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2017-12-22 『スターウォーズ/最期のジェダイ』完成度は高い、だけど何かが違う

[]『スターウォーズ/最期のジェダイ

☆☆ネタバレあり☆☆

・待ちに待ったスターウォーズ EP8の公開! 事前の情報予告編などから想像していたことはすべていい意味でひっくり返され、期待にそぐわぬ素晴らしい作品に2時間33分スターウォーズの世界にどっぷり浸かって、物語を堪能! 目の前のスクリーンのなかで片時の別世界を味わえた。文句なしの満点だ、100点満点、映画映像としても極めてハイレベルなところに達している。人が絵をどうみたら、どういう角度でどういう配置で並べたら最も効果的に臨場感や恐怖感を味わえるかという点も極限まで計算されていると言えるだろう。そのくらい映画としてのできが良い。・・・だが、観終えて時間が立つに連れて・・・気持ちが少しずつ変化してくる。確かに素晴らしい映像、脚本の作品だ、だがそれ以上のなにか、満点を超える何かが無いかもしれないと。

・脚本は練に練られている。物語の整合性に疑問がでないように、きっちりとした話の理由付けが明確になされていて「あれ?」とか「ここおかしいんじゃない?」と観ていて思うようなところはほぼなかった。」(後から何点か思いつくところが出てきたが) ストーリーの流れもほとんどひっかりがなくスムーズだ。上映中も上映が終わっても「うーん、これは隅々まで感覚が行き届いた実にクオリティーの高い映画だ」「拾にスキがない、なんて密度が高く、がっしりと四ツに構えた映像の集合体なんだろう」とほぼ陶酔状態だったのだが・・・しばらくすると、だんだんと魔術が解けてくるように何かが足りない気持ちが沸き上がってきた。

とりあえず一回観ただけなので記憶が不確かだったり、間違えてとらえてしまっているところもあるかもしれないが、気になるところを、気に入った所を羅列しておくとしよう。

☆《ヨーダの造形に泣けた!》

前作『フォースの覚醒』では監督エイブラハムがSW過去作へのオマージュ、回顧に走りすぎているという批判があったが、長らくのスターウォーズ・ファンとしてはそれはそれでワクワクドキドキしてとても良かった。ハン・ソロチューバッカがミレニアム・ファルコンに戻ってくるシーンは感涙ものだったし。崩れ落ちたスターデストロイヤーや、AT-ATスノーウォーカーが画面に出てくるたびに歓喜した。

《 2015-12-22日記 『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』SWファンにとって最高の傑作 》

今作では前作で批判も受けた懐古主義的な部分は少なくなっているという話を聞いていたが・・・なんのなんの、所々にファンなら喜ぶ旧作SWのセリフや映像がさりげなく散りばめられていて、なかなか憎い作りであった。そんな中で1番良かったのはヨーダの登場シーン。CGIの技術は格段に進歩していて、もはやどんな映像でも作れないものはないという状態であるのに、今回のヨーダ−はなんとその最先端のCGIで「エピソード帝国の逆襲」に出てきたマペットのヨーダ−を復活させているとは・・・監督たちのこのこだわり、この意識には敬服するね。作品の時系列を合わせる意味でもヨーダはEP4-6よりもさらに年齢を重ねているのは分かるのだが、あの1970年当時のマペットの風貌、動きをそのままに再現させているとは・・・お見逸れしました。EP5そのままに、杖をつきながらよちよち歩きをするヨーダ。新三部作のEP1-3でありったけCGIを使ってあのピョンピョン素早く目にも止まらに速さでライトセーバーを振り回すヨーダには驚いたが、ちょっとやり過ぎという感もあった。それが今回はなんとでも動きを作れるはずのヨーダをわざわざマペットのぎこちない動きに合わせて作っている。ここにはスターウォーズへの愛を感じるなぁ。そしてヨーダがルークと並んで遠い空を見上げるシーン。見事にEP5の若きスカイウォーカーとヨーダの並んだシーンへのオマージュ。こういうところにSWファンとしては嬉しくて涙が出てしまう。

☆《完璧なまでに美しい配置》

バージョンアップしたAT-M6ウォーカーのなんともカッコよく強そうで恐怖感のあることあること。AT-ATスノーウォーカーのデザイン上の弱点、足の弱さなどを見事に取り除いてまるで強靭な猛獣の如くにしあげている。並んで登場するシーンは画角、配置ともベスト小津安二郎の人間、道具の配置へのこだわりのように、この登場シーンはそれぞれの位置関係、観客からの視点など徹底的に計算されて場の雰囲気を作り上げている。このシーンは素晴らしい絵であり写真だ。

《全然動かないスターデストロイヤー》

なんでもかんでも大きく、大きくすればいいってもんじゃないと思うが、今回の作品でメガ・スターデストロイヤーというやたら横にただ長いだけのような全長60kmとかいう設定の巨大艦船が出てきた。たしかにデカさに凄いなぁとは思うのだが、これただ浮かんでるだけ。そしてもっと悪いのは、いままでのシリーズ帝国軍の圧倒的な力の象徴でもあったスターデストロイヤーが相対的にちっちゃくなってしまって、後ろの方にこれまた浮かんでるだけ。ほぼ戦闘、攻撃にも参加してない。「なんだよ、スターデストロイヤー全然動いてないじゃないか」とスクリーンを観ながらイライラ憤り。今回の作品からファースト・オーダー・ドレッドノートなるスターデストロイヤーの2.5倍、19kmもある新艦船も出てきているということだが、メガ・スターデストロイヤーがでかすぎてこのドレッドノートもまるで目立たず。というかこういう馬鹿みたいにデカイ船をわざわざ設定しちゃったために、旧3部作のEP4冒頭で、あのスターデストロイヤーがドーンと出てくるあの巨大感にのけぞって驚いた体験がちゃかされてしまった。正直意味なしというくらい大きさだけを強調した今作品の船艦のせいで、過去の作品が持っていた素晴らしい映像体験やイメージまでもぶち壊してしまったといえるだろう。これはSWファンとして声を大にして非難する! 

《ポーグはただのおちゃらけキャラだったのか》

可愛らしい姿で公開前から注目されていたポーグ。ファルコン号でチューイと一緒にコックピットにいる映像などからも、このちっちゃくて可愛いキャラがどういう力をもっているのだろう。チューイと一緒にファルコンを操ってなにかもの凄い活躍をするのだろうか? などと想像していたら、ただ単に可愛いだけのおちゃらけキャラだった。重力がかかって窓にぎゅ〜っと押し付けられるシーンだとかは笑えたが、完全にディズニーのキャラ売り戦略の部品というだけだったとは。もうフィギアぬいぐるみを売るためだけに追加したキャラという魂胆がミエミエでどうしょうもない。それとも次回作でなにか活躍するシーンでも加えられるのかな? そうでないとあざとすぎるもんな、このキャラは。それでもイウォークやジャージャービンクスよりは良いって? 確かにそうか・・・・(-_-;)

《スターウォーズに燃料切れの話はダメダメだろう》

宇宙の話はねぇ、色々あるけけど、それをやっちゃいけない、それは当然のこととして受け入れた上で観てないとどうしても辻褄合わなくなる部分は出てくる。1番はっきりしてるのは爆発の音。宇宙じゃ音しないでしょ、ドーッカーンとかね。でもそれは目をつぶって見てるわけだし、音がしなかったら映画としてやはりつまらない。(キューブリックは音を消したけど)、同じくこんな巨大船艦で食料はどうしてるの、水はどうしてるの、空気は・・・そして燃料は?? イオンエンジンは、ハイパースペースドライブは・・・いろいろ未来の技術が開発されて現実世界のように燃料に煩わされることはほぼなくなっているという仮定の上で宇宙物の映画をみんな見てるわけで、燃料どうしてるんだろう、こんなに飛べるはずないだろう、嘘だ!と言ってしまったら全部話が台無しになってしまう。だからそういった現実世界的な制約は取り除かれているとう仮定でSF映画はみんな観ているわけなのに・・・燃料がもちません、後何時間でなくなります・・・ていうのをストーリーにいれてしまうのは、大大大失敗、失策なのだけどねぇ。監督や脚本家はこれだけ素晴らしくまとまったストーリーを作り上げたのに、その部分は気が付かないのか? それとも話を作り上げる発想力が足りなくて、つじつま合わせで燃料不足をもちだしたのか? 何にしてもダメダメ。

ハイパードライブで敵艦に神風アタックもダメだろう》

これも、今回やっちゃったら、今までだって危機に陥ったときにただ撃ち落とされるんじゃなくて、ハイパードライブで突っ込めばスターデストロイヤーもやっつけられただろう・・・と思うよねぇ。ホルド提督がカミカゼアタックでメガ・スターデストロイヤーに突っ込み爆破するシーンは少しウルウルきたけれど。

《ハイパースペース・トラッキングシステム

ハックス将軍が「奴らに紐を付けておいた」とするハイパースペースを超えても相手を追跡出来るというシステム。これに対してフィンとローズが「奴らの追跡システムを破壊するのよ」というのが物語の大事な筋になっているのだが・・・なんで、追跡されてるって分かったら、本体の追跡システムを壊そうということになるのか? 相手の追跡システムを解除しない限り、永延に後を付けられてしまうと考えるんじゃなくて、普通に考えれば自分たちの居る船に何か追跡システムに信号を送る装置が付けられている、それを探して壊そうと考えるでしょ。つまり発振器、ビーコンがどこかにあるって考えるのが当然なんだけど。。。sらにおかしいのは、レイには居場所がわかるようにビーコンを持たせてる・・・ハイパースペース超えてルークの居る星にいってるのに?? んー、もうこういう部分でで突っ込み所満載なんだよなぁ。いや、全体的に脚本の出来は素晴らしいのだけれど、サラーッと見ていると粗にはあんまり気が付かないんだけど、よく考えると、監督や脚本家達が“よく考えていない”ところがあれこれ見えてくるんだよなぁ。大体にして30年以上前の設定となる『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』でオビワンが逃げるジャンゴ・フェットのポッドに追跡用の装置を投げつけてくっ付けるシーンがあるじゃない。てことは、ずっとまえからそういうシステムは出来ていたんじゃないの? とか言いたくなるんだよね。

コードブレイカーの話は伏線が回収されていない》

マズ・カナタがファーストオーダーの暗号破りはこの目印を探せ!といって示した花のバッジみたいなやつ。カジノでその目印を付けてた奴はあれ、誰なの? デル・トロ扮するDJが実はあの目印を付けてるやつにだまされて監獄に入れられた、というなら話もまあ繋がるが、あの目印に関しては映画のなかで結局何のお話もなし。伏線がまるっきり回収されず投げ捨てられてる状態。今回の映画公開版は上映時間153分と現状でも長尺だが、監督のライアン・ジョンソンが完成版から50分近くをカットして劇場公開版にした、未公開部分はブルーレイに収録するなんてことを言っているので、ブルーレイになったところで、あれこれつじつまの合わないところや、なんかここが変だという部分が分かってくるのかもしれない。それにしても、2時間33分もありながら話として???と疑問に思った所が何箇所かあるので、この劇場公開版はディレクターズカットじゃなく、短縮版という扱いになってしまう可能性もある。ロード・オブ・ザ・リングのときも同じようなことやってたな。これもソフトを売るためのあざとさに思えるが。

いきなり出てきたけどマズ・カナタが「労使交渉やってるんだよ」といって銃撃戦してるのはちょっと笑った。マズ・カナタも不気味な老女じゃなく、なんかヨーダ的なウケ狙いキャラにしようとしてるのかもしれないが。

《毎度のことだがシスってあっさり殺られる》

ファーストオーダー最高指導者スノーク。フォースのダークサイドを使い手、シス。だけど・・・あっさり殺されるよなぁ。それだけ強いのに、人間の心も読めるのに・・・。真っ二つにされるというのはお約束をきちんと踏襲してるが、それにしてもなんかあっさり過ぎ。でも考えてみれば、EP1でのダース・モールもあっさり、あれぇ〜という感じで真っ二つ、いとも簡単に殺られた。ドウーク伯爵もあっさり首を落とされるし、絶対勝ち目なさそうだったパルパティーンは反応炉に突き落とされて死んじゃうわけだし、シスじゃないけどグリーパス将軍も、もの凄い強いという話だったのに、オイオイというような情けない殺られ方で死んじゃったし、スター・ウォーズに出てくる悪の皇帝やら支配者、将軍・・・なんか邪悪でもの凄い強そうな設定なのに、ぜんぶあっさり殺られてる。(ダース・ベイダーだけは例外?)ことさら今回のスノークの殺られ方って、余りに簡単すぎないか? なにが最高指導者でなにがシスなの、どこが邪悪でどこが強いの? と思わずにはいられない。

《レイは一体どうして強いフォースを持っているのか》

カイロ・レンがダークサイドに堕ちるきっかけとなった話は巧く出来ていた。ルークがその原因だったとはかなりの驚きであり衝撃的であった。しかしなぁ、ダース・ベイダーの息子であるルーク、双子の娘の子だから孫にあたるベンことカイロ・レンで、カイロ・レンがルークを押しのけてジェダイ寺院を崩壊させるほどのフォースを持っていると言うのはイマイチ納得がいかない。母親であるレイアがダース・ベイダーの娘なのだからスカイウォーカー家の血筋を引いているとしても、母親も父親であるハン・ソロもジェダイにはならなかったし、レイアのフォースが特に強かったというわけでもないんだが。そしてそれ以上になぜレイは他のだれよりも強いフォースを持っているのか? この点に関してはなんら答えが示されていない。レンとレイの会話ではレイが両親から見捨てられたただの娘だという話レイがするわけだが。カイロ・レンとレイの会話のシーンです。カイロ・レンがレイに「お前の両親は何者でもなく、ジャクーでガラクタを回収していた夫婦ですでに死んでいる。お前は見捨てられたのだ」と衝撃の事実が告げられたが、じゃあなんでレイはあんなに強烈なフォースを持っているのか? 

《ハン・ソロは本当に死んだのか?》

これもまたレンとレイの会話でだが、レイが「あなたは父親を殺したのよ」と言ったところでレンが「本当にそうおもうのか」というようなことを言っていた。ん??? 確かに「フォースの覚醒」でハン・ソロはライトセーバーで体を射抜かれ、船艦の底へと落ちていくのだが、実際に死んだ様子の描写は一切なし。葬式もなし。でもレイア将軍が夫であるソロの死を感じたような部分はあった。でも完全に死んだという描写はなかった・・・さてここもどうなるのか?

《ルークのホログラムはダメでしょ》

もうさぁ、あれをやったらなんだってオッケーになってしまうじゃない。( ´Д`)=3 それとラストレジスタンスの指輪を付けた子供がフォースを使うような場面があり、次回作への希望につながっていくようなシーンがあるが、なんかこれもわざとらしく、よくよく使われてきたような子供っぽいシーン。まるでディズニーの子供向け冒険物語的な終わり方だ。

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と、ここまで書いてきたら、否定的な所感ばかりになってしまった。この作品を観終えたときには「凄い完成度だ、スキがない、凄い映像だ」と溜息を付くほどにどっぷりスターウォーズの世界に取り込まれ、凄い凄いと感嘆し、かなりの満足感に浸っていたのだが・・・時間が立つに連れて、いろいろなシーンを振り返って考えるに連れて、どんどんと疑問や不満、納得の行かないところが出てきた。

映画の完成度は高い、でも何かスターウオーズ的でない変なものを感じる。商業主義、ディズニーの金儲けの道具的になった部分も大いに感じる。少なくともこれは絶対に言えることだが・・・

「帝国の逆襲」を超える最高傑作!・・・というのは違うな。

当初に予想していた展開は見事にほとんど外れた。カイロ・レンがまるで母親であるレイア将軍を攻撃するかのような予告編の作りや、ポスターで示されたダークサイドに落ちたようなルークの姿も、言ってみれば全部ブラフでありあったな。まるで思っていたこととは違った驚きの展開だったし。でも、その驚きとスター・ウォーズでこれまで感じてきた驚きはちょっと違う。やはり「帝国の逆襲」での「私はお前の父親だ」に勝る驚き、衝撃は無い。自分が映画に求めているものの一つである「やったー!」という爽快感、感動、気持ちよさというものは残念ながらなかったといえるだろう。改めて思い起こすと今までのスター・ウォーズ・シリーズのテイスト、雰囲気から少し違う方向に映画が向きを変えている感じがする。それが次のエピソード9でどうなるか? 新たな3部作まで作られるということなので、ディズニーにしてみればスター・ウォーズはやはり最大のドル箱であろう。

公開から今日で一週間。アチコチに書かれている考察、感想、批判、賞賛などを読んでいると、一回の観賞では分からなかった、とらえきれなかった細かな部分を色々と説明してくれているサイトも多々あり、凄いなぁと思う次第。もう少しあちこち読んだり見たりしてから、年内にもう一回観賞しようかなと考えているところ。但し、普通なら二回目は日本語吹き替え版で観賞するのだが、日本語の予告編やCMなどで観るとどうも今回の吹き替えはレイの声にしても喋り方にしてもなんとも軽薄で脱力してしまう雰囲気なので、二回目も字幕で見るかもしれないな。

2017-11-28 『ジャスティス・リーグ』面白くはあるが、迷走してる。残念!

