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2017-12-22 『スターウォーズ/最期のジェダイ』完成度は高い、だけど何かが違う

[]『スターウォーズ/最期のジェダイ

☆☆ネタバレあり☆☆

・待ちに待ったスターウォーズ EP8の公開! 事前の情報予告編などから想像していたことはすべていい意味でひっくり返され、期待にそぐわぬ素晴らしい作品に2時間33分スターウォーズの世界にどっぷり浸かって、物語を堪能! 目の前のスクリーンのなかで片時の別世界を味わえた。文句なしの満点だ、100点満点、映画映像としても極めてハイレベルなところに達している。人が絵をどうみたら、どういう角度でどういう配置で並べたら最も効果的に臨場感や恐怖感を味わえるかという点も極限まで計算されていると言えるだろう。そのくらい映画としてのできが良い。・・・だが、観終えて時間が立つに連れて・・・気持ちが少しずつ変化してくる。確かに素晴らしい映像、脚本の作品だ、だがそれ以上のなにか、満点を超える何かが無いかもしれないと。

・脚本は練に練られている。物語の整合性に疑問がでないように、きっちりとした話の理由付けが明確になされていて「あれ?」とか「ここおかしいんじゃない?」と観ていて思うようなところはほぼなかった。」(後から何点か思いつくところが出てきたが) ストーリーの流れもほとんどひっかりがなくスムーズだ。上映中も上映が終わっても「うーん、これは隅々まで感覚が行き届いた実にクオリティーの高い映画だ」「拾にスキがない、なんて密度が高く、がっしりと四ツに構えた映像の集合体なんだろう」とほぼ陶酔状態だったのだが・・・しばらくすると、だんだんと魔術が解けてくるように何かが足りない気持ちが沸き上がってきた。

とりあえず一回観ただけなので記憶が不確かだったり、間違えてとらえてしまっているところもあるかもしれないが、気になるところを、気に入った所を羅列しておくとしよう。

☆《ヨーダの造形に泣けた!》

前作『フォースの覚醒』では監督エイブラハムがSW過去作へのオマージュ、回顧に走りすぎているという批判があったが、長らくのスターウォーズ・ファンとしてはそれはそれでワクワクドキドキしてとても良かった。ハン・ソロチューバッカがミレニアム・ファルコンに戻ってくるシーンは感涙ものだったし。崩れ落ちたスターデストロイヤーや、AT-ATスノーウォーカーが画面に出てくるたびに歓喜した。

《 2015-12-22日記 『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』SWファンにとって最高の傑作 》

今作では前作で批判も受けた懐古主義的な部分は少なくなっているという話を聞いていたが・・・なんのなんの、所々にファンなら喜ぶ旧作SWのセリフや映像がさりげなく散りばめられていて、なかなか憎い作りであった。そんな中で1番良かったのはヨーダの登場シーン。CGIの技術は格段に進歩していて、もはやどんな映像でも作れないものはないという状態であるのに、今回のヨーダ−はなんとその最先端のCGIで「エピソード帝国の逆襲」に出てきたマペットのヨーダ−を復活させているとは・・・監督たちのこのこだわり、この意識には敬服するね。作品の時系列を合わせる意味でもヨーダはEP4-6よりもさらに年齢を重ねているのは分かるのだが、あの1970年当時のマペットの風貌、動きをそのままに再現させているとは・・・お見逸れしました。EP5そのままに、杖をつきながらよちよち歩きをするヨーダ。新三部作のEP1-3でありったけCGIを使ってあのピョンピョン素早く目にも止まらに速さでライトセーバーを振り回すヨーダには驚いたが、ちょっとやり過ぎという感もあった。それが今回はなんとでも動きを作れるはずのヨーダをわざわざマペットのぎこちない動きに合わせて作っている。ここにはスターウォーズへの愛を感じるなぁ。そしてヨーダがルークと並んで遠い空を見上げるシーン。見事にEP5の若きスカイウォーカーとヨーダの並んだシーンへのオマージュ。こういうところにSWファンとしては嬉しくて涙が出てしまう。

☆《完璧なまでに美しい配置》

バージョンアップしたAT-M6ウォーカーのなんともカッコよく強そうで恐怖感のあることあること。AT-ATスノーウォーカーのデザイン上の弱点、足の弱さなどを見事に取り除いてまるで強靭な猛獣の如くにしあげている。並んで登場するシーンは画角、配置ともベスト小津安二郎人間、道具の配置へのこだわりのように、この登場シーンはそれぞれの位置関係、観客からの視点など徹底的に計算されて場の雰囲気を作り上げている。このシーンは素晴らしい絵であり写真だ。

《全然動かないスターデストロイヤー》

なんでもかんでも大きく、大きくすればいいってもんじゃないと思うが、今回の作品でメガ・スターデストロイヤーというやたら横にただ長いだけのような全長60kmとかいう設定の巨大艦船が出てきた。たしかにデカさに凄いなぁとは思うのだが、これただ浮かんでるだけ。そしてもっと悪いのは、いままでのシリーズ帝国軍の圧倒的な力の象徴でもあったスターデストロイヤーが相対的にちっちゃくなってしまって、後ろの方にこれまた浮かんでるだけ。ほぼ戦闘、攻撃にも参加してない。「なんだよ、スターデストロイヤー全然動いてないじゃないか」とスクリーンを観ながらイライラ憤り。今回の作品からファースト・オーダー・ドレッドノートなるスターデストロイヤーの2.5倍、19kmもある新艦船も出てきているということだが、メガ・スターデストロイヤーがでかすぎてこのドレッドノートもまるで目立たず。というかこういう馬鹿みたいにデカイ船をわざわざ設定しちゃったために、旧3部作のEP4冒頭で、あのスターデストロイヤーがドーンと出てくるあの巨大感にのけぞって驚いた体験がちゃかされてしまった。正直意味なしというくらい大きさだけを強調した今作品の船艦のせいで、過去の作品が持っていた素晴らしい映像体験やイメージまでもぶち壊してしまったといえるだろう。これはSWファンとして声を大にして非難する! 

《ポーグはただのおちゃらけキャラだったのか》

可愛らしい姿で公開前から注目されていたポーグ。ファルコン号でチューイと一緒にコックピットにいる映像などからも、このちっちゃくて可愛いキャラがどういう力をもっているのだろう。チューイと一緒にファルコンを操ってなにかもの凄い活躍をするのだろうか? などと想像していたら、ただ単に可愛いだけのおちゃらけキャラだった。重力がかかって窓にぎゅ〜っと押し付けられるシーンだとかは笑えたが、完全にディズニーのキャラ売り戦略の部品というだけだったとは。もうフィギアぬいぐるみを売るためだけに追加したキャラという魂胆がミエミエでどうしょうもない。それとも次回作でなにか活躍するシーンでも加えられるのかな? そうでないとあざとすぎるもんな、このキャラは。それでもイウォークやジャージャービンクスよりは良いって? 確かにそうか・・・・(-_-;)

《スターウォーズに燃料切れの話はダメダメだろう》

宇宙の話はねぇ、色々あるけけど、それをやっちゃいけない、それは当然のこととして受け入れた上で観てないとどうしても辻褄合わなくなる部分は出てくる。1番はっきりしてるのは爆発の音。宇宙じゃ音しないでしょ、ドーッカーンとかね。でもそれは目をつぶって見てるわけだし、音がしなかったら映画としてやはりつまらない。(キューブリックは音を消したけど)、同じくこんな巨大船艦で食料はどうしてるの、水はどうしてるの、空気は・・・そして燃料は?? イオンエンジンは、ハイパースペースドライブは・・・いろいろ未来の技術が開発されて現実世界のように燃料に煩わされることはほぼなくなっているという仮定の上で宇宙物の映画をみんな見てるわけで、燃料どうしてるんだろう、こんなに飛べるはずないだろう、嘘だ!と言ってしまったら全部話が台無しになってしまう。だからそういった現実世界的な制約は取り除かれているとう仮定でSF映画はみんな観ているわけなのに・・・燃料がもちません、後何時間でなくなります・・・ていうのをストーリーにいれてしまうのは、大大大失敗、失策なのだけどねぇ。監督や脚本家はこれだけ素晴らしくまとまったストーリーを作り上げたのに、その部分は気が付かないのか? それとも話を作り上げる発想力が足りなくて、つじつま合わせで燃料不足をもちだしたのか? 何にしてもダメダメ。

ハイパードライブで敵艦に神風アタックもダメだろう》

これも、今回やっちゃったら、今までだって危機に陥ったときにただ撃ち落とされるんじゃなくて、ハイパードライブで突っ込めばスターデストロイヤーもやっつけられただろう・・・と思うよねぇ。ホルド提督がカミカゼアタックでメガ・スターデストロイヤーに突っ込み爆破するシーンは少しウルウルきたけれど。

《ハイパースペース・トラッキングシステム

ハックス将軍が「奴らに紐を付けておいた」とするハイパースペースを超えても相手を追跡出来るというシステム。これに対してフィンとローズが「奴らの追跡システムを破壊するのよ」というのが物語の大事な筋になっているのだが・・・なんで、追跡されてるって分かったら、本体の追跡システムを壊そうということになるのか? 相手の追跡システムを解除しない限り、永延に後を付けられてしまうと考えるんじゃなくて、普通に考えれば自分たちの居る船に何か追跡システムに信号を送る装置が付けられている、それを探して壊そうと考えるでしょ。つまり発振器、ビーコンがどこかにあるって考えるのが当然なんだけど。。。sらにおかしいのは、レイには居場所がわかるようにビーコンを持たせてる・・・ハイパースペース超えてルークの居る星にいってるのに?? んー、もうこういう部分でで突っ込み所満載なんだよなぁ。いや、全体的に脚本の出来は素晴らしいのだけれど、サラーッと見ていると粗にはあんまり気が付かないんだけど、よく考えると、監督や脚本家達が“よく考えていない”ところがあれこれ見えてくるんだよなぁ。大体にして30年以上前の設定となる『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』でオビワンが逃げるジャンゴ・フェットのポッドに追跡用の装置を投げつけてくっ付けるシーンがあるじゃない。てことは、ずっとまえからそういうシステムは出来ていたんじゃないの? とか言いたくなるんだよね。

コードブレイカーの話は伏線が回収されていない》

マズ・カナタがファーストオーダーの暗号破りはこの目印を探せ!といって示した花のバッジみたいなやつ。カジノでその目印を付けてた奴はあれ、誰なの? デル・トロ扮するDJが実はあの目印を付けてるやつにだまされて監獄に入れられた、というなら話もまあ繋がるが、あの目印に関しては映画のなかで結局何のお話もなし。伏線がまるっきり回収されず投げ捨てられてる状態。今回の映画公開版は上映時間153分と現状でも長尺だが、監督のライアン・ジョンソンが完成版から50分近くをカットして劇場公開版にした、未公開部分はブルーレイに収録するなんてことを言っているので、ブルーレイになったところで、あれこれつじつまの合わないところや、なんかここが変だという部分が分かってくるのかもしれない。それにしても、2時間33分もありながら話として???と疑問に思った所が何箇所かあるので、この劇場公開版はディレクターズカットじゃなく、短縮版という扱いになってしまう可能性もある。ロード・オブ・ザ・リングのときも同じようなことやってたな。これもソフトを売るためのあざとさに思えるが。

いきなり出てきたけどマズ・カナタが「労使交渉やってるんだよ」といって銃撃戦してるのはちょっと笑った。マズ・カナタも不気味な老女じゃなく、なんかヨーダ的なウケ狙いキャラにしようとしてるのかもしれないが。

《毎度のことだがシスってあっさり殺られる》

ファーストオーダー最高指導者スノーク。フォースのダークサイドを使い手、シス。だけど・・・あっさり殺されるよなぁ。それだけ強いのに、人間の心も読めるのに・・・。真っ二つにされるというのはお約束をきちんと踏襲してるが、それにしてもなんかあっさり過ぎ。でも考えてみれば、EP1でのダース・モールもあっさり、あれぇ〜という感じで真っ二つ、いとも簡単に殺られた。ドウーク伯爵もあっさり首を落とされるし、絶対勝ち目なさそうだったパルパティーンは反応炉に突き落とされて死んじゃうわけだし、シスじゃないけどグリーパス将軍も、もの凄い強いという話だったのに、オイオイというような情けない殺られ方で死んじゃったし、スター・ウォーズに出てくる悪の皇帝やら支配者、将軍・・・なんか邪悪でもの凄い強そうな設定なのに、ぜんぶあっさり殺られてる。(ダース・ベイダーだけは例外?)ことさら今回のスノークの殺られ方って、余りに簡単すぎないか? なにが最高指導者でなにがシスなの、どこが邪悪でどこが強いの? と思わずにはいられない。

《レイは一体どうして強いフォースを持っているのか》

カイロ・レンがダークサイドに堕ちるきっかけとなった話は巧く出来ていた。ルークがその原因だったとはかなりの驚きであり衝撃的であった。しかしなぁ、ダース・ベイダーの息子であるルーク、双子の娘の子だから孫にあたるベンことカイロ・レンで、カイロ・レンがルークを押しのけてジェダイ寺院を崩壊させるほどのフォースを持っていると言うのはイマイチ納得がいかない。母親であるレイアがダース・ベイダーの娘なのだからスカイウォーカー家の血筋を引いているとしても、母親も父親であるハン・ソロもジェダイにはならなかったし、レイアのフォースが特に強かったというわけでもないんだが。そしてそれ以上になぜレイは他のだれよりも強いフォースを持っているのか? この点に関してはなんら答えが示されていない。レンとレイの会話ではレイが両親から見捨てられたただの娘だという話レイがするわけだが。カイロ・レンとレイの会話のシーンです。カイロ・レンがレイに「お前の両親は何者でもなく、ジャクーでガラクタを回収していた夫婦ですでに死んでいる。お前は見捨てられたのだ」と衝撃の事実が告げられたが、じゃあなんでレイはあんなに強烈なフォースを持っているのか? 

《ハン・ソロは本当に死んだのか?》

これもまたレンとレイの会話でだが、レイが「あなたは父親を殺したのよ」と言ったところでレンが「本当にそうおもうのか」というようなことを言っていた。ん??? 確かに「フォースの覚醒」でハン・ソロはライトセーバーで体を射抜かれ、船艦の底へと落ちていくのだが、実際に死んだ様子の描写は一切なし。葬式もなし。でもレイア将軍が夫であるソロの死を感じたような部分はあった。でも完全に死んだという描写はなかった・・・さてここもどうなるのか?

《ルークのホログラムはダメでしょ》

もうさぁ、あれをやったらなんだってオッケーになってしまうじゃない。( ´Д`)=3 それとラストレジスタンスの指輪を付けた子供がフォースを使うような場面があり、次回作への希望につながっていくようなシーンがあるが、なんかこれもわざとらしく、よくよく使われてきたような子供っぽいシーン。まるでディズニーの子供向け冒険物語的な終わり方だ。

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と、ここまで書いてきたら、否定的な所感ばかりになってしまった。この作品を観終えたときには「凄い完成度だ、スキがない、凄い映像だ」と溜息を付くほどにどっぷりスターウォーズの世界に取り込まれ、凄い凄いと感嘆し、かなりの満足感に浸っていたのだが・・・時間が立つに連れて、いろいろなシーンを振り返って考えるに連れて、どんどんと疑問や不満、納得の行かないところが出てきた。

映画の完成度は高い、でも何かスターウオーズ的でない変なものを感じる。商業主義、ディズニーの金儲けの道具的になった部分も大いに感じる。少なくともこれは絶対に言えることだが・・・

「帝国の逆襲」を超える最高傑作!・・・というのは違うな。

当初に予想していた展開は見事にほとんど外れた。カイロ・レンがまるで母親であるレイア将軍を攻撃するかのような予告編の作りや、ポスターで示されたダークサイドに落ちたようなルークの姿も、言ってみれば全部ブラフでありあったな。まるで思っていたこととは違った驚きの展開だったし。でも、その驚きとスター・ウォーズでこれまで感じてきた驚きはちょっと違う。やはり「帝国の逆襲」での「私はお前の父親だ」に勝る驚き、衝撃は無い。自分が映画に求めているものの一つである「やったー!」という爽快感、感動、気持ちよさというものは残念ながらなかったといえるだろう。改めて思い起こすと今までのスター・ウォーズ・シリーズのテイスト、雰囲気から少し違う方向に映画が向きを変えている感じがする。それが次のエピソード9でどうなるか? 新たな3部作まで作られるということなので、ディズニーにしてみればスター・ウォーズはやはり最大のドル箱であろう。

公開から今日で一週間。アチコチに書かれている考察感想、批判、賞賛などを読んでいると、一回の観賞では分からなかった、とらえきれなかった細かな部分を色々と説明してくれているサイトも多々あり、凄いなぁと思う次第。もう少しあちこち読んだり見たりしてから、年内にもう一回観賞しようかなと考えているところ。但し、普通なら二回目は日本語吹き替え版で観賞するのだが、日本語の予告編やCMなどで観るとどうも今回の吹き替えはレイの声にしても喋り方にしてもなんとも軽薄で脱力してしまう雰囲気なので、二回目も字幕で見るかもしれないな。

2017-12-12 いよいよ今週末公開『スターウォーズ/最後のジェダイ』どうなるか?

[] いよいよ今週末公開『スターウォーズ/最後のジェダイ

久しぶりだ、本当に久しぶりだ、これほどまでに公開が待ちどうしい、一体どうなるんだ、どんな展開になるんだと期待と不安に、こんなにもワクワクドキドキする映画は何年に一本だろう。今までのシリーズを通しで観てきたSWファンとしても、今回の『スターウォーズ/最後のジェダイ』ほど期待感と不安が交錯する作品はない、なかった。

ルーカスフィルムを買収したディズニーが作る新シリーズ第一作 エピソード7は不安だらけだった。ディズニーの商魂がスターウォーズという作品を新シリーズでめちゃくちゃにダメにしてしまうのではないか、そんな思いが強かった。しかし、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』はそんな不安を払拭し、やったぞ!という大喝采を贈ることの出来る素晴らしく気持ちのいい作品であった。(エピソード4の懐古的要素が強かったのが、かつてのファンにとってうれしかったという部分も大きいが)

そして2年を置いて公開される今回のエピソード8『スターウォーズ/最後のジェダイ』は新シーリーズの序章であったエピソード7の懐古的な内容から大きく話が飛躍し、大団円となるエピソード9に向かうほんとうの意味での本題となる作品であろう。

ちょろりちょろりと作品に関する噂や情報は流れてきているが、本筋に関わる部分はきっちりとした情報統制のおかげで、いったい話がどうなるかはまだまったく分からない。だが、SWファンとして今までの情報を元にして公開前に『スターウォーズ/最後のジェダイ』がどんな話になるだろうかと想像してみた。公開まであと3日。同じSWファン同士で、あーでもない、こーでもないと予想を話し合うのは映画を観る前の楽しい時間でもある。ワクワク感がさらに増幅する。さあどうなることだろうか!

勝手なそしてファンとしての期待を込めてこうなるだろう、こうなって欲しいという思いはこんな感じ。

◎まず第一に「ルークダークサイドに落ちる」

最期のジェダイという副題もそうだが、先日公開された劇場ポスターで示された、ダークサイドの赤に覆われるルークの顔。さrに、闇か!と書かれたポスターのルークはベールをまといまるで父であるダースベーダーの如くである。

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伝説のジェダイ、最期のジェダイであるルーク・スカイウォーカーはダークサイドに堕ちるのか・・・たぶんそうなりそうだ、そうであろう。だから、映画の副題が「THE LAST JEDI 最期のジェダイ」となっているのであろう。(レイアスカイウォーカーの血を引くがジェダイのトレーニングはしていないのでジェダイにはなっていない)

では、なぜルークはダークサイドに堕ちるのだろう。フォースの力を持ったものがダークサイドに堕ちるきっかけ、それはこれまでのSWシリーズで何度も繰り返し述べられてきたように“怒り”と“憎しみ”だ。怒りと憎しみに心が因われたた時、ジェダイはダークサイドに引きずり込まれる。愛するパドメを失った時のアナキンがダース・ベイダーになったのも悲しみを上回る怒りと憎しみに心が支配されたからだ。皇帝パルパティーンはその期を逃さず、アナキン・スカイウォーカーをダークサイドに導き、自らの下僕としてダース・ベイダーに変えた。

では、ルークがどんな怒りと憎しみでダークサイドに堕ちるのか。ジェダイとして帝国軍と皇帝パルパティーンを破り銀河平和を取り戻したほどのルークが、まさかのダークサイドに堕ちるほどの怒りと憎しみとは何か?

