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2017-12-22 『スターウォーズ/最期のジェダイ』完成度は高い、だけど何かが違う

[]『スターウォーズ/最期のジェダイ

☆☆ネタバレあり☆☆

・待ちに待ったスターウォーズ EP8の公開! 事前の情報予告編などから想像していたことはすべていい意味でひっくり返され、期待にそぐわぬ素晴らしい作品に2時間33分スターウォーズの世界にどっぷり浸かって、物語を堪能! 目の前のスクリーンのなかで片時の別世界を味わえた。文句なしの満点だ、100点満点、映画映像としても極めてハイレベルなところに達している。人が絵をどうみたら、どういう角度でどういう配置で並べたら最も効果的に臨場感や恐怖感を味わえるかという点も極限まで計算されていると言えるだろう。そのくらい映画としてのできが良い。・・・だが、観終えて時間が立つに連れて・・・気持ちが少しずつ変化してくる。確かに素晴らしい映像、脚本の作品だ、だがそれ以上のなにか、満点を超える何かが無いかもしれないと。

・脚本は練に練られている。物語の整合性に疑問がでないように、きっちりとした話の理由付けが明確になされていて「あれ?」とか「ここおかしいんじゃない?」と観ていて思うようなところはほぼなかった。」(後から何点か思いつくところが出てきたが) ストーリーの流れもほとんどひっかりがなくスムーズだ。上映中も上映が終わっても「うーん、これは隅々まで感覚が行き届いた実にクオリティーの高い映画だ」「拾にスキがない、なんて密度が高く、がっしりと四ツに構えた映像の集合体なんだろう」とほぼ陶酔状態だったのだが・・・しばらくすると、だんだんと魔術が解けてくるように何かが足りない気持ちが沸き上がってきた。

とりあえず一回観ただけなので記憶が不確かだったり、間違えてとらえてしまっているところもあるかもしれないが、気になるところを、気に入った所を羅列しておくとしよう。

☆《ヨーダの造形に泣けた!》

前作『フォースの覚醒』では監督エイブラハムがSW過去作へのオマージュ、回顧に走りすぎているという批判があったが、長らくのスターウォーズ・ファンとしてはそれはそれでワクワクドキドキしてとても良かった。ハン・ソロチューバッカがミレニアム・ファルコンに戻ってくるシーンは感涙ものだったし。崩れ落ちたスターデストロイヤーや、AT-ATスノーウォーカーが画面に出てくるたびに歓喜した。

《 2015-12-22日記 『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』SWファンにとって最高の傑作 》

今作では前作で批判も受けた懐古主義的な部分は少なくなっているという話を聞いていたが・・・なんのなんの、所々にファンなら喜ぶ旧作SWのセリフや映像がさりげなく散りばめられていて、なかなか憎い作りであった。そんな中で1番良かったのはヨーダの登場シーン。CGIの技術は格段に進歩していて、もはやどんな映像でも作れないものはないという状態であるのに、今回のヨーダ−はなんとその最先端のCGIで「エピソード帝国の逆襲」に出てきたマペットのヨーダ−を復活させているとは・・・監督たちのこのこだわり、この意識には敬服するね。作品の時系列を合わせる意味でもヨーダはEP4-6よりもさらに年齢を重ねているのは分かるのだが、あの1970年当時のマペットの風貌、動きをそのままに再現させているとは・・・お見逸れしました。EP5そのままに、杖をつきながらよちよち歩きをするヨーダ。新三部作のEP1-3でありったけCGIを使ってあのピョンピョン素早く目にも止まらに速さでライトセーバーを振り回すヨーダには驚いたが、ちょっとやり過ぎという感もあった。それが今回はなんとでも動きを作れるはずのヨーダをわざわざマペットのぎこちない動きに合わせて作っている。ここにはスターウォーズへの愛を感じるなぁ。そしてヨーダがルークと並んで遠い空を見上げるシーン。見事にEP5の若きスカイウォーカーとヨーダの並んだシーンへのオマージュ。こういうところにSWファンとしては嬉しくて涙が出てしまう。

☆《完璧なまでに美しい配置》

バージョンアップしたAT-M6ウォーカーのなんともカッコよく強そうで恐怖感のあることあること。AT-ATスノーウォーカーのデザイン上の弱点、足の弱さなどを見事に取り除いてまるで強靭な猛獣の如くにしあげている。並んで登場するシーンは画角、配置ともベスト小津安二郎人間、道具の配置へのこだわりのように、この登場シーンはそれぞれの位置関係、観客からの視点など徹底的に計算されて場の雰囲気を作り上げている。このシーンは素晴らしい絵であり写真だ。

《全然動かないスターデストロイヤー》

なんでもかんでも大きく、大きくすればいいってもんじゃないと思うが、今回の作品でメガ・スターデストロイヤーというやたら横にただ長いだけのような全長60kmとかいう設定の巨大艦船が出てきた。たしかにデカさに凄いなぁとは思うのだが、これただ浮かんでるだけ。そしてもっと悪いのは、いままでのシリーズ帝国軍の圧倒的な力の象徴でもあったスターデストロイヤーが相対的にちっちゃくなってしまって、後ろの方にこれまた浮かんでるだけ。ほぼ戦闘、攻撃にも参加してない。「なんだよ、スターデストロイヤー全然動いてないじゃないか」とスクリーンを観ながらイライラ憤り。今回の作品からファースト・オーダー・ドレッドノートなるスターデストロイヤーの2.5倍、19kmもある新艦船も出てきているということだが、メガ・スターデストロイヤーがでかすぎてこのドレッドノートもまるで目立たず。というかこういう馬鹿みたいにデカイ船をわざわざ設定しちゃったために、旧3部作のEP4冒頭で、あのスターデストロイヤーがドーンと出てくるあの巨大感にのけぞって驚いた体験がちゃかされてしまった。正直意味なしというくらい大きさだけを強調した今作品の船艦のせいで、過去の作品が持っていた素晴らしい映像体験やイメージまでもぶち壊してしまったといえるだろう。これはSWファンとして声を大にして非難する! 

《ポーグはただのおちゃらけキャラだったのか》

可愛らしい姿で公開前から注目されていたポーグ。ファルコン号でチューイと一緒にコックピットにいる映像などからも、このちっちゃくて可愛いキャラがどういう力をもっているのだろう。チューイと一緒にファルコンを操ってなにかもの凄い活躍をするのだろうか? などと想像していたら、ただ単に可愛いだけのおちゃらけキャラだった。重力がかかって窓にぎゅ〜っと押し付けられるシーンだとかは笑えたが、完全にディズニーのキャラ売り戦略の部品というだけだったとは。もうフィギアぬいぐるみを売るためだけに追加したキャラという魂胆がミエミエでどうしょうもない。それとも次回作でなにか活躍するシーンでも加えられるのかな? そうでないとあざとすぎるもんな、このキャラは。それでもイウォークやジャージャービンクスよりは良いって? 確かにそうか・・・・(-_-;)

《スターウォーズに燃料切れの話はダメダメだろう》

宇宙の話はねぇ、色々あるけけど、それをやっちゃいけない、それは当然のこととして受け入れた上で観てないとどうしても辻褄合わなくなる部分は出てくる。1番はっきりしてるのは爆発の音。宇宙じゃ音しないでしょ、ドーッカーンとかね。でもそれは目をつぶって見てるわけだし、音がしなかったら映画としてやはりつまらない。(キューブリックは音を消したけど)、同じくこんな巨大船艦で食料はどうしてるの、水はどうしてるの、空気は・・・そして燃料は?? イオンエンジンは、ハイパースペースドライブは・・・いろいろ未来の技術が開発されて現実世界のように燃料に煩わされることはほぼなくなっているという仮定の上で宇宙物の映画をみんな見てるわけで、燃料どうしてるんだろう、こんなに飛べるはずないだろう、嘘だ!と言ってしまったら全部話が台無しになってしまう。だからそういった現実世界的な制約は取り除かれているとう仮定でSF映画はみんな観ているわけなのに・・・燃料がもちません、後何時間でなくなります・・・ていうのをストーリーにいれてしまうのは、大大大失敗、失策なのだけどねぇ。監督や脚本家はこれだけ素晴らしくまとまったストーリーを作り上げたのに、その部分は気が付かないのか? それとも話を作り上げる発想力が足りなくて、つじつま合わせで燃料不足をもちだしたのか? 何にしてもダメダメ

ハイパードライブで敵艦に神風アタックダメだろう》

これも、今回やっちゃったら、今までだって危機に陥ったときにただ撃ち落とされるんじゃなくて、ハイパードライブで突っ込めばスターデストロイヤーもやっつけられただろう・・・と思うよねぇ。ホルド提督がカミカゼアタックでメガ・スターデストロイヤーに突っ込み爆破するシーンは少しウルウルきたけれど。

《ハイパースペース・トラッキングシステム

ハックス将軍が「奴らに紐を付けておいた」とするハイパースペースを超えても相手を追跡出来るというシステム。これに対してフィンとローズが「奴らの追跡システムを破壊するのよ」というのが物語の大事な筋になっているのだが・・・なんで、追跡されてるって分かったら、本体の追跡システムを壊そうということになるのか? 相手の追跡システムを解除しない限り、永延に後を付けられてしまうと考えるんじゃなくて、普通に考えれば自分たちの居る船に何か追跡システムに信号を送る装置が付けられている、それを探して壊そうと考えるでしょ。つまり発振器、ビーコンがどこかにあるって考えるのが当然なんだけど。。。sらにおかしいのは、レイには居場所がわかるようにビーコンを持たせてる・・・ハイパースペース超えてルークの居る星にいってるのに?? んー、もうこういう部分でで突っ込み所満載なんだよなぁ。いや、全体的に脚本の出来は素晴らしいのだけれど、サラーッと見ていると粗にはあんまり気が付かないんだけど、よく考えると、監督や脚本家達が“よく考えていない”ところがあれこれ見えてくるんだよなぁ。大体にして30年以上前の設定となる『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』でオビワンが逃げるジャンゴ・フェットのポッドに追跡用の装置を投げつけてくっ付けるシーンがあるじゃない。てことは、ずっとまえからそういうシステムは出来ていたんじゃないの? とか言いたくなるんだよね。

コードブレイカーの話は伏線が回収されていない》

マズ・カナタがファーストオーダーの暗号破りはこの目印を探せ!といって示した花のバッジみたいなやつ。カジノでその目印を付けてた奴はあれ、誰なの? デル・トロ扮するDJが実はあの目印を付けてるやつにだまされて監獄に入れられた、というなら話もまあ繋がるが、あの目印に関しては映画のなかで結局何のお話もなし。伏線がまるっきり回収されず投げ捨てられてる状態。今回の映画公開版は上映時間153分と現状でも長尺だが、監督のライアン・ジョンソンが完成版から50分近くをカットして劇場公開版にした、未公開部分はブルーレイに収録するなんてことを言っているので、ブルーレイになったところで、あれこれつじつまの合わないところや、なんかここが変だという部分が分かってくるのかもしれない。それにしても、2時間33分もありながら話として???と疑問に思った所が何箇所かあるので、この劇場公開版はディレクターズカットじゃなく、短縮版という扱いになってしまう可能性もある。ロード・オブ・ザ・リングのときも同じようなことやってたな。これもソフトを売るためのあざとさに思えるが。

いきなり出てきたけどマズ・カナタが「労使交渉やってるんだよ」といって銃撃戦してるのはちょっと笑った。マズ・カナタも不気味な老女じゃなく、なんかヨーダ的なウケ狙いキャラにしようとしてるのかもしれないが。

《毎度のことだがシスってあっさり殺られる》

ファーストオーダー最高指導者スノーク。フォースのダークサイドを使い手、シス。だけど・・・あっさり殺されるよなぁ。それだけ強いのに、人間の心も読めるのに・・・。真っ二つにされるというのはお約束をきちんと踏襲してるが、それにしてもなんかあっさり過ぎ。でも考えてみれば、EP1でのダース・モールもあっさり、あれぇ〜という感じで真っ二つ、いとも簡単に殺られた。ドウーク伯爵もあっさり首を落とされるし、絶対勝ち目なさそうだったパルパティーンは反応炉に突き落とされて死んじゃうわけだし、シスじゃないけどグリーパス将軍も、もの凄い強いという話だったのに、オイオイというような情けない殺られ方で死んじゃったし、スター・ウォーズに出てくる悪の皇帝やら支配者、将軍・・・なんか邪悪でもの凄い強そうな設定なのに、ぜんぶあっさり殺られてる。(ダース・ベイダーだけは例外?)ことさら今回のスノークの殺られ方って、余りに簡単すぎないか? なにが最高指導者でなにがシスなの、どこが邪悪でどこが強いの? と思わずにはいられない。

《レイは一体どうして強いフォースを持っているのか》

カイロ・レンがダークサイドに堕ちるきっかけとなった話は巧く出来ていた。ルークがその原因だったとはかなりの驚きであり衝撃的であった。しかしなぁ、ダース・ベイダーの息子であるルーク、双子の娘の子だから孫にあたるベンことカイロ・レンで、カイロ・レンがルークを押しのけてジェダイ寺院を崩壊させるほどのフォースを持っていると言うのはイマイチ納得がいかない。母親であるレイアがダース・ベイダーの娘なのだからスカイウォーカー家の血筋を引いているとしても、母親も父親であるハン・ソロもジェダイにはならなかったし、レイアのフォースが特に強かったというわけでもないんだが。そしてそれ以上になぜレイは他のだれよりも強いフォースを持っているのか? この点に関してはなんら答えが示されていない。レンとレイの会話ではレイが両親から見捨てられたただの娘だという話レイがするわけだが。カイロ・レンとレイの会話のシーンです。カイロ・レンがレイに「お前の両親は何者でもなく、ジャクーでガラクタを回収していた夫婦ですでに死んでいる。お前は見捨てられたのだ」と衝撃の事実が告げられたが、じゃあなんでレイはあんなに強烈なフォースを持っているのか? 

《ハン・ソロは本当に死んだのか?》

これもまたレンとレイの会話でだが、レイが「あなたは父親を殺したのよ」と言ったところでレンが「本当にそうおもうのか」というようなことを言っていた。ん??? 確かに「フォースの覚醒」でハン・ソロはライトセーバーで体を射抜かれ、船艦の底へと落ちていくのだが、実際に死んだ様子の描写は一切なし。葬式もなし。でもレイア将軍が夫であるソロの死を感じたような部分はあった。でも完全に死んだという描写はなかった・・・さてここもどうなるのか?

《ルークのホログラムダメでしょ》

もうさぁ、あれをやったらなんだってオッケーになってしまうじゃない。( ´Д`)=3 それとラストレジスタンスの指輪を付けた子供がフォースを使うような場面があり、次回作への希望につながっていくようなシーンがあるが、なんかこれもわざとらしく、よくよく使われてきたような子供っぽいシーン。まるでディズニーの子供向け冒険物語的な終わり方だ。

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と、ここまで書いてきたら、否定的な所感ばかりになってしまった。この作品を観終えたときには「凄い完成度だ、スキがない、凄い映像だ」と溜息を付くほどにどっぷりスターウォーズの世界に取り込まれ、凄い凄いと感嘆し、かなりの満足感に浸っていたのだが・・・時間が立つに連れて、いろいろなシーンを振り返って考えるに連れて、どんどんと疑問や不満、納得の行かないところが出てきた。

映画の完成度は高い、でも何かスターウオーズ的でない変なものを感じる。商業主義、ディズニーの金儲けの道具的になった部分も大いに感じる。少なくともこれは絶対に言えることだが・・・

「帝国の逆襲」を超える最高傑作!・・・というのは違うな。

当初に予想していた展開は見事にほとんど外れた。カイロ・レンがまるで母親であるレイア将軍を攻撃するかのような予告編の作りや、ポスターで示されたダークサイドに落ちたようなルークの姿も、言ってみれば全部ブラフでありあったな。まるで思っていたこととは違った驚きの展開だったし。でも、その驚きとスター・ウォーズでこれまで感じてきた驚きはちょっと違う。やはり「帝国の逆襲」での「私はお前の父親だ」に勝る驚き、衝撃は無い。自分が映画に求めているものの一つである「やったー!」という爽快感、感動、気持ちよさというものは残念ながらなかったといえるだろう。改めて思い起こすと今までのスター・ウォーズ・シリーズのテイスト、雰囲気から少し違う方向に映画が向きを変えている感じがする。それが次のエピソード9でどうなるか? 新たな3部作まで作られるということなので、ディズニーにしてみればスター・ウォーズはやはり最大のドル箱であろう。

公開から今日で一週間。アチコチに書かれている考察感想、批判、賞賛などを読んでいると、一回の観賞では分からなかった、とらえきれなかった細かな部分を色々と説明してくれているサイトも多々あり、凄いなぁと思う次第。もう少しあちこち読んだり見たりしてから、年内にもう一回観賞しようかなと考えているところ。但し、普通なら二回目は日本語吹き替え版で観賞するのだが、日本語の予告編やCMなどで観るとどうも今回の吹き替えはレイの声にしても喋り方にしてもなんとも軽薄で脱力してしまう雰囲気なので、二回目も字幕で見るかもしれないな。

2017-12-12 いよいよ今週末公開『スターウォーズ/最後のジェダイ』どうなるか?