[]『ジャスティス・リーグ

・『ワンダーウーマン』がなかなか以上に良かったので、DCのヒーローシリーズであるこの『ジャスティス・リーグ』にはかなり期待していた・・・のだが・・・まあ、そこそこに面白いけれど、ちょっと期待しすぎたな。この手の映画に一番に期待する「やったぜ」「サイコー」といった爽快感、満足感というものは、いまひとつというところ。期待しすぎた分だけちとガッカリ。

・出だしからなんとも暗〜い歌詞の歌が淡々とながれる、なんだかこの世にはもう希望も何もない、諦めろ、悪が支配てしまってるんだ、とか言う感じの歌で「ん〜、なんだこれはダークナイトクリストファー・ノーラン趣味をジャスティス・リーグでも真似てるのか、違うだろう、こっちはもっと明るくカッコよく行かなくてはだめだろうと、なにか作品の方向性に疑問が湧く。

・しかし、そのドーンと暗い出だしが終わると、なぜか今度はユーモアジョーク混じりの展開に変わる。んー、なんか脚本が迷走している感じ、これは嫌な予感。

・脚本の教科書みたいなものには、よく「主人公葛藤を描け、人間の深みを描け、そこに観客は惹かれるのだ」とか書いてあるものなのだが、なんだかそういった教科書の杓子定規な教えにしたがって、一人ひとりに無理やり妙な葛藤を組み入れている風でもある。サイボーグはなんで俺をこんなからだにした〜と親父にぶーたれてるし、フラッシュのお兄さんの件とか、アクアマンの王との確執だとか、そしてさらにはワンダーウーマンに「私は昔、愛している人がいた。ずっと・・・」なんて言わせて、バットマンに「何百年もそんなことに縛られて生きてる奴なんか」と、吐き捨てられたり。この辺は前二作に続いて、ダークナイトの成功に少しでもしがみつきたい、あのシリアスな脚本になんとか似せれば当たるかも?なんていう意識が相当に根っこを張っているんではないだろうか。

・もう、コミック映画なんだからそんなシリアスな裏話なんていらない。スカッと面白く話をつなげてくれればいいものを、どれもこれも取って付けたように話の中にポツン、ポツンと挿入しているし。テンポを崩して足踏みさせて、ストーリー展開のリズムをぶちこわしてしまっている。特にワンダーウーマンなんてそんなドロドロ怨念じみた女性の内面なんか付け加えないで、思いっきりバサッと敵をやっつける痛快さを徹底して描けばいいものを・・・至極残念。

アマゾン部族の島にドスンと降りてきたステッペン・ウルフ、凄い重量感で「お、こいつは強そう」と思うわけだが・・・いや、実際にかなり強い! でも、このステッペン・ウルフの顔に全然怖さがない。そんな強力なダークサイド悪魔の親玉みたいなやつなのに、なんか全然恐怖感が湧いてこない。顔がね、顔がシワクチャ年寄りって言う感じだから、全然強そうに見えないし、怖さがないんだよねぇ。観客恐怖心をもたせるくらいのキャラにしないとだめでしょ。最期はなんかパラデーモンに食いつかれてウギャーなんて叫んでるしさぁ。

・そうそう、アマゾン部族の女王が馬の下敷きになってうごけなくてウーンウーンっていうのも変。あれだけ強い戦士だったのに。本来なら足で馬を宙に蹴り上げてしまうくらいじゃなきゃおかしい。

・そういった首を傾げるような登場人物の描き方に、観ていて不満タラタラであったが、流石にスーパーマンの部分はカッコイイし、ちょっと涙ウルウルくるいい話。最終兵器を出せ!ってロイスを引っ張ってくるあたりはもうあまりに予定調和的に想像できてしまうが、ロイスを見て荒れ狂うこころが落ち着きを取り戻すってのはイイね。(でもキューブを使ってスーパーマンを再生するくだりはなんかチャラいし無理がある)

・と、まあ気に食わないところばかり羅列してしまっているが、一先ず一本の映画としてはそこそこに楽しめはする。ワンダーウーマンがかなり以上にいい出来栄えで、大満足だったので、ジャスティス・リーグにもかなり期待したのだが、その期待にはかなり及ばなかった。

・「マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)」も次から次へと出てきて、話を追いかけるのば面倒くさくなってきてるし。(お次のブラックパンサーはどうよ??)、「DCエクステンデッド・ユニバース」は第一作、第二作と失敗して、ワンダーウーマンでドンと花火が打ち上がったが、今回のジャスティス・リーグを観ると、今後の展開もごちゃごちゃDCと同じように面倒くさくなりそうだな。

アメコミファンってわけでもないし、逐一細かな設定まで追いかけてるようなオタクでないかぎり、段々と話がわけわからなくなってくるから、今後のこういったシリーズは横目でチラチラ観ている程度でいいかも。

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予告編で使われていた「あなたを待っていました」っていうシーン。あれはカッコよかったんだけど、本編ではそのあたりが全部カットになっていた。んー、残念、またソフトにしたときに未公開シーンとかディレクターズカットとかで出すつもりなのかね?

ブルース・ウェインがアクアマンに「お前って、あれ、触手みたいなもの出せるのか?」とか聞いた後に、ジャスティス・リーグの5人が地下のようなところに集まって雑談みたいなことをしているシーンがあったが、そこでアクアマンが、1人でべちゃくちゃ喋ってるシーンがあり、その後になんだかウーンウーンとトイレで気張っているようなことをして・・・すると次に光るムチが出てきてそれをワンダーウーマンに渡す。アクアマンはフラッシュに「黙ってろよ」なんていう一連のシーンがあったのだが、なにかコミックでこういうエピソードでもあるのかな? どうもアクアマンがウ◯チみたいにムチを体から絞り出してるような雰囲気でもあったな。w アクアマンが喋ってるシーンは上半身だけ映してて下の方はなにやってるのかわからないし、ひょっとしてカットされたのかもしれないけど・・・あそこ、疑問。

日本のCMは酷いね。ワンダーウーマンのときも女性のカッコよさを出すんじゃなく、ギャグ路線で予告編作って外してるなぁと思ったが、今回のジャスティス・リーグの予告編もワンダーウーマンのへんてこな顔とか仕草をわざわざ集め、ナレーションも採用!採用!って、どんだけセンスのないトレーラー作ってるんだよ日本は、と呆れ返るね。なんでワンダーウーマンがこれだけヒットしたのかってところが全く考えられていないじゃないのかね。女性ヒロインの最高のカッコよさ、強さが人を惹きつけた最大の要素なのに、それとは逆にギャグ、コケティッシュおちゃらけ、そんなもので宣伝打ってる。そして同じことをジャスティス・リーグでもやってる。どうしょうもない

☆スーパーマンは流石にカッコいいが、やっぱり映画の中ではワンダーウーマンが光ってるな、あの変な過去の告白シーンはいらないけど。

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2017-09-02 『ワンダーウーマン』かなりカッコイイ!!予想以上に楽しめた!良作

LACROIX2017-09-02

[]『ワンダーウーマン

●どうにも「スーパーガール」とか「キャット・ウーマン」とか女性主人公アメコミ映画はなんかいまひとつという印象があって、アメリカで大大ヒットということだが、ホント? どうなるかな? とちょっと疑いの目を向けつつ観た。しかし予想を超える面白さで、これはなかなかに良かったね。

●時代背景が第一次世界大戦の頃というので、うっそ、あんな格好したワンダーウーマンがそんなところに入ってきたら、メチャ違和感バリバリで、もう全然合わないでしょう・・・という予想もしっかりひっくり返された。あのアマゾネスの格好をしてドイツとイギリスの戦闘シーンにとびこんできても、まったく変な感じがせず見ることが出来た。

●映画の作りが非常に巧いね。

●正直なところ、このワンダーウーマンの役をキャプテン・アメリカやマイティー・ソーに置き換えたら、まあそれはそれで通用する似たような映画になるだろうなとは思った。ピョンピョン飛び跳ねて盾で銃撃よけて、もの凄い力で戦車をひっくりかえすなんて、そのまんまキャプテン・アメリカとかマイティー・ソーでやりそうな映像だ。だが、だがだ。そうは思うもののやはりガル・ガドットが演じるワンダーウーマンが銃火器をはね除け、戦車だろうが悪魔だろうがぶっ飛ばされようがなにしようが再び起き上がって戦うシーンは、それが女性ということもあるだろうが、キャプテン・アメリカやマイティー・ソーが同じことをするよりもはるかにワクワクするし、ようしヤッターという気持ちになる。

●同じシーンを演じたとしても、ワンダーウーマンがやるほうがきっと胸躍るのだ。実際そうだった。

●ガル・ガドットはもう三十路過ぎてるから、たしかに美人だけれど、アップになるとちょっとオバサンが入ってるのは否めない。でもそのくらいのほうがリアリティーが出るというものかな。キャピキャピとしたアイドルチックな女性が演じてたらこのワンダーウーマンの魅力はでなかっただろうし。

脚本も設定もいかにもという感じで定番中の定番、アメコミらしい展開。だがそれが王道でもあるだろう。中盤ちょっとまだるっこしいところはあったが、ワンダーウーマンが戦うシーンは満点をやってもいいくらいワクワクしたし、応援したくなる巧い作りだった。

●相手役の男性がいまいちパッとしないところもワンダーウーマンを際立たせるには役立っていたか。それにしても最近は飛行機でバーンというケリの付け方が多いな。昔は高いところからドーンと落とすが定番だったけど。

●なんだか日本のプロモーションが乃木坂46のへんな曲つかったりして、また馬鹿らしいことやってて非難浴びてたり。日本版のポスター予告編なども、ちょっとギャグっぽいおふざけ方向に振っていて、どれもこれもダメダメじゃんという感じ。アメリカで大ヒットなのに日本での出だしがイマイチなのは、プロモーションが下手クソな上に方向を間違ってるとしか言えまい。なんとかウケ狙いで客をよぼうとしてるんだろうが、それが大いに逆引き。

アニオタとかに客層考えてこんな絵柄とコピーにしたのかね。日本版の予告編もそうだけど・・・作った連中はこの映画ホントにちゃんと見てるのかねと言いたくなる。

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●かなり真面目にカチッと作ってあるし、ワンダーウーマンという女性がかなりカッコイイんだから、おふざけウケ狙いの馬鹿げたトンチンカンプロモーションなんかせず。(実際に大失敗だとおもわれ)こんなポスターのように、超カッコイイ、女性キャラクターとして宣伝すればもっと違う結果になっていただろう。

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2016-12-16 『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』最高だったね!!

LACROIX2016-12-16

[]『ローグ・ワン/スター・ウォーズストーリー

注)ネタバレあり

・正直、ローグ・ワンには全く期待していなかった。最初のトレーラーが公開された時、主役であるジン・アーノの顔つきがなんともパッとせず、なんだか暗くて主役を務めるヒロインとしての華やかさや輝きがまったく感じられないというのが最初の印象。

監督がギャレス・エドワーズというのも“ う〜ん ”という感じだった。「あの2014年のハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』の監督。日本の怪獣映画が大好きで日本のアニメなども好きでかなりのオタクというのはまあ映画製作にはプラスかもしれないが『GODZILLA ゴジラ』は内容も出来もチャンチャラ日本の真似事から脱しておらず、ゴジラの造形にしてもこれじゃどうしょうもない。という内容だった」ギャレスが監督するとなると作品のレベルは自ずと知れるだろうという気持ちでもあった。

・しばらくすると6月頃に「ローグ・ワン」の撮り直しがディズニー・スタジオから要求されているというニュースが。ギャレス監督の描く映像があまりに暗く、スターウォーズシリーズに馴染まないとか、監督を交代するだとかそういう話も。このニュースを聞いたときは「ああ、やっぱりなぁ、そうなるか」と思った。自分もトレーラーのイメージがあまりに悪かったからだ。

・その後、追加のトレーラーやキャラクターなどが発表になっていくと、まず第一にあまりにも中国市場に媚びたキャスティングをしている点が鼻についた。まあ、かって日本市場が有力視されたときはハリウッド映画でやたら日本で売ろうという魂胆がミエミエのキャスティングが度々行われた時期もあったので、巨大市場に育った中国を無視するわけにはいかないというのはわかる。だが「ローグ・ワン」はスター・ウォーズという一連の作品の一部なのだ、単発の作品ではない。そこに作品世界の流れを無視したような金儲け主義のキャスティングや演出、脚本を入れることは作品そのものを貶める。ファンが求めているものはスター・ウォーズという一つの夢の世界なのだ。何をやってるんだディズニーは、ギャレスは・・・どうしょうもない! そんな風に思った。

登場人物が並んだビジュアルが公開された時も、え、なんだこれ!と思った。まるで日本のアニメを真似たようなキャラクターの面々。ドラゴンボールとか、そんなアニメのイメージが真っ先に浮かんだ。「ああ、ギャレスはまたこんなことやってるのか、もうだめだ」と思った。やたらどでかい甲冑を身につけたようなゴリラみたいなのは・・・なんか、どこかで見たことあるな。中国人の僧侶みたいなのも・・・んー。これはもう駄目かも・・・。

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・と、何一つ良いイメージが湧いてこないまま、ほんとに、ほんとに、まったく期待せず「まあ、一応観るだけは見ておくか」という程度の気持ちだった。

・そして映画が始まると・・・なんと、あのスターウォーズのオープニングが無い! えー、あれはスター・ウォーズ・シリーズとしては出だしに必須なのではないのか? あれがあるから、あのジャーンがあるから一気に現実の世界から映画の世界に気持ちが切り替わって映画を最高に楽しめるんじゃないか? あのオープニングを抜くなんてなんたることだ・・・と思った。

・そしてしばらく見ていると、なんだか雰囲気がこれまでのスターウォーズ・シリーズと違う。なにか奥行きのようなものが感じられない。薄っぺらな話がすすんいく。「ああ、やっぱりこれはスター・ウォーズらしさがないぞ、これは完璧な失敗作なんじゃないか」そう思えた・・・登場人物たちの演技もどうも軽薄で、重みがない。やはり売れ筋ではないあまり有名ではなない俳優でそろえたせいか、とにかくジワっとくる味のようなものがまるで感じられないのだ・・・。

・しかし、30分を過ぎた辺りからだろうか、ストーリーがムクムクと動き出してくると・・・ん、ん、ん、なんだか面白くなってきたぞ。あれ、なんか良くなってきたぞ・・・なんなんだったんだ最初のあのダメダメ感は、だんだかムチャクチャよくなってきてるじゃないか! と映画に夢中になっている自分に驚く。

・そしてラストまで突っ走る! ダメダメ映画だと思っていた自分のファーストインプレッションは杞憂に終わった。ローグ・ワン!メチャクチャに面白かった。

・いかにもアニメチックなキャラ達で、なんだか冴えない顔つきの連中ばかりだったのだけど、驚いたことにこのキャラ全員が、もの凄くイイ奴らばかりなのだ。それこそ日本のアニメっぽいとも言えるのだけど、あざといなと思っていた例のジェダ寺院の僧侶も・・・いいやつなのだ。ベルズもキャシアンも今ひとつ冴えないのだけど、でも最後にはイイ奴だなって思えるのだ。まったくダメダメなパイロットに思えたボーディ−も・・・泣けるくらいイイ。主役のジーン・アーソも、ほんと今ひとつ華がないのだけど・・・でも、やっぱりイイ奴なのだ。そしてなんといってもロボットの K-2SO が見事なまでにイイ、ひねくれキャラのイイ奴なのだ。そう、ほんとにびっくりした、ローグワンのメンバーが全員、ホントにいいやつらばかりだったのだ。まるでワンピースの仲間みたいな感じだ!

・なんだかセリフも設定も演出も、日本のアニメからかなり持ってきてるなという感じがするのだが、それが却って馴染みやすさにもなっているのかもしれない。

・まあ、もちろん色々ツッコミたいところはあるのだが、見終わった感想は、素直に「よかった、楽しかった! これはなかなかの一作だ」となった。

・ROGUE = 無法者、荒くれ者、はみ出し者・・・・俺たちはローグ・ワンだ! そうか、そうだ、なかなかカッコ良かったぞ!

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《以下完璧ネタバレなので、観終えた方のみどうぞ》

・AT-ATスノーウォーカーの描写はなかなかよかったね。脇からドカンとミサイルを食らって首をガクンと振りながらもまたこっちを向くシーンはオオといいたくなるかっこよさだった。でもやっぱりエピソード5の雪の中のシーンのほうがいいかな?

ダース・ベイダーはスターウォーズ・シリーズ全作品のなかで一番凶暴だったかも? 愛するパドメを失って、ダークサイドに落ち、パルパティーンの元で今が権力とダークサイド・フォースの力の絶世期とも言える時期だろうから、もうぶった斬り殺しまくり・・・いやはや。

スターデストロイヤーに襲いかかるXウイングの集団・・・しっかし、なんで TIEファイターが飛び出してこないんだ。スター・デストロイヤーを囲んで宇宙での戦闘機バトルをするシーンには TIEファイターとのドッグファイトが欠かせないだろう! それがいつまで経っても TIEファイターが飛び出してこなくて、Xウイングだけでスター・デストロイヤーを攻撃してる。「これはありえん」と思ってたらようやく一斉に TIEファイターが飛び出してきて戦闘本格化。オイオイ、遅すぎるぜ、TIEファイターが出てくるのがあまりに遅すぎるよギャレスさん、わかってんの?

・スター・デストロイヤーが真っ逆さまに落ちるシーンはオマージュとして最高!

