかの資金力がバックになければ無理だろうが)が、アブ・ライードが機長の帽子を拾い子供たちに機長として慕われるというアイディアは光るものの、その後の展開はあれこれの映画のコピー、寄せ集めといった感じだ。その上でこの暗い結末。

●機長の帽子を拾うという光るアイディアを、もっと明るく、希望のある話に繋げて欲しかった。

☆NHKアジア・フィルム・フェスティバル参加作

監督脚本】アミン・マタルカ/ヨルダン/103分

【キャスト】ナディム・サワルハ、ラナ・スルターン、フセイン・アッソース、ガンディー・サーベル

2010-05-25 『鬼が来た!』人間の愚かさ、悲しさ、哀れさこそがこの作品のテーマ

LACROIX2010-05-25

[]『鬼が来た!』(2000)

英題/原題:DEVILS ON THE DOORSTEP/鬼子來了

2000年のカンヌ国際映画祭 審査員特別グランプリ受賞

●よくありがちな日本軍の蛮行を描いた作品かと思っていたのだが、まるで違った。蛮行は描かれているがそこに監督の視点があるわけではない。

●監督の視点は人間の弱さ、悲しさ、であろうか? そして人間の愚かさということであろうか?

●戦時下における日本軍の中国占領、その占領下の中国人、そして日本軍を中国人の監督が描けば、どうあっても日本軍を非難し、中国人が日本軍によって受けた蛮行を告発するような作品になる・・・と思うし、占領された側の国民からすれば意図せざるとも反日的な感情がストーリーに、演出に、フィルムに滲んでいくことだろう。だが、この作品にそういった感情は滲んではいなかった。作品から滲みだしていたのは中国人でも、日本人でも、軍人でも、一般市民でもなく、占領した側、占領された側でもなく、殺した側、殺された側でもなく、どちらの側でもなく、個としての人間が見た、人間の愚かしさへの悲しみ、嘆き、虚しさであった。

●この監督の視点は、なんだか高い空の上から人間の愚かさを肩をおとして見つめている仏陀のようだ。「お前たちははなぜにそんな愚かなことをしているのだ」と悲しい目をして空の上から見つめている仏様。中国の側でも日本の側でもなく、もっと大きな”人間”という範疇で監督は作品を描いている。戦争と日本軍の蛮行は監督が人間の愚かさと悲しさを描こうとしたその背景であって主題ではない。中国人の監督が日本軍占領下の中国を描きながらも、監督の目はもっと広く、もっと大きく、人間の愚かさと悲しさに向けられている。

●監督の視点から見れば、日本軍の蛮行も、中国人が自ら助けた日本軍兵士に殺されるというエピソードも、人間の愚かさを表現する絵具の一つであり、それがテーマではない。

●この監督がこの映画で表現し、伝えようとしたことは、諸行無常、人間の悲しさ、愚かさ、儚さに深くため息をつき嘆く仏様、その教え・・・ではないかと思ってしまう。

●描かれているモノからすれば、この映画は反日映画であり、戦時下の日本軍の蛮行を告発する映画という範疇に入れられてもおかしくはない。だが、この映画にそれこそ『靖国』のような反日映画だ、上映反対だという動きは少なくとも自分の知る限りでは起きなかった。それはなぜか? カンヌ国際映画祭 審査員特別グランプリ受賞という箔がついたからか? そうではあるまい。この映画を観た人が、この映画に“反日”的な意図、作為を感じなかったからではなかろうか? 監督の思想は映画に乗り移る、スクリーンから観る者に語らずとも伝わる。この映画は反日的なシーンは多々あれど、それが反日を意図したものではなく、この監督は中国側でも日本側でもなく、どちらかに偏向した立場ではなく、フラットに人間の悲しみを描こうとしているということが観客にも伝わったから、妙な反対運動などがおこらなかったのだろう。それは『靖国』に対する動きとは驚くべき違いだ。

●観る側は作る側が思っている以上に鋭い。そして正直だ。監督の浅はかな小手先のごまかしなど観客は直ぐに見抜いてしまう。監督や作品の浅はかさやいい加減さ、都合のよさ、誤魔化しも観客は直ぐに見抜く。『靖国』は意図も簡単にそれを見抜かれた。『鬼が来た』は見抜くまでもなく、作品にそういった不純物が混じっていなことが観客にもわかったのだ。だからこの作品は静かに受け入れられたのだ。

●中国では最初の検閲らしきものをスルーしたということで、未だに上映禁止、ソフトなどの発売も禁止らしい。それはたぶん当局にとってはもっと反日色の強い作品であるべきだと考えるのに、この映画に反日色が薄く、占領された中国人の側も含めて人間の愚かさを描いているから、却って腹立たしいのではないか? だから中国の当局者にとって、この映画は気に食わない映画なのではないか、と思う。作品の質とは別のところで「日本軍の蛮行を描くならもっと徹底的にやるべきだ、それなのになんだこの映画は、日本を非難するどころか傍観しているではないか!」という思惑があって、この映画は中国で上映禁止にされているのではないか?