それはカイロ・レンによる親殺しであろう。

エピーソード1−6までのシリーズのテーマはダースベーダーの贖罪であった。またルーカスがこのシリーズにヨーロッパ神話から取り入れたものの一つとして、親殺しの罪とそれに対する右腕を切断する罰、そして贖罪というものがあった。その要素は新しいシリーズにも取り入れられていて、前作『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』ではカイロ・レンが父親であるハン・ソロを殺すといういたましい場面が衝撃的であった。(ハン・ソロがほんとうに死んだかどうかはまだ???だが)

ジェダイであるルークならば共に帝国軍を倒すために戦ったハン・ソロの死に気がつかないはずがない。しかし、遠く銀河の辺境の地でジェダイであることを隠し、身を潜めていたルークはフォースの力も内に閉じ込め自分の居場所を悟られないようにしていた可能性がある。するとつまり、ハン・ソロの死も感じ取る、知ることは出来なかったのかも知れない。

そして、今回の作品の予告編で分かるようにカイロ・レンは自分の中に残るライト・サイドを消し去るために母親であるレイアを殺す。あまりに酷い話だ、カイロ・レンは自分が師と仰ぐダース・ベイダーに近づくために息子でありながら自分を産んだ父と母をも殺すのだ。これはほんとうに酷い話である。

しかし、ルークは未だそのことを知らない。フォースを目覚めさせたレイにジェダイのトレーニングをする中で迷いや不安に苛まれている。そこに、レイアを殺したカイロ/レンが最期のジェダイであるルークを抹殺すべく、トレーニングを続けるルークとレイの前に現れる。そしてルークに告げるのだ「ハン・ソロもレイアも俺が殺した」と。

カイロ・レンが無二の親友であるハン・ソロと、双子の妹であるレイアの二人を殺したことに、ルークの怒りは爆発する、抑えていたフォースの力を解法する、それはカイロ・レンに対する激しい怒りと憎しみを伴って・・・そして、それはファーストオーダーの指揮者であり、シスの暗黒卿であるスノークが巧妙に仕組んだ罠だったのだ。スノークは善の心を残すカイロ・レンを利用して、本来のスカイウォーカー家の1人であり、ダース・ベイダーの子である最もフォースの強いルーク・スカイウォーカーをダークサイドに引き込むことが本当の目的だった。カイロ・レンはそのために利用されていたのだ・・・・。

と、ここまでは今までの情報から『スターウォーズ/最後のジェダイ』のストーリーを自分で勝手に推察したものである。さて、15日に公開される映画本編を観てどうなるか、楽しみでもある。

まあ、ここまで話がくれば「最期のジェダイ」という副題にもダークサイドの側に落ちたようなルークの劇場ポスターにも納得が行く。

さてと、その後はどうなるかだ。今時点で公開されているトレーラーでは、レイが泣きながら「私には誰かが必要なの、私の居場所を示してくれるだれかが・・・」というセリフに続けて、カイロ・レンが手を差し伸べるている。

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最初これを観た時、レイまでがダークサイドに引きずり込まれるのかと思ったが、ひょっとしたら・・・ジェダイのトレーニングをしていたルーク・スカイウォーカーがダークサイドに引きずり込まれてしまう、そしてカイロ・レンは、自分がスノークに利用され、父と母を殺し、それは実はルークをダークサイドに引き込むための罠であり自分はスノークに利用されただけなのだと気がつく。

そして、カイロ・レンとレイは二人で力を合わせて、ファースト・オーダーとスノークを倒す事を誓う。。。。それがエピソード9に繋がる・・・・なんていう結末を期待したい。

最初は『スターウォーズ/最後のジェダイ』はどうにも暗い暗い、どうしょうもなく重い、希望のないストーリーになるのではないかとも考えていたが、もしカイロ・レンとレイがスノークの陰謀に気が付き、二人で手を合わせてファースト・オーダーを破り銀河に再び平和を取り戻すんだ!という話につながるならば、夢と希望は潰えていない。ルーカスがSWシリーズに仕込んだ親殺しへの贖罪というテーマも、両親を殺してしまったカイロ・レンがその贖罪のために、ファースト・オーダーとスノークを叩き潰すというのであればなんとか話に筋も通りそうだ。

さてはて、どうなるか? なんにしても暗いストーリーで終わって欲しくはない。最期には次のエピソード9に繋がる大いなる希望を持たせたエンドになって欲しいと願ううばかりだ。

まだ他にもポー・ダメロンにしろフィンにしろ、色々なストーリーはありそうだが・・・とりあえずメインに3人に関しては色々話て、こんな感じかな? もしくはこうなって欲しいという希望がこれだな。

あとは、ちょっと冗談だが、フィンとキャプテンファズマが対決するシーンがあるが、もしかして、キャプテン・ファズマが「I am your mother 私がお前の母だ」なーんて言わないだろうなぁ〜。まあそうなったら笑っちゃいそうだけど。

さあ、15日金曜日を楽しみに待とう。

追記:12月9日に行われたハリウッドでのワールドプレミア上映後のツイートなどが少しづつネットに上がってきているが、多くの人が今回のエピソード8を大絶賛しているようだ。しかもSWシリーズの中で最高傑作と言われるエピソード5「帝国の逆襲」をも凌ぐシリーズ最高傑作だという声も。そして多くの人がルーク・スカイウォーカーを賞賛している。ということは、ルークはダークサイドに落ちてスノークの配下になるというのは考えにくいか。いっときダークサイドに囚われるが、レイや他の登場人物の力でダークサイドから抜け出し、スノークに大打撃を加えそして死んでいく・・・そういう感じでエピソード9に繋がるのかも? いやはや詮索ばかりしていても仕方ないのではあるが、こうして期待に胸膨らませてあれこれ考えているのが一番楽しいかも。いや、実際の映画を観て、思い切り感動したときのほうがやはり最高だろう。公開が待ちきれない。

2017-11-28 『ジャスティス・リーグ』面白くはあるが、迷走してる。残念!

[]『ジャスティス・リーグ』

・『ワンダーウーマン』がなかなか以上に良かったので、DCのヒーローシリーズであるこの『ジャスティス・リーグ』にはかなり期待していた・・・のだが・・・まあ、そこそこに面白いけれど、ちょっと期待しすぎたな。この手の映画に一番に期待する「やったぜ」「サイコー」といった爽快感、満足感というものは、いまひとつというところ。期待しすぎた分だけちとガッカリ。

・出だしからなんとも暗〜い歌詞の歌が淡々とながれる、なんだかこの世にはもう希望も何もない、諦めろ、悪が支配てしまってるんだ、とか言う感じの歌で「ん〜、なんだこれはダークナイトのクリストファー・ノーラン趣味をジャスティス・リーグでも真似てるのか、違うだろう、こっちはもっと明るくカッコよく行かなくてはだめだろうと、なにか作品の方向性に疑問が湧く。

・しかし、そのドーンと暗い出だしが終わると、なぜか今度はユーモア、ジョーク混じりの展開に変わる。んー、なんか脚本が迷走している感じ、これは嫌な予感。

・脚本の教科書みたいなものには、よく「主人公の葛藤を描け、人間の深みを描け、そこに観客は惹かれるのだ」とか書いてあるものなのだが、なんだかそういった教科書の杓子定規な教えにしたがって、一人ひとりに無理やり妙な葛藤を組み入れている風でもある。サイボーグはなんで俺をこんなからだにした〜と親父にぶーたれてるし、フラッシュのお兄さんの件とか、アクアマンの王との確執だとか、そしてさらにはワンダーウーマンに「私は昔、愛している人がいた。ずっと・・・」なんて言わせて、バットマンに「何百年もそんなことに縛られて生きてる奴なんか」と、吐き捨てられたり。この辺は前二作に続いて、ダークナイトの成功に少しでもしがみつきたい、あのシリアスな脚本になんとか似せれば当たるかも?なんていう意識が相当に根っこを張っているんではないだろうか。

・もう、コミック映画なんだからそんなシリアスな裏話なんていらない。スカッと面白く話をつなげてくれればいいものを、どれもこれも取って付けたように話の中にポツン、ポツンと挿入しているし。テンポを崩して足踏みさせて、ストーリー展開のリズムをぶちこわしてしまっている。特にワンダーウーマンなんてそんなドロドロ怨念じみた女性の内面なんか付け加えないで、思いっきりバサッと敵をやっつける痛快さを徹底して描けばいいものを・・・至極残念。

・アマゾン部族の島にドスンと降りてきたステッペン・ウルフ、凄い重量感で「お、こいつは強そう」と思うわけだが・・・いや、実際にかなり強い! でも、このステッペン・ウルフの顔に全然怖さがない。そんな強力なダークサイドの悪魔の親玉みたいなやつなのに、なんか全然恐怖感が湧いてこない。顔がね、顔がシワクチャ年寄りって言う感じだから、全然強そうに見えないし、怖さがないんだよねぇ。観客恐怖心をもたせるくらいのキャラにしないとだめでしょ。最期はなんかパラデーモンに食いつかれてウギャーなんて叫んでるしさぁ。

・そうそう、アマゾン部族の女王が馬の下敷きになってうごけなくてウーンウーンっていうのも変。あれだけ強い戦士だったのに。本来なら足で馬を宙に蹴り上げてしまうくらいじゃなきゃおかしい。

・そういった首を傾げるような登場人物の描き方に、観ていて不満タラタラであったが、流石にスーパーマンの部分はカッコイイし、ちょっと涙ウルウルくるいい話。最終兵器を出せ!ってロイスを引っ張ってくるあたりはもうあまりに予定調和的に想像できてしまうが、ロイスを見て荒れ狂うこころが落ち着きを取り戻すってのはイイね。(でもキューブを使ってスーパーマンを再生するくだりはなんかチャラいし無理がある)

・と、まあ気に食わないところばかり羅列してしまっているが、一先ず一本の映画としてはそこそこに楽しめはする。ワンダーウーマンがかなり以上にいい出来栄えで、大満足だったので、ジャスティス・リーグにもかなり期待したのだが、その期待にはかなり及ばなかった。

・「マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)」も次から次へと出てきて、話を追いかけるのば面倒くさくなってきてるし。(お次のブラックパンサーはどうよ??)、「DCエクステンデッド・ユニバース」は第一作、第二作と失敗して、ワンダーウーマンでドンと花火が打ち上がったが、今回のジャスティス・リーグを観ると、今後の展開もごちゃごちゃDCと同じように面倒くさくなりそうだな。

・アメコミのファンってわけでもないし、逐一細かな設定まで追いかけてるようなオタクでないかぎり、段々と話がわけわからなくなってくるから、今後のこういったシリーズは横目でチラチラ観ている程度でいいかも。

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予告編で使われていた「あなたを待っていました」っていうシーン。あれはカッコよかったんだけど、本編ではそのあたりが全部カットになっていた。んー、残念、またソフトにしたときに未公開シーンとかディレクターズカットとかで出すつもりなのかね?

☆ブルース・ウェインがアクアマンに「お前って、あれ、触手みたいなもの出せるのか?」とか聞いた後に、ジャスティス・リーグの5人が地下のようなところに集まって雑談みたいなことをしているシーンがあったが、そこでアクアマンが、1人でべちゃくちゃ喋ってるシーンがあり、その後になんだかウーンウーンとトイレで気張っているようなことをして・・・すると次に光るムチが出てきてそれをワンダーウーマンに渡す。アクアマンはフラッシュに「黙ってろよ」なんていう一連のシーンがあったのだが、なにかコミックでこういうエピソードでもあるのかな? どうもアクアマンがウ◯チみたいにムチを体から絞り出してるような雰囲気でもあったな。w アクアマンが喋ってるシーンは上半身だけ映してて下の方はなにやってるのかわからないし、ひょっとしてカットされたのかもしれないけど・・・あそこ、疑問。

☆日本のCMは酷いね。ワンダーウーマンのときも女性のカッコよさを出すんじゃなく、ギャグ路線で予告編作って外してるなぁと思ったが、今回のジャスティス・リーグの予告編もワンダーウーマンのへんてこな顔とか仕草をわざわざ集め、ナレーションも採用!採用!って、どんだけセンスのないトレーラー作ってるんだよ日本は、と呆れ返るね。なんでワンダーウーマンがこれだけヒットしたのかってところが全く考えられていないじゃないのかね。女性ヒロインの最高のカッコよさ、強さが人を惹きつけた最大の要素なのに、それとは逆にギャグ、コケティッシュ、おちゃらけ、そんなもので宣伝打ってる。そして同じことをジャスティス・リーグでもやってる。どうしょうもない

☆スーパーマンは流石にカッコいいが、やっぱり映画の中ではワンダーウーマンが光ってるな、あの変な過去の告白シーンはいらないけど。

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2017-09-04 『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』これもダメダメ

[]『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』

・第一作に続き、この第二作ももうどうしょうもない

・「ワンダーウーマン」がなかなかに良かったので、シリーズ的に前作に当たるが未だ観ていなかった「バットマンVSスーパーマン」を観てみたのだが・・・。

・やっぱり暗くてなんかやだね。キッパリその一言に尽きる。なにせ、シリーズ第一作に当たる「マン・オブ・スティール」がどうしょうもない一作であったから、それに続く「バットマンVSスーパーマン」も、どうせ下らないだろうと観ないでしまっていたのであるが(予告編やCMも「エイリアンVSプレデター」みたいに、ただ人気のキャラを戦わせてるだけというおうな、なんだこりゃと言いたくなる程に酷かった)まあ予想通り溜息がでるような話であった。

・アメコミの二大巨塔であるマーベルとDCのうち、マーベルはスパイダーマンから始まって、アイアンマン、アベンジャーズとどんどんヒット作を量産し、イケイケドンドンの状態なので、DCとしてもそれをただ指をくわえてただ悔しがっているだけではならぬと奮起したのはいいのだが、新しいシリーズを生み出す方向性を完璧に間違えてしまっているとしか思えない。

・クリストファー・ノーランに頼んだバットマンシリーズは、ノーラン独自の味付けで、今までのアメコミのイメージから離脱し、非常に重く、真面目、現実的な路線に大きく舵を切り、それが「ダークナイト」で超特大の大成功を収めた。DCとワーナーとしてもその成功の味が忘れられないから、もう一回ノーランの手法に乗っかって、自分たちの持っているヒーローシリーズをまったく新たなものに作り変えて大ヒットをさせたいと期待しただろう。だから「ダークナイト」で思い切りシリアスで現実的な映画にバットマンを作り変えたやり方を、もう一度ノーランにやってもらって、事を上手く運ぼうとしたのだろう。だが、それは大いに裏目に出た。マーベルを真似て自社ヒーローでシリーズ化を狙った最初の作品である「マン・オブ・スティール」は映像は充分に良いのだが、話が・・・コミックで親しんでいたスーパーマンのイメージを全く踏襲せず、いかに現実的に見せるかというところにばかり拘って、「このシリーズのスーパーマンはこういうことになりますから、今までの話とは違いますよ、今までのスーパーマンは忘れて下さい」とでも言っているかのようで、スーパーマンの出自やSマークの意味も、無理やりこじつけたとしか言いようのないとんでもストーリーをさも平然と観客に披露した。しかもそれが押し付けがましく、またクリストファー・ノーランの今までの作品にあまりにも似すぎ「ダークナイト」の成功体験をそのままスーパーマンに移し替えたような、ノーランの手垢がべっとりこびりついているような作品であった。

・大ヒットし評価の高かったダークナイトの味付けで、ストーリーも同じようにしてバッドマンをスーパーマンに置き換えて映画を作れば観客に受けることは間違いないだろう。DCのヒーローシリーズの第一弾として大成功を収め、その後にどんどんヒーローシリーズを量産してマーベルを凌いでやるんだ。と舌なめずりをしたが、大いなる大失敗となる。

・もともとスーパーマンとバットマンはアメコミのヒーロでも陽と陰をあらわす代表のようなもの。明るく健やかで健康的なスーパーマンに、暗く陰湿でダークなイメージのバットマンを重ねるとは言語道断。観客はなんだこれは、今までのイメージを無視するにも程がある!とそっぽを向いたわけだ。

ハリウッドのマーケティングなんてそんなもの、元々暗いイメージのバットマンを雲が覆いかぶさっているような暗く現実的な映画にしたのは筋としてあっているが、普通に考えたらスーパーマンをその筋に重ねるなんてしないだろう。単に「こっちで大ヒットしたかあ、あっちでも同じやり方にすれば当たる」というような短絡的な考えしか見えてこない。

・この最初のとんでもないミスでDCコミックのシリーズ映画化には急ブレーキが掛かる。「マン・オブ・スティール」の続編製作は延期になり三年も掛かってようやく『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』に辿り着いたわけだが、前作のイメージを引きずった第二作も、アメコミヒーロー物であるから、そこそののヒットにはなるが、期待された大ヒットには程遠いもので終わる。

・映像的には文句無いクオリティなのだが、ストーリーが・・・相変わらずのノーマン節爆裂。(監督は違うのにそういう方向にさせられてるんだろう。またはノーランが指揮してる?)

どう考えても「ダークナイト」に似ているストーリー展開、キャラクターの配置。観客はそんなに甘くない。なんだこれはとスクリーンを見ながら不満が溜まっていったことだろう。

・まあ、これじゃダメだというところは山のようにあるのだが、いかにもなノーラン節というのが「バットマンVSスーパーマン」にもお決まりのように出てくる。そしてお決まりのようにガッカリさせられる。またこんなこと繰り返しやってるのかよノーランは、と。「ダークナイト」のジョーカー、「ダークナイト・ライジング」のペイン、こんな奴とっととやっつけてしまえと思うキャラクター設定でありながら、まさに無理に生き残らせる。普通ここでバーンとやってしまえばやっつけられるだろう、殺せるだろうと思うのに、それをしない、させないなんとも煮え切らないストーリー。もうワザと殺さないで生き残らせてるんだろうっていう作りのあざとさがバレバレで感じられるから白けてしまう。それがこの作品でもまたレックス・ルーサーJr.で同じことをやってるんだから、見ている途中でオイオイまたこれやってるのかよと頭にきてしまう。スーパーマンはレックスビルの屋上でルーサーをぶち殺しちゃってもぜんぜん問題ないじゃないか。スーパーマンの能力があれば育ての母であるマーサが監禁されている場所なんて見つけられるだろうに。だれだってそう思うに違いないのに、ルーサーが「俺を殺したら母親の居場所はわからなくなるぜ」なんて幼稚なセリフを吐かれて手も足も出せずルーサーを逃してしまうスーパーマン。こういうところが馬鹿げているんだよなぁ。もうわざとらし過ぎて嫌悪感バリバリのシーンだ。ノーランの映画にはこういうお馬鹿シーンが必ず入っている。それまできっちりシリアスにリアルに映画を構築してきているというのに、こういう誰が見てもそりゃおかしいだろうという現実的には合わないシーンが、話の展開のつじつま合わせの為にはいっていて、それでガクンとトータルのクオリティーを落としてしまう。ノーラン病とでも言うべきアホさ加減であろう。それが「バットマンVSスーパーマン」でも予想に違わず出てきたので、ほとほと溜息。

・この映画のストーリーの基礎となるところは、バットマンがスーパーマンによって自社ビルを壊され、社員も死に、そこからウェインはスーパーマンを殺してやるというほどに憎むようになり、財力をふんだんに使ってスーパーマンをやっつけようとする、のだが・・・・途中スーパーマンが母親の名前を呼んだだけで、なんでお前それ知ってるの? と、それだけであっさりスーパーマンと和解して仲直りをする。ここまで激突繰り返してきたのが全部エッという驚きとともにチャラになる。これもまたノーランらしいズボラな手前勝手な自己中のストーリー展開。(まあ、ノーランは監督ではないけど)

・クリプトン星人を蘇らせるにしても「その行為は禁止されています」と警告を受けながら「元老院はもうないんだ」というルーサーの一言で、人工知能が「はい、それではやります」と人間のルーサーにへいへいと従っちゃってるのも馬鹿げてるし。バットマンがあれだけブクブクのスーツというのも見るからに格好悪いし。モンスターも、なんじゃこれはウルク・ハイかトロールかっていうなんの目新しさもないハルクの奇形みたいなデザインだし。(デザイン以前の造形かも)

・ということで唯一この映画のなかで心が踊ったのは、やはりワンダーウーマンが登場するところからだな。ワンダーウーマンにはバットマンやスーパーマンみたいにドロドロ、ネチネチしたところがなく、スッキリ爽やかカッコイイ、アメコミ・ヒーローがそのまま描かれていて非常に好感が持てる。

・まあ、見なくてもいいやと放おっておいたこの作品だが「ワンダーウーマン」が非常に良かったので、前作からの流れをつかむためにと見てみたが、やっぱダメだねこの映画。前にも書いたが、DCとワーナーはマーベルの大成功に歯ぎしりして、なんとかこっちも大ヒットシリーズを作ろうと、ジャスティス・リーグの構想を思いついたのだろうが、「ダークナイト」でのクリストファー・ノーランの大成功にうつつを抜かし、きっちりとしたマーケティングも行わず「ダークナイト」の手法で「ジャスティス・リーグ」を構築しようとした、そして、それは第一作目「マン・オブ・スティール」で出だしから大コケし、第二作の「バットマンVSスーパーマン」でなんとか形勢逆転を図るが、結局「ダークナイト」成功の甘い呪縛から抜けだせず、またしても大コケ。ひょっとしてこのシリーズもう途中打ち切りにするんじゃないかという状態まできたところで、この方向性で次もやったらもうオシマイだと気がついたのだろう。そしてノーランやら「ダークナイト」の呪縛からまったく切り離された女性監督パティ・ジェンキンスを採用して、リアリティーだとか、社会風刺だとか(まあそういうものもあってもいいが)それよりも本来のDCコミックが持っていたヒーロー物の良さ、アメリカ人に人気があった理由をねじ曲げず、伸び伸びと映画で表現したほうがやっぱりいんだろうと彼女に思いっきり自由に「ワンダーウーマン」を撮らせ、それがなんと全米で大々ヒットになったわけだから、今にしてジャスティス・リーグ最初の二作がなぜ失敗したのかに気がついたということだろう。愚かである。

・さてと、今年の秋にはついに「ジャスティス・リーグ」が公開されるが、「ワンダーウーマン」のこれだけのヒットを目にした後では、もう「ジャスティス・リーグ」をまたノーマン流の暗く陰鬱な方向を踏襲して撮るということはないだろう。それをやったら更にバカでしかない。幸いにして現時点で公開されている予告編を見る限りにおいては「ジャスティス・リーグ」はノーマンと「ダークナイト」の呪縛から離れて、というかもうそんなのダメだ、ヤメたヤメたあんな暗くてしかも当たらない作風なんて・・・と、考えを改めて、純然たるアメコミの良さを楽しさ、ワクワク感を映画に持たせているように感じる。BGMがカム・トゥゲザーっていうのもイケてる!!