・そしてだ、一番期待したシーンでもあり、一番よろこび飛び上がったシーンでもあるのだけど、改めて考えるとあれじゃ駄目だと思う、徹底的に駄目だとおもうのが、ラストだ。

・反乱軍兵士が駆けつけた部屋には、白いあの衣服を着た女性がこちらに背を向けて立っていた。そうだ、そうだ、ついにレイア姫が出てくるんだ、どうなるんだ、と振り返ったレイア姫はCGで見事に合成されたエピソード4当時の若々しいレイア姫だった。このシーンを見た時は「うひょー」っとめちゃくちゃ嬉しくなった。「フォースの覚醒」でハン・ソロチューバッカが登場したシーンにも勝る最高のシーンだ。兵士が「これは、いったいなんなんですか」とレイア姫に尋ねる。するとレイア姫は・・・・・

・最高にいいシーンだった、めちゃくちゃ胸がドキドキした。しかしだ、ちょっと思い出すと、あのシーンであのレイア姫の顔つきはないな。なんだかちょっとにやけたような顔つきで「・・・・」と言う。いや、違うだろう。本当のレイア姫ならエピソード4の冒頭で見せたような不安と悲しみ、憂いをもったような表情であるべきだ。沢山の兵士が死んで、ジェダの都市もデス・スターに破壊され多くの人が死んだ中でもたらされたアレを受け取ったならレイア姫は、深い悲しみの中であの言葉を話すだろう。それが・・・なんだか半分にやけたような顔なのだ。ようやく手に入れて嬉しそうな、そんな顔なのだ。おいおい、ギャレス! あの顔はないだろう。せっかくレイア姫を復活させたのに、なんで表情にもっと気を配らなかった、その辺がまだまだギャレスの監督としての若造ぶりなのかも、しかしスタッフにしろなんにしろ、あの表情はおかしいとすべきだろう。(ちょっと怒り)

・スター・デストロイヤーがなんかやたら真っ白で塗装をしてないプラモデルみたいなのがあったり、爆発して人やトゥルーパーが吹っ飛ぶシーンが、どれもこれもいかにもワイヤーで引っ張ってますってわかるような飛び方してたり、そしてそういうのが何度も繰り返されたり、そういう細かいとこにも気になる部分が多々あった。

・そしてまたラスト近くだが、ジーンとキャシアンの最後となるシーン・・・これってまんまディープ・インパクトじゃないか。もうちょっと工夫しろって言いたい。

・最後に、何よりも驚いたのは、いかにこのローグ・ワンがスターウオーズ・シリーズのスピンアウト作品で、一作限りの物語だとしても、まさか全員が最後に消滅してしまうとは思いもしなかった。俺たちは荒くれ者さ、ローグ・ワンさ! そういって仲間になり助けあってデス・スターの秘密を手に入れる。最初はおもっていなかったけど、ローグ・ワンの面々は本当にイイ奴ばかりだった。そのイイ奴らが全員最後には消滅してしまう物語だなんて、ちょっとそれは悲しすぎた。

・いずれにせよ、期待度ほぼゼロだったのに、この「ローグ・ワン スターウォーズ・ストーリー」はなかなかに最高の気分にさせてくれる映画だった。他のスターウオーズシリーズと色彩の並びはちょっと違うが、なんだか日本のアニメっぽくもあるが、そういう思い以上に、もの凄くいい作品、胸が高鳴り心躍る素晴らしい映画だったといえよう。

2016-07-27 『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』なにこれ?守銭奴の餌食にされた原作

[]『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』

・『シン・ゴジラ』の公開前に、昨年公開されて映画史上イチニを争う超駄作、どうしょうもない映画と評される『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』の前後編を観てみたが・・・。

・なるほど、最近の映画製作にありがちな、人気女優、俳優、アイドルをズラリと並べて出演させれば、それだけ客の入りが見込めるという作品の本質にはほとんど関係のない客寄せキャスティングの典型のような映画。個々にどれだけ人気があろうが、雁首ずらりとならべたところでその人気が累乗して重なっていくわけではない。こういう見苦しく浅ましくおぞましいまでの“雁首並べキャスティング”が行われるようになったのは『20世紀少年』あたりからだろうか。豪華キャスト勢揃い!なんて宣伝コピーじゃ動員は稼げないってことが未だにわからないのか。作品の中身、クオリティーよりも兎に角コケないように、大失敗して自分が責任とらされないようにってことで、人気者、知名度の有る者を集めよう!なんてやって、却って大ゴケを導いているってことに・・・気がついてもそれを是正できない、それが日本映画界というやつかもしれないが。

・それにしても本の酷さは有り余るほどだな。映画になにより大事なのは脚本だというのに、その脚本、物語がここまででたらめでメチャクチャじゃ誰も支持するまい。一本でまとまるような内容の作品を二本に分けて興行収入少しでも稼ごうってのも最近の邦画界のしょうもないところだが、今回の「進撃の巨人」に至っては前編が1時間38分、後編が1時間27分と・・・もうね、そこまでして観客から金を巻き上げたいのかと。前後編二本にするならどっちも2時間ものにして、内容もじっくり練り上げて、どっちを見ても充分満足というのにしろよと! 映画一本分の製作費で撮ったものを冗長に編集して2本仕立てにして鑑賞料倍にして取り上げようという魂胆があまりに酷い。

監督の樋口真嗣にしろ、脚本に顔をだした映画評論家の町山智浩にしろ、また、今回の映画化に首を出した原作者の諫山創に、この映画のラッシュでも見た時に「なんだこれ、話の整合性がなってない、筋が通ってない、わけわかんないじゃない」って思わなかったというのか。いやぁ、普通に考えたらこれだけメチャクチャな展開で「なんでこうなるの?」ってストーリーに疑問をもたないわけがない。というかもっと最初の脚本の段階で話のつながりがおかしいだろう!って気がつく。そして撮影をしている最中でも、編集をしてるさいちゅうでも、どうかんがえてもフツーにこうくるのは見ていて疑問詞が着くだろうと思うはず。少なくとも映画という世界で仕事をしている人間なら、ギョーカイの外にいる一般の観客よりもその点にかんするアンテナは敏感なはずだ。いやそうでなくてはならない。それが・・・・

・その辺の裏事情に関しては嘘か誠かは不明として、ここに詳しく書いてあった。これを読むと町山は悪くない、悪いのは樋口と渡辺と諫山だ!ってことになってしまうが。http://d.hatena.ne.jp/type-r/20150822

・結局のところ、いろんな人間がいろんなところから首を突っ込んで、自分勝手なことを主張して、エゴモロ出しにして、ひとつの作品としての全体像を誰も見ることをせず、あっちこっちをネズミがガシガシ齧ってボロボロにするように脚本と映画をボロボロにしてしまったということだろう。

・正直、樋口真嗣にはアクションシーンや特撮シーンなどの「シーンをつくる」ことにかけては秀逸だと認めてはいるが、こと物語を紡ぐということ、一本の映画として物語をまとめあげるという能力にかんしてはもうダメダメどころかゼロといってしまってもいいくらいだ。特撮に力を集中させて監督なんて大業には今後手を出さない方がいい、出すのだとしたら脚本家が綿密に組み上げた映画の設計図である脚本を一字一句修正せず、脚本のままに映画として撮り上げることだろう。残念ながらこの『進撃の巨人』においては脚本そのものが最初からダメだった上にさらに改悪が随所に繰り返され、最後には見るも無残なボロボロつぎはぎだらけで、ストーリーにリズムも一貫性もなにもない最低映画に成り下がってしまったというほかあるまい。

・最初にキャスティングのことを書いたが、一人ひとり単独で見てみると、石原さとみにあのクレイジーなトンデモキャラをやらせたのは良かった。(話としてではなく、単純に一人のキャラとしてだ)映画のなかでは浮きまくりトンデモまくりだったが、石原さとみにあの手のキャラクターがこれほどピッタリとは驚きでもあった。

・水原希子もミカサ役として映画のなかで他の登場人物と絡むと、なんだかなぁ〜という感じだが、じっと黙って何かを訴えるようなシーンで一人だけスクリーンに映っていると、なかなか味のある顔だし、顔だけで演技が出来る風でもある。顔に力があるのだな、モデルということもあるし。しかしそれが喋ったり演技をし始めると・・・ダメになる。

・サシャ役の桜庭ななみもナイス。大食のお馬鹿ちゃん的イメージが実にピッタリだが、弓を射るときはなかなかの眼力でカッコイイ。まああんまりセリフもなかったし、この娘も他と絡むシーンになると大根っぷりが出てきてしまっていたが、それでも存在感はあった。

・それに引き換え、男性のキャストは、なんだか薄っぺらで印象に残らない連中ばかり。シキシマ役の長谷川博己はいい感じかと思ったが、リンゴを食わせたり、シャンパングラス傾けたり・・・オイオイ、勘弁してくれよという演出の軽薄さが俳優の良さを台無しにしていた。

・2004年は「デビルマン」「キャシャーン」と最悪の実写映画が続いたが、10年経って悪夢は蘇り、この「進撃の巨人」の後に「テラフォーマーズ」という更に最悪の漫画実写化作品が公開されたわけで、考えてみると2015年は史上最低映画といわれる「進撃の巨人」で、その次の2016年に更に最悪といわれる「テラフォーマーズ」が続いたわけだから、去年から今年は邦画史上でも最悪の年だったのかも。まあ、その間にも「ガッチャマン」とかもあったけどね。

・そして今年2016年夏は「シン・ゴジラ」が公開される。監督の樋口真嗣は最近じゃプロモーションに一切出てこない。噂では、当初は樋口真嗣に「進撃の巨人」の監督をさせて、そのヒットの勢いで樋口の名前を広め、次に“あの「進撃の巨人」の監督である樋口真嗣最新作「シン・ゴジラ」と宣伝するつもりだったのが、あまりに「進撃の巨人」の評判がわるく酷すぎたので「シン・ゴジラ」の宣伝班は「だめだ、樋口の名前は使うな。せっかくの東宝の看板映画であるゴジラで失敗するわけにはいかん! 樋口の名前をだしたら「あの進撃の巨人を撮った監督だろう、じゃあだめじゃん」となってしまう。今後プロモーションで樋口の名前は極力伏せろ、そうだそのために総監督としてもっとオタク層に人気のある奴をもってきて樋口の名前を隠してしまえ」なーんてことになってるんじゃないだろうか。「シン・ゴジラ」の完成報告会見にも監督の樋口真嗣は顔も出さず、どこのも映らず、メディアの取材や記事も総監督庵野秀明で統一されちゃってるからね。もう明らかに樋口の名前を伏せようという意図が見えていてなんというか可哀想というか・・・監督やってるのにねぇ。

・そんなことを思いながら、進撃の巨人に出てくるあの巨大な巨人を見ていたら・・・ん、なんかに似てないか? 体の表面の奥に筋肉というか赤い肉のようなものが見えているこの造形、イメージ・・・・おいおい、シン・ゴジラも似たデザインじゃない・・・大丈夫なんだろうか? シン・ゴジラ・・・・・

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2015-12-22 『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』SWファンにとって最高の傑作

LACROIX2015-12-22

[]『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』

(注)内容について詳しい記述あり。

・観賞の後の興奮や感動がまだ冷めやらない! 思い出す度に気持ちが高ぶり興奮が蘇る。

・大スクリーンに映しだされる撃ち落とされ破壊され砂漠に埋もれている戦艦。画面が流れていくと・・・スターデストロイヤーではないか! その瞬間、今自分が長い時間をかけてついにSTAR WARSサーガの続きに辿り着いたのだと強烈に、はっきりとそして感動を持って認識する。これは紛れも無くエピソード6の続きなんだ! このたったワンシークエンスだけで頭の中がスターウオーズの世界に引きずり込まれた。そして、戦艦の瓦礫から部品を集めている少女(レイ)が一人寂しそうに食事をしているシーン。レイの背後にあるものが最初はなにか壊れたシェルターかなにかだろうと思っていたが、カメラがゆっくりと引いていくと、それがあのAT-ATスノーウォーカーが横倒しになっているものだったのだと分かる。もうこの2つのシーンだけで「やった!」「すごい!」と叫びだしたくなる、ワクワクして心臓がドクンドクンと鼓動する。エピソード4から6までに登場した宇宙船やマシンがスクリーンに現れるたびに「おーっ!」「あーっ!」といった驚きや感激の声が劇場に沸き起こる。自分も拳を握りしめて心のなかで「やった!」「おお、すごい」と同じ言葉を繰り返し叫んでいる。堪らない興奮と魂を揺さぶるような感動が体中から湧き上がり満ちてくる。感激のあまり思わず目頭に涙さえ滲みだす。こんな興奮と感動は久しぶりだ。

・素晴らしい! この映画は、この映画のスタッフはSTAR WARSファンの心を、気持ちを、期待を、望みを、その全てをしっかりと心得ている。STAR WARSのファンが何を望み、期待し、待っていたのか、そのツボを全てしっかりと押さえている。最初の十数分を観ただけなのに、既に思い始めている自分がいる。「最高だ!」「これは傑作だ!」と!

・思い出の登場人物や宇宙船の出し方も心憎いまでに巧みな演出が施されている。「こう出すのかぁ!」とその上手さに思わず嫉妬してしまうほどだ。

「こんなに上手いことやりやがって、最高じゃないか!最高すぎるじゃないか!」嬉しさの余りそんな風にさえ思ってしまうほどだ。

・なかでも断トツにカッコ良かったシーンと言えば!

ファースト・オーダーのタイ・ファイターに攻撃され、レイがフィンと共に砂漠を走って逃げるとき、前方にあった宇宙船に乗り込んで逃げようと二人が必死に走って行くのだが、その宇宙船にたどり着く前にタイ・ファイターの攻撃で宇宙船が爆破されてしまう。唖然とする二人だが、とっさにレイが叫ぶ「あっちのポンコツに逃げ込むのよ!」指差し駆けていく先には砂に突き刺さり埋もれた放置されたようなガラクタが宇宙船が・・・・だがその宇宙船の姿がすべてスクリーンに映しだされた時、胸の鼓動がドクン!と張り裂けそうなほどに高まる! そのポンコツ宇宙船は、なんと、あのミレニアム・ファルコンなんだから! もうこの演出に涙が溢れだして堪らない。最高だ! またしても「やったー!」と叫んでしまう。劇場の興奮もかなり高まってきた!

このミレニアム・ファルコンの飛び方がまたいい! 今まではどちらかというと直線的な動きが多かったファルコン号だが、レイが操縦して飛び上がると、砂漠の上を追ってくるタイ・ファイターやスターデストロイヤーの残骸を、ひらりふわりと水の中を浮く魚のごとくかわしながら飛んで行く。予告編でも使われていたが、このミレニアム・ファルコンの飛び方がとてつもなくカッコイイ、最高だ。

☆レイとフィンが乗ったミレニアム・ファルコンはタイ・ファイターの攻撃から逃げ切り、惑星ジャク−から宇宙空間へと飛び出す。ようやく逃げ切った!と安心した次の瞬間、ファルコンの操作が効かない、ロック・オンされた!と二人が気付いた時、ファルコン号は巨大な船艦の格納庫に飲み込まれていく。これは正にエピソード4の冒頭でレイア姫の乗った宇宙船がスター・デストロイヤーにロックオンされ飲み込まれていくシーンをそのもの、きっちりとあのシーンをなぞらえたものではないか! なるほど、こういうオマージュも組み込んでいるのか! と感心しつつ、心のなかでは当然、エピソード4と同様にスター・デストロイヤーから敵が乗り込んでくると予想する。レイとフィンもファースト・オーダーに見つからないようにファルコン号の地下に身を潜める。さあ、どんな奴らがファルコンに乗り込んでくるのか、カイロ・レンか、ストーム・トゥルーパーか!エピソード4になぞらえるならダースベーダーがやってくるのだから、きっとカイロ・レンが来るんじゃないか、ワクワクどきどきしながら想像が掻き立てられる・・・・そして・・・予想は数百万%の驚きでひっくり返される! 

ファルコンに乗り込んできたのは・・・! まさか! 

劇場内がざわつき、歓喜の声があちこちから沸き上がる! こんな憎い演出してくるとは! くぅなんてサイコーなんだ!なんてカッコイイんだ! ヤッタ−と声を上げて拳を振り上げたくなる。身震いがする、嬉しくて涙が目の端に滲んでくる。

We are home! 我が家だ。帰ったぞ!・・・・2015年、STAR WARSシリーズにまた新たな名台詞が生まれた!

巧い! この映画は本当に巧い! 何度も繰り返すが、この映画は、この映画の監督は、脚本家は、スタッフは、2015年の今、STAR WARSファンがどうしたら喜ぶのか、どうやったら最高に喜ばせられるか、そのツボを本当にしっかり心得ている!

☆惑星タコダナに襲来したカイロ・レンとストーム・トゥルーパーの軍に追い込まれた時、はるか向こうからけたたましい水煙を上げて何かがやってくる!「援軍だ!」というセリフの後にスクリーンいっぱいに現れるのは、あのXウィングの編隊だ! これまた何度も同じことを書いてしまうが「ウォー!やったー」と見ている側が雄叫びを上げてしまうほどのかっこよさと嬉しさだ!

☆カイロ・レンの登場の仕方も、エピソード4でのダースベイダーの登場のシーンに重ねてあるし、カイロ・レンが姿を表わす前でも、スクリーンに移ったシャトルがダースベイダーの乗っていたインペリアル・シャトルに形と気がついて、乗っているのは奴なんだとわかるようになっている。なんとも細部まで作りこまれた映画だ。

☆かっこいいシーン、劇場に歓喜の雄叫びが上がるシーン、身震いして魂が震えるようなシーンが次々と繰り出される。これはまるで豪華絢爛多種多様な料理の数々。最上級フルコースディナーか!中華満漢全席か! 最高の腕で料理された最高の料理が次から次へとスクリーンというテーブルに運ばれてくる。それがこれでもかというくらいのてんこ盛りで矢次早にだ。もう一杯だ、もうこれだけで充分に満足だ、いや、まだだ、もっともっとほしい、もっともっと味わいたい。そんな映画と言えるだろう。

・映画を観ながらこれだけワクワク・ドキドキし、次はどうなる、次は何が来る。と期待に満ち溢れ映像の世界に完全に取り込まれてしまうような作品はそうそうあるものではない。STAR WARSを初見という人や過去作を余り見ていないという人にとってはどうかわからないが・・・この《STAR WARS フォースの覚醒》はSWファンにとっては最高の、いや最高を更に超えたような、心躍り魂を揺さぶられ、感涙に咽び、涙しながら喜ぶ、傑作中の傑作と言っていいだろう。

・最初に届けられたこの特報第一弾、ファルコン号の飛ぶ姿のかっこよさに目を奪われたが、フィンが砂漠の中から画面に突如として顔を出すシーンは、これぞまさに黒澤明「隠し砦の三悪人」の冒頭シーンのオマージュ。こんな所にもこの監督のSTAR WARSとその元となった作品に対する敬意と愛を感じる。

D

・TV予告編でマズ・カナタの言っているこの言葉、

I have lived long enough to see the same eyes in different people.