●想像以上に作品の質は高く、そして根本に流れる思想には仏教哲学的なものを感じる。人の哀れとでもいうべきだろう。

●全体を面白おかしくジョークで脚色している点は、シュールレアリズムにおける諧謔に通じる。

●白黒映像の美しさ。逆光の多用と浮かび上がる埃に粒とその反射。少々コントラストが強すぎる気もするが、久しぶりにモノクロ映画の美しさを感じた。黒澤明作品を彷彿させる。

●香川は最初高圧的な日本軍人、傲慢で尊大な日本軍人をを見事に演じている。が、後半になるといつもの情けないオヤジにかわってしまっている。ちょっとこのギャップが違和感あり。香川の存在自体が諧謔なのだけれど。

●旧帝国軍人というのはまさにこういう感じだったのだろ。その描き方は日本人から見ていても違和感はなく、たぶんこんな感じで、こんなことを堂々としていたのだろうなと妙に納得してしまうものだ。よくぞここまでしっかりと日本軍人の姿を悪態を描いたものだと感心してしまう。

日中どちらにも偏らず、作品として自ずから立脚している

●監督の視線の先にあるの「悪い人間はいない、みな悲しい人間なのだ」ということかもしれない。

●自分を助けた者を自分で殺さなければならないこと。その矛盾、苦悩。このような話はキリスト教でも哲学でも昔話などでもよく出てくる。やはりこの作品は根本に宗教性、哲学性がしっかりと横たわっている。

●『アラビアのロレンス』でロレンスが砂漠の中から救い出した少年を、自分が射殺することになったシーンが思い出された。

●監督・脚本: 姜文(チアン・ウェン)・・・中国人側の主役も兼ねて出演している。ヒゲを生やしているところもあるせいかもしれないが、なんだかこのダメオヤジ具合・・・中村義洋監督に雰囲気がめちゃくちゃ被る。『松ケ根乱射事件』に出演していた中村義洋監督のダメオヤジの雰囲気とあまりに似ている。

●想像以上にクオリティーの高い、深い思想性、哲学性を持った作品であると思う。もう一度しっかり観直す必要がありそうだ。

●日本軍人は中国で日本鬼子(リーベングイズ)と呼ばれていた。日本軍が行った蛮行を描いた『リーベンクイズ/日本鬼子』(日中15年戦争・元皇軍兵士の告白)・・・これも観てみたいと思っているのだが・・・・・・。

2010-05-16 『靖国 YASUKUNI』終戦記念日の靖国神社がこんなだったとは

LACROIX2010-05-16

[]『靖国 YASUKUNI』

●あれこれと反日だ、事実誤認だ、いや偽造だ捏造だ、情報操作だと話題になり、公開延期、表現の自由などとキナ臭さまで漂っていた作品だったし、その後に後付け、誤魔化し、捏造、詭弁のような発言が製作者からも、宣伝側からも、そして国会議員や新聞などからもわさわさと湧き出してきていたようなので、敢えてそういう話は極力無視し、頭の中から排除して映画、作品そのものとして、なるべく余計な外部からのあれこれを加味しないで冷静に観たらどうなるか? そんなふうに考えてこの作品を鑑賞してみた。あれこれこの作品に関する情報は既に頭の中に入ってきているのでそれを100%排除して鑑賞することは土台不可能であろうが、極力素の状態で、ありのままにこの作品をじっと観てみようと思った・・・。

最初に靖国刀を鍛えているという刀鍛冶の人から話がスタートするのは興味深い。靖国神社の御神体が刀だという話も初耳であった。(映画の中で語られたこの件に関しては諸説喧々がくがく言われているようなで、その話が本当か嘘かというのは脇に置いておく)

●千鳥ケ淵で花見もしてるし、靖国通りも一時期毎日のように通っていたし、靖国神社の前も数えきれないくらい通っているのだけれど、靖国神社に足を踏み入れたことは無い。いつもあの辺は警察官がうろちょろしてるからそれを横目に見て通り過ぎるだけだった。ましてや夏休み、お盆のころにあの辺をうろつくことなんてなかったので、8月15日の終戦記念日に靖国神社でこんなことが行われているとは今まで全く知らなかった。殆どニュースにも取り上げられないようだし。(靖国絡みのことは天皇家と同じでTV局としても積極的には触りたがらないのだろう。) 集まる多くの人は戦没者を悼む気持ちで靖国神社に来ているのだろうが、そうではない人も来ているようであるし、見るからに右翼という人物や、どでかい日章旗や旭日旗(って言うんだね)を高々と掲げて靖国神社に入ってくる人、旧日本軍のいかにも野戦服という格好で参拝する集団、真っ白い海軍の制服で参拝する集団、自衛隊の制服そっくりの格好で合わせ参拝というのをする集団。(これは右翼団体か?) などなど、はたまた参道に設けられた売店のテーブルでビールと焼き鳥を摘みながら戦争談をする人、ベンチに座って戦時中をふりかえるおばさん。これは観光モード的? はたまた小泉支持の外国人、靖国神社の参道で星条旗を掲げてつまみ出されるし、さらには夜の靖国神社に日本軍の格好で刀をもってやって来る人。(これはやらせだろう、としか思えないのだが? ほんとうなんだろうか?)、参道は溢れかえらんばかりの人で埋め尽くされ、日本国万歳やら陸軍中佐なんとかやらそういったのぼりがあちこちに見える。 などなど、こんなことが終戦記念日に靖国神社で行われているんだと始めて知り目を丸くした。

知らなかったこととはいえ、終戦記念日の靖国神社がこういった状況になっているとは、日本人の目からしても驚きの光景、これを外国人が見たらほんとうに奇異に見えるのではないだろうか?