・さてどうなるか、期待したいところだけどね。

☆ワンダーウーマンのこの登場シーンは最高!!

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2016-12-16 『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』最高だったね!!

LACROIX2016-12-16

[]『ローグ・ワン/スター・ウォーズストーリー

注)ネタバレあり

・正直、ローグ・ワンには全く期待していなかった。最初のトレーラーが公開された時、主役であるジン・アーノの顔つきがなんともパッとせず、なんだか暗くて主役を務めるヒロインとしての華やかさや輝きがまったく感じられないというのが最初の印象。

監督がギャレス・エドワーズというのも“ う〜ん ”という感じだった。「あの2014年のハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』の監督。日本の怪獣映画が大好きで日本のアニメなども好きでかなりのオタクというのはまあ映画製作にはプラスかもしれないが『GODZILLA ゴジラ』は内容も出来もチャンチャラ日本の真似事から脱しておらず、ゴジラの造形にしてもこれじゃどうしょうもない。という内容だった」ギャレスが監督するとなると作品のレベルは自ずと知れるだろうという気持ちでもあった。

・しばらくすると6月頃に「ローグ・ワン」の撮り直しがディズニー・スタジオから要求されているというニュースが。ギャレス監督の描く映像があまりに暗く、スターウォーズシリーズに馴染まないとか、監督を交代するだとかそういう話も。このニュースを聞いたときは「ああ、やっぱりなぁ、そうなるか」と思った。自分もトレーラーのイメージがあまりに悪かったからだ。

・その後、追加のトレーラーやキャラクターなどが発表になっていくと、まず第一にあまりにも中国市場に媚びたキャスティングをしている点が鼻についた。まあ、かって日本市場が有力視されたときはハリウッド映画でやたら日本で売ろうという魂胆がミエミエのキャスティングが度々行われた時期もあったので、巨大市場に育った中国を無視するわけにはいかないというのはわかる。だが「ローグ・ワン」はスター・ウォーズという一連の作品の一部なのだ、単発の作品ではない。そこに作品世界の流れを無視したような金儲け主義のキャスティングや演出、脚本を入れることは作品そのものを貶める。ファンが求めているものはスター・ウォーズという一つの夢の世界なのだ。何をやってるんだディズニーは、ギャレスは・・・どうしょうもない! そんな風に思った。

登場人物が並んだビジュアルが公開された時も、え、なんだこれ!と思った。まるで日本のアニメを真似たようなキャラクターの面々。ドラゴンボールとか、そんなアニメのイメージが真っ先に浮かんだ。「ああ、ギャレスはまたこんなことやってるのか、もうだめだ」と思った。やたらどでかい甲冑を身につけたようなゴリラみたいなのは・・・なんか、どこかで見たことあるな。中国人の僧侶みたいなのも・・・んー。これはもう駄目かも・・・。

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・と、何一つ良いイメージが湧いてこないまま、ほんとに、ほんとに、まったく期待せず「まあ、一応観るだけは見ておくか」という程度の気持ちだった。

・そして映画が始まると・・・なんと、あのスターウォーズのオープニングが無い! えー、あれはスター・ウォーズ・シリーズとしては出だしに必須なのではないのか? あれがあるから、あのジャーンがあるから一気に現実の世界から映画の世界に気持ちが切り替わって映画を最高に楽しめるんじゃないか? あのオープニングを抜くなんてなんたることだ・・・と思った。

・そしてしばらく見ていると、なんだか雰囲気がこれまでのスターウォーズ・シリーズと違う。なにか奥行きのようなものが感じられない。薄っぺらな話がすすんいく。「ああ、やっぱりこれはスター・ウォーズらしさがないぞ、これは完璧な失敗作なんじゃないか」そう思えた・・・登場人物たちの演技もどうも軽薄で、重みがない。やはり売れ筋ではないあまり有名ではなない俳優でそろえたせいか、とにかくジワっとくる味のようなものがまるで感じられないのだ・・・。

・しかし、30分を過ぎた辺りからだろうか、ストーリーがムクムクと動き出してくると・・・ん、ん、ん、なんだか面白くなってきたぞ。あれ、なんか良くなってきたぞ・・・なんなんだったんだ最初のあのダメダメ感は、だんだかムチャクチャよくなってきてるじゃないか! と映画に夢中になっている自分に驚く。

・そしてラストまで突っ走る! ダメダメ映画だと思っていた自分のファーストインプレッションは杞憂に終わった。ローグ・ワン!メチャクチャに面白かった。

・いかにもアニメチックなキャラ達で、なんだか冴えない顔つきの連中ばかりだったのだけど、驚いたことにこのキャラ全員が、もの凄くイイ奴らばかりなのだ。それこそ日本のアニメっぽいとも言えるのだけど、あざといなと思っていた例のジェダ寺院の僧侶も・・・いいやつなのだ。ベルズもキャシアンも今ひとつ冴えないのだけど、でも最後にはイイ奴だなって思えるのだ。まったくダメダメなパイロットに思えたボーディ−も・・・泣けるくらいイイ。主役のジーン・アーソも、ほんと今ひとつ華がないのだけど・・・でも、やっぱりイイ奴なのだ。そしてなんといってもロボットの K-2SO が見事なまでにイイ、ひねくれキャラのイイ奴なのだ。そう、ほんとにびっくりした、ローグワンのメンバーが全員、ホントにいいやつらばかりだったのだ。まるでワンピースの仲間みたいな感じだ!

・なんだかセリフも設定も演出も、日本のアニメからかなり持ってきてるなという感じがするのだが、それが却って馴染みやすさにもなっているのかもしれない。

・まあ、もちろん色々ツッコミたいところはあるのだが、見終わった感想は、素直に「よかった、楽しかった! これはなかなかの一作だ」となった。

・ROGUE = 無法者、荒くれ者、はみ出し者・・・・俺たちはローグ・ワンだ! そうか、そうだ、なかなかカッコ良かったぞ!

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《以下完璧ネタバレなので、観終えた方のみどうぞ》

・AT-ATスノーウォーカーの描写はなかなかよかったね。脇からドカンとミサイルを食らって首をガクンと振りながらもまたこっちを向くシーンはオオといいたくなるかっこよさだった。でもやっぱりエピソード5の雪の中のシーンのほうがいいかな?

ダース・ベイダーはスターウォーズ・シリーズ全作品のなかで一番凶暴だったかも? 愛するパドメを失って、ダークサイドに落ち、パルパティーンの元で今が権力とダークサイド・フォースの力の絶世期とも言える時期だろうから、もうぶった斬り殺しまくり・・・いやはや。

スターデストロイヤーに襲いかかるXウイングの集団・・・しっかし、なんで TIEファイターが飛び出してこないんだ。スター・デストロイヤーを囲んで宇宙での戦闘機バトルをするシーンには TIEファイターとのドッグファイトが欠かせないだろう! それがいつまで経っても TIEファイターが飛び出してこなくて、Xウイングだけでスター・デストロイヤーを攻撃してる。「これはありえん」と思ってたらようやく一斉に TIEファイターが飛び出してきて戦闘本格化。オイオイ、遅すぎるぜ、TIEファイターが出てくるのがあまりに遅すぎるよギャレスさん、わかってんの?

・スター・デストロイヤーが真っ逆さまに落ちるシーンはオマージュとして最高!

・そしてだ、一番期待したシーンでもあり、一番よろこび飛び上がったシーンでもあるのだけど、改めて考えるとあれじゃ駄目だと思う、徹底的に駄目だとおもうのが、ラストだ。

・反乱軍兵士が駆けつけた部屋には、白いあの衣服を着た女性がこちらに背を向けて立っていた。そうだ、そうだ、ついにレイア姫が出てくるんだ、どうなるんだ、と振り返ったレイア姫はCGで見事に合成されたエピソード4当時の若々しいレイア姫だった。このシーンを見た時は「うひょー」っとめちゃくちゃ嬉しくなった。「フォースの覚醒」でハン・ソロチューバッカが登場したシーンにも勝る最高のシーンだ。兵士が「これは、いったいなんなんですか」とレイア姫に尋ねる。するとレイア姫は・・・・・

・最高にいいシーンだった、めちゃくちゃ胸がドキドキした。しかしだ、ちょっと思い出すと、あのシーンであのレイア姫の顔つきはないな。なんだかちょっとにやけたような顔つきで「・・・・」と言う。いや、違うだろう。本当のレイア姫ならエピソード4の冒頭で見せたような不安と悲しみ、憂いをもったような表情であるべきだ。沢山の兵士が死んで、ジェダの都市もデス・スターに破壊され多くの人が死んだ中でもたらされたアレを受け取ったならレイア姫は、深い悲しみの中であの言葉を話すだろう。それが・・・なんだか半分にやけたような顔なのだ。ようやく手に入れて嬉しそうな、そんな顔なのだ。おいおい、ギャレス! あの顔はないだろう。せっかくレイア姫を復活させたのに、なんで表情にもっと気を配らなかった、その辺がまだまだギャレスの監督としての若造ぶりなのかも、しかしスタッフにしろなんにしろ、あの表情はおかしいとすべきだろう。(ちょっと怒り)

・スター・デストロイヤーがなんかやたら真っ白で塗装をしてないプラモデルみたいなのがあったり、爆発して人やトゥルーパーが吹っ飛ぶシーンが、どれもこれもいかにもワイヤーで引っ張ってますってわかるような飛び方してたり、そしてそういうのが何度も繰り返されたり、そういう細かいとこにも気になる部分が多々あった。

・そしてまたラスト近くだが、ジーンとキャシアンの最後となるシーン・・・これってまんまディープ・インパクトじゃないか。もうちょっと工夫しろって言いたい。

・最後に、何よりも驚いたのは、いかにこのローグ・ワンがスターウオーズ・シリーズのスピンアウト作品で、一作限りの物語だとしても、まさか全員が最後に消滅してしまうとは思いもしなかった。俺たちは荒くれ者さ、ローグ・ワンさ! そういって仲間になり助けあってデス・スターの秘密を手に入れる。最初はおもっていなかったけど、ローグ・ワンの面々は本当にイイ奴ばかりだった。そのイイ奴らが全員最後には消滅してしまう物語だなんて、ちょっとそれは悲しすぎた。

・いずれにせよ、期待度ほぼゼロだったのに、この「ローグ・ワン スターウォーズ・ストーリー」はなかなかに最高の気分にさせてくれる映画だった。他のスターウオーズシリーズと色彩の並びはちょっと違うが、なんだか日本のアニメっぽくもあるが、そういう思い以上に、もの凄くいい作品、胸が高鳴り心躍る素晴らしい映画だったといえよう。

2016-09-01 『君の名は。』予想を遥かに超える日本でしか出来ない映像美

LACROIX2016-09-01

[]『君の名は。』

・異様にでっかい目、瞳の中に星というか白い光が1つ2つ・・・なんかこういういかにも少女漫画雑誌に出てくるキャラそのまんまでアニメオタが好むようなキャラクターには正直もう、かなりの抵抗感があり、ちょっとそれはなぁ〜っていう拒絶感もあって、さてはてどうしようかと考えていたのだが、新海誠に関しては種子島が舞台になっている『秒速5センチメートル』が少女趣味ではあるがなかなかに良い作品であったし、とにかくロケット打ち上げのところとか、都会の春の映像とかがものすごく美しく綺麗だったので、今回もそういった部分に期待して観てみた。

・最初は瀧にしろ三葉にしろ登場人物の顔つきがあまりに少女漫画、アニメっぽくて、やっぱり抵抗感がありありで、ちょっと引き気味であったのだが、段々、段々と非常にテンポのいい展開にドンドン引きずり込まれていき、しかも先がどうなるか全く予想が付かない、次から次へと驚きの展開にもう「これは面白い!」と夢中になってしまった。

・昨年、かなり早い段階で公開された特報の美しい彗星と雲を突き抜けて落ちてくる隕石らしきものの映像、まさかそれがこんな話になるとは、本当に予想外で見事であった。

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・「誰そ彼」「彼は誰」薄暗くなった夕方は人の顔が見分けにくく、それが誰そ彼(たれそかれ)から黄昏という言葉になり、同じく薄暗い明け方を彼は誰(かわたれ)で、と古典の和の言葉が作中で語られる辺りから、ん、ん、なんだか話が深くなってきたぞと期待が膨らみ、それがこんな凄いストーリー展開に繋がっていくとは!!

・「誰そ彼」つまり夕方の薄暗くなる、昼と夜の移り変わる時刻、黄昏どきが、逢魔時(おうまがとき)、大禍時(おおまがとき)と呼ばれ、魔物に遭遇する、あるいは大きな災禍を蒙るという話はこの映画を観て初めて知った次第。

・入れ替わった瀧と三葉が、薄暗くなって、あなたは誰、彼は誰とわからなくなる時に時間や空間の壁、距離を超えて巡り逢う、その黄昏時のほんの一瞬の恋、しかしそれは好きな人に出逢う時間でもありながら、逢魔、つまり魔物にも出会ってしまう時間、その魔物が大きな禍(わざわい)とは・・・んー、新海誠はなんて凄い物語を考えついたんだろう。素晴らしい、見事な脚本、物語だ。

・口噛み酒(くちかみさけ)なんていう神事とか、岩室のなかにあるお洞だとか、日本の神話、伝記、古事記なんかに通じているようなモチーフも作品になんとも日本的で神秘的な響きを与えている。

・日本の映画って、なんだか外国のヒット作の、ああ、これってあのシーンだとか、あの演出とかを取ってるなぁ、と感じてしまうところが多いのだが、この『君の名は。』に関してはそういった所がまったくなかった。男女が入れ替わってしまうというは大林監督の転校生ばりではあるが、またそれとはまったく別物だし、兎に角観ていて他の作品を彷彿させる場面がほとんど全くないのだ。昨今の映画は作中に「これってあの映画のあのシーンに似てるな、取ってるな」なんて感じる所が一箇所、二箇所位あるものなのだが、この映画に限ってはまったくそういう風に感じさせる所がない。完全純粋100%オリジナルの絵であり、物語であり、展開であり、演出なのだ。もうそれは全部が今まで見たことのない映像、演出、物語と言ってよく、その連続は一瞬足りとも観ていて飽きない素晴らしい作品でありその体験でもあった。

・映像の美しさは言うまでもなく、美しいという以上に心がなんだかホッとする映像なんだな。日本人が生まれてからずっと身近に感じてきた日本の美しさ、すぐそこにあるいつも感じているだけどなかなか最近では見れなくなった美しさ、そんな感じだろうか。キラキラしてるけどキラキラした美しさではなくて、優しく包まれ心を撫でられているような美しさ、そう視覚的な美しさ以上に心情的、情緒のある心に伝わるあたたかい感覚的な美しさがあるというべきだろう。

・なんにしても、この映画は兎に角驚き! 日本にしてもハリウッドにしても最近はオリジナル脚本はダメ!興行が読めない、見込めないから映画化は出来ない!なんて言って、ある程度売れていて知名度のある小説とか漫画とかのアニメーション化、または実写映像化しかやらないような絶対安全牌主義、超保守的で興行成績が見込めない映画なんて作らない!的な風潮が蔓延していて、実に新しさのない詰まらない映画ばかり量産される状況になってしまっているが、こんな風に完全無欠のオリジナルストーリーでこれだけ素晴らしい作品が出来るということにもう一度目を向けて、ネタ切れだ、もう新しい物語は作れない。コケたら責任取らされるから作れないなんていうのはヤメて、今まで誰も見たことのないようなストーリーを作ることに全身全霊を傾けて知恵を集結させるべきだろうな。

でも、新海誠というネームバリューがなかったら、完全オリジナルストーリーで映画化なんて・・・とても出来ないだろうなとも思えてしまうけど。

・こんな素晴らしいオリジナルストーリーの美しい映画を見せてくれた新海誠とスタッフにただただ感謝したいキモチだ。兎にも角にも観ていてワクワクドキドキ、この先どうなるんだと期待して最後まで全然飽きること無く楽しめた素晴らしい一作であった。

・RADWINPSの曲、見終わって一つとして曲の歌詞が頭に残っていなかった。普通は音楽の歌詞が映像をさらにもりあげてくれたりするし、ジーンと染みこんできたりするんだけれど、全編に流れる野田洋次郎の声と、その音楽というかサウンド、音が余りに映像にマッチしすぎていて、歌詞が意識に到達しないくらい音になって歌もサウンドも全部がBGM化しているかのようだ。これって凄いことではあるが、ある意味歌詞が強い意味を持たなくなってしまっているとも言えるかも。

・最後に一言、皆が助かったのが防災訓練でどうとかこうとか・・・って説明されてたけど、それはちょっと話が飛躍しすぎてて繋がんないんじゃない? と思った。あの状況でどうやって防災訓練でみんな避難させたの? ちょっとそこだけが引っかかるというか、全部良かった中でなんか脚本ミスってるような気がするなぁ。どうなんだろ?あれ?