I see your eyes.

I know your eyes.

わたしは充分に長く生きてきたさ、そして沢山の人のなかに同じ目を見てきたんだよ。

私はお前の目を見たことがあるよ。

私はお前の目を知っているよ。

このセリフの後にレイがアップで映しだされ、画面の中でレイの目がどこかを見上げている。

まさにレイの目を語っていると思われる繋ぎで編集している。

これを見た時に「そうか、そういうことなのか、レイはジェダイの系譜にいるんだ、レイこそがジェダイの正義を銀河で受け継ぐその人物なのだ、そういっているんだ!」と謎が解けたように納得したのだが・・・

実際に映画を観たところマズ・カナタのこの言葉はレイではなくフィンに向けられたものだったのだ。えー、なんで? と思ってしまった。どう考えたってこのマズ・カナタのセリフはなにか重大なことを言っていると思えるじゃないか。ルーク子供、新しきジェダイであるレイを指している言葉じゃないか。それなのに、この言葉はフィンに向けられたものだった。これって予告編製作でよくある本編のいいとこ取り、本編内容無視の勝手改変編集ってやつか? と憤ったのだが、いや、もっと深く考えると・・・次回作以降でやはりフィンがなにか重要な役割をすることへの暗示なのかもしれない・・・ひょっとしてフィンもフォースの強い家系の一人? んー、どうなるんだろう。

D

ヒーローであるハン・ソロが死んでしまう場面。SWシリーズの原案にはギリシャ神話から“父親殺し”がテーマとして取り入れられているということであったが、まさかこの新シリーズでソロが息子に殺されるとは予想していなかった。4,5,6の三部作がダースベーダーの贖罪ということがテーマであるともいわれているが、新しい6,7,8の三部作はカイロレンの贖罪が一つの大きなテーマとなるのだろうか? 懲罰とも考えられる右手の切り落としもまたどこかで出てくるのだろうか? それにしてもソロがあんな殺され方、死に方をするとは・・・。

・ハン・ソロの最後で更に気になることといえば、その死に方が深い深い宇宙の底に落ちていくかのように、突き落とされて消えていくという点だ。この死に方はダース・シディアスやダース・モールと全く同じではないか。我らがヒーロであるハン・ソロの死に方がダークサイドに囚われたシスと同じなのか! ここにも何か意味が込められているのか? それともこれは考え過ぎか? どちらにしろ、ハン・ソロのあの死に方は納得できないものがある。ソロはシスとはその存在が映画の中で全く違うのに・・。

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☆二回目観賞後

日本語吹替版のほうが言葉の情報量が圧倒的に多いのでストーリーの理解には役立つ。二回目をみて疑問に思っていたところもなんとなく分かってきた。

それ以上に、一回目では細かく追いかけて見ていなかったところまで字幕を追う必要がないので良く観ることが出来た。

初回ではなぜか気が付かなかったのだが、これは笑えるという面白いシーンがあった。ハン・ソロとフィンがスターキラーに侵入し、シールド装置を停止させるために考えついたのが、キャプテン・ファズマを捕まえて装置を停止させようと言う案なのだが、二人がキャプテン・ファズマを捕まえたときにフィンのセリフや表情がめちゃくちゃに面白く笑えた。

フィンとしてはトウルーパ軍下っ端の一兵卒で一番偉いファズマには絶対服従、何を言われても文句を言えない立場だったわけだが、ソロと一緒にファズマを捕まえた途端、目をキラキラ輝かせてくっきり見開いて「はっはっはー、ざまーみろコノヤロー、もうお前なんか怖くないぞ」とばかりにファズマに食って掛かっている。それを隣で見ていたハン・ソロが「おい、落ち着け」と窘めるシーンがこの映画の中では一番に笑える所だった。その後、シールドを停止させたファズマをどうしようかとハン・ソロが言うと「へっへー、このバケツ頭野郎、どうしてくれようか」とフィンがもう狂喜乱舞しながらファズマに突っかかって行く・・・いやはやまったく、その姿を見てハン・ソロは肩をおとして「どうしょうもないやつだな」と呆れているようでもある。そしてファズマをどう処理するかということで「ダストシューターに落としてしまえ」となったときの、フィンのもう嬉しくて嬉しくて堪らないような顔・・・・まるで今までイジメられてきたガキ大将に恨みを晴らしてやっつけちまうときのようなガキの顔である・・・2回目は細かい所までじっくり見ることが出来たのでこんな点にも気が付き、熱中しながら見た一回目とは違った意味でスター・ウォーズ/フォースの覚醒を楽しむことが出来た。

関連日記

2010-07-23 『ファンボーイズ』つまらない話の駄作だがSWファンは楽しめる。

2010-07-12 「STAR WARS 〜伝説は語り継がれる〜」これはおぞましい。

2010-06-28 『STAR WARS 世界の兵士たち大行進!』

2009-06-27 『STAR WARS エピソード3/シスの復讐』

2014-12-01 『インターステラ−』2014年、今年の一作はこれになる!

LACROIX2014-12-01

[]『インターステラ−』

・2時間49分 映画を映像をじわりと噛みしめるように堪能した! 素晴らしい! 久しぶりに《映画》を《観た》〚満足感〛〚充足感〛に浸れた一作。2014年ナンバーワン映画は『インターステラ−』にほぼ決まりだ。

・兎にも角にも話が面白い。難しいとも言えるが、実に巧くリズムテンポを保ちながら全く飽きる気配など感じることなく、どんどん話に引きずり込まれていく。いや、ほんとに映画の面白さ、映画ならではの映像、展開、映画そのものの素晴らしさをじっくりと味あわせてもらった、見終えた後のこれだけの充足感、満足感も久々だ。

クリストファー・ノーラン監督作品は映像は美しく素晴らしいのだが、脚本に毎回すっとんきょうとも言えるような大穴がある。致命的な欠陥というわけではないが、その一歩手前くらいのどうしょうもない話のすっ飛ばし、監督の脳内がうみだしたような超ご都合主義的な物語の運び、脚本の粗が必ずある。それがあるから「ああ、また今回もこんな超ご都合主義で登場人物に出来るはずもない不可能なことをやらせてる」「だれがどう考えたってここはおかしいだろう」というのが引っかかって、作品そのものを両手で評価するようなことが出来なかった。

・しかし、『インターステラ−』はそういった監督のご都合主義で書いたような展開はなく、科学的検証もきっちりやったであろう、しっかりとした脚本、ストーリーであった。たぶん、こういう非常に難解な科学的な内容を含む話だからきっちりと科学者、物理学者に話を検証させたという。それがあったからいつものとんでもない“大抜け”が無くなったんだろう。

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・マッド・デーモンのくだりは蛇足。あそこがなければもっと尺も切れただろう。あそこがあるせいでそれまで上品で高尚で気品のあった作品に濁りが出だ。まるで繊細で上品なお吸い物に醤油をどっぷりと掛けたようなおぞましい蛇足だ。

・星野先生の作品に似ているという指摘はネット上でもかなりでているが、これは誠にもって否定しがたい。話そのものもそうであるが、宇宙船のデザイン、惑星と宇宙船のカットなど星野先生の作品のあの場面やこの場面が目に浮かぶ。星野作品は海外でも英語に翻訳されてかなり出版されているが、それを基にしたというのは可能性はかなり高い、いや確実ではないか?

ラストで、一人惑星に辿り着いたアメリア(アン・ハサウェイ)の姿が映る。そして新型の宇宙船に乗り込み旅立つクーパーの姿も・・・アメリアはあの後、凍眠カプセルに入り、誰かが自分を見つけてくれることを信じて眠り続けるしかない、たった一人惑星に辿り着いたアメリアにはそれしか選択肢がないのだ。自分はラストに期待した・・・荒れた惑星の大地で絶望に打ちひしがれたアメリアはきっと救われるんんだと、きっとこの後、ラストではアメリアがたどり着いた惑星にクーパーが時を超えて辿り着き、アメリアの凍眠カプセルを開けるのだと、そして眠りから覚めたアメリアとクーパーの抱擁でこの映画は終わるのだと。しかしそのラストシーンはなかった。・・・・・・そうあって欲しかった。きっと星野之宣であれば、それがラストシーンとして飾られたことだろう。しかし『インターステラ−』においては、アメリアの絶望とクーパーの旅立ちで映画が終わってしまった。この映画のラストは衝撃のラストだ、だが、本当に欲しかったのは身震いし慟哭するほどの《感動のラスト》だ。本当のハッピーエンドにしてほしかった。きっとクーパーはアメリアを救い出しただろう、そういう想像は出来る。だが、この素晴らしい映画のラストは本当に素晴らしい胸がすくような、涙と感動で体中がわなわなと震え出し、男でも女でもわっと感極まって泣き出してしまうようなラストにしてほしかった。そこが悔しいくらい残念なのだ

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・事象の地平線( EVENT HORIZON )

吹き替えは秀逸。剛力彩芽は嫌いじゃないが、そんな実力も表現力も感情もだせない剛力に拙い日本語の吹き替えをさせて吹き替え版を最悪のものにしたフォックのプロメテウスみたいなお話にもならない愚挙をワーナーはとらなかったというだけで○

・天体物理学者のロミリー(デビット…ジャージー)は「自分はここで待ってブラックホールの研究をしたい」とエンデュランス号に一人残ったわけだが、アメリアとクーパーが最初の探査惑星(ブラックホールの超重力により時間軸が歪み、惑星での1時間は通常の7年分に相当すると計算されていた)から戻った時、アメリアが「何年経ったの」と尋ねると「23年だ」と答えているのだが、23年も経っているのにロミリーはちょっとヒゲを増やしただけで全然老けこんでいないというのがなんとも抜けている。

・星野之宣作品からの流用といっても過言ではあるまい。

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_☆2009-06-01 『天使と悪魔』:この映画も星野之宣作品からアイディアを取ったと思われる。


/ハンス・ジマーのサウンドは、壮大で荘厳。かってのヴァンゲリスを彷彿させる素晴らしさ。

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☆インターステラ− 批評・感想 by Lacroix

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2014-08-20 『GODZILLA ゴジラ (2014)』完璧に期待外れ、ガメラ対ギャオスか

[]『GODZILLA ゴジラ(2014)』

・これじゃムトーさんが主役じゃないの?

・ゴジラが全然怖くない。おそろしさもない。凶悪でも凶暴でもない・・・おっきな猫か? ゴジラの意思が全然感じられない。

脚本は正直言って低レベル。あれこれお話を継ぎ合わせただけで、一本の物語として完成していない。もっとキツく言えば、なにがなんだかメタクソ状態の本からできた映画

・なんなんだ、このお話は・・・少し日本の怪獣映画を観てる人なら、この第二弾ハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』のストーリーに ”ん?なんかあれそっくりじゃん” と思うところがあるだろう。そう、平成ガメラの第一話 1995年『ガメラ 大怪獣空中決戦』にプロットの元となる設定が似すぎでしょ。ムトーさんはギャオスだし、そのムトーさんをやっつけに古代から生きていた生物が蘇ったって、平成ガメラ対ギャオスの戦いをGODZILLA 対 ムトーさんに置き換えたって、もうそのまんまじゃない。なんたる粗製ストーリーだっての。観ていてだんだん呆れてきた。

・脚本の最終稿が出来上がるまでにずいぶんと紆余曲折があったということだが、何人も脚本家を替えてスタジオ側が納得する脚本を作ろうとしても、これでは何のために何人もの脚本家を使ったのかまるで意味不明。映画不況以降、ハリウッドがダメになったその根本がここにも見え隠れしているようだ。ようするにスタジオ側は、スタジオの幹部連中が求めている映画、脚本は “金になる、動員の見込める”映画であり、そしてそれ以上に“株主から批判されぬ、自分たちの責任が問われぬ” 映画なのだ

・まったく新しい、創造的な映画、今まで見たことがないような映画、映像、ストーリーは敬遠する。感性で判断することを避ける、逃げる。心の声に従うことに怯える、逃げる。自分がイイと思った感覚、感情を恐れる、信じようとしない。全てにおいてこの逆をする。なるべく多くの人が頷く可能性ばかり模索し失敗する可能性を少しでも下げようとする。思い切ってやってみようという気持ちがない。兎に角リスクの低いことだけをやろうとする。個性や独創性などよりも、今までに受けたこと、過去に評判の良かったこと、周りがすでにやっていること、周りが直近でやっていることに倣おうとする。



大体似てること書いてる

http://newsphere.jp/entertainment/20140519-2/

2014-06-09 『春を背負って』魂と情熱の籠った映像美。朴訥であるが爽やかな映画

[]『春を背負って』

・美しい映像、そして爽やかな映画であった。

・あの『剣岳 点の記』(2009)から5年。黒澤組に仕え、あの『八甲田山』の撮影監督をし『剣岳 点の記』で素晴らしい映像を観せてくれた木村大作が、再び山を題材にした映画を引っさげて戻ってくるのだからこれは観ないわけにはいかない。いや、これは絶対に観たい。それもなるべく大きなスクリーンで。両目の視野いっぱいにスクリーンが入り、映像以外はなるべく観客も椅子も目に入らないようにして、体中が映像に包まれ、どっぷりと映像に浸るように観たい。そんな思いで映画を観たが『春を背負って』は前作『剣岳 点の記』以上に映像の美しさを、北アルプスを、山と自然を、あの場所の空気を感じ取れるような映画だった。正に、自分があの立山の懐に、あの山小屋に、あの空気の中にいるような思いをさせてくれる映画であった。

・そうそうたる役者陣を実際の北アルプスに引き連れ、山小屋での本当の生活を映画スタッフと一緒にさせ、実際に山も登らせ、その姿を大自然の懐で撮影する。下手な演出や演技よりも役者の内面から湧き出てくるものが、嘘ではない気持ちとしてフィルムに写し撮られている。



・出だしの北アルプスの映像がフィルター無しで山の風景を撮ったかのように、青が被っているような感じがしたのだが、これは小屋側のDLPの調整が巧くなかったせいかもしれない。

携帯電話での捜索

キャストと撮影

アルミの匂い

あの空気、雰囲気

蒼井 演技過剰になっている。

滑落の場面や、厳しい山の場面はちと白々しい嘘臭さがある。

挿話はどれもこれも取って付けたようで話に馴染んでいない。



・あの『剣岳 点の記』(2009)からもう5年も経つか。時間の流れは早い。初監督作品で日本アカデミー賞の"最優秀監督賞”"最優秀撮影賞”まで取り、その他の映画賞にもズラリと名前を連ねたのだから大したものだ。それまでは《黒澤明監督映画のカメラマン》《「八甲田山」のカメラマン》とばかり言われた、としか言われてこなかった木村大作に“『剣岳 点の記』の監督”という勲章がくっついたのだからこれは一人の映画人を判断する材料としてかなり大きなものを授かったのだと言える。

・その木村大作が5年の月日を経て“『剣岳 点の記』の監督”という勲章か、はたまた大きな看板をぶら下げてまたやって来たのだから、これはいやがおうにも期待せざるを得ない。しかし・・・・

・5年前の『剣岳 点の記』は映像が本当に素晴らしかった。大きなスクリーンで観ていると、まるで自分があの剱沢にいてあの剣岳の山頂で美しい北アルプスの峰々にの中に居るかのように思えるほど、美しい映像だった。あの美しい大自然の中に自分が包まれている、あの場所に自分が立っているような気持ちになる、それだけで『剣岳 点の記』はいいと思えた。映画の一番大事な部分である脚本が粗だらけだったのだけれど。

2009-06-19日記: 『剣岳 点の記』 山と自然を愛する人に!美しく貴重な一作。

・『剣岳 点の記』は脚本がうーんと言いたくなるところがたくさんあって、一本の作品としてはとても褒められたものではなかった。だが、一先ずそこには目をつぶってカメラマン木村大作の写し撮ったあの美しい映像に心をあずければ、映像を、映画体験を楽しめる、味わえる、心で感じられる映画ではあった。「ストーリーもっとちゃんとしていたら、本当の傑作になったかもしれない」そう思ったけれど、あの映画はあの映画として素晴らしい体験を観るものに与えてくれる映画として好きだし評価している。

汚し、カメラとキャスティング、

2013-10-23 「遊星からの物体X ファースト・コンタクト」

LACROIX2013-10-23

[]「遊星からの物体X ファースト・コンタクト」(2011)

・まるで期待していなかったが、時間も短いし、さらりと見てフフフンとそれなりに楽しめたが、気持ち悪さもだいぶあり、SFというよりスプラッター・ホラーというような感じ。

・得体の知れないエイリアンを発見して、生体反応も確認せず放置するとか、切り刻むときに博士なんていう連中がだあれもマスクもせず、手袋以外はほとんど素でエイリアンにナイフをいれるとか・・・相変わらず間抜けな演出はいっぱいだが、おちゃらけスプラッターSF映画ととらえればこれでもいいか?