●この光景を見ていて感じたことがある、なにかどこかに似ているなと。この光景はなんだかアニメのイベントやらコミケやらオタクっぽい人が沢山集まるイベント会場の雰囲気に非常に近い物がある。一種独特の同じ嗜好性を持った人が一同に会するイベント。その嗜好性は非常に狭小で同列的。三角形の頂点の一番隅っこに向かってみんながなにかをオケラの様にほじくっているという感じ。もちろん反対派もこの群衆の中にはいるだろうし、物見遊山の人もいるだろうけれど、群衆のほとんど大多数は靖国神社擁護派、公式参拝賛成派という人だろう。そういう人たちにとって、8月15日の靖国神社は年に一度の一大イベント会場なんではないだろうか?  軍服や和服で来たり、右翼っぽい格好で来たり、はちまきして声明文を読み上げたりしてる姿を見ていると、コスプレイベントに参加して自分をアピールしたいから来てる人って感じにも見えてしまう。やっている人の年齢は明らかに違うんだけど、8月15日の靖国神社の様子って、オタクイベントに非常に似てない? 類似性があちこちにみられない? なんかそんな気がするのだ。たとえば、小さなリュックサックを背負っている老人が何人か目に付いたのだが、それってオタクイベントに集まっていたオタク若造がそのまま歳をとって老人になったかのような印象である。

●靖国神社参道の特別テントで行われている「終戦60年 国民の集い」  (戦没者追悼中央国民集会 靖国神社20万人参拝運動の提唱)のその場で、首相の公式参拝の反対、糾弾を叫ぶ二人の若い男。取り押さえられ、押し倒される。この場面で青いTシャツにこれまた小さなリュックを背負った老人が異常とも思えるくらいの執拗さで「オマエは中国人か、中国人かこの野郎、中国へ帰れこの野郎」と叫んでいる。この老人は若者二人が靖国神社の外に押し出されるまでずっと後を追いかけ執拗なまでに「中国人か、中国人かこの野郎、中国へ帰れこの野郎」と連呼している。この映画の中で一番に人種差別的な人間はこの老人。

●映画全体は靖国刀を鍛える刀鍛冶の老人の姿の映像の間に、靖国擁護派、反対派の映像を交互に繋いでいるので、構成として公平的。まあ若干反対派の比重が大きい気がする。映画全体が反日的だとかいう反靖国、反公式参拝という色に染められているというわけではないのだが、賛成派の映像は先にも述べたように妙な軍隊の格好や、昇りを掲げたり声明文を読み上げたりと見ていてなんか変な感じがするものばかりなのに対し、反対派の映像はカチリと硬質だという違いがある。魂の返還を求める戦争遺族。合祀取り下げを靖国神社に要求する台湾人女性と靖国神社側の問答。合祀取り下げを求める僧侶の映像などは息を止めじっと見入ってしまうものだ。

●日本の終戦記念日である8月15日に靖国神社周辺でこんな様々なことが起きているということを、主張を偏らせず靖国反対、賛成どちらの側からも映しているこの映画は、ドキュメンタリーとして、映像資料として面白いし価値もある。繰り返しになるが終戦記念日に靖国神社とその周辺でこんなことが行われているということを自分は殆ど知らなかったし、たぶん同じようにこう言った状況を全く知らない人も日本には相当に沢山居ることだろう。その点から言えばこの作品がDVDになり、観ようと思えば買うなりレンタルするなりして、日本と終戦記念日と靖国神社とそれを取り巻く人々、問題を誰でも映像で観ることが出来るという点で、この作品は映像資料として充分に価値のあるものである。

こんな不思議で奇妙な光景が今の日本の靖国神社で繰り広げられているというのは、日本人からみても、外国人からみても、特殊で異様であろう。

そして、自分はこの光景を秋葉原のイベントに集まるオタッキーの映像や、メイドカフェや萌え系アイドルのイベント、ミニコンサートで異様な振り付けで踊る黄ばんだTシャツやジーパンを着ている集団に非常に似通っていると思う。日本のオタク文化の光景は海外では奇妙な日本文化として見られているだろうが(最近は受け入れられているようだが)。もちろん靖国神社に関する問題というのは、そんなチャラチャラしたものではなく、もっと深く深刻で重いものなのであるが、今の日本で8月15日に靖国神社に集まっている人やそこで行われている光景は、本質的な問題とはまるで別次元であり、靖国神社や終戦記念日を靖国問題というお題目だけを借りた、表面的にそれを被っただけのイベントになってしまっているのではないだろうか? この作品の映像を観ているとそんな気が非常に強くなった。

●だから私はこのドキュメンタリー映像の部分だけを観れば、それは反日だとか反戦だとか、靖国反対だとか、合祀反対だとか、公式参拝反対だとか、そういうことを主張する映像というよりも、暑い真夏の一日に日本で行われ起きている、実に奇妙で風変わりなイベントの記録映像だと捉える。

●この作品は事実歪曲だ、捏造だ、誤魔化しだとかなり非難された。自分もその意見に多少なりとも同意する。終戦記念日の靖国神社を取り巻くドキュメンタリー映像の部分はこれまで述べた通りだが、この監督はそのドキュメンタリー映像の合間に靖国刀の刀鍛冶の映像、インタビューを挟んだ。映画監督、として単に靖国神社とその周辺で起きたことを繋ぐだけの作品ではなく、なにか自分なりのスパイスを加えたかったのだろう。だが、刀鍛冶の映像と靖国神社での終戦記念日の映像を交互に映しながら、その中に南京での百人斬りの映像、最後にむかっては昭和天皇が日本刀をかざす映像、日本軍による斬首の写真(これも捏造だなんだと言われているらしいが)を繋いだ。この映像の流れを見れば、ストーリーの結末は靖国刀→靖国神社→戦争、そしてその戦争で人間の首を刎ね、多くの人を惨殺したものが靖国刀だという方向に導かれる。 これでは温和にインタビューに答えていた刀鍛冶の老人が最終的には惨殺の武器を製造した、そして今もそれを造り続けている悪しき人間に結びつけられてしまうではないか。刀鍛冶の老人はまさかこんな流れで自分の映像が使われ、最後はああいった映画の終わりかたにもっていかれるとは思ってもいなかっただろう。90歳を過ぎた老人は「もうどうでもいい」と口をつぐんでしまったようだが、この映画の映像の繋げかたでは老人をだまし利用したとも言えるのではないか? 

