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2017-12-22 『スターウォーズ/最期のジェダイ』完成度は高い、だけど何かが違う

[]『スターウォーズ/最期のジェダイ

☆☆ネタバレあり☆☆

・待ちに待ったスターウォーズ EP8の公開! 事前の情報予告編などから想像していたことはすべていい意味でひっくり返され、期待にそぐわぬ素晴らしい作品に2時間33分スターウォーズの世界にどっぷり浸かって、物語を堪能! 目の前のスクリーンのなかで片時の別世界を味わえた。文句なしの満点だ、100点満点、映画映像としても極めてハイレベルなところに達している。人が絵をどうみたら、どういう角度でどういう配置で並べたら最も効果的に臨場感や恐怖感を味わえるかという点も極限まで計算されていると言えるだろう。そのくらい映画としてのできが良い。・・・だが、観終えて時間が立つに連れて・・・気持ちが少しずつ変化してくる。確かに素晴らしい映像、脚本の作品だ、だがそれ以上のなにか、満点を超える何かが無いかもしれないと。

・脚本は練に練られている。物語の整合性に疑問がでないように、きっちりとした話の理由付けが明確になされていて「あれ?」とか「ここおかしいんじゃない?」と観ていて思うようなところはほぼなかった。」(後から何点か思いつくところが出てきたが) ストーリーの流れもほとんどひっかりがなくスムーズだ。上映中も上映が終わっても「うーん、これは隅々まで感覚が行き届いた実にクオリティーの高い映画だ」「拾にスキがない、なんて密度が高く、がっしりと四ツに構えた映像の集合体なんだろう」とほぼ陶酔状態だったのだが・・・しばらくすると、だんだんと魔術が解けてくるように何かが足りない気持ちが沸き上がってきた。

とりあえず一回観ただけなので記憶が不確かだったり、間違えてとらえてしまっているところもあるかもしれないが、気になるところを、気に入った所を羅列しておくとしよう。

☆《ヨーダの造形に泣けた!》

前作『フォースの覚醒』では監督エイブラハムがSW過去作へのオマージュ、回顧に走りすぎているという批判があったが、長らくのスターウォーズ・ファンとしてはそれはそれでワクワクドキドキしてとても良かった。ハン・ソロチューバッカがミレニアム・ファルコンに戻ってくるシーンは感涙ものだったし。崩れ落ちたスターデストロイヤーや、AT-ATスノーウォーカーが画面に出てくるたびに歓喜した。

《 2015-12-22日記 『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』SWファンにとって最高の傑作 》

今作では前作で批判も受けた懐古主義的な部分は少なくなっているという話を聞いていたが・・・なんのなんの、所々にファンなら喜ぶ旧作SWのセリフや映像がさりげなく散りばめられていて、なかなか憎い作りであった。そんな中で1番良かったのはヨーダの登場シーン。CGIの技術は格段に進歩していて、もはやどんな映像でも作れないものはないという状態であるのに、今回のヨーダ−はなんとその最先端のCGIで「エピソード帝国の逆襲」に出てきたマペットのヨーダ−を復活させているとは・・・監督たちのこのこだわり、この意識には敬服するね。作品の時系列を合わせる意味でもヨーダはEP4-6よりもさらに年齢を重ねているのは分かるのだが、あの1970年当時のマペットの風貌、動きをそのままに再現させているとは・・・お見逸れしました。EP5そのままに、杖をつきながらよちよち歩きをするヨーダ。新三部作のEP1-3でありったけCGIを使ってあのピョンピョン素早く目にも止まらに速さでライトセーバーを振り回すヨーダには驚いたが、ちょっとやり過ぎという感もあった。それが今回はなんとでも動きを作れるはずのヨーダをわざわざマペットのぎこちない動きに合わせて作っている。ここにはスターウォーズへの愛を感じるなぁ。そしてヨーダがルークと並んで遠い空を見上げるシーン。見事にEP5の若きスカイウォーカーとヨーダの並んだシーンへのオマージュ。こういうところにSWファンとしては嬉しくて涙が出てしまう。

☆《完璧なまでに美しい配置》

バージョンアップしたAT-M6ウォーカーのなんともカッコよく強そうで恐怖感のあることあること。AT-ATスノーウォーカーのデザイン上の弱点、足の弱さなどを見事に取り除いてまるで強靭な猛獣の如くにしあげている。並んで登場するシーンは画角、配置ともベスト小津安二郎の人間、道具の配置へのこだわりのように、この登場シーンはそれぞれの位置関係、観客からの視点など徹底的に計算されて場の雰囲気を作り上げている。このシーンは素晴らしい絵であり写真だ。

《全然動かないスターデストロイヤー》

なんでもかんでも大きく、大きくすればいいってもんじゃないと思うが、今回の作品でメガ・スターデストロイヤーというやたら横にただ長いだけのような全長60kmとかいう設定の巨大艦船が出てきた。たしかにデカさに凄いなぁとは思うのだが、これただ浮かんでるだけ。そしてもっと悪いのは、いままでのシリーズ帝国軍の圧倒的な力の象徴でもあったスターデストロイヤーが相対的にちっちゃくなってしまって、後ろの方にこれまた浮かんでるだけ。ほぼ戦闘、攻撃にも参加してない。「なんだよ、スターデストロイヤー全然動いてないじゃないか」とスクリーンを観ながらイライラ憤り。今回の作品からファースト・オーダー・ドレッドノートなるスターデストロイヤーの2.5倍、19kmもある新艦船も出てきているということだが、メガ・スターデストロイヤーがでかすぎてこのドレッドノートもまるで目立たず。というかこういう馬鹿みたいにデカイ船をわざわざ設定しちゃったために、旧3部作のEP4冒頭で、あのスターデストロイヤーがドーンと出てくるあの巨大感にのけぞって驚いた体験がちゃかされてしまった。正直意味なしというくらい大きさだけを強調した今作品の船艦のせいで、過去の作品が持っていた素晴らしい映像体験やイメージまでもぶち壊してしまったといえるだろう。これはSWファンとして声を大にして非難する! 

《ポーグはただのおちゃらけキャラだったのか》

可愛らしい姿で公開前から注目されていたポーグ。ファルコン号でチューイと一緒にコックピットにいる映像などからも、このちっちゃくて可愛いキャラがどういう力をもっているのだろう。チューイと一緒にファルコンを操ってなにかもの凄い活躍をするのだろうか? などと想像していたら、ただ単に可愛いだけのおちゃらけキャラだった。重力がかかって窓にぎゅ〜っと押し付けられるシーンだとかは笑えたが、完全にディズニーのキャラ売り戦略の部品というだけだったとは。もうフィギアぬいぐるみを売るためだけに追加したキャラという魂胆がミエミエでどうしょうもない。それとも次回作でなにか活躍するシーンでも加えられるのかな? そうでないとあざとすぎるもんな、このキャラは。それでもイウォークやジャージャービンクスよりは良いって? 確かにそうか・・・・(-_-;)

《スターウォーズに燃料切れの話はダメダメだろう》

宇宙の話はねぇ、色々あるけけど、それをやっちゃいけない、それは当然のこととして受け入れた上で観てないとどうしても辻褄合わなくなる部分は出てくる。1番はっきりしてるのは爆発の音。宇宙じゃ音しないでしょ、ドーッカーンとかね。でもそれは目をつぶって見てるわけだし、音がしなかったら映画としてやはりつまらない。(キューブリックは音を消したけど)、同じくこんな巨大船艦で食料はどうしてるの、水はどうしてるの、空気は・・・そして燃料は?? イオンエンジンは、ハイパースペースドライブは・・・いろいろ未来の技術が開発されて現実世界のように燃料に煩わされることはほぼなくなっているという仮定の上で宇宙物の映画をみんな見てるわけで、燃料どうしてるんだろう、こんなに飛べるはずないだろう、嘘だ!と言ってしまったら全部話が台無しになってしまう。だからそういった現実世界的な制約は取り除かれているとう仮定でSF映画はみんな観ているわけなのに・・・燃料がもちません、後何時間でなくなります・・・ていうのをストーリーにいれてしまうのは、大大大失敗、失策なのだけどねぇ。監督や脚本家はこれだけ素晴らしくまとまったストーリーを作り上げたのに、その部分は気が付かないのか? それとも話を作り上げる発想力が足りなくて、つじつま合わせで燃料不足をもちだしたのか? 何にしてもダメダメ。

ハイパードライブで敵艦に神風アタックもダメだろう》

これも、今回やっちゃったら、今までだって危機に陥ったときにただ撃ち落とされるんじゃなくて、ハイパードライブで突っ込めばスターデストロイヤーもやっつけられただろう・・・と思うよねぇ。ホルド提督がカミカゼアタックでメガ・スターデストロイヤーに突っ込み爆破するシーンは少しウルウルきたけれど。

《ハイパースペース・トラッキングシステム

ハックス将軍が「奴らに紐を付けておいた」とするハイパースペースを超えても相手を追跡出来るというシステム。これに対してフィンとローズが「奴らの追跡システムを破壊するのよ」というのが物語の大事な筋になっているのだが・・・なんで、追跡されてるって分かったら、本体の追跡システムを壊そうということになるのか? 相手の追跡システムを解除しない限り、永延に後を付けられてしまうと考えるんじゃなくて、普通に考えれば自分たちの居る船に何か追跡システムに信号を送る装置が付けられている、それを探して壊そうと考えるでしょ。つまり発振器、ビーコンがどこかにあるって考えるのが当然なんだけど。。。sらにおかしいのは、レイには居場所がわかるようにビーコンを持たせてる・・・ハイパースペース超えてルークの居る星にいってるのに?? んー、もうこういう部分でで突っ込み所満載なんだよなぁ。いや、全体的に脚本の出来は素晴らしいのだけれど、サラーッと見ていると粗にはあんまり気が付かないんだけど、よく考えると、監督や脚本家達が“よく考えていない”ところがあれこれ見えてくるんだよなぁ。大体にして30年以上前の設定となる『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』でオビワンが逃げるジャンゴ・フェットのポッドに追跡用の装置を投げつけてくっ付けるシーンがあるじゃない。てことは、ずっとまえからそういうシステムは出来ていたんじゃないの? とか言いたくなるんだよね。

コードブレイカーの話は伏線が回収されていない》

マズ・カナタがファーストオーダーの暗号破りはこの目印を探せ!といって示した花のバッジみたいなやつ。カジノでその目印を付けてた奴はあれ、誰なの? デル・トロ扮するDJが実はあの目印を付けてるやつにだまされて監獄に入れられた、というなら話もまあ繋がるが、あの目印に関しては映画のなかで結局何のお話もなし。伏線がまるっきり回収されず投げ捨てられてる状態。今回の映画公開版は上映時間153分と現状でも長尺だが、監督のライアン・ジョンソンが完成版から50分近くをカットして劇場公開版にした、未公開部分はブルーレイに収録するなんてことを言っているので、ブルーレイになったところで、あれこれつじつまの合わないところや、なんかここが変だという部分が分かってくるのかもしれない。それにしても、2時間33分もありながら話として???と疑問に思った所が何箇所かあるので、この劇場公開版はディレクターズカットじゃなく、短縮版という扱いになってしまう可能性もある。ロード・オブ・ザ・リングのときも同じようなことやってたな。これもソフトを売るためのあざとさに思えるが。

いきなり出てきたけどマズ・カナタが「労使交渉やってるんだよ」といって銃撃戦してるのはちょっと笑った。マズ・カナタも不気味な老女じゃなく、なんかヨーダ的なウケ狙いキャラにしようとしてるのかもしれないが。

《毎度のことだがシスってあっさり殺られる》

ファーストオーダー最高指導者スノーク。フォースのダークサイドを使い手、シス。だけど・・・あっさり殺されるよなぁ。それだけ強いのに、人間の心も読めるのに・・・。真っ二つにされるというのはお約束をきちんと踏襲してるが、それにしてもなんかあっさり過ぎ。でも考えてみれば、EP1でのダース・モールもあっさり、あれぇ〜という感じで真っ二つ、いとも簡単に殺られた。ドウーク伯爵もあっさり首を落とされるし、絶対勝ち目なさそうだったパルパティーンは反応炉に突き落とされて死んじゃうわけだし、シスじゃないけどグリーパス将軍も、もの凄い強いという話だったのに、オイオイというような情けない殺られ方で死んじゃったし、スター・ウォーズに出てくる悪の皇帝やら支配者、将軍・・・なんか邪悪でもの凄い強そうな設定なのに、ぜんぶあっさり殺られてる。(ダース・ベイダーだけは例外?)ことさら今回のスノークの殺られ方って、余りに簡単すぎないか? なにが最高指導者でなにがシスなの、どこが邪悪でどこが強いの? と思わずにはいられない。

《レイは一体どうして強いフォースを持っているのか》

カイロ・レンがダークサイドに堕ちるきっかけとなった話は巧く出来ていた。ルークがその原因だったとはかなりの驚きであり衝撃的であった。しかしなぁ、ダース・ベイダーの息子であるルーク、双子の娘の子だから孫にあたるベンことカイロ・レンで、カイロ・レンがルークを押しのけてジェダイ寺院を崩壊させるほどのフォースを持っていると言うのはイマイチ納得がいかない。母親であるレイアがダース・ベイダーの娘なのだからスカイウォーカー家の血筋を引いているとしても、母親も父親であるハン・ソロもジェダイにはならなかったし、レイアのフォースが特に強かったというわけでもないんだが。そしてそれ以上になぜレイは他のだれよりも強いフォースを持っているのか? この点に関してはなんら答えが示されていない。レンとレイの会話ではレイが両親から見捨てられたただの娘だという話レイがするわけだが。カイロ・レンとレイの会話のシーンです。カイロ・レンがレイに「お前の両親は何者でもなく、ジャクーでガラクタを回収していた夫婦ですでに死んでいる。お前は見捨てられたのだ」と衝撃の事実が告げられたが、じゃあなんでレイはあんなに強烈なフォースを持っているのか? 

《ハン・ソロは本当に死んだのか?》

これもまたレンとレイの会話でだが、レイが「あなたは父親を殺したのよ」と言ったところでレンが「本当にそうおもうのか」というようなことを言っていた。ん??? 確かに「フォースの覚醒」でハン・ソロはライトセーバーで体を射抜かれ、船艦の底へと落ちていくのだが、実際に死んだ様子の描写は一切なし。葬式もなし。でもレイア将軍が夫であるソロの死を感じたような部分はあった。でも完全に死んだという描写はなかった・・・さてここもどうなるのか?

《ルークのホログラムはダメでしょ》

もうさぁ、あれをやったらなんだってオッケーになってしまうじゃない。( ´Д`)=3 それとラストレジスタンスの指輪を付けた子供がフォースを使うような場面があり、次回作への希望につながっていくようなシーンがあるが、なんかこれもわざとらしく、よくよく使われてきたような子供っぽいシーン。まるでディズニーの子供向け冒険物語的な終わり方だ。

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と、ここまで書いてきたら、否定的な所感ばかりになってしまった。この作品を観終えたときには「凄い完成度だ、スキがない、凄い映像だ」と溜息を付くほどにどっぷりスターウォーズの世界に取り込まれ、凄い凄いと感嘆し、かなりの満足感に浸っていたのだが・・・時間が立つに連れて、いろいろなシーンを振り返って考えるに連れて、どんどんと疑問や不満、納得の行かないところが出てきた。

映画の完成度は高い、でも何かスターウオーズ的でない変なものを感じる。商業主義、ディズニーの金儲けの道具的になった部分も大いに感じる。少なくともこれは絶対に言えることだが・・・

「帝国の逆襲」を超える最高傑作!・・・というのは違うな。

当初に予想していた展開は見事にほとんど外れた。カイロ・レンがまるで母親であるレイア将軍を攻撃するかのような予告編の作りや、ポスターで示されたダークサイドに落ちたようなルークの姿も、言ってみれば全部ブラフでありあったな。まるで思っていたこととは違った驚きの展開だったし。でも、その驚きとスター・ウォーズでこれまで感じてきた驚きはちょっと違う。やはり「帝国の逆襲」での「私はお前の父親だ」に勝る驚き、衝撃は無い。自分が映画に求めているものの一つである「やったー!」という爽快感、感動、気持ちよさというものは残念ながらなかったといえるだろう。改めて思い起こすと今までのスター・ウォーズ・シリーズのテイスト、雰囲気から少し違う方向に映画が向きを変えている感じがする。それが次のエピソード9でどうなるか? 新たな3部作まで作られるということなので、ディズニーにしてみればスター・ウォーズはやはり最大のドル箱であろう。

公開から今日で一週間。アチコチに書かれている考察、感想、批判、賞賛などを読んでいると、一回の観賞では分からなかった、とらえきれなかった細かな部分を色々と説明してくれているサイトも多々あり、凄いなぁと思う次第。もう少しあちこち読んだり見たりしてから、年内にもう一回観賞しようかなと考えているところ。但し、普通なら二回目は日本語吹き替え版で観賞するのだが、日本語の予告編やCMなどで観るとどうも今回の吹き替えはレイの声にしても喋り方にしてもなんとも軽薄で脱力してしまう雰囲気なので、二回目も字幕で見るかもしれないな。

2017-11-28 『ジャスティス・リーグ』面白くはあるが、迷走してる。残念!

[]『ジャスティス・リーグ

・『ワンダーウーマン』がなかなか以上に良かったので、DCのヒーローシリーズであるこの『ジャスティス・リーグ』にはかなり期待していた・・・のだが・・・まあ、そこそこに面白いけれど、ちょっと期待しすぎたな。この手の映画に一番に期待する「やったぜ」「サイコー」といった爽快感、満足感というものは、いまひとつというところ。期待しすぎた分だけちとガッカリ。

・出だしからなんとも暗〜い歌詞の歌が淡々とながれる、なんだかこの世にはもう希望も何もない、諦めろ、悪が支配てしまってるんだ、とか言う感じの歌で「ん〜、なんだこれはダークナイトクリストファー・ノーラン趣味をジャスティス・リーグでも真似てるのか、違うだろう、こっちはもっと明るくカッコよく行かなくてはだめだろうと、なにか作品の方向性に疑問が湧く。

・しかし、そのドーンと暗い出だしが終わると、なぜか今度はユーモアジョーク混じりの展開に変わる。んー、なんか脚本が迷走している感じ、これは嫌な予感。

・脚本の教科書みたいなものには、よく「主人公葛藤を描け、人間の深みを描け、そこに観客は惹かれるのだ」とか書いてあるものなのだが、なんだかそういった教科書の杓子定規な教えにしたがって、一人ひとりに無理やり妙な葛藤を組み入れている風でもある。サイボーグはなんで俺をこんなからだにした〜と親父にぶーたれてるし、フラッシュのお兄さんの件とか、アクアマンの王との確執だとか、そしてさらにはワンダーウーマンに「私は昔、愛している人がいた。ずっと・・・」なんて言わせて、バットマンに「何百年もそんなことに縛られて生きてる奴なんか」と、吐き捨てられたり。この辺は前二作に続いて、ダークナイトの成功に少しでもしがみつきたい、あのシリアスな脚本になんとか似せれば当たるかも?なんていう意識が相当に根っこを張っているんではないだろうか。

・もう、コミック映画なんだからそんなシリアスな裏話なんていらない。スカッと面白く話をつなげてくれればいいものを、どれもこれも取って付けたように話の中にポツン、ポツンと挿入しているし。テンポを崩して足踏みさせて、ストーリー展開のリズムをぶちこわしてしまっている。特にワンダーウーマンなんてそんなドロドロ怨念じみた女性の内面なんか付け加えないで、思いっきりバサッと敵をやっつける痛快さを徹底して描けばいいものを・・・至極残念。

アマゾン部族の島にドスンと降りてきたステッペン・ウルフ、凄い重量感で「お、こいつは強そう」と思うわけだが・・・いや、実際にかなり強い! でも、このステッペン・ウルフの顔に全然怖さがない。そんな強力なダークサイド悪魔の親玉みたいなやつなのに、なんか全然恐怖感が湧いてこない。顔がね、顔がシワクチャ年寄りって言う感じだから、全然強そうに見えないし、怖さがないんだよねぇ。観客恐怖心をもたせるくらいのキャラにしないとだめでしょ。最期はなんかパラデーモンに食いつかれてウギャーなんて叫んでるしさぁ。

・そうそう、アマゾン部族の女王が馬の下敷きになってうごけなくてウーンウーンっていうのも変。あれだけ強い戦士だったのに。本来なら足で馬を宙に蹴り上げてしまうくらいじゃなきゃおかしい。

・そういった首を傾げるような登場人物の描き方に、観ていて不満タラタラであったが、流石にスーパーマンの部分はカッコイイし、ちょっと涙ウルウルくるいい話。最終兵器を出せ!ってロイスを引っ張ってくるあたりはもうあまりに予定調和的に想像できてしまうが、ロイスを見て荒れ狂うこころが落ち着きを取り戻すってのはイイね。(でもキューブを使ってスーパーマンを再生するくだりはなんかチャラいし無理がある)

・と、まあ気に食わないところばかり羅列してしまっているが、一先ず一本の映画としてはそこそこに楽しめはする。ワンダーウーマンがかなり以上にいい出来栄えで、大満足だったので、ジャスティス・リーグにもかなり期待したのだが、その期待にはかなり及ばなかった。

・「マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)」も次から次へと出てきて、話を追いかけるのば面倒くさくなってきてるし。(お次のブラックパンサーはどうよ??)、「DCエクステンデッド・ユニバース」は第一作、第二作と失敗して、ワンダーウーマンでドンと花火が打ち上がったが、今回のジャスティス・リーグを観ると、今後の展開もごちゃごちゃDCと同じように面倒くさくなりそうだな。

アメコミファンってわけでもないし、逐一細かな設定まで追いかけてるようなオタクでないかぎり、段々と話がわけわからなくなってくるから、今後のこういったシリーズは横目でチラチラ観ている程度でいいかも。

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予告編で使われていた「あなたを待っていました」っていうシーン。あれはカッコよかったんだけど、本編ではそのあたりが全部カットになっていた。んー、残念、またソフトにしたときに未公開シーンとかディレクターズカットとかで出すつもりなのかね?