・名作である前作の前日談なんてこと言わないで、単純に一本の気持ち悪さ満載SF映画として作っていればいいものを、スタジオ役員や株主の突き上げが怖くて、やっぱり過去の名作のネームバリューだけはお借りしましょうということで作られたような映画。だから芯はなにもなし。出来上がるまでもなんども製作延期になったり紆余曲折したみたいだが、もうこういう取って付けたようなシリーズモノ、名作の前日談とか続編とか新しい展開とかはハリウッドのお馬鹿連中もいい加減やめたらと思う。でもやめられないんだろうな、それほどネタとアイディアは枯渇してるということだ。

・と、否定的なことを書いたが、一本の映画としてみればそこそこ楽しめる。金は掛かってるけどB級のやすっぽさプンプンのサスペンス、ホラーとしてもまあそこそこ。それもこれも前作のしっかりとした設定がどだいになっているからであろうが、前作を知らない、見ていない人なら「うん、言われるほど酷くないんじゃない、キモいけど面白かったよ、1時間45分それなりに楽しめた」というであろう。

・中身としては『 THE THING 遊星からの物体X 』の焼き直しというよりも『エイリアン1』の焼き直しという感じが強い。頭をひっくり返して四足で歩くエイリアンとか、腹を突き破って出てくるシーンとか、これって話は『THE THING』だけど映像は『エイリアン1』でしょう。ケイトの役はまさにリプリーのシガニー・ウィーパーだし『エイリアン』でリプリーがようやく逃げ出した宇宙船で後ろにエイリアンがいるっていうのも『THE THING』じゃなくて『エイリアン1』のシーンそのまんまだし。(これはオマージュとして受けとっていいだろう)

・ということで『 THE THING 遊星からの物体X 』の前日談、リメイクというわけで撮られた映画なのに、中身はエイリアン1の混ぜちゃってるわけで、だからこういう中途な映画になるんだなぁという典型。いや、エイリアン1を真似たからなんとか見れる映画になったのと言うべきかもしれないか?

・ケイト役で美形の紅一点(もう一人女優はいるが美形としては一人)f:id:LACROIX:20131024071254j:image:rightメアリー・エリザベス・ウィンステッドがなかなか。目が大きくてはっきりした顔立ちで、こういう女性は日本でも海外でもそこそこ受けるか。しかしこの人、全然しらなかったけどホラー・クイーンなんて言われてたのね。なるほど、ホラー映画に出てればちょっとお馬鹿っぽさも滲んでぴったりだったのかも。でもこの作品の中では一人だけ美形でキラリとしてた。こういうのを一人だけ入れるというのもキャスティングの常套手段だが。

・前作はもろ男臭い男男というキャスティングと中身だったし。たぶんプロデューサーか誰かしらが「「THE THING」のシリーズものを作っても受けない。あれは男だらけのキャスティングで華がない。観客動員望めない。エイリアンのリプリーのような強い女性を話に付け加えればもっと観客受けするはずだ。宣伝のネタにもなる。客を惹きつけれる!そうだ「THE THING」の脚本にリプリーに相当する女性を入れるんだ!」とかなんとかやったのだろう。そういう臭いがプンプンする。

・まあおかげでこの女優を知ったわけでもあるが、願わくばそういうホラー映画の客寄せ役じゃなくてなにか真面目な作品でこのメアリー・エリザベス・ウィンステッドの演技を見てみたいとものだ。

・それにしても最近でてくる続編だとか前日談というのはどれもこれもどうしょうもない。「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」も猿のCGI以外はなんとも薄い話だったし。(ところでこれの更なる続編って作られるんだろうか? 出来ても当たることはないだろうな)。「プロメテウス」もエイリアンの前日談と宣伝しておいて、どうしょうもないないようだったし。ターミネーター・シリーズはなんとか持ち直しそうだが、3以降は正直酷い脚本と設定だし。

・ハリウッドはまわりと同じことをやらないと突かれた時言い訳できない、失敗しても「ほかもやってるから」と言い訳できるように周りと同じことをやるというどうしょうもない慣習が蔓延してしみこんでしまっているから、しばらくはこういうシリーズものの前日談だとか、少し話を横に逸らしたやつだとかが続くのだろう。

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2013-08-18 『HOME 愛しの座敷わらし』

[]『HOME 愛しの座敷わらし』

監督:和泉聖治.... 「オン・ザ・ロード」が良かった!

・岩手の風景が美しい。多少色の彩度を上げすぎているというか、緑を強く出しすぎていると感じる部分がある(夏の色、ホントの風景というは朝や雨の後などの空気の透明度が上がり、チリなどもすくないときでないと、遠目でみたらもっとぼんやりとしている)

2013-08-01 『終戦のエンペラー』残念ながら極めて中途半端な一作

LACROIX2013-08-01

[]『終戦のエンペラー』

・作中のセリフにもあったが、天皇を扱うというのはなんにせよ“センシティブ”な部分を孕む。日本においては否応なく、外国からしても若干の差はあれど同じだ。アラーを映画でも文章でも外国人が描くとこれまで様々な問題が起きてきた。イスラム教徒にとって異教徒が自分たちの神であるアラーを軽率に扱うことはそのまま自分たちと自分たちの宗教、文化を冒涜する扱いとみなされる。

・取り上げた物語の主題に対して、本質に対してどれだけ踏み込むか、踏み込めるか、どれだけ考えを及ばせることができるか、どれだけの深みまで手を伸ばせるか、思考をめぐらせることができるか、物語のなかでどれだけその主題を追求できるか、深く掘り下げ観る側に訴えるものを作ることができるか、それがないのなら映画は取り上げた主題の表面を舐めるだけであり、その主題は物語の具材にしかならない。料理の上に乗っている具材でしかない。

・この映画は“終戦”“降伏”“占領”“マッカーサー”“占領軍”“日本”“軍部”“政治”そして“天皇”という非常に“センシティブ”つまり微妙で敏感で一挙手一投足に非常に慎重さを求められる“問題”を取り上げ,"EMPEROR 天皇" という日本において最もセンシティブな物事をタイトルに掲げ、主題としながらも、そこに深く踏み込むことは避けている。そこに関わる様々な要素もただ並べただけに過ぎずなんら主題に対して深入りしようとはしていない。いや、しなかったのだ。

・主題として"天皇”を取り上げながらも、そこに踏み込めば踏み込むほど状況は更にセンシティブになり、深入りすることは映画としての表現の難しさや説明の困難さ、そして踏み込んだことによる様々な影響が危惧された。だから主題に足を踏み込み、深入りすることは止めたのだ。やめてしまって具材だけを並べ、なんらの意見を述べることもなく、主義主張を面に出すこともせず、ただの"物語"として抑えてしまったのだ。

・即時的な楽しみを目的とする娯楽映画であるならばそれでもいい。面白そうなストーリーだけあればソレでいい。だが、この作品はそういった娯楽作品ではないはずだ、そういった娯楽を志向して撮られたものではないはずだ、ハリウッドのエンターテイメント作品として作ったものではないはずだ。終戦と占領軍、日本の天皇を主題として選んだ時点で作品の本質はエンターテイメントではないものとなる、成らざるをえない。

・だから本当はもっと天皇という腫れ物のような事柄について語り、それを評することが禁忌されている日本にとっても、そこに関わった国にとってもセンシティブな事柄に真正面から向かい、取り組み、日本の終戦とアメリカの占領軍の統治に関してもなんらかの意見、主張を示すべきであり、示さなければならなかった。しかし、それは避けられた。回避され、なんでもない表面的なエピソードの羅列。歴史の上辺だけをなぞるだけの内容に落ち着けてしまったのだ。

・そして映画は意義、主張を持つこともなく、薄っぺらな中途半端な作品になってしまった。それは製作サイドの《天皇に触れることへの恐れ、恐怖、そこから生まれる様々な危惧されるべき事態を恐れ、それを受け入れそれに対処することを避けるため》の気持ちが生み出したものだろう。

・娯楽、エンターテイメントには成り得ない題材を映画の主題として選択したが、その主題に踏み込むことを躊躇い、その主題を論ずることを躊躇い、その主題に深く関わることを躊躇し、その主題に作者の側の意見や主張、判断をすることの一切を避けた・・・いや、観終えた感想からすれば、これは逃げたんだろうなというべきかもしれない。

・こんな"天皇”EMPERORという題を掲げながらも、そこの踏み込めないばかりか、終戦や占領軍、天皇という題材の表面的なつなぎだけでは映画としての話を構築できないと見たのか、随分と白々しい悲恋物語を映画に組み込みラブストーリーとしても客を惹きつけようとしたのだろう。しかしそれがより一層作品の中身を中途半端なものに押し下げ、なにがエンペラーなのだと言いたくなるような話になってしまっている。

・そして最終的には天皇や占領軍、マッカーサーよりも、ラブストーリーに話の中心が寄ってしまっている。これでは第二次大戦終戦時の天皇とマッカーサーの話と思って観に来たら、まるで《第二次大戦の中、アメリカと日本の間で生き、恋をし、戦争によって引き裂かれた悲恋の女性、彩音》なんて題のほうが内容には合っているのではないかと思える程だ。

・社会派や歴史映画という方向には進まず、話をふくらませるために戦う二国の間で生まれた恋という挿話をいれたため元々の主題からは話の中心が離れてしまい、結局はどっちつかずの状況で中途半端に何を描こうとしたのかさえボヤけたまま仕上げられてしまった映画、そう言うしかないだろう。

・プロデューサーでもある奈良橋陽子のキャスティングは流石だった。マッカーサーを演じたトミー・リー・ジョーンズは少し違和感を感じたが、日本側の配役は見事だ。アヤを演じた初音映莉子は印象深い。桃井かおりはこんなチョイ役かとすこし残念。

・やたらと日本の知識人(と称する連中)に多い、アホでマヌケでくだらない反日的自虐感はこの映画の中にはない。そういったものはほとんど感じられない。逆にアメリカをやたら褒めたり、軍部を揶揄するようなシーンもない。そういった点ではこの作品はどっちかに偏向するわけではなく日本人の描き方もアメリカ人の描き方も皇族や天皇の描き方も極めて中立的であり、妙な色眼鏡はかけていない。そこは好まれる。

・ポツダム宣言を"降伏"といい、今の義務教育で間違っておしえられている"無条件降伏"という言葉を使わなかった点も◎

・いきなり出だしであの捏造、偽造と証明されている南京虐殺に関する日本兵が中国人の首を日本刀で切ろうとしている写真が出てきたのは驚いた。GHQ本部に貼ってあったその写真を「そんなものは剥がせ!」と言って剥がす場面を映画の頭に入れるというのは、ちょっとあざとらしさを感じたのだが、これは南京虐殺をやたら史実として認めさせ日本を落とし込めようとしている中国人やらそのロビー活動に洗脳されているアメリカの議員などに対する嫌味だろうか?

・終戦間際の玉音放送と軍部クーデター、その当時の様子を如実に描いているという点で橋本忍の『日本のいちばん長い日』と比べてみれば映画作りの姿勢の違いというものが明白に分かる。問題作でもありあまり取り上げられることもない作品だが『日本のいちばん長い日』を観れば映画の在り方の違いというものが際立って見える。☆2008-04-03 『日本のいちばん長い日』狂気と暴走の歴史が映像に再現される。

・この手の戦争、軍隊、天皇などといったテーマの映画が出てくると、必ずキチガイじみた自虐史観を頭に埋め込まれ洗脳されたような人間や団体が上映禁止運動や、映画にたいする非難などを公然と始めるのが日本の常だったが、この映画ではそういった話がとんと聞こえてこない。日本映画で戦争を描くと「間違っている、訂正しろ!」と喚き立てる狂人とおぼしき日本人や中国人、韓国人などがハリウッド映画なら何も言わない・・・いかにも見え透いた浅はかな思想や意思のない、ただ単に日本を非難して自分を満足させたい連中がうようよしているのだと呆れ返る。

・それでも、この時代、このような内容を扱った映画としてはまあまとも。それも日本人がプロデューサーをしているおかげか。外人がこの手の日本を描いた映画は最低レベルのものばかり。

・原作 岡本嗣郎「陛下をお救いなさいまし」(集英社)

関連

上映時にとにかく批判、上映禁止などの攻撃を受けた良作

「プライド 運命の時」

「明日への遺言」

外国人が日本を描いた愚作

2010-05-16 『靖国 YASUKUNI』終戦記念日の靖国神社がこんなだったとは

2008-07-17 『太陽 The Sun 』これは一体何を描こうとしたのだろうか?

2009-07-08 『TOKKO −特攻−』なぜか、強く響いてこない

2013-07-18 『Dolls ドールズ』

[]『Dolls ドールズ』

北野映画のなかでは好める作品。しかし数年前に観た時とは改めてみて随分印象が変わった。

つながり乞食。人形浄瑠璃。お祭りのときの風車やお面を背景にしている映像は美しいが、これはよくある絵だ。たけしが徹底批判した稲村ジェーンでも使われていた。

映像の美しさ、ライティングの故意的ではあるが情緒的でパッと観ただけでハッとする美しさは間違いない。

しかし、ここにヤクザ映画を入れる必要はあるか?

待ち続けていた女性の話も美しいのに。

あえてヤクザ映画の要素を入れる必要があるか? それが北野武の根なのだろう。しかし映画としては余計でしかない。それがなければもっと評価は高まっていただろう。

2013-01-17 『わたし出すわ』駄目駄目

[]『わたし出すわ』(2009)

・なんだかなぁ〜〜〜雇われ監督ばかりやっていて自分独自の映画をしばらく撮っていないから、なにか作家性だとか監督の独自性だとかを無理やり出そうとして撮ったような作品に思える。

・なんだかなぁ〜〜〜途中まで観て、これってこのあと信じられない超常現象とかカルトチックな摩訶不思議な能力をもった得体の知れないものが出てきてサスペンス・ホラーみたいになるんじゃないのか?黒沢清の亜流みたいな作品になるのか? と思ったらそんなところには行かずなんだかよく分からない、グズグズしてもやもやして全然意味不明の終わり方になってしまっているし。そこに何か伝えたいものがあったとしてもこんなわけの分からない映画にしなくてもいいだろうという気持ちになる。

・一体何のために何を考えてこんな映画撮ったんだろう。晩年の監督はいい加減あてがわれた映画ばかリ撮っているのが嫌になって、なにか特徴のある、なにか特別に思われる、なにかタダの監督ではない、なにか異色の、そんな作品を撮りたくなった、残したくなった・・・のだろうか?

・でもなぁ、こんなのではなぁ、こんなわけの分からぬ映画を取るなら、もっともっと他の手があっただろうに、なんて思ってしまうのだ。

・森田芳光は一体なにを考え、なにをしようとしていたのか。

・無理にこじつけたり無理に深読みしようとすれば、なんとでも言える、あーとでもこーとでも言える。それはどんなクダラナイ作品でも同じだ。みょうに分かりにくく作って、みょうにもったいぶって作って、うらになにかあるような、裏になにか信念や思想があるような、そんな作品というのもあるが、そういう思わせぶりは・・・しらけるのだな。ケッって感じなのだ

・「わたし出すわ」って変なタイトルも、なんかシモネタに繋いでいるのかと思ったが、タイトルもまったくもって駄目駄目。

・39 刑法第三十九条(1999年)

海猫(2004年)

間宮兄弟(2006年)- 監督・脚本

サウスバウンド(2007年)- 監督・脚本

椿三十郎(2007年)

わたし出すわ(2009年)- 監督・脚本

武士の家計簿(2010年)

僕達急行 A列車で行こう(2012年)- 監督・脚本

こうして見ると『39』以降は全部溜息のでるようなものばかりだった・・・

2012-11-16 『レンタネコ』

[]『レンタネコ』(2012年)

55分:市川ミサコがダラーっと暑くてねっころがってる場面がいい。

もたいまさこは出ないのか。

荻上直子の最近の作品はちょっとイマイチ。アイディアにとんがりとかきらめきがなくなってる。



少女趣味の部分だけで撮ってる、ウケ狙いで撮ってる、そういうのがみえすいてきている。

バーバー吉野、かもめ食堂、めがね、であったようなニッチだけど特異であり、だけど実意共感できるもの、それがなくなってる。感覚だけど

なんかやってることがぜんぶわざとらしい。

結局寂しいとか結婚したいとか恋人欲しいとか男が欲しいとか・・・そういう女性の欲求不満を描いた映画に留まってるんじゃないかこれじゃ。

荻上直子にはもっと鮮烈な映画撮って欲しいね。

2012-10-07 『希望の国』悲しみとあきらめ、そしてこの国は絶望の国になった

LACROIX2012-10-07

[]『希望の国』

・この作品を観て、少し、少しだけだけど園子温の監督作品に対する気持ちが変わったかも?