●ドキュメンタリーを撮影した監督が、真実を歪曲し、観た者がある結論に誘導されるかのような編集を行っている。それはドキュメンタリーとして最悪であり、ドキュメンタリー映画を撮る監督として失格であり、その思想、資質に大きな問題があることのまざまざとした証明でもある。ドキュメンタリーならば真実を正確に映像として伝え、判断は観た者にこそ委ねるべきである。さもなくば、自分はこう考える、あなたはどうか? と主張を入れることだ。だがこの監督は主張するわけでもなく、ぬらぬらとある結論を想起するような映像の補完と張り合わせを行っている。このドキュメンタリー映画に思想、結論、を故意に誘導しているととられる編集、演出を行った監督の行為は愚挙であり、こんなことをする監督にドキュメンタリー映画など二度と撮るなと言いたくなるのである。 こういったやり方はそれこそ戦時中の軍部のプロパガンダ映画と同じではないか? アメリカもナチス・ドイツも日本軍も行った映像による情報操作、国威高揚、戦意教育と同じではないか。この監督の映画は戦時中の軍部の作った映画と落ちるところが同じではないか。

●この作品は反日映画だなんだと非難され上映中止にまでいった経緯があるが、昭和天皇や南京虐殺、日本軍の斬首の写真などを映像の中に挟み感情操作、誘導をしているからそういう風にいわれたが、この映画の根本に、底流に、精神に、この監督の思想に本当に”反日”があったかというのは疑問だ。監督は体よく演出するために面白そうな映像を都合よく繋いだだけであり、そこに思想的な根の深さだとか真剣さが感じられない。同じ言葉を発し、同じ思想を主張するとしても、それ発する人間がどの深さからその言葉を吐き出しているかが問題だ。この監督は咽の入り口どころか舌の先っぽだけでこんな映画を作っていると感じてしまう。腹の奥底っから脳みそのずっと深い場所から、考えに考え悩みに悩んで、ある重さをもって吐き出された言葉がこの映画には載っていない。

●だから、この映画は反日映画としても表面的な浅さであり、槍を突き刺すような反日映画なんかではまったくない。上っ面の色をちょっと変えただけの映画の中の反日部分があるだけであり、反日映画なんてものとは言えない。そしてこの監督はドキュメンタリー監督としても失格。

●日本人、そして日本にとって天皇や靖国というのはタブーの領域に入っている物で、それをあれこれ言おうとすると途端にあちこちから攻撃を受ける。だから日本人ではない外国人が公平な目で見て天皇や靖国を描くことは良いことなのではないかと思うのだが、ちゃんとした考えをもった人にちゃんとした考えで取り上げてもらいたいと願うものである。

●捏造や事実誤認、反日だなんだという部分から離れて映画そのもののことを書こうとしたが、やはりこれだけ話題になっているとそういう分けにも行かず言葉をつづっていくなかで捏造や事実誤認、反日という部分にも触れざるを得なくなってしまったが・・・・この映画、終戦記念日の靖国神社周辺で起きている様子を映した、あまり良くはないドキュメンタリー映像資料として、見ておく価値はあると言っておこう。

●あれも理解に苦しむ、そっちも理解に苦しむ・・・と巧妙詭弁ですべてを正当化していた小泉映像を見ていたらムカついてきた。なんでこんなのに日本は日本をあずけちゃったんだろうって。石原の演説にしても然り、やっぱ日本の政治家は全部解任したい気分になる。

●この映画に関する書き込みはあちこち山のようにあるが、桜井よしこさんのブログが静かに共感できるものだった。

「事実がどのように曲げられていくのかをこの映画で学ぶ」・・・そのとおりと言える。

「映画“靖国 YASUKUNI”で真に問われるべき問題」

2009-04-22 『レッドクリフ Part II 未来への最終決戦-』可もなく不可もなく

LACROIX2009-04-22

[]『レッドクリフ Part II  未来への最終決戦』

●それにしてもこのサブタイトルは酷い。あちこちで言われているようであるが、まるでウルトラマンシリーズの映画版、ウルトラ兄弟が出てきて地球を救うとか、そういう映画に使うようなサブタイトル。この映画の宣伝チームは経験の浅い、知識の乏しい新米なんじゃないかと思ってしまう。それにしても酷い・・・未来への最終決戦って・・・初めてこのサブタイトルを見たときは思わずのけ反りそうになった。

●『レッドクリフPart I』の公開が去年の11月、半年以上も時間を空けてのPartIIの公開は定石通りPart Iのレンタルリリースと合わせているわけだが、正直なところPart Iがあの程度の内容でいきなりブチキレの終わり方をしていたのが気に入らなかったし、PartIIにもまるで期待はしていなかった。PartIであんなとんでもないブチキレ・ラストの映画にしてるんだから、PartIIではきちんと盛り上がった、赤壁の戦いをほんとに見せてくれるのか? という疑いもあった。そしてその予感は殆ど当たったようである。

●続編は最初からどうもまだるっこしい話ばかりで、それが延々と続いていく。クライマックスとなる赤壁の戦いが始まるまでは殆ど盛り上がる部分もなく、ちょっと溜息まじり。流石に戦いが始まってからは金に糸目を付けぬ豪勢な戦闘シーンの連続となり、まあまあ見応えはあったが、全体としては非常に平々凡々。特に取り立ててここが良かったというものもなく、かと言って、これはちょっとと言うシーンも無し。本当に可も無く不可も無くといった、スタンダードに徹した、もう標準中の標準といった映画であった。

●逆に考えれば、赤壁の戦いまで、なんら盛り上がりも山場もなしで2時間近くも話を持たせているのだから、それはそれで大した技量であろうとも思うのだが、余りにプレーン過ぎて、どうにもこうにもワクワクドキドキが全く無い。歴史物にあまり脚色を加えてドッタンバッタンとやったのではこれも問題ありだが、学校で(旧)文部省のお役人が作ったような退屈な教育映画を見せられて三国志のお勉強をさせられているかのような気分であった。