予告編の中ではこれが一番イイな。

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2016-08-31 『二郎は鮨の夢を見る』鮨を食べたいって気持ちに全然ならない。

[]『二郎は鮨の夢を見る』(2011)

・外国人が撮ると、どうしてもこういう映像になってしまう。情緒とか奥ゆかしさとか日本人としていつも自分が見ている日本とは違った絵が広がる。松田優作の『ブラック・レイン』のときも同じことを感じた。巨匠とまで言われるリドリー・スコットが監督なのだからどんな日本が描かれるのだろうと期待していたら、出てくる映像はまるで中国、香港映画のそれ。日本らしさ、日本的なものなんて全然ない。「これって香港で撮ってるの?」と言いたくなる絵だった。

・この映画も見ていると自分が感じている日本とは違った絵に見える。外人は日本というのはこういう風な色、こういうふうな場所、こういうふうな人として見ているということなのだろう。

・このドキュメンタリー映画を見ていて強く感じたことは、監督やスタッフは日本の鮨の素晴らしさ、その極上の美味さ、そういうものを映像で伝えようとしたのではないんだろうということだ。観ていて「これは美味そうだ」とか「こんな鮨を食べてみたい」という気持ちが全くもって、全然湧き上がってこない。ミシュラン三ツ星の日本でも最高と言われる鮨屋のドキュメンタリー映画なのに、観ていてヨダレが出てくるような美味しそうな場面は一つもなく、食欲が喚起されることもなく、まったくもって鮨の旨さだとか素晴らしさというものが伝わってこない。

・この監督は当代一の寿司職人を題材にして何を撮ろうとしたのだ。食の素晴らしさ、鮨と言うものの素晴らしさ、その限りなき奥深さ、その極めつけの美味。そういうものを撮ろうとしてないのだ。だから映画を観ていて美味そうだとも思わないし、食べたいなとも思わないし、腹も鳴らないし、ヨダレが出てくるわけでもない。一体何なんだこの映画はと見ている途中で怒りさえ覚える。

・百万歩譲って、鮨職人二郎とその息子たち、弟子という人間を描こうとしたのか? と考えてみるとしよう。人間に焦点を当てたのだと考えてみるとしよう。だとしても、二郎と二人の息子との関係や二郎本人がどういう苦労をしてきたかなどは映像の中で語られているが、それだからどうしたというのだ。こんな風に苦労をしてきて今ミシュランの三ツ星をもらう店になったんですよということを説明して、それでなんだというのだ。そんな説明を映画の中でされたって、誰も感動も感激もしないだろう。ただの情報として映像が流されているだけだ。必要なのはそれだけの苦労の末に、今コレだけ素晴らしいものが生み出されているんだというその点なのだ。今、二郎やその息子たちの手でどれだけ素晴らしい鮨が生み出されているか、それを伝えずして、それを感じさせずして何を況んやなのだ

・鮨の素晴らしさ、旨さを映像で表現出来ずして、現在過去の苦労話を映像にしたとしてなんになる。そんなことなら《すきやばし次郎の鮨》でなくてもなんだっていいだろう。苦労の末にうみだされた傑作を伝えず苦労だけを伝える、本末転倒、愚かさの極み。この映画の監督は映画をつくる視点も感覚も洞察も表現もなにもかもが極めて薄っぺらで浅はか。ただ単に話題性になる題材、少しでも注目を集めそうな題材を選んで映画にしただけで、そこに深い思慮もなにもない、極めて低レベルのただ単に動く映像を編集しただけで感情がなにもこもっていない映画だ、正に愚策の極みである。

・これならNHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」ですきやばし次郎を取り上げた回のほうが何十倍もいい。二郎本人にも、鮨の旨さ、それをいかにしてうみだしているかという部分にしっかりと踏み込みそれを伝えようとしている。

・ようするに、この監督やらカメラマンやらスタッフらは鮨の素晴らしさやその奥深さ、その旨さというものを全くもって理解していないのだろう。分かりもしないし分かろうともしていないのだろう。日本というくにの世界でも稀な鮨という食の特異さに目を付けただけであり、その文化、歴史などはこれっぽっちも描こうとしていない。だからこんなセメントを舐めているような無味な映画になっているのだ。

・しかもだ、魚や烏賊の腹わたを取っている場面だとか、血合いを洗っている場面だとか、築地市場にならんでいる魚を品定めしてマグロの尾肉に手を入れ肉をもんでいる場面だとか、通常の食を題材にした映像なら映すことのないような場面が多々みうけられる。食材を厳選し、美味いものに仕込むために避けられぬ作業とはいえ、通常食を扱う番組、映像では映さない場面を相当に入れている。鴨肉の料理を伝える映像に、鴨の首を切り血抜きをしている映像を入れたらどうなる? ジビエの素晴らしさを伝える番組で毛をむしり、内蔵や血を取り出す場面を映したらどうなる、いかに美味い、上等な料理であろうともその前段階である言ってみれば汚れの部分を見せたら、人はその料理を食べたいと思うか? おいしいと感じるか。それはもう常識以前の問題だ。ナンセンス極まる。

・つまりこの映画の監督やスタッフは《すきやばし次郎の鮨の旨さ、素晴らしさ》を映像で伝えようなどとしていないのだ。外人に目から見た生魚を属する日本の鮨文化の奇異さ、奇特さに目をつけ、それを面白がり、好奇の目で取り上げているだけなのだ

・外人が日本を撮ると、満員電車にギュウギュウ詰めの通勤ラッシュのシーンだとか、工場でやってる朝の体操だとか、ゲイシャ、キモノ、ニンジャ、最近ではアキバにコスプレ、そんなものがやたら出てくるが、つまりそういう好奇な外人視点とまったく同じ見方で当代きっての鮨職人を撮影しているキワモノ感覚で鮨をみている、それがこの映画なのだ

・自転車で荷物用のエレベーターから下りてくるシーンにしても、ギャーギャーウルサイ六本木ヒルズにエスカレータで上がっていくシーンにしても、好奇の目で日本を見ている外人が、そういう外人に受けるようなシーンを集めて撮った映画、それがこの映画だとも言えるだろう。

・ここまでこき下ろしたのでついでにもう一ついうと、カメラが全部見下ろし。店の中でも、鮨を握る姿も、同窓会も、とにかく全部上から見下ろし・・・背丈のデカイ外人がカメラ抱えて、しゃがみもせず、視点を対象によって変えフレームに区切られた絵が最高の姿になる場所を選ぶ・・・なんてこと、微塵も考えてないんだろうな。みんなおんなじ背の高さからただ撮ってるだけ、素人撮影、運動会や家族ムービ撮ってるのと同じ。日本の文化《鮨》を撮るならもうちょい小津でも勉強してから撮りやがれ! とでもいって終わりにしよう。

2016-08-01 『シン・ゴジラ』おいおい、ゴジラが使徒になり巨神兵になってるよ。

LACROIX2016-08-01

[]『シン・ゴジラ』

☆作品の内容に関する記述アリ。

・なんだか最後まで誰が監督なんだ? 結局樋口は監督じゃなくて特技監督か? と訳がわからない状態で公開まで来た「シン・ゴジラ」。

予告編で観る新しいゴジラは古めかしくもあるが、いかにも凶暴で知よりも本能で動くケダモノ的であり、子供人気を取るために日和った今までのゴジラと比べたらかなりいい感じだと思った。待望していたゴジラ新作ということでそれなり、いやそれなり以上に期待はあった。

・そして、観終えた後の最初の印象は・・・「面白かった、なかなかに面白かった、映画を観た満足感もそれなりにあった・・・だが・・・」というものだった。

・一つの映画としての面白さはあった。だが、なんだ、なんだこの納得のいかなさは、釈然としない感覚は。自分は本当にゴジラの映画を観たのか? これはゴジラ映画だったのか? なにかゴジラ映画を観た気がしない、待ちわびていたゴジラ映画を遂に観たのだという気持ちが全然しないのだ。

・この映画をポリティカル・サスペンス(まあ、日本語なら政治緊張劇とでもいうか?)と呼ぶ向きもあるようだが、まさに、そういう政治的な部分にかなり焦点を当てた話になっていることは確かだ。それが面白かった、それが良かったと、政治家や官僚どもの描写を評価する向きもあるようだが・・・そんなものを観たかったわけじゃない。たとえその部分の脚本や演出、描写が今までに無く優れていたものだとしても、ゴジラ映画で観たかったものはそんなものじゃないんだ。

・3.11の東日本大震災でメルトダウンを起こした福島の原発をゴジラに置き換え、あの当時の本当にどうしょうもなかった民主党の最低で最悪な対応を元にして、今ゴジラがが東京に現れたらどうなる? と想定した話を作り上げた発想は非常に面白い。クズ政治家やクズ官僚どもの描き方も至って緻密であり、よく観察し、よく調べ、よく練り上げて脚本にしていると感心する。しかしだ、この映画はその政治的な部分の作り込み、それを主として描くことに執心してしまい、一番肝心なものを、一番大事なものを、本来は主としてあるべきものを、あろうことか脇役に降ろしてしまったのだ。いわずともがな、それがゴジラだ

《この映画は主役をゴジラから政治家や官僚どもに置き換えてしまっている》

・この映画の最大の批判すべきところは、ゴジラ映画からゴジラを主役から外し、危機対応する(のちに書くが全然危機感がない)政治家や官僚どもを主役として本を、映画を作っている点なのだ

・公開から日が経つにつれて「シン・ゴジラ」の評価は上り調子で、傑作だ、素晴らしい出来だ、その多くがこの映画の中の政治的なやりとり、駆け引きの部分、ポリティカル・サスペンスと言われる部分に面白さや、評価を与えているようだが・・・おい、ちょっと待てよ、話の面白さに巧くのせられて、ゴジラ映画であることを忘れていないか? この映画にはなにか大事なものが抜けて落ちていないか? 1954年に本多猪四郎が撮った「ゴジラ」にあったもの、それは《恐怖》だ! 得体のしれない巨大な未知の生物に襲ってくる恐怖、それがほぼ、全くと言っていいほどこの映画からは感じられないのだ。

その原因は、映画の描き方にもよる。

・巨大生物がやってきて逃げ惑う人々の恐怖・・・それがまるでスクリーンに描かれていないのだ。ゴジラがやってきて怯え、悲鳴を上げ、我先にと逃げようとする恐怖にかられた人間、その表情、そういったものがほぼまったく映し出されていない。

・蒲田での人々が逃げ惑うシーンの撮影時に演出部からエキストラに配られたたという「蒲田文書」なる“演技心構え”の文書がネットに流れ、これを読むことが出来るが、そこには「巨大不明生物に襲われて逃げ惑う市井の人々」役の心得が書かれ、

《まず、巨大生物の恐怖を観客に感じさせる最も効率的な方法は、「逃げ惑う市井の人々がまるで本当に襲われているように見えること」。だが、単に芝居で恐怖の表情をしたり、大きな叫び声をあげたりすれば良いわけではない》

《もし本当に巨大不明生物に襲われた場合、人はその人の個性によって違った反応をすると思います。猛ダッシュで逃げる人、ノロノロと逃げる人、体が固まり動けない人、興味が勝り写真を撮る人、顔を巨大生物から背けず体だけが逃げる人、子供を必死に守ろうとする人、連れとはぐれ人波の中で探し続ける人……それら個性の集合体が、画面に力強さと、リアリティと、本物の恐怖を与えてくれると、我々は考えています》

《それぞれのエキストラが「自分が巨大不明生物に遭遇したらどうするか」の想像力を稼働させることを求め、「皆さまお一方お一方にしかできないお芝居をしてください」》

等々、エキストラの人に対する演出部のお願いが書かれている。確かにこの文章を読むと製作スタッフの意気込みや熱い気持ちも伝わってくる・・・しかし! あの蒲田のシーンに恐怖はあったか! あの蒲田のシーンに巨大生物に襲われ我先にと必死に逃げる、生きたい、死にたくないと必死で逃げる人間の恐怖が映っていたか、映し出されていたか、映像にその恐怖が滲み出していたか! 断言する。あのシーンに恐怖はなかった。そしてあのシーンからブルブルと震えるような恐怖は微塵も感じられなかった、ゴジラが迫り来る恐ろしさなどあそこに映っている人、逃げ惑う群衆から、これっぽっちも、まったくスクリーンから伝わっては来なかったのだ。

それは、この映画が恐怖に逃げ惑う一般の市井の人々の表情をほとんど映していないことに大きく起因する。

1954年の「ゴジラ」にあった人々の恐怖、それはこの河内桃子のワンカットだけの表情でもありありと、ひしひしと伝わってくるものだった。

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・そういった人々の恐れおののく表情がシン・ゴジラにはまったく描かれていない。人々が逃げ惑うシーンに恐怖を感じさせようとしたではあろうが、出来上がった映画から感じられるのはただ単に逃げろと言われて逃げているふりをしている群衆の後ろ姿、動きまわる絵でしかない。表情はまったく映していない。そこに悲壮感、必死さがない、恐怖もない、だからゴジラにも恐怖が感じられなくなってしまっている。

・そして、この映画で主役の座を占めている、首相、官房長官、大臣、官邸の人間、官僚にも、全くと言っていいほど、これっぽっちの欠片さえも、あんなょ巨大な生物が東京に襲いかかってきているという前代未聞の恐怖が感じられないのだ。まったくもって、ゴジラを恐れている、もう自分だけでも我先に逃げ出してしまいたいという震えや恐れが感じられないのだ。

・どいつもこいつも、あんなゴジラへの対応をしているというのに、全然シャキとしていてて、顔から恐怖や恐れが微塵も感じられない。未曾有の危機が間近に迫っているというのに、さも平然とした顔で会議をし、対策を練り合わせ、ミサイル攻撃が効かないとわかっても「はあそうですか」といった顔つきをしているの。まるで役者が映画の中で役作りの脚本読み合わせをしているかのように、全く以て1人として恐怖が演じられていない。唯一常にしかめっ面をして周りから浮いて見える余貴美子だけが、ゴジラに対する恐怖を演じているといえよう。しかし、その周り全部がさらっとした顔で平然としているものだから、余貴美子の演技と恐怖が逆に浮いてしまっているというなんとも惨憺たる状態だ。

・長谷川博己、竹野内豊にしろ余りにスッキリ、シャッキリしていて、ゴジラに対峙しているなんていう恐怖がどこにも出ていない。この連中が退治しているのは、政治闘争や権力闘争をしている同じ政治家や官僚どもであって、日本をまさに破壊し潰してしまおうとしている人知の及ばぬ怪獣ではないのだ。ゴジラと対峙している人間を描いているのではなく、決して心底の恐怖など感じない政敵や出世のライバルである人間とやりあっているのだ。だから、なんども繰り返すがスクリーンから登場人物から、恐怖が、恐ろしさが、まったく、これっぽっちも感じられないのだ。それは市井の人々を誰一人としてしっかり描いていないからだ。ただ逃げる遠景を取っているだけだからなのだ

・その他にも石原さとみにしろ市川実日子にしろ、完全におちゃらけのギャグキャラ設定になっていて、もう全くなにも怖がっている様子がない。

・さも現実味をだそうと「シャツが臭いですよ」なんてシーンを入れているのも、まさに取って付け。そんなこと言っている場合かと言いたくなった。

・ゴジラ対策で会議室に泊まりこんで椅子で寝ている官房長官なんかよりも、まだボサボサ頭の市川実日子のほうが疲れているように見えるが、それにしても恐怖はどこにも存在していないのだ、まるで全部がギャグだ。

・で、結局この映画は何をいいたかったのか、何を表現したかったのか? それはゴジラの恐怖じゃないだろう。官邸の巨大生物登場対策シュミレーションの予行演習を描きたかったのか? それを見せられただけか?

・3.11をベースにした話の作り方は面白いが、それがゴジラ映画か?

・この映画を評価している側にしてもそうだ、おまえらは災害政治シュミレーションを見て面白がっている、内容が濃かった、出来が良かったと言っているだろう。それは、ゴジラを、ゴジラ映画を語っていないだろう。脚本の上手さ、展開の早さに見事に騙され乗せられて拍手をしている。ならばこれがゴジラ映画である必要など全くないだろう。どこを見ているんだ!

・まあ、巷では非常に評価が高まっている作品をここまで批判するのも、ゴジラ映画がゴジラ映画であってほしいからだ。

・最初に書いたように「面白かった、なかなかに面白かった、映画を観た満足感もそれなりにあった・・・だが・・・」なのだが、見終わって時間が経てば経つほど釈然としない気持ちが強くなってくる。

・すくなくともシン・ゴジラは、大量生産された第二作以後の子供向けゴジラシリーズよりはよっぽどイイ、平成ゴジラ・シリーズよりもよっぽどイイ、ミレニアム・シリーズなんかよりもずっとイイ。エメリッヒのGODZILLAよりもずっとずっとイイ、ギャレスのGODZILLAなんかよりも何万倍もイイ・・・しかしだ、だからこそ厳しく言いたい「これがゴジラ映画なのか」と! ゴジラを主役から外して政治家や官僚の災害シュミレーション・ゲームに終始したこの映画はゴジラ映画とは言えない。本多猪四郎が描いた《恐怖》や《人類への警笛》がまるで感じられない映画など、ゴジラがでていようがゴジラ映画とは認めない。そういうことだ。

余談:

・それにしても最初に出てきた第二形態のゴジラには面食らった。まさかあんなものを出してくるとは。第三形態もボタボタと体液やら血肉の塊のようなものを落とす様子が描かれていて、両方共それなりに気持ち悪く、不気味であったが、あのピンポン球の目はなんなんだ? あのピンポン球の目のお陰でせっかく不気味な気持ち悪さが出ていた第二、第三形態のゴジラがまるでアニメのヘンテコキャラのようになってしまった。そう、なんというかあの第二、第三形態はまるでエヴァンゲリオンの使徒じゃないか。予告編で見ていた白い目のゴジラは原始生物のような不気味な怖さがあって期待を持てたのだが、第二、第三形態のあのピンポン球はもうダメダメ。思わず笑ってしまうよあれは。

・都会に燃え上がる火の中をのっしのっしと歩くゴジラ・・・これ、巨神兵そっくり。

・背中から紫の放射能光線を四方八方に発射するのはまるでイデオンか? ゴジラじゃないだろうこれも。しかもその放射能光線があちこちビュンビュンとのべつまくなく飛び交っているのに、ビルの屋上で放射能防護服に見を包んでぶつくさ言いながらゴジラを見ている官房長官らには笑った。おまえらそんな所にいたらあの放射能光線一発ビュンと来たら全員一瞬でお陀仏でしょう。いやはやまったく悠長なことだよ。

・最後の半減期の話はなんたるとってつけ、酷すぎ。

・白組のCG技術はここまで来たのかと思うほど凄い。ゴジラがビルに崩れ落ちるシーンなどもう見事としかいいようのない素晴らしい出来。「同じ予算を与えられて、ヨーイドンで同じCGIのシーンを作ったら日本の方がハリウッドなんかよりも上だ」と言っていた人がいたのだが、今回のシン・ゴジラを観たらその言葉に納得した。白組のCGI技術はレベルはもう世界水準といっても過言ではないだろう。

☆2017年7月8日再見

やっぱ、浅いな、コレは明らかに、おちゃらけ映画だなぁ。なにがポリティカルサスペンスだっちゅーの。という感想が。再び。やたら米国が、米国、米軍が、米軍ががとか、もううんざりうざったし。石原さとみの困ったちゃんアメリカ中枢に関わる女子ぶりは、改めてみていても、もうヘッ?という感じ。さらに評価は下がってしまった。なんだか再見したら、ギャレスのゴジラのほうがまだましだったかも? と思えてきた。いやはや、なんだこのゴジラ映画は。もうダメダメ。

2016-07-11 『インデペンデンス デイ リサージェンス』愛すべき最高お馬鹿映画

LACROIX2016-07-11

[]『インデペンデンス・デイ: リサージェンス』

・「インデペンデンス・デイ」第一作からもう20年かぁ、時が経つのは本当に早いなぁという感じ。

・第一作はあの巨大なUFOが衝撃的で大ヒットしたけど、段々と中身のデタラメさに“お馬鹿映画”の称号が付き、それが高じてさらには「こういうお馬鹿映画も面白いじゃない!」と逆な意味でいう評価が上がった珍しい映画。自分も映画館で最初に見た時はそれまでになかった圧倒的な映像でスゲェ〜と思ったけれど、DVDとかで見返すと、なんともお馬鹿なシーン、ストーリーが満載で、次第に「これはSF映画じゃなくて、ギャグ映画だな」と思うようになった。

・その「インデペンデンス・デイ」が20年という時を経て続編の製作と聞いて、うわー、どうなるんだろうと面白半分で期待していた。なにせ監督のローランド・エメリッヒは「インデペンデンス・デイ」(1996年)以降はと、トンデモ映画、オイオイ映画ばかり作ってきている監督で、作品の質を期待することは殆どない。「エメリッヒでしょ? どうせ!」と言われるような監督だったからだ。(興行収入はそれなりにいってるところは凄いが)

「GODZILLA ゴジラ」(1998年)

「デイ・アフター・トゥモロー」(2004年)

「紀元前1万年 10000 BC 」(2008年)

「2012」(2009年)

・さて、そして20年ぶりに帰ってきた「インデペンデンス・ディ:リサージェンス」、CMや予告編を見るとCGIのレベルが相当に上がっているし(20年前の第一作の時は爆発シーンなどで火薬を使っていたり、日本の特撮のような撮影方法であった)、真面目でしっかりした超SF大作のような雰囲気だ! 第一作を知らない人、見たことのない人がこのCM、予告編を見たら「なんか、凄そうな映画が来たな。映像も凄いし面白そう」と思うだろう。しかし第一作を知っていると、この映像を見ながらプッと思わず笑ってしまうのである。「雰囲気は真面目で凄そうなSF映画だけどこれって・・・」と笑えてしまうのである。

・ジェフ・ゴールドブラムがまたマジ顔でセリフをしゃべっていると、それだけで思い出し笑いしてしまうし、ビル・プルマンが出てくると、おお!あの大統領がまだ生きてたのか!とか思ってしまうし。「今度のは前のよりでかいぞ」なんてセリフを聞くと「ギャッハー、20年経っても前と同じことをしようとしてるぅ、デカさで売ろうとするエメリッヒは健在だぁ!」と大笑いしてしまうのである。

・ということで、今回は作品の質に期待するというのではなく、20年経っても(映像はすごくなってるだろうが)また同じお馬鹿な映画作ってるのかなぁと、そういった期待が大きく、ある意味どれだけそのお馬鹿さの期待に応えてくれるかを大いに楽しみにしてこの映画を見た!