ブルース・ウェインがアクアマンに「お前って、あれ、触手みたいなもの出せるのか?」とか聞いた後に、ジャスティス・リーグの5人が地下のようなところに集まって雑談みたいなことをしているシーンがあったが、そこでアクアマンが、1人でべちゃくちゃ喋ってるシーンがあり、その後になんだかウーンウーンとトイレで気張っているようなことをして・・・すると次に光るムチが出てきてそれをワンダーウーマンに渡す。アクアマンはフラッシュに「黙ってろよ」なんていう一連のシーンがあったのだが、なにかコミックでこういうエピソードでもあるのかな? どうもアクアマンがウ◯チみたいにムチを体から絞り出してるような雰囲気でもあったな。w アクアマンが喋ってるシーンは上半身だけ映してて下の方はなにやってるのかわからないし、ひょっとしてカットされたのかもしれないけど・・・あそこ、疑問。

日本のCMは酷いね。ワンダーウーマンのときも女性のカッコよさを出すんじゃなく、ギャグ路線で予告編作って外してるなぁと思ったが、今回のジャスティス・リーグの予告編もワンダーウーマンのへんてこな顔とか仕草をわざわざ集め、ナレーションも採用!採用!って、どんだけセンスのないトレーラー作ってるんだよ日本は、と呆れ返るね。なんでワンダーウーマンがこれだけヒットしたのかってところが全く考えられていないじゃないのかね。女性ヒロインの最高のカッコよさ、強さが人を惹きつけた最大の要素なのに、それとは逆にギャグ、コケティッシュおちゃらけ、そんなもので宣伝打ってる。そして同じことをジャスティス・リーグでもやってる。どうしょうもない

☆スーパーマンは流石にカッコいいが、やっぱり映画の中ではワンダーウーマンが光ってるな、あの変な過去の告白シーンはいらないけど。

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2017-09-04 『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』これもダメダメ

[]『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』

・第一作に続き、この第二作ももうどうしょうもない

・「ワンダーウーマン」がなかなかに良かったので、シリーズ的に前作に当たるが未だ観ていなかった「バットマンVSスーパーマン」を観てみたのだが・・・。

・やっぱり暗くてなんかやだね。キッパリその一言に尽きる。なにせ、シリーズ第一作に当たる「マン・オブ・スティール」がどうしょうもない一作であったから、それに続く「バットマンVSスーパーマン」も、どうせ下らないだろうと観ないでしまっていたのであるが(予告編やCMも「エイリアンVSプレデター」みたいに、ただ人気のキャラを戦わせてるだけというおうな、なんだこりゃと言いたくなる程に酷かった)まあ予想通り溜息がでるような話であった。

アメコミの二大巨塔であるマーベルとDCのうち、マーベルはスパイダーマンから始まって、アイアンマン、アベンジャーズとどんどんヒット作を量産し、イケイケドンドンの状態なので、DCとしてもそれをただ指をくわえてただ悔しがっているだけではならぬと奮起したのはいいのだが、新しいシリーズを生み出す方向性完璧に間違えてしまっているとしか思えない。

クリストファー・ノーランに頼んだバットマンシリーズは、ノーラン独自の味付けで、今までのアメコミのイメージから離脱し、非常に重く、真面目、現実的な路線に大きく舵を切り、それが「ダークナイト」で超特大の大成功を収めた。DCとワーナーとしてもその成功の味が忘れられないから、もう一回ノーランの手法に乗っかって、自分たちの持っているヒーローシリーズをまったく新たなものに作り変えて大ヒットをさせたいと期待しただろう。だから「ダークナイト」で思い切りシリアスで現実的な映画にバットマンを作り変えたやり方を、もう一度ノーランにやってもらって、事を上手く運ぼうとしたのだろう。だが、それは大いに裏目に出た。マーベルを真似て自社ヒーローでシリーズ化を狙った最初の作品である「マン・オブ・スティール」は映像は充分に良いのだが、話が・・・コミックで親しんでいたスーパーマンのイメージを全く踏襲せず、いかに現実的に見せるかというところにばかり拘って、「このシリーズのスーパーマンはこういうことになりますから、今までの話とは違いますよ、今までのスーパーマンは忘れて下さい」とでも言っているかのようで、スーパーマンの出自やSマークの意味も、無理やりこじつけたとしか言いようのないとんでもストーリーをさも平然と観客に披露した。しかもそれが押し付けがましく、またクリストファー・ノーランの今までの作品にあまりにも似すぎ「ダークナイト」の成功体験をそのままスーパーマンに移し替えたような、ノーランの手垢がべっとりこびりついているような作品であった。

・大ヒットし評価の高かったダークナイトの味付けで、ストーリーも同じようにしてバッドマンをスーパーマンに置き換えて映画を作れば観客に受けることは間違いないだろう。DCのヒーローシリーズの第一弾として大成功を収め、その後にどんどんヒーローシリーズを量産してマーベルを凌いでやるんだ。と舌なめずりをしたが、大いなる大失敗となる。

・もともとスーパーマンとバットマンはアメコミのヒーロでも陽と陰をあらわす代表のようなもの。明るく健やかで健康的なスーパーマンに、暗く陰湿でダークなイメージのバットマンを重ねるとは言語道断。観客はなんだこれは、今までのイメージを無視するにも程がある!とそっぽを向いたわけだ。

・ハリウッドのマーケティングなんてそんなもの、元々暗いイメージのバットマンを雲が覆いかぶさっているような暗く現実的な映画にしたのは筋としてあっているが、普通に考えたらスーパーマンをその筋に重ねるなんてしないだろう。単に「こっちで大ヒットしたかあ、あっちでも同じやり方にすれば当たる」というような短絡的な考えしか見えてこない。

・この最初のとんでもないミスでDCコミックのシリーズ映画化には急ブレーキが掛かる。「マン・オブ・スティール」の続編製作は延期になり三年も掛かってようやく『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』に辿り着いたわけだが、前作のイメージを引きずった第二作も、アメコミヒーロー物であるから、そこそののヒットにはなるが、期待された大ヒットには程遠いもので終わる。

・映像的には文句無いクオリティなのだが、ストーリーが・・・相変わらずのノーマン節爆裂。(監督は違うのにそういう方向にさせられてるんだろう。またはノーランが指揮してる?)

どう考えても「ダークナイト」に似ているストーリー展開、キャラクターの配置。観客はそんなに甘くない。なんだこれはとスクリーンを見ながら不満が溜まっていったことだろう。

・まあ、これじゃダメだというところは山のようにあるのだが、いかにもなノーラン節というのが「バットマンVSスーパーマン」にもお決まりのように出てくる。そしてお決まりのようにガッカリさせられる。またこんなこと繰り返しやってるのかよノーランは、と。「ダークナイト」のジョーカー、「ダークナイト・ライジング」のペイン、こんな奴とっととやっつけてしまえと思うキャラクター設定でありながら、まさに無理に生き残らせる。普通ここでバーンとやってしまえばやっつけられるだろう、殺せるだろうと思うのに、それをしない、させないなんとも煮え切らないストーリー。もうワザと殺さないで生き残らせてるんだろうっていう作りのあざとさがバレバレで感じられるから白けてしまう。それがこの作品でもまたレックス・ルーサーJr.で同じことをやってるんだから、見ている途中でオイオイまたこれやってるのかよと頭にきてしまう。スーパーマンはレックスビルの屋上でルーサーをぶち殺しちゃってもぜんぜん問題ないじゃないか。スーパーマンの能力があれば育ての母であるマーサが監禁されている場所なんて見つけられるだろうに。だれだってそう思うに違いないのに、ルーサーが「俺を殺したら母親の居場所はわからなくなるぜ」なんて幼稚なセリフを吐かれて手も足も出せずルーサーを逃してしまうスーパーマン。こういうところが馬鹿げているんだよなぁ。もうわざとらし過ぎて嫌悪感バリバリのシーンだ。ノーランの映画にはこういうお馬鹿シーンが必ず入っている。それまできっちりシリアスにリアルに映画を構築してきているというのに、こういう誰が見てもそりゃおかしいだろうという現実的には合わないシーンが、話の展開のつじつま合わせの為にはいっていて、それでガクンとトータルのクオリティーを落としてしまう。ノーラン病とでも言うべきアホさ加減であろう。それが「バットマンVSスーパーマン」でも予想に違わず出てきたので、ほとほと溜息。

・この映画のストーリーの基礎となるところは、バットマンがスーパーマンによって自社ビルを壊され、社員も死に、そこからウェインはスーパーマンを殺してやるというほどに憎むようになり、財力をふんだんに使ってスーパーマンをやっつけようとする、のだが・・・・途中スーパーマンが母親の名前を呼んだだけで、なんでお前それ知ってるの? と、それだけであっさりスーパーマンと和解して仲直りをする。ここまで激突繰り返してきたのが全部エッという驚きとともにチャラになる。これもまたノーランらしいズボラな手前勝手な自己中のストーリー展開。(まあ、ノーランは監督ではないけど)

・クリプトン星人を蘇らせるにしても「その行為は禁止されています」と警告を受けながら「元老院はもうないんだ」というルーサーの一言で、人工知能が「はい、それではやります」と人間のルーサーにへいへいと従っちゃってるのも馬鹿げてるし。バットマンがあれだけブクブクのスーツというのも見るからに格好悪いし。モンスターも、なんじゃこれはウルク・ハイかトロールかっていうなんの目新しさもないハルクの奇形みたいなデザインだし。(デザイン以前の造形かも)

・ということで唯一この映画のなかで心が踊ったのは、やはりワンダーウーマンが登場するところからだな。ワンダーウーマンにはバットマンやスーパーマンみたいにドロドロ、ネチネチしたところがなく、スッキリ爽やかカッコイイ、アメコミ・ヒーローがそのまま描かれていて非常に好感が持てる。

・まあ、見なくてもいいやと放おっておいたこの作品だが「ワンダーウーマン」が非常に良かったので、前作からの流れをつかむためにと見てみたが、やっぱダメだねこの映画。前にも書いたが、DCとワーナーはマーベルの大成功に歯ぎしりして、なんとかこっちも大ヒットシリーズを作ろうと、ジャスティス・リーグの構想を思いついたのだろうが、「ダークナイト」でのクリストファー・ノーランの大成功にうつつを抜かし、きっちりとしたマーケティングも行わず「ダークナイト」の手法で「ジャスティス・リーグ」を構築しようとした、そして、それは第一作目「マン・オブ・スティール」で出だしから大コケし、第二作の「バットマンVSスーパーマン」でなんとか形勢逆転を図るが、結局「ダークナイト」成功の甘い呪縛から抜けだせず、またしても大コケ。ひょっとしてこのシリーズもう途中打ち切りにするんじゃないかという状態まできたところで、この方向性で次もやったらもうオシマイだと気がついたのだろう。そしてノーランやら「ダークナイト」の呪縛からまったく切り離された女性監督パティ・ジェンキンスを採用して、リアリティーだとか、社会風刺だとか(まあそういうものもあってもいいが)それよりも本来のDCコミックが持っていたヒーロー物の良さ、アメリカ人に人気があった理由をねじ曲げず、伸び伸びと映画で表現したほうがやっぱりいんだろうと彼女に思いっきり自由に「ワンダーウーマン」を撮らせ、それがなんと全米で大々ヒットになったわけだから、今にしてジャスティス・リーグ最初の二作がなぜ失敗したのかに気がついたということだろう。愚かである。

・さてと、今年の秋にはついに「ジャスティス・リーグ」が公開されるが、「ワンダーウーマン」のこれだけのヒットを目にした後では、もう「ジャスティス・リーグ」をまたノーマン流の暗く陰鬱な方向を踏襲して撮るということはないだろう。それをやったら更にバカでしかない。幸いにして現時点で公開されている予告編を見る限りにおいては「ジャスティス・リーグ」はノーマンと「ダークナイト」の呪縛から離れて、というかもうそんなのダメだ、ヤメたヤメたあんな暗くてしかも当たらない作風なんて・・・と、考えを改めて、純然たるアメコミの良さを楽しさ、ワクワク感を映画に持たせているように感じる。BGMがカム・トゥゲザーっていうのもイケてる!!

・さてどうなるか、期待したいところだけどね。

☆ワンダーウーマンのこの登場シーンは最高!!

D

2016-12-16 『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』最高だったね!!

LACROIX2016-12-16

[]『ローグ・ワン/スター・ウォーズストーリー

注)ネタバレあり

・正直、ローグ・ワンには全く期待していなかった。最初のトレーラーが公開された時、主役であるジン・アーノの顔つきがなんともパッとせず、なんだか暗くて主役を務めるヒロインとしての華やかさや輝きがまったく感じられないというのが最初の印象。

監督がギャレス・エドワーズというのも“ う〜ん ”という感じだった。「あの2014年のハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』の監督。日本の怪獣映画が大好きで日本のアニメなども好きでかなりのオタクというのはまあ映画製作にはプラスかもしれないが『GODZILLA ゴジラ』は内容も出来もチャンチャラ日本の真似事から脱しておらず、ゴジラの造形にしてもこれじゃどうしょうもない。という内容だった」ギャレスが監督するとなると作品のレベルは自ずと知れるだろうという気持ちでもあった。

・しばらくすると6月頃に「ローグ・ワン」の撮り直しがディズニー・スタジオから要求されているというニュースが。ギャレス監督の描く映像があまりに暗く、スターウォーズシリーズに馴染まないとか、監督を交代するだとかそういう話も。このニュースを聞いたときは「ああ、やっぱりなぁ、そうなるか」と思った。自分もトレーラーのイメージがあまりに悪かったからだ。

・その後、追加のトレーラーやキャラクターなどが発表になっていくと、まず第一にあまりにも中国市場に媚びたキャスティングをしている点が鼻についた。まあ、かって日本市場が有力視されたときはハリウッド映画でやたら日本で売ろうという魂胆がミエミエのキャスティングが度々行われた時期もあったので、巨大市場に育った中国を無視するわけにはいかないというのはわかる。だが「ローグ・ワン」はスター・ウォーズという一連の作品の一部なのだ、単発の作品ではない。そこに作品世界の流れを無視したような金儲け主義のキャスティングや演出、脚本を入れることは作品そのものを貶める。ファンが求めているものはスター・ウォーズという一つの夢の世界なのだ。何をやってるんだディズニーは、ギャレスは・・・どうしょうもない! そんな風に思った。

登場人物が並んだビジュアルが公開された時も、え、なんだこれ!と思った。まるで日本のアニメを真似たようなキャラクターの面々。ドラゴンボールとか、そんなアニメのイメージが真っ先に浮かんだ。「ああ、ギャレスはまたこんなことやってるのか、もうだめだ」と思った。やたらどでかい甲冑を身につけたようなゴリラみたいなのは・・・なんか、どこかで見たことあるな。中国人の僧侶みたいなのも・・・んー。これはもう駄目かも・・・。

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・と、何一つ良いイメージが湧いてこないまま、ほんとに、ほんとに、まったく期待せず「まあ、一応観るだけは見ておくか」という程度の気持ちだった。

・そして映画が始まると・・・なんと、あのスターウォーズのオープニングが無い! えー、あれはスター・ウォーズ・シリーズとしては出だしに必須なのではないのか? あれがあるから、あのジャーンがあるから一気に現実の世界から映画の世界に気持ちが切り替わって映画を最高に楽しめるんじゃないか? あのオープニングを抜くなんてなんたることだ・・・と思った。

・そしてしばらく見ていると、なんだか雰囲気がこれまでのスターウォーズ・シリーズと違う。なにか奥行きのようなものが感じられない。薄っぺらな話がすすんいく。「ああ、やっぱりこれはスター・ウォーズらしさがないぞ、これは完璧な失敗作なんじゃないか」そう思えた・・・登場人物たちの演技もどうも軽薄で、重みがない。やはり売れ筋ではないあまり有名ではなない俳優でそろえたせいか、とにかくジワっとくる味のようなものがまるで感じられないのだ・・・。

・しかし、30分を過ぎた辺りからだろうか、ストーリーがムクムクと動き出してくると・・・ん、ん、ん、なんだか面白くなってきたぞ。あれ、なんか良くなってきたぞ・・・なんなんだったんだ最初のあのダメダメ感は、だんだかムチャクチャよくなってきてるじゃないか! と映画に夢中になっている自分に驚く。

・そしてラストまで突っ走る! ダメダメ映画だと思っていた自分のファーストインプレッションは杞憂に終わった。ローグ・ワン!メチャクチャに面白かった。

・いかにもアニメチックなキャラ達で、なんだか冴えない顔つきの連中ばかりだったのだけど、驚いたことにこのキャラ全員が、もの凄くイイ奴らばかりなのだ。それこそ日本のアニメっぽいとも言えるのだけど、あざといなと思っていた例のジェダ寺院の僧侶も・・・いいやつなのだ。ベルズもキャシアンも今ひとつ冴えないのだけど、でも最後にはイイ奴だなって思えるのだ。まったくダメダメなパイロットに思えたボーディ−も・・・泣けるくらいイイ。主役のジーン・アーソも、ほんと今ひとつ華がないのだけど・・・でも、やっぱりイイ奴なのだ。そしてなんといってもロボットの K-2SO が見事なまでにイイ、ひねくれキャラのイイ奴なのだ。そう、ほんとにびっくりした、ローグワンのメンバーが全員、ホントにいいやつらばかりだったのだ。まるでワンピースの仲間みたいな感じだ!

・なんだかセリフも設定も演出も、日本のアニメからかなり持ってきてるなという感じがするのだが、それが却って馴染みやすさにもなっているのかもしれない。

・まあ、もちろん色々ツッコミたいところはあるのだが、見終わった感想は、素直に「よかった、楽しかった! これはなかなかの一作だ」となった。

・ROGUE = 無法者、荒くれ者、はみ出し者・・・・俺たちはローグ・ワンだ! そうか、そうだ、なかなかカッコ良かったぞ!

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《以下完璧ネタバレなので、観終えた方のみどうぞ》

・AT-ATスノーウォーカーの描写はなかなかよかったね。脇からドカンとミサイルを食らって首をガクンと振りながらもまたこっちを向くシーンはオオといいたくなるかっこよさだった。でもやっぱりエピソード5の雪の中のシーンのほうがいいかな?

ダース・ベイダーはスターウォーズ・シリーズ全作品のなかで一番凶暴だったかも? 愛するパドメを失って、ダークサイドに落ち、パルパティーンの元で今が権力とダークサイド・フォースの力の絶世期とも言える時期だろうから、もうぶった斬り殺しまくり・・・いやはや。

スターデストロイヤーに襲いかかるXウイングの集団・・・しっかし、なんで TIEファイターが飛び出してこないんだ。スター・デストロイヤーを囲んで宇宙での戦闘機バトルをするシーンには TIEファイターとのドッグファイトが欠かせないだろう! それがいつまで経っても TIEファイターが飛び出してこなくて、Xウイングだけでスター・デストロイヤーを攻撃してる。「これはありえん」と思ってたらようやく一斉に TIEファイターが飛び出してきて戦闘本格化。オイオイ、遅すぎるぜ、TIEファイターが出てくるのがあまりに遅すぎるよギャレスさん、わかってんの?

・スター・デストロイヤーが真っ逆さまに落ちるシーンはオマージュとして最高!

・そしてだ、一番期待したシーンでもあり、一番よろこび飛び上がったシーンでもあるのだけど、改めて考えるとあれじゃ駄目だと思う、徹底的に駄目だとおもうのが、ラストだ。

・反乱軍兵士が駆けつけた部屋には、白いあの衣服を着た女性がこちらに背を向けて立っていた。そうだ、そうだ、ついにレイア姫が出てくるんだ、どうなるんだ、と振り返ったレイア姫はCGで見事に合成されたエピソード4当時の若々しいレイア姫だった。このシーンを見た時は「うひょー」っとめちゃくちゃ嬉しくなった。「フォースの覚醒」でハン・ソロチューバッカが登場したシーンにも勝る最高のシーンだ。兵士が「これは、いったいなんなんですか」とレイア姫に尋ねる。するとレイア姫は・・・・・

・最高にいいシーンだった、めちゃくちゃ胸がドキドキした。しかしだ、ちょっと思い出すと、あのシーンであのレイア姫の顔つきはないな。なんだかちょっとにやけたような顔つきで「・・・・」と言う。いや、違うだろう。本当のレイア姫ならエピソード4の冒頭で見せたような不安と悲しみ、憂いをもったような表情であるべきだ。沢山の兵士が死んで、ジェダの都市もデス・スターに破壊され多くの人が死んだ中でもたらされたアレを受け取ったならレイア姫は、深い悲しみの中であの言葉を話すだろう。それが・・・なんだか半分にやけたような顔なのだ。ようやく手に入れて嬉しそうな、そんな顔なのだ。おいおい、ギャレス! あの顔はないだろう。せっかくレイア姫を復活させたのに、なんで表情にもっと気を配らなかった、その辺がまだまだギャレスの監督としての若造ぶりなのかも、しかしスタッフにしろなんにしろ、あの表情はおかしいとすべきだろう。(ちょっと怒り)

・スター・デストロイヤーがなんかやたら真っ白で塗装をしてないプラモデルみたいなのがあったり、爆発して人やトゥルーパーが吹っ飛ぶシーンが、どれもこれもいかにもワイヤーで引っ張ってますってわかるような飛び方してたり、そしてそういうのが何度も繰り返されたり、そういう細かいとこにも気になる部分が多々あった。

・そしてまたラスト近くだが、ジーンとキャシアンの最後となるシーン・・・これってまんまディープ・インパクトじゃないか。もうちょっと工夫しろって言いたい。

・最後に、何よりも驚いたのは、いかにこのローグ・ワンがスターウオーズ・シリーズのスピンアウト作品で、一作限りの物語だとしても、まさか全員が最後に消滅してしまうとは思いもしなかった。俺たちは荒くれ者さ、ローグ・ワンさ! そういって仲間になり助けあってデス・スターの秘密を手に入れる。最初はおもっていなかったけど、ローグ・ワンの面々は本当にイイ奴ばかりだった。そのイイ奴らが全員最後には消滅してしまう物語だなんて、ちょっとそれは悲しすぎた。

・いずれにせよ、期待度ほぼゼロだったのに、この「ローグ・ワン スターウォーズ・ストーリー」はなかなかに最高の気分にさせてくれる映画だった。他のスターウオーズシリーズと色彩の並びはちょっと違うが、なんだか日本のアニメっぽくもあるが、そういう思い以上に、もの凄くいい作品、胸が高鳴り心躍る素晴らしい映画だったといえよう。

2016-07-27 『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』なにこれ?守銭奴の餌食にされた原作

[]『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』

・『シン・ゴジラ』の公開前に、昨年公開されて映画史上イチニを争う超駄作、どうしょうもない映画と評される『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』の前後編を観てみたが・・・。

・なるほど、最近の映画製作にありがちな、人気女優、俳優、アイドルをズラリと並べて出演させれば、それだけ客の入りが見込めるという作品の本質にはほとんど関係のない客寄せキャスティングの典型のような映画。個々にどれだけ人気があろうが、雁首ずらりとならべたところでその人気が累乗して重なっていくわけではない。こういう見苦しく浅ましくおぞましいまでの“雁首並べキャスティング”が行われるようになったのは『20世紀少年』あたりからだろうか。豪華キャスト勢揃い!なんて宣伝コピーじゃ動員は稼げないってことが未だにわからないのか。作品の中身、クオリティーよりも兎に角コケないように、大失敗して自分が責任とらされないようにってことで、人気者、知名度の有る者を集めよう!なんてやって、却って大ゴケを導いているってことに・・・気がついてもそれを是正できない、それが日本映画界というやつかもしれないが。

・それにしても本の酷さは有り余るほどだな。映画になにより大事なのは脚本だというのに、その脚本、物語がここまででたらめでメチャクチャじゃ誰も支持するまい。一本でまとまるような内容の作品を二本に分けて興行収入少しでも稼ごうってのも最近の邦画界のしょうもないところだが、今回の「進撃の巨人」に至っては前編が1時間38分、後編が1時間27分と・・・もうね、そこまでして観客から金を巻き上げたいのかと。前後編二本にするならどっちも2時間ものにして、内容もじっくり練り上げて、どっちを見ても充分満足というのにしろよと! 映画一本分の製作費で撮ったものを冗長に編集して2本仕立てにして鑑賞料倍にして取り上げようという魂胆があまりに酷い。

監督の樋口真嗣にしろ、脚本に顔をだした映画評論家の町山智浩にしろ、また、今回の映画化に首を出した原作者の諫山創に、この映画のラッシュでも見た時に「なんだこれ、話の整合性がなってない、筋が通ってない、わけわかんないじゃない」って思わなかったというのか。いやぁ、普通に考えたらこれだけメチャクチャな展開で「なんでこうなるの?」ってストーリーに疑問をもたないわけがない。というかもっと最初の脚本の段階で話のつながりがおかしいだろう!って気がつく。そして撮影をしている最中でも、編集をしてるさいちゅうでも、どうかんがえてもフツーにこうくるのは見ていて疑問詞が着くだろうと思うはず。少なくとも映画という世界で仕事をしている人間なら、ギョーカイの外にいる一般の観客よりもその点にかんするアンテナは敏感なはずだ。いやそうでなくてはならない。それが・・・・

・その辺の裏事情に関しては嘘か誠かは不明として、ここに詳しく書いてあった。これを読むと町山は悪くない、悪いのは樋口と渡辺と諫山だ!ってことになってしまうが。http://d.hatena.ne.jp/type-r/20150822

・結局のところ、いろんな人間がいろんなところから首を突っ込んで、自分勝手なことを主張して、エゴモロ出しにして、ひとつの作品としての全体像を誰も見ることをせず、あっちこっちをネズミがガシガシ齧ってボロボロにするように脚本と映画をボロボロにしてしまったということだろう。

・正直、樋口真嗣にはアクションシーンや特撮シーンなどの「シーンをつくる」ことにかけては秀逸だと認めてはいるが、こと物語を紡ぐということ、一本の映画として物語をまとめあげるという能力にかんしてはもうダメダメどころかゼロといってしまってもいいくらいだ。特撮に力を集中させて監督なんて大業には今後手を出さない方がいい、出すのだとしたら脚本家が綿密に組み上げた映画の設計図である脚本を一字一句修正せず、脚本のままに映画として撮り上げることだろう。残念ながらこの『進撃の巨人』においては脚本そのものが最初からダメだった上にさらに改悪が随所に繰り返され、最後には見るも無残なボロボロつぎはぎだらけで、ストーリーにリズムも一貫性もなにもない最低映画に成り下がってしまったというほかあるまい。