●赤壁の戦いは確かにスペクタクルとして豪華盛大な映像になっているのだが、こういった砦を攻める、城を攻めるという映像は、どれもこれも「ロード・オブ・ザ・リング」でのヘルム峡谷の砦での戦いのシーンが頭に浮かんでしまう。ピーター・ジャクソンが描いたヘルム峡谷の砦での攻防戦は、古き時代の城攻めの戦略、手法を全て取り入れ、圧倒的なCGの力で今までに見たことの無いような戦いを表現した。このシーンは砦攻めのマスターピースとも言えるほどの素晴らしい出来であったため、その後、同じようなシチュエーションが映画の中に登場すると、もうものの見事にヘルム峡谷のシーンに似通ってしまい、砦を攻める武器や、戦略など全てがヘルム峡谷のシーンに被さって見えてしまうのだ。今回の赤壁の戦いのシーンも、火玉を投射機で打ち込むシーンや、楯を積み重ねて城壁を登るシーンなど、ヘルム峡谷のシーンに全くそっくりなのである。砦を攻める戦術はある程度手法も限られ、いかなる国や時代でも同じようなものになってしまうのだろうが、それだけに一番最初にトップクオリティーの砦攻めの映像を作り上げたピーター・ジャクソンの凄さが後々までも影響を及ぼしてしまっている。どれもこれもヘルム峡谷のシーンの二番煎じ、真似事に見えてしまうのだから困ったものだ。

●この余りにもというべき普通さ、平凡さが良くも悪くもこの映画の色であろう。しかしこれなら取り立ててジョン・ウーである必要もないし、ジョン・ウーらしい所もさして無かったと言える。

●パート1を観たら、やはりパート2も観て結末まできちんと鑑賞したいとは思うだろうが、余計なシーンをカットすれば3時間、いや少し多めに観ても3時間20分位の一本の作品に出来ていただろう。金儲けのためには二本にしたほうがいいが、おかげでしまりの無いダラダラした部分が特にパート2では目に付いた。

●尚香(ヴィッキー・チャオ)のスパイもどきの話や、ちょっとした恋愛話なども、これは要らないんじゃないのと思ってしまった。

尚香をデブ助と呼んでいるのも三国志のシリアスさには不似合いだ。

●小喬役のリン・チーリンは相変わらずの気品ある、気高い淑女という感じで、まさに絶世の美女という役柄にはぴったりで、見とれるほどの美しさ。しかし最近日本に来てインタビューに答えたり、写真集やグラビアなどの画像を見たが、実物は小喬の気高いイメージとは全然違う、結構軽いキャラキャラしたような女優の用である。役柄とのイメージのギャップに少しばかり減滅。小喬のイメージは映画が作り出した魔術そのもの。

●パート1の批評でも書いたが金城武の諸葛孔明役は驚くべきはまり役。日本人、いや世界で諸葛孔明を知っている人ならこれほどイメージにぴったりの役者をよくぞ誂えたと賞賛していることだろう。主役である曹操を食ってしまっている部分も多々あった。

●三国志を知る人からすれば、異議、異論もあれこれあるようだし、知り合いも「曹操はああいった悪い男ではない」と言う人も居た。その辺りにまで踏み込むと意見が多様すぎるし、話に収拾が付かなくなるから、これはこれとして手軽な三国志入門映画として観ればそれで良しとすべき。

●それにしても余りにも普通過ぎる映画であった。これだけの巨費を投じて、大々的に作られた歴史ロマン、スペクタクルだというのに、これは凄い!驚いた!なんていうシーンがまるで無かった。ときめくシーンが一つでもあればもう少し良い事も書けるのだが・・・・その意味ではやはりレッドクリフ二部作は映画としてはなんら後々に残らない作品かもしれない。

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(小喬)リン・チーリン (孔明)金城武 (尚香)デブ助 ヴィッキー・チャオ

2008-11-15 『カンナさん大成功です!』ホッとした感じが残る夢物語。

LACROIX2008-11-15

[]『カンナさん大成功です!』

韓国映画、香港映画はあまり観ない。特にギャグ、コメディー映画はずっと観ていなかった。あまりにドギツク、えげつない笑の表現に辟易、うんざりしてしまうからだ。笑い、ギャグなのだからさらっと単純に可笑しく笑いたい・・・なのに、韓国や香港の映画で表現されるギャグの一部はあまりにドロドロしている。社会的格差、年齢格差を元にした差別的なイジメシーン、単純に笑えないようなドス黒さで徹底的に相手を貶めたり、暴力を振るったり、メタメタになるまで痛めつけたり、精神的なダメージを与えるようなセリフを使ったり、顔をぐちゃぐちゃにしたり・・・そういうシーンが目に余る。映画を観ている気分を害する。オイオイ、いくらギャグだとは言え、そこまでえげつないのってやりすぎだろう。そう感じていた。「猟奇的な彼女」にしても「少林サッカー」にしてもそう。単純に楽しめないし、えげつないシーンが作中に入っていると、そういうシーンは非常に下品であり作品を観終えても後味の悪さ、不快感が残存した。「こういう映画はどうにも好きになれない」と思ってしまう。

●これはやはり国のカルチャーの違いなのだろう。やりすぎと思えるほどの過剰な貶め、暴力、いじめ、それを映画のなかでギャグとして楽しむというのは今の韓国や香港、その他アジア圏での映画の中では違和感の無い表現、それがギャグになっているのだろう。自分はそういうシコリの残るギャグやコメディーは面白いとは思わないし、まるで観たいとは思わないのだが。