[] いよいよ今週末公開『スターウォーズ/最後のジェダイ

久しぶりだ、本当に久しぶりだ、これほどまでに公開が待ちどうしい、一体どうなるんだ、どんな展開になるんだと期待と不安に、こんなにもワクワクドキドキする映画は何年に一本だろう。今までのシリーズを通しで観てきたSWファンとしても、今回の『スターウォーズ/最後のジェダイ』ほど期待感と不安が交錯する作品はない、なかった。

ルーカスフィルムを買収したディズニーが作る新シリーズ第一作 エピソード7は不安だらけだった。ディズニーの商魂がスターウォーズという作品を新シリーズでめちゃくちゃにダメにしてしまうのではないか、そんな思いが強かった。しかし、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』はそんな不安を払拭し、やったぞ!という大喝采を贈ることの出来る素晴らしく気持ちのいい作品であった。(エピソード4の懐古的要素が強かったのが、かつてのファンにとってうれしかったという部分も大きいが)

そして2年を置いて公開される今回のエピソード8『スターウォーズ/最後のジェダイ』は新シーリーズの序章であったエピソード7の懐古的な内容から大きく話が飛躍し、大団円となるエピソード9に向かうほんとうの意味での本題となる作品であろう。

ちょろりちょろりと作品に関する噂や情報は流れてきているが、本筋に関わる部分はきっちりとした情報統制のおかげで、いったい話がどうなるかはまだまったく分からない。だが、SWファンとして今までの情報を元にして公開前に『スターウォーズ/最後のジェダイ』がどんな話になるだろうかと想像してみた。公開まであと3日。同じSWファン同士で、あーでもない、こーでもないと予想を話し合うのは映画を観る前の楽しい時間でもある。ワクワク感がさらに増幅する。さあどうなることだろうか!

勝手なそしてファンとしての期待を込めてこうなるだろう、こうなって欲しいという思いはこんな感じ。

◎まず第一に「ルークダークサイドに落ちる」

最期のジェダイという副題もそうだが、先日公開された劇場ポスターで示された、ダークサイドの赤に覆われるルークの顔。さrに、闇か!と書かれたポスターのルークはベールをまといまるで父であるダースベーダーの如くである。

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伝説のジェダイ、最期のジェダイであるルーク・スカイウォーカーはダークサイドに堕ちるのか・・・たぶんそうなりそうだ、そうであろう。だから、映画の副題が「THE LAST JEDI 最期のジェダイ」となっているのであろう。(レイアスカイウォーカーの血を引くがジェダイのトレーニングはしていないのでジェダイにはなっていない)

では、なぜルークはダークサイドに堕ちるのだろう。フォースの力を持ったものがダークサイドに堕ちるきっかけ、それはこれまでのSWシリーズで何度も繰り返し述べられてきたように“怒り”と“憎しみ”だ。怒りと憎しみに心が因われたた時、ジェダイはダークサイドに引きずり込まれる。愛するパドメを失った時のアナキンがダース・ベイダーになったのも悲しみを上回る怒りと憎しみに心が支配されたからだ。皇帝パルパティーンはその期を逃さず、アナキン・スカイウォーカーをダークサイドに導き、自らの下僕としてダース・ベイダーに変えた。

では、ルークがどんな怒りと憎しみでダークサイドに堕ちるのか。ジェダイとして帝国軍と皇帝パルパティーンを破り銀河平和を取り戻したほどのルークが、まさかのダークサイドに堕ちるほどの怒りと憎しみとは何か?

それはカイロ・レンによる親殺しであろう。

エピーソード1−6までのシリーズのテーマはダースベーダーの贖罪であった。またルーカスがこのシリーズにヨーロッパ神話から取り入れたものの一つとして、親殺しの罪とそれに対する右腕を切断する罰、そして贖罪というものがあった。その要素は新しいシリーズにも取り入れられていて、前作『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』ではカイロ・レンが父親であるハン・ソロを殺すといういたましい場面が衝撃的であった。(ハン・ソロがほんとうに死んだかどうかはまだ???だが)

ジェダイであるルークならば共に帝国軍を倒すために戦ったハン・ソロの死に気がつかないはずがない。しかし、遠く銀河の辺境の地でジェダイであることを隠し、身を潜めていたルークはフォースの力も内に閉じ込め自分の居場所を悟られないようにしていた可能性がある。するとつまり、ハン・ソロの死も感じ取る、知ることは出来なかったのかも知れない。

そして、今回の作品の予告編で分かるようにカイロ・レンは自分の中に残るライト・サイドを消し去るために母親であるレイアを殺す。あまりに酷い話だ、カイロ・レンは自分が師と仰ぐダース・ベイダーに近づくために息子でありながら自分を産んだ父と母をも殺すのだ。これはほんとうに酷い話である。

しかし、ルークは未だそのことを知らない。フォースを目覚めさせたレイにジェダイのトレーニングをする中で迷いや不安に苛まれている。そこに、レイアを殺したカイロ/レンが最期のジェダイであるルークを抹殺すべく、トレーニングを続けるルークとレイの前に現れる。そしてルークに告げるのだ「ハン・ソロもレイアも俺が殺した」と。

カイロ・レンが無二の親友であるハン・ソロと、双子の妹であるレイアの二人を殺したことに、ルークの怒りは爆発する、抑えていたフォースの力を解法する、それはカイロ・レンに対する激しい怒りと憎しみを伴って・・・そして、それはファーストオーダーの指揮者であり、シスの暗黒卿であるスノークが巧妙に仕組んだ罠だったのだ。スノークは善の心を残すカイロ・レンを利用して、本来のスカイウォーカー家の1人であり、ダース・ベイダーの子である最もフォースの強いルーク・スカイウォーカーをダークサイドに引き込むことが本当の目的だった。カイロ・レンはそのために利用されていたのだ・・・・。

と、ここまでは今までの情報から『スターウォーズ/最後のジェダイ』のストーリーを自分で勝手に推察したものである。さて、15日に公開される映画本編を観てどうなるか、楽しみでもある。

まあ、ここまで話がくれば「最期のジェダイ」という副題にもダークサイドの側に落ちたようなルークの劇場ポスターにも納得が行く。

さてと、その後はどうなるかだ。今時点で公開されているトレーラーでは、レイが泣きながら「私には誰かが必要なの、私の居場所を示してくれるだれかが・・・」というセリフに続けて、カイロ・レンが手を差し伸べるている。

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最初これを観た時、レイまでがダークサイドに引きずり込まれるのかと思ったが、ひょっとしたら・・・ジェダイのトレーニングをしていたルーク・スカイウォーカーがダークサイドに引きずり込まれてしまう、そしてカイロ・レンは、自分がスノークに利用され、父と母を殺し、それは実はルークをダークサイドに引き込むための罠であり自分はスノークに利用されただけなのだと気がつく。

そして、カイロ・レンとレイは二人で力を合わせて、ファースト・オーダーとスノークを倒す事を誓う。。。。それがエピソード9に繋がる・・・・なんていう結末を期待したい。

最初は『スターウォーズ/最後のジェダイ』はどうにも暗い暗い、どうしょうもなく重い、希望のないストーリーになるのではないかとも考えていたが、もしカイロ・レンとレイがスノークの陰謀に気が付き、二人で手を合わせてファースト・オーダーを破り銀河に再び平和を取り戻すんだ!という話につながるならば、夢と希望は潰えていない。ルーカスがSWシリーズに仕込んだ親殺しへの贖罪というテーマも、両親を殺してしまったカイロ・レンがその贖罪のために、ファースト・オーダーとスノークを叩き潰すというのであればなんとか話に筋も通りそうだ。

さてはて、どうなるか? なんにしても暗いストーリーで終わって欲しくはない。最期には次のエピソード9に繋がる大いなる希望を持たせたエンドになって欲しいと願ううばかりだ。

まだ他にもポー・ダメロンにしろフィンにしろ、色々なストーリーはありそうだが・・・とりあえずメインに3人に関しては色々話て、こんな感じかな? もしくはこうなって欲しいという希望がこれだな。

あとは、ちょっと冗談だが、フィンとキャプテンファズマが対決するシーンがあるが、もしかして、キャプテン・ファズマが「I am your mother 私がお前の母だ」なーんて言わないだろうなぁ〜。まあそうなったら笑っちゃいそうだけど。

さあ、15日金曜日を楽しみに待とう。

追記:12月9日に行われたハリウッドでのワールドプレミア上映後のツイートなどが少しづつネットに上がってきているが、多くの人が今回のエピソード8を大絶賛しているようだ。しかもSWシリーズの中で最高傑作と言われるエピソード5「帝国の逆襲」をも凌ぐシリーズ最高傑作だという声も。そして多くの人がルーク・スカイウォーカーを賞賛している。ということは、ルークはダークサイドに落ちてスノークの配下になるというのは考えにくいか。いっときダークサイドに囚われるが、レイや他の登場人物の力でダークサイドから抜け出し、スノークに大打撃を加えそして死んでいく・・・そういう感じでエピソード9に繋がるのかも? いやはや詮索ばかりしていても仕方ないのではあるが、こうして期待に胸膨らませてあれこれ考えているのが一番楽しいかも。いや、実際の映画を観て、思い切り感動したときのほうがやはり最高だろう。公開が待ちきれない。

2017-09-04 『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』これもダメダメ

[]『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』

・第一作に続き、この第二作ももうどうしょうもない

・「ワンダーウーマン」がなかなかに良かったので、シリーズ的に前作に当たるが未だ観ていなかった「バットマンVSスーパーマン」を観てみたのだが・・・。

・やっぱり暗くてなんかやだね。キッパリその一言に尽きる。なにせ、シリーズ第一作に当たる「マン・オブ・スティール」がどうしょうもない一作であったから、それに続く「バットマンVSスーパーマン」も、どうせ下らないだろうと観ないでしまっていたのであるが(予告編やCMも「エイリアンVSプレデター」みたいに、ただ人気のキャラを戦わせてるだけというおうな、なんだこりゃと言いたくなる程に酷かった)まあ予想通り溜息がでるような話であった。

・アメコミの二大巨塔であるマーベルとDCのうち、マーベルはスパイダーマンから始まって、アイアンマン、アベンジャーズとどんどんヒット作を量産し、イケイケドンドンの状態なので、DCとしてもそれをただ指をくわえてただ悔しがっているだけではならぬと奮起したのはいいのだが、新しいシリーズを生み出す方向性を完璧に間違えてしまっているとしか思えない。

・クリストファー・ノーランに頼んだバットマンシリーズは、ノーラン独自の味付けで、今までのアメコミのイメージから離脱し、非常に重く、真面目、現実的な路線に大きく舵を切り、それが「ダークナイト」で超特大の大成功を収めた。DCとワーナーとしてもその成功の味が忘れられないから、もう一回ノーランの手法に乗っかって、自分たちの持っているヒーローシリーズをまったく新たなものに作り変えて大ヒットをさせたいと期待しただろう。だから「ダークナイト」で思い切りシリアスで現実的な映画にバットマンを作り変えたやり方を、もう一度ノーランにやってもらって、事を上手く運ぼうとしたのだろう。だが、それは大いに裏目に出た。マーベルを真似て自社ヒーローでシリーズ化を狙った最初の作品である「マン・オブ・スティール」は映像は充分に良いのだが、話が・・・コミックで親しんでいたスーパーマンのイメージを全く踏襲せず、いかに現実的に見せるかというところにばかり拘って、「このシリーズのスーパーマンはこういうことになりますから、今までの話とは違いますよ、今までのスーパーマンは忘れて下さい」とでも言っているかのようで、スーパーマンの出自やSマークの意味も、無理やりこじつけたとしか言いようのないとんでもストーリーをさも平然と観客に披露した。しかもそれが押し付けがましく、またクリストファー・ノーランの今までの作品にあまりにも似すぎ「ダークナイト」の成功体験をそのままスーパーマンに移し替えたような、ノーランの手垢がべっとりこびりついているような作品であった。

・大ヒットし評価の高かったダークナイトの味付けで、ストーリーも同じようにしてバッドマンをスーパーマンに置き換えて映画を作れば観客に受けることは間違いないだろう。DCのヒーローシリーズの第一弾として大成功を収め、その後にどんどんヒーローシリーズを量産してマーベルを凌いでやるんだ。と舌なめずりをしたが、大いなる大失敗となる。

・もともとスーパーマンとバットマンはアメコミのヒーロでも陽と陰をあらわす代表のようなもの。明るく健やかで健康的なスーパーマンに、暗く陰湿でダークなイメージのバットマンを重ねるとは言語道断。観客はなんだこれは、今までのイメージを無視するにも程がある!とそっぽを向いたわけだ。

ハリウッドのマーケティングなんてそんなもの、元々暗いイメージのバットマンを雲が覆いかぶさっているような暗く現実的な映画にしたのは筋としてあっているが、普通に考えたらスーパーマンをその筋に重ねるなんてしないだろう。単に「こっちで大ヒットしたかあ、あっちでも同じやり方にすれば当たる」というような短絡的な考えしか見えてこない。

・この最初のとんでもないミスでDCコミックのシリーズ映画化には急ブレーキが掛かる。「マン・オブ・スティール」の続編製作は延期になり三年も掛かってようやく『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』に辿り着いたわけだが、前作のイメージを引きずった第二作も、アメコミヒーロー物であるから、そこそののヒットにはなるが、期待された大ヒットには程遠いもので終わる。

・映像的には文句無いクオリティなのだが、ストーリーが・・・相変わらずのノーマン節爆裂。(監督は違うのにそういう方向にさせられてるんだろう。またはノーランが指揮してる?)

どう考えても「ダークナイト」に似ているストーリー展開、キャラクターの配置。観客はそんなに甘くない。なんだこれはとスクリーンを見ながら不満が溜まっていったことだろう。

・まあ、これじゃダメだというところは山のようにあるのだが、いかにもなノーラン節というのが「バットマンVSスーパーマン」にもお決まりのように出てくる。そしてお決まりのようにガッカリさせられる。またこんなこと繰り返しやってるのかよノーランは、と。「ダークナイト」のジョーカー、「ダークナイト・ライジング」のペイン、こんな奴とっととやっつけてしまえと思うキャラクター設定でありながら、まさに無理に生き残らせる。普通ここでバーンとやってしまえばやっつけられるだろう、殺せるだろうと思うのに、それをしない、させないなんとも煮え切らないストーリー。もうワザと殺さないで生き残らせてるんだろうっていう作りのあざとさがバレバレで感じられるから白けてしまう。それがこの作品でもまたレックス・ルーサーJr.で同じことをやってるんだから、見ている途中でオイオイまたこれやってるのかよと頭にきてしまう。スーパーマンはレックスビルの屋上でルーサーをぶち殺しちゃってもぜんぜん問題ないじゃないか。スーパーマンの能力があれば育ての母であるマーサが監禁されている場所なんて見つけられるだろうに。だれだってそう思うに違いないのに、ルーサーが「俺を殺したら母親の居場所はわからなくなるぜ」なんて幼稚なセリフを吐かれて手も足も出せずルーサーを逃してしまうスーパーマン。こういうところが馬鹿げているんだよなぁ。もうわざとらし過ぎて嫌悪感バリバリのシーンだ。ノーランの映画にはこういうお馬鹿シーンが必ず入っている。それまできっちりシリアスにリアルに映画を構築してきているというのに、こういう誰が見てもそりゃおかしいだろうという現実的には合わないシーンが、話の展開のつじつま合わせの為にはいっていて、それでガクンとトータルのクオリティーを落としてしまう。ノーラン病とでも言うべきアホさ加減であろう。それが「バットマンVSスーパーマン」でも予想に違わず出てきたので、ほとほと溜息。

・この映画のストーリーの基礎となるところは、バットマンがスーパーマンによって自社ビルを壊され、社員も死に、そこからウェインはスーパーマンを殺してやるというほどに憎むようになり、財力をふんだんに使ってスーパーマンをやっつけようとする、のだが・・・・途中スーパーマンが母親の名前を呼んだだけで、なんでお前それ知ってるの? と、それだけであっさりスーパーマンと和解して仲直りをする。ここまで激突繰り返してきたのが全部エッという驚きとともにチャラになる。これもまたノーランらしいズボラな手前勝手な自己中のストーリー展開。(まあ、ノーランは監督ではないけど)

・クリプトン星人を蘇らせるにしても「その行為は禁止されています」と警告を受けながら「元老院はもうないんだ」というルーサーの一言で、人工知能が「はい、それではやります」と人間のルーサーにへいへいと従っちゃってるのも馬鹿げてるし。バットマンがあれだけブクブクのスーツというのも見るからに格好悪いし。モンスターも、なんじゃこれはウルク・ハイかトロールかっていうなんの目新しさもないハルクの奇形みたいなデザインだし。(デザイン以前の造形かも)

・ということで唯一この映画のなかで心が踊ったのは、やはりワンダーウーマンが登場するところからだな。ワンダーウーマンにはバットマンやスーパーマンみたいにドロドロ、ネチネチしたところがなく、スッキリ爽やかカッコイイ、アメコミ・ヒーローがそのまま描かれていて非常に好感が持てる。

・まあ、見なくてもいいやと放おっておいたこの作品だが「ワンダーウーマン」が非常に良かったので、前作からの流れをつかむためにと見てみたが、やっぱダメだねこの映画。前にも書いたが、DCとワーナーはマーベルの大成功に歯ぎしりして、なんとかこっちも大ヒットシリーズを作ろうと、ジャスティス・リーグの構想を思いついたのだろうが、「ダークナイト」でのクリストファー・ノーランの大成功にうつつを抜かし、きっちりとしたマーケティングも行わず「ダークナイト」の手法で「ジャスティス・リーグ」を構築しようとした、そして、それは第一作目「マン・オブ・スティール」で出だしから大コケし、第二作の「バットマンVSスーパーマン」でなんとか形勢逆転を図るが、結局「ダークナイト」成功の甘い呪縛から抜けだせず、またしても大コケ。ひょっとしてこのシリーズもう途中打ち切りにするんじゃないかという状態まできたところで、この方向性で次もやったらもうオシマイだと気がついたのだろう。そしてノーランやら「ダークナイト」の呪縛からまったく切り離された女性監督パティ・ジェンキンスを採用して、リアリティーだとか、社会風刺だとか(まあそういうものもあってもいいが)それよりも本来のDCコミックが持っていたヒーロー物の良さ、アメリカ人に人気があった理由をねじ曲げず、伸び伸びと映画で表現したほうがやっぱりいんだろうと彼女に思いっきり自由に「ワンダーウーマン」を撮らせ、それがなんと全米で大々ヒットになったわけだから、今にしてジャスティス・リーグ最初の二作がなぜ失敗したのかに気がついたということだろう。愚かである。

・さてと、今年の秋にはついに「ジャスティス・リーグ」が公開されるが、「ワンダーウーマン」のこれだけのヒットを目にした後では、もう「ジャスティス・リーグ」をまたノーマン流の暗く陰鬱な方向を踏襲して撮るということはないだろう。それをやったら更にバカでしかない。幸いにして現時点で公開されている予告編を見る限りにおいては「ジャスティス・リーグ」はノーマンと「ダークナイト」の呪縛から離れて、というかもうそんなのダメだ、ヤメたヤメたあんな暗くてしかも当たらない作風なんて・・・と、考えを改めて、純然たるアメコミの良さを楽しさ、ワクワク感を映画に持たせているように感じる。BGMがカム・トゥゲザーっていうのもイケてる!!