・そして、その期待は100%裏切られることはなかった! エメリッヒは全ての期待に応えてくれた。やっぱりエメリッヒは“お馬鹿監督だw!”

「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」は史上最高のおバカ映画と言っていい。ただし、頭に“愛すべき”という言葉を付け加えておく。

この映画は古今東西稀に見る、映画史上最高の“愛すべきおバカ映画”である。(監督のエメリッヒもお馬鹿映画の代表としよう)

・いやー、予告編を見て、なんかモノスゴイ、かっこいいSF映画を期待した人は逆に頭にくるんじゃないかな? なんだこの映画は!くだらん!と怒りだすかも。20年前の第一作を観て知っていて、そのバカバカしさに愛着を感じている人にとっては「20年経ってもおんなじバカなことやってるバカ映画だねぇ」と微笑んで楽しみながら観れるけれど、初見の人にとっては「どうしょうもない映画だ」となるかも。この映画を観る人には世代のギャップが大きく広がっているかもしれない。

・今回の宇宙船は前作よりはるかにデカイというのは聞いていたが、映画の中のセリフでは全長3000キロとか言ってたなぁ。www アホちゃう? 第一作の宇宙船が全長24キロでこれはデカイなぁと驚いたのだが、今回のは言ってみれば日本列島の端からは端までと同じくらいの大きさなわけで、ここまで大きくしちゃったら、人間から見たら空全部が宇宙船なわけで、逆に巨大さとか物凄さが感じられなくなってしまっている。頭の上、見渡す限り全部が宇宙船なんだから、大きいとか小さいとかじゃなく、空に蓋がかかってるようなもの。これはやり過ぎの大失敗、流石エメリッヒ!と言いたくなったね。

・まあ、その他にもツッコミ所は満載なのだが、この映画はツッコミ所をギャグとして観なければならない。いや、エメリッヒはスタッフは至極真面目に作っているのかもしれないが、それがことごとくお馬鹿なギャグ化しているのだから、そこを指摘してもしょうがない。楽しんで笑うのがこの映画の観方とも言えるだろう。

・それにしてもなぁ、まさかインデペンデンス・デイが怪獣映画になって帰ってくるとは思わなかった。日本の怪獣映画ファン、オタクであるギレルモ・デル・トロが作った「パシフィック・リム」やギャレス・エドワーズの『GODZILLA ゴジラ』は日本のロボットや怪獣映画を尊敬し、その流儀やスタイルを踏襲してハリウッド方式で日本映画を作ったものであり、作品の出来はイマイチだったが日本の怪獣映画をここまで愛してくれているんだなという気持ちは嬉しかった。しかし、しかしだ! なんとローランド・エメリッヒはその怪獣映画ヲタの二人よりも更に更に凄い日本映画式怪獣映画を作ってくれたのだな。

・いやー、もう驚き。エメリッヒの『GODZILLA ゴジラ』は日本のゴジラの良さを全然わかってないダメダメ作品だったが、今回の「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」は設定からバカバカしさはまるで日本のTV特撮怪獣シリーズ(ウルトラマンタロウとかに近い)であり、怪獣の描写は日本の怪獣映画のニュアンスが強く感じられる。

・ほんと、科学特別捜査隊とか地球防衛軍とか宇宙科学警備隊とかが怪獣から地球を守るって設定とその中で出てきたお馬鹿な怪獣攻撃とかの映像が今回の「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」で巨大宇宙船や宇宙人に向かって戦いを挑むアメリカ軍の姿と似てるんだよね。おかしなくらい。この脚本家、日本のウルトラシリーズを土台にして脚本かいたんじゃない? ッて思う位。そしてなんとも、エイリアンとの戦いが・・・・おいおい、これってまんま日本の怪獣映画になっちゃったじゃないか〜と、スクリーンを観ながらびっくり仰天、そして大笑い。いやはやエメリッヒさん、ここまでやってくれるとは御見逸れしました。

・前作で出てきたキャラクターが沢山でてきて、前作をネタにしたようなギャグ(本当は真面目にやってるのかも)を披露するし、ビル・ブルマンが前大統領のくせにエイリアンを格納している場所に入っていって「俺が犠牲になる!」といって首を触手でグゲゲと締められて、エイリアン語を翻訳するシーンとか、もうホントによくもここまでお馬鹿シーンを真面目に復活させるもんだなぁと恐れ入る。

・途中からは段々先が読めてきて、あのスフィア(球体)が出てきて「敵の敵は見方」なーんて言い出すところなんかもう予定調和。アフリカの黒人の部族長かなんかがスウォード(剣)でエイリアンをズッタバッタやっつけるところとか、あんまり名前が知れていないギャラの安い、だけでかなり美形で可愛い女優をぞろぞろ出演させてるところとか、中国の巨大市場を意識して軍のトップが中国人だとか、その娘が美形のパイロット(アンジェラベイビー(楊穎)という中国人アクトレス)だとか、この女優もぱっと見、日本の昔の女優の若いころみたいな感じで可愛いとおもったが、役はスカスカのただの飾りでしかなかったし、エイリアン研究者は同性愛カップルだったんだとか、もう、いやはやサイコーですねと言えるお馬鹿の連発にただただ顔がほころぶばかり。

・意外と言えば超意外で、冒頭からシャルロット・ゲインズブールが出てきたこと。映画の情報サイトやキャストの紹介でもシャルロット・ゲインズブールに言及したり取り上げている所はほとんどないね。あの「なまいきシャルロット」の時の妖精のように可愛らしかった女の子がこんなにシワクチャなオバサンになって出てくるのはちょっと目を背けたい気分も。同じフランス人女優でも「ラ・ブーム」でブレイクしたソフィー・マルソーは歳をとっても妖艶な美しい女に成長したのだけれど、S・ゲインズブールはそれとは逆になってしまっているみたいでちょっと悲しくもあり。

・まあそんなかんなで、この史上最高のお馬鹿SF映画は、お馬鹿をどんどんと積み上げていき、最後にはお馬鹿なりにスッキリ気持よく楽しめるラストでしめくくってある。ジトジト梅雨の湿っけと、ジリジリ暑い夏の中、ひんやりと冷えた映画館でこういうお馬鹿映画を観て、あんまり難しいことを考えず、頭を空っぽにして楽しむってのがこの映画の観方なんじゃないかね? そう考えていれば充分に楽しめる。

ただし、前にも書いたがそれは前作がおバカ映画に変化していき評価を逆の意味で上げたという前作を知って楽しんでいる世代に限ったものであり、まったくなにもその辺のことを知らない人が、期待してこの映画を見たら「なんだこれは、どうしょうもない、馬鹿げた映画だ」となる可能性は非常にたかいだろうな。現にこの映画のことをネットで書いているページはそういう内容のものが多いようだ。

・この映画を観て、くだらない、馬鹿げてると思った人は、前作を観て、そのお馬鹿加減をハッハッハと笑いながら楽しめるようになってから、もう一度この新作を見返せば、楽しめると思うな。

・愛すべき、史上最高のお馬鹿映画に乾杯!

2015-12-22 『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』SWファンにとって最高の傑作

LACROIX2015-12-22

[]『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』

(注)内容について詳しい記述あり。

・観賞の後の興奮や感動がまだ冷めやらない! 思い出す度に気持ちが高ぶり興奮が蘇る。

・大スクリーンに映しだされる撃ち落とされ破壊され砂漠に埋もれている戦艦。画面が流れていくと・・・スターデストロイヤーではないか! その瞬間、今自分が長い時間をかけてついにSTAR WARSサーガの続きに辿り着いたのだと強烈に、はっきりとそして感動を持って認識する。これは紛れも無くエピソード6の続きなんだ! このたったワンシークエンスだけで頭の中がスターウオーズの世界に引きずり込まれた。そして、戦艦の瓦礫から部品を集めている少女(レイ)が一人寂しそうに食事をしているシーン。レイの背後にあるものが最初はなにか壊れたシェルターかなにかだろうと思っていたが、カメラがゆっくりと引いていくと、それがあのAT-ATスノーウォーカーが横倒しになっているものだったのだと分かる。もうこの2つのシーンだけで「やった!」「すごい!」と叫びだしたくなる、ワクワクして心臓がドクンドクンと鼓動する。エピソード4から6までに登場した宇宙船やマシンがスクリーンに現れるたびに「おーっ!」「あーっ!」といった驚きや感激の声が劇場に沸き起こる。自分も拳を握りしめて心のなかで「やった!」「おお、すごい」と同じ言葉を繰り返し叫んでいる。堪らない興奮と魂を揺さぶるような感動が体中から湧き上がり満ちてくる。感激のあまり思わず目頭に涙さえ滲みだす。こんな興奮と感動は久しぶりだ。

・素晴らしい! この映画は、この映画のスタッフはSTAR WARSファンの心を、気持ちを、期待を、望みを、その全てをしっかりと心得ている。STAR WARSのファンが何を望み、期待し、待っていたのか、そのツボを全てしっかりと押さえている。最初の十数分を観ただけなのに、既に思い始めている自分がいる。「最高だ!」「これは傑作だ!」と!

・思い出の登場人物や宇宙船の出し方も心憎いまでに巧みな演出が施されている。「こう出すのかぁ!」とその上手さに思わず嫉妬してしまうほどだ。

「こんなに上手いことやりやがって、最高じゃないか!最高すぎるじゃないか!」嬉しさの余りそんな風にさえ思ってしまうほどだ。

・なかでも断トツにカッコ良かったシーンと言えば!

ファースト・オーダーのタイ・ファイターに攻撃され、レイがフィンと共に砂漠を走って逃げるとき、前方にあった宇宙船に乗り込んで逃げようと二人が必死に走って行くのだが、その宇宙船にたどり着く前にタイ・ファイターの攻撃で宇宙船が爆破されてしまう。唖然とする二人だが、とっさにレイが叫ぶ「あっちのポンコツに逃げ込むのよ!」指差し駆けていく先には砂に突き刺さり埋もれた放置されたようなガラクタが宇宙船が・・・・だがその宇宙船の姿がすべてスクリーンに映しだされた時、胸の鼓動がドクン!と張り裂けそうなほどに高まる! そのポンコツ宇宙船は、なんと、あのミレニアム・ファルコンなんだから! もうこの演出に涙が溢れだして堪らない。最高だ! またしても「やったー!」と叫んでしまう。劇場の興奮もかなり高まってきた!

このミレニアム・ファルコンの飛び方がまたいい! 今まではどちらかというと直線的な動きが多かったファルコン号だが、レイが操縦して飛び上がると、砂漠の上を追ってくるタイ・ファイターやスターデストロイヤーの残骸を、ひらりふわりと水の中を浮く魚のごとくかわしながら飛んで行く。予告編でも使われていたが、このミレニアム・ファルコンの飛び方がとてつもなくカッコイイ、最高だ。

☆レイとフィンが乗ったミレニアム・ファルコンはタイ・ファイターの攻撃から逃げ切り、惑星ジャク−から宇宙空間へと飛び出す。ようやく逃げ切った!と安心した次の瞬間、ファルコンの操作が効かない、ロック・オンされた!と二人が気付いた時、ファルコン号は巨大な船艦の格納庫に飲み込まれていく。これは正にエピソード4の冒頭でレイア姫の乗った宇宙船がスター・デストロイヤーにロックオンされ飲み込まれていくシーンをそのもの、きっちりとあのシーンをなぞらえたものではないか! なるほど、こういうオマージュも組み込んでいるのか! と感心しつつ、心のなかでは当然、エピソード4と同様にスター・デストロイヤーから敵が乗り込んでくると予想する。レイとフィンもファースト・オーダーに見つからないようにファルコン号の地下に身を潜める。さあ、どんな奴らがファルコンに乗り込んでくるのか、カイロ・レンか、ストーム・トゥルーパーか!エピソード4になぞらえるならダースベーダーがやってくるのだから、きっとカイロ・レンが来るんじゃないか、ワクワクどきどきしながら想像が掻き立てられる・・・・そして・・・予想は数百万%の驚きでひっくり返される! 

ファルコンに乗り込んできたのは・・・! まさか! 

劇場内がざわつき、歓喜の声があちこちから沸き上がる! こんな憎い演出してくるとは! くぅなんてサイコーなんだ!なんてカッコイイんだ! ヤッタ−と声を上げて拳を振り上げたくなる。身震いがする、嬉しくて涙が目の端に滲んでくる。

We are home! 我が家だ。帰ったぞ!・・・・2015年、STAR WARSシリーズにまた新たな名台詞が生まれた!

巧い! この映画は本当に巧い! 何度も繰り返すが、この映画は、この映画の監督は、脚本家は、スタッフは、2015年の今、STAR WARSファンがどうしたら喜ぶのか、どうやったら最高に喜ばせられるか、そのツボを本当にしっかり心得ている!

☆惑星タコダナに襲来したカイロ・レンとストーム・トゥルーパーの軍に追い込まれた時、はるか向こうからけたたましい水煙を上げて何かがやってくる!「援軍だ!」というセリフの後にスクリーンいっぱいに現れるのは、あのXウィングの編隊だ! これまた何度も同じことを書いてしまうが「ウォー!やったー」と見ている側が雄叫びを上げてしまうほどのかっこよさと嬉しさだ!

☆カイロ・レンの登場の仕方も、エピソード4でのダースベイダーの登場のシーンに重ねてあるし、カイロ・レンが姿を表わす前でも、スクリーンに移ったシャトルがダースベイダーの乗っていたインペリアル・シャトルに形と気がついて、乗っているのは奴なんだとわかるようになっている。なんとも細部まで作りこまれた映画だ。

☆かっこいいシーン、劇場に歓喜の雄叫びが上がるシーン、身震いして魂が震えるようなシーンが次々と繰り出される。これはまるで豪華絢爛多種多様な料理の数々。最上級フルコースディナーか!中華満漢全席か! 最高の腕で料理された最高の料理が次から次へとスクリーンというテーブルに運ばれてくる。それがこれでもかというくらいのてんこ盛りで矢次早にだ。もう一杯だ、もうこれだけで充分に満足だ、いや、まだだ、もっともっとほしい、もっともっと味わいたい。そんな映画と言えるだろう。

・映画を観ながらこれだけワクワク・ドキドキし、次はどうなる、次は何が来る。と期待に満ち溢れ映像の世界に完全に取り込まれてしまうような作品はそうそうあるものではない。STAR WARSを初見という人や過去作を余り見ていないという人にとってはどうかわからないが・・・この《STAR WARS フォースの覚醒》はSWファンにとっては最高の、いや最高を更に超えたような、心躍り魂を揺さぶられ、感涙に咽び、涙しながら喜ぶ、傑作中の傑作と言っていいだろう。

・最初に届けられたこの特報第一弾、ファルコン号の飛ぶ姿のかっこよさに目を奪われたが、フィンが砂漠の中から画面に突如として顔を出すシーンは、これぞまさに黒澤明「隠し砦の三悪人」の冒頭シーンのオマージュ。こんな所にもこの監督のSTAR WARSとその元となった作品に対する敬意と愛を感じる。

D

・TV予告編でマズ・カナタの言っているこの言葉、

I have lived long enough to see the same eyes in different people.

I see your eyes.

I know your eyes.

わたしは充分に長く生きてきたさ、そして沢山の人のなかに同じ目を見てきたんだよ。

私はお前の目を見たことがあるよ。

私はお前の目を知っているよ。

このセリフの後にレイがアップで映しだされ、画面の中でレイの目がどこかを見上げている。

まさにレイの目を語っていると思われる繋ぎで編集している。

これを見た時に「そうか、そういうことなのか、レイはジェダイの系譜にいるんだ、レイこそがジェダイの正義を銀河で受け継ぐその人物なのだ、そういっているんだ!」と謎が解けたように納得したのだが・・・

実際に映画を観たところマズ・カナタのこの言葉はレイではなくフィンに向けられたものだったのだ。えー、なんで? と思ってしまった。どう考えたってこのマズ・カナタのセリフはなにか重大なことを言っていると思えるじゃないか。ルーク子供、新しきジェダイであるレイを指している言葉じゃないか。それなのに、この言葉はフィンに向けられたものだった。これって予告編製作でよくある本編のいいとこ取り、本編内容無視の勝手改変編集ってやつか? と憤ったのだが、いや、もっと深く考えると・・・次回作以降でやはりフィンがなにか重要な役割をすることへの暗示なのかもしれない・・・ひょっとしてフィンもフォースの強い家系の一人? んー、どうなるんだろう。

D

・ヒーローであるハン・ソロが死んでしまう場面。SWシリーズの原案にはギリシャ神話から“父親殺し”がテーマとして取り入れられているということであったが、まさかこの新シリーズでソロが息子に殺されるとは予想していなかった。4,5,6の三部作がダースベーダーの贖罪ということがテーマであるともいわれているが、新しい6,7,8の三部作はカイロレンの贖罪が一つの大きなテーマとなるのだろうか? 懲罰とも考えられる右手の切り落としもまたどこかで出てくるのだろうか? それにしてもソロがあんな殺され方、死に方をするとは・・・。

・ハン・ソロの最後で更に気になることといえば、その死に方が深い深い宇宙の底に落ちていくかのように、突き落とされて消えていくという点だ。この死に方はダース・シディアスやダース・モールと全く同じではないか。我らがヒーロであるハン・ソロの死に方がダークサイドに囚われたシスと同じなのか! ここにも何か意味が込められているのか? それともこれは考え過ぎか? どちらにしろ、ハン・ソロのあの死に方は納得できないものがある。ソロはシスとはその存在が映画の中で全く違うのに・・。

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☆二回目観賞後

日本語吹替版のほうが言葉の情報量が圧倒的に多いのでストーリーの理解には役立つ。二回目をみて疑問に思っていたところもなんとなく分かってきた。

それ以上に、一回目では細かく追いかけて見ていなかったところまで字幕を追う必要がないので良く観ることが出来た。

初回ではなぜか気が付かなかったのだが、これは笑えるという面白いシーンがあった。ハン・ソロとフィンがスターキラーに侵入し、シールド装置を停止させるために考えついたのが、キャプテンファズマを捕まえて装置を停止させようと言う案なのだが、二人がキャプテン・ファズマを捕まえたときにフィンのセリフや表情がめちゃくちゃに面白く笑えた。

フィンとしてはトウルーパ軍下っ端の一兵卒で一番偉いファズマには絶対服従、何を言われても文句を言えない立場だったわけだが、ソロと一緒にファズマを捕まえた途端、目をキラキラ輝かせてくっきり見開いて「はっはっはー、ざまーみろコノヤロー、もうお前なんか怖くないぞ」とばかりにファズマに食って掛かっている。それを隣で見ていたハン・ソロが「おい、落ち着け」と窘めるシーンがこの映画の中では一番に笑える所だった。その後、シールドを停止させたファズマをどうしようかとハン・ソロが言うと「へっへー、このバケツ頭野郎、どうしてくれようか」とフィンがもう狂喜乱舞しながらファズマに突っかかって行く・・・いやはやまったく、その姿を見てハン・ソロは肩をおとして「どうしょうもないやつだな」と呆れているようでもある。そしてファズマをどう処理するかということで「ダストシューターに落としてしまえ」となったときの、フィンのもう嬉しくて嬉しくて堪らないような顔・・・・まるで今までイジメられてきたガキ大将に恨みを晴らしてやっつけちまうときのようなガキの顔である・・・2回目は細かい所までじっくり見ることが出来たのでこんな点にも気が付き、熱中しながら見た一回目とは違った意味でスター・ウォーズ/フォースの覚醒を楽しむことが出来た。

関連日記

2010-07-23 『ファンボーイズ』つまらない話の駄作だがSWファンは楽しめる。

2010-07-12 「STAR WARS 〜伝説は語り継がれる〜」これはおぞましい。

2010-06-28 『STAR WARS 世界の兵士たち大行進!』

2009-06-27 『STAR WARS エピソード3/シスの復讐』

2015-06-15 『海街diary』期待は大きかったのだが・・・かなり期待外れ

[]『海街diary』

・『誰も知らない』(2004)では親に置き去りにされた子どもたちの誰からの助けも受けず生きていこうとする生への足掻きを静かに、そして壮絶に描いた。『歩いても歩いても』(2008)では老いていく父母とその息子、そして嫁の関係とその中にある毒をこれぞまさしく小津の世界というべき見事さで描き切っていた。そう、『歩いても 歩いても』を観た時に強烈に感じた事、それは「是枝監督は名匠・小津安二郎のあの映画雰囲気を、そしてあの映画の味を遂に、そして見事に現代の日本映画に蘇らせたのだ」という感激だった。『歩いても 歩いても』は小振りな作品ながらも、その年一番の作品だとも思った。日本での興行は振るわなかったが、その後海外で高く評価され、なんとあのクライテリオンがこの映画をソフト化した。これはきっと海外の映画ファンにとっても「歩いても 歩いても」は小津をほうふつさせる古き良き日本映画の伝統を継承する作品だと感じられたのだろう。