●2008年1月に日本版(という言い方も妙だが)の『劇場版 カンナさん大成功です!』が公開されるので、今回はオリジナルを観ておこうかと思った。

●相変わらずのドロドロさは今回は濃くはないがやはりストーリーのベースに漂っている。だが、このくらいなら何とか大丈夫という感じ。それにしても今の韓国、香港の映画、ドラマってどうしてもどんよりとした雲が頭の上から覆いかぶさっているようで、重たい空気が流れている感じがする。社会環境がそのまま映画にも繁栄されているのだろう。なにか思いっきりふっきれない、パーとした晴れやかさ、爽やかさがない、どこか影を引きずっている感じがする。この映画で言えば痴呆症かなにかで施設に入っている父親のことだとか、韓国で蔓延する整形手術のことだとか、ショービジネスの裏事情だとか、もちろんそういうものはどこの国にでもあるのだろうが、こういう素敵なサクセスストーリーなのだから、ドロドロしたものを話の中にいれず、もっとすっきり爽やかな映画にしてほしいと思ってしまう。別に対比法って程の演出でもないだろうし・・・。

●所々で韓国のいろんな実情を皮肉くっているところは興味深い。やはり国が違うのだなと感じてしまう。ラストで自分が整形手術をしたとカミング・アウトするシーンは「パッチギLOVE&PEACE」でキョンジャが自分が在日であることを告白するシーンに似ている。

●セットの部屋や、コンサート会場、そこに集まるファン、コンサートの様子など思った以上に凝った作りをしていて、これは結構お金を掛けているなと思わされる。この辺りを見ていると邦画よりも映画にかけるお金が全然違うなと思える。シーンが手抜きされず、豪華な作りなのだ。

●サンジュンが自分の部屋(これはずいぶんとまあ豪華な部屋だが)に招いたジェニーと向かい合って話をするシーン。ラブホテルかと思えるような豪華な部屋でテーブルに向かい合ってシャンパンかワインを飲みつつ話をするのだが、美しいテーブルの上にのっているのは木枠の器に盛られた刺身、いわゆる船盛り。これには笑った。どうみてもアンマッチ。これって意図的にやってるのだろうか?それとも韓国ではこうして刺身をツマミながら愛を語らうのがゴージャスなのだろうか?うーん、この妙チクリンさは傑作である。

●話が下半身、ベッドシーン、セックスに進まないのはこういう芸能界だとかの映画で珍しいが、脚本家は敢えてそういったシーンを排除したのだろう。そこがまたこの映画のよさでもある。そういうシーンが入っていると夢物語が台無しになるし、いつものドロドロがまた表に出てきてしまうわけだから。

●ラストでは全てを告白し、逆に割り切ってふっきれて、心にかぶさっていたもやもやが全部取れて堂々とした姿のジェニーがコミカルに映し出される。これは非常に良い。最後の最後でスッと晴れやかな気分にさせてくれる。この映画には今までの韓国映画のドロドロ部分も相変わらず入っているが、それが嫌悪するほど酷くは無く、エンターテイメントとしての娯楽性が高く、最後の爽やかさは今までの韓国映画から少し抜け出したかのような雰囲気を感じる。これなら韓国での大ヒットも理解できるし、日本でも特に女性には受けるだろうなと納得。

ちょっとホッとした気持ちにさせてくれる、夢物語と言える。

●それにしても日本の人気マンガに目を付けて、それを題材として韓国で映画化されるというのは嬉しいことだが、日本のプロデューサは一体何をしてるのかね?とも言いたくなる。話の内容は殆どオリジナルストーリー、原題は「200 POUNDS BEAUTY」としているが、原作の設定を借りただけであるのにキチンと日本の鈴木由美子「カンナさん大成功です!」の映画化としているのが素晴らしい。そのほうが宣伝、動員には効果的というのもあるが。先ごろの「イキガミ」のように明らかに星新一の原作小説の設定を拝借しているのに「そんな小説は見たことも読んだこともありません」などと馬鹿でも分かるような嘘とシラを切り通す連中とはそのレベルの差は大きい。

●今公開されている「ハンサム・スーツ」もちょっと考えてみると「カンナさん大成功です!」の設定を男に置き換えて話を作り替えたものではないのか?と思えるのだ。

●日本の人気マンガの映画化に最初に着眼したのが韓国。その韓国製映画が日本に輸出され、日本でもスマッシュヒットを記録した。そうしたら今度は日本で「劇場版 カンナさん最高です!」が製作され来年公開されるという。明らかに後手後手に回ったやりかた。韓国製の映画がヒットしたから、じゃあ日本でも作ればある程度ヒットするだろうという読み。こういう状況を見ていると、日本の映画業界は韓国に大きくセンスで負けている、ビジネスの触覚でも劣っていると言わざるを得まい。

●来年公開の映画は山田優と南海キャンディーズの山崎静代がキャスティングされている・・・どうなることやら。この二人でカンナさんをやるのだとしたら・・・全然ダメっぽいなと予想してしまうのだけれど。

2008-11-05 『レッドクリフ Part �』戦いのシーンにまるで迫力がない。

LACROIX2008-11-05

[]『レッドクリフ Part I』

●戦闘シーンに迫力がまったく感じられないのはなぜだ? 人の頭数だけは多いのだが、何十万人もの兵が争っているというイメージが全く伝わってこない。

不思議なほど。

黒澤映画で素晴らしく迫力ある戦のシーンを沢山観たからだろうか? それにしても戦が小振りだ。この辺はやはり黒澤明とは比べようもないほど劣る。

●個々の将はそれぞれ実にいい役者を揃えている。顔つきだけで演技できるような超一流が勢揃いだ。役者の認知度が低いせいもあるだろうが、先入観がないのでまるで本物の武将のように思えてしまう。