・さてどうなるか、期待したいところだけどね。

☆ワンダーウーマンのこの登場シーンは最高!!

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2017-09-02 『ワンダーウーマン』かなりカッコイイ!!予想以上に楽しめた!良作

LACROIX2017-09-02

[]『ワンダーウーマン』

●どうにも「スーパーガール」とか「キャット・ウーマン」とか女性主人公のアメコミ映画はなんかいまひとつという印象があって、アメリカで大大ヒットということだが、ホント? どうなるかな? とちょっと疑いの目を向けつつ観た。しかし予想を超える面白さで、これはなかなかに良かったね。

●時代背景が第一次世界大戦の頃というので、うっそ、あんな格好したワンダーウーマンがそんなところに入ってきたら、メチャ違和感バリバリで、もう全然合わないでしょう・・・という予想もしっかりひっくり返された。あのアマゾネスの格好をしてドイツとイギリスの戦闘シーンにとびこんできても、まったく変な感じがせず見ることが出来た。

●映画の作りが非常に巧いね。

●正直なところ、このワンダーウーマンの役をキャプテン・アメリカやマイティー・ソーに置き換えたら、まあそれはそれで通用する似たような映画になるだろうなとは思った。ピョンピョン飛び跳ねて盾で銃撃よけて、もの凄い力で戦車をひっくりかえすなんて、そのまんまキャプテン・アメリカとかマイティー・ソーでやりそうな映像だ。だが、だがだ。そうは思うもののやはりガル・ガドットが演じるワンダーウーマンが銃火器をはね除け、戦車だろうが悪魔だろうがぶっ飛ばされようがなにしようが再び起き上がって戦うシーンは、それが女性ということもあるだろうが、キャプテン・アメリカやマイティー・ソーが同じことをするよりもはるかにワクワクするし、ようしヤッターという気持ちになる。

●同じシーンを演じたとしても、ワンダーウーマンがやるほうがきっと胸躍るのだ。実際そうだった。

●ガル・ガドットはもう三十路過ぎてるから、たしかに美人だけれど、アップになるとちょっとオバサンが入ってるのは否めない。でもそのくらいのほうがリアリティーが出るというものかな。キャピキャピとしたアイドルチックな女性が演じてたらこのワンダーウーマンの魅力はでなかっただろうし。

脚本も設定もいかにもという感じで定番中の定番、アメコミらしい展開。だがそれが王道でもあるだろう。中盤ちょっとまだるっこしいところはあったが、ワンダーウーマンが戦うシーンは満点をやってもいいくらいワクワクしたし、応援したくなる巧い作りだった。

●相手役の男性がいまいちパッとしないところもワンダーウーマンを際立たせるには役立っていたか。それにしても最近は飛行機でバーンというケリの付け方が多いな。昔は高いところからドーンと落とすが定番だったけど。

●なんだか日本のプロモーションが乃木坂46のへんな曲つかったりして、また馬鹿らしいことやってて非難浴びてたり。日本版のポスター予告編なども、ちょっとギャグっぽいおふざけ方向に振っていて、どれもこれもダメダメじゃんという感じ。アメリカで大ヒットなのに日本での出だしがイマイチなのは、プロモーションが下手クソな上に方向を間違ってるとしか言えまい。なんとかウケ狙いで客をよぼうとしてるんだろうが、それが大いに逆引き。

アニオタとかに客層考えてこんな絵柄とコピーにしたのかね。日本版の予告編もそうだけど・・・作った連中はこの映画ホントにちゃんと見てるのかねと言いたくなる。

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●かなり真面目にカチッと作ってあるし、ワンダーウーマンという女性がかなりカッコイイんだから、おふざけウケ狙いの馬鹿げたトンチンカンプロモーションなんかせず。(実際に大失敗だとおもわれ)こんなポスターのように、超カッコイイ、女性キャラクターとして宣伝すればもっと違う結果になっていただろう。

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2016-12-16 『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』最高だったね!!

LACROIX2016-12-16

[]『ローグ・ワン/スター・ウォーズストーリー

注)ネタバレあり

・正直、ローグ・ワンには全く期待していなかった。最初のトレーラーが公開された時、主役であるジン・アーノの顔つきがなんともパッとせず、なんだか暗くて主役を務めるヒロインとしての華やかさや輝きがまったく感じられないというのが最初の印象。

監督がギャレス・エドワーズというのも“ う〜ん ”という感じだった。「あの2014年のハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』の監督。日本の怪獣映画が大好きで日本のアニメなども好きでかなりのオタクというのはまあ映画製作にはプラスかもしれないが『GODZILLA ゴジラ』は内容も出来もチャンチャラ日本の真似事から脱しておらず、ゴジラの造形にしてもこれじゃどうしょうもない。という内容だった」ギャレスが監督するとなると作品のレベルは自ずと知れるだろうという気持ちでもあった。

・しばらくすると6月頃に「ローグ・ワン」の撮り直しがディズニー・スタジオから要求されているというニュースが。ギャレス監督の描く映像があまりに暗く、スターウォーズシリーズに馴染まないとか、監督を交代するだとかそういう話も。このニュースを聞いたときは「ああ、やっぱりなぁ、そうなるか」と思った。自分もトレーラーのイメージがあまりに悪かったからだ。

・その後、追加のトレーラーやキャラクターなどが発表になっていくと、まず第一にあまりにも中国市場に媚びたキャスティングをしている点が鼻についた。まあ、かって日本市場が有力視されたときはハリウッド映画でやたら日本で売ろうという魂胆がミエミエのキャスティングが度々行われた時期もあったので、巨大市場に育った中国を無視するわけにはいかないというのはわかる。だが「ローグ・ワン」はスター・ウォーズという一連の作品の一部なのだ、単発の作品ではない。そこに作品世界の流れを無視したような金儲け主義のキャスティングや演出、脚本を入れることは作品そのものを貶める。ファンが求めているものはスター・ウォーズという一つの夢の世界なのだ。何をやってるんだディズニーは、ギャレスは・・・どうしょうもない! そんな風に思った。

登場人物が並んだビジュアルが公開された時も、え、なんだこれ!と思った。まるで日本のアニメを真似たようなキャラクターの面々。ドラゴンボールとか、そんなアニメのイメージが真っ先に浮かんだ。「ああ、ギャレスはまたこんなことやってるのか、もうだめだ」と思った。やたらどでかい甲冑を身につけたようなゴリラみたいなのは・・・なんか、どこかで見たことあるな。中国人の僧侶みたいなのも・・・んー。これはもう駄目かも・・・。

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・と、何一つ良いイメージが湧いてこないまま、ほんとに、ほんとに、まったく期待せず「まあ、一応観るだけは見ておくか」という程度の気持ちだった。

・そして映画が始まると・・・なんと、あのスターウォーズのオープニングが無い! えー、あれはスター・ウォーズ・シリーズとしては出だしに必須なのではないのか? あれがあるから、あのジャーンがあるから一気に現実の世界から映画の世界に気持ちが切り替わって映画を最高に楽しめるんじゃないか? あのオープニングを抜くなんてなんたることだ・・・と思った。

・そしてしばらく見ていると、なんだか雰囲気がこれまでのスターウォーズ・シリーズと違う。なにか奥行きのようなものが感じられない。薄っぺらな話がすすんいく。「ああ、やっぱりこれはスター・ウォーズらしさがないぞ、これは完璧な失敗作なんじゃないか」そう思えた・・・登場人物たちの演技もどうも軽薄で、重みがない。やはり売れ筋ではないあまり有名ではなない俳優でそろえたせいか、とにかくジワっとくる味のようなものがまるで感じられないのだ・・・。

・しかし、30分を過ぎた辺りからだろうか、ストーリーがムクムクと動き出してくると・・・ん、ん、ん、なんだか面白くなってきたぞ。あれ、なんか良くなってきたぞ・・・なんなんだったんだ最初のあのダメダメ感は、だんだかムチャクチャよくなってきてるじゃないか! と映画に夢中になっている自分に驚く。

・そしてラストまで突っ走る! ダメダメ映画だと思っていた自分のファーストインプレッションは杞憂に終わった。ローグ・ワン!メチャクチャに面白かった。

・いかにもアニメチックなキャラ達で、なんだか冴えない顔つきの連中ばかりだったのだけど、驚いたことにこのキャラ全員が、もの凄くイイ奴らばかりなのだ。それこそ日本のアニメっぽいとも言えるのだけど、あざといなと思っていた例のジェダ寺院の僧侶も・・・いいやつなのだ。ベルズもキャシアンも今ひとつ冴えないのだけど、でも最後にはイイ奴だなって思えるのだ。まったくダメダメなパイロットに思えたボーディ−も・・・泣けるくらいイイ。主役のジーン・アーソも、ほんと今ひとつ華がないのだけど・・・でも、やっぱりイイ奴なのだ。そしてなんといってもロボットの K-2SO が見事なまでにイイ、ひねくれキャラのイイ奴なのだ。そう、ほんとにびっくりした、ローグワンのメンバーが全員、ホントにいいやつらばかりだったのだ。まるでワンピースの仲間みたいな感じだ!

・なんだかセリフも設定も演出も、日本のアニメからかなり持ってきてるなという感じがするのだが、それが却って馴染みやすさにもなっているのかもしれない。

・まあ、もちろん色々ツッコミたいところはあるのだが、見終わった感想は、素直に「よかった、楽しかった! これはなかなかの一作だ」となった。

・ROGUE = 無法者、荒くれ者、はみ出し者・・・・俺たちはローグ・ワンだ! そうか、そうだ、なかなかカッコ良かったぞ!

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《以下完璧ネタバレなので、観終えた方のみどうぞ》

・AT-ATスノーウォーカーの描写はなかなかよかったね。脇からドカンとミサイルを食らって首をガクンと振りながらもまたこっちを向くシーンはオオといいたくなるかっこよさだった。でもやっぱりエピソード5の雪の中のシーンのほうがいいかな?

ダース・ベイダーはスターウォーズ・シリーズ全作品のなかで一番凶暴だったかも? 愛するパドメを失って、ダークサイドに落ち、パルパティーンの元で今が権力とダークサイド・フォースの力の絶世期とも言える時期だろうから、もうぶった斬り殺しまくり・・・いやはや。

スターデストロイヤーに襲いかかるXウイングの集団・・・しっかし、なんで TIEファイターが飛び出してこないんだ。スター・デストロイヤーを囲んで宇宙での戦闘機バトルをするシーンには TIEファイターとのドッグファイトが欠かせないだろう! それがいつまで経っても TIEファイターが飛び出してこなくて、Xウイングだけでスター・デストロイヤーを攻撃してる。「これはありえん」と思ってたらようやく一斉に TIEファイターが飛び出してきて戦闘本格化。オイオイ、遅すぎるぜ、TIEファイターが出てくるのがあまりに遅すぎるよギャレスさん、わかってんの?

・スター・デストロイヤーが真っ逆さまに落ちるシーンはオマージュとして最高!

・そしてだ、一番期待したシーンでもあり、一番よろこび飛び上がったシーンでもあるのだけど、改めて考えるとあれじゃ駄目だと思う、徹底的に駄目だとおもうのが、ラストだ。

・反乱軍兵士が駆けつけた部屋には、白いあの衣服を着た女性がこちらに背を向けて立っていた。そうだ、そうだ、ついにレイア姫が出てくるんだ、どうなるんだ、と振り返ったレイア姫はCGで見事に合成されたエピソード4当時の若々しいレイア姫だった。このシーンを見た時は「うひょー」っとめちゃくちゃ嬉しくなった。「フォースの覚醒」でハン・ソロチューバッカが登場したシーンにも勝る最高のシーンだ。兵士が「これは、いったいなんなんですか」とレイア姫に尋ねる。するとレイア姫は・・・・・

・最高にいいシーンだった、めちゃくちゃ胸がドキドキした。しかしだ、ちょっと思い出すと、あのシーンであのレイア姫の顔つきはないな。なんだかちょっとにやけたような顔つきで「・・・・」と言う。いや、違うだろう。本当のレイア姫ならエピソード4の冒頭で見せたような不安と悲しみ、憂いをもったような表情であるべきだ。沢山の兵士が死んで、ジェダの都市もデス・スターに破壊され多くの人が死んだ中でもたらされたアレを受け取ったならレイア姫は、深い悲しみの中であの言葉を話すだろう。それが・・・なんだか半分にやけたような顔なのだ。ようやく手に入れて嬉しそうな、そんな顔なのだ。おいおい、ギャレス! あの顔はないだろう。せっかくレイア姫を復活させたのに、なんで表情にもっと気を配らなかった、その辺がまだまだギャレスの監督としての若造ぶりなのかも、しかしスタッフにしろなんにしろ、あの表情はおかしいとすべきだろう。(ちょっと怒り)

・スター・デストロイヤーがなんかやたら真っ白で塗装をしてないプラモデルみたいなのがあったり、爆発して人やトゥルーパーが吹っ飛ぶシーンが、どれもこれもいかにもワイヤーで引っ張ってますってわかるような飛び方してたり、そしてそういうのが何度も繰り返されたり、そういう細かいとこにも気になる部分が多々あった。

・そしてまたラスト近くだが、ジーンとキャシアンの最後となるシーン・・・これってまんまディープ・インパクトじゃないか。もうちょっと工夫しろって言いたい。

・最後に、何よりも驚いたのは、いかにこのローグ・ワンがスターウオーズ・シリーズのスピンアウト作品で、一作限りの物語だとしても、まさか全員が最後に消滅してしまうとは思いもしなかった。俺たちは荒くれ者さ、ローグ・ワンさ! そういって仲間になり助けあってデス・スターの秘密を手に入れる。最初はおもっていなかったけど、ローグ・ワンの面々は本当にイイ奴ばかりだった。そのイイ奴らが全員最後には消滅してしまう物語だなんて、ちょっとそれは悲しすぎた。

・いずれにせよ、期待度ほぼゼロだったのに、この「ローグ・ワン スターウォーズ・ストーリー」はなかなかに最高の気分にさせてくれる映画だった。他のスターウオーズシリーズと色彩の並びはちょっと違うが、なんだか日本のアニメっぽくもあるが、そういう思い以上に、もの凄くいい作品、胸が高鳴り心躍る素晴らしい映画だったといえよう。

2016-09-01 『君の名は。』予想を遥かに超える日本でしか出来ない映像美

LACROIX2016-09-01

[]『君の名は。』

・異様にでっかい目、瞳の中に星というか白い光が1つ2つ・・・なんかこういういかにも少女漫画雑誌に出てくるキャラそのまんまでアニメオタが好むようなキャラクターには正直もう、かなりの抵抗感があり、ちょっとそれはなぁ〜っていう拒絶感もあって、さてはてどうしようかと考えていたのだが、新海誠に関しては種子島が舞台になっている『秒速5センチメートル』が少女趣味ではあるがなかなかに良い作品であったし、とにかくロケット打ち上げのところとか、都会の春の映像とかがものすごく美しく綺麗だったので、今回もそういった部分に期待して観てみた。

・最初は瀧にしろ三葉にしろ登場人物の顔つきがあまりに少女漫画、アニメっぽくて、やっぱり抵抗感がありありで、ちょっと引き気味であったのだが、段々、段々と非常にテンポのいい展開にドンドン引きずり込まれていき、しかも先がどうなるか全く予想が付かない、次から次へと驚きの展開にもう「これは面白い!」と夢中になってしまった。

・昨年、かなり早い段階で公開された特報の美しい彗星と雲を突き抜けて落ちてくる隕石らしきものの映像、まさかそれがこんな話になるとは、本当に予想外で見事であった。

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・「誰そ彼」「彼は誰」薄暗くなった夕方は人の顔が見分けにくく、それが誰そ彼(たれそかれ)から黄昏という言葉になり、同じく薄暗い明け方を彼は誰(かわたれ)で、と古典の和の言葉が作中で語られる辺りから、ん、ん、なんだか話が深くなってきたぞと期待が膨らみ、それがこんな凄いストーリー展開に繋がっていくとは!!