・最初にキャスティングのことを書いたが、一人ひとり単独で見てみると、石原さとみにあのクレイジーなトンデモキャラをやらせたのは良かった。(話としてではなく、単純に一人のキャラとしてだ)映画のなかでは浮きまくりトンデモまくりだったが、石原さとみにあの手のキャラクターがこれほどピッタリとは驚きでもあった。

・水原希子もミカサ役として映画のなかで他の登場人物と絡むと、なんだかなぁ〜という感じだが、じっと黙って何かを訴えるようなシーンで一人だけスクリーンに映っていると、なかなか味のある顔だし、顔だけで演技が出来る風でもある。顔に力があるのだな、モデルということもあるし。しかしそれが喋ったり演技をし始めると・・・ダメになる。

・サシャ役の桜庭ななみもナイス。大食のお馬鹿ちゃん的イメージが実にピッタリだが、弓を射るときはなかなかの眼力でカッコイイ。まああんまりセリフもなかったし、この娘も他と絡むシーンになると大根っぷりが出てきてしまっていたが、それでも存在感はあった。

・それに引き換え、男性のキャストは、なんだか薄っぺらで印象に残らない連中ばかり。シキシマ役の長谷川博己はいい感じかと思ったが、リンゴを食わせたり、シャンパングラス傾けたり・・・オイオイ、勘弁してくれよという演出の軽薄さが俳優の良さを台無しにしていた。

・2004年は「デビルマン」「キャシャーン」と最悪の実写映画が続いたが、10年経って悪夢は蘇り、この「進撃の巨人」の後に「テラフォーマーズ」という更に最悪の漫画実写化作品が公開されたわけで、考えてみると2015年は史上最低映画といわれる「進撃の巨人」で、その次の2016年に更に最悪といわれる「テラフォーマーズ」が続いたわけだから、去年から今年は邦画史上でも最悪の年だったのかも。まあ、その間にも「ガッチャマン」とかもあったけどね。

・そして今年2016年夏は「シン・ゴジラ」が公開される。監督の樋口真嗣は最近じゃプロモーションに一切出てこない。噂では、当初は樋口真嗣に「進撃の巨人」の監督をさせて、そのヒットの勢いで樋口の名前を広め、次に“あの「進撃の巨人」の監督である樋口真嗣最新作「シン・ゴジラ」と宣伝するつもりだったのが、あまりに「進撃の巨人」の評判がわるく酷すぎたので「シン・ゴジラ」の宣伝班は「だめだ、樋口の名前は使うな。せっかくの東宝の看板映画であるゴジラで失敗するわけにはいかん! 樋口の名前をだしたら「あの進撃の巨人を撮った監督だろう、じゃあだめじゃん」となってしまう。今後プロモーションで樋口の名前は極力伏せろ、そうだそのために総監督としてもっとオタク層に人気のある奴をもってきて樋口の名前を隠してしまえ」なーんてことになってるんじゃないだろうか。「シン・ゴジラ」の完成報告会見にも監督の樋口真嗣は顔も出さず、どこのも映らず、メディアの取材や記事も総監督庵野秀明で統一されちゃってるからね。もう明らかに樋口の名前を伏せようという意図が見えていてなんというか可哀想というか・・・監督やってるのにねぇ。

・そんなことを思いながら、進撃の巨人に出てくるあの巨大な巨人を見ていたら・・・ん、なんかに似てないか? 体の表面の奥に筋肉というか赤い肉のようなものが見えているこの造形、イメージ・・・・おいおい、シン・ゴジラも似たデザインじゃない・・・大丈夫なんだろうか? シン・ゴジラ・・・・・

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2016-07-11 『インデペンデンス デイ リサージェンス』愛すべき最高お馬鹿映画

LACROIX2016-07-11

[]『インデペンデンス・デイ: リサージェンス』

・「インデペンデンス・デイ」第一作からもう20年かぁ、時が経つのは本当に早いなぁという感じ。

・第一作はあの巨大なUFOが衝撃的で大ヒットしたけど、段々と中身のデタラメさに“お馬鹿映画”の称号が付き、それが高じてさらには「こういうお馬鹿映画も面白いじゃない!」と逆な意味でいう評価が上がった珍しい映画。自分も映画館で最初に見た時はそれまでになかった圧倒的な映像でスゲェ〜と思ったけれど、DVDとかで見返すと、なんともお馬鹿なシーン、ストーリーが満載で、次第に「これはSF映画じゃなくて、ギャグ映画だな」と思うようになった。

・その「インデペンデンス・デイ」が20年という時を経て続編の製作と聞いて、うわー、どうなるんだろうと面白半分で期待していた。なにせ監督のローランド・エメリッヒは「インデペンデンス・デイ」(1996年)以降はと、トンデモ映画、オイオイ映画ばかり作ってきている監督で、作品の質を期待することは殆どない。「エメリッヒでしょ? どうせ!」と言われるような監督だったからだ。(興行収入はそれなりにいってるところは凄いが)

「GODZILLA ゴジラ」(1998年)

「デイ・アフター・トゥモロー」(2004年)

「紀元前1万年 10000 BC 」(2008年)

「2012」(2009年)

・さて、そして20年ぶりに帰ってきた「インデペンデンス・ディ:リサージェンス」、CMや予告編を見るとCGIのレベルが相当に上がっているし(20年前の第一作の時は爆発シーンなどで火薬を使っていたり、日本の特撮のような撮影方法であった)、真面目でしっかりした超SF大作のような雰囲気だ! 第一作を知らない人、見たことのない人がこのCM、予告編を見たら「なんか、凄そうな映画が来たな。映像も凄いし面白そう」と思うだろう。しかし第一作を知っていると、この映像を見ながらプッと思わず笑ってしまうのである。「雰囲気は真面目で凄そうなSF映画だけどこれって・・・」と笑えてしまうのである。

・ジェフ・ゴールドブラムがまたマジ顔でセリフをしゃべっていると、それだけで思い出し笑いしてしまうし、ビル・プルマンが出てくると、おお!あの大統領がまだ生きてたのか!とか思ってしまうし。「今度のは前のよりでかいぞ」なんてセリフを聞くと「ギャッハー、20年経っても前と同じことをしようとしてるぅ、デカさで売ろうとするエメリッヒは健在だぁ!」と大笑いしてしまうのである。

・ということで、今回は作品の質に期待するというのではなく、20年経っても(映像はすごくなってるだろうが)また同じお馬鹿な映画作ってるのかなぁと、そういった期待が大きく、ある意味どれだけそのお馬鹿さの期待に応えてくれるかを大いに楽しみにしてこの映画を見た!

・そして、その期待は100%裏切られることはなかった! エメリッヒは全ての期待に応えてくれた。やっぱりエメリッヒは“お馬鹿監督だw!”

「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」は史上最高のおバカ映画と言っていい。ただし、頭に“愛すべき”という言葉を付け加えておく。

この映画は古今東西稀に見る、映画史上最高の“愛すべきおバカ映画”である。(監督のエメリッヒもお馬鹿映画の代表としよう)

・いやー、予告編を見て、なんかモノスゴイ、かっこいいSF映画を期待した人は逆に頭にくるんじゃないかな? なんだこの映画は!くだらん!と怒りだすかも。20年前の第一作を観て知っていて、そのバカバカしさに愛着を感じている人にとっては「20年経ってもおんなじバカなことやってるバカ映画だねぇ」と微笑んで楽しみながら観れるけれど、初見の人にとっては「どうしょうもない映画だ」となるかも。この映画を観る人には世代のギャップが大きく広がっているかもしれない。

・今回の宇宙船は前作よりはるかにデカイというのは聞いていたが、映画の中のセリフでは全長3000キロとか言ってたなぁ。www アホちゃう? 第一作の宇宙船が全長24キロでこれはデカイなぁと驚いたのだが、今回のは言ってみれば日本列島の端からは端までと同じくらいの大きさなわけで、ここまで大きくしちゃったら、人間から見たら空全部が宇宙船なわけで、逆に巨大さとか物凄さが感じられなくなってしまっている。頭の上、見渡す限り全部が宇宙船なんだから、大きいとか小さいとかじゃなく、空に蓋がかかってるようなもの。これはやり過ぎの大失敗、流石エメリッヒ!と言いたくなったね。

・まあ、その他にもツッコミ所は満載なのだが、この映画はツッコミ所をギャグとして観なければならない。いや、エメリッヒはスタッフは至極真面目に作っているのかもしれないが、それがことごとくお馬鹿なギャグ化しているのだから、そこを指摘してもしょうがない。楽しんで笑うのがこの映画の観方とも言えるだろう。

・それにしてもなぁ、まさかインデペンデンス・デイが怪獣映画になって帰ってくるとは思わなかった。日本の怪獣映画ファンオタクであるギレルモ・デル・トロが作った「パシフィック・リム」やギャレス・エドワーズの『GODZILLA ゴジラ』は日本のロボットや怪獣映画を尊敬し、その流儀やスタイルを踏襲してハリウッド方式で日本映画を作ったものであり、作品の出来はイマイチだったが日本の怪獣映画をここまで愛してくれているんだなという気持ちは嬉しかった。しかし、しかしだ! なんとローランド・エメリッヒはその怪獣映画ヲタの二人よりも更に更に凄い日本映画式怪獣映画を作ってくれたのだな。

・いやー、もう驚き。エメリッヒの『GODZILLA ゴジラ』は日本のゴジラの良さを全然わかってないダメダメ作品だったが、今回の「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」は設定からバカバカしさはまるで日本のTV特撮怪獣シリーズ(ウルトラマンタロウとかに近い)であり、怪獣の描写は日本の怪獣映画のニュアンスが強く感じられる。

・ほんと、科学特別捜査隊とか地球防衛軍とか宇宙科学警備隊とかが怪獣から地球を守るって設定とその中で出てきたお馬鹿な怪獣攻撃とかの映像が今回の「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」で巨大宇宙船や宇宙人に向かって戦いを挑むアメリカ軍の姿と似てるんだよね。おかしなくらい。この脚本家、日本のウルトラシリーズを土台にして脚本かいたんじゃない? ッて思う位。そしてなんとも、エイリアンとの戦いが・・・・おいおい、これってまんま日本の怪獣映画になっちゃったじゃないか〜と、スクリーンを観ながらびっくり仰天、そして大笑い。いやはやエメリッヒさん、ここまでやってくれるとは御見逸れしました。

・前作で出てきたキャラクターが沢山でてきて、前作をネタにしたようなギャグ(本当は真面目にやってるのかも)を披露するし、ビル・ブルマンが前大統領のくせにエイリアンを格納している場所に入っていって「俺が犠牲になる!」といって首を触手でグゲゲと締められて、エイリアン語を翻訳するシーンとか、もうホントによくもここまでお馬鹿シーンを真面目に復活させるもんだなぁと恐れ入る。

・途中からは段々先が読めてきて、あのスフィア(球体)が出てきて「敵の敵は見方」なーんて言い出すところなんかもう予定調和。アフリカの黒人の部族長かなんかがスウォード(剣)でエイリアンをズッタバッタやっつけるところとか、あんまり名前が知れていないギャラの安い、だけでかなり美形で可愛い女優をぞろぞろ出演させてるところとか、中国の巨大市場を意識して軍のトップが中国人だとか、その娘が美形のパイロット(アンジェラベイビー(楊穎)という中国人アクトレス)だとか、この女優もぱっと見、日本の昔の女優の若いころみたいな感じで可愛いとおもったが、役はスカスカのただの飾りでしかなかったし、エイリアン研究者は同性愛カップルだったんだとか、もう、いやはやサイコーですねと言えるお馬鹿の連発にただただ顔がほころぶばかり。

・意外と言えば超意外で、冒頭からシャルロット・ゲインズブールが出てきたこと。映画の情報サイトやキャストの紹介でもシャルロット・ゲインズブールに言及したり取り上げている所はほとんどないね。あの「なまいきシャルロット」の時の妖精のように可愛らしかった女の子がこんなにシワクチャなオバサンになって出てくるのはちょっと目を背けたい気分も。同じフランス人女優でも「ラ・ブーム」でブレイクしたソフィー・マルソーは歳をとっても妖艶な美しい女に成長したのだけれど、S・ゲインズブールはそれとは逆になってしまっているみたいでちょっと悲しくもあり。

・まあそんなかんなで、この史上最高のお馬鹿SF映画は、お馬鹿をどんどんと積み上げていき、最後にはお馬鹿なりにスッキリ気持よく楽しめるラストでしめくくってある。ジトジト梅雨の湿っけと、ジリジリ暑い夏の中、ひんやりと冷えた映画館でこういうお馬鹿映画を観て、あんまり難しいことを考えず、頭を空っぽにして楽しむってのがこの映画の観方なんじゃないかね? そう考えていれば充分に楽しめる。

ただし、前にも書いたがそれは前作がおバカ映画に変化していき評価を逆の意味で上げたという前作を知って楽しんでいる世代に限ったものであり、まったくなにもその辺のことを知らない人が、期待してこの映画を見たら「なんだこれは、どうしょうもない、馬鹿げた映画だ」となる可能性は非常にたかいだろうな。現にこの映画のことをネットで書いているページはそういう内容のものが多いようだ。

・この映画を観て、くだらない、馬鹿げてると思った人は、前作を観て、そのお馬鹿加減をハッハッハと笑いながら楽しめるようになってから、もう一度この新作を見返せば、楽しめると思うな。

・愛すべき、史上最高のお馬鹿映画に乾杯!

2014-12-01 『インターステラ−』2014年、今年の一作はこれになる!

LACROIX2014-12-01

[]『インターステラ−』

・2時間49分 映画を映像をじわりと噛みしめるように堪能した! 素晴らしい! 久しぶりに《映画》を《観た》〚満足感〛〚充足感〛に浸れた一作。2014年ナンバーワン映画は『インターステラ−』にほぼ決まりだ。

・兎にも角にも話が面白い。難しいとも言えるが、実に巧くリズムテンポを保ちながら全く飽きる気配など感じることなく、どんどん話に引きずり込まれていく。いや、ほんとに映画の面白さ、映画ならではの映像、展開、映画そのものの素晴らしさをじっくりと味あわせてもらった、見終えた後のこれだけの充足感、満足感も久々だ。

クリストファー・ノーラン監督作品は映像は美しく素晴らしいのだが、脚本に毎回すっとんきょうとも言えるような大穴がある。致命的な欠陥というわけではないが、その一歩手前くらいのどうしょうもない話のすっ飛ばし、監督の脳内がうみだしたような超ご都合主義的な物語の運び、脚本の粗が必ずある。それがあるから「ああ、また今回もこんな超ご都合主義で登場人物に出来るはずもない不可能なことをやらせてる」「だれがどう考えたってここはおかしいだろう」というのが引っかかって、作品そのものを両手で評価するようなことが出来なかった。

・しかし、『インターステラ−』はそういった監督のご都合主義で書いたような展開はなく、科学的検証もきっちりやったであろう、しっかりとした脚本、ストーリーであった。たぶん、こういう非常に難解な科学的な内容を含む話だからきっちりと科学者、物理学者に話を検証させたという。それがあったからいつものとんでもない“大抜け”が無くなったんだろう。

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・マッド・デーモンのくだりは蛇足。あそこがなければもっと尺も切れただろう。あそこがあるせいでそれまで上品で高尚で気品のあった作品に濁りが出だ。まるで繊細で上品なお吸い物に醤油をどっぷりと掛けたようなおぞましい蛇足だ。

・星野先生の作品に似ているという指摘はネット上でもかなりでているが、これは誠にもって否定しがたい。話そのものもそうであるが、宇宙船のデザイン、惑星と宇宙船のカットなど星野先生の作品のあの場面やこの場面が目に浮かぶ。星野作品は海外でも英語に翻訳されてかなり出版されているが、それを基にしたというのは可能性はかなり高い、いや確実ではないか?

ラストで、一人惑星に辿り着いたアメリア(アン・ハサウェイ)の姿が映る。そして新型の宇宙船に乗り込み旅立つクーパーの姿も・・・アメリアはあの後、凍眠カプセルに入り、誰かが自分を見つけてくれることを信じて眠り続けるしかない、たった一人惑星に辿り着いたアメリアにはそれしか選択肢がないのだ。自分はラストに期待した・・・荒れた惑星の大地で絶望に打ちひしがれたアメリアはきっと救われるんんだと、きっとこの後、ラストではアメリアがたどり着いた惑星にクーパーが時を超えて辿り着き、アメリアの凍眠カプセルを開けるのだと、そして眠りから覚めたアメリアとクーパーの抱擁でこの映画は終わるのだと。しかしそのラストシーンはなかった。・・・・・・そうあって欲しかった。きっと星野之宣であれば、それがラストシーンとして飾られたことだろう。しかし『インターステラ−』においては、アメリアの絶望とクーパーの旅立ちで映画が終わってしまった。この映画のラストは衝撃のラストだ、だが、本当に欲しかったのは身震いし慟哭するほどの《感動のラスト》だ。本当のハッピーエンドにしてほしかった。きっとクーパーはアメリアを救い出しただろう、そういう想像は出来る。だが、この素晴らしい映画のラストは本当に素晴らしい胸がすくような、涙と感動で体中がわなわなと震え出し、男でも女でもわっと感極まって泣き出してしまうようなラストにしてほしかった。そこが悔しいくらい残念なのだ

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・事象の地平線( EVENT HORIZON )

吹き替えは秀逸。剛力彩芽は嫌いじゃないが、そんな実力も表現力も感情もだせない剛力に拙い日本語の吹き替えをさせて吹き替え版を最悪のものにしたフォックのプロメテウスみたいなお話にもならない愚挙をワーナーはとらなかったというだけで○

・天体物理学者のロミリー(デビット…ジャージー)は「自分はここで待ってブラックホールの研究をしたい」とエンデュランス号に一人残ったわけだが、アメリアとクーパーが最初の探査惑星(ブラックホールの超重力により時間軸が歪み、惑星での1時間は通常の7年分に相当すると計算されていた)から戻った時、アメリアが「何年経ったの」と尋ねると「23年だ」と答えているのだが、23年も経っているのにロミリーはちょっとヒゲを増やしただけで全然老けこんでいないというのがなんとも抜けている。

・星野之宣作品からの流用といっても過言ではあるまい。

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_☆2009-06-01 『天使と悪魔』:この映画も星野之宣作品からアイディアを取ったと思われる。


/ハンス・ジマーのサウンドは、壮大で荘厳。かってのヴァンゲリスを彷彿させる素晴らしさ。

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☆インターステラ− 批評・感想 by Lacroix

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2013-08-02 『風立ちぬ』こんなにも美しく切ない純愛物語だったのか。

LACROIX2013-08-02

[]『風立ちぬ』

・零戦を作った男の物語と聞いていたので第二次世界大戦やその時の兵器工場などの絵を頭に描いていたのだが・・・、映画が始まるといかにも宮崎アニメといった穏やかで平和そうな昔の町並みの映像が流れる。その風景描写が実に美しく心を和ませる流石という巧さで、アニメーション独特の柔らかい色と映像がほのぼのとした気持ちを醸し出す。しかし、ホッとしてその気持ちに浸っていると、唐突に美しい風景の中を静かに波紋のようなものが走る!「え、なにこれ? これって地震な? いきなり地震がくるのか!」と、ハッと息を飲み込み目を見開いて驚く。静かに地面を伝わり広がっていく波の線がこれから起こることへの身震いするような恐怖の予感を駆り立てる。そして、次に現れたのは幾重にも強烈に上下に揺れ動く家屋と耳の奥まで届き脳みそを振動させるような重低音。まさに今ここで自分が地震のど真ん中にいるような錯覚におちいる。この場面が出てきた時、まさか零戦を作った男の物語に地震が出てくるとは考えてもいなかったため、かなりの衝撃であった。(この上下に揺れ動く家屋の映像は『風の谷のナウシカ』にでてきたオームの外郭の動きに似ている。いかにもジブリ流の表現なのかも。それがこんな地震の描写にも生かされているというのもまた驚き)

・出だしからいきなりこの関東大震災描写地震の描写にとは、これにはガンと頭に衝撃を受けた、そしてこの地震描写はまるで今自分があの3.11の時に戻ったかのように、あの強烈な地震の中にいるかのように激しく怖かった。いままで映画で観た地震の映像でこんなにも本物の地震を感じ、その押し寄せてくる恐怖を感じ。まさに自分が地震のどまんなかにいるような恐怖感を覚えたものは未だかってない。それほどまでにこの地震の描写は凄かった。ざまな実写映画の地震の描写よりも遥かに凄まじく恐ろしかった。3.11の東日本大震災を体験してしまったことも一因かもしれないが。

・そしてその後の大火、逃げ惑うたくさんの人々。一気に心は映画の世界に引きずり込まれた。

・TVのインタビューで宮崎駿は「昭和を描くには関東大震災から始めなければいけない」というようなことを言っていた。(関東大震災は大正に起こったが)巨大地震の後のボロボロの中からの復興ということが昭和の始まりということなのであろう。昭和は日本の真ん中の東京がボロボロになってゼロになって、そこから立ち上がって行く時代だったということであろうか? そして戦争に突入し、再び焼け野原になりまたそこから立ち上がっていく、それが昭和という時代だということであろうか。

・また、宮崎駿は「とにかく軍隊が行進するとか、戦火が広がるとかそういうことは映画着たくなかった、そうしたらドキュメンタリーに取り込まれてしまう」「堀越二郎を描かないと、この国のおかしさは出てこない」とも言っていた。

・なるほど、そういう気持ちで作られた映画なのかと改めて思う部分はあるのだが、実際に自分がこの映画を観た後に感じたものは、先に書いた地震描写の凄まじさはその1つとして、映画を見終えた後にすぐに映画全体として映画全てとして感じた印象は、戦争でも戦争の悲惨さでも、あの頃の軍隊のおかしさや、この国のおかしさでもなくて、《純粋で純粋で純粋極まりない“恋愛”》というものだった。



生きて、生きろ、生きろという言葉は愛する妻への言葉、全人類でも戦争当時の日本人でも、だれにでもなく極めて個人として愛する結核にかかって残り少ない命を灯している妻への言葉。

自分の素直な印象では、宮崎監督が描こうとしていた昭和という時代、戦争、この国のおかしさ・・・そういったものは映画全体から感じ、受け取ることはなかった、部分的にそういう描写があったという記憶は残っているが、全然、マッタク、戦争の映画には思えなかった、感じなかった。純粋な、純粋すぎるほど美しく、汚れない、極めて真っ直ぐでなんのけれんもない本当の純愛物語だと思った。人それぞれであるけど、監督が戦争や昭和を描きたかったと言っていたのに、その作品から受けるものがマまったく違っていたというのは、監督の思いと、描いて出来上がったものが発するものが別の方向を向いているということではなかろうか。そういう意味で皮肉な言い方をすれば、この映画は監督が当初描こうと思っていた思いが伝わってこない、別のものが伝わってくる、つまり描こうとしたものを伝えきれない失敗作という捉え方も出来る。だがそれは作品としての失敗作ということではなく、監督の思いの描き方としての失敗作であり、作品としてはジブリの中でも断トツの素晴らしい作品であると思う。結局宮崎監督には戦争の悲惨さやあの時代やこの国のおかしさを描くことは出来なかったのだ、完成した作品は別のものになっていた、別のものが強く描かれていた。作品には監督の心が宿る。とするならば、監督の優しさや純粋な愛という心がこの映画に強く宿っている、宿ってしまっているのだと思う。そして監督が口にしていた戦争や昭和やこの国のおかしさが描かれていなくても、自分はこれでよいと思う。

・この映画は監督の思いや意図が全然違う方向へ伸びて、発展して作品となった大いなる失敗作であり、だけどそれ以上に、口に出していった考えや思いを遥かに超えて、監督の心が投影され描き写された素晴らしい作品だともいえる。口に出す思いよりも心のなかにある思いのほうが本当なのだ、その人をあらわすものなのだという証明なのかもしれない。

声優の声も実に良かった。

2013-04-13 『ハナミズキ』超偽善的映画。恋空パート2か・・・なるほど

[]『ハナミズキ』(2010)

・新垣結衣はすっと立っていると、真正面からカメラに映っていると、実に端正で整った顔でお人形のようで、まさに美形なのだが・・・なんで、出る映画、出る映画こんなのばっかりなんだろ? 変な監督と妙な脚本家とアホなプロデューサーにものすごく好かれる、そういう類の人を引き寄せる特別な魅力があるということなのだろうか・・・って、そんな風に思えてしまうよなぁ。

・いやはや、マジでこれって『恋空』の続編かよってもんで、もうトホホ。設定があまりにもあまりに類型的でお決まりで、手垢ベトベトで、オイオイと言いたくなる。もう笑ってしまうようなとんでもなさ。いや数十年前のお昼のメロドラマとかってこんな感じだったのかも?それを復活させたのか? 