●武将に引き替え、ぞろぞろと大勢居る兵卒にこの映画の大きな問題点がある。映しだされた兵卒のどの顔にも緊張感が無い。戦いのシーンでものらりくらりと動いている。槍を構えていざ合戦、衝突というときも早歩きのごとくゆっくりぶつかっている。殆どが中国でのエキストラなのだろが、この大勢のエキストラがコントロールされていない。ここからここまでこうゆうふうに動くのだという指示を出して、その通りにしているのだが、どうも「ああ、疲れるなぁ、早くこのシーン撮り終わんねぇかなぁ。真面目にやってられねぇ」という感じで動いているのだ。兵卒にそういう雰囲気が嫌というほど出ている。

きっと合戦のシーンに緊迫感や迫力が無い大きな原因はこのせいであろう。

●一人ひとりの武将にフォーカスした立ち回りは実によく計算されていて、流石中国映画、流石ジョン・ウーという芸術性まで感じるのだが、それはあくまで一人の武将の戦い方に画面がフォーカスしたときに限る。全体の合戦シーンになると途端にダラダラとした締まりのない絵に陥る。

●ジョン・ウーにはこんな大規模な合戦を撮る力量はなかった。こんな合戦シーンならロード・オブ・ザ・リングのCGI方が数十倍迫力があった。黒澤映画なら数百倍の迫力だ。ジョン・ウーは戦争、合戦の撮影を、それこそ黒澤映画などを観てもっともっと研究しこの映画に取り入れるべきだった。

●中村獅童の甘興役は思ったほど悪くはなかったが、これは明らかな対日本人向けのフック。日本での話題作りと宣伝のネタ素材としても役に立つ使い方。こういうあざといやり方は映画製作の一部としてもう一般的ではあるが、自分は好きにはなれない。これで日本での興行が少しかは上に動くのか? 少しは動くだろうけど。

●三国志は中国の古い話しだが、日本人なら知らない人の方が少ない。自分は横山光輝の漫画がまっさきに思い浮かぶが、小説やら漫画やら学校教育やらで必ず聞かされる話しだから、馴染み深い歴史絵巻であろう。だが、実際には武将の名前などは何人かは知っているが、話全体まで知識があるという人となると限られてくる。そういう意味ではこの映画、結構丁寧に国と国との戦いや武将の個性などを描いているので三国志入門としてもいいのかもしれない。それでもやはりこれだけ登場人物が多くいと人間関係を理解するのもちょっとしんどい。漢語の名前もスッと頭に入ってこないから覚えにくいし。だから顔で覚えて話しを追っているという感じになる。映画という分かりやすい表現手段になっているとはいえ、いきなりこれだけの話を全て頭の中で理解するのは難しい。そこは長大な三国志を映画にしたのだから仕方ないと割り切るしかない。

●2時間25分の長さは流石に後半ではだれた。

●パート1はこれから始まる赤壁の戦いの前段階というところで終わる。よおし、やっとこれから本格的な戦いが始まるんだな、というところでパート2に続くとなる。仕方が無いとはいえ、これは素直にがっかり。2時間30分近く映画を見ておきながら中途半端な気持ちで映画館を出ることになる。これも正直気持ちの良いものではない。しかもパート2の公開は来年の4月だという、半年も先。戦略としてこれでいいのか?  半年先にはストーリーがうろ覚えになっている。パート2公開前にパート1をソフト化して販売するからそれを観てね!ということなのだろうが、一本のストーリー、一つの映画としての臨場感や高揚感は大いに削がれる。パート2も観ることにはなるだろうが、こういう映画の作り方、興行の仕方ははっきり言って、最低!!である。

●キル・ビルも1,2を期間をあけて公開という似たようなことしてコケている。映画を劇場で観る。感動してすっきりして、晴れ晴れとして、いろんな気持ちをもって劇場を出てくる。そして映画のことを、ストーリーを語り合う。そんなことが映画鑑賞の大きな楽しみでもあるし醍醐味でもあるのだ。そういう映画というものの楽しみ方をこの映画は、この映画の興行の仕方は全然分かっていない。映画を観る観客の側の気持ちを全然理解していない。この映画からプンプンと臭うのはビジネス、金儲けの作為ばかりだ。

●「まぼろしの邪馬台国」もそうだったが、この映画も三国志ということで観客層は若いカップルなどよりも中高年齢層が中心になるだろう。美男子の男優を沢山登場させているから、それを目当ての若い女性客層も掴めるか?とも思うが、たぶんイケメン俳優を観に来てうっとりしているのは主婦や中年のおばさんたちだろう。

●唯一、この映画を観てこれは良かったなというのは小喬役のリン・チーリンを見れたことか。正直リン・チーリンのしっとりとして潤いを漂わせたような美しさにはうっとりとしてしまった。久しぶりに美しい女優をみたなという感じである。「グリーン・ディステニー」でチャン・ツィー・イーを見たときと同じような気持ちになった。なんて美しい女優なんだろうと。(これじゃイケメン男優目当てのおばちゃんと変わりないが)

●久しぶりに大規模な宣伝をしている映画だが、果たして興行成績はどこまで伸びるかな? この内容とこの長さでは思ったほどは行かないだろうと予想するけれど。

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●追記:ヤフーの映画評を見ていたら、この映画が「前後編に分れた二本ものだという告知が公開二週間前位からしかされなかった。Part1という見出しも告知もしないで宣伝していた。」というのがあった。ん、確かにそうだ。事前の告知物にもポスターにも予告編にもPart1という表記は無かった。故意に抜かれていた・・・・なるほど、確かに自分も「あれ、これって二部作だったの」とつい先日気が付いた。自分も騙されていた一人か。まあそれならそれでいいと流していたんだけれど・・・。