・「誰そ彼」つまり夕方の薄暗くなる、昼と夜の移り変わる時刻、黄昏どきが、逢魔時(おうまがとき)、大禍時(おおまがとき)と呼ばれ、魔物に遭遇する、あるいは大きな災禍を蒙るという話はこの映画を観て初めて知った次第。

・入れ替わった瀧と三葉が、薄暗くなって、あなたは誰、彼は誰とわからなくなる時に時間や空間の壁、距離を超えて巡り逢う、その黄昏時のほんの一瞬の恋、しかしそれは好きな人に出逢う時間でもありながら、逢魔、つまり魔物にも出会ってしまう時間、その魔物が大きな禍(わざわい)とは・・・んー、新海誠はなんて凄い物語を考えついたんだろう。素晴らしい、見事な脚本、物語だ。

・口噛み酒(くちかみさけ)なんていう神事とか、岩室のなかにあるお洞だとか、日本の神話、伝記、古事記なんかに通じているようなモチーフも作品になんとも日本的で神秘的な響きを与えている。

・日本の映画って、なんだか外国のヒット作の、ああ、これってあのシーンだとか、あの演出とかを取ってるなぁ、と感じてしまうところが多いのだが、この『君の名は。』に関してはそういった所がまったくなかった。男女が入れ替わってしまうというは大林監督の転校生ばりではあるが、またそれとはまったく別物だし、兎に角観ていて他の作品を彷彿させる場面がほとんど全くないのだ。昨今の映画は作中に「これってあの映画のあのシーンに似てるな、取ってるな」なんて感じる所が一箇所、二箇所位あるものなのだが、この映画に限ってはまったくそういう風に感じさせる所がない。完全純粋100%オリジナルの絵であり、物語であり、展開であり、演出なのだ。もうそれは全部が今まで見たことのない映像、演出、物語と言ってよく、その連続は一瞬足りとも観ていて飽きない素晴らしい作品でありその体験でもあった。

・映像の美しさは言うまでもなく、美しいという以上に心がなんだかホッとする映像なんだな。日本人が生まれてからずっと身近に感じてきた日本の美しさ、すぐそこにあるいつも感じているだけどなかなか最近では見れなくなった美しさ、そんな感じだろうか。キラキラしてるけどキラキラした美しさではなくて、優しく包まれ心を撫でられているような美しさ、そう視覚的な美しさ以上に心情的、情緒のある心に伝わるあたたかい感覚的な美しさがあるというべきだろう。

・なんにしても、この映画は兎に角驚き! 日本にしてもハリウッドにしても最近はオリジナル脚本はダメ!興行が読めない、見込めないから映画化は出来ない!なんて言って、ある程度売れていて知名度のある小説とか漫画とかのアニメーション化、または実写映像化しかやらないような絶対安全牌主義、超保守的で興行成績が見込めない映画なんて作らない!的な風潮が蔓延していて、実に新しさのない詰まらない映画ばかり量産される状況になってしまっているが、こんな風に完全無欠のオリジナルストーリーでこれだけ素晴らしい作品が出来るということにもう一度目を向けて、ネタ切れだ、もう新しい物語は作れない。コケたら責任取らされるから作れないなんていうのはヤメて、今まで誰も見たことのないようなストーリーを作ることに全身全霊を傾けて知恵を集結させるべきだろうな。

でも、新海誠というネームバリューがなかったら、完全オリジナルストーリーで映画化なんて・・・とても出来ないだろうなとも思えてしまうけど。

・こんな素晴らしいオリジナルストーリーの美しい映画を見せてくれた新海誠とスタッフにただただ感謝したいキモチだ。兎にも角にも観ていてワクワクドキドキ、この先どうなるんだと期待して最後まで全然飽きること無く楽しめた素晴らしい一作であった。

・RADWINPSの曲、見終わって一つとして曲の歌詞が頭に残っていなかった。普通は音楽の歌詞が映像をさらにもりあげてくれたりするし、ジーンと染みこんできたりするんだけれど、全編に流れる野田洋次郎の声と、その音楽というかサウンド、音が余りに映像にマッチしすぎていて、歌詞が意識に到達しないくらい音になって歌もサウンドも全部がBGM化しているかのようだ。これって凄いことではあるが、ある意味歌詞が強い意味を持たなくなってしまっているとも言えるかも。

・最後に一言、皆が助かったのが防災訓練でどうとかこうとか・・・って説明されてたけど、それはちょっと話が飛躍しすぎてて繋がんないんじゃない? と思った。あの状況でどうやって防災訓練でみんな避難させたの? ちょっとそこだけが引っかかるというか、全部良かった中でなんか脚本ミスってるような気がするなぁ。どうなんだろ?あれ?

予告編の中ではこれが一番イイな。

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2016-08-01 『シン・ゴジラ』おいおい、ゴジラが使徒になり巨神兵になってるよ。

LACROIX2016-08-01

[]『シン・ゴジラ』

☆作品の内容に関する記述アリ。

・なんだか最後まで誰が監督なんだ? 結局樋口は監督じゃなくて特技監督か? と訳がわからない状態で公開まで来た「シン・ゴジラ」。

予告編で観る新しいゴジラは古めかしくもあるが、いかにも凶暴で知よりも本能で動くケダモノ的であり、子供人気を取るために日和った今までのゴジラと比べたらかなりいい感じだと思った。待望していたゴジラ新作ということでそれなり、いやそれなり以上に期待はあった。

・そして、観終えた後の最初の印象は・・・「面白かった、なかなかに面白かった、映画を観た満足感もそれなりにあった・・・だが・・・」というものだった。

・一つの映画としての面白さはあった。だが、なんだ、なんだこの納得のいかなさは、釈然としない感覚は。自分は本当にゴジラの映画を観たのか? これはゴジラ映画だったのか? なにかゴジラ映画を観た気がしない、待ちわびていたゴジラ映画を遂に観たのだという気持ちが全然しないのだ。

・この映画をポリティカル・サスペンス(まあ、日本語なら政治緊張劇とでもいうか?)と呼ぶ向きもあるようだが、まさに、そういう政治的な部分にかなり焦点を当てた話になっていることは確かだ。それが面白かった、それが良かったと、政治家や官僚どもの描写を評価する向きもあるようだが・・・そんなものを観たかったわけじゃない。たとえその部分の脚本や演出、描写が今までに無く優れていたものだとしても、ゴジラ映画で観たかったものはそんなものじゃないんだ。

・3.11の東日本大震災でメルトダウンを起こした福島の原発をゴジラに置き換え、あの当時の本当にどうしょうもなかった民主党の最低で最悪な対応を元にして、今ゴジラがが東京に現れたらどうなる? と想定した話を作り上げた発想は非常に面白い。クズ政治家やクズ官僚どもの描き方も至って緻密であり、よく観察し、よく調べ、よく練り上げて脚本にしていると感心する。しかしだ、この映画はその政治的な部分の作り込み、それを主として描くことに執心してしまい、一番肝心なものを、一番大事なものを、本来は主としてあるべきものを、あろうことか脇役に降ろしてしまったのだ。いわずともがな、それがゴジラだ

《この映画は主役をゴジラから政治家や官僚どもに置き換えてしまっている》

・この映画の最大の批判すべきところは、ゴジラ映画からゴジラを主役から外し、危機対応する(のちに書くが全然危機感がない)政治家や官僚どもを主役として本を、映画を作っている点なのだ

・公開から日が経つにつれて「シン・ゴジラ」の評価は上り調子で、傑作だ、素晴らしい出来だ、その多くがこの映画の中の政治的なやりとり、駆け引きの部分、ポリティカル・サスペンスと言われる部分に面白さや、評価を与えているようだが・・・おい、ちょっと待てよ、話の面白さに巧くのせられて、ゴジラ映画であることを忘れていないか? この映画にはなにか大事なものが抜けて落ちていないか? 1954年に本多猪四郎が撮った「ゴジラ」にあったもの、それは《恐怖》だ! 得体のしれない巨大な未知の生物に襲ってくる恐怖、それがほぼ、全くと言っていいほどこの映画からは感じられないのだ。

その原因は、映画の描き方にもよる。

・巨大生物がやってきて逃げ惑う人々の恐怖・・・それがまるでスクリーンに描かれていないのだ。ゴジラがやってきて怯え、悲鳴を上げ、我先にと逃げようとする恐怖にかられた人間、その表情、そういったものがほぼまったく映し出されていない。

・蒲田での人々が逃げ惑うシーンの撮影時に演出部からエキストラに配られたたという「蒲田文書」なる“演技心構え”の文書がネットに流れ、これを読むことが出来るが、そこには「巨大不明生物に襲われて逃げ惑う市井の人々」役の心得が書かれ、

《まず、巨大生物の恐怖を観客に感じさせる最も効率的な方法は、「逃げ惑う市井の人々がまるで本当に襲われているように見えること」。だが、単に芝居で恐怖の表情をしたり、大きな叫び声をあげたりすれば良いわけではない》

《もし本当に巨大不明生物に襲われた場合、人はその人の個性によって違った反応をすると思います。猛ダッシュで逃げる人、ノロノロと逃げる人、体が固まり動けない人、興味が勝り写真を撮る人、顔を巨大生物から背けず体だけが逃げる人、子供を必死に守ろうとする人、連れとはぐれ人波の中で探し続ける人……それら個性の集合体が、画面に力強さと、リアリティと、本物の恐怖を与えてくれると、我々は考えています》

《それぞれのエキストラが「自分が巨大不明生物に遭遇したらどうするか」の想像力を稼働させることを求め、「皆さまお一方お一方にしかできないお芝居をしてください」》

等々、エキストラの人に対する演出部のお願いが書かれている。確かにこの文章を読むと製作スタッフの意気込みや熱い気持ちも伝わってくる・・・しかし! あの蒲田のシーンに恐怖はあったか! あの蒲田のシーンに巨大生物に襲われ我先にと必死に逃げる、生きたい、死にたくないと必死で逃げる人間の恐怖が映っていたか、映し出されていたか、映像にその恐怖が滲み出していたか! 断言する。あのシーンに恐怖はなかった。そしてあのシーンからブルブルと震えるような恐怖は微塵も感じられなかった、ゴジラが迫り来る恐ろしさなどあそこに映っている人、逃げ惑う群衆から、これっぽっちも、まったくスクリーンから伝わっては来なかったのだ。

それは、この映画が恐怖に逃げ惑う一般の市井の人々の表情をほとんど映していないことに大きく起因する。

1954年の「ゴジラ」にあった人々の恐怖、それはこの河内桃子のワンカットだけの表情でもありありと、ひしひしと伝わってくるものだった。

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・そういった人々の恐れおののく表情がシン・ゴジラにはまったく描かれていない。人々が逃げ惑うシーンに恐怖を感じさせようとしたではあろうが、出来上がった映画から感じられるのはただ単に逃げろと言われて逃げているふりをしている群衆の後ろ姿、動きまわる絵でしかない。表情はまったく映していない。そこに悲壮感、必死さがない、恐怖もない、だからゴジラにも恐怖が感じられなくなってしまっている。

・そして、この映画で主役の座を占めている、首相、官房長官、大臣、官邸の人間、官僚にも、全くと言っていいほど、これっぽっちの欠片さえも、あんなょ巨大な生物が東京に襲いかかってきているという前代未聞の恐怖が感じられないのだ。まったくもって、ゴジラを恐れている、もう自分だけでも我先に逃げ出してしまいたいという震えや恐れが感じられないのだ。

・どいつもこいつも、あんなゴジラへの対応をしているというのに、全然シャキとしていてて、顔から恐怖や恐れが微塵も感じられない。未曾有の危機が間近に迫っているというのに、さも平然とした顔で会議をし、対策を練り合わせ、ミサイル攻撃が効かないとわかっても「はあそうですか」といった顔つきをしているの。まるで役者が映画の中で役作りの脚本読み合わせをしているかのように、全く以て1人として恐怖が演じられていない。唯一常にしかめっ面をして周りから浮いて見える余貴美子だけが、ゴジラに対する恐怖を演じているといえよう。しかし、その周り全部がさらっとした顔で平然としているものだから、余貴美子の演技と恐怖が逆に浮いてしまっているというなんとも惨憺たる状態だ。

・長谷川博己、竹野内豊にしろ余りにスッキリ、シャッキリしていて、ゴジラに対峙しているなんていう恐怖がどこにも出ていない。この連中が退治しているのは、政治闘争や権力闘争をしている同じ政治家や官僚どもであって、日本をまさに破壊し潰してしまおうとしている人知の及ばぬ怪獣ではないのだ。ゴジラと対峙している人間を描いているのではなく、決して心底の恐怖など感じない政敵や出世のライバルである人間とやりあっているのだ。だから、なんども繰り返すがスクリーンから登場人物から、恐怖が、恐ろしさが、まったく、これっぽっちも感じられないのだ。それは市井の人々を誰一人としてしっかり描いていないからだ。ただ逃げる遠景を取っているだけだからなのだ。

・その他にも石原さとみにしろ市川実日子にしろ、完全におちゃらけのギャグキャラ設定になっていて、もう全くなにも怖がっている様子がない。

・さも現実味をだそうと「シャツが臭いですよ」なんてシーンを入れているのも、まさに取って付け。そんなこと言っている場合かと言いたくなった。

・ゴジラ対策で会議室に泊まりこんで椅子で寝ている官房長官なんかよりも、まだボサボサ頭の市川実日子のほうが疲れているように見えるが、それにしても恐怖はどこにも存在していないのだ、まるで全部がギャグだ。

・で、結局この映画は何をいいたかったのか、何を表現したかったのか? それはゴジラの恐怖じゃないだろう。官邸の巨大生物登場対策シュミレーションの予行演習を描きたかったのか? それを見せられただけか?

・3.11をベースにした話の作り方は面白いが、それがゴジラ映画か?

・この映画を評価している側にしてもそうだ、おまえらは災害政治シュミレーションを見て面白がっている、内容が濃かった、出来が良かったと言っているだろう。それは、ゴジラを、ゴジラ映画を語っていないだろう。脚本の上手さ、展開の早さに見事に騙され乗せられて拍手をしている。ならばこれがゴジラ映画である必要など全くないだろう。どこを見ているんだ!

・まあ、巷では非常に評価が高まっている作品をここまで批判するのも、ゴジラ映画がゴジラ映画であってほしいからだ。

・最初に書いたように「面白かった、なかなかに面白かった、映画を観た満足感もそれなりにあった・・・だが・・・」なのだが、見終わって時間が経てば経つほど釈然としない気持ちが強くなってくる。

・すくなくともシン・ゴジラは、大量生産された第二作以後の子供向けゴジラシリーズよりはよっぽどイイ、平成ゴジラ・シリーズよりもよっぽどイイ、ミレニアム・シリーズなんかよりもずっとイイ。エメリッヒのGODZILLAよりもずっとずっとイイ、ギャレスのGODZILLAなんかよりも何万倍もイイ・・・しかしだ、だからこそ厳しく言いたい「これがゴジラ映画なのか」と! ゴジラを主役から外して政治家や官僚の災害シュミレーション・ゲームに終始したこの映画はゴジラ映画とは言えない。本多猪四郎が描いた《恐怖》や《人類への警笛》がまるで感じられない映画など、ゴジラがでていようがゴジラ映画とは認めない。そういうことだ。

余談:

・それにしても最初に出てきた第二形態のゴジラには面食らった。まさかあんなものを出してくるとは。第三形態もボタボタと体液やら血肉の塊のようなものを落とす様子が描かれていて、両方共それなりに気持ち悪く、不気味であったが、あのピンポン球の目はなんなんだ? あのピンポン球の目のお陰でせっかく不気味な気持ち悪さが出ていた第二、第三形態のゴジラがまるでアニメのヘンテコキャラのようになってしまった。そう、なんというかあの第二、第三形態はまるでエヴァンゲリオンの使徒じゃないか。予告編で見ていた白い目のゴジラは原始生物のような不気味な怖さがあって期待を持てたのだが、第二、第三形態のあのピンポン球はもうダメダメ。思わず笑ってしまうよあれは。

・都会に燃え上がる火の中をのっしのっしと歩くゴジラ・・・これ、巨神兵そっくり。

・背中から紫の放射能光線を四方八方に発射するのはまるでイデオンか? ゴジラじゃないだろうこれも。しかもその放射能光線があちこちビュンビュンとのべつまくなく飛び交っているのに、ビルの屋上で放射能防護服に見を包んでぶつくさ言いながらゴジラを見ている官房長官らには笑った。おまえらそんな所にいたらあの放射能光線一発ビュンと来たら全員一瞬でお陀仏でしょう。いやはやまったく悠長なことだよ。