・9.11に関することも「あんとき、ここで見てたんだよね」でオシマイかよ。こんな映画に9.11が絡まされたんじゃあの大惨事をただ小ネタにしてるとしか思えない。あの事件のことなんか丸で考えてない、ただ言葉を挟んでおきましたってだけ。あの惨事に対しても不謹慎、不道徳としか言えまい。

・その上今度は戦場カメラマン、フォトジャーナリストなんてものを引っ張り出してきて「命かけてるんだよ」の押し売りか? 戦地の子供を大写しにした写真を背景に新垣がしゃべっている姿なんて、オイオイ、更に人道主義や平和主義までこんな映画の出汁に使うのかと憤り。 

・もう9.11やら戦争ジャーナリストや、戦時下の子供の写真やらを次から次へと出してくるのを観ていたらメチャムカツイてきた、こいつら、この映画作った輩って最悪最低だなと。

・で、この映画はなんなんだ!と言うなら、全編にわたって超偽善の似非人道主義と純愛?の皮を被せた、スカスカ軽薄・短小、短絡、偽善、偽愛の月9ドラマ・・・ってとこか?

脚本:吉田紀子・・・『Dr.コトー診療所』のときは、おお、なかなか凄いな、上手い!と思ったのだが、それ以降は????だ。この映画に関してはもうバツ、バツ、バツの3乗。どうしてここまでご都合主義でいいかげんで、テキトーな脚本を書けるのか、読み返してみておかしいって思わないのか? まあ、監督やプロデューサにさんざん弄られ、こうしたほうが受ける、こうしたほうが人が入るとグシャグシャにされたのかもしれないが、いやそれにしてもなんだこのお話は。

・監督:土井 裕泰・・・まあ、TVの人だからってことで納得か?

・最近変なことばっかやってる一青窈だが、この映画を観たら、自分が9.11のことを思って思って考えて考えて描き上げた私の曲が、こんなトンデモ映画に使われちゃってる。。。トホホ・・・てな感じでいるかもしれん。w

2013-03-10 『桐島、部活やめるってよ』2012年度版“桜の園”って感じではあるが

[]『桐島、部活やめるってよ』

・やはりこれは現代版「櫻の園」という感じだな。それも女子だけではなく、男子も含めた。

・「櫻の園」をイイ意味で真似た。コピーしたー映画という感じがアリアリなのだ、だがモノマネしただけではなく、技術的な面や登場人物男女の口には出さない感情を巧く映像で伝えようとする部分がなかなかいい。

・「櫻の園」をベースにしてそれを監督なりに咀嚼、消化して現代風に上手に変更し、昇華させている。だからこれは単なるモノ真似ではなく、高品位なオマージュと言える。

・悪くはない。しかし、決定的に言えることは、だらだらしていて詰まらないということ。じっくりと恋愛お伽話に浸りたい、ぼんやりとした世界の中にぼ〜っと漂って感傷に浸っていたいという向きにはいいかもしれないが、映画としての面白さはない。映画ヲタが「あそこがいい、これがいい」と仲間内で議論しあう、狭い範囲の仲間だけで自己満足して楽しむような映画。そういう人向きの映画。

・映画自体かなりヲタな内容を入れているし。

・ゴメンってセリフが多発・・・というか最近の映画、高校生とか若いのを扱った映画ではこのゴメンが多発しすぎてる。なんにつけゴメン、ゴメンと大して謝る気持ちもないのにゴメンと言ってる、そういうセリフを書いている。おかしくないか?

・大後寿々花がイイな。この娘は本当の女優になるだろう。

・これが2012年の日本アカデミー賞で最優秀作品賞をとったというのは、単に映画ヲタな選考者たちが映画ヲタな映画にマニアックな映画ヲタ魂を刺激されてヨシヨシと言った結果によるものだろう。

2012-11-10 『テルマエ・ロマエ』

[]『テルマエ・ロマエ』

・ローマ人役の配役は見事。現存の日本人役者のなかからこのローマ顔を選ぶというのが凄い、お見事、喝采。

阿部寛 - ルシウス(浴場設計技師)

市村正親- ハドリアヌス(第14代ローマ皇帝

北村一輝-ケイオニウス(次期皇帝候補)

宍戸開-アントニヌス(ハドリアヌスの側近)

・海外でも大受けしたと聞くがホントのところどういう反応だったのだろう。まさか日本人が、まさかアジアの東洋の人間がローマ人を演じ、それも見事に演じ、自分たちの誉であるローマの賢人たちを演じ、それを面白おかしくこんな映画にしてしまうなんて・・・相当に驚いただろうなぁ。信じられないという嬉しさだったんじゃないだろうか。こういう映画、こういう話を撮れる作れる日本人というのは、やはりアジアのなかでも特殊なんだろうな。いい意味で。そしてこういう映画が撮れるようになったということが、それこそ10年20年前とは明らかに日本という国やその国民の意識、感覚が良い方に変わったということなんだろう。

・いわゆる他国、多民族が他の国の人間を描くときはあまりいい描き方をされないというのが大体の傾向で、日本人を外人が描くとおかしなところを強調するような描き方ばかりで、まあ観ていてアホかというか頭に来る部分も多い。『ガンホー』とかもあったな。日本人が中国人を描くときも、まあ昔から大体形は決まっていてちょっと馬鹿にしたような描き方をしているのが多い。アジア人の西高東低意識。世の中の西高東低的歴史感、民族感、国家感なんてものが今までの映画のなかにはなんだかんだ言ってきちっと染み込んでいたわけだし、アジア人自体も自虐的に自分たちを描いたりして、西洋はイイ、アジアはダメだ、なんて感覚があったし、それは舶来品嗜好なんてのにも出ていたし、今だって「これは、海外のどこそこのものなんですよぉ、オホホッホ」「これはブルガリの、ヴィトンの、うんぬんの・・オホホ」なんて物が海外製であれば日本より上なんて意識は十二分に残っているけど、この『テルマエ・ロマエ』はそういう意識なんて全然無くて、感じられなくて、本当にフラットで、エンターティメントの感覚で、変なひねくれた意識や感覚なんてどこにもなしで撮られた新しい感覚の映画だろう。年寄りの感覚や劣等感を持った世代の感覚が全然影響していない、実に自由でのびのびしていて、いい映画だと思うな。

・とても楽しめた。ま、前半の面白いところからすれば、後半はちょっとダレたけれど。

テルマエ ロマエ IN ROMA!! http://ameblo.jp/yanksroma/entry-11299586942.html

2012-09-02 『プロメテウス』リメイクとして見応え充分だが脚本と設定は粗だらけ

LACROIX2012-09-02

[]『プロメテウス』

・出だしから暫くのシーンは『2001年宇宙の旅』の明らかなオマージュ。船内の様子も食べている宇宙食らしきものも・・・。

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過去のエイリアンシリーズ1から4までと、時系列整合性がない。あるように思えるが、時系列に並べてみると明らかにおかしな部分、矛盾が噴出する・・・つまり、脚本と時代設定、背景設定が全く練り込まれていないのだ。

・いや、練り込まれていないというより、練り込んでしまうと話が上手く流れなくなるし、脚本を書き、演出するのに制約が多く出てきてしまうから、しっかりとした時代設定の整合性は無視したのだろう。「面倒臭いからこの位いい、そこまで突き詰めなくていい、当たればいいんだ!」というスタジオ側の強引な論理で時代設定や背景設定の不合理、非整合性も「そんな細かいことなんか全部どうでもイイ!」と切り捨てられたのだろう。

・エイリアンの前日談と監督が言っているが、前日談としては過去のエイリアン・シリーズとの時系列の整合性は全然ないではないか。独立した別物語りとして撮ったというにしては、まるでエイリアン1の焼き直しだし、まるでリメイクのような内容・・・結局どっちつかずである。どうしょうもない

・数々の、散々の期待は、話として最大にして散々に裏切られた。

・あのホログラム映像はなんなんだろう? 自分たちがエイリアンから逃げてやられる様子をホログラムで記録していた? それがちゃんと再生されるようになっていた? まったく意味ふめ〜なお話じゃないか。

・ウェイランド・コーポレーションの創業者だか社長だか会長が、もう老い先無くヨボヨボになって、プロメテウス号に実は乗っていて、その理由が命を永らえさせるために創造主(エンジニア)にお話を聞きその秘訣を教えてもらうのだ・・・って、アホか? 思わず吹き出してしまった。なんだそりゃ?って。しかもそのヨボヨボの足に補助機を取り付けて、通訳であるデイヴィットを連れて生き残っていたエンジニアに会いに行き「どうやったら死なないで済むの? 教えて?」と質問する・・・ハぁ?っともうこの段階でため息。でもってカプセルから出てきたエンジニアにあっさり殺される・・・って当たり前だろ、今まで見たこともない全く分からないそのエンジニアにそいつがどういう生き物かも分からないのに「ねえ君、ボクに長く生きる方法を教えて?」って武装もせず聞きにいくかっての? しかもそれを「お父さま」って・・・吹き出したよ、これで驚かすつもりだったのか? 科学が進んだ世界で知能指数も高い人物がそういうことするか?っての、デイビットはご主人様の部下だとしても「ご主人様、危険です、それは危ないです」って言うだろうっての。もうほんとになんだこのどうしょうもないお話と脚本は?

・いちばん美形のシャリーズ・セロンがヒロインになるのかと思ったら、なんだかツンツンしてるだけで、全然知性も感じられないし、魅力的でもない。他のキャストがそれほど有名ではない役者ばかりだし、やっぱり美しい女性の華が必要だからと飾りであてがわれた役というかんじだ。ヤメテヤメテ、ダメダメェ〜とまるで喘ぎ声でもだしてるように落っこちてきた宇宙船に叫びながら潰されちゃうというのも見ている方が失笑モノ、ある意味ビックリ予想外の展開で大笑い。

・で、「エイリアン」で力強い女性の象徴的存在にもなったシガニー・ウィーパーに代わる女優としてノオミ・ラパスを持ってきたのだろうが「ミレニアム」でのダークな印象はあるものの、まだこの女優にヒロイン的な強さはない。顔つきが少し丸くてぼんやりしているというのも原因かもしれないが、シガニー・ウィーパーのように困難な状況を切り抜けていく知的な力強さはないな。実際は自分で麻酔を打ち込みながら開腹手術を強行するなどの凄い場面もあるが(ここはなかなかエグかった)恐ろしい異生物や異星人と闘うという鋭さや尖った突き刺すようなところがない。ラストもいきなりそう来るか!という決断だし・・・。

・ノオミ・ラパスは「ミレニアム」シリーズのヒロインとして名をあげたが、スゥエーデンの女優であり、有名なハリウッド女優を使うのとはギャラが相当に違うだろう。今回の「プロメテウス」では続編も含めた出演契約が交わされているというが、ハリウッド女優では続編まで含めたギャラとなると高額になるし「エイリアン」の焼き直しでヒットも読めない状態でなるべく製作費を抑えたいと考えたプロデューサーが海外の女優に目をつけたといったところか? ノオミ・ラパス側にしたらハリウッドの大作で主演を射止められるんだから出演料の交渉はある程度(かなりかも)妥協しても受け入れるというものだ。

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・スタジオにとって大ヒット、ドル箱安定シリーズであったエイリアン・シリーズが第四作まで作ってしまって、第四作の最後じゃついに地球にもどってきて「これじゃ第五作は地球が舞台か?」と言うところまで来ていたのだが、どうしても第五作の脚本が上手く出来上がらず、つじつまも合わず、どうにも目茶苦茶な話にしかなりそうにないから、もう第五作は諦めて、別物語として新しい話、シリーズを派生させようとして「プロメテウス」という名前で全く新しい話を立ち上げることとした・・・のだが、結局それも斬新な画期的なアイディアは浮かばず、第一作の焼き直しで話を構築してしまっちゃったということなんでないかな?

・これは過去4部作のエイリアン・シリーズの中に時系列をあわせてどこかに入れるという作品ではなく、リドリー・スコット監督『エイリアン』第一作(1979)の30数年ぶりの焼き直し、リメイクとして独立した一本と考えたほうがいいだろう。ネット上にもあれこれ時系列がわからんだなんだという記述はあふれているが、ちょっと出来の悪い、脚本に粗だらけの失敗リメイクとして考えれば納得がいくし、映像は素晴らしいからまあなんとか満足もできるだろう。


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剛力彩芽の吹き替え・・・ダメだこりゃ。壊滅的な酷さとまではいってはいないが、エリザベス(ノオミ・ラパス)の役を2,3ランク引き下げてしまっている。どう考えても声が幼稚過ぎる。話題作りのためとはいえこういった真面目な作りのSFホラーで剛力みたいな流行り女優、アイドルを使うというのはどういったものか? アニメや子供向け映画ならアイドル人気を使った話題作りも許せるが、この「プロメテウス」でその手を使うか? ヒロインであるエリザベスがガキンチョの声になり表現力も全然のセリフ読みで雰囲気シリアスさも台無しにされてしまっている。

・トレイラー(予告編)に作品の重要部分ともいえる映像が使われている。ラストに近い映像まで使われている。・・・予告編段階でこういった重要な映像を出してしまう映画というのは、大概「ちょっと内容がヤバいからイイ場面をいっぱい予告編に入れてしまえ、予告編にイイ場面をたくさん入れれば観た人はそれだけ興味を持って、凄い映画になりそうだと思う、これは行って観ようという気持ちを作れるから、最初の動員を上げられる」なんていう魂胆が働いている。つまり予告編で本編の見せ場を見せてしまっている映画というのは、大概、本編がダメで予告編で客を釣ろうという程度の映画である。

・結局、人類の起源や創造主なんてのは全く分からないわけで、作品自体も「人類はどこから来たのか」を探求するというような哲学的要素は薄い。大企業の社長が自分が生き長らえたいから創造主をさがしてなんとか延命したいというのが(その程度が)話の元であり、人間の起源を探求するようなキリスト教文化に何をか言わんやというような崇高さや思想と思考の高さはない。じゃあ『人類ばどこから来たのか』という日本の宣伝文句はなんだ? このポスターやらネットで使われている宣伝用のキャッチコピーがデタラメ。海外ポスターやfacebookページにはこんな文言どこにもないから日本の配給宣伝が付けたデタラメコピーか?

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・アラビアのロレンスの映像を入れているのはなぜ? フォックスの映画にコロンビアの代表作を? アンドロイドのデヴィッド8(マイケル・ファスベンダー)は確かに「アラビアのロレンス」当時のピーター・オトゥールにそっくりではあるが・・・いやはや、なんとか話題を作ろうとあれこれ画策してるうちの一つだなこれも。

・だけど「2001年宇宙の旅」を彷彿させる古風なイメージ、ファッショのデヴィットは嫌いではない。というかデヴィットがこの映画のほんとうの主役か??

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・大企業が揃えた一流の科学者達・・・のはずなのに、異星の地でちょっとした空気検査しただけでヘルメットを外してしまうとうのはお笑いだし、迷子になってしまった二人が突如現れた幼虫エイリアンにお馬鹿な酔っぱらいみたいに話しかけ、いかにも食ってくださいよといわんがばかりに餌食になるのも馬鹿らしい。なんなんだ、このお話の甘さは? 伏線の張り方もバレバレで、しかもご丁寧に説明しながら伏線を張っているなんて阿呆らしい。「私は妊娠しないの」と言いながらセックスして体内にエイリアンの子を宿すなんてもう見え透いてて呆れてしまう。

・エリザベスの開腹場面など、かなりエグい場面がいっぱいあるが、これは「エイリアン」でリドリー・スコットが描いたSFホラーの轍をしっかり踏襲している。

・フェイスハガーのあの不気味な様態がなくなり、エイリアンの幼虫はまんまチェストバスターになってしまっている。しかもそのチェストバスターが腹の中で成長したものがもう完全に”イカ”!! なんなんだあれは? NHKで見たダイオウイカか??(呆) 

・シガニー・ウィーパー演じたリプリーをノオミ・ラパスが演じるエリザベスで置き換え、新しいヒロインを作り出そうとしているのか? んーシガニーの足元にも及ばないな現段階では?

・兎に角、設定から話の筋、キャラクターまでほとんど「エイリアン」を踏襲して多少現代風に修正をくわえたものであり、これはエイリアン・シリーズの続編やその中のどこかの挿話というものではなく、サイドストーリーというものでもなく、明らかに「エイリアン」の焼き直し、リメイクと言ってしまって問題はあるまい。

・ドル箱シリーズを派生させる脚本を手に入れることにしくじった、出来なかったスタジオが、もうどうにもならなくなって「エイリアン」と同じ話でもう一回シリーズを作ってしまえ!と強引にでっちあげたような作品。オリジナルをリメイクしてちょっと筋を変えてもう一回シリーズものにしてしまえば何作かはヒットを読める!という金勘定で作られたような映画だろう。プロメテウス2(という題になるかどうかはわからないが)という続編は確実だし、それがヒットしたら更に続編も作るつもりだろう。ん? このやり方どこかに似てるのがあったな? そうそう「ターミネーター」シリーズだよ、あれと同じで強引にかこつけてストーリーを引っ張り広げていっても、もう限界がミエミエでどうしょうもないドツボにはまって愚作を作りだしていく、あのパターンに似ている。

・結局この作品「ターミネーター4」と全く同類で極め付けのハリウッド的打算と金勘定の総体としてできあがったような映画と言えるだろう。

・単体として観れば、説明不足は多々だが映像がいいからSFホラーとして楽しめるものの・・・粗が多過ぎ。

・国内宣伝的にも”そのコピーは嘘だろぅ”と言ったもので期待を上げ、アイドル女優を使って話題作りをして、などと騙して客を引き込もうといういわゆる腐敗したマーケティングがあからさまにギラギラとしていて目に余る。映画の宣伝なんてもう手法は出尽くしていて、新たな斬新なアイディア、手法なんて殆ど無く、過去に誰かが行ったデータを並べて「これと、これを今回は使おう」ってやれば充分とも言える。下手な新しい思いつきなどを実行してしくじったらハリウッドのスタジオ側(利益の向上にしか目がない経営陣)はすぐに責任を取れ!となるから、結局は安全策が選択される。だから宣伝というものに創造性だとかクリエイティブな面はなくなり、過去のアイディアの焼き直しで多少のアレンジを加えたもので殆ど充分となる。とどのつまり、作品も宣伝も今の状況では煮詰まってしまっている。映画においてはプロの宣伝担当よりいかに過去を勉強し、最も安全で効率のよいものを選んで実行すればいいとなってくる。誰だっていいとなってくる。なんてね、ここまで言いたくなるような作品と、嘘をついてもなんでもとにかく初週の動員を上げろという企みが見え透いた宣伝。そういったものが寄席集まってできた、妥協と虚偽の産物・・・そういう映画となるか?・・・・今回は辛口過ぎるか?(-.-;)

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2017年11月追記

・BS洋画専門チャンネル「ザ・シネマ」が吹替版を新録して12月3日に放送するらしい。だろうな、もう主役であるエリザベス・ショー博士の吹き替えを剛力彩芽にやらせたのは歴代の映画吹き替えでも最低最悪のトンデモない馬鹿宣伝部のバカキャスティングだった。もうあれはないと思っていたら、公開から5年以上経てようやく主役にきちんとした声優を使って新しく録音したバージョンが出るらしい。映画会社のおバカな若造宣伝マンの低レベルな施策思いつきで作品の価値を大幅に落としたんだから、ここはいっそ今まで出しているソフトも全部廃盤にして新しい吹き替えを再発したほうがいい。と・・・なると、剛力吹替版がプレミアになったりするかもしれないがね。まあ、どんな感じなのか観てみる聴いてみることとしよう。

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2012-08-01 『ダークナイト ライジング』ラストシーンは夢なのだろうか?

LACROIX2012-08-01

[]『ダークナイト ライジング』(原題:DARK KNIGHT RISES) 


・映像の質は文句無し。クリストファー ノーランの撮る作品は細部までスキのない重厚で密度の高い映像ばかりだ。まるで超豪華なゴシック調の寺院や貴族の屋敷、宗教画と建設美に取り囲まれたヨーロッパ教会の中にでも居るかのような感覚である。

・今年期待の一作!前作『ダークナイト』(2009)の素晴らしい完成度、物語の質としての高さ、心臓を突き刺すような峻烈なストーリーにわれながら大喝采、大称賛をしたが、世界的にも驚くほどの高い評価を得た前作の続編ということで大いに期待は高まった。考えてみれば、このところ暫く、公開作に期待するなんてこともずっとなかったなと改めて思う。

・その高い期待からすれば、今回の続編は期待度に比して60%いや70%位の満足度だろうか。前作が非常に高いクオリティーだったのだがから、6割、7割の満足度といってもそんじょそこらの作品からしたら非常にハイレベルな映画ではある。だが、期待度がやはり高すぎただけに少しばかり「こんなものか」という気分になったことは事実だ。

・一人の監督が続けて傑作を撮るということは稀なる上にも稀だ。一人の監督が撮ることの出来る傑作は一本しかないと言う人もいた。そう考えれば、あの傑作である『ダークナイト』以上の作品が、いくらクリストファー ノーランと言えども、そんな続けて撮れるはずなどないのだ、脚本にしろあれほどのモノを、あれを超えるものを書くことはどれだけ難しいかと言うことでもある。

・そんな色々な思いを抱いて観た。見応えがあった。観ながら『ダークナイト』とは違うものも感じていた。

・凶悪でどんなものもその悪の力で踏み潰していくベインが、あの裏話をみせられたら、一気にそれまでの凶悪感がうすれてしまうではないか。あのどんでん返し的設定はいただけない。面白みはあるし、多少なりとも驚くのではあるが、それ以上にベインのキャラクターが一気に色褪せる、冷たくなってしまう。あれではベインというキャラクターを最後にダメにしてしまうようなものだ。

アメリカ政府を出してきたのもいただけない。そのアメリカ政府が手出しできないでただ見ているだけというのも、現実感から程遠い。前作「ダークナイト」でもジョーカーがどこにでもあまりに簡単に忍び込み悪さをするのだが、どう考えてもそれって無理だろうという現実感のまったく伴わない部分がいくつか露見していた。「Xファイル」で都会からいきなり南極に主人公がいっているとか、「復活の日」で日本から歩いて数日で主人公が南極にいっているとか・・・それと同じ類のミス。異常さ。脚本家も監督も映画に関わるすべてのスタッフもこういった不合理、不整合にどうして気が付かないのかと思うのだが、同じようなものが「ダークナイト ライジング」にもある。

その傾向は今回の「ダークナイト ライジング」においても多々ある。その辺の不整合さやどうみても嘘だろうとおもうようなところを抜けたらもっと怖さや恐ろしさも強くなっていたんだろうし、完成度も上がっていたのだろう。なんだか、ほんの数日で都会のどまんなかから南極まで歩いて移動しちゃってるというのを堂々と話の中に入れているようなそういう非現実さと同じものが、いくつかあって、それが映画の雰囲気を少しずつおかしくしていってしまう。

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・アン・ハサウェイがとにかく魅力的。もう本当にとろけてしまいそうなくらいイイ女。今までのキャット ウーマンのマスクはSMの女王様が黒いパンティーを逆さに被った様な品のないものばかりだったが、今回のキャット ウーマンは強い女性、気品、気高さといったものを感じせ、最高のキャット ウーマンになっている。それにしてもアン ハサウェイの美しさと危険さを合わせ持った女性は、スクリーンを観ているだけでうっとりと見とれてしまう。こんな女性が目の前に現れたら、殆どの男はもう目じりを下げてうっとりしてデレデレになってしまうだろう。実際に自分ももううっとり、こんな危ない美女と関わりたいなぁなどと夢想したが・・・。今までのアン・ハサウェイは目がちょっとアンバランスな程大きくて、確かにスーパーモデル的美しさではあったが、少しばかりエキセントリックな風貌に見えていてどうも好きにはなれなかった。しかしこの「ダークナイト ライジング」におけるセリーナ役は文句の付け所のない美人だ。エキセントリックに思えた部分すら強い魅力と誘惑の電波を放つ重要なパーツになっている。このキャスティングは見事だ。

・『ダークナイト』はアメコミコミック的な部分からは全く離れた重厚な実写、人間ドラマに仕上がっていた。だが今回の『ダークナイト ライジング』は少しばかり現実ばなれして、いかにも空想SciFiの世界といったおかしな部分が多々ある。見ていてありえないようなマンガチックな話、設定などが引っ掛かった。なんだか映画が再びコミック、漫画的な世界にに戻った感もある。

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・最後に近づくにつれ「これは、なんて救いようのない話なんだ」と思ったが、それが最後のワンシーンで救われた。サーッとカーテンが開いて爽やかな草原が目の前に広がるような、霧が一陣の風で吹き払われ夢のような美しく幸せな世界が目の前に現れるような、思わず拍手をしたくなる、体中にジーンと痺れるような感覚が走った。最高のラストだ。観た時は、よし、やった!とこのラストに酔いしれ心のなかのもやもやが吹き飛ばされ本当に心が救われる気持ちだったのだが、しばらくして思い出しながら考えると、あのシーンは・・・映画の中の現実なのか、それともアルフレッドの妄想、夢なのか・・・どちらとも受け取れるなと気がつく。あれがアルフレッドの夢なら・・・やっぱり悲しい、涙が出るほどこの映画は悲しい。でもあれが映画の中での現実ならば・・・本当に美しい、素晴らしい、見事な、心を暖かく癒されるようなラストだ。斜めから捉えたセリーナの後ろ姿と横顔、その幸せそうな姿、そしてそれを見て微笑むアルフレッドの姿・・・どちらにでも捉えられるラストだが・・・幸せな方として捉えよう。そうでなければ悲しすぎるし、幸せな姿と捉えれば、他には何もいらない何にも代え難いほど温かく、優しく、美しい、天国の中にいるようなラストなのだから。

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・原題のDARK KNIGHT RAISESをなんでまあライジングとしたのか? 確かにエグザイルのヒット曲もあるしライジングのほうが日本人には耳慣れしているかもしれないが、まったく意思も思考もない邦題の付け方だ。

シリーズ最終章とは言っているが、強欲なハリウッド スタジオがこんなドル箱、大ヒットシリーズを終わらせるはずなどなく。これはよくあることラストではいろいろと次への仕込みが・・・さあ3年後位にどうなるかな?