・繰り返される「帰ろうよ、もう帰ろうよ」というセリフが、もうこの国に帰る場所なんてないというメッセージが聞こえた。

・前作の「ヒミズ」から、なぜかこの人の作品にフランス・ヌーベルバーグ時代の雰囲気、匂いを、そして反体制、反社会、反権力的で、自由、解放といった雰囲気を感じるようになった。今回もそれがあった。

映画のタイトルは『希望の国』だけど、半分辺りまで観たところで「この映画のタイトルは逆説、皮肉、アイロニーなんじゃないか、この映画は”もうこの国には希望なんて無い!この国は絶望の国なんだ”」ということを言っているんじゃないか、そう感じた。

☆監督は「正月に原発から20キロ圏内の相馬市に入ってそこで初日の出を見た、それを見ていたらこの国にもまだ希望はあると思った」と言っていたが、この映画の脚本を書き、この映画を撮影し、編集してこういう話として完成させるに至る間は、きっと「この国にはもう希望はない、この国にあるのは絶望だ」そんな感じで映画を作っていたのではないだろうか。

・電力会社や原発や行政や政治や社会などを非難するセリフはたくさん出てくる。だが、話の演出と流れの中に、どこかを、何かを痛烈に批判したり非難したり告発したりするような部分は少ない。全く無いというのではない、いや、やはり原発事故をきっかけとして生じる様々なことが、腹立たしく悲しく頭にくることが話の中で沢山描かれている、いや使われている。だが、そのどれか一つにも強烈な力が込められていない、淡々とした話の流れの中でそういったエピソードは道具的に使われている。そういった腹立たしく怒りが湧いてくるようなことも、なんとなくさらりと、スーッと風が通り過ぎるかのようにスクリーンを流れていく。映像で観る場面とその演出そのものは淡々とし、あっさりとしその事実とは別に重さを感じさせない、重さが乗っていない、ふわふわと空気のように浮かんでいる。だが、その映像の淡白さによって、その場面の中で登場人物が語る言葉が際立つ。頭に残るのだ。鮮明にこちらにむかってくるものが、登場人物がしゃべる”言葉”だった。その言葉が積み重なって、絶望とあきらめが映画の中にどんどんと漂いだした。映画は映像で伝えるもの、映像で語るもの、それとは背反するけれど、この映画は”言葉の映画””言葉が刺さる映画”だった。その言葉が突き刺さった状態で観るラストの映像が悲しみを静かに、大きく深く増幅させていた。

・原発事故のことも、家の庭が警戒区域の境界になったことも、避難所のことも、強制退去のことも、放射能におびえ子供を守ろうとする妻のことも、その他のいろいろなことも、そのひとつひとつに強い怒りや、慟哭や衝動やそれを伝える熱は感じられない。そこから感じられるのは怒りや慟哭や熱ではなくて、静かで、冷めた、深い、悲しみだ。

・この映画のなかに漂っているものは、深い悲しみとあきらめの気持ちなんじゃないか・・・。

日本という国は、俺達の国は、こんな国だったんだ、こんなどうしょうもない国だったんだ、こんなに腐った最低の国家だったんだ、俺達はずっとそんなことに気が付かないで、気付かれないようにされて今まで生きてきたんだ、そしてそれはちょっとやそっとでは変わりようのない、変えようのない、変えることのできないどうしょうもないほどこびり付いたものなんだ・・・だから、この国には希望なんてないんだ、でも俺達はそんな希望のない、こんなどうしょうもない国で生きていかなきゃならないんだ・・・・そんな、怒りとあきらめをこの映画からじわじわと感じた。

・この国には、日本には希望なんてないんだ、なかったんだ・・・それが『希望の国』というタイトルを付けた意味なんだと・・・そう思った。それが邪推だとしても。

・園子温は「これからも311に関する映画を撮り続ける」と言っていた。映画を撮り続けることは、絶望と悲しみとあきらめを、少しでも押し戻すその為の努力なのかもしれない。

思想の悲観主義、意思の楽観主義・・・それが現実であり、それが理想であり、そうあらねば悪いことはもっと加速する。絶望とあきらめの侵食を少しでも押し止め、押し返すため、一歩、一歩、一歩、一歩、歩き続けなければいけない、そのスタートラインがこの映画ということなんじゃないだろうか。

・軽く繋ぎ合わされた一つ一つの話が最後には鉛のように重かった。重くなっていた。

・小野泰彦(夏八木 勲)と小野智恵子(大谷直子)夫婦の演技が染みる。素晴らしい。・・・NHKの番組で園子温が語っていたけれど、この夫婦の話は・・・悲しい。そして明るく振舞っていたけれど、その心の奥底に降り積もっていたのは、やはり絶望なのだ。二人のシーンでは思わず目を瞑ってしまった。そして音だけが耳に響いた。目で見るよりも映像が脳裏にくっきりと焼きついた。

・この映画を自分は逆説的に、そしてアイロニカルに捉える。そう、そうしっかりと捉えた上で一歩一歩進まなければならないのだろう。

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・311の津波とあの原発の爆発で住んでいる所を追われ、避難所でダンボールの仕切りの中で寝起きをした人たち、放射能に追われるように遠くへ遠くへと逃げた人たち、一年七ヶ月前のあの頃、信じられないような体験をした人たちがこの映画をどう見るか、この映画を観たらどう感じるのか・・・それが気になった。

・『希望の国』公式サイトhttp://www.kibounokuni.jp/


f:id:LACROIX:20121008023151j:image:w300 映画「希望の国」園子温監督の言葉 毎日新聞よりhttp://togetter.com/li/395824

2012-09-18 『クロエ』ともさかりえの幽霊みたいな存在感がとてもイイ。

[]『クロエ』(2001)

監督:利重剛

不思議な感じの映画

こういう手合いの映画はだらだらカメラを回してだらだら撮って繋げてハイ映画です!といったようなとんでもどうしょうもないものが多いのだが、これはちゃんとした意志が映像から伝わってくる。端的に言えば、上手いということだ、そして巧いということであり、映像と物語りに観る側の感性を撫でるような撮る側の感性、その品の良さ、感覚の素敵さがあるということ。

つまり、映画の映像に作る側、撮る側の感性と感覚の良さ、情緒感がしっかりと滲んでいてそれを観る側が目、耳、肌で感じられるものになっているということだ。映像に感情や体温やその場の空気感までもが取り込まれているということ。ただカメラを回してその場面を無機質に撮ったようなどうしょうもない監督の作品とは大きく異なり、映像に映像だけではないもっと沢山の人間が感じとれるものが取り込まれているということだ。

ともさかりえが主演の映画というのは初めて観た。拙い演技ではあるが、細くて脆そうで弱々しいともさかりえは、なんだか「異人たちとの夏」に出てくる幽霊みたいな感じでもある。



光の使い方も上手い。何気ない言葉も良い。

しかし、途中まではなんだかイイ感じだったのだけど、余計な話をごちゃごちゃと絡め出したら映画の背骨がブレ始めた。途中からなんだか訳の分からぬ要らぬような話を絡め出したら、最初に感じた不思議な魅力が薄れていった。

監督としてはいろいろ思いを詰め込みたいのだろうが、塚本絡みの場面などは明らかに蛇足。クロエと高太朗の純粋、純朴で綺麗なラブストーリーに焦点を合わせて余計な話をいれないほうがスッキリしたし、純粋に綺麗で美しい映画になっていた。

焦点を絞り切って、余計なものを入れないで純粋にクロエと高太朗のラブストーリーを磨き上げていったら、イイ映画になっていたんじゃないかな? なにも2時間オーバーの作品なんかにしないで、1時間半で二人の愛を猥雑物を取り払って細くてもしっかりと描いていたら、名作になっていたかも? ともさかえりの存在感はそれに値するものであった。しかし・・・そうはならなかったということだ。

だから、いままでこんな作品があると言うことも知らなかったし、流れてもこなかった。欲をかいて失敗してしまう典型。

クロエ デューク・エリントンの曲か・・・。

最初に出てくる岸田今日子の砂のお話・・・って、『砂の器』へのオマージュだろうけれど・・・不思議、不気味な感じはあるけれど、全体の中ではどうなのかな? ここでも綺麗に逆光が使われている。

午後の日差しが逆光で差し込むマンションの部屋に寝転がって、ともさかりえが、やっぱりいいねぇ、やっぱり死にたくないね・・・ていうシーンが素敵だった。

ともさかえりはとにかく印象的で、演技が上手いわけではないが、不思議で不気味でふわふわして不安定なもろそうな部分が魅力的であった。

2012-08-16 『ヒミズ』絶望に勝る希望とはこんなものではないはずだ。

LACROIX2012-08-16

[][]『ヒミズ』(2011)

・二階堂ふみの演技は最初からなかなか。染谷将太は最初はダメだが、殺しに至るところからグンと良くなる。渡辺哲はいぶし銀のような演技。流石の熟練俳優。本当はこの人、脇役ばかりじゃなくてもっと表に出てもいい実力。

・家族の絆なんてものが全く途切れていて、唯一最後に頼るべき親というものが、子を捨てようとする、殺そうとする。そんな絶望的な状況のなかに落ち込んでしまった少年と少女の物語り・・・絶望的に暗い、暗いけれど二階堂ふみの、なんとか、なんとか一滴でも元気を振り絞りだすんだっていう演技がその絶望感を遮ってくれている。

・その反面、染谷将太のほうは、どうにもならないくらい絶望的な状況なんだけど、ひねているというかふてくされているだけというか、目や顔に絶望が浮かんでいない。元気な少年が意地を張ってひねくれている、世の中にそっぽをむいているだけというふうに映る。

・だから、こんな絶望的な状況を背負った登場人物の話なのに、画面にその絶望の悲惨さや、奥深い暗さ、とてつもない悲しみ・・・そういったものがひしひしと感じられない。

・被災地の映像は本当に必要だったのか?

・絶望的な状況を描いているのに、なにか重さがない。軽い。

・場面をいくつか観ていると、もしこの登場人物が外国人だったらと思ってていると、ヨーロッパのヌーベルバーグ映画のような雰囲気が出ている。そこがヨーロッパの映画祭で受けているところか?

・河川敷で唄ったり踊ったりしている場面だとか、被災地で叫んでいる場面だとか、何人もが走って追いかけていくところを引いて撮っている場面だとか・・・これ、ニューシネマとかヌーベルバーグ的な匂いがしっかり滲み出している。(意図しているかどうかは別として)

・しかしだ、この映画は一体なんなのだろう。悲惨な状況に置かれ、絶望しか無くなったような子供たちが絶望の底から這い上がろうとする映画なのか? だったら何故、主人公二人の絶望がこんなに軽いのだ。こんなにサラサラとしているのだ。

・街をふらつき誰かを殺そうとしている男、シルバーシートに座っていることを咎められて人を刺し殺そうとする男、男のアパートで体中に落書きをされゴミを捨てに出てくる女。そして主人公二人の両親、家庭、その環境・・・なんでこんな!と言いたくなる酷い人間たち、親達、そこに落ち込んだ人間たち・・・なのに、画面が説明している状況がズンと響いてこない。ドスンと胸を突いてこない。体のまわりをサラサラと流れて飛んでいってしまう粉末のように、悲惨で絶望的な状況が圧倒的に、絶対的に軽いのだ。サラサラとして重みがないのだ。

・だから、二人の絶望や悲しみが、絵空事のように思えてしまう。二人の絶望や悲しみが重機のような重さをもってのし掛かってくることも、襲いかかってくることもない。絶望や悲しみが演技にしか見えない、感じられないのだ。

・だから、この映画は見終わっても肩に伸し掛かってくるものも感じ無ければ、胸を苦しく締めつけられることもなかった。(少しはあったけど)

・東日本大震災の地震と津波で家を流され破壊され、ボート屋の側にたどりついて暮らしている人達にも、あの強大な自然の力でズタズタに、希望も夢もなにもかもを押し潰され、どうにもならない、どうすることも出来ない大きな力に打ちのめされ、諦めることしかできなかった被災者の絶望感、失望感、喪失感、底なし沼のような悲しみが浮かんでいる、滲んでいるとは到底思えない。(ただのホームレス浮浪者のように見えた)

・だから、この映画は悲しみや絶望感など全く、全然映画として表現できていないし、それを観客に伝える技も熱も重さも、感じられないんだ。この映画にあるのは、絶望や悲しみを演技している、その演技だけなのだ、心が、本当の苦しみや悲しみや絶望が、登場人物の肌から滲み出る汗や、体臭や、体熱のように出ていないのだ。プラスチックで作られた人形が演技をしているように、この映画が描こうとしている悲しみや絶望に、人間の心や血が通っていない。

・だからサラサラなのだ。

・東日本大震災の被災地を撮影し、それを映像に加えることで、あの時のあの被災地の悲しみや絶望を作品に付加したかったのだろうか?しかし、それも噛み合ってはいない。被災地の映像を入れてもあの時の絶望や悲しみや喪失感が甦ってくることはなかった。瓦礫の山のあの映像にすら、悲しみや絶望感が血肉として染み込んでいなかった。なにもかもが、セルロイドに描いたアニメーションのように体温と人間そのものを感じさせるものではなかった。

ラストシーン「住田の”絶望”が茶沢の”希望”に敗れる」・・・か。それが東日本大震災の被災者に対するメタファー(暗喩)だというのか?あの震災時の絶望を、希望で塗り替えろというメッセージだということか?

・その希望のメッセージだというのなら、受け入れよう。だが、その希望のメッセージを発する土台となるものが、ヒミズという絶望的な漫画を原作とした映画でいいのか? その漫画に被災地の映像を加えたことで、希望のメッセージを発する土台足りえるのか? 違うだろう。希望のメッセージは付け足されたものにしかなりえていない。

・この映画は東日本大震災を絡めるべきではなかった。全く別の物語りに”絶望〜希望”というキーワードで結びつきをつけたとしても、二つが混じり合うことはない。ヒミズという少年少女の物語りに、東日本大震災の悲劇と絶望を重ねても被災した人々に、本当の悲しみと絶望を心に刻んでしまった人々に”希望”が届くとは、”希望の光”を灯らせることができるとは・・・とても思えない。

・希望を抱く人がいるとすれば、それは実際の被災した人ではなく、被災地を遠くから見ていた人。絆だ、頑張ろう、勇気をもって、希望をもってと被災していた人を、安全だった場所から応援していた人ではないだろうか。

・絶望を体験した人に見せる希望、絶望に勝る希望とは、こんなものではないはずだ。

ヒミズ公式サイトhttp://himizu.gaga.ne.jp/


・音楽:サミュエル・バーバー 弦楽のためのアダージョ Op.11"Adagio for Strings"・・・プラトーンのラストで流れていたあの曲か・・・。『シン・レッド・ライン』のハンス・ジマーの音楽にも似ている感じがする。

2012-08-01 『ダークナイト ライジング』ラストシーンは夢なのだろうか?

LACROIX2012-08-01

[]『ダークナイト ライジング』(原題:DARK KNIGHT RISES) 


・映像の質は文句無し。クリストファー ノーランの撮る作品は細部までスキのない重厚で密度の高い映像ばかりだ。まるで超豪華なゴシック調の寺院や貴族の屋敷、宗教画と建設美に取り囲まれたヨーロッパ教会の中にでも居るかのような感覚である。

・今年期待の一作!前作『ダークナイト』(2009)の素晴らしい完成度、物語の質としての高さ、心臓を突き刺すような峻烈なストーリーにわれながら大喝采、大称賛をしたが、世界的にも驚くほどの高い評価を得た前作の続編ということで大いに期待は高まった。考えてみれば、このところ暫く、公開作に期待するなんてこともずっとなかったなと改めて思う。

・その高い期待からすれば、今回の続編は期待度に比して60%いや70%位の満足度だろうか。前作が非常に高いクオリティーだったのだがから、6割、7割の満足度といってもそんじょそこらの作品からしたら非常にハイレベルな映画ではある。だが、期待度がやはり高すぎただけに少しばかり「こんなものか」という気分になったことは事実だ。

・一人の監督が続けて傑作を撮るということは稀なる上にも稀だ。一人の監督が撮ることの出来る傑作は一本しかないと言う人もいた。そう考えれば、あの傑作である『ダークナイト』以上の作品が、いくらクリストファー ノーランと言えども、そんな続けて撮れるはずなどないのだ、脚本にしろあれほどのモノを、あれを超えるものを書くことはどれだけ難しいかと言うことでもある。

・そんな色々な思いを抱いて観た。見応えがあった。観ながら『ダークナイト』とは違うものも感じていた。

・凶悪でどんなものもその悪の力で踏み潰していくベインが、あの裏話をみせられたら、一気にそれまでの凶悪感がうすれてしまうではないか。あのどんでん返し的設定はいただけない。面白みはあるし、多少なりとも驚くのではあるが、それ以上にベインのキャラクターが一気に色褪せる、冷たくなってしまう。あれではベインというキャラクターを最後にダメにしてしまうようなものだ。

アメリカ政府を出してきたのもいただけない。そのアメリカ政府が手出しできないでただ見ているだけというのも、現実感から程遠い。前作「ダークナイト」でもジョーカーがどこにでもあまりに簡単に忍び込み悪さをするのだが、どう考えてもそれって無理だろうという現実感のまったく伴わない部分がいくつか露見していた。「Xファイル」で都会からいきなり南極に主人公がいっているとか、「復活の日」で日本から歩いて数日で主人公が南極にいっているとか・・・それと同じ類のミス。異常さ。脚本家も監督も映画に関わるすべてのスタッフもこういった不合理、不整合にどうして気が付かないのかと思うのだが、同じようなものが「ダークナイト ライジング」にもある。

その傾向は今回の「ダークナイト ライジング」においても多々ある。その辺の不整合さやどうみても嘘だろうとおもうようなところを抜けたらもっと怖さや恐ろしさも強くなっていたんだろうし、完成度も上がっていたのだろう。なんだか、ほんの数日で都会のどまんなかから南極まで歩いて移動しちゃってるというのを堂々と話の中に入れているようなそういう非現実さと同じものが、いくつかあって、それが映画の雰囲気を少しずつおかしくしていってしまう。

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・アン・ハサウェイがとにかく魅力的。もう本当にとろけてしまいそうなくらいイイ女。今までのキャット ウーマンのマスクはSMの女王様が黒いパンティーを逆さに被った様な品のないものばかりだったが、今回のキャット ウーマンは強い女性、気品、気高さといったものを感じせ、最高のキャット ウーマンになっている。それにしてもアン ハサウェイの美しさと危険さを合わせ持った女性は、スクリーンを観ているだけでうっとりと見とれてしまう。こんな女性が目の前に現れたら、殆どの男はもう目じりを下げてうっとりしてデレデレになってしまうだろう。実際に自分ももううっとり、こんな危ない美女と関わりたいなぁなどと夢想したが・・・。今までのアン・ハサウェイは目がちょっとアンバランスな程大きくて、確かにスーパーモデル的美しさではあったが、少しばかりエキセントリックな風貌に見えていてどうも好きにはなれなかった。しかしこの「ダークナイト ライジング」におけるセリーナ役は文句の付け所のない美人だ。エキセントリックに思えた部分すら強い魅力と誘惑の電波を放つ重要なパーツになっている。このキャスティングは見事だ。

・『ダークナイト』はアメコミコミック的な部分からは全く離れた重厚な実写、人間ドラマに仕上がっていた。だが今回の『ダークナイト ライジング』は少しばかり現実ばなれして、いかにも空想SciFiの世界といったおかしな部分が多々ある。見ていてありえないようなマンガチックな話、設定などが引っ掛かった。なんだか映画が再びコミック、漫画的な世界にに戻った感もある。

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・最後に近づくにつれ「これは、なんて救いようのない話なんだ」と思ったが、それが最後のワンシーンで救われた。サーッとカーテンが開いて爽やかな草原が目の前に広がるような、霧が一陣の風で吹き払われ夢のような美しく幸せな世界が目の前に現れるような、思わず拍手をしたくなる、体中にジーンと痺れるような感覚が走った。最高のラストだ。観た時は、よし、やった!とこのラストに酔いしれ心のなかのもやもやが吹き飛ばされ本当に心が救われる気持ちだったのだが、しばらくして思い出しながら考えると、あのシーンは・・・映画の中の現実なのか、それともアルフレッドの妄想、夢なのか・・・どちらとも受け取れるなと気がつく。あれがアルフレッドの夢なら・・・やっぱり悲しい、涙が出るほどこの映画は悲しい。でもあれが映画の中での現実ならば・・・本当に美しい、素晴らしい、見事な、心を暖かく癒されるようなラストだ。斜めから捉えたセリーナの後ろ姿と横顔、その幸せそうな姿、そしてそれを見て微笑むアルフレッドの姿・・・どちらにでも捉えられるラストだが・・・幸せな方として捉えよう。そうでなければ悲しすぎるし、幸せな姿と捉えれば、他には何もいらない何にも代え難いほど温かく、優しく、美しい、天国の中にいるようなラストなのだから。

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・原題のDARK KNIGHT RAISESをなんでまあライジングとしたのか? 確かにエグザイルのヒット曲もあるしライジングのほうが日本人には耳慣れしているかもしれないが、まったく意思も思考もない邦題の付け方だ。

シリーズ最終章とは言っているが、強欲なハリウッド スタジオがこんなドル箱、大ヒットシリーズを終わらせるはずなどなく。これはよくあることラストではいろいろと次への仕込みが・・・さあ3年後位にどうなるかな?