・最後の半減期の話はなんたるとってつけ、酷すぎ。

・白組のCG技術はここまで来たのかと思うほど凄い。ゴジラがビルに崩れ落ちるシーンなどもう見事としかいいようのない素晴らしい出来。「同じ予算を与えられて、ヨーイドンで同じCGIのシーンを作ったら日本の方がハリウッドなんかよりも上だ」と言っていた人がいたのだが、今回のシン・ゴジラを観たらその言葉に納得した。白組のCGI技術はレベルはもう世界水準といっても過言ではないだろう。

☆2017年7月8日再見

やっぱ、浅いな、コレは明らかに、おちゃらけ映画だなぁ。なにがポリティカルサスペンスだっちゅーの。という感想が。再び。やたら米国が、米国、米軍が、米軍ががとか、もううんざりうざったし。石原さとみの困ったちゃんアメリカ中枢に関わる女子ぶりは、改めてみていても、もうヘッ?という感じ。さらに評価は下がってしまった。なんだか再見したら、ギャレスのゴジラのほうがまだましだったかも? と思えてきた。いやはや、なんだこのゴジラ映画は。もうダメダメ

2016-07-27 『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』なにこれ?守銭奴の餌食にされた原作

[]『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』

・『シン・ゴジラ』の公開前に、昨年公開されて映画史上イチニを争う超駄作、どうしょうもない映画と評される『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』の前後編を観てみたが・・・。

・なるほど、最近の映画製作にありがちな、人気女優、俳優、アイドルをズラリと並べて出演させれば、それだけ客の入りが見込めるという作品の本質にはほとんど関係のない客寄せキャスティングの典型のような映画。個々にどれだけ人気があろうが、雁首ずらりとならべたところでその人気が累乗して重なっていくわけではない。こういう見苦しく浅ましくおぞましいまでの“雁首並べキャスティング”が行われるようになったのは『20世紀少年』あたりからだろうか。豪華キャスト勢揃い!なんて宣伝コピーじゃ動員は稼げないってことが未だにわからないのか。作品の中身、クオリティーよりも兎に角コケないように、大失敗して自分が責任とらされないようにってことで、人気者、知名度の有る者を集めよう!なんてやって、却って大ゴケを導いているってことに・・・気がついてもそれを是正できない、それが日本映画界というやつかもしれないが。

・それにしても本の酷さは有り余るほどだな。映画になにより大事なのは脚本だというのに、その脚本、物語がここまででたらめでメチャクチャじゃ誰も支持するまい。一本でまとまるような内容の作品を二本に分けて興行収入少しでも稼ごうってのも最近の邦画界のしょうもないところだが、今回の「進撃の巨人」に至っては前編が1時間38分、後編が1時間27分と・・・もうね、そこまでして観客から金を巻き上げたいのかと。前後編二本にするならどっちも2時間ものにして、内容もじっくり練り上げて、どっちを見ても充分満足というのにしろよと! 映画一本分の製作費で撮ったものを冗長に編集して2本仕立てにして鑑賞料倍にして取り上げようという魂胆があまりに酷い。

監督の樋口真嗣にしろ、脚本に顔をだした映画評論家の町山智浩にしろ、また、今回の映画化に首を出した原作者の諫山創に、この映画のラッシュでも見た時に「なんだこれ、話の整合性がなってない、筋が通ってない、わけわかんないじゃない」って思わなかったというのか。いやぁ、普通に考えたらこれだけメチャクチャな展開で「なんでこうなるの?」ってストーリーに疑問をもたないわけがない。というかもっと最初の脚本の段階で話のつながりがおかしいだろう!って気がつく。そして撮影をしている最中でも、編集をしてるさいちゅうでも、どうかんがえてもフツーにこうくるのは見ていて疑問詞が着くだろうと思うはず。少なくとも映画という世界で仕事をしている人間なら、ギョーカイの外にいる一般の観客よりもその点にかんするアンテナは敏感なはずだ。いやそうでなくてはならない。それが・・・・

・その辺の裏事情に関しては嘘か誠かは不明として、ここに詳しく書いてあった。これを読むと町山は悪くない、悪いのは樋口と渡辺と諫山だ!ってことになってしまうが。http://d.hatena.ne.jp/type-r/20150822

・結局のところ、いろんな人間がいろんなところから首を突っ込んで、自分勝手なことを主張して、エゴモロ出しにして、ひとつの作品としての全体像を誰も見ることをせず、あっちこっちをネズミがガシガシ齧ってボロボロにするように脚本と映画をボロボロにしてしまったということだろう。

・正直、樋口真嗣にはアクションシーンや特撮シーンなどの「シーンをつくる」ことにかけては秀逸だと認めてはいるが、こと物語を紡ぐということ、一本の映画として物語をまとめあげるという能力にかんしてはもうダメダメどころかゼロといってしまってもいいくらいだ。特撮に力を集中させて監督なんて大業には今後手を出さない方がいい、出すのだとしたら脚本家が綿密に組み上げた映画の設計図である脚本を一字一句修正せず、脚本のままに映画として撮り上げることだろう。残念ながらこの『進撃の巨人』においては脚本そのものが最初からダメだった上にさらに改悪が随所に繰り返され、最後には見るも無残なボロボロつぎはぎだらけで、ストーリーにリズムも一貫性もなにもない最低映画に成り下がってしまったというほかあるまい。

・最初にキャスティングのことを書いたが、一人ひとり単独で見てみると、石原さとみにあのクレイジーなトンデモキャラをやらせたのは良かった。(話としてではなく、単純に一人のキャラとしてだ)映画のなかでは浮きまくりトンデモまくりだったが、石原さとみにあの手のキャラクターがこれほどピッタリとは驚きでもあった。

・水原希子もミカサ役として映画のなかで他の登場人物と絡むと、なんだかなぁ〜という感じだが、じっと黙って何かを訴えるようなシーンで一人だけスクリーンに映っていると、なかなか味のある顔だし、顔だけで演技が出来る風でもある。顔に力があるのだな、モデルということもあるし。しかしそれが喋ったり演技をし始めると・・・ダメになる。

・サシャ役の桜庭ななみもナイス。大食のお馬鹿ちゃん的イメージが実にピッタリだが、弓を射るときはなかなかの眼力でカッコイイ。まああんまりセリフもなかったし、この娘も他と絡むシーンになると大根っぷりが出てきてしまっていたが、それでも存在感はあった。

・それに引き換え、男性のキャストは、なんだか薄っぺらで印象に残らない連中ばかり。シキシマ役の長谷川博己はいい感じかと思ったが、リンゴを食わせたり、シャンパングラス傾けたり・・・オイオイ、勘弁してくれよという演出の軽薄さが俳優の良さを台無しにしていた。

・2004年は「デビルマン」「キャシャーン」と最悪の実写映画が続いたが、10年経って悪夢は蘇り、この「進撃の巨人」の後に「テラフォーマーズ」という更に最悪の漫画実写化作品が公開されたわけで、考えてみると2015年は史上最低映画といわれる「進撃の巨人」で、その次の2016年に更に最悪といわれる「テラフォーマーズ」が続いたわけだから、去年から今年は邦画史上でも最悪の年だったのかも。まあ、その間にも「ガッチャマン」とかもあったけどね。

・そして今年2016年夏は「シン・ゴジラ」が公開される。監督の樋口真嗣は最近じゃプロモーションに一切出てこない。噂では、当初は樋口真嗣に「進撃の巨人」の監督をさせて、そのヒットの勢いで樋口の名前を広め、次に“あの「進撃の巨人」の監督である樋口真嗣最新作「シン・ゴジラ」と宣伝するつもりだったのが、あまりに「進撃の巨人」の評判がわるく酷すぎたので「シン・ゴジラ」の宣伝班は「だめだ、樋口の名前は使うな。せっかくの東宝の看板映画であるゴジラで失敗するわけにはいかん! 樋口の名前をだしたら「あの進撃の巨人を撮った監督だろう、じゃあだめじゃん」となってしまう。今後プロモーションで樋口の名前は極力伏せろ、そうだそのために総監督としてもっとオタク層に人気のある奴をもってきて樋口の名前を隠してしまえ」なーんてことになってるんじゃないだろうか。「シン・ゴジラ」の完成報告会見にも監督の樋口真嗣は顔も出さず、どこのも映らず、メディアの取材や記事も総監督庵野秀明で統一されちゃってるからね。もう明らかに樋口の名前を伏せようという意図が見えていてなんというか可哀想というか・・・監督やってるのにねぇ。

・そんなことを思いながら、進撃の巨人に出てくるあの巨大な巨人を見ていたら・・・ん、なんかに似てないか? 体の表面の奥に筋肉というか赤い肉のようなものが見えているこの造形、イメージ・・・・おいおい、シン・ゴジラも似たデザインじゃない・・・大丈夫なんだろうか? シン・ゴジラ・・・・・

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2016-07-11 『インデペンデンス デイ リサージェンス』愛すべき最高お馬鹿映画

LACROIX2016-07-11

[]『インデペンデンス・デイ: リサージェンス』

・「インデペンデンス・デイ」第一作からもう20年かぁ、時が経つのは本当に早いなぁという感じ。

・第一作はあの巨大なUFOが衝撃的で大ヒットしたけど、段々と中身のデタラメさに“お馬鹿映画”の称号が付き、それが高じてさらには「こういうお馬鹿映画も面白いじゃない!」と逆な意味でいう評価が上がった珍しい映画。自分も映画館で最初に見た時はそれまでになかった圧倒的な映像でスゲェ〜と思ったけれど、DVDとかで見返すと、なんともお馬鹿なシーン、ストーリーが満載で、次第に「これはSF映画じゃなくて、ギャグ映画だな」と思うようになった。

・その「インデペンデンス・デイ」が20年という時を経て続編の製作と聞いて、うわー、どうなるんだろうと面白半分で期待していた。なにせ監督のローランド・エメリッヒは「インデペンデンス・デイ」(1996年)以降はと、トンデモ映画、オイオイ映画ばかり作ってきている監督で、作品の質を期待することは殆どない。「エメリッヒでしょ? どうせ!」と言われるような監督だったからだ。(興行収入はそれなりにいってるところは凄いが)

「GODZILLA ゴジラ」(1998年)

「デイ・アフター・トゥモロー」(2004年)

「紀元前1万年 10000 BC 」(2008年)

「2012」(2009年)

・さて、そして20年ぶりに帰ってきた「インデペンデンス・ディ:リサージェンス」、CMや予告編を見るとCGIのレベルが相当に上がっているし(20年前の第一作の時は爆発シーンなどで火薬を使っていたり、日本の特撮のような撮影方法であった)、真面目でしっかりした超SF大作のような雰囲気だ! 第一作を知らない人、見たことのない人がこのCM、予告編を見たら「なんか、凄そうな映画が来たな。映像も凄いし面白そう」と思うだろう。しかし第一作を知っていると、この映像を見ながらプッと思わず笑ってしまうのである。「雰囲気は真面目で凄そうなSF映画だけどこれって・・・」と笑えてしまうのである。

・ジェフ・ゴールドブラムがまたマジ顔でセリフをしゃべっていると、それだけで思い出し笑いしてしまうし、ビル・プルマンが出てくると、おお!あの大統領がまだ生きてたのか!とか思ってしまうし。「今度のは前のよりでかいぞ」なんてセリフを聞くと「ギャッハー、20年経っても前と同じことをしようとしてるぅ、デカさで売ろうとするエメリッヒは健在だぁ!」と大笑いしてしまうのである。

・ということで、今回は作品の質に期待するというのではなく、20年経っても(映像はすごくなってるだろうが)また同じお馬鹿な映画作ってるのかなぁと、そういった期待が大きく、ある意味どれだけそのお馬鹿さの期待に応えてくれるかを大いに楽しみにしてこの映画を見た!

・そして、その期待は100%裏切られることはなかった! エメリッヒは全ての期待に応えてくれた。やっぱりエメリッヒは“お馬鹿監督だw!”

「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」は史上最高のおバカ映画と言っていい。ただし、頭に“愛すべき”という言葉を付け加えておく。

この映画は古今東西稀に見る、映画史上最高の“愛すべきおバカ映画”である。(監督のエメリッヒもお馬鹿映画の代表としよう)

・いやー、予告編を見て、なんかモノスゴイ、かっこいいSF映画を期待した人は逆に頭にくるんじゃないかな? なんだこの映画は!くだらん!と怒りだすかも。20年前の第一作を観て知っていて、そのバカバカしさに愛着を感じている人にとっては「20年経ってもおんなじバカなことやってるバカ映画だねぇ」と微笑んで楽しみながら観れるけれど、初見の人にとっては「どうしょうもない映画だ」となるかも。この映画を観る人には世代のギャップが大きく広がっているかもしれない。

・今回の宇宙船は前作よりはるかにデカイというのは聞いていたが、映画の中のセリフでは全長3000キロとか言ってたなぁ。www アホちゃう? 第一作の宇宙船が全長24キロでこれはデカイなぁと驚いたのだが、今回のは言ってみれば日本列島の端からは端までと同じくらいの大きさなわけで、ここまで大きくしちゃったら、人間から見たら空全部が宇宙船なわけで、逆に巨大さとか物凄さが感じられなくなってしまっている。頭の上、見渡す限り全部が宇宙船なんだから、大きいとか小さいとかじゃなく、空に蓋がかかってるようなもの。これはやり過ぎの大失敗、流石エメリッヒ!と言いたくなったね。

・まあ、その他にもツッコミ所は満載なのだが、この映画はツッコミ所をギャグとして観なければならない。いや、エメリッヒはスタッフは至極真面目に作っているのかもしれないが、それがことごとくお馬鹿なギャグ化しているのだから、そこを指摘してもしょうがない。楽しんで笑うのがこの映画の観方とも言えるだろう。

・それにしてもなぁ、まさかインデペンデンス・デイが怪獣映画になって帰ってくるとは思わなかった。日本の怪獣映画ファン、オタクであるギレルモ・デル・トロが作った「パシフィック・リム」やギャレス・エドワーズの『GODZILLA ゴジラ』は日本のロボットや怪獣映画を尊敬し、その流儀やスタイルを踏襲してハリウッド方式で日本映画を作ったものであり、作品の出来はイマイチだったが日本の怪獣映画をここまで愛してくれているんだなという気持ちは嬉しかった。しかし、しかしだ! なんとローランド・エメリッヒはその怪獣映画ヲタの二人よりも更に更に凄い日本映画式怪獣映画を作ってくれたのだな。

・いやー、もう驚き。エメリッヒの『GODZILLA ゴジラ』は日本のゴジラの良さを全然わかってないダメダメ作品だったが、今回の「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」は設定からバカバカしさはまるで日本のTV特撮怪獣シリーズ(ウルトラマンタロウとかに近い)であり、怪獣の描写は日本の怪獣映画のニュアンスが強く感じられる。

・ほんと、科学特別捜査隊とか地球防衛軍とか宇宙科学警備隊とかが怪獣から地球を守るって設定とその中で出てきたお馬鹿な怪獣攻撃とかの映像が今回の「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」で巨大宇宙船や宇宙人に向かって戦いを挑むアメリカ軍の姿と似てるんだよね。おかしなくらい。この脚本家、日本のウルトラシリーズを土台にして脚本かいたんじゃない? ッて思う位。そしてなんとも、エイリアンとの戦いが・・・・おいおい、これってまんま日本の怪獣映画になっちゃったじゃないか〜と、スクリーンを観ながらびっくり仰天、そして大笑い。いやはやエメリッヒさん、ここまでやってくれるとは御見逸れしました。

・前作で出てきたキャラクターが沢山でてきて、前作をネタにしたようなギャグ(本当は真面目にやってるのかも)を披露するし、ビル・ブルマンが前大統領のくせにエイリアンを格納している場所に入っていって「俺が犠牲になる!」といって首を触手でグゲゲと締められて、エイリアン語を翻訳するシーンとか、もうホントによくもここまでお馬鹿シーンを真面目に復活させるもんだなぁと恐れ入る。

・途中からは段々先が読めてきて、あのスフィア(球体)が出てきて「敵の敵は見方」なーんて言い出すところなんかもう予定調和。アフリカの黒人の部族長かなんかがスウォード(剣)でエイリアンをズッタバッタやっつけるところとか、あんまり名前が知れていないギャラの安い、だけでかなり美形で可愛い女優をぞろぞろ出演させてるところとか、中国の巨大市場を意識して軍のトップが中国人だとか、その娘が美形のパイロット(アンジェラベイビー(楊穎)という中国人アクトレス)だとか、この女優もぱっと見、日本の昔の女優の若いころみたいな感じで可愛いとおもったが、役はスカスカのただの飾りでしかなかったし、エイリアン研究者は同性愛カップルだったんだとか、もう、いやはやサイコーですねと言えるお馬鹿の連発にただただ顔がほころぶばかり。

・意外と言えば超意外で、冒頭からシャルロット・ゲインズブールが出てきたこと。映画の情報サイトやキャストの紹介でもシャルロット・ゲインズブールに言及したり取り上げている所はほとんどないね。あの「なまいきシャルロット」の時の妖精のように可愛らしかった女の子がこんなにシワクチャなオバサンになって出てくるのはちょっと目を背けたい気分も。同じフランス人女優でも「ラ・ブーム」でブレイクしたソフィー・マルソーは歳をとっても妖艶な美しい女に成長したのだけれど、S・ゲインズブールはそれとは逆になってしまっているみたいでちょっと悲しくもあり。

・まあそんなかんなで、この史上最高のお馬鹿SF映画は、お馬鹿をどんどんと積み上げていき、最後にはお馬鹿なりにスッキリ気持よく楽しめるラストでしめくくってある。ジトジト梅雨の湿っけと、ジリジリ暑い夏の中、ひんやりと冷えた映画館でこういうお馬鹿映画を観て、あんまり難しいことを考えず、頭を空っぽにして楽しむってのがこの映画の観方なんじゃないかね? そう考えていれば充分に楽しめる。

ただし、前にも書いたがそれは前作がおバカ映画に変化していき評価を逆の意味で上げたという前作を知って楽しんでいる世代に限ったものであり、まったくなにもその辺のことを知らない人が、期待してこの映画を見たら「なんだこれは、どうしょうもない、馬鹿げた映画だ」となる可能性は非常にたかいだろうな。現にこの映画のことをネットで書いているページはそういう内容のものが多いようだ。

・この映画を観て、くだらない、馬鹿げてると思った人は、前作を観て、そのお馬鹿加減をハッハッハと笑いながら楽しめるようになってから、もう一度この新作を見返せば、楽しめると思うな。

・愛すべき、史上最高のお馬鹿映画に乾杯!