映画『ダークナイト ライジング』公式サイトhttp://wwws.warnerbros.co.jp/batman3/

facebook page: https://www.facebook.com/thedarkknightrises?ref=ts&rf=411685442224057

◯ラストシーンに関するWeb上のあれこれ(ネタバレ

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1291578677

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1291415697

http://zubazubanews.blog.so-net.ne.jp/2012-07-30-2

『ダークナイト ライジング』の核描写, 米でも批判

http://www.webdice.jp/topics/detail/3609/

2012-07-25 『岳 -ガク- 』山の映画としてはデタラメ、メチャクチャの極み。

LACROIX2012-07-25

[]『岳 -ガク- 』(2011)

・山の映画というとどれだけ山を本当に理解しているかというところがあれこれ指摘される。あんなの嘘だろ、あんなんで山なんか登れるか。でたらめだ。そういうチクリは『剣岳 点の記』でもいっぱいあった。

・しっかりと正確に山登り、岩登り、その自然の中での登り方、生き方を描こうとすると、これはお金も山のようにかかるし、出ている俳優にもしっかりとした訓練をさせなきゃならない。ということでそれは無理だから描き方がいい加減になるのだろう。ましてや小栗旬と長澤まさみにしっかりとした本格的な山登りの実践を仕込むというわけにもいくまい。第一義は客引きのアイドル・キャスティングでしかないのだから。

・出だしから「これはありえん」というシーンの連続、セルフビレイも取らず、ザイルを結ぶこともなく岩を登っている姿や、三歩がザイルを結んでいた親友がトップから滑落してくるとき、ザイルを掴んで落下を止めようとするわけでもなく、落下してくる仲間を見ながら手を出すシーンにいたって「ああ、もうこの映画は山の映画として考えるのはやめとこ。アイドル二人のおちゃらけ、なんちゃって山映画としてみることにしよう」と決めた。山登りの描写がデタラメ過ぎるからだ。真面目に見ていたら阿呆らしいを通り越してしまう。

・そんな事には興味ない、山登り、岩登りなんて知らないんだから演出として出来上がっていればいいという輩もいるかもしれないが、それは脚本のおざなりさ、いいかげんさ、映画の真実っぽさを装った嘘でしかないのだ。オフザケ映画、リアルさを追及しないSF映画ならそれでもいいが、この映画は真実、現実感を追及しなければならない映画だ。それが嘘を平気で纏っているからおかしなことになる。結局はそれが完成度、作品の質の低さに繋がってしまう。

・山登りに関するアドバイザーをちゃんと入れたのかな? 一応入れているけど、腑抜けた脚本と演出を優先させて実際の山登り、その本当の姿ってところはどうでもよく処理したんだろう。

・雲海の夕焼け場面や、雪を抱く日本アルプスの風景など綺麗な絵はあれこれあるが、今のデジタル撮影の技術とそこそこのカメラマンならこのくらいの絵は撮れるだろう。撮影は奥穂や立山あたりの北アルプス中心だろうか? 

・なんにしても山の場面やその状況描写がかなり以上にいい加減でデタラメなので、これは山を知っている人からすれば呆れる内容。でも知らない人、山のことなんてどうだっていいって人からすれば、そういうデタラメさには気が付かないからなるほどと思う映画かもしれない。どっちにしろ作品はいい加減な作りと言うしか無い。

ラストの出演者テロップに平山ユージと出ていたんで、どこかにいたのか? と思ったら山小屋のシーンで原作者と一緒にちょっとエキストラ出演していたということ。平山ユージはロッククライミングの人間だから、雪山とかに関しては、アドバイザリー的な立場としてはあまり役には立っていないのではないだろうか。

・山の映画として観なければ、まあそれなりの観客の受け狙いをあちこちはめこんだ最近のよくある邦画といったところ。

・長澤まさみがなんだかアイドルっぽく全く見えない、山岳救助隊志願のオバカな女にしか見えないというのが、実に不思議・・・派手さまるでなし。

2012-03-08 『friends after 3.11 vol.2』世界の恥晒し国家となったボロボロ日本

LACROIX2012-03-08

[]『friends after 3.11 vol.2』

◎Vol.2はそのほとんどがインタビューだ。疑問に思う部分もなくはない。示唆に富んだ部分も、同じ考えがだと思う部分もある。

沢山の監督が撮ったインタビュー映像だけど、映像の持っている温度というか空気がでこぼこせず、しっかりと波長が揃っている、整っている。

◎この旗のマークは何を顕しているのだろうと思った。宮城県の地図だろうかと思ったが形が違う。これは「ギザギザハートの日本国旗」ということらしい。なるほど・・・ギザギザの日本だ、今は、確かに。

《宮城県復興応援ブログ》より引用。

http://kokoropress.blogspot.com/2012/01/blog-post_22.html

「テーマとしては「ギザギザハートの日の丸」です。心傷ついたハートにも見えますが、メラメラ燃え上がるハートにも見えるし、なにより、人の人生ハッピーなことばかりではない。というメッセージかこめられています」岩井 俊二


監督:窪田崇、岩井俊二、カジワラノリコ、松浦徹、時川英之、荻野欣士郎

主題歌:「ブレス」野田洋二郎

☆human error あれは人災だ。

事実を知らされていないということ何じゃないですか。

☆もう完全に国と東電に騙されてたなと思いました。

☆政治くらいくだらないものは無い。

☆完全に狂った世界だ。

☆我々が世界を破壊している。

☆汚染がゼロだというのはもう無理だと思いますから。

☆逃げたいけど、家を持っているから逃げられないという人もいる。

☆放射性廃棄物は永遠に無くならない。

☆セシウムは食物連鎖に入る。

☆七代先まで続くかもしれない。

☆多くの人に不安も与える、誤解も与える。

☆みんな安全だと思うんですよ。

☆まだそれに気付いていないという人たちがいるっていう。

☆人間って常にそうなんでしょう。

子供たちはちゃんと見てると思いますよ。

☆広瀬隆

「極端に言えば東日本と西日本で意識が違う。はっきり言うと太平洋岸の魚介類は全滅状態だ。どういうことが起こってるか気がついていない」

「一日も早く福島の人には逃げて欲しい。空間線量を計ってもダメだ」

「日本人は民度が低過ぎる、愚劣な人間がそういう(論を封じ込めるような)ことを言う。福島の人を差別したりする」

とんでもない国ですよ、今。みんなで変えていきましょう、数じゃない質なんです。とにかく先ず原発を止めること。喧嘩はあとでやりましょう、生き残ったら」

☆今西憲之

「官房長官は爆発的事象なんて言って、いかにもポップコーンが爆発するみたいにポーンと爆発しましたみたいに言ってましたけど、見に行ったら、ああ、完全に国と東電に騙されてたなと思いました。とんでもなかったです」

「話しがぜんぜんちゃうやん、もう言葉もなんもないですね。ほんまこいつら嘘つきやと思いましたね

「第一原発の20キロ圏内は僕に言わせれば日本の国土じゃないですね」

「日本の国土でないものにしたのはやっぱ政府と東京電力ですよ一義的には」

その責任を誰もとらないっていうのはね、信じられないですよ。一定のけじめ、責任をとらんといかんですよ。それはそうでしょう、自民党は今野党になってますけど、基本的に自民党があの原発を推進してぎょうさん建てて日本に54機あるっていうのは紛れも無い事実ですよ。ほんな自民党の総裁とか幹部はそら頭丸坊主にして一ヶ月も滝に打たれてこいよ。それぐらいして当然ですよ。申し訳なかったと、与党野党関係なく現場終息させるために自分で作業員行っていいからね、がんばりますくらい言わないと」

「だから自民党にも支持こない、かといって民主党にも支持こないですよ。そりゃそうですよ、どこに燃料棒飛び散ってるかわからない。あたかも見てきたように、いやいやもう冷えてます冷温停止です間違いありません終息しました、もう原発今年一年で終わりです。来年からないです。そんなことでは国民の支持はこないですよ」

「日本で除染の技術を持ってる会社は大手で二社しかない。一つは東京電力の系列の会社。一つは東京電力と非常に密接な会社。この二つしかない。ホントの除染の技術をもってるのは。そこに仕事って集中するんですよ」

「じぶんのとこでバーンと爆発させといて、けど除染、あ、うちやりますよって、そらないやろ」

「お前らなめとんか、お前らが悪いんやぞ。反省せいよ。タダでもいいからやらせてもらいますってのが筋でしょう」

「なんでこんな見積もり出てくんの?あいつら勝手に爆発させといて、ぱっと見たら東京電力の関連会社で、なんであいつらがまた儲けんねん。そんでその原資は基本的に税金ですから。こんなおかしな話しないですよ」

東京電力の大丈夫ですほどいい加減なものはないですよ。あんだけ原発大丈夫ですって言い切っててこの様ですから。東京電力が大丈夫っていうことのほうが危ないんです。

☆田岡俊次

「半分人災ね、今回のは。ちゃんと管理してればあんなことにならなかった可能性が高いわけですよ。たとえば電気が全部アウトになることを予測しないとか」

「一番初期型のをいまだに使っていたと。飛行機で言ったらライト兄弟の作ったのが危ないという話しであって・・・」

「石油の獲り合いで何千万と人は死んでいる。石油の獲り合いをするくらなら原子力発電所のほうが安全性が高いと思っている。地震と廃棄物のことはあるけれど」

「黒潮を使って発電すればいい。世界中の川を集めたくらいの流れが三宅島沖とかにあるんだから」

☆川根眞也、マーチン・トンデル

「チェルノブイリで一番汚染されたのは遥かに離れたスウエーデンだった。スウェーデンで一番セシウムが高い場所は一平方メートル10万ベクレル。チェルノブイリでスウェーデンは汚染され、最初の二年間で一番高い人は8ミリシーベルトから10ミリシーベルト被爆しました」

☆崎山比早子

「ICRP〈国際放射線防護委員会〉はずっと内部被爆を無視してきているのは確か。日本の原子力安全委員会が言っているデータはICRPのモデルを本当に絶対正しいとして掲載している。内部疾患系の病気を全部無視して何でもないですって言うわけですよ。そうするとそれはRadiophobia〈放射線恐怖症〉っていう診断名を付ける。放射線を恐がることでそういう病気になるんだって。これは放射線の影響ではありませんと言う。・・・・(それは悪質ですね)」

「毎日4ベクレルずつ食べ続けていったら少なくとも体のなかに溜まることは確か」

☆マエキタミヤコ

「給食は地産地消だから福島の野菜を使ってますと言われた。学校側はそれを大丈夫ですと言った」

☆田中優

・・・天城抗火石・・・まだ疑問だ。

☆マイケル・マドセン

「核廃棄物の隔離をすることが不可能な国は世界にあるか?一つだけある日本だ。日本は地震大国だ。今回の事故は天災ではなく人災だと僕は思っている。思うに日本に原発を設置するのは元々アメリカの意見でそれは日本の置かれた状況を考慮して地震も含めた特別な設計などされていない」

「もし日本に原発問題に口を出さない文化があるのなら、もしそれを社会全体が許しているならば日本人は社会の一員としての義務を放棄したことになる。

☆坂本龍一

「アメリカに住んでいるのが影響しているのかもしれないけど、みんな誰でも自分の意見を言う国なんで。で、そっちから見ると日本の人は奇異に感じます。こんなデカイ大っきな事故を起こしておいて黙っているなんて不思議ですよね

「それが犯罪として捜査もされないというのがおかしいと思っています。実際害を受けているひともいるわけですから。この矛盾、理不尽なことを子供たちはちゃんと見ていると思いますよ。なんだいい加減なんだ、法律なんて守んなくていいのか。って思うかもしれないわけですよね」

「これだけの事故を起こしておいてまだ原発を売ろうとしている。しかも外国に。自国の事故の処理も出来ないのに」

「今すぐ全部の原発を止めても厖大な放射性廃棄物と福島の事故処理が永遠と何十世代も続くわけで、誰が責任をとるんだって話しですよね。みんな責任あるんだけど推進してきた国は大きな責任がありますよね」

「原子力村とガチンコで対決したら向こうはお金もあるし巨大権力だし、大企業は付いてるし頭のいい学者はいるし、負けますよ」


☆松田美由紀

「お金が欲しいわけですよ、どの人種もどの人もそう。自分の生き方を恥ずかしいとおもわないのかってね。恥ずかしくないことをして生きていますかって、個人に説いていく、そういうところに来ているのいかなって」

☆岩井俊二

「今まで原発を推進してた人が今もやっている。本当は全部辞めてもらって新しい人たちでやらないと、それがある種世界的規模でいえば必ず革命とかが起こるわけですよね。出てってくれ、新しい人たちでやるからって感じで。日本の場合それが起きない、まだ」

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2012-03-07 『friends after 3.11 vol.1』少なくとも、この涙と悲しみに嘘はない

LACROIX2012-03-07

[]『friends after3.11 vol.1』

◎わざとらしさ、あざとらしさ、嘘、作為的な演出は見ていれば分かる伝わる、感じられる。同じように、いやそれ以上に、物事を見つめる真摯さ、真剣さ、真面目で実直で嘘偽りのない心も、確実に伝わる。目や表情や言葉、口調、体から発する熱によって。

◎被災地に立ったら、その有り様を見たら、真剣な顔にならざるを得ない、言葉を無くして黙りこくるだろう。それが普通でそれが当たり前だけど、その思いを別の何かで塗り固め、塗り替える人もいる。この作品はそれをしていない。在りのままで、何を被せようとも、色を付けようともせずそのままの思いを、感情を気持ちを悲しみを移し出している。だから、本物であり、心を打つ。

ラストで津波に呑まれ流され崩され荒涼とした廃虚のような被災地の現場に立つ岩井俊二と藤波心。脱原発アイドルなんて言っている藤波心の顔が、目が、瞳が、唇が、肩が、腕が、足が、悲しみの現場で悲しみを体中に受け止めている。その表情に、その姿に嘘や偽善や欺瞞はこれっぽっちも無い。嘘偽り無く悲しみを感じ、受け入れ、そして体から発している。藤波心の涙に嘘も演出も演技もない。これが、これこそが沢山の人の命が奪われたその場所に立った人間の人としての自然な、在りのままの素の心の表情なんだ。

◎このラストだけを何度も何度も見返した。それまでのインタビューなどの映像も意味あるものだけど、このラストのシークエンスは、他の何よりも何千倍も、この震災と津波を、そして3.11を顕している。このラストシーンがこの作品が辿り着いた結論と言えるだろうか。このラストシーンに、3.11の悲しみや怒り、憤りすべてが詰まっている。このラストシーンを観れば、3.11の悲しみや怒り、憤りのを感じることが出来る。

3.11を扱った色々な映画、映像作品のなかで本当に心を打たれたのはこの作品が最初だ。

以前にこのブログで批判した”「3.11 ア・センス・オブ・ホーム・フィルム・プロジェクト」”の作品は、どれもこれも”ふざけるな!”と言いたくなるものだった。あんなものが3.11の悲しみや苦しみ、怒りを伝えられるか、伝えようと真剣に考えているか、いいかんげんにしろ、クソ映画人・・・と思った。だから3.11を扱った映画だとか映像作品というものに拒絶反応さえ持っていた、でもこの「friends after3.11」は全く違った。さすが岩井俊二というべき。

松田美由紀・・・・この人が出ていることはよくわからないけど、何かの力になっているのだろう。少なくとも不真面目さや不謹慎さは感じられない。この人もこの人なりに真剣に3.11と原発事故に向かい合っているということはわかる。

○冒頭から心臓を抉るような歌が、その言葉がぐいぐいと胸に突き刺さってくる。

○なんだ、脱原発アイドルって、藤波心って。ふざけてるのか、また売名行為か、災害便乗のビジネスか、吐き気をもよおすような偽善か・・・と思った、思っていたのだけれど、カメラに向かって語るその目、表情、言葉に、嘘や偽善が纏っているわざとらしさやあざとらしさや薄汚さが感じられない・・・チーンと鳴り響いて真っ直ぐにどこまでも空間を刺し突き抜けていくような、そんな真摯さ、純粋さ、一途さが感じられた・・・だから、これは今まで、あの3月11日から一年の間に作られた映画や映像や音楽やライブや・・・そういった偽善が見え隠れするようなものとは違うなにかがありそうだ、開始から数分でそんな風に思い背を伸ばし、威儀を正した。

○新宿のアルタの前でこんな反原発の街頭演説というか集会が行われていたのか。霞が関のテント村のことにしても、高円寺のデモのことにしろ、テレビや新聞はほとんど報道にのせない。大きな動きなのになるべく多くの人に知られないように、伝えないようにしている。スカパーでこういった明白な反原発のドキュメンタリーが作られるということは、大きな、そして貴重な、重要な、大事な意味がある。それを岩井俊二が絡んで撮ったということは、この作品とこの内容が、反原発の思いが一人でも多くの、意識をもった人に伝わるということで、その認知度を上げるために大きな力となる。

☆後半、岩井俊二と藤波心が被災地を訪れてからの映像が、さらりとなんでもなく被災地を移しているようでありながら非常に濃く、そして重くこちらに様々なことを問い掛けてくる。映像の持つ力、その静かに強く押し寄せる力がある。TVでたくさん流れていた被災者のインタビューや被災地の映像より、絵が、映像が、それが発する力が強い。

○ボロボロになって焼け焦げた被災地の建物、その場所に立つと、人間は嘘偽りない素の心を、感情を表に出す。そう、あざとさやわざとらしさや演出や嘘のない人としての姿に目を耳を体を惹き付けられ黙って凝視してしまう。

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●エンドロールでビールを運ぶ映像がでてきて、パーティーをする映像が流れる。最後にこんなのを観ると、やっぱりこの人たちは震災も原発も他人事なんじゃないかと、この作品に対する気持ちが引き戻された。震災後に「支援を呼びかけてパーティーを開催しました」なんて言って、都内で人を集めて酒をのんで美味そうな料理を食べている写真をブログにアップしてる芸能人や経営者なんて連中が結構いた。それを見て「こいつらは偽善だな、本当に被災地や被災者のことなんか考えてないな、うそっぱちの善意、支援だな」と思った。あの大変な状況で避難所で苦しい生活をしている人を、放射能から逃げている人を”支援”するといって青山や六本木でパーティーを開いている。こんな連中の支援という言葉は偽善だと思った。そして、この作品の最後に出てきたパーティーで楽しそうに食事をし歓談をする映像を見たら、この作品に出ている人も、やっぱり真剣に心の底から震災や津波や原発や被災者のことなんて考えていないだろうと思えた、見えた。このパーティーがきっかけとなってこのドキュメンタリーの企画が進んだということだけど、まだまだあの大災害どまんなかの頃にこんなことをしているのかと思うと、最後にかなりがっかりした。どうなんだこれは、ホントに考えてるのかって気持ちになった。その気持ちを否めない。

[]


☆後藤政志氏

「制御棒でトラブルが起こった事故が沢山隠されていた。2000年以降でも制御棒が入らないという事実がのきなみあって、しかも隠されていてしかもいっぱい大量にあった。それはもう原子炉を運転する資格などないのだ」「ベントも動かなかった。あとから取ってつけたようなものだ。明らかに舐めている。真面目に考えていない。班目委員長はそんなことを考えたら設計できませんと言っていた。それは想定外というのではなく、事故の想定が想定不適切なのだ」「「安全に対する哲学が無い」「炉心が溶融したらダメです。格納容器は炉心溶融に対して設計などしていない」

☆鎌仲ひとみ

「爆発前にたくさん放出されているはず」「見えないし食べても分からない。なにもかわらないんだから」

☆田中優

日本の電力会社は発電所を作れば作るだけ儲かる仕組みに鳴っている。経費を出せば出した分だけ電気料金でとれてしまう。広告宣伝費は合計すると日本第一位のトヨタの二倍にもなる。それでテレビ、新聞、ラジオといったメディアを広告宣伝費で支配した。金融の中では金利を高く払ってやるという仕組みの中で金融機関に最大の利益を与えてきた。そして金融機関は電力会社の株主になり原発を推進する側になってきた。結局電力会社は金融機関を儲けさせる仕組みで市場も支配してきた

「日本の省庁、官庁は電力会社から電気を買っていない」(原発は電気が安いと言いながら自分たちはより安い第二の電力会社から買っているのだ)「日本の電力消費の内、家庭で使っているのは23.4%しかない。これ2011年のデータだ。電力消費の70%以上を事業者占めていて、しかも電気は最大消費に合わせて発電所を作っている。平均消費みれば発電所は58%位しか動いていない。現在時点でも60%位。一年の40%はお休みしている」

「電気が足りなくなるのは最大ピークの時だけ。その最大消費は一年のうちで10時間程度しか出ない。パーセント表示にして0.1%でしかない。電気が足りなくなるピークは。それに合わせて発電所を作るのではなく消費を減らせばいい」

「事業系の電気料金は使えば使うほど安くなるような仕組み。そうじゃなくて、減らせば減らすほど安くなる仕組みに変えればいい。そうすれば事業者はあっというまに省エネ製品に替えてくれる。そうすれば電気消費を半分に減らすことが出来るからもちろん原発なんてまったくいらなく、即座にすることが出来る」

☆山本太郎

「近々経済が崩壊したとしても、そこに健康が担保されていればいい。でも今この国がやろうとしているのは目の前のお金の回収。経済が破綻したとしても、そこに健康で働ける人がいなければ復興なんてできない」

「チェルノブイリに入っていた放射線の専門家が福島に入って、ここはパラレルワールドだって言ってた。目で見える生活は普通だけど、実際に線量を計ると子供たちが放射線の瓦礫の周りで遊んでるようなものだ、そういう景色が広がっている世界だ」

「今回日本がこういう状況に陥って、放射能を世界中にばらまいて迷惑をかけている。おまけに子供たちに対して数値を引き上げたりして、たぶんどこの国の独裁者にも負けないくらいの不条理を押し付けられている。それなのに海外からの声は聞こえない。原子力は世界中の闇なんだと思う。日本だけじゃなくて闇が深く、広いんだ」

☆上杉隆

「国会議員にしろメディアに出ている人にしろ放射能はもう止まったと思っている。原発事故以降何人も作業員は亡くなっている」「とにかく何十万人という人が避難を余儀なくされ普通の生活に影響を受けている。単純に言って業務上過失致死傷といってもいいのに、不思議なのはだれ一人として東京電力に捜査が入るという質問も無いし、実際に入っていないし。記者は全員、お上の情報は正しいという前提で報じてしまう。それをそのまま報じる。放射能は出ていません。格納容器は健全です。安全です。直ちに健康に影響はありませんと」

「報道の人たちはなんで放射能のことを報じないのか。これを報じないのはメディアの自殺行為ではないか?あなたたちは良心の呵責に嘖まされないのか? 人間としておかしくないのか?