・チクリチクリと皮肉をうまい具合にまぶした「歩いても あるいても」は老舗の逸品のごとく味のある作品で、その年は何度も何度も観返し、ロケ地を探したりして歩いたものだった。

・この監督は次はどんな驚きを与えてくれるのだろうと期待した。そして次作の「空気人形」はエグさをも躊躇せず写しだし「歩いても 歩いても」とはまるで異なる作品。まさかこう来るとは予想もせず、その内容と表現にこれまた驚かされた。

・是枝作品といえば、毎回内容や描く対象ががらりと変わり、しかし多種多様に切り替わるその作品の中に一本ゆるがぬ筋が通っている。それはいってみれば社会性といわれるもので、今の社会や制度、この日本のあり方に対する批判であると考えている。その怒りや批判、悲しみのエネルギーが多種多様な作品の中でプツプツプツと温泉の底からたゆまず湧き続けている熱い泡のように、全ての作品の底流となっている。そんな感じを持っていた。

・そして『海街diary』だ。

・是枝監督の2年ぶりの新作ということで、さて今回は一体どんな映画を楽しませてくれるんだろう!と期待が膨らむ。今回はフジテレビや小学館と組んだということで公開前の番宣やコマーシャルも多々。住友林業と組んだCMはなかなか良かったし、BSの日本映画専門チャンネルでは是枝作品の特集が組まれ、その一部として放送されたメイキング番組である《映画『海街diary』が生まれるまで》が特に良かった。(前ページ)

・メイキングでは古民家の茶の間で、飯台を囲む三姉妹の位置や構図にこだわり、そのセリフの掛け合いから姉妹一人ひとりの心の中、表には見えない気持ちや、日々の生活の背景を浮かび上がらせ観客に伝えようとする是枝監督の撮影と演出の様子をがたっぷりと映しだされていた。「これぞまさに小津安二郎の様式美に成瀬巳喜男の人間味表現を加味した是枝作品のなんともいえぬ味わい、情緒の源なんだな」と、メイキングを見ながら更に映画への期待が膨らんだ。

・最初に言ってしまうと、この作品、絵は綺麗だ、絵は美しく、絵には情緒が漂っている。だが、途中まで観ていく内にその絵と話がゆるやかな流になっていないと感じ出す。パッ、パッと瞬間、瞬間にスクリーンいっぱいに映し出される“絵”に、はっとする美しさ、情緒、味がある。だが、それが繋がっていくにつれその情緒や味わいにちりちりと裂け目が入り、バラバラに細かく破れてスクリーンの外に飛び散って消えていく、そんな感じなのだ

・この映画は四姉妹の一年の物語ということで、鎌倉を舞台として四姉妹の成長、変化を四季の移り変わりとともに映像にしている・・・ということなのだが、季節がまるで“移り変わって”いないのだ。季節から季節への移り変わりというものはゆっくりと気がつかないうちに、徐々にだけど早く、ある日ふと「ああ、季節が変わったんだなぁ」と気が付き感じるもの、そういうものだ。しかしこの「海街diary」の中での季節の変化は唐突にエッ!とう感じで出てくるのだ。たとえば桜が咲く春だなぁと思って見ていたら、なんでか急に半袖、夏服になって花火・・・え、いつの間に夏になったの? なんか急すぎない? と思っていたら、こんどは夏と思っていたのがセーラー服にマフラー・・・あれ、いつのまに冬になってるの? とそういう感じだ。

流れていないのだ。

2015-06-07 映画「海街diary」が生まれるまで

[]映画「海街diary」が生まれるまで

・久しぶりに“これは観たい”と思える作品。

・今週末の公開を前にしてメディアミックスのプロモーションが相当に行なわれている。住友林業のタイアップCMはかなりのGRPで流されている。人気番組に4姉妹が出演というPR企画ものも多々。この月曜日からはSWICHなどの雑誌で「海街Diary」「是枝作品」といった特集物が何冊か出され本屋の棚に並んでいる。

・是枝監督の前作である「そして父になる」もカンヌで審査員賞を取ったということで話題にはなったが、今回ほどのプロモーションは行なわれていなかっただろう。思うに「海街Diary」はこれまでの是枝監督作品の中で最大級のプロモーションが行なわれているであろう。

・前作「そして父になる」がテーマとしては重く、社会的な告発的部分を持っていたのと違い、今回の「海街Diary」は家族の絆がテーマという部分では若干の重さはあるが、前作に比べれば圧倒的に観客にかかる負荷は少ない。観客にかかる負荷というものはある程度必要だ。まったく負荷のかからない、お笑い、コメディー、アクション映画などと違って、適度な負荷は映画の深みにもなり、感動の源泉にもなる。重すぎては辛い、軽すぎては見応えがなくなり中身が浅くなる。“適度な、ちょっぐっとくるような負荷”それが当たる映画には丁度いい。そして観客にとっても。それは映画を見終えた後の観賞感として心に残る。一冊の本を読み終えた後の読了感に似たようなものが観客の心の中に生まれる。そういった意味で「海街Diary」は適度な緊張感をもって巧みにバランスを取っている作品と言えるだろう。いつもながら食べ物に例えれば、塩加減が、その塩梅が見る側にちょうどいい映画なのだ

・小学館、フジテレビ、東宝とくればメディアミックスのプロモーションなどお手のもの。まさに自分たちの土俵であり何をどうして作品を盛り上げていくかなど周知している組み合わせだ。だが、いくら手慣れた企業が手を組んだとしても映画のPRが必ずうまく行くなんてことはない。なによりも大事なのは作品そのものが世の中の期待や希望、映画を観る層に訴えかける、惹きつけるものを持っていなくてはどうにもならない。

・吉田秋生の原作マンガ、その質、そして登場人物が4人の姉妹だということ、4姉妹のキャスティングが綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆、広瀬すずという見事な組み合わせだということ、そして映画の舞台が湘南、鎌倉だということ。一つ一つが見事に押さえられたつぼであり、それが集積して仄かな優しい光に包まれている。温かい、人を惹きつける魅力を醸し出している。そういったものを内包した映画だからこそ、企業も「この映画に協力したい」「手を差し伸べたい」《この映画のイメージで企業イメージも一緒にアップしたい》と思うだろう。作品が持ち得た輝きと魅力があるからこそ、それを取り囲むPR戦略も上手く行く。公開前週にこれだけのクロスプロモーションが行なわれているのもやはり作品の良さありきだからだなぁとしみじみと思う。

・BS日本映画専門チャンネルで過去の是枝作品の特集と、“映画「海街Diary」が生まれるまで”という番組を放送していたので見てみた。作品を観賞するまえにメイキングなどを観るのはあまり良いこととは思わないのだが、今回の番組ではあまり深く作品内容に踏み込むことをせず、監督の撮影手法だとか、脚本を作るにあたっての監督の気持ちだとか、そういったものが映しだされていて、面白く興味深かった。

・是枝監督作品としては「歩いても歩いても」で小津安二郎の姿を感じたが、この作品ではさらにその小津安二郎的様式美が強く見られるようだ。鎌倉の古い民家で座卓を囲んで食事をする姉妹の姿は、まさに小津の様式美の世界。この番組の中では「小津から成瀬へ」なんていうことも言っていたようだったが、日本にいる数多の映画監督の中で小津の様式や雰囲気、その手法を自作に取り入れ、取り入れただけではなく見事にそれを小津らしい様式美として映像に映し出している監督は是枝裕和だけかもしれない。

・監督というのは絶対君主のようなもので自分の思った通りい、自分の我のままに映画をとるというものだと思っているが、この番組のなかで是枝監督はカメラマンやスタッフの意見を取り入れて、絵の構図や角度、人物配置、カメラの方向などを修正していた。修正前と修正後の映像を比較するなど、この番組には撮影技法の解説などもあり、この手の番組としては実に面白い。

劇場公開後の6月下旬にもう一本、同じくBS日本映画専門チャンネルで「海街Diaryメイキング」というのが放送されるらしい、これも楽しみだ。

・身近な場所である鎌倉を舞台にしたこの映画、「ああ、これはあそこだな、このシーンはあの角で撮ったな」なんいうのを見つけるのも楽しみだ。

・それにしても、湘南とか鎌倉、逗子なんかを舞台にすると映画ってなんていい感じなるんだろう。この辺は、町やそこに流れる空気そのものがなにか人を惹きつけるものをもっているんだなぁ。美味しい店も本当に多いし。(高いけど)

・生シラス丼を食べるシーンとその時のセリフはちょっとわざとらしいな〜と思ったが。

関連日記

2008-07-02 『歩いても 歩いても』是枝監督が手に入れた小津安二郎的映画感・・・久里浜、葉山が舞台だった。

2006-05-15 『ラヴァーズ・キス』小粒だが、青春映画の佳作としてgood! ・・・吉田秋生の実写映画化として秀作。舞台は江ノ島から長者ヶ崎あたりまで色々。

2006-06-18 『タイヨウのうた』・・・・・・泣けた。・・・是枝、吉田秋生とは関係ないが、湘南鎌倉を舞台にした映画としてはとてもイイ作品。これは七里ヶ浜がメイン。

2015-03-20 『アメリカン スナイパー』静かに、淡々と語られるアメリカの自戒

[]『アメリカン スナイパー』

・秀作、傑作を毎年立て続けに出し続ける監督、クリント・イーストウッドの新作ということで公開前からかなり話題になっていたし、数多の批評家や芸能人、文化人(似非も含めて)が「素晴らしい作品だ」「最高傑作だ!」「これほど胸を打つ作品に出会えるとは」などとほぼ大絶賛の感想、批評を繰り広げていた作品でもある。

・だが、この作品は正直、映画として余り面白くない。あと少し何かが欠けていたら“つまらない”という表現にも落ちていたかもしれないような映画である。だがこの映画はギリギリ一歩手前でいわゆる“つまらない”には落ちていない。この映画がギリギリの所で堕していない紙一重の“つまらない”は“くだらない”とか“観る価値がない”といった“つまらなさ”ではなく、ギリギリまで余計なものを削ぎ落とした、徹底的に飾りや、今の映画にありがちな、常態、定番化している虚栄的演出、作為的演出を排除した監督の技量によって意識的つくられた“つまらなさ”なのだ

・それはあたかも、何一つ上に材料を乗せていない、塩すらほんの少ししか加えていない、本当にプレーンな素焼きにしただけのピザ生地のような映画なのだ。それはまるで“今の映画”であることを自ら否定しているかのような“映画”なのだ

・本来ならばトマトソースを塗り、チーズをまぶし、ベーコンやコーンなどを上に散りばめてトッピングし焼きあげるのがピザだ。だがその全てを取り除き、生地だけを焼いたもの・・・まさにこの映画はそういう作品だ。

・本来(いや、それは本来ではないのかもしれないが)映画というものが、脚本や撮影で長年かかって培ってきた観る者の気持ちを刺激し、興奮させ、楽しませ、わくわくさせ、泣かせ、悲しませるといった“演出”という作為がこの映画では稀なるほどに希薄なのだ

・演出とはそもそも作為的なものだ。いかに観客を刺激し、鼓舞し、画面に観客  それが騙し、あざとらしさにつながったじてんで興ざめする、しかしさっこんの映画はそれが過度にいきすぎそれがあたりまえのようになってしまっている。

映画が素の状態である。

2014-12-01 『インターステラ−』2014年、今年の一作はこれになる!

LACROIX2014-12-01

[]『インターステラ−』

・2時間49分 映画映像をじわりと噛みしめるように堪能した! 素晴らしい! 久しぶりに《映画》を《観た》〚満足感〛〚充足感〛に浸れた一作。2014年ナンバーワン映画は『インターステラ−』にほぼ決まりだ。

・兎にも角にも話が面白い。難しいとも言えるが、実に巧くリズムとテンポを保ちながら全く飽きる気配など感じることなく、どんどん話に引きずり込まれていく。いや、ほんとに映画の面白さ、映画ならではの映像、展開、映画そのものの素晴らしさをじっくりと味あわせてもらった、見終えた後のこれだけの充足感、満足感も久々だ。

・クリストファー・ノーランの監督作品は映像は美しく素晴らしいのだが、脚本に毎回すっとんきょうとも言えるような大穴がある。致命的な欠陥というわけではないが、その一歩手前くらいのどうしょうもない話のすっ飛ばし、監督の脳内がうみだしたような超ご都合主義的な物語の運び、脚本の粗が必ずある。それがあるから「ああ、また今回もこんな超ご都合主義で登場人物に出来るはずもない不可能なことをやらせてる」「だれがどう考えたってここはおかしいだろう」というのが引っかかって、作品そのものを両手で評価するようなことが出来なかった。

・しかし、『インターステラ−』はそういった監督のご都合主義で書いたような展開はなく、科学的検証もきっちりやったであろう、しっかりとした脚本、ストーリーであった。たぶん、こういう非常に難解な科学的な内容を含む話だからきっちりと科学者、物理学者に話を検証させたという。それがあったからいつものとんでもない“大抜け”が無くなったんだろう。

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・マッド・デーモンのくだりは蛇足。あそこがなければもっと尺も切れただろう。あそこがあるせいでそれまで上品で高尚で気品のあった作品に濁りが出だ。まるで繊細で上品なお吸い物に醤油をどっぷりと掛けたようなおぞましい蛇足だ。

・星野先生の作品に似ているという指摘はネット上でもかなりでているが、これは誠にもって否定しがたい。話そのものもそうであるが、宇宙船のデザイン、惑星と宇宙船のカットなど星野先生の作品のあの場面やこの場面が目に浮かぶ。星野作品は海外でも英語に翻訳されてかなり出版されているが、それを基にしたというのは可能性はかなり高い、いや確実ではないか?

ラストで、一人惑星に辿り着いたアメリア(アン・ハサウェイ)の姿が映る。そして新型の宇宙船に乗り込み旅立つクーパーの姿も・・・アメリアはあの後、凍眠カプセルに入り、誰かが自分を見つけてくれることを信じて眠り続けるしかない、たった一人惑星に辿り着いたアメリアにはそれしか選択肢がないのだ。自分はラストに期待した・・・荒れた惑星の大地で絶望に打ちひしがれたアメリアはきっと救われるんんだと、きっとこの後、ラストではアメリアがたどり着いた惑星にクーパーが時を超えて辿り着き、アメリアの凍眠カプセルを開けるのだと、そして眠りから覚めたアメリアとクーパーの抱擁でこの映画は終わるのだと。しかしそのラストシーンはなかった。・・・・・・そうあって欲しかった。きっと星野之宣であれば、それがラストシーンとして飾られたことだろう。しかし『インターステラ−』においては、アメリアの絶望とクーパーの旅立ちで映画が終わってしまった。この映画のラストは衝撃のラストだ、だが、本当に欲しかったのは身震いし慟哭するほどの《感動のラスト》だ。本当のハッピーエンドにしてほしかった。きっとクーパーはアメリアを救い出しただろう、そういう想像は出来る。だが、この素晴らしい映画のラストは本当に素晴らしい胸がすくような、涙と感動で体中がわなわなと震え出し、男でも女でもわっと感極まって泣き出してしまうようなラストにしてほしかった。そこが悔しいくらい残念なのだ

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・事象の地平線( EVENT HORIZON )

吹き替えは秀逸。剛力彩芽は嫌いじゃないが、そんな実力も表現力も感情もだせない剛力に拙い日本語の吹き替えをさせて吹き替え版を最悪のものにしたフォックのプロメテウスみたいなお話にもならない愚挙をワーナーはとらなかったというだけで○

・天体物理学者のロミリー(デビット…ジャージー)は「自分はここで待ってブラックホールの研究をしたい」とエンデュランス号に一人残ったわけだが、アメリアとクーパーが最初の探査惑星(ブラックホールの超重力により時間軸が歪み、惑星での1時間は通常の7年分に相当すると計算されていた)から戻った時、アメリアが「何年経ったの」と尋ねると「23年だ」と答えているのだが、23年も経っているのにロミリーはちょっとヒゲを増やしただけで全然老けこんでいないというのがなんとも抜けている。

・星野之宣作品からの流用といっても過言ではあるまい。

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_☆2009-06-01 『天使と悪魔』:この映画も星野之宣作品からアイディアを取ったと思われる。


/ハンス・ジマーのサウンドは、壮大で荘厳。かってのヴァンゲリスを彷彿させる素晴らしさ。

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☆インターステラ− 批評・感想 by Lacroix

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2014-08-20 『GODZILLA ゴジラ (2014)』完璧に期待外れ、ガメラ対ギャオスか

[]『GODZILLA ゴジラ(2014)』

・これじゃムトーさんが主役じゃないの?

・ゴジラが全然怖くない。おそろしさもない。凶悪でも凶暴でもない・・・おっきな猫か? ゴジラの意思が全然感じられない。

脚本は正直言って低レベル。あれこれお話を継ぎ合わせただけで、一本の物語として完成していない。もっとキツく言えば、なにがなんだかメタクソ状態の本からできた映画

・なんなんだ、このお話は・・・少し日本の怪獣映画を観てる人なら、この第二弾ハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』のストーリーに ”ん?なんかあれそっくりじゃん” と思うところがあるだろう。そう、平成ガメラの第一話 1995年『ガメラ 大怪獣空中決戦』にプロットの元となる設定が似すぎでしょ。ムトーさんはギャオスだし、そのムトーさんをやっつけに古代から生きていた生物が蘇ったって、平成ガメラ対ギャオスの戦いをGODZILLA 対 ムトーさんに置き換えたって、もうそのまんまじゃない。なんたる粗製ストーリーだっての。観ていてだんだん呆れてきた。

・脚本の最終稿が出来上がるまでにずいぶんと紆余曲折があったということだが、何人も脚本家を替えてスタジオ側が納得する脚本を作ろうとしても、これでは何のために何人もの脚本家を使ったのかまるで意味不明。映画不況以降、ハリウッドがダメになったその根本がここにも見え隠れしているようだ。ようするにスタジオ側は、スタジオの幹部連中が求めている映画、脚本は “金になる、動員の見込める”映画であり、そしてそれ以上に“株主から批判されぬ、自分たちの責任が問われぬ” 映画なのだ

・まったく新しい、創造的な映画、今まで見たことがないような映画、映像、ストーリーは敬遠する。感性で判断することを避ける、逃げる。心の声に従うことに怯える、逃げる。自分がイイと思った感覚、感情を恐れる、信じようとしない。全てにおいてこの逆をする。なるべく多くの人が頷く可能性ばかり模索し失敗する可能性を少しでも下げようとする。思い切ってやってみようという気持ちがない。兎に角リスクの低いことだけをやろうとする。個性や独創性などよりも、今までに受けたこと、過去に評判の良かったこと、周りがすでにやっていること、周りが直近でやっていることに倣おうとする。



大体似てること書いてる

http://newsphere.jp/entertainment/20140519-2/

2014-08-19 『8.12日航機墜落 30回目の夏 生存者が今明かす“32分間の闘い”』

[]『8.12日航機墜落 30回目の夏 生存者が今明かす“32分間の闘い”ボイスレコーダーの“新たな声”』




プロデュース・演出・栩木信人コメント

「取材を進める中で、乗員・乗客のご家族や事故に関わった方々の多くが口にされたのは、何故事故が起きてしまったのか、何故520人もの尊い命が一瞬にして奪われなければならなかったのかという、29年間全く変わらずにある思いでした。日航機墜落事故は、やはりまだ終わっていない事故なのだという印象を改めて強く持ちました。番組では、新証言やテレビ初公開の新事実に加え、今だからこそ可能となった科学的アプローチで、これまで伝えきることができなかった『墜落までの32分間』と『奇跡の救出劇』のさらなる真相に迫ります。事故に関心をお持ちの方だけでなく、事故を知らなかった方にも是非ご覧いただきたいと思います」