2014-08-20 『GODZILLA ゴジラ (2014)』完璧に期待外れ、ガメラ対ギャオスか

[]『GODZILLA ゴジラ(2014)』

・これじゃムトーさんが主役じゃないの?

・ゴジラが全然怖くない。おそろしさもない。凶悪でも凶暴でもない・・・おっきな猫か? ゴジラの意思が全然感じられない。

脚本は正直言って低レベル。あれこれお話を継ぎ合わせただけで、一本の物語として完成していない。もっとキツく言えば、なにがなんだかメタクソ状態の本からできた映画

・なんなんだ、このお話は・・・少し日本の怪獣映画を観てる人なら、この第二弾ハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』のストーリーに ”ん?なんかあれそっくりじゃん” と思うところがあるだろう。そう、平成ガメラの第一話 1995年『ガメラ 大怪獣空中決戦』にプロットの元となる設定が似すぎでしょ。ムトーさんはギャオスだし、そのムトーさんをやっつけに古代から生きていた生物が蘇ったって、平成ガメラ対ギャオスの戦いをGODZILLA 対 ムトーさんに置き換えたって、もうそのまんまじゃない。なんたる粗製ストーリーだっての。観ていてだんだん呆れてきた。

・脚本の最終稿が出来上がるまでにずいぶんと紆余曲折があったということだが、何人も脚本家を替えてスタジオ側が納得する脚本を作ろうとしても、これでは何のために何人もの脚本家を使ったのかまるで意味不明。映画不況以降、ハリウッドがダメになったその根本がここにも見え隠れしているようだ。ようするにスタジオ側は、スタジオの幹部連中が求めている映画、脚本は “金になる、動員の見込める”映画であり、そしてそれ以上に“株主から批判されぬ、自分たちの責任が問われぬ” 映画なのだ

・まったく新しい、創造的な映画、今まで見たことがないような映画、映像、ストーリーは敬遠する。感性で判断することを避ける、逃げる。心の声に従うことに怯える、逃げる。自分がイイと思った感覚、感情を恐れる、信じようとしない。全てにおいてこの逆をする。なるべく多くの人が頷く可能性ばかり模索し失敗する可能性を少しでも下げようとする。思い切ってやってみようという気持ちがない。兎に角リスクの低いことだけをやろうとする。個性や独創性などよりも、今までに受けたこと、過去に評判の良かったこと、周りがすでにやっていること、周りが直近でやっていることに倣おうとする。



大体似てること書いてる

http://newsphere.jp/entertainment/20140519-2/

2013-07-05 『アベンジャーズ』1時間40分退屈の極み。残り30分だけまずまず

[]『アベンジャーズ』

・出だしからしばらくがかなりまどろっこしい。SF映画らしくなるのはなんと開始から1時間以上経ってから。それまでは大したアクションシーンも派手な爆発もなにもなく(戦艦が空に飛び上がるところだけはあったか)登場人物がぐだぐだと仲違いしたり、あーだーこーだと意味もなくしゃべっているだけ。実に退屈で詰まらない。

・ようやく面白くなってくるのは1時間40分を過ぎた辺りから。もう殆ど2/3は退屈の極み。とちゅうでもうやめようかと思ったほど。

・ま、残り1/3はまずまずであったが・・・これじゃどうしょうもない

☆2016年9月再見

マーベルのシリーズをひと通り見なおしている中でこのアベンジャーズも再び観てみたのだが、ん、まあそこそこに面白かった。一回目の鑑賞がめちゃくちゃダメダメの印象だったのだが、まあ、そこそこには観れる。話のもっていきかたにまだるっこしさはやはりあるし、サミュエル・L・ジャクソンがなんか邪魔。イメージ強すぎて浮いてるんだなぁ。エヴァンゲリオンみたいになんか画面にズラリ並んだ委員会の連中が上層部で指示を出してるというのもしらけるし。

しゃべりすぎで目立ちすぎのサミュエル・L・ジャクソンとヒーローたちが仲間割れしてるってのがつまんない最大の原因だろう。

そういえばNHKで放送された「ハリウッド白熱教室」でもドリー・キャスパー教授が黒澤映画と、このアベンジャーズの会議シーンを比べて、なんでアベンジャーズの方がつまらないのかってのを説明していたかと思うが、他のマーベル関連作品とくらべてもこの映画はストーリーにテンポがないし、ほんとまだるっこしいし、最後にスカッとこないというのがダメなところだろう。

今回改めて見て、CGIの凄さには驚き。「シン・ゴジラ」を観て日本のCGI技術も世界レベルになったと思ったが、この作品を見るとやっぱりまだ差があるな。

最後に出てきた猿はどうなるんだろ? アベンジャーズ2がこの映画の続きにするのはダメだろうということで「エイジ・オブ・ウルトロン」と丸で違う方向に振ったのは正解であろう。

脇役だけどコビー・スマルダーズがなかなか知的でカッコ良かったな。

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2013-04-18 『ポテチ』

[]『ポテチ』

・小粒な映画、まあだけどちょっとホッとするかな? 

・素性はいいな。真面目で実直、嘘やハッタリのない映画と言える。

・それにしても中村義洋は、どう見てもダメおやじ、駄目中年の典型って顔つきでなんだか見てるだけで笑ってしまう。「鬼が来た」のあの中国人主人公とも重なってしまうんだよなぁ。www

・木村文乃って、なんか美形。今流行の顔じゃなくて一昔まえの美人系、アイドル系って感じだが、好みだなぁ。優香みたいだとも思った。木村佳乃の姉妹ってわけじゃないのだな。

http://potechi-movie.jp/

2013-03-14 『3.11 サバイビング・ジャパン』こんな腐れ政府、信用してないさ!

[]『3.11 サバイビング・ジャパン』

・あのころ、政府や行政、市、町、そういったところが支援物資を配布しなかったり、受け取りを拒否したり、助けてくれとやってきた人を「自宅が残っているのなら駄目だ」と言ったり、自宅避難している人にはペットボトル一本すら渡そうとしないとか、被災地の中にいるという状況は同じなのに、食料も何一つ供給されないとか、そういうことがネット上でさんざんに告発、非難されていた。仮設住宅に入ったら入ったで、そこからは自立してくださいと食料を供給することをストップしたり。なんだか最近そういうことがあったというのを忘れてしまっていたけれど、この映画を見たらあのころの状況が思い出されてきた。そうだ、地震や津波のことだけじゃなく、あのころのこの国の行政のシステムが末端まで腐っていて、自己保身と責任逃れにびっしょりと浸かっていたことを忘れちゃならないんだ、それを二年目にして思い出させてくれた映画でもある。

・完全に封じ込めるよう対策を取らねばならぬ使用済み核燃料を、建屋の最上部のプールに保管する設計・・・日本の原発設計の児戯も劣る愚かさ。

・郡山は原発から50キロ圏内、福島市も60キロから含まれる。本来なら避難区域だ、だが人口の多い市にまで避難区域を広げると賠償責任が一気に膨れ上がる・・・だから、30キロのラインが引かれたのだ。

・大山弘一(南相馬市議会議員)・・・市長も県知事も首相も国会議員もダメだ、電力会社から出てくる議員も一人二人各町にいる、電気料金の中には奸僚を養うお金と国会議員を養うお金が含まれている。電気料金とは、隠された“第二の税金”である。国会議員や奸僚を養うための金の出処なのだと。日本の電気料金はアメリカの4倍。その料金のなかに奸僚と国会議員の(腹を膨らませる)部分があるからだ。核となっている人は少ないかもしれないが、利権構造ピラミッドの裾野はすごく広い。日本政府は3月11日の時点で情報操作に入っている。被害を出来るだけ小さくして熱りを早め早めに覚まして、また原発推進に持っていくコンセプトだ。(この話をしているときに、東電の社長、会長、幹部、そして民主盗の海江田や細野などがずらりとならんだ映像が流れる・・・日本のメディアではやらない、やれない、やったら目に見えぬ圧力がかかってくるであろう映像)

・全ては利害関係者の共謀なのだ、政府は国民の命よりも原発の利権を優先した。(ここでまた海江田がアップになる)世界各国から放射線測定器が日本に送られてきたのに政府と奸僚はこれを税関の倉庫に留めて福島には送らなかった。測らせたくないのだ。

・地上1mで測る空間線量はナンセンスだ。(土壌や水にこそ放射線は含まれている)31の放射線隠しがある!日本の政府が発表するのはセシウムとヨウ素に限られている。猛毒物質も大量に出ている、これも測られている、国も県も知っていた、市には教えなかった。しかし教えなかった。(パニックを誘発するからといつもどおりの詭弁で誤魔化すだろう)濃度の濃いところはチェルノブイリを超えていることは分かっている。しかもこれは1,2,3号機だけの控えめの数字で発表しているのであり、4号機の分ははいっていないし海への放出分も全く入っていない。原発労働者が法律で決められた5ミリシーベルトを被曝基準にしているのに内部被曝の食品基準は年間20ミリシーベルトを想定している。子どもたちは外部被曝0,内部被曝20、こんな国で子供を育てることが出来るのか!世界の人に知ってもらいたい!

・公共施設を中心に公務員たちが国の予算で除染しているのに、個人の商店や家はなんの補償もない。それが日本の国の国民にたいする優しさ。経済的に強いものを生かして、経済的に弱い国民を殺している。

・日本は長い間キングとエンペラーに治められてきた。市民という意識が薄い。可愛い子にむかって“お国のために命を差し出すこと”を親も教員も教えてきた。今現実にどうなっているかを知らせない政府は戦時中の大本営と同じだ。国のために我慢するのは当然だ。反抗したり自分の考えを言ってはいけない。そういう考えが市、県という行政、国という組織もベースにそういう雰囲気を持っている。

・南相馬のミスター・サクライは従業員で仕事をやらせたい。一日100万以上をかけながら、子供を遠くに運んでいる、企業家の圧力が市長を押して子供がここに連れて来られている。子供は犠牲者だ。

真実は隠される、政府は国民を守らない。大惨事はまだ終わっていない。福島県民が核実験の材料になった。大量の核廃棄物が残される。大きな犠牲を払ったにもかかわらず原子力発電を支持する勢力がはびこっている。私たちは見捨てられた。そして一人ひとりの国民が政府と東京電力の責任を問い原発はいらないと声をあげている。何気なくコンセントをつないだ向こう側の世界を想像しないといけない。便利さや繁栄が誰かの差別や犠牲のもとに成り立っていると。

・もう日本を救うには、福島の子供を救うには国際世論しか無い。今逃がさないで子どもたちに帰って来いと言っている。これは殺人行為だ。

D

HP http://survivingjapanmovie.com/

2012-11-28 『バトルシップ』バトル湿布だなこりゃ、駄作中の駄作。

[]『パトルシップ』(2012)

・ハズブローが出資してるから話よりもメカをおもちゃとして売りたかったんじゃないのか?

・SFアクション大作映画・・・全然 た・い・さ・く じゃない。

・アナログなボードゲーム"バトルシップ”をベースにしたストーリー・・・ってそんなもん知らんわ。

・リアーナ使ったり、浅野つかったり、日本にやたら媚びて日本で金を回収しようとワールドプレミア日本で行い、海上自衛隊まで登場させて・・・相変わらずの腐ったマーケティング。腐った宣伝。

・日本へのうざい程の媚び売り。単に金もうけのためでしかない。最初っからここまで日本に媚びたアホなマーケティングしてる映画もない。

・ヒットしない理由もわかる。最初っから、出だしッから「アホか?」って場面、演出、台詞がずらずらと流れてくるから20分位で「低レベル、ダメだろうこの映画」って予想がつく。おかげで肩の力を抜きまくってだらだらと観れる。

・エイリアンの巨大戦艦なのに、武器がちゃちい。w

・浅野忠信の大根演技・・・表情変化全然ないのは監督の指示か?そういう演出か? 日本人はのっぺらぼうの無表情かい。w

・役者も二流揃い・・・つまりキャスティングの金は渋ってる。客寄せパンダのリアーナも失笑。

・CGIにとにかく予算の大部分使ってるんだろうが大して驚きもしない映像だった。

破壊マシンもなんだが合理性にかける子供アニメの戦闘機械みたいなもんだ。科学的な根拠なんてもんは検討されてないんだろう。単なる派手でぎゅるぎゅる回ってキラキラ光ってぶっこわす物体ってが?

・ライフルで風防に穴が空く宇宙船ってなんだよ?www これならインディペンデンス・デイの方が数十倍楽しめる。w

2012-11-10 『テルマエ・ロマエ』

[]『テルマエ・ロマエ』

・ローマ人役の配役は見事。現存の日本人役者のなかからこのローマ顔を選ぶというのが凄い、お見事、喝采。

阿部寛 - ルシウス(浴場設計技師)

市村正親- ハドリアヌス(第14代ローマ皇帝

北村一輝-ケイオニウス(次期皇帝候補)

宍戸開-アントニヌス(ハドリアヌスの側近)

・海外でも大受けしたと聞くがホントのところどういう反応だったのだろう。まさか日本人が、まさかアジアの東洋の人間がローマ人を演じ、それも見事に演じ、自分たちの誉であるローマの賢人たちを演じ、それを面白おかしくこんな映画にしてしまうなんて・・・相当に驚いただろうなぁ。信じられないという嬉しさだったんじゃないだろうか。こういう映画、こういう話を撮れる作れる日本人というのは、やはりアジアのなかでも特殊なんだろうな。いい意味で。そしてこういう映画が撮れるようになったということが、それこそ10年20年前とは明らかに日本という国やその国民の意識、感覚が良い方に変わったということなんだろう。

・いわゆる他国、多民族が他の国の人間を描くときはあまりいい描き方をされないというのが大体の傾向で、日本人を外人が描くとおかしなところを強調するような描き方ばかりで、まあ観ていてアホかというか頭に来る部分も多い。『ガンホー』とかもあったな。日本人が中国人を描くときも、まあ昔から大体形は決まっていてちょっと馬鹿にしたような描き方をしているのが多い。アジア人の西高東低意識。世の中の西高東低的歴史感、民族感、国家感なんてものが今までの映画のなかにはなんだかんだ言ってきちっと染み込んでいたわけだし、アジア人自体も自虐的に自分たちを描いたりして、西洋はイイ、アジアはダメだ、なんて感覚があったし、それは舶来品嗜好なんてのにも出ていたし、今だって「これは、海外のどこそこのものなんですよぉ、オホホッホ」「これはブルガリの、ヴィトンの、うんぬんの・・オホホ」なんて物が海外製であれば日本より上なんて意識は十二分に残っているけど、この『テルマエ・ロマエ』はそういう意識なんて全然無くて、感じられなくて、本当にフラットで、エンターティメントの感覚で、変なひねくれた意識や感覚なんてどこにもなしで撮られた新しい感覚の映画だろう。年寄りの感覚や劣等感を持った世代の感覚が全然影響していない、実に自由でのびのびしていて、いい映画だと思うな。

・とても楽しめた。ま、前半の面白いところからすれば、後半はちょっとダレたけれど。

テルマエ ロマエ IN ROMA!! http://ameblo.jp/yanksroma/entry-11299586942.html

2012-09-15 『武士の家計簿』破綻はないが、つまらない。説明に終始している。

[]『武士の家計簿』(2010)

・2010年に連発公開された時代劇を続けて観ているが、前の二つに較べると絵に安心感、安定感があるな。前の二つはどうもふらふらして軽薄な感じがあったが「武士の家計簿」は出だしからしっかりとした絵、映像だ。較べてみたから分かったことかも知れないが、こうして観ると森田芳光は技が上だなと再認識する。この日記では一つ、二つの作品を除いて森田監督作品はダメダメ、森田芳光はもう全然だめだなと書いてきたのだが、実力は認める、しかし『家族ゲーム』で突出して以降”これは”という作品はないというのも本当のところだ。(まあこれは繰り返し書いているのでしつこいが)

・しかし・・・やっぱりどうもつまらないな〜だらだら冗長感が甚だ。

・話に華も山場も特にはナシ。じっくりみっちり一つの家族とその時代を描いたといえば由しとも言えるが・・・つまらないのだな。

・当時の礼儀作法、家族の様子、親子の関係、そして食ベ物、食事作法、食事風景、当時の服装、当時の家の様子、当時の町の様子、家の作り込み、小道具等々、しっかり時代考証していい加減ではない手抜きのない美術の作り込みなどはなかなかと見て取れるが・・・話がなぁ、ホンが、脚本が・・・華もなくただ淡々としていて面白味に欠ける。