「東電の職員は自分たちの奥さんと子供だけは最初に逃がしている。報道関係者はみんなそれを知っているじゃないか、なんでそれを黙っているのだ」

「危機に直面したダチョウは砂の中に頭を突っ込む。現実から目を逸らすことで危機回避をしようとする。最もやってはいけないダメージコントロール。それが今回の震災で起こってしまった」

「あなた達は3月11,12,13日から一週間の記事をもう一回紙面に載せることが出来るか、テレビは同じものを報じることが出来るのか?そして私たちは間違っていなかったと胸を張れるか?出来ないわけだ、全部嘘だったわけだから」

「自分やメディアに対して忠誠を誓うのではなく、真実に対して忠誠を誓うべきだ」

「ベラルーシでは健康に生まれてくる赤ちゃんが15%らしい。東電の事故はチェルノブイリを越えているんですよ、ベラルーシに日本を重ね合わせることが出来る。がんばろう日本、がんばろう東北なんて言葉は寒々しく聞こえる。本当にやるべきことは他にある。国がやろうとしていることを止めなければならない。包囲網を作っていかなければならない。全員参加で」

☆飯田哲也

「原子力は必然的に無くなっていく。チェルノブイリの事故が旧ロシアの崩壊に繋がった。チェルノブイリがロシアの崩壊を後押しした」

「民主党は官僚主導からの脱却を掲げて政権を獲ったが、あっという間に官僚に飲み込まれてしまった。官僚は非常に狡くて厖大な情報を持っているけれどそれを都合のいいように捩じってメディアに流す。この翻訳装置を変えなければ我々はいつまでたっても騙され続ける」

☆吉原毅

「公共的な使命を忘れるな。企業は損得のみを考えるものであっていいのか。企業とは志をもって社会に何ごとかをなすために作られた組織。物心主義、拝金主義、知らず知らずにお金に毒されているのではないか。健全な社会、人間の理想のもとにお金をコントロールしなければならない。それが金融機関の使命ではないのか」

☆清水康之

「日本の自殺者は年間3万人。それが単年度ではなく毎年です。アメリカの2倍、イギリスやイタリアの3倍。突出して高い」

「なぜ世界屈指の経済大国が世界屈指の自殺大国になっているのか」

☆タン・チュイムイ

「1980年代にブキットミラー事件というのがあった、アジアレアアースという三菱が投資している会社がレアアースを精製していた。レアアースがその精製過程で放射性廃棄物を出す。トリウムやウランが廃棄物に含まれる。政府は肥料工場だと言っていたが住民がレアアース工場だということを突き止めた。そして反対運動を始めた。10年掛かって訴訟に勝利したその工場はすべてを覆い隠し、再びレアアースの精製工場になっている」

☆小出裕章

「今現在、戦争よりも酷いことが進行している。福島で。そのことにほとんどの人は気がついていない。関西の人はほとんど他人事に思っている。絶望したらその時が最後の負け。自分に出来ることがある限りはやり続けるしかない。人間って一回しか生きられない。自分の人生で。やっぱりやりたいことをやるしかない、言いたいことを言うしかない」

「原子力はいずれにしても衰退する。これ以上は出来なくなると確信している。でも原子力が生み出してしまった核のゴミは、100万年に渡って重りをしなければいけないゴミはもう気の遠くなるほど厖大に溜まっている。その一部は既に環境に漏れて人々を被爆させている」

☆この人はちがうんじゃないか!本当の反原発じゃなくて風見鶏、日和見の学者じゃないかと思う人のインタビューも入っていた。そういう人はなぜか大抵、堂々とした偉そうに踏ん反り返った態度でヘラヘラと笑っている。何かを誤魔化す人は大概そうだ、ニヤついたり笑ったりしている。

http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65766871.html

http://888earth.net/staffblog/2012/01/friends-after-311.html


f:id:LACROIX:20120309004430j:image:w300http://www.cinematoday.jp/movie/T0012391

D

2011-11-18 『シャッターアイランド』なぞなぞ、間違い探し映画なんか映画に非ず

[]『シャッターアイランド』

・結局なんら起承転結もなく、せめて結があればいいともおもったがそれもなし。監督やら脚本家が仕込んだなぞ解き、宝探し、間違い探しにを映画をみながらするつもりはない。

・なにが、繰り返し観て秘密を見つけよう!だ。もうそういう手は下らな過ぎる。少しでも興業を稼ごうという腹積もりが見え透いている。そんなものに今だれがまんまとつかまる? つかまる人も少しはいるかもしれないが、そんなことをしたいのだったらソフトを買って繰り返しみればいい。こういったPRの文句を見聞きするだけでしらけてしまう。

・映画は話であり、物語であり、その展開と演出が物語として完結しときめきや感動をもたらすものでなければならない、そうでなければ映画じゃない。

・なぞ解き、間違い探し、宝探しをするのだったらTVゲームでいい。そんなものを柱にすえた映画など映画ではない。

・マーティン・スコセッシが間違い探しと宝探し、なぞなぞゲームを映像で作って、それを”映画”だとして臆面も無く作り完成させ公開したゲーム映像。

・こんなものは映画にあらず。それを映画として公開していることもおかしいし、それを映画としていることをおかしい。

・こんなものは映画じゃない。

・・・・って、最近こういう風に感じる”映画”だって言われて公開されている商品が多い。うんざり。

2011-07-21 『RAILWAYS/レイルウェイズ』話の焦点がとんちんかんにぶれている。

LACROIX2011-07-21

[]『RAILWAYS/レイルウェイズ』

●最初『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』というタイトルから想像したのは、頑張って頑張って子供の頃の夢を49歳にして叶えた一人の男の”頑張ればなんだって出来るんだ” ”夢は叶うんだ” という希望に満ちた、元気が出るような話かと思っていた。

●しかしこの映画の主題は運転士になることでも、運転士になったことでもなかった。この映画の物語の中心にあるのは”家族”の話だ。

●田舎から東京に出てきて働く男。出世して会社の中でも重要な立場になったが、妻や娘との関係はギクシャクしている。もうすぐ50歳、田舎に残した母親も高齢、東京で一緒に暮らそうと言っても今更生まれ育った土地を離れるなんて嫌だと言う。そのうちに母は高齢で倒れ入院することとなり、息子として面倒を見なければいけない。会社を辞めて田舎に戻らなければならない。だが田舎には50歳間近の男を雇うような会社はない。どうしたらいいんだ!

●この状況は日本で働く多くのサラリーマンにとって他人事とは言えない問題。今は大丈夫でも後5年、10年後には考えなくてはいけないと頭の中を過っている悩み。日本の社会体制の問題でもある。

●有名企業の役職を捨て、田舎に戻ることを決めた男。そこから徐々にギクシャクしていた家族の関係が修復され、親と子、夫と妻、母と息子が家族の繋がりと絆、その温かさと大切さを再確認して物語になってゆく。この流れはとてもいい、心温まる物語の展開だ、だが・・・。

●こんなふうに田舎に帰って「やっぱり肩書きだな」などと言いながら、いとも簡単に小さい頃の夢であったという電車の運転士になるなんて、これはいくらなんでも話が都合よすぎる、甘すぎる。今の田舎の状況はもっとはるかに厳しい。こんな甘さを享受できるのは政治家か土建会社のコネや押し込みの効く、金の利害が絡んだ関係者でもなければ通常はありえないことだ。それをさも当然のようにサラリと描いているのが短絡的であり、非常にご都合主義な話の進め方なのだ。要するに脚本家監督は描いている物語に真実性や現実性などまるで追及していない。都合よく話の筋だけ、表面だけを利用し、その背景などなんの斟酌もしていない、真剣に考えてもいないのだ。

●大都市に集中した企業とそこでの就労の機会は地方から出てきた者に若い間は夢を与えるが、歳を取るにつれて悩みと都会と田舎の格差という現実を突きつける。本来もっとも大切にすべき家族の絆、親や生まれ故郷といったものの大切さを、今の日本社会の構造は、そういった大切なものを切り捨てようとしている、切り捨てなければ成り立たないようになっている。地方はどんどん廃れ、いざ戻ろうとしても生活を成り立たせるのも厳しい。これが今の日本の実情であり、現実なのだ。

●この映画は日本社会に横たわっている大きな社会問題、構造問題を物語の背景として設定しながら、それを問題として意識も認識もしていないかのようだ。ただ背景設定に使っているだけで、それが大きな問題であると考えようとも、その問題に手を差し伸べて拾い上げようともしていない。ただその問題「大変そうだな」と遠目で見ているだけなのだ。

●田舎に帰ってから娘との関係、妻との関係が徐々に修復され家族の絆を再確認していくくだりは心温まるものがある。この辺の話はこの作品の中でも一番に良い部分だ。主人公の男と、母親、娘、妻との家族の物語がこの作品の中心になっているのだから。だがその周辺に配置された物語はどれこもれもちぐはぐに別方向を向いていて、一本の物語を太く肉付けするようなものになっていない。それがこの映画の大きな失敗部分でもある。

●『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』というのも、タイトルと話の中味とのズレ方が甚だしい。この映画の中心に流れているのは、家族の話であり、家族が抱える問題、今の日本の多くの男が、夫婦が、家族が、親と子が抱える問題だ。49歳で電車の運転士になる話は一つのエピソードあり、それ自体は悪い話ではないが、別に運転士にならなくても他の仕事でもこの作品のストーリーは成り立つ。

●帰ってもっと普通の会社勤めをしながら、家族の絆を取り戻していくという話のほうがもっと素直で自然だった。田舎に戻って仕事を探すという話に、子供の頃の夢を叶えるだとか、電車の運転士という特殊な仕事の話を無理やり持ってきて繋げてしまったことにより、物語の焦点がその都度あっちへ行ったり、こっちへ行ったりして、話の芯がぶれてしまっている。

●いうなればこの作品の中で電車と運転士の話は観客の目を引く為の後付けの飾りであり、客寄せパンダであって、薬味である。病気で入院した母親のことを思い田舎に戻ったサラリーマンが苦労しながらも家族の絆を確かめていく、それが話の中心にあるというのに、薬味である鉄道の運転士になる話をタイトルにしている。これは明らかにおかしい。

●物語の本筋を深堀することをせず、周りにぺたぺたと余計な装飾をはりつけ、物語を太く使用としている。それは見せかけだけに過ぎない。あちこちから持ってきた人目を引く、見栄えのいい飾りをペタペタとな貼り付けてても、話の芯は太くならない、細く頼りないままなのだ。これは脚本、物語を膨らませ厚みを出そうとして失敗する典型的なパターンだ。鉄道と運転士の話は物語の傍流にしかない。

●監督かプロデューサーが鉄道ファンで、どうしても鉄道の映画を作りたかったのか? タイトルにしろ宣伝にしろ鉄道のことに焦点が合わせられている。物語の中心にある家族の部分にこそ焦点は合わせられるべきであり、それをせずに、薬味であり装飾品である鉄道の部分ばかりを強く押し出しているので、作品そのものが芯のブレたとんちんかんなものになってしまっているのだ。

●結局の所、この映画(も)、そこそこのいい話を集めておきながらも、それらを物語の芯を中心としてキッチリと絡め組み上げていくという脚本の組み上げに力量のなさから失敗し、集めてきたいい話がただペタペタと芯に貼り付けられただけで一つの物語として融合していない状態だ。だから、割といい話なのだけど一本の作品としてドンと前に出てこない、心に響いてこない、そんな仕上がりになってしまっていると言える。

●携帯電話を使うシーンがかなり多く、目障りにすら感じる。日本のTVドラマはずっと場面を切り替えたり、話を前に進める便利な道具として電話を乱用してきた。家庭電話が携帯電話になったおかげで、家に居なくても会社に居なくても、喫茶店でも田んぼのあぜ道でも、ただ道路を歩いているときでも、登場人物がどこに居ても、電話が鳴って話を強制的に前に進めるという安直な手を使えるようになった。そして脚本家は話が回らなくなると直ぐに携帯電話に頼るようになり、脚本と物語はワンパターン化し、どこのドラマや映画を見ても似たようなシーンが目に付き、つまらなさが広がっていった。

●実際に携帯はいつも身近に持っていて、家庭でも電車の中でもどこでも携帯の画面を暇さえあれば見ているというのが今の日本社会だが、映画の中でやたら携帯を使っているシーンが出てくるともううんざりしてくる。いい加減こんな安直な道具に頼るのはもうすこし考えたらどうなのと言いたくなる。

●リストラを言い渡した同期の工場長が事故死するというのも、これもあまりに安直で短絡的過ぎる。この工場長の存在や二人の会話、そして事故死は物語の中にほとんど影響を及ぼしていない、これまたただの装飾物であり、味を深めない薬味。こういう挿話がこの作品の中にあちこち散らばっている。飾りだけで話を膨らませることもなく。

●「家族より会社が大事なの」「あたりまえだろう」こんな会話が出てくるが、前時代的な気がする。この年代の人たちなら家族でこういう会話もあるかもしれないが、会社人間、モーレツサラリーマンといった世代の人たちはほとんど退職し、まだ残っている人も今の世の中はそんな発言をナンセンスととらえる人が主流だと知っているだろう。未だにこんな発言していたらそれこそナンセンスだ。

●中小企業、町工場、個人商店、田舎の会社などで、いやおうなく家族よりも会社が大事という態度をとらねばならない、そう考えることが社員として当然と擦り込まれ、働き場所を失わない為にそういう態度と思考をとることを無言で強要されている人はいるだろうが、自分からすすんで「家族より会社が大事だ」なんて考え方をする会社員というのは、今の時代極めて少数派のはずだ。

●今の若い世代、いや中年クラスでも「家族より会社が大事なの」と聞かれたら「そんなはずないだろう」「ちょっと上手いこと言って休み取るさ」「会社に人生ぜんぶ預けたわけじゃない」と舌を出すだろう。

●ALWAYSからRAILWAYSと題を繋げても中味の良さは繋がらない。

2011-07-02 『ハルフウェイ』完全なる亜流、監督不在。個性、創造性はどこに

LACROIX2011-07-02

[]『ハルフウェイ』(2009)

●冒頭の自転車のシーンは「ん?なんだこれは」と思うくらいカメラが映像の前に出しゃばり、絵を仕切っている。「これは下手だな、素人っぽすぎる」と眉をひそめた。この冒頭のシーンはかなり頂けない。カメラマンの顔や手や目の動きがそのまま画面にでてしまっている。こうなると映像を観ているのではなく、カメラマンがのぞいたレンズの中を観ているようなものだ。

●その後のシーンは淡い映像、手持ちのブレをあえて出した所など、いかにも岩井流の撮り方。女子高生二人のシーンなどは、学校のシーン、校庭のシーン、夕暮れ、もうどれもこれも、そのまんま岩井俊二の映画のどこかで観たシーンになっている。

●美しいシーンも沢山ある。もし岩井作品をこれまで観たことがない人がこの映画を観れば美しい、素晴らしいと素直に思う事だろう。単体の作品として独立して考えればそれでいいのかとも思うのだが、やはり違う。名画を模写した作品を見て、美しい素晴らしいというのはおかしいというのと同じだ。初めて見る人はそれでもいいかもしれない、だが本当の美しさ、本物を知るにつれて最初に感じた思いはきっと色褪せ、砕け崩れて行ってしまうだろう。

●北乃きいは相変わらずこういう気の強い少女役。「ラブファイト」とまんま同じ。作品も役も違うのに、演技で表現する女子高生が同じ人物かと思ってしまう。まったく同じ事を地でやっているだけとしか言えまい。演技に幅も変化もないし、変化を与えられなかった演出、与えなかった監督の考えもどういうものだか。わざと演出などせず、セリフも用意せず、状況だけ説明してあとは役者に全てを任せたと聞くが、効果は出ていない。年齢の若い役者では結局自分の性格の範囲内でしか演技など出来ない。

●同年代か近い年代が観て「うん、そうそう、ほんとこんな感じ」と共感するならそれもありかもしれないが、それはそれだけにとどまる。映画としてのなんらかにはなっていないし、何かを変えるわけでもない。ただこういうだけ。ようするにTVの女子高生ものドラマをちょっと豪華にしただけということ。

●結局この映画には作品の指揮者である監督/脚本の北川悦吏子がまるでいないのだ。この映画にいるのは岩井俊二であり、小林武史であり、今は亡き篠田昇のスタイル、面影を継承する角田真一でしかない。監督は不在、どの監督がやろうとも同じ映画ができていたことだろう。

●劣化コピーという言い型はデジタル社会ならではの、的を得た表現ではあるが、最近しょっちゅうあちこちで使われていてうんざりなので、やはりこの言い型は使いたくない。やはりこれは岩井俊二の偽物、真似事つまり、亜流というべきだろう。

【亜流】追随するだけで、独創性のない人。まねるだけで新味のないこと。

撮影:角田真一「花とアリス」「虹の女神」

http://eonet.jp/cinema/features/index_090109_2.html

2011-05-30 『ハート・ロッカー』深刻な戦場を娯楽映画で利用していいものなのか

LACROIX2011-05-30

[]『ハート・ロッカー』(2009)

監督: キャスリン・ビグローの作品は好きだ。『ハートブルー』にしても『K-19』にしても武骨で芯が通っていて、女性監督の作とはとても思えない、男気を感じる映画

●最初のシーンから画面に緊張感が漂う、絵にスキがない。これはクオリティーの高さが出だしの画面からピリピリと伝わってくる。ハリウッド一流のスタッフの力。それなりの公開規模のハリウッド映画には邦画と比べれてどうしょうもないと思わせる作品は稀だ。分厚いスタッフの層、高レベルの技術の凌ぎ合い、切磋琢磨、競争が映画の隅々まで一定以上の質の高さをもたらしている。そして常にその向上も。やたら作家性や個性に挑戦した作品や、余程の失敗作でない限り、撮影、カメラ、演出、演技、編集といった各部分の技術は練り込まれ鍛え上げられ常に高レベルを維持する状態になっている。物理的な技術は熟成しているといっていい。残っているのはアイデア、目新しいストーリー、それを映画という形にまとめた脚本だ。結局大昔から言われてきた通り、映画は脚本あってのもの。それがマンネリ化しアイデアに枯渇しはじめているからハリウッド映画が詰まらなくなってきている。あともう一つ必要なスパイスは監督が映画に込める思想、主張、哲学。

●しかしこの作品、湾岸戦争後のイラク・バグダッドの駐留米軍という実にキナ臭い問題を取り扱っていながら、硝煙の臭いが殆ど漂ってこない。イラク人ゲリラによってアメリカ人駐留兵が多数殺され、限りなく泥沼化していった事態のど真ん中を描いていながらその緊迫感や悲壮感、イラク人の悲しみや憎しみ、アメリカ兵の怒りや失望が殆ど全くと言っていいほど漂ってこない。

普通に考えれば、アメリカでも社会問題化し、ブッシュ政権の足下もぐらつかせたイラク駐留米軍を扱っていればなんらかの政治的な意向が映画の中に盛り込まれるものだ。しかしこの映画、そういったものが殆どなにもない。駐留アメリカ軍を非難、告発するわけでもなく、アメリカ兵を殺害するイラク人ゲリラを非難、告発しているわけでもない。

●こどもの体に爆弾を埋め込み、人間爆弾を作っている施設のシーンでは多少ではあるが、こんな行為に対する監督の怒りが垣間見えていたが、それ以外は全くといっていいほど思想的、政治的な表現、演出はない。

●イラクにもアメリカにも、どちらの側にも寄らない中立的な立場だと言えない事もない。だがこの映画から感じるのは、敢えて中立的な立場を取ったというよりも、

『イラクもアメリカも、バグダッドで起きている問題も、アメリカ兵がイラク人を殺し、イラク人がアメリカ兵を殺し、小さな子供までもが人間爆弾とされ血なま臭く、悲惨でむごたらしい戦争、それを起こしたアメリカ、それに抵抗するイラク、そんなものは私には関係ない。私は撮りたい映画の状況設定としてイラクと駐留米軍を選んだだけであり、その背後にあるものは全く関心がない、関係ない。私はエンターテイメント映画を撮りたかったのであり、何か問題提議をするような、社会性をもったような告発映画を撮りたかったわけではないのだ』

と言わんがばかりの全く政治、思想色を排除した考えだ。

●もちろん”映画”として考えるならばそれもありだ。何も思想性や政治色を映画に付け加える必要なの”映画”には全く必要ない。しかし、ことさら、このイラクと駐留米軍という非常に敏感な問題を手に取り上げながら、その政治的な部分や、その問題の深刻さ、そのおぞましさと言った部分には一切目を向けないというのには、大きな違和感を感じる。それは不謹慎ではないか、そう思うのだ。

●爆弾処理という手に汗握るエンターテイメント作品としては一級の出来栄えだ。だが、それをイラク・バグダッドを舞台にして描くのはおかしい。実際に起こっていることだとはいえ、今まさに人間が殺し殺されるという状況が進行しているその場所を使って娯楽作品を描くというのはおかしくないか? 例えるなら9.11のあのグラウンドゼロを舞台にしてエンターテイメント映画を作ったらアメリカ人はどう思う? なにかそういった納得のいかない不謹慎さ、デタラメさがこの映画から感じられそれが自分の中に納得のいかない不快感を生じさせている。

●まるでSF映画でも観ているかのような作品であり、爆弾を処理するシーンなどはスリルもあるし、非常に面白い。エイリアンの卵を処分しようとしている宇宙船の乗組員のようでもある。多分にSF映画的な要素を取り入れて娯楽作品としての面白さを倍増させたかのようでもあるが、空想の世界の中で描くSFではなく、実際の現実社会の中にSF的演出を組み込み、目を背けては行けない現実問題の上に娯楽要素を被せていることが、この映画の間違った有り様であり、監督、制作陣の不謹慎な精神に「おまえら、それでいいのか」「おまえらわかってるのか」と声を荒げたくなる部分でもあるのだ。

●そんな作品が「アバター」を抑えて2009年のアカデミー賞を作品賞を含めて6部門も受賞した。アカデミー賞の選考があれこれロビー活動や金やスタジオの力関係などで歪んでいるのは周知の事実だが、惜しむらくは、この作品を作品賞および最多受賞としたことにはアカデミー賞その歪みを証明しているようなものでもあろう。だが、作品賞受賞作品としては記録的とも言える興行成績の不振。それはアメリカの観客がこの映画を観る以前にこの映画の正体に怪訝さを抱き、アメリカが深く関わり、アメリカ人の心に深く刺さったトゲのようになったイラクと駐留軍の問題に対する制作陣の意識、心、不謹慎な姿勢に拒絶反応を示し、侮蔑して映画を拒否することによりこの映画にたいする抵抗をしめしたのではないだろうか。そこにはまだ少しだけ残った、自由の国アメリカの一般市民の良識というものが垣間見えている気がする。

●だが、ここで少し思った。ハリウッドの過去の戦争映画で名作、大作とされているものには戦争を娯楽映画化しているものがある。「遠すぎた橋」「史上最大の作戦」「ナバロンの要塞」などはその典型的な例となる。ハリウッドには悲惨で戒むべき戦争を娯楽映画化する系統があるということだ。いやハリウッドだけではない、日本も・・・。


参考ページ

http://longtailworld.blogspot.com/2010/03/what-hurt-locker-means.html

2011-05-29 『ヘブンズ・ドア』死を小道具に使い現実感も欠落したいい加減な話

LACROIX2011-05-29

[]『ヘブンズ・ドア』(2009)

●カメラはいい。フレーム、アングル、動き、映し出される絵にそれなりの緊張感がある。

だがこれは撮影監督の技量。

●なんとなくフランス・ヌーベルバーグ作品のような匂い。だがそれはストーリーの表面的な類似であり、本質的な部分、思想、哲学的な部分ではまったく違う。

●そもそもにして、話、脚本、状況設定、人物設定がかなりいい加減であり、非現実的。ファンタジーではないのにファンタジーを求めているのか、話に現実感(リアリティー)が全く無い。普通の人間ならこんなことをしないだろう、どうしてこういう考えをする?どうしてこんな展開になる? どうしてこう対応する? というあまりにおかしな脚本に呆れる。通常の人間行動、思考の感覚がまるでないオレサマ展開。

●現実世界を描いているのに、現実性が欠落していたのではどうしょうもない

●死が迫った二人に死の影が全く見えない。これが後少しで死ぬという人間か?