映画『ダークナイト ライジング』公式サイトhttp://wwws.warnerbros.co.jp/batman3/

facebook page: https://www.facebook.com/thedarkknightrises?ref=ts&rf=411685442224057

◯ラストシーンに関するWeb上のあれこれ(ネタバレ

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1291578677

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1291415697

http://zubazubanews.blog.so-net.ne.jp/2012-07-30-2

『ダークナイト ライジング』の核描写, 米でも批判

http://www.webdice.jp/topics/detail/3609/

2012-07-14 『時雨の記』二人の雰囲気は悪くないが、話が出来すぎスカスカ

LACROIX2012-07-14

[]『時雨の記』(1998)

・出だしからかなり以上に短絡的、手前勝手、都合のいい話、脚本だ。20年前に一度会っただけの歳をとった男と女がこんなに簡単に、都合よくひょいひょいと学生みたいな恋愛関係になるかって。

・バブル真っ盛りの前年に、小金持ちで暇を持て余し、人生と日々の生活に中年の不倫というアヴァンテュールとエロティックな刺激を求めたオバサン連中に大受け大ヒットした『失楽園』を倣い柳下の二匹目のどじょうを狙って企画された映画じゃないのかと邪推する・・・たぶんそうだろう。

・中年男女の不倫映画をもう一本作ろう!なにかいい原作はないか? あ、あった少し古いが芥川賞を獲った中里 恒子の『時雨の記』があったな、あれを使おう。『失楽園』はセックス描写も多く、エロエロだったが、同じのをやってもダメだ、純粋な美しいプラトニック・ラブで行こう。配役はどうする?そうだ日本のトップスターである吉永小百合と渡哲也を共演させれば、これは話題になるぞ、中年オバサン層の心をぐっと掴めるぞ、ヒット間違い無しだ!ようしやるぞ・・・てな感じで映画が作られたんじゃないかねぇ〜。

・吉永小百合は流石だと思うし、昔のアイドル中のアイドル、日本の大女優だからふむふむと鑑賞したが、どうにもこうにもこの映画は話がご都合よく出来過ぎ。脚本があざとらしいね。中年男女の夢物語として描こうとしたのかもしれないが、ここまでなんでもトントン拍子というのはありえないだろうという展開だらけ。それはつまり、そのまま現実味、真実感が薄く話に質量が乗っていないのだ。

・こういう恋をしたいなぁとぽわーんと憧れるという人向けか。

・昭和天皇の様態悪化のニュースや、天皇崩御のニュースを間にはさんだのにはなんの意味がある? この辺も映画として変である。あんなのを入れて昭和から平成に移る時代を感じさせようとしたのか? それは浅はかすぎる。

・吉永小百合と渡哲也の純愛という奇麗な部分はまあいいとして、二人のデートや食事、会話などを眺めてへへへと思うだけで、それ以外は殆ど何も無しといってしまっても過言ではなさそうだ。

・演出もかなり態とらしい。吉永小百合、渡哲也という熟練の役者によくもまあこんなくさい演技させるなあという場面もいくつかあり驚く。

・これまた要りもしないようなイタリア・ロケを入れたり、まあまあ邦画の動員がまだ良い頃のバブルの時代にバブルに乗ってる様な映画でもある。プロデューサーや監督が映画撮影に乗じて外国でちょっと遊びたい、または海外ロケを入れると少し箔が付くとでも考えて要りもしない海外シーンを入れるという作品はよくある。劇場版『クライマーズ・ハイ』のラストもそうだった。そしてあれもまったくの無用なシーンだった。

・裕木奈江、細川直美とか当時のちょっと綺麗な若手女優をチョイ役で使ってるってのもいかにもバブル期の映画。

・二人の名優を観る以外は映画として脚本も話も質もスカスカである。

・原作小説はたぶんもっと中年の二人の恋を情緒的にしっかり丁寧に描いているんじゃないだろうか? 映画は表面的な二人しか描かずその心の動きを感じさせるような描写がまったくもって希薄。

・密林のDVD解説をみてみたらこんなことが書いてあった。

《1977年発表当時“中年男女の命のかぎりの愛を描き得た小説”と絶賛され“しぐれ族”なる流行語まで生んでベストセラーになった、今なお読み継がれる恋愛小説の白眉である。映画化にあたっては、この原作の熱烈な愛読者である吉永小百合のたっての希望で実現、その相手役も渡哲也が吉永の呼びかけに応じ実に29年ぶりの夢の共演を果たしマスコミ界を沸かせた。映画公開時は“大人の恋”に主人公たちと同世代のミドルパワーで賑わい、大ヒットを記録。》

・・・・しぐれ族・・・知らんなぁ。なにそれ?検索しても意味は出てこないが、こういう中年不倫に憧れるオバサンを《しぐれ族》とでも言ったのだろうか? それとも原作本の世界に心酔してこの本にぞっこんしてしまった人をそう言ったのだろうか?(くれない族とか夕暮れ族っていうのなら知ってるが)

これ、大ヒットしたの? まったく知らなかったけど。たぶんコケてるんじゃない? 発表された興収、配収なんてのは当てにならない数字だが、ちょっと見てみたら1998年公開作として興収が約9億。この当時としてはまあまあだが、たぶん吉永、渡のダブルキャストで大ヒットでも狙い、予算も結構注ぎ込んでいるだろうからこの興収は大きな見込み違いだったのではないか? 前年の「失楽園」が50億近い興収となってるから、やはりこれはコケたという感じだろうね。同じ年には「りんぐ」や「踊る大走査線」なんてのも公開されてるから、影は薄かったのかも?

撮影は木村大作だったのね。

しぐれ【《時雨》】 [1]初冬の頃、一時、風が強まり、急に ぱらぱらと降ってはやみ、数時間で通り過ぎてゆく雨。冬の季節風が吹き始めたときの、 寒冷前線がもたらす驟雨(しゆうう)

2012-06-13 『動乱』雪いまだ降り止まず。汚れていたのは雪だろうか?

LACROIX2012-06-13

[]『動乱』(1980)

・この映画は初見だが、これは森谷司郎の作品だったのか。なるほど、この骨太、真摯、うわついたところのない映像と脚本はいかにも橋本忍らと一時代を作った人、森谷司郎の作品だ。

・武骨、骨太、真っ正面からの直球勝負、小手先の小細工などしない、堂々たるぶれのない、体当たりの映画、映画作り。そういうものが橋本忍や森谷司郎の作品には通じている。どくどくと脈打つ血管のようなものだ。

・反体制、反軍国主義、民主的ではないものに対する徹底的な批難、これはある種の恫喝、扇動、弾劾、糾弾とも言えるものが、橋本忍やそこに集った監督らには色濃くあった。それこそが作る作品に図太い男の本懐、徹底的な人間の倫理、道徳、精神の気高いものを感じさせていた。

・この映画は1980年のものだけれど、きっと橋本忍や森谷司郎は自分たちが若かりしころに感じた、日本への怒り、憤りを二度とこうあってはならぬと伝えたかったのだろう。

・製作陣の意気込み、ぶれない信念、反民主的なもの、組織、思考、時代への強烈な反発。そういうものが熱になって画面から伝わってくる。

・だが、今この映画のような時代を想像するのは難しいことだろう。空に食われずの貧困。飢饉で自分の娘まで売春宿に売らなければ生きていけなかった時代。そこで腐敗する政府、軍部、役人。なんとか食う分だけは与えられて最終的な反発が起きないように調整されているかのような現代だけど、こういう映画を観て「もしまたこんなことになったらどうなるんだろう」と思うことも大切であり必要なんだけど、今はこういう映画は作られないし、作ろうと思っても売れないからと作れない状況だろう。

・政官財にメディアまで絡んで、今の日本は226事件の当時よりひょっとしたらもっと悪い状態になっているのかもしれないのだけど。

・でも、今この映画を観ると、腐敗した政治や霞が関や財界の腐敗は行き着くところまで来ているし、そういうのを駆逐しなけりゃどうにもならないと、この時代の226事件を起こした青年将校らとおなじような考え方を持っている人は増えているだろうと思うのだけど。

・2時間以上の尺があるが、この時代をあらわすにはこれでも時間は足りない気がする。全体ではかなり早回しで515事件から226事件までをなぞっている感じがして、その事件を引き起こした様々な問題は並べてあるだけという気もする。それでも、こういう映画は必要だし、こういう映画は作り続けられなければならない。

・オリバー・ストーンが『W(ブッシュ)」を撮ったり、マイケル・ムーアが数々のブッシュ批判、アメリカ批判の映画を撮ったりしたように、まだアメリカにはそれが出来る自由がなんとか残っているし、そうした映画を世界に向けて公開し、不正や腐敗を訴え糾弾する術を持っている。本当は日本だって『K(小泉)&T(竹中)』みたいな、あの政権の不正や腐敗を突き上げる映画がつくられたり『J(自民)&K(官僚)』『原子力』とか『政官財の癒着、腐敗』なんて映画が作られてもいいんだけど・・・ないよな、出来ないよな。たぶん今の邦画界では。

・映画作りに信念や気概があった時代の真っ直ぐな、真剣な映画。やっぱりたまにこういう映画を観ないとただ単に娯楽にだけ走り、受けを狙った映画にばかり目がいって、それがイイ映画だなんて思ってしまうようになるだろう。そういう風潮が今の邦画を凋落させているのだとわすれてしまうのだろう。

・吉永小百合が刑務所にいる高倉健に自分が縫った新しい着物をもってきて、糸を抜く場面。これは全然今までしならかったが、はじめて着物を下ろすときには自分の恋人や父親に仕付け糸を抜いてもらうと幸せになるという言い伝えを行っているという。なるほど。

・撮影当時で吉永小百合は三十歳前半。やはり美しい。

☆2009-01-18

『226』偏りのない、史実のみをストレートに追った秀作

http://d.hatena.ne.jp/LACROIX/20090118

2012-06-12 『GANTZ』&『GANTZ PERFECT ANSWER』男女両用コスプレ映画!

LACROIX2012-06-12

[]『GANTZ』(2010)&『GANTZ PERFECT ANSWER』(2011)

・昔あった「ガンヘッド」みたいな映画かな? どうせくだんないだろうな、と思って観たら、まあ、ながらで観る分にはけっこう面白かった。

・話はなんとも?印いっぱいで、へんてこなんで、これはストーリーはどうでもいいって感じ。

・CGIは安っぽさも満載だが、千手観音の場面は「お、これはなかなかいいんじゃない」と思った。

・話自体が狂ったような脳内展開なのだが、登場人物の選び方がなかなかで、全員がそれなりに目付きや表情に人の狡さや残酷さの狂気をうかばせている感がある。西丈一郎役を演じた本郷奏多はこういう危ない役にははまっている。吉高由里子にしろ伊藤歩にしろ夏奈にしろ、ちょっとソッチのほうにいってるような感じの女優がぞろぞろでこれは映画の印象を上手く補助している。

・二宮和也のなんともツルリ肌でどこに肉がついているのか分からないようなほっそり女性みたいなコスプレスーツ姿。それに対照的においたのか松山ケンイチのやぼったいけど角のない雰囲気。この辺りは女性ファンを惹き付けるには上手い配役。女性にとってはこの二人のコスプレ映画といってもいいか?

・そして男性にとってはこれまた豪華な美形ピチピチギャルのそうそうたるコスプレ披露。いやはや、スケベ心を実に巧妙単純に刺激する策略。キャスティング。

・夏奈のナイススタイルな出し惜しみヌードとシャワーは生唾ごくりの垂涎もの!大きな胸のピチピチGANTZスーツ姿は男なら誰でも目を見張るだろう。

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・そしてその他にも緑友利恵もなかなか美人でこちらはほっそりピチピチ・コスプレと趣味の多様性にもしっかり対応。さらにその上にこれまた目を引く美形の水沢奈子がセーラー服でゾンビよろしく大暴れ。これは凄い。この二作の中でいちばん印象に残ったシーンだ。

http://ameblo.jp/mizusawa-nako/entry-10878936704.html

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・戸田恵梨香も「デスノート」のあの下着目隠し椅子縛りシーンで人気を上げたようなもんだから水沢奈子もこのシーンでもっと知名度あがって人気になればと思うんだけど、そうも簡単にはいかないか。

・と、思って彼女のブログを見てみたら、2012年3月で高校を卒業し、留学することにと・・・引退するわけじゃないみたいだけど、暫く芸能人としての活動はお休みか・・・残念。

http://ameblo.jp/mizusawa-nako/day-20120327.html

・いやはやありとあらゆる男の趣味嗜好、スケベ興味を全部掬いあげてしまいましょう。ついでに女性のそっちもいっしょにねっ!ていう魂胆がミエミエだけどなかなか凄い、そして上手い。この映画の製作陣も相当にスケベということは確実。楽しんで作ってたんじゃないのって羨ましくもなったりして。

・ということで、この映画は話なんかどうでもよしで(どうでもいいような話だし)、ずらり揃えた男女美形キャスティングのナイススタイル、コスプレ演技を見て楽しむって作品。それがこの作品の本質かも?

・いやはやほんとに、ご馳走さまでした。南無

☆GANTZに関してはこのページが笑える。(ちょっと画像拝借)

http://buta-neko.net/blog/archives/2011/10/gantz_pa.html

2012-05-07 『バーバー吉野』ガキンチョの気持ちが如実

LACROIX2012-05-07

[]『バーバー吉野』(2003)

・荻上直子の長編デビュー作・・・初の長編でこの堂々たる作り。やはりたいしたものだ。遠慮したり縮こまったりしていない。いや最初はしていたのかもしれないが「もういいや、やっちゃえ!」的に振り切ったのか?

・女の子を描くんじゃなくて、ガキンチョの男の子を描くというのがすごいな。皆んなでエロ本を見る場面だとか、女性監督なのによくこのそわそわしてちょっとあぶなっかしくて火遊びをしてるような気持ちがわかるなぁと感心。

・荻上直子って子供の頃、こんながきんちょの男の子と一緒にその中に入って遊んでたんじゃないだろうか。そうでなきゃ、このエロ本を隠れて外で見るなんて気持ち分からないだろう。見たことはあったとしても、そういう描写を女性は描けないんじゃないかな? どこかで読んだとかちょっと見たとかじゃなくて、実体験として経験したものを映像で再現してるって思える。そうでないとこんな真に迫った(笑)ガキンチョのエロ本見たさの気持ちはわからんだろう。

・女性映画監督って、偏見もふくめて、どうもオヤヂっぽい。オヤヂの気持ちだとかまさにオヤヂ的な考え方、視点、経験を持ってるじゃないかと思う。そういう女性でありながらも男性的、そしてオヤヂ的なものを持っている、経験してきている女性が、映画監督になっている向いているのかもしれない。

・西川美和にしても荻上直子にしても・・・やたらめったらオヤヂである。オヤヂ的である。爆!

・この映画はクスっと笑えるが、笑いながらもチクっとさされるというか、ヤバいなこれっていう毒があってけっこうどろっとしたものも含んでいる。子供を主として描いているけど、裏には毒やよどみもあるなぁ、子供独自の、大人になったから分かるような。

・お話は面白いけど、まあそこそこ。女性監督荻上直子の長編デビュー作ということを考えると、そうとうに凄い。この感覚が「かもめ食堂」や「めがね」のような女性に受ける映画に発展していったのではあるまい。この映画は荻上直子の原点かも。そういうことだと癒しだとかいった映画の代表的な監督ってことになっているけど、将来は本当はもっとどろ〜っとしたブラックジョークのすごい映画を撮るのではないかな?