・結局のところ、これでは観終えて「ふーん、そうだったの、江戸末期の加賀藩とか幕末のなんでもない武士一家の生活ってこういう感じだったのか、なるほど、と思っておしまい。不可ではないし、破綻もないし、きっちりまとまっているし、映像はしっかりしているし、お金もかかったセットや美術も立派だ・・・でも、話がつまらない。延々と二時間以上ひとつの家族のお話を淡々と聞かせれているかのようであり、幕末前後の一つの家族と取り巻く状況を”説明”されているかのようだ。

・要するにこの作品は、映画ではあるけれど中味全部が”説明”なのだ。「映画で説明してはダメ、説明しなきゃわからないことは説明したって分からないよ」とは言ったものだが、この映画は全編が”説明”のようなもので出来ている。だから、不出来な作品にはなっていないけれど、まったくもってつまらない、ときめきや興奮がない一作となってしまっている。これならば、映画である必要はさしてないのではないかとさえ思う。当時の様子を再現してナレーションを入れてドキュメンタリーのような、TVの歴史解説番組のようなもので充分かそれ以上になる。

・この映画を観てしまうと、やはり森田芳光は晩年まで「家族ゲーム」の刺々しさやキラメキを再現することがなかったと思ってしまう。自分自身の脚本で、何かを変えるような強烈なメッセージや思い、提言を投げ掛けてくるような映画は殆ど撮らなかった。80年代以降のいちばん上手な”雇われ監督”であり”商業監督”であり”職業監督”から抜け出さなかった人だと思う。亡き人をあれこれ言うのもなんだけれど「そうだ、やっぱりあの『家族ゲーム』の森田芳光だ!」と思わせるような作品は遂に撮らないで行ってしまった。それが残念でもあり、悲しくもある。

・堺雅人と仲間由紀恵のキャスティングは失敗。両方とも売れ線で人を呼べる俳優だから動員をはかるためにはまっとうなキャスティングだが、あちこち映画、TVに出過ぎてどちらかというとおちゃらけイメージが付いている堺雅人に質実剛健なそろばん馬鹿の武士の役は合わない。仲間由紀恵もその夫を支える質素、丹精、奥ゆかしい妻というイメージは合わない。なにせ”ごくせん”のエンクミなんだから。仲間由紀恵に時代劇とかおしとやかな女性役ってもう合わないと思うのだけれどね。

原作:磯田道史「武士の家計簿『加賀藩御算用者』の幕末維新」

2012-09-13 『桜田門外ノ変』これならNHKの歴史番組のほうがマシ。

LACROIX2012-09-13

[]『桜田門外ノ変』(2010)

・役者が軽い、演技が軽い、演出が軽い、撮影もカメラも、構図も、編集も、話の展開も、なにもかもが軽い・・・軽いじゃなくて軽薄。

・これも『十三人の刺客」と同じで太刀回りに迫力、熱がない。動きを配置された演劇。舞台演劇の太刀回りをカメラで撮っているかのようなもの。

・まあなんというか、役者だけはしっかり揃えてるなという感はある。だからといって豪華キャスティングというのではなく、そこそこ名前と顔が通っている役者をたっぷり揃えたという感じだ。だが、それを第一義の頭数を揃えたと言うべきか、役柄と顔付きが合ってないのが多い、無理やり過ぎる。

・長谷川京子はやっぱり綺麗というか可愛い、しかし旦那である関鉄之助が斬首される間際に平和そうな顔で出てきてウフッって感じで笑うってのはどうなのよ? 思わずのけ反り吹き出してしまった。なんちゅう演出なんだこれは? 考えられんというか信じられんというか・・・いやはや全くどうしょうもないね。尋常とは思えん。

・同じく関鉄之助の愛人である、いの(中村ゆり)が捕まって拷問をうけるというのはなんだかサディスティックでちょっとゾクゾク。w

中村ゆりって、ものすごーくイイ感じの女優だし好みでもあるんだけれど、それが吊るされ、打たれ、最後には石抱の拷問を受けていや〜ぁぁと苦しみ悶えて死んでしまう・・・て、これある意味エロチック。このシーンって監督のスケベ心が表に出てるな確実に。かくゆう自分もちょっとこのシーンにはゾクゾク。(笑)

・ま、そういうオフザケばかりが印象に残った感じ。歴史上の事件を取り立てて何するわけでもなくお話として追っかけて映像を撮って、ハイ映画が出来ましたっていっても仕方ない。こういう映画だったら、NHK特集だとかNHKの歴史ヒストリアとかそういうのの方がよっぽどいいんじゃない?

・お金はたっぷり掛かっているようだけど、中味はダメだなこれ。

2012-09-02 『プロメテウス』リメイクとして見応え充分だが脚本と設定は粗だらけ

LACROIX2012-09-02

[]『プロメテウス』

・出だしから暫くのシーンは『2001年宇宙の旅』の明らかなオマージュ。船内の様子も食べている宇宙食らしきものも・・・。

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過去のエイリアンシリーズ1から4までと、時系列整合性がない。あるように思えるが、時系列に並べてみると明らかにおかしな部分、矛盾が噴出する・・・つまり、脚本と時代設定、背景設定が全く練り込まれていないのだ。

・いや、練り込まれていないというより、練り込んでしまうと話が上手く流れなくなるし、脚本を書き、演出するのに制約が多く出てきてしまうから、しっかりとした時代設定の整合性は無視したのだろう。「面倒臭いからこの位いい、そこまで突き詰めなくていい、当たればいいんだ!」というスタジオ側の強引な論理で時代設定や背景設定の不合理、非整合性も「そんな細かいことなんか全部どうでもイイ!」と切り捨てられたのだろう。

・エイリアンの前日談と監督が言っているが、前日談としては過去のエイリアン・シリーズとの時系列の整合性は全然ないではないか。独立した別物語りとして撮ったというにしては、まるでエイリアン1の焼き直しだし、まるでリメイクのような内容・・・結局どっちつかずである。どうしょうもない

・数々の、散々の期待は、話として最大にして散々に裏切られた。

・あのホログラム映像はなんなんだろう? 自分たちがエイリアンから逃げてやられる様子をホログラムで記録していた? それがちゃんと再生されるようになっていた? まったく意味ふめ〜なお話じゃないか。

・ウェイランド・コーポレーションの創業者だか社長だか会長が、もう老い先無くヨボヨボになって、プロメテウス号に実は乗っていて、その理由が命を永らえさせるために創造主(エンジニア)にお話を聞きその秘訣を教えてもらうのだ・・・って、アホか? 思わず吹き出してしまった。なんだそりゃ?って。しかもそのヨボヨボの足に補助機を取り付けて、通訳であるデイヴィットを連れて生き残っていたエンジニアに会いに行き「どうやったら死なないで済むの? 教えて?」と質問する・・・ハぁ?っともうこの段階でため息。でもってカプセルから出てきたエンジニアにあっさり殺される・・・って当たり前だろ、今まで見たこともない全く分からないそのエンジニアにそいつがどういう生き物かも分からないのに「ねえ君、ボクに長く生きる方法を教えて?」って武装もせず聞きにいくかっての? しかもそれを「お父さま」って・・・吹き出したよ、これで驚かすつもりだったのか? 科学が進んだ世界で知能指数も高い人物がそういうことするか?っての、デイビットはご主人様の部下だとしても「ご主人様、危険です、それは危ないです」って言うだろうっての。もうほんとになんだこのどうしょうもないお話と脚本は?

・いちばん美形のシャリーズ・セロンがヒロインになるのかと思ったら、なんだかツンツンしてるだけで、全然知性も感じられないし、魅力的でもない。他のキャストがそれほど有名ではない役者ばかりだし、やっぱり美しい女性の華が必要だからと飾りであてがわれた役というかんじだ。ヤメテヤメテ、ダメダメェ〜とまるで喘ぎ声でもだしてるように落っこちてきた宇宙船に叫びながら潰されちゃうというのも見ている方が失笑モノ、ある意味ビックリ予想外の展開で大笑い。

・で、「エイリアン」で力強い女性の象徴的存在にもなったシガニー・ウィーパーに代わる女優としてノオミ・ラパスを持ってきたのだろうが「ミレニアム」でのダークな印象はあるものの、まだこの女優にヒロイン的な強さはない。顔つきが少し丸くてぼんやりしているというのも原因かもしれないが、シガニー・ウィーパーのように困難な状況を切り抜けていく知的な力強さはないな。実際は自分で麻酔を打ち込みながら開腹手術を強行するなどの凄い場面もあるが(ここはなかなかエグかった)恐ろしい異生物や異星人と闘うという鋭さや尖った突き刺すようなところがない。ラストもいきなりそう来るか!という決断だし・・・。

・ノオミ・ラパスは「ミレニアム」シリーズのヒロインとして名をあげたが、スゥエーデンの女優であり、有名なハリウッド女優を使うのとはギャラが相当に違うだろう。今回の「プロメテウス」では続編も含めた出演契約が交わされているというが、ハリウッド女優では続編まで含めたギャラとなると高額になるし「エイリアン」の焼き直しでヒットも読めない状態でなるべく製作費を抑えたいと考えたプロデューサーが海外の女優に目をつけたといったところか? ノオミ・ラパス側にしたらハリウッドの大作で主演を射止められるんだから出演料の交渉はある程度(かなりかも)妥協しても受け入れるというものだ。

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・スタジオにとって大ヒット、ドル箱安定シリーズであったエイリアン・シリーズが第四作まで作ってしまって、第四作の最後じゃついに地球にもどってきて「これじゃ第五作は地球が舞台か?」と言うところまで来ていたのだが、どうしても第五作の脚本が上手く出来上がらず、つじつまも合わず、どうにも目茶苦茶な話にしかなりそうにないから、もう第五作は諦めて、別物語として新しい話、シリーズを派生させようとして「プロメテウス」という名前で全く新しい話を立ち上げることとした・・・のだが、結局それも斬新な画期的なアイディアは浮かばず、第一作の焼き直しで話を構築してしまっちゃったということなんでないかな?

・これは過去4部作のエイリアン・シリーズの中に時系列をあわせてどこかに入れるという作品ではなく、リドリー・スコット監督『エイリアン』第一作(1979)の30数年ぶりの焼き直し、リメイクとして独立した一本と考えたほうがいいだろう。ネット上にもあれこれ時系列がわからんだなんだという記述はあふれているが、ちょっと出来の悪い、脚本に粗だらけの失敗リメイクとして考えれば納得がいくし、映像は素晴らしいからまあなんとか満足もできるだろう。


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剛力彩芽の吹き替え・・・ダメだこりゃ。壊滅的な酷さとまではいってはいないが、エリザベス(ノオミ・ラパス)の役を2,3ランク引き下げてしまっている。どう考えても声が幼稚過ぎる。話題作りのためとはいえこういった真面目な作りのSFホラーで剛力みたいな流行り女優、アイドルを使うというのはどういったものか? アニメや子供向け映画ならアイドル人気を使った話題作りも許せるが、この「プロメテウス」でその手を使うか? ヒロインであるエリザベスがガキンチョの声になり表現力も全然のセリフ読みで雰囲気もシリアスさも台無しにされてしまっている。

・トレイラー(予告編)に作品の重要部分ともいえる映像が使われている。ラストに近い映像まで使われている。・・・予告編段階でこういった重要な映像を出してしまう映画というのは、大概「ちょっと内容がヤバいからイイ場面をいっぱい予告編に入れてしまえ、予告編にイイ場面をたくさん入れれば観た人はそれだけ興味を持って、凄い映画になりそうだと思う、これは行って観ようという気持ちを作れるから、最初の動員を上げられる」なんていう魂胆が働いている。つまり予告編で本編の見せ場を見せてしまっている映画というのは、大概、本編がダメで予告編で客を釣ろうという程度の映画である。

・結局、人類の起源や創造主なんてのは全く分からないわけで、作品自体も「人類はどこから来たのか」を探求するというような哲学的要素は薄い。大企業の社長が自分が生き長らえたいから創造主をさがしてなんとか延命したいというのが(その程度が)話の元であり、人間の起源を探求するようなキリスト教文化に何をか言わんやというような崇高さや思想と思考の高さはない。じゃあ『人類ばどこから来たのか』という日本の宣伝文句はなんだ? このポスターやらネットで使われている宣伝用のキャッチコピーがデタラメ。海外ポスターやfacebookページにはこんな文言どこにもないから日本の配給宣伝が付けたデタラメコピーか?

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・アラビアのロレンスの映像を入れているのはなぜ? フォックスの映画にコロンビアの代表作を? アンドロイドのデヴィッド8(マイケル・ファスベンダー)は確かに「アラビアのロレンス」当時のピーター・オトゥールにそっくりではあるが・・・いやはや、なんとか話題を作ろうとあれこれ画策してるうちの一つだなこれも。

・だけど「2001年宇宙の旅」を彷彿させる古風なイメージ、ファッショのデヴィットは嫌いではない。というかデヴィットがこの映画のほんとうの主役か??

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・大企業が揃えた一流の科学者達・・・のはずなのに、異星の地でちょっとした空気検査しただけでヘルメットを外してしまうとうのはお笑いだし、迷子になってしまった二人が突如現れた幼虫エイリアンにお馬鹿な酔っぱらいみたいに話しかけ、いかにも食ってくださいよといわんがばかりに餌食になるのも馬鹿らしい。なんなんだ、このお話の甘さは? 伏線の張り方もバレバレで、しかもご丁寧に説明しながら伏線を張っているなんて阿呆らしい。「私は妊娠しないの」と言いながらセックスして体内にエイリアンの子を宿すなんてもう見え透いてて呆れてしまう。

・エリザベスの開腹場面など、かなりエグい場面がいっぱいあるが、これは「エイリアン」でリドリー・スコットが描いたSFホラーの轍をしっかり踏襲している。

・フェイスハガーのあの不気味な様態がなくなり、エイリアンの幼虫はまんまチェストバスターになってしまっている。しかもそのチェストバスターが腹の中で成長したものがもう完全に”イカ”!! なんなんだあれは? NHKで見たダイオウイカか??(呆) 

・シガニー・ウィーパー演じたリプリーをノオミ・ラパスが演じるエリザベスで置き換え、新しいヒロインを作り出そうとしているのか? んーシガニーの足元にも及ばないな現段階では?

・兎に角、設定から話の筋、キャラクターまでほとんど「エイリアン」を踏襲して多少現代風に修正をくわえたものであり、これはエイリアン・シリーズの続編やその中のどこかの挿話というものではなく、サイドストーリーというものでもなく、明らかに「エイリアン」の焼き直し、リメイクと言ってしまって問題はあるまい。

・ドル箱シリーズを派生させる脚本を手に入れることにしくじった、出来なかったスタジオが、もうどうにもならなくなって「エイリアン」と同じ話でもう一回シリーズを作ってしまえ!と強引にでっちあげたような作品。オリジナルをリメイクしてちょっと筋を変えてもう一回シリーズものにしてしまえば何作かはヒットを読める!という金勘定で作られたような映画だろう。プロメテウス2(という題になるかどうかはわからないが)という続編は確実だし、それがヒットしたら更に続編も作るつもりだろう。ん? このやり方どこかに似てるのがあったな? そうそう「ターミネーター」シリーズだよ、あれと同じで強引にかこつけてストーリーを引っ張り広げていっても、もう限界がミエミエでどうしょうもないドツボにはまって愚作を作りだしていく、あのパターンに似ている。

・結局この作品「ターミネーター4」と全く同類で極め付けのハリウッド的打算と金勘定の総体としてできあがったような映画と言えるだろう。

・単体として観れば、説明不足は多々だが映像がいいからSFホラーとして楽しめるものの・・・粗が多過ぎ。

・国内宣伝的にも”そのコピーは嘘だろぅ”と言ったもので期待を上げ、アイドル女優を使って話題作りをして、などと騙して客を引き込もうといういわゆる腐敗したマーケティングがあからさまにギラギラとしていて目に余る。映画の宣伝なんてもう手法は出尽くしていて、新たな斬新なアイディア、手法なんて殆ど無く、過去に誰かが行ったデータを並べて「これと、これを今回は使おう」ってやれば充分とも言える。下手な新しい思いつきなどを実行してしくじったらハリウッドのスタジオ側(利益の向上にしか目がない経営陣)はすぐに責任を取れ!となるから、結局は安全策が選択される。だから宣伝というものに創造性だとかクリエイティブな面はなくなり、過去のアイディアの焼き直しで多少のアレンジを加えたもので殆ど充分となる。とどのつまり、作品も宣伝も今の状況では煮詰まってしまっている。映画においてはプロの宣伝担当よりいかに過去を勉強し、最も安全で効率のよいものを選んで実行すればいいとなってくる。誰だっていいとなってくる。なんてね、ここまで言いたくなるような作品と、嘘をついてもなんでもとにかく初週の動員を上げろという企みが見え透いた宣伝。そういったものが寄席集まってできた、妥協と虚偽の産物・・・そういう映画となるか?・・・・今回は辛口過ぎるか?(-.-;)

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2017年11月追記

・BS洋画専門チャンネル「ザ・シネマ」が吹替版を新録して12月3日に放送するらしい。だろうな、もう主役であるエリザベス・ショー博士の吹き替えを剛力彩芽にやらせたのは歴代の映画吹き替えでも最低最悪のトンデモない馬鹿宣伝部のバカキャスティングだった。もうあれはないと思っていたら、公開から5年以上経てようやく主役にきちんとした声優を使って新しく録音したバージョンが出るらしい。映画会社のおバカな若造宣伝マンの低レベルな施策思いつきで作品の価値を大幅に落としたんだから、ここはいっそ今まで出しているソフトも全部廃盤にして新しい吹き替えを再発したほうがいい。と・・・なると、剛力吹替版がプレミアになったりするかもしれないがね。まあ、どんな感じなのか観てみる聴いてみることとしよう。

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2012-08-18 『エネミー・オブ・アメリカ』ニクイ演出と脚本が実にカッコいい。

LACROIX2012-08-18

[]『エネミー・オブ・アメリカ』(1998)

監督:トニー・スコット

・出演:ジョン・ボイド ウィル・スミス ジーン・ハックマン

・この映画は公開当時、観ようとおもってチケットをいつも持ち歩いていながら、どうしても都合がつかなくて見逃してしまった作品。なぜかその後もずっと観ていなかった。14年ぶりにようやくという感じ。

・トニー・スコットらしい、反体制、反権力的批判精神ぶりぶりの作品。トニー・スコットはこういうのがじつに上手いし、小気味良い。「スパイ・ゲーム」も似たようなニクイ演出が決まっていた。

・ジーン・ハックマンは常にイイ役、いい演技をするな。まさに「切れ者なのか、馬鹿なのか?」というセリフにぴったり。

・仕掛けの配し方もじつに上手いし巧妙、その回収も見事。脚本の作りがじつに巧い。

・こういう一見バカを装っておいて、じつに頭が切れる奴というのは、アメリカでいえば刑事コロンボなどになるかな?