2013-08-02 『風立ちぬ』こんなにも美しく切ない純愛物語だったのか。

LACROIX2013-08-02

[]『風立ちぬ』

・零戦を作った男の物語と聞いていたので第二次世界大戦やその時の兵器工場などの絵を頭に描いていたのだが・・・、映画が始まるといかにも宮崎アニメといった穏やかで平和そうな昔の町並みの映像が流れる。その風景描写が実に美しく心を和ませる流石という巧さで、アニメーション独特の柔らかい色と映像がほのぼのとした気持ちを醸し出す。しかし、ホッとしてその気持ちに浸っていると、唐突に美しい風景の中を静かに波紋のようなものが走る!「え、なにこれ? これって地震な? いきなり地震がくるのか!」と、ハッと息を飲み込み目を見開いて驚く。静かに地面を伝わり広がっていく波の線がこれから起こることへの身震いするような恐怖の予感を駆り立てる。そして、次に現れたのは幾重にも強烈に上下に揺れ動く家屋と耳の奥まで届き脳みそを振動させるような重低音。まさに今ここで自分が地震のど真ん中にいるような錯覚におちいる。この場面が出てきた時、まさか零戦を作った男の物語に地震が出てくるとは考えてもいなかったため、かなりの衝撃であった。(この上下に揺れ動く家屋の映像は『風の谷のナウシカ』にでてきたオームの外郭の動きに似ている。いかにもジブリ流の表現なのかも。それがこんな地震の描写にも生かされているというのもまた驚き)

・出だしからいきなりこの関東大震災描写地震の描写にとは、これにはガンと頭に衝撃を受けた、そしてこの地震描写はまるで今自分があの3.11の時に戻ったかのように、あの強烈な地震の中にいるかのように激しく怖かった。いままで映画で観た地震の映像でこんなにも本物の地震を感じ、その押し寄せてくる恐怖を感じ。まさに自分が地震のどまんなかにいるような恐怖感を覚えたものは未だかってない。それほどまでにこの地震の描写は凄かった。ざまな実写映画の地震の描写よりも遥かに凄まじく恐ろしかった。3.11の東日本大震災を体験してしまったことも一因かもしれないが。

・そしてその後の大火、逃げ惑うたくさんの人々。一気に心は映画の世界に引きずり込まれた。

・TVのインタビューで宮崎駿は「昭和を描くには関東大震災から始めなければいけない」というようなことを言っていた。(関東大震災は大正に起こったが)巨大地震の後のボロボロの中からの復興ということが昭和の始まりということなのであろう。昭和は日本の真ん中の東京がボロボロになってゼロになって、そこから立ち上がって行く時代だったということであろうか? そして戦争に突入し、再び焼け野原になりまたそこから立ち上がっていく、それが昭和という時代だということであろうか。

・また、宮崎駿は「とにかく軍隊が行進するとか、戦火が広がるとかそういうことは映画着たくなかった、そうしたらドキュメンタリーに取り込まれてしまう」「堀越二郎を描かないと、この国のおかしさは出てこない」とも言っていた。

・なるほど、そういう気持ちで作られた映画なのかと改めて思う部分はあるのだが、実際に自分がこの映画を観た後に感じたものは、先に書いた地震描写の凄まじさはその1つとして、映画を見終えた後にすぐに映画全体として映画全てとして感じた印象は、戦争でも戦争の悲惨さでも、あの頃の軍隊のおかしさや、この国のおかしさでもなくて、《純粋で純粋で純粋極まりない“恋愛”》というものだった。



生きて、生きろ、生きろという言葉は愛する妻への言葉、全人類でも戦争当時の日本人でも、だれにでもなく極めて個人として愛する結核にかかって残り少ない命を灯している妻への言葉。

自分の素直な印象では、宮崎監督が描こうとしていた昭和という時代、戦争、この国のおかしさ・・・そういったものは映画全体から感じ、受け取ることはなかった、部分的にそういう描写があったという記憶は残っているが、全然、マッタク、戦争の映画には思えなかった、感じなかった。純粋な、純粋すぎるほど美しく、汚れない、極めて真っ直ぐでなんのけれんもない本当の純愛物語だと思った。人それぞれであるけど、監督が戦争や昭和を描きたかったと言っていたのに、その作品から受けるものがマまったく違っていたというのは、監督の思いと、描いて出来上がったものが発するものが別の方向を向いているということではなかろうか。そういう意味で皮肉な言い方をすれば、この映画は監督が当初描こうと思っていた思いが伝わってこない、別のものが伝わってくる、つまり描こうとしたものを伝えきれない失敗作という捉え方も出来る。だがそれは作品としての失敗作ということではなく、監督の思いの描き方としての失敗作であり、作品としてはジブリの中でも断トツの素晴らしい作品であると思う。結局宮崎監督には戦争の悲惨さやあの時代やこの国のおかしさを描くことは出来なかったのだ、完成した作品は別のものになっていた、別のものが強く描かれていた。作品には監督の心が宿る。とするならば、監督の優しさや純粋な愛という心がこの映画に強く宿っている、宿ってしまっているのだと思う。そして監督が口にしていた戦争や昭和やこの国のおかしさが描かれていなくても、自分はこれでよいと思う。

・この映画は監督の思いや意図が全然違う方向へ伸びて、発展して作品となった大いなる失敗作であり、だけどそれ以上に、口に出していった考えや思いを遥かに超えて、監督の心が投影され描き写された素晴らしい作品だともいえる。口に出す思いよりも心のなかにある思いのほうが本当なのだ、その人をあらわすものなのだという証明なのかもしれない。

声優の声も実に良かった。

2013-08-01 『終戦のエンペラー』残念ながら極めて中途半端な一作

LACROIX2013-08-01

[]『終戦のエンペラー』

・作中のセリフにもあったが、天皇を扱うというのはなんにせよ“センシティブ”な部分を孕む。日本においては否応なく、外国からしても若干の差はあれど同じだ。アラーを映画でも文章でも外国人が描くとこれまで様々な問題が起きてきた。イスラム教徒にとって異教徒が自分たちの神であるアラーを軽率に扱うことはそのまま自分たちと自分たちの宗教、文化を冒涜する扱いとみなされる。

・取り上げた物語の主題に対して、本質に対してどれだけ踏み込むか、踏み込めるか、どれだけ考えを及ばせることができるか、どれだけの深みまで手を伸ばせるか、思考をめぐらせることができるか、物語のなかでどれだけその主題を追求できるか、深く掘り下げ観る側に訴えるものを作ることができるか、それがないのなら映画は取り上げた主題の表面を舐めるだけであり、その主題は物語の具材にしかならない。料理の上に乗っている具材でしかない。

・この映画は“終戦”“降伏”“占領”“マッカーサー”“占領軍”“日本”“軍部”“政治”そして“天皇”という非常に“センシティブ”つまり微妙で敏感で一挙手一投足に非常に慎重さを求められる“問題”を取り上げ,"EMPEROR 天皇" という日本において最もセンシティブな物事をタイトルに掲げ、主題としながらも、そこに深く踏み込むことは避けている。そこに関わる様々な要素もただ並べただけに過ぎずなんら主題に対して深入りしようとはしていない。いや、しなかったのだ。

・主題として"天皇”を取り上げながらも、そこに踏み込めば踏み込むほど状況は更にセンシティブになり、深入りすることは映画としての表現の難しさや説明の困難さ、そして踏み込んだことによる様々な影響が危惧された。だから主題に足を踏み込み、深入りすることは止めたのだ。やめてしまって具材だけを並べ、なんらの意見を述べることもなく、主義主張を面に出すこともせず、ただの"物語"として抑えてしまったのだ。

・即時的な楽しみを目的とする娯楽映画であるならばそれでもいい。面白そうなストーリーだけあればソレでいい。だが、この作品はそういった娯楽作品ではないはずだ、そういった娯楽を志向して撮られたものではないはずだ、ハリウッドのエンターテイメント作品として作ったものではないはずだ。終戦と占領軍、日本の天皇を主題として選んだ時点で作品の本質はエンターテイメントではないものとなる、成らざるをえない。

・だから本当はもっと天皇という腫れ物のような事柄について語り、それを評することが禁忌されている日本にとっても、そこに関わった国にとってもセンシティブな事柄に真正面から向かい、取り組み、日本の終戦とアメリカの占領軍の統治に関してもなんらかの意見、主張を示すべきであり、示さなければならなかった。しかし、それは避けられた。回避され、なんでもない表面的なエピソードの羅列。歴史の上辺だけをなぞるだけの内容に落ち着けてしまったのだ。

・そして映画は意義、主張を持つこともなく、薄っぺらな中途半端な作品になってしまった。それは製作サイドの《天皇に触れることへの恐れ、恐怖、そこから生まれる様々な危惧されるべき事態を恐れ、それを受け入れそれに対処することを避けるため》の気持ちが生み出したものだろう。

・娯楽、エンターテイメントには成り得ない題材を映画の主題として選択したが、その主題に踏み込むことを躊躇い、その主題を論ずることを躊躇い、その主題に深く関わることを躊躇し、その主題に作者の側の意見や主張、判断をすることの一切を避けた・・・いや、観終えた感想からすれば、これは逃げたんだろうなというべきかもしれない。

・こんな"天皇”EMPERORという題を掲げながらも、そこの踏み込めないばかりか、終戦や占領軍、天皇という題材の表面的なつなぎだけでは映画としての話を構築できないと見たのか、随分と白々しい悲恋物語を映画に組み込みラブストーリーとしても客を惹きつけようとしたのだろう。しかしそれがより一層作品の中身を中途半端なものに押し下げ、なにがエンペラーなのだと言いたくなるような話になってしまっている。

・そして最終的には天皇や占領軍、マッカーサーよりも、ラブストーリーに話の中心が寄ってしまっている。これでは第二次大戦終戦時の天皇とマッカーサーの話と思って観に来たら、まるで《第二次大戦の中、アメリカと日本の間で生き、恋をし、戦争によって引き裂かれた悲恋の女性、彩音》なんて題のほうが内容には合っているのではないかと思える程だ。

・社会派や歴史映画という方向には進まず、話をふくらませるために戦う二国の間で生まれた恋という挿話をいれたため元々の主題からは話の中心が離れてしまい、結局はどっちつかずの状況で中途半端に何を描こうとしたのかさえボヤけたまま仕上げられてしまった映画、そう言うしかないだろう。

・プロデューサーでもある奈良橋陽子のキャスティングは流石だった。マッカーサーを演じたトミー・リー・ジョーンズは少し違和感を感じたが、日本側の配役は見事だ。アヤを演じた初音映莉子は印象深い。桃井かおりはこんなチョイ役かとすこし残念。

・やたらと日本の知識人(と称する連中)に多い、アホでマヌケでくだらない反日的自虐感はこの映画の中にはない。そういったものはほとんど感じられない。逆にアメリカをやたら褒めたり、軍部を揶揄するようなシーンもない。そういった点ではこの作品はどっちかに偏向するわけではなく日本人の描き方もアメリカ人の描き方も皇族や天皇の描き方も極めて中立的であり、妙な色眼鏡はかけていない。そこは好まれる。

・ポツダム宣言を"降伏"といい、今の義務教育で間違っておしえられている"無条件降伏"という言葉を使わなかった点も◎

・いきなり出だしであの捏造、偽造と証明されている南京虐殺に関する日本兵が中国人の首を日本刀で切ろうとしている写真が出てきたのは驚いた。GHQ本部に貼ってあったその写真を「そんなものは剥がせ!」と言って剥がす場面を映画の頭に入れるというのは、ちょっとあざとらしさを感じたのだが、これは南京虐殺をやたら史実として認めさせ日本を落とし込めようとしている中国人やらそのロビー活動に洗脳されているアメリカの議員などに対する嫌味だろうか?

・終戦間際の玉音放送と軍部クーデター、その当時の様子を如実に描いているという点で橋本忍の『日本のいちばん長い日』と比べてみれば映画作りの姿勢の違いというものが明白に分かる。問題作でもありあまり取り上げられることもない作品だが『日本のいちばん長い日』を観れば映画の在り方の違いというものが際立って見える。☆2008-04-03 『日本のいちばん長い日』狂気と暴走の歴史が映像に再現される。

・この手の戦争、軍隊、天皇などといったテーマの映画が出てくると、必ずキチガイじみた自虐史観を頭に埋め込まれ洗脳されたような人間や団体が上映禁止運動や、映画にたいする非難などを公然と始めるのが日本の常だったが、この映画ではそういった話がとんと聞こえてこない。日本映画で戦争を描くと「間違っている、訂正しろ!」と喚き立てる狂人とおぼしき日本人や中国人、韓国人などがハリウッド映画なら何も言わない・・・いかにも見え透いた浅はかな思想や意思のない、ただ単に日本を非難して自分を満足させたい連中がうようよしているのだと呆れ返る。

・それでも、この時代、このような内容を扱った映画としてはまあまとも。それも日本人がプロデューサーをしているおかげか。外人がこの手の日本を描いた映画は最低レベルのものばかり。

・原作 岡本嗣郎「陛下をお救いなさいまし」(集英社)

関連

上映時にとにかく批判、上映禁止などの攻撃を受けた良作

「プライド 運命の時」

「明日への遺言」

外国人が日本を描いた愚作

2010-05-16 『靖国 YASUKUNI』終戦記念日の靖国神社がこんなだったとは

2008-07-17 『太陽 The Sun 』これは一体何を描こうとしたのだろうか?

2009-07-08 『TOKKO −特攻−』なぜか、強く響いてこない

2013-07-18 『Dolls ドールズ』

[]『Dolls ドールズ』

北野映画のなかでは好める作品。しかし数年前に観た時とは改めてみて随分印象が変わった。

つながり乞食。人形浄瑠璃。お祭りのときの風車やお面を背景にしている映像は美しいが、これはよくある絵だ。たけしが徹底批判した稲村ジェーンでも使われていた。

映像の美しさ、ライティングの故意的ではあるが情緒的でパッと観ただけでハッとする美しさは間違いない。

しかし、ここにヤクザ映画を入れる必要はあるか?

待ち続けていた女性の話も美しいのに。

あえてヤクザ映画の要素を入れる必要があるか? それが北野武の根なのだろう。しかし映画としては余計でしかない。それがなければもっと評価は高まっていただろう。

2013-05-31 『苦役列車』不味いインスタントラーメンのような映画

[]『苦役列車』(2012)

・芥川賞の話題に乗って、大衆の記憶に残ってるうちに映画化してしまえっていうのは大昔からやってることだが、内容を煮詰めもせず、何かを伝えようというわけでもなく、ただ原作の話の筋をなぞっただけでハイ撮りました、作りました、ちゃんちゃん!そんなもんで適当に作ったかのような映画だ。

・ぎっちり煮詰めて、考えぬいて撮った映画(最近そういうのは少ないだろうが)の対局として、こういった粗製の映画はまるでインスタントラーメンのようなもの。最後はしまりもなくだらりと尻切れトンボのように終わって、一体なんだこれはという呆れた気分だけが残る。『ゲゲゲの女房』もまさにそういう映画であったし、そういう風にチャチャチャと余計な監督の考えなんか入れず、粗造りしてなんとか観れる形にしてくれる監督というのも今の世の中は必要なのだろうし、使いやすい、都合がいいのだろう。

・それが映画というもの、何かを表現するというもの、創造するというものとは甚だかけ離れていても、そういうのを求められる監督というのは、そういうのをこなす監督というのは工場の機械みたいなものだろう。

・前田敦子もまあ最初っからこういう映画に出る必要もないだろうに。

・森山未来は頑張っているが、だからってそれがどうしたってわけでもない。頑張りましたで認められる仕事ではないんだし。

・原作も女性からしたら、いや男性が読んでも不快感がにじみ出るような作品であったし、それが文学の一表現としてなら存在価値もあるのだろうが、この手の映画にしてしまう意味合いはあるまい。最もウケない、普通ならとてもじゃないが採用しないような話を映画にするというのは如何にプロデューサーや出資会社などが権威というものを抱っこしたがっているかということだ。芥川賞という権威を着たいがためだけに他は全部どうでもいいよという感じで作られた映画とも言えるだろう。

2013-05-16 『天国からのエール』

[]『天国からのエール』

・これもまた、超が付くくらいベタな話で、ベタな展開で、ベタな演出でと、ベタベタまくりの一作なのだが。そうは思っても、やはりこういう映画を見ると、多少ならずともウルっと来てしまう。

・阿部寛はテルマエの印象が強すぎて最初は違和感アリアリだったが、それは次第になくなった。

・ミムラはいい配役。このあまり目立たず、なんとなく近くにもいそうなおばさんっぽい感じがものすごく自然で良かった。

・桜庭ななみ・・・いもっぽい。へたくそ〜という感じで、最近NHK-BSのCMでみるちょっと大人びたお姉さんという感じとは随分違う。いや、ほんとに演技下手くそ。なにやってても全部おんなじ顔って感じなのだが、ラストで涙を流しながら歌うシーンは良かった。あれ、演技じゃないって感じがするな。もう話と役に完全に入ってしまって、本当に泣いて、涙を流しながらギターを弾いていたんじゃないだろうか。ここは下手くそじゃなく、まさに本物だった。このシーンにちょっと感動してドキッと来た。

・その他の役者もみんな演技は下手くそ・・・でも、それが全体としてはうまくまとまってた。

・学生たちがスタジオの外でみんなでご飯を食べるシーンがいいな。たんまりと出された唐揚げやおにぎりやいろんなものを素手でガシッと掴みとって口に頬張る。ほんとうに旨そう。そして昔を思い出させる。運動会や、文化祭や、学校でやってきた催し物のときにかあちゃん連中が差し入れてくれた食べ物。それをみんなでがつがつ食ったこと。それも青春の1ページ。良かったねあの頃は、まっすぐで、余計なことはあんまりしらなくてさ、なーんてことを見ながら思い出してしまった。

・映画としてはムムムだが、話しとして、作品として、この映画が映し出している雰囲気はいいものがある。ま、こういう作品はあんまり辛口でも仕方ない。観て、ほのぼのとこころが温まればそれで充分なのだ

http://yell-movie.com/

2013-04-13 『ハナミズキ』超偽善的映画。恋空パート2か・・・なるほど

[]『ハナミズキ』(2010)

・新垣結衣はすっと立っていると、真正面からカメラに映っていると、実に端正で整った顔でお人形のようで、まさに美形なのだが・・・なんで、出る映画、出る映画こんなのばっかりなんだろ? 変な監督と妙な脚本家とアホなプロデューサーにものすごく好かれる、そういう類の人を引き寄せる特別な魅力があるということなのだろうか・・・って、そんな風に思えてしまうよなぁ。

・いやはや、マジでこれって『恋空』の続編かよってもんで、もうトホホ。設定があまりにもあまりに類型的でお決まりで、手垢ベトベトで、オイオイと言いたくなる。もう笑ってしまうようなとんでもなさ。いや数十年前のお昼のメロドラマとかってこんな感じだったのかも?それを復活させたのか? 

・9.11に関することも「あんとき、ここで見てたんだよね」でオシマイかよ。こんな映画に9.11が絡まされたんじゃあの大惨事をただ小ネタにしてるとしか思えない。あの事件のことなんか丸で考えてない、ただ言葉を挟んでおきましたってだけ。あの惨事に対しても不謹慎、不道徳としか言えまい。

・その上今度は戦場カメラマン、フォトジャーナリストなんてものを引っ張り出してきて「命かけてるんだよ」の押し売りか? 戦地の子供を大写しにした写真を背景に新垣がしゃべっている姿なんて、オイオイ、更に人道主義や平和主義までこんな映画の出汁に使うのかと憤り。 

・もう9.11やら戦争ジャーナリストや、戦時下の子供の写真やらを次から次へと出してくるのを観ていたらメチャムカツイてきた、こいつら、この映画作った輩って最悪最低だなと。

・で、この映画はなんなんだ!と言うなら、全編にわたって超偽善の似非人道主義と純愛?の皮を被せた、スカスカ軽薄・短小、短絡、偽善、偽愛の月9ドラマ・・・ってとこか?

脚本:吉田紀子・・・『Dr.コトー診療所』のときは、おお、なかなか凄いな、上手い!と思ったのだが、それ以降は????だ。この映画に関してはもうバツ、バツ、バツの3乗。どうしてここまでご都合主義でいいかげんで、テキトーな脚本を書けるのか、読み返してみておかしいって思わないのか? まあ、監督やプロデューサにさんざん弄られ、こうしたほうが受ける、こうしたほうが人が入るとグシャグシャにされたのかもしれないが、いやそれにしてもなんだこのお話は。

・監督:土井 裕泰・・・まあ、TVの人だからってことで納得か?