2012-03-29 『インベージョン』N・キッドマンの美貌を見る映画か。

LACROIX2012-03-29

[]『インベージョン』(2007)

・二コール・キッドマンがやけに若々しい。顔の輪郭も効いてきて、尖った印象。体のラインもほっそりすっきり。目つきもいかめしい。鼻もピンと尖っている。「ふーん、二コール・キッドマンって昔こんな映画に出てたんだ」と若い頃に出演したB級映画なんだろうと思えるほど。しかしこれって2007年の公開作。

・歳をとると女性は頬や体に丸みを帯びてふくよかになり、肉付きも増えて太くなるものだが、この二コール・キッドマンをみるとまるで若返ったかのようだ。なんとも美しい・・・。

・だが、話しはといえばかなり古いSF映画そのまま。数多くの古典的なSF映画の名作があるが、宇宙人の侵略、ウイルスによる人類感染などはもう目新しさ、斬新さのない話しになってしまっている。スピルバーグの『宇宙戦争』はCGIの凄さもあり観るにはみれる作品になっていたが、それでもやはり子供の頃からなんどとなく聞いた、読んだような話しでわくわく感がなかった。これも同じで話はこじんまりとしているし、え、どうなるのといったどきどき感もあまりない。たぶんこうなるだろうなという予想通りに話は進み、予想をちっとも裏切らない凡庸な終わり方でああそうですか、やっぱりね、という思いが残るだけであった。これで派手なCGIシーンでもあればもう少し娯楽性も上がったかもしれないし、SFらしさももっと出ていたかもしれないが、そういうものもない。

・言ってみれば、いや別に言わずともがなで、これは古典なのだな。古典そのものなのだ。派手なドンバチ、ワイワイガヤガヤのSFに異常なほど見慣れてしまっている今において、こういった純な古典は受けないし、詰まらないととられてしまうだろう。

・ウイルスが人間を変えたために、北朝鮮やらイラクやらブッシュなんかが平和主義を打ち出して紛争が解決しました、我々の側に入れば世界は一つになりますなんていう件も話の中に折り込まれていたが、これもちょっとギャグなのか真面目なのかわからずしらけた。

ラスト近くのカーチェイス・シーンは今様であり、スピード感も迫力もあったが、際立ったシーンはそれくらいか?

・あとは超美貌の二コール・キッドマンをこれでもかってくらい沢山見ることが出来るということと、ある意味これも古典SFお決まりともいえる下着サービスショットに思わず笑ってしまったところくらいかな、記憶に残ったのは。

・ジャック・フィニィのSF小説「盗まれた街」四度目の映画化

2012-01-31 『パーマネント野ばら』原作を見事に上手に改変している。

LACROIX2012-01-31

[]『パーマネント野ばら』(2010)

・菅野美穂の演技がなかなかいい、それに引けを取らず共演している女優陣の演技がまたいい。菅野美穂の悲しさと寂しさと侘びしさを湛えた表情は、表情だけで何十何百の台詞よりも心を伝える。菅野美穂ってこんなに内面から染み出す演技を身に付けたのか、これは歳とっておばあさんになったころにトンデモない位の名女優になるかもしれないな。

・小池栄子にしても池脇千鶴にしてもなかなかの演技をしているのだが、動きでもしゃべりでもなく、ただ黙っているだけの表情でこれだけの演技をしている菅野美穂と並べると、見劣りしてしまう。夏木マリとパーマ屋に集うおばさんらもイイ味だしているんだけどね。

・ぐっと息をこらえ、いらぬ抑揚をおさえ、じわじわと染み込んでくるような痛みと悲しみ。ふーむ、こういう話し、脚本と演出だったのかと驚いた。原作をサイバラ漫画の映画化と聞くと、もっとはちゃめちゃなものを想像したが、まったく逆で、まさかこういう内容になっているとは、本当に驚き。

・映画化の話しが出たときに原作漫画を読んだのだが、映画のストーリーと漫画の記憶が全然繋がらない。改めて原作漫画を引っ張り出して読んでみたが、なるほど、結構大きな話しの改変が加えられていたのか。改変と書くと悪い印象がつきまとうが、原作の一部分を膨らませもっと分かりやすく具体的に話しを変え、登場人物を加え、主人公の悲しみをじわりと浮かび上がらせているのだから、これは脚本の妙である。

・脚本:奥寺佐渡子

・ただし、この作品はかなり観念的、情緒的な方向に内容を傾けているので、それがサイバラ作品の根元に横たわっているものだとしても、漫画の印象とはずいぶんかけ離れたものになっていることも事実だ。それでいながら漫画のどたばたな部分は抱え込んでいる。

・サイバラ作品はあの絵とあのギャグでありながら、女性の悲しさや寂しさを内包しているという点が特異なのだが、それがそのまま映画に置き換えられるわけではない。

・この映画は原作漫画を上手に料理し映画として漫画とは別のものに昇華させているのだから、敢えて漫画のどたばた部分を引きずる必要はなかったのではないか? 原作の映画化という部分で仕方がないかという気もしなくはないが、あのドタバタ漫画の中にしっかり漂っている、女の悲しさや寂しさを見事に抽出して脚本を仕上げたのだから、ドタバタ部分は適度に削除してしまって、話しをもっと真面目にもっていったほうが、ひょっとしたらもっともっとジンジンと染み込む映画になっていたかもしれない。まあ、そうなると原作漫画の映画化!という部分では原作からかなり離れていってしまうかもしれないが。

・脚本の奥寺佐渡子が漫画の『パーマネント野ばら』をじっくり読んで、見つめて、感じた魂の部分を、牛をひと思いに殺して、最初に流れ出る鮮血と心臓をバケツに溜め、それだけを持ち帰り、後はすべて捨ててしまっていたら・・・相当の傑作が生まれていたかも? そんなふうに思った。

・原作の映画化は、原作で脈打つ魂を抉り取ることが大事で、枝葉末節まで映画に取り入れることは必要ないのだ・・・という先人の言葉を強く思い出した。

・悪くは無い作品である。だが、自分は『女の子ものがたり』のほうが好きだな。

ラストでパーマネント野ばらに集う猛者の女性たちが、ハッと息を飲んで動きを止めるシーンが秀逸である。

☆2010-08-18 『女の子ものがたり』 余りに痛々しいが心に響く秀作

http://d.hatena.ne.jp/LACROIX/20100818

☆2011-09-05 『女の子ものがたり』(再見)女の子の本当の青春映画

http://d.hatena.ne.jp/LACROIX/20110905

2012-01-30 『ブッシュ(原題: W.)』オリバー・ストーンらしさは全く無い。

LACROIX2012-01-30

[]『ブッシュ(原題: W.)』(2009)

・オリバー・ストーンらしい刺々しさ、触れたらスッパリと肉が切れるカミソリのような鋭さがない。

・希代のアメリカ大統領として、子ブッシュの馬鹿さ加減、おぞましさ、おろかさはもう十二分に世の中に広まっているから、いまさらそれを小馬鹿にしても諧謔で晒しても、そこにはもう心を突き動かす力はないのだろう。ブッシュにはうんざり、こんな愚かなばか者の顔なんてみたくもない、もうこいつのオバカ加減は充分分かっているから、もういいよ・・・そんな感じか。

・好き勝手に法律を拡大解釈し、拷問や検閲を合法化し、それでも非難を受けると国外のグアンタナモの留置所でなら憲法に抵触しないと拷問を重ねたブッシュとその政権幹部。そんなブッシュが「拷問は憲法違反なんだよ」と叫んでいるところなどちょろちょろと皮肉は入っているのだが、もうこんなところまで強欲資本主義がのさばると、皮肉を重ねても何も変わらない、蚊のひと刺しにもならない。必要なのはブラックジョークでも皮肉でもなく、直接的で明白な非難、攻撃なのだ。もう諧謔はその力の無さを見透かされてしまっているのだ。

・いつものオリバー・ストーンらしく、もっと危ない部分に切り込み、突っ込んで人々の怒りに火をつけるような内容であったら、もう少し見応えもあり、作品を凝視することもあっただろうが、結局ブッシュをちゃかしても、もうどうにもならないのだ、そんなことをやってももう意味ないのだ、オリバー・ストーンならもっと別の切り口で何かを指し示すべきだし、そうあって欲しかった・・・それがこの映画に対する、そしてオリバー・ストーンに対する失望でもある。


・それでも、こんな大統領を二期も続けて当選させたんだから、アメリカの国民というのも本当に愚かだ。いやまてよ、もっと酷い首相と政治家と官僚どもに長い間この国の舵取りをさせている日本人の方が遥かに愚かで救いようの無いばか者の集まりか?

・なんにせよ、ブッシュやあのころの時代を描いた作品であるならば、マイケル・ムーアのドキュメンタリーの方が何十倍も示唆的であり、面白く、痛烈だ。

・それでも最後にひと言。子ブッシュの大統領任期は2001年1月20日 から2009年1月20日。映画が製作されたのはまだ子ブッシュが在任中だというのが凄いかも? まあ、もうとっくに人物評価は地に落ちていたからだが、イランを攻めているまっただ中だったらこういう映画は作れなかっただろう。こういう自国の大統領を小馬鹿にして、コキ落とすような映画を作ることの出来る自由さ、それを全世界に向けて公開する自由さ、それは今でもアメリカに微かにのこる素晴らしさだ。日本で日本の首相をこういう風に小馬鹿にして扱き落とす映画は、製作費もあつまらないだろうし、掛ける小屋もないだろうし、どこも製作に手を出そうとはしないだろう。しようとしても潰されるかだ。

2011-07-13 『戦争のはじめかた』皮肉やブラックジョークでは何も変わらない。http://d.hatena.ne.jp/LACROIX/20110713

2010-08-22 『キャピタリズム』 堕落した自由の大義は革命を呼び起こすだろうか? http://d.hatena.ne.jp/LACROIX/20100822

2009-12-03 『NHKクローズアップ現代 反骨の映画監督 マイケル・ムーア』http://d.hatena.ne.jp/LACROIX/20091203

2008-11-10 『大統領暗殺』映画としては非常に詰まらぬがこういう作品は必要 http://d.hatena.ne.jp/LACROIX/20081110

2008-04-21 『大いなる陰謀』 アメリカの病の深さ。そして日本も同じか。 http://d.hatena.ne.jp/LACROIX/20080421

2012-01-25 『恋するトマト』出だしはダメだったが、後半は良作。

LACROIX2012-01-25

[]『恋するトマト』(2005)

・副題「クマインカナバー」タガログ語で「ごはん食べましたか?」の意味

・最初のあまりにベタベタないかにもといった話しと展開に、もううんざりして「こういう映画か・・」と観るのをもう止めようかとさえ思ったのだが・・・そこを我慢して観続けていたら、フィリピンで農作業を手伝う辺りから俄然、絵も話しも良くなってきた。最初の1時間近くのふざけた演出は全部取っ払ってしまったほうがいい。(それが実際だとしても、あれではまるで田舎の農業と嫁不足、結婚できない中年を馬鹿にしチャカしているかのような内容だ)後半の真摯さと前半のオフザケがあまりに乖離し過ぎている。真面目な作品はきっちり真面目に作ったほうがいい。変なウケ狙いや観客に媚を売るようなギャグの演出は最低なのだ。前半をしっかり作り、素晴らしい内容の後半に繋げたら、ひょっとしたら名作にさえなっていたかもしれないのに・・・・。

・公開当初、シネパトスや地方の小さい小屋でなんとか上映されていたような作品であるようだが、それを6年という歳月を経て、NHK-BSで放送するというのは、これも素晴らしいことだ。こういう一般にあまり知られていない良作をNHKが取り上げるという姿勢は極めて高く評価できる。今回の放送が無ければ自分もきっとこの作品を知ることもなかっただろう。埋もれている良作を人目につく場所に持ってくるという意味でNHK-BSは映画製作者にとっても邦画にとっても貴重な場所となっていくだろう。回転率重視のレンタルマーケットではその役を担うことは出来ないのだから。

・こういうことが出来るのもNHKならではであり、NHKでしかできまい。批判も多いNHKだが、こと最近の映画放送作品の取り上げ方は非常に素晴らしい。こういう、ある意味埋もれた良作を家庭のTV画面に届けてくれるということではNHKは極めて価値ある存在だし、がんばって映画を作った監督や製作に関わった人たちにとっても、作品が多くの人の目にふれ、知って見てもらえるということでとても嬉しい事だろう。そういう機能は今の日本の邦画界や劇場、レンタル、ソフトといったビジネスの場には無いのだから。

こういったことも映画製作にとってDVD以上にBSの価値を高めていく一端になっていくのかもしれない。

まあ、その分、映画館やソフトの売り上げという部分ではもっと厳しさが増していくのかもしれないが。

JVAの調べではDVDソフトの売り上げは最盛期2005年の半分まで減少したという。http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/120117/ent12011708560007-n1.htm 潤沢なソフト売り上げから見込まれる製作費リクープに頼った邦画バブルは短日で完全に消沈し、同じく二次利用のソフト収益に胡座をかいていた洋画も収益構造の改変に喘いでいる。

企画・脚本・製作総指揮・主演:大地康雄

原作:『スコール』小檜山博、文芸誌「すばる」掲載小説

http://www.daichiyasuo.com/tomato1.html



配給&ゼアリズエンタープライズ

2012-01-18 『落語娘』落語娘ミムラがとてもイイ感じだ。

LACROIX2012-01-18

[]『落語娘』(2008)

・落語? 落伍 落後

・演じた者が必ず命を落とすという呪われた演目「緋扇長屋」のお話

・最初のほうに少しだけ楽屋裏の様子などが出てくるが、映画そのものは落語を題材にしているけれど、落語を突き詰め、落語の世界がどうだこうだというものではなく、落語家に弟子入りした娘を巡る楽しいお話といった感じ。落語がどうこうという人が観るとあれこれあるかもしれないが、落語をそれほど求めず、映画として話しとして観るなら結構美味くまとまっているし、なかなか面白い

・「緋扇長屋」の再現映像はちょっと浅いなぁ。ちょっとぺらぺらと紙のように薄い感じで興醒め。映画の根元に横たわっている話しなんだからもっと落語の雰囲気に合わせてしっかり作って欲しかったところ。落語の奥深さ、奥行き、そういうものは残念ながら無い。でも落語は映画のネタであるわけだからそれでもいいのか。映画のお話としてはまあまあ面白い。落語を突き詰める作品ではないだろうし・・・。ホラー映画のような落語を使ったさらっとしたお笑い話。

・ミムラがじゅげむじゅげむ〜と言うシーンは非常に面白い。ミムラは雰囲気が落語に合っているな。こんな娘が落語をしていたら相当人気がでるだろう。『しゃべれどもしゃべれども』の香里奈よりミムラのほうが落語の色合いに合っている。



『しゃべれどもしゃべれども』(2007)

2011-12-15 『ギプス』

[]『ギプス』(2001)

佐伯日菜子の細くすらりと伸びた足が見事に美しい。エロチック。大きな瞳でエキゾチックな美人だなと再認識。本来はもっと人気が出てもよさそうなものだが、個性が強過ぎたか。

尾野真千子は幼さが残る可愛らしさ。若い頃は今連続ドラマに出ている顔つきとはずいぶん違う。1981生まれでまだ20歳の若さの魅力がこの頃は、ある。

ギプスをはめて、包帯を顔や美しい手足に巻いて、眼帯をしたきれいな若い女性の姿というのは、男の下心を刺激するのか、なんだかよく見るような気がするが、いわゆる綾波レイとラストの二人がだぶる。

この手の広がりがなくて、内に向かっているような、監督一個人の嗜好が殆どといったような映画は、この先なかなか撮れなくなっていくだろうし、製作されなくなっていくだろう。現状の邦画がまさしくそうだ。

カナリアhttp://d.hatena.ne.jp/LACROIX/20100517

どろろhttp://d.hatena.ne.jp/LACROIX/20070201

2011-12-10 『スティング』文句なしの名作だ。

[]『スティング』

●観るのはこれも超久しぶり。前に観てから10年以上経つ。名作中の名作だという思いは今回より強くなった。映画らしい映画だし、本物のエンターテイメントだなと強く思った。

●映画のもつ雰囲気がとてもいい。今の映画にはない格だとか、自信だとか、気高いものがあるような気がするな、この作品には。

●何度も書いているが最近の「繰り返し観ましょう」なんて姑息な興収アップのPRはおぞましいし、映像のなかに一回観ただけではわからないような伏線を張って、あちこち間違い探しや宝探しをさせるような映画は映画にあらずと思っている。そういう昨今のダメダメ映画とはちがい、このスティングはしっかりとした伏線と驚くようなその回収。最後の最後には観客まで騙されていたことに気が付き拍手をしたくなるような終わり方など、文句なしだ。

●この映画には映画を通して観客に楽しんでもらおうという思いがある、金儲けの為に何度も観させるような下衆な下心なんてない。純粋に映画として人を楽しませようという今は殆ど吐息がかすれるほどになった映画人の気高さや誇りや格の高さがこの映画には漂っている。

●一回観て、仕込まれた伏線も仕掛けもちゃんと分かって、見終わってすっきりと清々しく晴れ渡るような気持ちになる映画。

●やはり名作だ、今の映画は映画人はもっとこういう映画を見習うべきだ・・・状況から難しいとはわかっているけれど。

●本当に久しぶりに観て、物凄く嬉しくなった、楽しかった、感嘆した。流石の名作だ。