●この映画は死というものを都合のいい小道具として使っているだけであり、死に対する、死に向き合う真剣さはかけらもない。

●よくもまあ、こんな話、こんな内容、こんな展開の脚本、こんな映画を作ったものだ。

●K3ホールディングス というわけの分からぬ企業も話のなかでわけの分からぬ配置にしかない。社長を演ずる長瀬智也の不気味さは許容するが。

●演技力の高い 田中泯もこんな映画には出ていたのでは名前に傷がつくようなものだ。

●長瀬智也と福田麻由子の二人はいい感じ。なにも死を目前にした設定など全く必要なく、歳の離れた二人が社会常識から逸脱し暴走し最後に死ぬという話でいけば、それこそ現代のヌーベルバーグ(似非ではあろうが)的雰囲気にはなっていただろう。

●余命僅かという設定などまるで必要がなかった、そんなご都合主義な設定など捨ててしまえと言いたいところだ。

●要するにカメラを除く、殆ど全てにおいて、映画として稚拙なのだ

●『鉄コン筋クリート』のマイケル・アリアスが監督。あの映画も話題にはなったが話に芯がなかった。

●邦画バブル末期のどうしょうもない遺産とでも言える作品だろう。二次利用DVDで資金回収が見込めると沸き立った邦画バブルの時代にはこういう映画がどんどん作られたのだ。もう今はそれもないが。

【参】ビデオソフトの購入動向グラフ

http://www.garbagenews.net/archives/1768338.html

2010-11-25 『ベンジャミン・バトン』数奇なのは人生ではなく若返り現象か 

LACROIX2010-11-25

[]『ベンジャミン・バトン』(2008)

●年齢と若さが逆行して人生を進行していくという点が、既にそして最大の驚きであるためその他の要素、つまり人生の出会いや別れが驚くべき事件ではなくなってしまっている。

●人生はどうなるか分からない。ちょっとしたきっかけで人生が大きく花開くこともあれば、いきなり奈落の底に落とし込まれることもある。だから人生は面白いんじゃないか? それが人間なんじゃないか? といったことを叙事詩のように描いた映画は多々ある。「フォレスト・ガンプ」にしろ「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」にしろ「風と共に去りぬ」にしろ、何気ない日常を送っていた人生があるきっかけをもとに急に目まぐるしく変わったり、地道にこつこつ努力をしていたら思いもかけない幸運が舞い込んできたり、普通の暮らしをしていたのに大きな歴史の渦にまきこまれたり、そういった映画はごく普通の生き方、平凡な暮らしが大きく波打ち、怒濤のごとく変わっていく様が面白いのだ。ワクワクするのだ。

●だが、この『ベンジャミン・バトン』の場合は、一人の人間が生まれたときに年老いていて、年齢を重ねるにつれて若返っていくという、異常な、驚きの状況をベースに物語が展開していく。何気ない日常や、ごく普通の人の人生が驚きの変化をしていくのではなく、そもそもが驚きの生き方であり、普通では考えられないあり得ない人の人生を話の土台として物語を展開している。

だから、時間経過とともに起きてくる様々な出来事や変化が、驚くものに見えてこないのだ。それも全く。

●時間とともに、年を経るごとに若返っていくという、余りにも普通ではない驚くべき状況が話の中になによりも先に横たわっているから、ベンジャミンの人生の中で起きる様々な出来事が、さっぱり驚きにならず、葛藤も呼び起こさず、心を揺さぶりワクワクとさせてくれないのだ。

●小さく波打ち漂う人生の中に、時として大波が起きればそれは大きな驚きになるのだが、最初から大きく波打っている信じられないような人生の中に、小さな波が起きても大波の間に隠れてしまい驚きとして観る側に打ち寄せてこないのだ。

●それがこの映画の奇妙でおかしな所であり、間違った失敗しているところと言えるだろう。

f:id:LACROIX:20101123031209j:image:left:w250●謳い上げようとした人間の素晴らしさ、人生の素晴らしさ、掴みきれないその不思議さが、時間とともに若返っていくという余りに不思議で驚きの大波で覆われ、隠され、伝わらなくなってしまっているのだ。

●だから、すっきりとしない、釈然としないもやもやしたものが観終えた時に残ってしまうのだ。

●映像のクオリティーは高い、隅々まで目が行き届いている隙のない映画だ。ケイト・ブランシェットの姿はオーラを纏って輝いている。老いた子供から若返った姿まで演じるブラピも実に巧い。だが、死にかけた老婆に娘が昔の日記を読んで語りかけるという演出はありきたりで安易だ。観る側はたびたび日記を読む娘の視点に戻されるので主人公と一緒に体験を共有できない。数奇な人生に入っていけない。いや、この映画の中で数奇だったのは、ベンジャミン・バトンの人生そのものではなく、やはり逆行する年齢という部分だったのだ。だから何かこの物語そのものに感動も出来ない状態で観終わってしまうのだろう。

●ケイト・ブランシェットはこの映画の中でも際立って輝いている。最初の頃はキツイ目鼻立ちのこの女優を好きになれなかったのだが、役を演じている姿を観れば観るほどに魅力に捕らえられてしまった。もうこの女優の千変万化のイメージは恐ろしいまでの魅力を放っている。今のままでも凄いが、ケイト・ブランシェットは希代の大女優、名女優として映画の歴史が続く限りその名を残すのではないだろうか。

ケイト・ブランシェット インタビュー:http://eiga.com/movie/53529/interview/2/

2010-11-24 『山形スクリーム』 五月蝿いドタバタだけで超詰まらない。

LACROIX2010-11-24

[]『山形スクリーム』

●竹中直人は相当の映画通だし、相当の映画を観ているのだし、映画というものに一家言を持っているだろうし、沢山の映画を観て良い部分、悪い部分もよく分かっているだろうし、どういう作りの映画が失敗作で、どういう作りをしたらダメになるかなんてことはかなり頭のなかで分かっているのではないかと思うのだが、それなのに映画監督をすると詰まらないものばかりを作ってしまっている。沢山映画を知っているからいい映画を作れるという方程式はやはり当てはまらないのか。観て知っているだけではない、それ以外、それ以上の何かがなければやはりいい映画は出来ないということか。

●個性的なキャラをこれでもかという位集めて豪華なキャスティングの映画になっているが、自分には全く詰まらない作品。笑いをとろうとしているところも全然笑えないし、突っ込む気にもなれない。なんだか白けてしまう。ただドタバタやってるだけの映画という感じだ。これで2時間なんて全く必要ないだろう。

●あれこれ映画の小ネタも、ああそうですかという感じで、そんなものを入れても全然面白くも、おかしくもなっていない。

●ぷっくらとちょっと太った成海璃子がイイなと思う程度で、もう後は何も思わず、考えず、流しで観てしまった。そういう映画だろう。

●久々に、超詰まらないと思ってしまった一作。

2010-11-16 『初恋のきた道』中国映画の良心がこの辺りまではあった。

LACROIX2010-11-16

[]『初恋のきた道』(2000)

●木々の葉が黄色く紅葉し、枯れた秋草が広がる田舎の風景、チャン・ツィー・イーの輝く強い美しい瞳。美しい赤、マジックアワーを思わせる煌く太陽の日差し。牧歌的音楽。映像の何もかも隅々までが美しい。

ストーリーにいやらしさやあざとらしさなどの外連味が全くない。純粋、純白、正統、正道、映画はこれでいいのだ、こうあるべきなのだ、これこそが本来の姿なのだと美しい映像を観ながら思ってしまう。

●10年経って見返しても、美しさも感動もなんら色褪せることはなかった。あの頃は、はるか遠くまで広がる美しい大地の映像は大きなスクリーンで観なければと思って映画館に足を運んだものだ。

●アジア映画のお決まりシーンとなってしまっているが、料理をするシーンはやはりいい。だがそれ以上に瀬戸物を修理するシーンが非常にいい。そして脚本、ストーリーも素晴らしい。

●この映画の良さは何か? それは一にも二にも純粋、純朴さだろう。好きという純粋な気持ち、好きな人をずっと想い続ける姿。小手先の演出、あざとい演出、誤魔化しなどが殆ど無く実直に一人の若い女の子が男性を好きになるというストーリーが綴られていく。それが何にもまして良いのだ。

●きっとこの映画の映像の美しさ、ストーリーの純粋さは”癒し系”に当たるのだろう。そして2000年頃までの中国映画の田舎の風景や山の暮らし、貧乏でも質実に生きていく人々の姿などは”癒し系”だったのではないだろうか? だからあの頃中国映画が持てはやされ、ブームにもなっていたのではないだろうか? 

●10年ちょっと前、2000年前後に中国映画のブームというのがあった。あちこちの宣伝が煽っていた部分もあるが、純朴、純粋で非常に質実、良質の映画がミニシアター系中心に日本で次々公開されていた。人気もあった。この映画はそんな中国映画ブームの中でも特に人気があった作品だった。 有楽町の仕事帰りのOL向けにもぴったりだったし、チャン・ツィー・イーの可愛らしさ、美しさに男もだいぶ観に行っていた。

●あれから10年、最近の中国映画の話題は余り聞かない。中国映画ブームは今となっては見る影も無い。それは何故か? それは中国映画がガラリと豹変してしまったからだ。2000年頃までの中国映画にあった、たとえそれが小振りな作品であっても中国の奥深さ、人間の慎ましさ、良心、温かい心、儒教的な人間讃歌というべきものを描いていた中国映画がすっかりと消えて無くなってしまったのだ。中国映画の主流はあたかもハリウッド的スタイルを目指し、模倣し、ハリウッド映画的な嗜好に合わせたような作品ばかりになってしまった。それはあたかも中国の経済成長と共に、中国映画が持っていた美しさ、良さが失われていったかのようでもある。

●中国映画がハリウッド的に堕落した。金儲けビジネスが主体の商業映画に堕落し、塗り変わった。今の状況は極端な言い方をすればそういうことになる。

●中国映画の堕落と変貌はチャン・イーモウという監督の作品の経歴にも符号する。まだ中国映画に馴染みのなかった頃に衝撃を受けた『紅いコーリャン』から始まり、2000年頃までは中国的良心、人間の素晴らしさを描いた良作を撮影していた。しかし監督としての知名度が上がったこともあるだろうが2000年以降は『HERO』『LOVERS』とそれまでとは全く異なるブロックバスター的な映画を撮影し、その後は北京オリンピックの映像では世界中の非難を浴び『初恋のきた道』などで見られた素晴らしい人間描写は消えてしまった。チャン・イーモウの作品の変化、監督として歴史は、そのまま中国映画の変化、俗化、堕落の歴史を映している。

●金儲け至上主義的、守銭奴的になり、おかしな方向に走っている今の中国で、10年前に感じた中国映画の大陸的奥深さ、人間の慎ましい営みへの讃歌が、日本人が心を打たれ、感動した中国映画、その人間描写は再び戻ってくるだろうか? その期待は薄い、少なくとも今の様子では。

●2000年辺りを境として中国映画は変わった。『初恋のきた道』は中国人の良心、心の美しさ、人への愛の眼差しがまだ残っていた最後の時期の作品と言えるかもしれない。古い中国映画はものすごく良かった。だが今の中国映画は観る気も起きない。それが今の気持ちでもある。

◎原題『我的父親母親』を『初恋のきた道』という邦題にしたことは素晴らしい。原題以上に作品の良さを表している。

◎タイタニックの中国版のポスターが家の壁に貼ってあることには驚いた。思ったよりもこの村は町から近いのではないだろうか? と言っても一時間、二時間は掛かる距離かと思うが。

◎チャン・ツィー・イーのがヒョコヒョコと人形のように首を回しながら走る姿は、少し抵抗がある。知恵遅れの子供の動きといったら酷いが、この演出はそういうところから引っ張ってきたのではないだろうか? 可憐な少女であったチャン・ツィー・イーも今となっては、セレブの仲間入りをしたとは言えもうこの頃の素晴らしさの面影はまるでない。

チャン・イーモウ監督作品:『紅いコーリャン』(『紅高梁』1987)、『あの子を探して』(『一個都不能少』1997)、『初恋のきた道』(『我的父親母親』1999)、『至福のとき』『幸福時光』2000)、以降の『単騎千里を走る』『HERO』『LOVERS』は作品の質が低いというわけではないが、それまでの作品とはまるで方向性が変わってしまった。

http://www.sonypictures.jp/archive/movie/roadhome/

2010-10-31 『火垂るの墓』完全に大人向けの作品、子供向けアニメではない。

LACROIX2010-10-31

[]『火垂るの墓』(1988)

●アニメーションは子供が観るものだという認識が一般に定着しているし、アニメーションというのはその殆どが子供向けに作られてきた。製作者も子供向けの視点でストーリーや絵を創り上げていく。ジブリ作品は大人の鑑賞も出来るアニメだが、今敏作品のように全く子供向けではない作品作りをしているアニメーションもある。やはりアニメーション作品の主となる視点は子供の方に向いている。

●しかし、この『火垂るの墓』はジブリ作品とはいえ、完全に子供向けという視点はない。かといって大人向けという視点で作られているわけでもない。

●高畑勲は野坂昭如の原作小説を、その中で描かれた戦争の酷さを、その辛さを、当時の状況を、自分が経験した戦争と重ねあわせて戦争の愚かさ、悲しさとして表現したかった。純粋にそういうことなのだろう。その手段として使ったのが自分の技であるアニメーションであったということだ。監督の高畑勲にとってこの作品はアニメーションや実写という映像の方式ではなく、純然たる自分の"思い" "映像そのもの"であったのではないだろうか。

●終戦記念日が近づく度に何度もTV放映され、教育の現場でも戦争というものを教える教材として子供たちにこの映画を鑑賞させていると聞く。しかし、この内容、この表現、この厳しさを幼い子供たちが理解できるだろうか? アニメーションという表現形態をとってはいるが、この作品は100%大人が大人に向けて作った内容であり、この内容を理解したり、感動したりということが出来る主学生や中学生は非常に少ないのではないか? 大人が、当時の戦争体験を思い出し、それを子供たちに伝えたいとしてこの映画を選択することは間違っている。この映画を子供たちに見せ、この映画で子供たちを教育しようとしている大人は自分たちの経験や感覚や意識を子供に押し付けようとしているのではないか? 

このアニメーション映画は、完全に大人向けの作品なのだ。それがアニメーションであるからという理由で子供に向けてさも教育の手段のようにして「見なさい」と上映、放映されている。それがこの作品の、そして日本のアニメーションを取り巻く状況のマイナス面ではなかろうか? 作品の内容、表現を、自らの目と感性で判断することなく、アニメーションだから子供向けという既成観念に乗せられたまま作品が語られ、上映されている。延々とずっと。

●名作と呼ぶことになんの躊躇いもない映像作品だ。だがそれゆえに、この作品を取り巻いている状況には少しおかしいと感じる部分がある。

●名作と呼ばれるアニメーショに比較して実写版の『火垂るの墓』は余り良い評を聞かない。子供はアニメーションが好きだ。柔らかく輪郭のはっきりとした絵。優しいキャラクター、優しい絵のトーン。二作品を並べれば子供はアニメを選ぶだろう。だが、もし本当に子供たちに戦争の怖さ、恐ろしさを教えたい、伝えたいというのならばアニメと実写のどちらがいいか? 優しいトーンの絵の中に描かれた戦争の恐ろしさを子供達は汲み取ることができるだろうか? 本当に戦争の恐ろしさを子供に教えたいというのならば実写版の方がいいのではないか? 大人の感性で作られた大人向けの内容である映画作品を、それがアニメーションであるから、アニメーションだから子供に向くからと子供に見せるのは本質とそれを伝える手段がちぐはぐになってはいまいか? 本当に子供に戦争の恐ろしさを教えるのならば実写を見せるべきなのではないか? 二作品を続けて観て、そんなことを思った。

●このアニメーション『火垂るの墓』はアニメでありながら完全な大人向けの作品となっており、だがそれを観る側は大人向けの作品でありながらアニメだから子供向けと考えている。作った監督の見ている方向と、観客が考えている対象の方向が真逆に伸びている。

2010-10-12 『ホノカアボーイ』 ホノボノはいいがオバサンの恋愛は△X↓

ホノカアボーイ

[]『ホノカアボーイ』(2009)

●これもまた"癒し系" "ほのぼの系"だとかの今流行りのキーに合わせて作られた映画なのだろう。"脱力系"ではないが・・・・。

●こういう癒し系の映画ははどこもかしこもワンパターン化している。日本の田舎から始まって、沖縄に辿り着き、その次は海外。癒しの場所は南国の海辺。ほんとにどこで誰が作ろうとみな似たり寄ったりだ。

●そして必ず料理のシーンは出てくる。昔から行き詰まったら食事シーンを入れろなどと映画では言われていたが、最近は行き詰まる以前に食事シーンを組み込んでいるわけで、確かに美味しそうなものを作っていたり、食べていたりするシーンはそれだけで興味を引くし飽きないのだけれど、ちょっともう余りにやり過ぎと言う感じだ。

脚本家もプロデューサーも監督も料理シーンを入れればそこそこ当たるという定石に胡座をかいて楽をしようとしているのではないか? あっちの映画でもこっちの映画でもお料理シーンが出てくる。「またか、ここでもか」と溜め息が出てしまう。確かに料理のシーンは面白いけれど、そこにばかり頼ってる今の邦画はどうなんだろう。日本映画を並べたらお料理番組映画があっちもこっちもという状況ではないか。他がやって巧くいってるからこっちも同じことをしようというのは商売なら普通だが、映画というものを作っているなら他がやってるから自分は絶対同じことをしないって言って欲しいものだ。作品のHPにはレシピを上げてお料理を紹介し・・・というのももう止めたらと言いたい。

ストーリーは殆どあってないような映画。一人の若者と、その周りにいる年老いた人達のなんでもない日々の出来事が、なんでもなくほのぼのと描かれている。確かにこの映画を観ているとなにかあんまりあれこれ考えずただほのぼのとしてればいいかという気持ちになる。その雰囲気は悪くは無いのだが、それを台無しにしてしまっているのが倍賞千恵子演じるビーだ。

●倍賞千恵子はもう円熟の女優だと思うのだが、なんでこんな役をやっているんだろうと思ってしまった。若い男に色気を出して派手な洋服を買ったり、料理を作ってやったり、糸電話をしたり、ヤキモチを焼いたりするビーの姿は、正直なところ、気持ち悪いのだ。いくらなんでもこんなオバサンに中学生か高校生の少女がするのと同じような恋心、女心を演じさせるのは大間違いであろう。この位のオバサンになったらもっと大人として、熟年の女性としての気持ちの表現というものがあるだろう。それがまるで少女と同じような恋愛感情の表現を演じさせているから、妙に気持ち悪い。これは賠償千恵子が悪いのではなく、こんなキャスティングの甚だしい間違であり、こんなおばさんにこんな演技をさせる脚本のどうしょうもなさであり、それをそのまま撮ってしまう監督のおかしさ。ビーがなんともキモイ感じになってしまっているので、全体のほのぼの感や柔らかな感じにまで悪影響を及ぼしてしまっている。

f:id:LACROIX:20101014091748j:image:w200:left●ビーというおばさんの若い男にたいする妙な恋愛感情なんか入れず、年配女性として温かく息子のように若い男を見守る姿のほうがよっぽどよかっただろう。そうすればもっと素直にほのぼのした映画になっていただろう。

●蒼井優や深津絵理がチョイ役で出てきても、それがどうだというわけではない取って付け。虹の話も同じく取って付け。

●マライア役を演じる長谷川潤のいかにもハワイのギャルといったムッチリ、ボインのナイスボディーが印象的だった映画ということになるか・・・・。(笑)

2010-10-09 『スタスキー & ハッチ』TVドラマの作りだがそこそこ笑える

LACROIX2010-10-09

[]『スタスキー & ハッチ』(2004)

●スタスキー:(TV) ポール・マイケル・グレ−ザー ⇒ (映画) ベン・スティラー

ハッチ :(TV) デヴィット・ソウル ⇒ (映画) オーウェン・ウィルソン

日本のTVは刑事物と医療物しか当たらないとか言われているらしいが、逆にアメリカでこの手の刑事物青春ドラマってゆうのは最近少ないないのではないだろうか? 