・最近変なことばっかやってる一青窈だが、この映画を観たら、自分が9.11のことを思って思って考えて考えて描き上げた私の曲が、こんなトンデモ映画に使われちゃってる。。。トホホ・・・てな感じでいるかもしれん。w

2013-04-12 『死刑台のエレベーター』 (;´д`)トホホ…

LACROIX2013-04-12

[]『死刑台のエレベーター』(2010)

・ま、書かなくてもいいかと思ったが、一応備忘録として。

・吉瀬美智子は確かにイイオンナなのだが、それは健康的ではつらつとしたオネーサンってイメージの上でのこと。おねーさんというよりもうなんかシロガネーゼの中年ご婦人というのが実だろうが、コマーシャルなどで観るじつに明るく爽やかな感じが好感を受けているのであり、この映画みたいな場末のキャバクラの性悪女みたいなのではまるでイメージが崩る。こういう性悪も合ってはいるが、この線でやってたら見事に悪役脇役女優の定番になってただろう。こういう線じゃないから受けてるのに、それを全然生かしてないというか潰しちゃってるから魅力もへったくれもなし。

・あとは別になにも言うことなし。

・一応、話題になってたな、ってことで美人オバサンの吉瀬美智子をちょっと見てみようという気持ちで観て、は?って感じで時間の無駄だから早送りしておしまい。

・名作が泣くよなぁ。。。(;´д`)トホホ…

・名作をベースにして脚本を書いても、脚本家が酷ければこれだけ映画が酷くなるというすごい見本。そして演出もなにもかも、キャスティングは大事だがそれだけであとはなんにも無しって映画か?

脚本:木田薫子・・・まあ、監督と一緒に書いたんだろうけど・・・・ハ〜。

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監督: 緒方明・・・・「いつか読書する日」http://d.hatena.ne.jp/LACROIX/20081121

2013-03-14 『3.11 サバイビング・ジャパン』こんな腐れ政府、信用してないさ!

[]『3.11 サバイビング・ジャパン』

・あのころ、政府や行政、市、町、そういったところが支援物資を配布しなかったり、受け取りを拒否したり、助けてくれとやってきた人を「自宅が残っているのなら駄目だ」と言ったり、自宅避難している人にはペットボトル一本すら渡そうとしないとか、被災地の中にいるという状況は同じなのに、食料も何一つ供給されないとか、そういうことがネット上でさんざんに告発、非難されていた。仮設住宅に入ったら入ったで、そこからは自立してくださいと食料を供給することをストップしたり。なんだか最近そういうことがあったというのを忘れてしまっていたけれど、この映画を見たらあのころの状況が思い出されてきた。そうだ、地震や津波のことだけじゃなく、あのころのこの国の行政のシステムが末端まで腐っていて、自己保身と責任逃れにびっしょりと浸かっていたことを忘れちゃならないんだ、それを二年目にして思い出させてくれた映画でもある。

・完全に封じ込めるよう対策を取らねばならぬ使用済み核燃料を、建屋の最上部のプールに保管する設計・・・日本の原発設計の児戯も劣る愚かさ。

・郡山は原発から50キロ圏内、福島市も60キロから含まれる。本来なら避難区域だ、だが人口の多い市にまで避難区域を広げると賠償責任が一気に膨れ上がる・・・だから、30キロのラインが引かれたのだ。

・大山弘一(南相馬市議会議員)・・・市長も県知事も首相も国会議員もダメだ、電力会社から出てくる議員も一人二人各町にいる、電気料金の中には奸僚を養うお金と国会議員を養うお金が含まれている。電気料金とは、隠された“第二の税金”である。国会議員や奸僚を養うための金の出処なのだと。日本の電気料金はアメリカの4倍。その料金のなかに奸僚と国会議員の(腹を膨らませる)部分があるからだ。核となっている人は少ないかもしれないが、利権構造ピラミッドの裾野はすごく広い。日本政府は3月11日の時点で情報操作に入っている。被害を出来るだけ小さくして熱りを早め早めに覚まして、また原発推進に持っていくコンセプトだ。(この話をしているときに、東電の社長、会長、幹部、そして民主盗の海江田や細野などがずらりとならんだ映像が流れる・・・日本のメディアではやらない、やれない、やったら目に見えぬ圧力がかかってくるであろう映像)

・全ては利害関係者の共謀なのだ政府は国民の命よりも原発の利権を優先した。(ここでまた海江田がアップになる)世界各国から放射線測定器が日本に送られてきたのに政府と奸僚はこれを税関の倉庫に留めて福島には送らなかった。測らせたくないのだ。

・地上1mで測る空間線量はナンセンスだ。(土壌や水にこそ放射線は含まれている)31の放射線隠しがある!日本の政府が発表するのはセシウムとヨウ素に限られている。猛毒物質も大量に出ている、これも測られている、国も県も知っていた、市には教えなかった。しかし教えなかった。(パニックを誘発するからといつもどおりの詭弁で誤魔化すだろう)濃度の濃いところはチェルノブイリを超えていることは分かっている。しかもこれは1,2,3号機だけの控えめの数字で発表しているのであり、4号機の分ははいっていないし海への放出分も全く入っていない。原発労働者が法律で決められた5ミリシーベルトを被曝基準にしているのに内部被曝の食品基準は年間20ミリシーベルトを想定している。子どもたちは外部被曝0,内部被曝20、こんな国で子供を育てることが出来るのか!世界の人に知ってもらいたい!

・公共施設を中心に公務員たちが国の予算で除染しているのに、個人の商店や家はなんの補償もない。それが日本の国の国民にたいする優しさ。経済的に強いものを生かして、経済的に弱い国民を殺している。

・日本は長い間キングとエンペラーに治められてきた。市民という意識が薄い。可愛い子にむかって“お国のために命を差し出すこと”を親も教員も教えてきた。今現実にどうなっているかを知らせない政府は戦時中の大本営と同じだ。国のために我慢するのは当然だ。反抗したり自分の考えを言ってはいけない。そういう考えが市、県という行政、国という組織もベースにそういう雰囲気を持っている。

・南相馬のミスター・サクライは従業員で仕事をやらせたい。一日100万以上をかけながら、子供を遠くに運んでいる、企業家の圧力が市長を押して子供がここに連れて来られている。子供は犠牲者だ。

真実は隠される、政府は国民を守らない。大惨事はまだ終わっていない。福島県民が核実験の材料になった。大量の核廃棄物が残される。大きな犠牲を払ったにもかかわらず原子力発電を支持する勢力がはびこっている。私たちは見捨てられた。そして一人ひとりの国民が政府と東京電力の責任を問い原発はいらないと声をあげている。何気なくコンセントをつないだ向こう側の世界を想像しないといけない。便利さや繁栄が誰かの差別や犠牲のもとに成り立っていると。

・もう日本を救うには、福島の子供を救うには国際世論しか無い。今逃がさないで子どもたちに帰って来いと言っている。これは殺人行為だ。

D

HP http://survivingjapanmovie.com/

2013-03-10 『桐島、部活やめるってよ』2012年度版“桜の園”って感じではあるが

[]『桐島、部活やめるってよ』

・やはりこれは現代版「櫻の園」という感じだな。それも女子だけではなく、男子も含めた。

・「櫻の園」をイイ意味で真似た。コピーしたー映画という感じがアリアリなのだ、だがモノマネしただけではなく、技術的な面や登場人物男女の口には出さない感情を巧く映像で伝えようとする部分がなかなかいい。

・「櫻の園」をベースにしてそれを監督なりに咀嚼、消化して現代風に上手に変更し、昇華させている。だからこれは単なるモノ真似ではなく、高品位なオマージュと言える。

・悪くはない。しかし、決定的に言えることは、だらだらしていて詰まらないということ。じっくりと恋愛お伽話に浸りたい、ぼんやりとした世界の中にぼ〜っと漂って感傷に浸っていたいという向きにはいいかもしれないが、映画としての面白さはない。映画ヲタが「あそこがいい、これがいい」と仲間内で議論しあう、狭い範囲の仲間だけで自己満足して楽しむような映画。そういう人向きの映画。

・映画自体かなりヲタな内容を入れているし。

・ゴメンってセリフが多発・・・というか最近の映画、高校生とか若いのを扱った映画ではこのゴメンが多発しすぎてる。なんにつけゴメン、ゴメンと大して謝る気持ちもないのにゴメンと言ってる、そういうセリフを書いている。おかしくないか?

・大後寿々花がイイな。この娘は本当の女優になるだろう。

・これが2012年の日本アカデミー賞で最優秀作品賞をとったというのは、単に映画ヲタな選考者たちが映画ヲタな映画にマニアックな映画ヲタ魂を刺激されてヨシヨシと言った結果によるものだろう。

2013-01-30 『コクリコ坂から』

[]『コクリコ坂から』(2011)


人間の輪郭を描いている黒い線が太すぎる。(と、感じるんだがどうなん?)

・絵に柔らかさがない。奥行きがない。実物感がない。セルに描いている平面的な絵そのものであり、動画的な躍動感がない。なぜだ___そこが親父との大きな違いか?

・宮崎駿のアニメは、アニメだけど登場人物に人間っぽさを感じることができてたんだな、温かさとか柔らかさとかそういう肌感覚もあった。それが子供向けの紙芝居みたいなピラピラ絵が動くアニメとは違うなぁと思った。だけど、この「コクリコ坂から」はそのピラピラ・アニメなのだ。もちろん好みという点もあるだろうが、同じスタジオで、たぶん同じアニメーターやスタッフが作っているアニメーション映画でありながら、監督が異なると何故にここまで絵が持つ雰囲気、温度感、ぬくもり感、人間味、肌感覚が違ってくるのか・・・不思議だ。いや、監督が違えば撮影するカメラマンが同じでも絵はまるで違うものになる、アニメも同じということか。映画というものにおいて如何に監督という存在が大きく影響しているかということなのだろう。


手嶌葵「さよならの夏 〜コクリコ坂から〜」この歌は最高にいいんだけどなぁ。

2013-01-17 『わたし出すわ』駄目駄目

[]『わたし出すわ』(2009)

・なんだかなぁ〜〜〜雇われ監督ばかりやっていて自分独自の映画をしばらく撮っていないから、なにか作家性だとか監督の独自性だとかを無理やり出そうとして撮ったような作品に思える。

・なんだかなぁ〜〜〜途中まで観て、これってこのあと信じられない超常現象とかカルトチックな摩訶不思議な能力をもった得体の知れないものが出てきてサスペンス・ホラーみたいになるんじゃないのか?黒沢清の亜流みたいな作品になるのか? と思ったらそんなところには行かずなんだかよく分からない、グズグズしてもやもやして全然意味不明の終わり方になってしまっているし。そこに何か伝えたいものがあったとしてもこんなわけの分からない映画にしなくてもいいだろうという気持ちになる。

・一体何のために何を考えてこんな映画撮ったんだろう。晩年の監督はいい加減あてがわれた映画ばかリ撮っているのが嫌になって、なにか特徴のある、なにか特別に思われる、なにかタダの監督ではない、なにか異色の、そんな作品を撮りたくなった、残したくなった・・・のだろうか?

・でもなぁ、こんなのではなぁ、こんなわけの分からぬ映画を取るなら、もっともっと他の手があっただろうに、なんて思ってしまうのだ。

・森田芳光は一体なにを考え、なにをしようとしていたのか。

・無理にこじつけたり無理に深読みしようとすれば、なんとでも言える、あーとでもこーとでも言える。それはどんなクダラナイ作品でも同じだ。みょうに分かりにくく作って、みょうにもったいぶって作って、うらになにかあるような、裏になにか信念や思想があるような、そんな作品というのもあるが、そういう思わせぶりは・・・しらけるのだな。ケッって感じなのだ

・「わたし出すわ」って変なタイトルも、なんかシモネタに繋いでいるのかと思ったが、タイトルもまったくもって駄目駄目。

・39 刑法第三十九条(1999年)

海猫(2004年)

間宮兄弟(2006年)- 監督・脚本

サウスバウンド(2007年)- 監督・脚本

椿三十郎(2007年)

わたし出すわ(2009年)- 監督・脚本

武士の家計簿(2010年)

僕達急行 A列車で行こう(2012年)- 監督・脚本

こうして見ると『39』以降は全部溜息のでるようなものばかりだった・・・

2013-01-12 「洋菓子店 コアンドル』予想外にしっかりしてる。

LACROIX2013-01-12

[]「洋菓子店 コアンドル』(2011)

・ふん、またこんな映画。と思っていたが、絵が思ったよりいいな。態とらしい光、態とらしい作りなんだが、手だけは込んでる。つまりテキトーなことをしていない。監督や美術の目が隅まで届いている。ライティングはいかにもという感じで態とらしいんだが、それでも何も考えていないような絵よりはよっぽどいい。考えて絵を作ってるというのが分かるからそれだけでちょっと褒めたくなる。

テキトーなことをしていないというのは映画の基本中の基本なんだよなと改めて思う。テキトーなやっつけデタラメな邦画、撮影、映像、画面というのがもううんざりするほど溢れてるから。最初の5分を観ただけで「こりゃだめだな、考えてない。いい加減につくってる」と分かる映画が多すぎるから。

蒼井優は1985生まれということだから、撮影当時は25歳位か?なんか若いような老けてるような???

グルメブームの中、「かもめ食堂」で料理映画が思った以上にヒットすると分かったら、その後はTVも映画も高級料理じゃなくて手に届く範囲のお料理を題材にした”プチグルメ”作品を連発。「南極料理人」「ホノカアボーイ」「食堂かたつむり」・・・・と、料理研究家なんかをアドバイザーにしてお料理レシピみたいな

記憶にあるだけでも「かもめ食堂」と「めがね」は良かったが、その後は・・・

で、またしても人気女優を使って都会のOLの癒し願望狙いの映画かい!と思っていたのだが、これはまんざらでもなく良かった。脚本ストーリーは可もなく不可もなく。アホPや監督、脚本家があざとく混ぜ込んだウケないウケ狙いのどうしょうもない演出やバカらしい挿話も本筋ではあまり目立たないし。(交通事故の話は邪魔、余計、この映画最大のマイナス点だが)まあなにより映画としての質が良い。カメラ、照明、演出、演技がしっかり”映画”しているからいいんだな、コレは。蒼井優の演技で引っ張っている部分も大きいといえるが、流行りモノを撮って安直に安牌なヒットを狙って映画を作っているんじゃないんだというのが画面から感じるんだな。上っ面だけ、どっかで見たような絵を貼りあわせてテキトーに映画を予算内で時間内で仕上げて作ってるんじゃなくて、この監督やスタッフが”いい作品を作りたい”って熱意、情熱を持って、傾けて、頑張って作っている感じがこの映画にあるんだな。つまり作品に心がこもっている。監督からカメラ、スタッフたち多くの魂がしっかり入っている。そんな感じがするからこの作品はとてもイイ感じなのだ。そこんところが「ホノカアボーイ」「食堂かたつむり」なんかとは大きく違うのだな。

蒼井優の使い方も江口のり子の使い方も実に巧い。二人の役者の個性のいいとこをちゃんと引っ張りだしてる。この役者にはこういう演技させるといいんだってところをきちんと見定めて演出してる。いいじゃん。

http://www.coin-de-rue-movie.com/

f:id:LACROIX:20130115101922j:image:w272f:id:LACROIX:20130115101921j:image:w339

2012-11-23 『愛と誠』最低最悪の原作冒涜映画

[]『愛と誠』

この映画はどこに、誰に向けたんだろう? いや、そんな誰かをとか何かをとかどうゆう世代とか、そういう特定のターゲットを考えて、いわゆるマーケティングをして撮ったというんじゃなくて、企画が上がってきた段階で三池が自分の好き勝手にやったという映画だろうな。

1970年代の学生運動やら歌やら、あれこれ映画のなかで描かれている雰囲気は原作を読んだり70年代の映画を観ていた人には懐かしさもあるのだろうが、それが感傷を引き出すものではない。ぜんぶオチャラケで使っているのだから。

「あの素晴らしい愛をもう一度」を唄う武井咲がじつにいい。古臭くホントに70年代の雰囲気というべき。

漫画の原作者である梶原一騎は・・・確かにこれじゃ泣いてるかもな。いや、ここまでやってるなら許してるか? いやーここまでの原作無視の改変は許さなかっただろうな。梶原一騎にして観たら自分が血肉を削って創作した作品がまったく別物のギャグに変えらてしまっているんだから。どっちにしても原作が描こうとしていたことはこの映画には全くないし、原作が描こうとしていたこともまったくない。原作の登場人物と設定のほんの一部だけを拝借して作った全く別物のお話であり映画。ある意味製作サイド、プロデューサーなんかは「もう原作者死んでるんだから文句もいわれないよ、いいよいいよやっちまえ、死人に口ナシさぁ」ってとこだったのかと邪推する。

言ってみればこれも原作冒涜、原作レイプなんて言われる類い映画と同列であり、これほど酷い原作レイプもいまだかってないだろうが、それがどうしょうもない低レベルの作品ではなく別物映画として見事に変わっているのだから、原作のレイプではなく原作の思いっきり改変、デフォルメ、ちゃかし、おふざけ、コメディー化というべき。だが、原作漫画を愛読したり、1970年代の映画に熱中した世代からすれば、やはり原作レイプだろうな。それともこういう感じならそういう人達もこの作品を許せるのかな?

観ている途中までは「ある意味ここまで原作をデフォルメして、こんなトンデモ・ギャグ映画にしてしまっうんだから、別の意味で傑作かもしれないな」なんて思っていたのだが、段々とその気持に陰りがでてくる。なんかヘンだぞ、なんかこれオカシイぞと。そして気が付いたのだが、ようするにこれはなんなのかというと、TVでその昔のたけし軍団とか漫才コンビとか、とんねるずとか、今ならナイナイとかが悪辣なギャグ番組のなかでなんでもかんでもコケにしてチャカしてお笑いをとっていたあの番組のノリなのだ。話題になっているものを真面目だろうが真実だろうが、悲劇だろうがなんだろうが全部チャカしてコケにして笑いをとっていたあのテレビ番組のノリで2時間14分もの長いこと映像を繋げ続けたそういう映画なのだなと、


最初はこのデフォルメの強烈さに驚き、すごいなと興味津々に観ていたが、だんだんとくだらないギャグレベルだなと目を細めていく。1時間半辺りまで見てもうなんだかうんざりして流し見。ラストは原作っぽく”愛”にしてはいるが・・・これで134分とは・・・愚作。

原作もなんにも知らない人にとっては、はち切れた風変わりなへんてこギャグ映画。原作を知っている人、原作を愛してる、原作に思い入れのある人にとっては最低最悪の原作冒涜映画となるだろう。

2012-10-10 『アウトレイジ』暴力団のわらしべ長者物語。

[]『アウトレイジ』(2010)

・見終わって一呼吸して、「で、それで、なんなの?」と思った瞬間にすべてが霧散して蒸発して薄れて消えてしまう映画・・・・・・その内容、話、そういう作品。

・暴力団のわらしべ長者物語か?(悪い意味で)。

・兄貴だ、親分だ、師弟だ、契だ・・・言っといて、こっちで裏切り、こっちで騙して利を自分のものにしたいという我欲で人殺しをする物語。

・キャスティングは巧い。カメラも巧い。編集も巧い。つまらなくはないです・・・だけど!それだけ。なにも残らない、何も思わない。感動も感激も感心も、無い。

・たけし映画は嫌い!とここの日記では過去に書いてきたが、この「アウトレイジ」に至っては、嫌いと言う前にどうでもいいという感じだ。

・この映画は何を目的に作られたんだろう、なにを目的として作られたんだろう。人間の悪の業の深さ? いや、そんなドロドロしたところまで手は伸びていない。この映画の中の悪はおちゃらけでお笑い含みで描かれている。本当の人間の悪性だとか動物的な残虐さというところまで手は伸ばしていないし、伸ばそうとも描こうともしていない。

・却って昔の作品の方が、人間的な悪や残虐性、人間の闇の部分に手を伸ばしそれを描こうとしていた。だが、この「アウトレイジ」ではそういった部分は感じられない、そういったことをやっている振りをしつつ、実のところ描くのが難しく、描けばやっかいになるそういった部分を避けている。そういう部分を描かないということは、良い悪い、好き嫌いは別にして、たけし映画の、たけし監督らしさというのが無くなっているということだ。(そんなもん無くてもいいんだけど)

・そして、この映画は映画としての娯楽、エンターテイメントの方に大きく舵を切ってそっち志向で作られている。ウケ狙い、大衆迎合的に舵を切っているとも言える。ただしだ、そのウケ狙い、娯楽志向のネタが最悪なのだ

・いうなればこの「アウトレイジ」は”人殺しエンターテイメント”と言えるだろう。次から次へと騙して、裏切って人を殺すのをエンタメ化しているのだ、娯楽作品にしようと使っている道具が”人殺し”なのだ

・だから、相変わらずをして”下の下”なのだ

・その上さらに、映画に中身といえるようなものが全く無い。はい、こいつを殺して、こいつを騙して、またそいつを殺して、うははと思ったら殺されて、それでオシマイ。人殺しを描いてるだけの物語。

・だから、「で、それで?」と思った瞬間に全部消えてしまう。そういう映画。