●Part1の無粋な終わり方は非常に腹立たしい。それをギリギリまで隠して行こうとしていた魂胆はさらに腹立たしい。観客側の事は一切無視というわけだ。二部作ということを隠したのも、この映画の宣伝担当者、広告代理店が戦略として考えたことだろう。もうすべてに金儲け、拝金主義の臭いがする。しかもその臭いがあからさまでやりかたがミエミエというのが愚かである。金儲けの戦略くむならもっと巧みにその小汚さが見えないようにでもすればいいものを。大枚叩いてるから広告代理店も頑張ってPR戦略というより回収戦略を組んだのだろうが、こういう宣伝でもチケットばらまきでもなんでも、えげつないやりかたをした映画は大抵評価されない。後々に渡ってそういうことをしたという話が体臭のように作品に付きまとう。いつまでも「あの映画ってこうだんたんだよね」と語り続けられる。それは今までの山ほどある事例が示しているのだ。愚挙は期間をおいて繰り返される。

2008-08-26 『亀も空を飛ぶ』見て、知って、震えるだけしか出来ぬ。

LACROIX2008-08-26

[]『亀も空を飛ぶ』(2004)

最初の30分が苦痛だった、クルド人の村でアンテナの修理をしたり、出会った女の子の注意を引こうと変なことをしたり、子供達を従えてああだこうだと指図するサテライトという子供の姿が妙に白々しく、ノイジーで、絵から何かを感じさせるものが全くやって来なかった。途中で出ようかと思ったほどだった。イラクでの戦争の悲劇を描いた作品だと聞いていたのに、なんだこれは?という感じで。

●まあ最初の30分は、一つの対位法でとしてあの部分を冒頭に置いたのであろうけど。少し長すぎた、五月蝿すぎた。だが、子供たちだけではなく、大人も含めて皆が、戦争や弾圧の中で希望を失わず、明るく今を生きているんだというこのがあったからこそ、この映画は悲惨さだけでなく、希望を持ちえているということになるのだろうなぁ。悲劇だけを連ねて全編を作っていったら、いたたまれない、暗く、重いだけの作品になっていただろうし。

●子供たちが僅かでも現金収入を得るため地雷原から地雷を拾い上げている姿。両腕を吹き飛ばされた少年が地面を這って、口先で地雷を摘み上げている姿。フセイン政権下でのクルド人弾圧で、フセイン軍の兵士が幼い処女を強姦している姿。その強姦によって身篭もってしまい、幼いながらも子供を生んだ少女。生まれた子供は、目が見えず、母親となってしまった少女も「フセイン軍の兵士が生み付けた子供など欲しくない」と、生まれてしまった子供を嫌悪する。子供には何の罪もない・・・。

●こんな状況下でも子供たちの姿は元気に生き生きと描かれている。こんな状況の中でも出会った少女に恋をし、振り向いてもらえないのに、なんとかその子の注意を引きつけようと努力するサテライト。

●頑張り、元気に、ある意味無邪気に生を求めて生きている子供たちの姿が、戦争に対する至上のアンチテーゼになっているわけなのだな。

●愛することの出来ない自分の子供を夜中に森の中に引き連れていき、木に結びつけて置き去りにしてくる少女。子供は夜の間にヒモを解き、我知らずに地雷原の中に迷い込む。その子供を助けようとするサテライト。しかし地雷は爆発し、子供は吹き飛ぶ。何とか助かったサテライト、だが、母親である少女は崖から実を投じて自らの命を絶つ。

●後半は飲み込んだ息を吐き出せないような重苦しさ。

●両腕を失った少女の兄は予知夢を見る。そしてその予知夢は当り、アメリカ軍がイラクに進行してくる。弾圧されたこの村の人々はアメリカ軍を歓迎し、自分たちを弾圧したフセイン政権が倒れることに歓喜する。

●だが、フセイン政権の弾圧が消えても、その後、また別の悲劇がイラクでは起きる。進行したアメリカ軍がもたらす悲劇だ。

●一つの状況が変わり、何かが良くなっても、また直ぐその次に別の苦しみが舞い降りてくる。そんな中でも人は生きていかなければならない。

●こんなことが実際に自分たちが生きている今と並行してリアルタイムで起きているわけなのだから・・・・。

●「亀も空を飛ぶ」というのは”なんだって、できないこてとはない”という比喩らしい・・・・そうか、それは本当だろうか?

●この映画を通して、この状況を見る、そして知る、ただそれだけである。何もしない、何もできない、ただわなわなと震える・・・・それしかできないのが今の自分である。

2007-06-25 『ボラット』栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習

LACROIX2007-06-25

[]『ボラット』 

●しかしまぁ、こんなのを配給しなくても・・・・エグイ映画である。

●全世界24カ国でNO.1になった作品ということだが、いやはや・・・・ホント?

●他の国ではまあ作れなかったであろうというくらい、現代アメリカを痛烈に批判している。その批判の仕方がまじめではなく、極めてブラック。それどころかそこまでやったら宗教問題、人種問題にまで発展するでしょうというくらいモロにえげつなく、強烈にダイレクトにヤバイことをバシバシ喋っている。ちょっとほんとヤバイのでは?と思うような内容だからこそ・・・・受けたのだろうね。

●だけど、もう溜息が出るくらいどうしょうもない内容なので・・・途中で毒に当ったように気分が悪くなってきた。

●公開劇場も少なかったし、まあ本国から「世界中でヒットしてるんだから、日本でも興行して金を儲けろよ、製作費も限りなく少ないんだから、当れば大儲けできるんだ」などと指示があって日本での公開になったのだろうと想像するが・・・・・こう言った作品は一部のサブカル的な志向を持っている人にしか受けないよね。ましてや劇場でお金を払ってまで見る、大スクリーンで見る価値はない。

●もっと口コミを広げて、DVDやレンタルで回すべき作品であろう。