●最初、ベン・スティラーの強烈な顔とオーウェン・ウィルソンの軽薄な顔が並んでいるのを見た時、TV版のスタハチ二人組とのイメージ・ギャップが余りに大きく、これは違いすぎるだろう、キャスティングがおかしいんじゃないかとさえ思った。(ちぢれ毛と、ブロンドヘアだけは合わせてあるが)

f:id:LACROIX:20101010150648j:image:left:w150●脇役の黒人スヌープ・ドッグの容姿が強烈。立っているだけで主役二人を食ってしまうほどのイメージ。

●段々と観て行くと、下ネタ、お色気、低級ギャグなどが思った以上にふんだんで、結構面白い。「あ、確かに昔のTVシリーズってこんな感じだったかな」と思わせる少し懐かしい作り。その辺のノスタルジックな味を加えることをこの映画の監督やら製作陣はきちんとやっているようだ。大笑いするような面白さではないのだが、ふふんと口元を緩めてしまうような小憎い笑いが結構いい。

●このままTVの2時間ドラマにしたほうが受けはよかったかもしれない。作りがこれは良い意味でTV的。昔の懐かしいアメリカTVドラマ的といえるだろう。

●クリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』も赤白で派手にペイントされていると品もなにも無いいかにもアメリカの馬鹿車という感じになってしまうものだ。

f:id:LACROIX:20101010150649j:image:left:w250ラストで往年のスタハチ二人が出てきたのだが、新旧ハッチの二人がスタジャンを着て並んでいるところを見るまで全然分からなかった。往年の二人は太ってTVに出ていた頃のカッコよさはゼロ。TVシリーズファンへのサービスなのだろうが、この姿をみてしまうとちょっとげんなり。

●日本では劇場未公開でDVDリリースだったらしい。まあ内容からいって仕方ないか。それでも偶然に観たらそこそこに楽しめた。繰り返し観たいというものではないけれど。

2010-07-16 『ライトスタッフ』何度見返しても感動して力が沸いてくる。

LACROIX2010-07-16

[]『ライトスタッフ』(1983)

● スケール感の大きなホーンの音楽が流れ「The Right Stuff」のタイトルが浮かび上がる。雲の中を突き進むモノクロームの映像。そして、ず太い声のナレーションが重なる。

「大空にはデーモンが棲んでいる、サウンドバリアーだ」

何度観ても胸が高鳴り気持ちが高揚するオープニングだ。

● ひと言で言えばこの映画は非常にカッコいい。スーパーマンヒーローという類いの格好良さではなく、生身の男の生き方として極めてカッコいい。世の中には星の数ほど映画があるけれど、単純明快に作品そのものがカッコいいと言える映画は滅多に無い。だが『ライトスタッフ』は兎にも角にも、極め付けにカッコいい映画なのだ

● こんな風になりたい、こんな生き方をしたい。"男が憧れる男" の姿、理想をこの映画のパイロット達は具現化しているのだ。そしてそれは女性にとっても「こんな男性っていいな、素敵だね。こんな男の人達って羨ましい」と思わせる存在なのだ。

● 『ライトスタッフ』が好きだ!という映画ファンは結構多い。そして、この映画は非常に男っぽい男向けの映画なのに、『ライトスタッフ』が好きだ!という女性も結構沢山いる。(ある程度以上の映画ファンに限定されるが) この映画は男から見ても女から見てもカッコいいのだ。男が憧れるような男の生き方は、女の目から見てもカッコいいし、理想の男に繋がるだろう。

● この映画の中ではパイロット達の妻の姿も男達を支える重要な存在としてしっかりと描かれている。

「男なんて!」

「大きな子どもみたいなもの」

と女同士で話ながらも、男達が戻る場所をしっかりと守っている妻たち。男っぽい映画の中に、妻たちの姿、妻たちの女性からの視点も描かれている。そんな部分も女性がこの映画を支持する一因であろう。

● この映画は劇場公開時に数回、VHS、LD、DVDと新しい形でソフト化される度に何度も観て、一作品を繰り返し観た回数が一番多い映画だ。もうたぶん数十回は観ているだろう。そのくらい好きな映画でセリフもシーンも粗方頭の中に入っているのにまた観たくなってしまう映画だ。ビル・コンティーの胸が高まり、心が高揚するようなスケール感のある音楽も素晴らしい。ユーモアのあるストーリーもいい。パイロット達の友情にも痺れる。

そしてなによりもこの映画を観ると気持ちがスカっとして晴れやかになる。

ラストで「我、天を目指す*」と一人大空へ飛び上がっていくゴードン・クーパー。窓から差し込む陽光に「神の光のようだ」叫び、青空高く白い煙を噴き出して飛んでいくロケット。ここにオープニングと同じず太い声のナレーションが重なる。そのナレーションの声は誇らしげに高らかに笑いながら語る。

「その輝かしき日、ゴードン・クーパーは地球を22周回り、つかの間の一瞬だったが、彼は紛れもなく世界最高のパイロットだったのだ!」

・このナレーションが最高にいい! ワッハッハ、どうだ!見たことかぁ!と自信たっぷりに勝ち誇った笑いが聞こえてくるようだ。

・そして、ようし、俺も頑張るぞ!と自分の気持ちを鼓舞されるのだ。*(“blue yonder : 青空の向こうへ" を “ 我、天を目指す”と訳したのもなかなか)

ビル・コンティーの素晴らしいマーチが流れ、青空を進むゴードンのロケットの映像が続く。このラストを観る度に「ああ、やっぱりこの映画はいいなぁと心から感じる」

● やっぱりこの映画は自分の中でオールタイム・ベスト1かも知れない。

● 今回「ライトスタッフ」を観て気が付いたことが一つある。

“パイロット達は自分の夢を追いかけていた訳ではないのだ。”

・職業軍人としてパイロットになり、その中で虚栄心、競争心からサウンド・バリアーを破り、最高速度を記録することに命を賭けて競った。マーキュリー計画でも、パイロット達が目指していた宇宙へ飛び立つという目標は仕事の中で舞い下りてきた目標であり、チャンスだ。仕事の中で物足りず、自己満足を求めて記録を塗り替えに目標を設定し、そこから繋がって宇宙へ飛び出そうとした "彼らの目指したもの" は、家族を養うために仕事をするなかで見つけた後付けの目標だった。

・この映画にものすごく共感するのは、玉虫色の夢物語、成功物語ではなく、仕事に束縛されるという男にとってどうしても避けられない現実のしがらみの中から《高い目標を、夢を、希望を》見出し、掴み取って行った男達の話だからなのだ。だからこそ、ストーリーに元気づけられ、鼓舞され、よし俺も頑張ろうという気持ちになるのだ。

● この映画には名シーン、名セリフがいっぱいだ。これは脚本の素晴らしさと言っていい! それを一つ一つ書き出したら、結局映画全部を説明することになってしまうくらい素晴らしいシーンが詰まっている。

「音の壁を破ってやったぞ! お次はなんだ!」

「WHO IS THE BEST PILOT YOU EVER SAW?」(今まで最高のパイロットは?)

「YOU ARE LOOKING AT HIM」(今見ているじゃないか)

「YOU GOT ANY BEEMANS?」(リドリー、ガムを持ってるか?)

「I MIGHT HAVE ME A STICK」(ああ、あったと思う)

「LOAN ME SOME, I will PAY YOU BACK LATER」(ちょっとくれないか、後で返す)

「THINK I SEE A PLANE OVER HERE WITH MY NAME ON IT」 (俺の飛行機が待ってる・・・)

この辺りのシーンは毎回観る度に息をのみ、ぐっと見つめ、ブルブルっと震える。

● 1984年に日本で劇場公開された時、オリジナルが3時間13分という超長尺だったため、日本側で2時間40分に再編集して上映された。(それでも当時としては結構長い) (フィリップ・カウフマンが「日本で編集するなら黒澤明に頼んでくれ」と言ったというのは本当だろうか?) 劇場でいわゆる短縮版を観た時に、これは明らかに話の流れが繋がっていないと感じる部分が2ケ所あった。

1) ガス・グリゾムのポッドが海面に着水しヘリが回収する前にハッチが爆発して開いた。そのすぐ後、いきなり原因を調査する審問室になる所。(話が飛んでいる)

2) ジョン・グレンのポッドが故障した状態で大気圏に突入。炎に包まれるポッドの中で、ジョンが鼻歌を歌って熱さをこらえて耐えている場面がいきなり切れて、凱旋パレードのシーンになる(飛ぶ)。

1) に関してはオリジナル版で、ヘリに救出された後、ガスが「急にハッチが爆発したんだ、俺は何もしていない」と船上で弁明し、ポケットから宇宙のお土産にしようとしていたポッドのおもちゃを落とすシーンが復活していたのでシーンの流れにおかしな部分はなくなった。

2) に関してはオリジナル版でもそのままであり、まるでぶった切りのようなこのシーンが残っている。「あそこのシーンはおかしくないか?」「凱旋パレードはジョンの夢の中のシーンかと思った」という意見は他でも聞く。どう考えてもこのシーンは繋がりがおかしく、フィリップ・カウフマンがなぜこんな状態で映画を完成としているのか疑問。このシーンは作品の完成度を低下させている不可解な編集だ。大好きな作品だがこの部分だけはちょっと納得がいかない。

● 『ライトスタッフ』が初めてDVD化されたのは2000年、この時のディスクは両面一層という今で考えればとんでもない仕様だった。(途中でトレイを空けてディスクをひっくり返さなければならない) 尺の長さと画質を考えた圧縮レートでは、片面一層には納まらず、かといって片面2層ディスクはコスト的か、または工場の設備対応ができなかったかで苦肉の作で両面ディスクなんてものを作ったのだろう。その後のスペシャル・エディションでは片面二層に収められたが、最初のディスクは「昔はこんなDVDもあったんだよ」という珍品として面白い

● 日本公開版とオリジナル版では33分の尺の違いがある。日本版に無かったシーンは以下のような部分だった。(正確ではない部分、足りない部分もあるとは思うが)

1)砂漠に待機するX-1を馬に乗ったイエガーが見つけた後、崖を下りてX-1に近づき砂漠に走り去っていくシーン。

2)イエガーがパンチョの店の外でグレニスを抱き寄せ月に向かって吠えるシーン。

3)BBQをしているクーパーが焦げたソーセージを妻に見せた後、「お別れよゴードン」と妻が言って消えていくシーン。

4)ライフの表紙撮影で妻たちの集合写真を撮り、契約金と手記について説明を受けるシーン。

5)ライフの表紙が猿となった後、イエガーが月を見上げるシーン。

6)ガスがヘリに救出されてから、戦艦の上を歩き、審問室に移るまでのシーン。

7)パンチョの店が火事で焼けるシーン。

8)焼け落ちたパンチョの店でイエガーとグレニスが語り合うシーン。「俺が一番怖いのはお前さ」「そんなことはない、でもうれしいわ」と語るシーン。

9)チトフに対抗して不具合の続くアトラスを打ち上げるとグレンに電話で伝えるシーン。

10)クーパーがオーストラリアで現地人アボリジニと話すシーン。

11)グレンのポッドの周りに無数の光の粒が現れ、まるで蛍のようだと語るシーン。

12)テキサススタイル・パーティでミス・サリーランドが羽の舞いを踊るシーンからドーンという音がしてパイロットが上を見上げるシーンまで。

●オリジナル版で復活してよかったシーンもあるが、冗長と感じられるシーンもある。日本版ではパイロットの妻たちを描いたシーンはかなりカットされていた。

●オリジナル版でグレンのポッドが光の粒に包まれるシーンは美しく、これは復活して良かったが。ラスト近くの羽の舞いのシーンは無くても良いのではないかと思う。


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◆『ライトスタッフ』という映画はそれほどメジャーな作品ではない。どちらかといえば映画関係者、映画通からこの映画を好きだと聞くことが多い。たぶんそれは、この映画に今のハリウッドが失った、映画らしさ、映画を作ることによって成し遂げようとしていた夢や希望が残っているからなのだ。

◆元々のハリウッドの映画人は映画を作ることを誇りとし、映画で人に夢や希望を与えようと考えていた。そういう心で映画作りをし、それがハリウッドの精神になり、伝統となっていた。だが、1960年代後半からの映画産業の低迷時期にハリウッドには映画人以外の人種が流入してきた。経営状態の建て直しという大命題があったわけだが、証券会社、銀行、弁護士などがスタジオのトップに着くこととなり、映画を愛する映画人ではない、金と権利の仕事をメインとするビジネスマンが映画製作の動向に口を挟むようになった。

◆良い映画を、感動する映画を、沢山の人に夢を与える映画を作ろうという心は、収益の高い映画を、儲かる映画を、今一番受ける映画を作るという手段に置き変わった。

◆今にしてみれば「そんなことあたりまえだ」と言われるが、少なくとも1970年代位までは、直近のスタジオの収支が悪化しても、本当に良い映画を、心に届く映画を作れば、それが将来的には利益をもたらすと考えられていた。

◆そんな金勘定だけではなく、本当に良い映画を作ろうという映画人の心意気が、この「ライトスタッフ」から熱気のように伝わってくるのだ。だから映画人はこの映画に今のハリウッドが無くした映画作りの夢や希望、スピリットを感じ、この映画を好きだというのだと思う。

◆映画の最初にも出てくるロゴ、LADD COMPANYは『シェーン』の主役であったアラン・ラッドの息子であるアラン・ラッド・Jrが作った製作会社。ハリウッド全盛期を生き、メジャースタジオのトップを歴任したアラン・ラッド・Jrは、20世紀フォックスに居たとき、メジャー・スタジオ各社に拒絶されていたジョージ・ルーカスのスター・ウォーズの企画を唯一とりあげた人物だった。そのアラン・ラッド・Jrが率いていたLADD COMPANYは、映画人が良い映画を作ろうという精神が生きていた会社だったのだろう。ライトスタッフは収支計算、損得勘定だけで映画作りをするビジネスマンではなく、映画を愛し、よき映画を作ろうとする情熱に満ちたアラン・ラッド・Jrの会社が製作した。其れ故にこそ、「ライトスタッフ」は汚れていない男の夢や、情熱が宿った、映画を愛する映画人の心意気がこもった素晴らしい映画になった。映画人の情熱が映画のなかで熱く輝いている映画になったのだ。

◆映画を愛する人は、今の映画に無くなってしまった古き良き時代の匂いをこの映画から感じとっているのだ。だから、「ライトスタッフ」は映画を愛する人にこよなく愛される映画として今に伝わっているのではないだろうか?

2010-07-09 『グラン・ブルーその後、夏の海、思い出』

LACROIX2010-07-09

[]『グラン・ブルーその後、夏の海、思い出』

◎ 夏を前に「グラン・ブルー/グレート・ブルー」関連の思っていること、思い出を全部書き出してみた。ん、全部とは言えないか、まだ色々あるけど、かなりたくさん書いたからこんなもんでいいかな?「グレート・ブルー」は思い出の映画だし、多分これからも何度も繰り返し観る大事な一作だから、いつか思っていることをまとめて書いておきたいと思っていた。

◎ ジャン・マルクバールはジャックと同じでかなりストイックな性格のようで「グラン・ブルー」以降は出演する映画もかなりアート系のマニアックなものに偏っている。最近は映画に出ているという話も聞かないな。「ヨーロッパ」に出た後「Switch」でロングインタビューが掲載されていたが、映画業界にもかなり批判的で尖ったことをたくさん言っていた。ジャン・レノがそれをたしなめていたりしたけど。あ「Switch」どこにいっちゃったかな? 増えて邪魔になった雑誌と一緒に捨ててしまったのかもしれない。もういらないやと捨てたものが後々にまた読みたくなる、これもよくあることだ。

◎ ジャン・レノはハリウッド進出してたくさんの映画出演をし「WASABI」なんてこれまたトンでも映画に出たりして、CMでも良く顔を見たし、あの丸めがねが流行ったりしたこともあった。ここ何年かはあまり目立ってないかな? ちょっと一時期流行りすぎたのかもしれない。

◎ ロザンナ・アークエットは「デボラ・ウィンガーを探して」で監督までしたけれど、インタビューの時に余りにもおかしな答え方と動作だったのでドラッグ中毒じゃないかとか、映画に出演しているときの奇抜な演技もドラッグでラリって出してるんじゃないか、なんて噂も流れていた。彼女も最近殆ど話を聞かない。

◎ ローランス博士を演じたポール・シナーはこの映画の撮影後エイズで死んでしまったらしい。

主人公ジャックの元となったジャック・マイヨールは、1998年に「グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版」の公開とオメガ社がジャック・マイヨール1998モデルというシーマスターを発売したことに合わせてプロモーションで来日し、六本木にあったCAFE BAR「グラン・ブルー」で記者会見を行った。ちょうどその時、最前列でシャッターを切るカメラマンの頭越しに、遠くからではあったけれど、椅子に腰掛けてインタビューを受けるジャック・マイヨールを見ることができた。もうだいぶ老けて白髪の髪が本当にお爺さんという感じだったけど、この人があのジャック・マイヨールなんだと思ってちょっと感動した。2001年にイタリアの自宅で自殺したという話を聞いたとき、あの時椅子に座ってゆったりと話していた姿が目に浮かんで涙が流れた。

◎ 1988年の「グレート・ブルー」公開からもう22年も経過した。あの頃はキレイだった湘南の海は、今ではものすごく汚くなり、浜辺の海水は茶色と緑色が混じったような色になってとても泳ぎたいなんて気持ちにはなれない。バブルの頃の浜は端から端まで海の家が並び、朝から晩までライブをやったり、踊ったりで大騒ぎだったけど、今じゃ夏になっても半分位は浜辺のスペースが空いている。暑くても、青さなんてどこにもないこの海に飛び込んで泳ごうって気持ちにはなれない。海水浴客も20年前から比べたら相当に減っているんじゃないだろうか? それでも船でちょっと沖にでれば、まだ海は美しい青さを保っているし、沖から眺めていれば眩しい太陽の光線と海のきらめきはあの頃と変わってないなって思う。

◎22年、ものすごい時間が流れた。でも、初めて「グレ-ト・ブルー」を観た日のあの興奮は、まるで昨日のことのように頭の中に思い浮かぶ。良い映画は時間や思い出を風化させない。ずっと輝いたままで側にいてくれる。夏の暑さとギラギラと輝く太陽と、青い海とこの映画は、いつまでも自分の傍らで色褪せることなく輝き続けているだろう。

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2011-07-20 『グラン・ブルー/デジタル・レストア・バージョン』これは別の海だ

2010-07-05 『グレート・ブルー』 数あるバージョンの中でこれがベストだ。

2010-07-06 『グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版』これは完全版ではない!

2010-07-07 『グラン・ブルー/オリジナル・バージョン』

2010-07-08 『THE BIG BLUE』思わずのけ反る程の改悪作品。

2010-07-09 『グラン・ブルーその後、夏の海、思い出』

2010-07-06 『グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版』これは完全版ではない!

LACROIX2010-07-06

[]『グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版』(1992)

●1992年6月 噂には聞いていた「グレート・ブルー」のロングバージョンが、未公開映像を47分も加えた『グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版』として遂に日本で公開されると聞き、色めきたった。あの1988年8月の「グレート・ブルー」を観たときの感動を大きなスクリーンで味わえる。これは絶対に観なければと思った。夕方のシネセゾン渋谷は4年前の日劇プラザとは大違いで、超満員だった。通路に座って観る人、立ち見まで出るほどの凄い人気だった。

注)グランブルー・トリビアには「フランスで最初に公開された132分のバージョンに35分のフッテージを復元させて作られた167分のバージョン」だとされている。

●4年間でこの映画がこんなに人気の作品になるなんて思ってもみなかったし、本当に驚いたものだった。

●しかし、2時間47分にもなる『グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版』は甚だしく失望する作品であった。

●新しく加えられたエピソードやシーンを観ることは楽しい。だがまるでファイナルカット前の粗編集段階のフィルムを見せられたがのごとく、付け加えられたシーンは余剰と思えるものが多い。ストーリーの流れにも馴染んでいない。なんでこんなものまで付け加えて長くしなければならないのか?と非常に不満だった。

●ジョアンナとジャックのラブシーンがかなり増えていたが、これが却って「グレート・ブルー」にあったジャックの純粋無垢でストイックなイメージを打ち壊す方向に作用していた。ジャックの伯父さんのシーンなど面白いものもあるにはあるのだが、47分のシーン追加が「グレート・ブルー」の作品価値を更に高めるものになっているとは到底思えない。

●コンペティションに参加する日本人チームを小馬鹿にしたようなシーンははっきり行って非常に不愉快だった。リュック・ベッソンは日本贔屓だと聞いていが、なんだ結局日本人をこんな風に見ているのかと腹が立った。こんなシーンを追加する意味などまるでない。追加された48分にはそれこそ削除すべき不要なシーンだらけである。

●非常に期待して観に行った『グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版』だけに、失望感は相当だった。リュック・ベッソンってくだらない監督だと思った。(その後もロクな作品を撮っていないからこれは正しかったのかもしれないが)

●家に帰って「グレート・ブルー」のVHSビデオを見返し「ああ、やっぱりこっちの方が断然イイ。無駄なシーンなんかないし、2時間の映画としてカッチリとしっかりと破綻なくまとまっている。完成度は「グレート・ブルー」の方が断然に高いと再認識。

●こんな雑にシーンを放り込まれたような映画がどうして“完全版”なのかと憤った。これではファイナルカット前の粗編集版の上映じゃないかと、腹が立った。

●「グレート・ブルー」無き今、日本ではこの167分の『グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版』が数ある「グラン・ブルー」のバージョンの中の”完全版”と一般認識されている。こんな不出来の作品が本当に"完全版”と言えるのか??本当にこれが完全版だといえるのか?

●1992年日本公開の『グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版』の原題は 『Le Grand Bleu/VERSION LONGUE』である。原題にはどこにも“完全”を意味する言葉など無い。原題を直訳すれば『グラン・ブルー/ロングバージョン』又は『グラン・ブルー/長尺版』とでもするのが当然である。しかし20世紀フォックスから配給権を引き継いだ日本ヘラルドは『Le Grand Bleu/VERSION LONGUE』を『グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版』と命名して公開した。これが諸悪の根源なのだ

●世界中で様々なバージョンが公開されている『Le Grand Bleu』だが、日本以外のどこにも“完全版”と称するものはない。しかし、日本でソフト化されたVHS、LD、DVDは全て"完全版“と表記されている。日本だけがフランスで公開されたロングバージョンを“完全版”だとしているのである。これは全くもって奇異であり、おかしなことだ。

●日本の「グラン・ブルー」ファンはフランスのロングバージョン版を、これが“完全版”だとして劇場で見せられ、これが"完全版“なんだ思い込まされてレンタルをしたり、DVDを買ったりしている。これはグラン・ブルーのファン全てを騙していることであるし、それこそ監督であるリュック・ベッソンやフランス人などがこの話を聞いたら「なんで日本ではロングバージョンを勝手に完全版なんて言っているのか? 完全版なんて作った覚えがないんだけど、なに考えてルの?」と笑われるのであろう。

●監督であるリュック・ベッソンが最も自分の考えに忠実な編集であり決定版だとしているのは作品誕生10周年を記念して1988年にフランスでリバイバル公開された『10ans Le Grand Bleu/VERSION ORIGINALE』オリジナル版(132分)である。(フランスで最初に公開されたバージョンと同一版)(1989年に日本ではシネスイッチ銀座でオリジナル版として公開)

●にもかかわらず、日本では、やたら無駄なシーンが付け加えられ一本の作品としての完成度も低い『Le Grand Bleu/VERSION LONGUE』が"完全版“と称され、あたかもこれがこの映画の最終版であるような扱いとなっている。可笑しなことである。愚かなことである。

●たぶん『Le Grand Bleu/VERSION LONGUE』の日本公開時に宣伝担当者または代理店が「“グラン・ブルー/ロングバージョン”ではインパクトが足りないし“長尺版”ではかっこ悪い。そうだ“完全版”として公開しよう」と企んだのだろう。日本人は典型的に”完全版”だとか"限定版”だとか言う言葉に反応しやすいし、そういった名称のものを崇める傾向がある。そしてそしてそれが既成事実となり、日本では完全版ではない『Le Grand Bleu/VERSION LONGUE』が“完全版”と呼ばれるようになってしまったのだ。

●映画を、パッケージソフトを"売る"ためには"完全版"としたほうが名称として遥かにいい。“完全版”という言葉はその手の言葉に意図も簡単に食いつく人にたいして非常に有効なフックとなるからだ。その販売戦略は正しい、がしかし、製作者が完全版などと考えていないものを“完全版”だと謳うことは詐称であり、詐欺でもある。 

●諸悪の根源は 『Le Grand Bleu/VERSION LONGUE』を邦題で"完全版"とした事にある。しかし問題は日本の映画ファンの側にもある。映画会社が"完全版“と名付けたからこれが完全版なのだと盲目的に信じ、自らの目で、作品を判断しようとしていないのだから。この作品が完成版と言われるに値するものかどうかを考えることもせず、言われたままにこれが完成版なんだと信じてきたわけだから。以後20年近くの間、ずさんな付け足し編集の『Le Grand Bleu/VERSION LONGUE』に疑問を持つことも無く、「これが完全版なんだ、やはり完全版はイイ」と盲信して来たのだから。

●教条的で、自分の物差しで、自分の目で判断をしようとしない人々は“長尺版”を“完全版”とした商業的マインドコントロールを安直に盲目的に受け容れ、粗編集の"不完全版"とも言える『Le Grand Bleu/VERSION LONGUE』を"完全版"と信じ、疑いもせず崇め奉ってきたのだ。そして今でも、たぶんこれからも。

●不完全でただ冗長なばかりの『Le Grand Bleu/VERSION LONGUE』を日本では完全版だと信じ、「グラン・ブルー」の決定版だと崇め奉っていることに肌寒い、空恐ろしいものを感じる。企業が投下した情報に完全にコントロールされてしまっているのだから。

●人それぞれに受け取り方、感じ方は異なって当然だ、だが、1992年6月の夜、シネセゾン渋谷で初めて見た『グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版』に「この作品のどこが完全版といえるんだ!」と憤った自分の気持ちは間違っていなかったのだ。『グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版』は“完全版”などと言えるものではないのだから。

●『Le Grand Bleu/VERSION LONGUE』、邦題『グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版』は完全なる不完全版なのだ。

2011-07-20 『グラン・ブルー/デジタル・レストア・バージョン』これは別の海だ

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