・最終的には悪を実に巧妙に騙してやって、面白可笑しく馬鹿にしてやっつけるところが気持ちいい。

・「スパイ・ゲーム」にしてもこの作品にしてもトニー・スコットの作品は結構好き。「ドミノ」はちょいダメだけど。


・ブッシュはアメリカ愛国者法を2001年の911テロの後に強引に通して、結果的にこの映画と同じようなことが政府によって合法的に正々堂々とやれるようにしてしまったわけであり、この映画はそのほんの3年ほど前につくられたということに意味がある。最近でも「バットマン」シリーズでこういった情報監視の危険性と俗悪性は話に組み込まれていたな。「デジャヴ」にもこういった監視システムが描かれていた。それだけ映画で描かれるということは、実際にはそういったシステムが相当に進んで張り巡らされているということなのだ。

☆この日記を書いた翌日、トニー・スコットが投身自殺をした。享年68歳・・・・なんだか、悲しい。またへんな巡り合わせというかんじだ。

2012-08-16 『ヒミズ』絶望に勝る希望とはこんなものではないはずだ。

LACROIX2012-08-16

[][]『ヒミズ』(2011)

・二階堂ふみの演技は最初からなかなか。染谷将太は最初はダメだが、殺しに至るところからグンと良くなる。渡辺哲はいぶし銀のような演技。流石の熟練俳優。本当はこの人、脇役ばかりじゃなくてもっと表に出てもいい実力。

・家族の絆なんてものが全く途切れていて、唯一最後に頼るべき親というものが、子を捨てようとする、殺そうとする。そんな絶望的な状況のなかに落ち込んでしまった少年と少女の物語り・・・絶望的に暗い、暗いけれど二階堂ふみの、なんとか、なんとか一滴でも元気を振り絞りだすんだっていう演技がその絶望感を遮ってくれている。

・その反面、染谷将太のほうは、どうにもならないくらい絶望的な状況なんだけど、ひねているというかふてくされているだけというか、目や顔に絶望が浮かんでいない。元気な少年が意地を張ってひねくれている、世の中にそっぽをむいているだけというふうに映る。

・だから、こんな絶望的な状況を背負った登場人物の話なのに、画面にその絶望の悲惨さや、奥深い暗さ、とてつもない悲しみ・・・そういったものがひしひしと感じられない。

・被災地の映像は本当に必要だったのか?

・絶望的な状況を描いているのに、なにか重さがない。軽い。

・場面をいくつか観ていると、もしこの登場人物が外国人だったらと思ってていると、ヨーロッパのヌーベルバーグ映画のような雰囲気が出ている。そこがヨーロッパの映画祭で受けているところか?

・河川敷で唄ったり踊ったりしている場面だとか、被災地で叫んでいる場面だとか、何人もが走って追いかけていくところを引いて撮っている場面だとか・・・これ、ニューシネマとかヌーベルバーグ的な匂いがしっかり滲み出している。(意図しているかどうかは別として)

・しかしだ、この映画は一体なんなのだろう。悲惨な状況に置かれ、絶望しか無くなったような子供たちが絶望の底から這い上がろうとする映画なのか? だったら何故、主人公二人の絶望がこんなに軽いのだ。こんなにサラサラとしているのだ。

・街をふらつき誰かを殺そうとしている男、シルバーシートに座っていることを咎められて人を刺し殺そうとする男、男のアパートで体中に落書きをされゴミを捨てに出てくる女。そして主人公二人の両親、家庭、その環境・・・なんでこんな!と言いたくなる酷い人間たち、親達、そこに落ち込んだ人間たち・・・なのに、画面が説明している状況がズンと響いてこない。ドスンと胸を突いてこない。体のまわりをサラサラと流れて飛んでいってしまう粉末のように、悲惨で絶望的な状況が圧倒的に、絶対的に軽いのだ。サラサラとして重みがないのだ。

・だから、二人の絶望や悲しみが、絵空事のように思えてしまう。二人の絶望や悲しみが重機のような重さをもってのし掛かってくることも、襲いかかってくることもない。絶望や悲しみが演技にしか見えない、感じられないのだ。

・だから、この映画は見終わっても肩に伸し掛かってくるものも感じ無ければ、胸を苦しく締めつけられることもなかった。(少しはあったけど)

・東日本大震災の地震と津波で家を流され破壊され、ボート屋の側にたどりついて暮らしている人達にも、あの強大な自然の力でズタズタに、希望も夢もなにもかもを押し潰され、どうにもならない、どうすることも出来ない大きな力に打ちのめされ、諦めることしかできなかった被災者の絶望感、失望感、喪失感、底なし沼のような悲しみが浮かんでいる、滲んでいるとは到底思えない。(ただのホームレス浮浪者のように見えた)

・だから、この映画は悲しみや絶望感など全く、全然映画として表現できていないし、それを観客に伝える技も熱も重さも、感じられないんだ。この映画にあるのは、絶望や悲しみを演技している、その演技だけなのだ、心が、本当の苦しみや悲しみや絶望が、登場人物の肌から滲み出る汗や、体臭や、体熱のように出ていないのだ。プラスチックで作られた人形が演技をしているように、この映画が描こうとしている悲しみや絶望に、人間の心や血が通っていない。

・だからサラサラなのだ。

・東日本大震災の被災地を撮影し、それを映像に加えることで、あの時のあの被災地の悲しみや絶望を作品に付加したかったのだろうか?しかし、それも噛み合ってはいない。被災地の映像を入れてもあの時の絶望や悲しみや喪失感が甦ってくることはなかった。瓦礫の山のあの映像にすら、悲しみや絶望感が血肉として染み込んでいなかった。なにもかもが、セルロイドに描いたアニメーションのように体温と人間そのものを感じさせるものではなかった。

ラストシーン「住田の”絶望”が茶沢の”希望”に敗れる」・・・か。それが東日本大震災の被災者に対するメタファー(暗喩)だというのか?あの震災時の絶望を、希望で塗り替えろというメッセージだということか?

・その希望のメッセージだというのなら、受け入れよう。だが、その希望のメッセージを発する土台となるものが、ヒミズという絶望的な漫画を原作とした映画でいいのか? その漫画に被災地の映像を加えたことで、希望のメッセージを発する土台足りえるのか? 違うだろう。希望のメッセージは付け足されたものにしかなりえていない。

・この映画は東日本大震災を絡めるべきではなかった。全く別の物語りに”絶望〜希望”というキーワードで結びつきをつけたとしても、二つが混じり合うことはない。ヒミズという少年少女の物語りに、東日本大震災の悲劇と絶望を重ねても被災した人々に、本当の悲しみと絶望を心に刻んでしまった人々に”希望”が届くとは、”希望の光”を灯らせることができるとは・・・とても思えない。

・希望を抱く人がいるとすれば、それは実際の被災した人ではなく、被災地を遠くから見ていた人。絆だ、頑張ろう、勇気をもって、希望をもってと被災していた人を、安全だった場所から応援していた人ではないだろうか。

・絶望を体験した人に見せる希望、絶望に勝る希望とは、こんなものではないはずだ。

ヒミズ公式サイトhttp://himizu.gaga.ne.jp/


・音楽:サミュエル・バーバー 弦楽のためのアダージョ Op.11"Adagio for Strings"・・・プラトーンのラストで流れていたあの曲か・・・。『シン・レッド・ライン』のハンス・ジマーの音楽にも似ている感じがする。

2012-08-01 『ダークナイト ライジング』ラストシーンは夢なのだろうか?

LACROIX2012-08-01

[]『ダークナイト ライジング』(原題:DARK KNIGHT RISES) 


映像の質は文句無し。クリストファー ノーランの撮る作品は細部までスキのない重厚で密度の高い映像ばかりだ。まるで超豪華なゴシック調の寺院や貴族の屋敷、宗教画と建設美に取り囲まれたヨーロッパ教会の中にでも居るかのような感覚である。

・今年期待の一作!前作『ダークナイト』(2009)の素晴らしい完成度、物語の質としての高さ、心臓を突き刺すような峻烈なストーリーにわれながら大喝采、大称賛をしたが、世界的にも驚くほどの高い評価を得た前作の続編ということで大いに期待は高まった。考えてみれば、このところ暫く、公開作に期待するなんてこともずっとなかったなと改めて思う。

・その高い期待からすれば、今回の続編は期待度に比して60%いや70%位の満足度だろうか。前作が非常に高いクオリティーだったのだがから、6割、7割の満足度といってもそんじょそこらの作品からしたら非常にハイレベルな映画ではある。だが、期待度がやはり高すぎただけに少しばかり「こんなものか」という気分になったことは事実だ。

・一人の監督が続けて傑作を撮るということは稀なる上にも稀だ。一人の監督が撮ることの出来る傑作は一本しかないと言う人もいた。そう考えれば、あの傑作である『ダークナイト』以上の作品が、いくらクリストファー ノーランと言えども、そんな続けて撮れるはずなどないのだ、脚本にしろあれほどのモノを、あれを超えるものを書くことはどれだけ難しいかと言うことでもある。

・そんな色々な思いを抱いて観た。見応えがあった。観ながら『ダークナイト』とは違うものも感じていた。

・凶悪でどんなものもその悪の力で踏み潰していくベインが、あの裏話をみせられたら、一気にそれまでの凶悪感がうすれてしまうではないか。あのどんでん返し的設定はいただけない。面白みはあるし、多少なりとも驚くのではあるが、それ以上にベインのキャラクターが一気に色褪せる、冷たくなってしまう。あれではベインというキャラクターを最後にダメにしてしまうようなものだ。

アメリカ政府を出してきたのもいただけない。そのアメリカ政府が手出しできないでただ見ているだけというのも、現実感から程遠い。前作「ダークナイト」でもジョーカーがどこにでもあまりに簡単に忍び込み悪さをするのだが、どう考えてもそれって無理だろうという現実感のまったく伴わない部分がいくつか露見していた。「Xファイル」で都会からいきなり南極に主人公がいっているとか、「復活の日」で日本から歩いて数日で主人公が南極にいっているとか・・・それと同じ類のミス。異常さ。脚本家も監督も映画に関わるすべてのスタッフもこういった不合理、不整合にどうして気が付かないのかと思うのだが、同じようなものが「ダークナイト ライジング」にもある。

その傾向は今回の「ダークナイト ライジング」においても多々ある。その辺の不整合さやどうみても嘘だろうとおもうようなところを抜けたらもっと怖さや恐ろしさも強くなっていたんだろうし、完成度も上がっていたのだろう。なんだか、ほんの数日で都会のどまんなかから南極まで歩いて移動しちゃってるというのを堂々と話の中に入れているようなそういう非現実さと同じものが、いくつかあって、それが映画の雰囲気を少しずつおかしくしていってしまう。

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・アン・ハサウェイがとにかく魅力的。もう本当にとろけてしまいそうなくらいイイ女。今までのキャット ウーマンのマスクはSMの女王様が黒いパンティーを逆さに被った様な品のないものばかりだったが、今回のキャット ウーマンは強い女性、気品、気高さといったものを感じせ、最高のキャット ウーマンになっている。それにしてもアン ハサウェイの美しさと危険さを合わせ持った女性は、スクリーンを観ているだけでうっとりと見とれてしまう。こんな女性が目の前に現れたら、殆どの男はもう目じりを下げてうっとりしてデレデレになってしまうだろう。実際に自分ももううっとり、こんな危ない美女と関わりたいなぁなどと夢想したが・・・。今までのアン・ハサウェイは目がちょっとアンバランスな程大きくて、確かにスーパーモデル的美しさではあったが、少しばかりエキセントリックな風貌に見えていてどうも好きにはなれなかった。しかしこの「ダークナイト ライジング」におけるセリーナ役は文句の付け所のない美人だ。エキセントリックに思えた部分すら強い魅力と誘惑の電波を放つ重要なパーツになっている。このキャスティングは見事だ。

・『ダークナイト』はアメコミをコミック的な部分からは全く離れた重厚な実写、人間ドラマに仕上がっていた。だが今回の『ダークナイト ライジング』は少しばかり現実ばなれして、いかにも空想SciFiの世界といったおかしな部分が多々ある。見ていてありえないようなマンガチックな話、設定などが引っ掛かった。なんだか映画が再びコミック、漫画的な世界にに戻った感もある。

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・最後に近づくにつれ「これは、なんて救いようのない話なんだ」と思ったが、それが最後のワンシーンで救われた。サーッとカーテンが開いて爽やかな草原が目の前に広がるような、霧が一陣の風で吹き払われ夢のような美しく幸せな世界が目の前に現れるような、思わず拍手をしたくなる、体中にジーンと痺れるような感覚が走った。最高のラストだ。観た時は、よし、やった!とこのラストに酔いしれ心のなかのもやもやが吹き飛ばされ本当に心が救われる気持ちだったのだが、しばらくして思い出しながら考えると、あのシーンは・・・映画の中の現実なのか、それともアルフレッドの妄想、夢なのか・・・どちらとも受け取れるなと気がつく。あれがアルフレッドの夢なら・・・やっぱり悲しい、涙が出るほどこの映画は悲しい。でもあれが映画の中での現実ならば・・・本当に美しい、素晴らしい、見事な、心を暖かく癒されるようなラストだ。斜めから捉えたセリーナの後ろ姿と横顔、その幸せそうな姿、そしてそれを見て微笑むアルフレッドの姿・・・どちらにでも捉えられるラストだが・・・幸せな方として捉えよう。そうでなければ悲しすぎるし、幸せな姿と捉えれば、他には何もいらない何にも代え難いほど温かく、優しく、美しい、天国の中にいるようなラストなのだから。

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・原題のDARK KNIGHT RAISESをなんでまあライジングとしたのか? 確かにエグザイルのヒット曲もあるしライジングのほうが日本人には耳慣れしているかもしれないが、まったく意思も思考もない邦題の付け方だ。

シリーズ最終章とは言っているが、強欲なハリウッド スタジオがこんなドル箱、大ヒットシリーズを終わらせるはずなどなく。これはよくあることラストではいろいろと次への仕込みが・・・さあ3年後位にどうなるかな?

映画『ダークナイト ライジング』公式サイトhttp://wwws.warnerbros.co.jp/batman3/

facebook page: https://www.facebook.com/thedarkknightrises?ref=ts&rf=411685442224057

◯ラストシーンに関するWeb上のあれこれ(ネタバレ

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1291578677

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1291415697

http://zubazubanews.blog.so-net.ne.jp/2012-07-30-2

『ダークナイト ライジング』の核描写, 米でも批判

http://www.webdice.jp/topics/detail/3609/

2012-07-14 『時雨の記』二人の雰囲気は悪くないが、話が出来すぎスカスカ

LACROIX2012-07-14

[]『時雨の記』(1998)

・出だしからかなり以上に短絡的、手前勝手、都合のいい話、脚本だ。20年前に一度会っただけの歳をとった男と女がこんなに簡単に、都合よくひょいひょいと学生みたいな恋愛関係になるかって。

・バブル真っ盛りの前年に、小金持ちで暇を持て余し、人生と日々の生活に中年の不倫というアヴァンテュールとエロティックな刺激を求めたオバサン連中に大受け大ヒットした『失楽園』を倣い柳下の二匹目のどじょうを狙って企画された映画じゃないのかと邪推する・・・たぶんそうだろう。

・中年男女の不倫映画をもう一本作ろう!なにかいい原作はないか? あ、あった少し古いが芥川賞を獲った中里 恒子の『時雨の記』があったな、あれを使おう。『失楽園』はセックス描写も多く、エロエロだったが、同じのをやってもダメだ、純粋な美しいプラトニック・ラブで行こう。配役はどうする?そうだ日本のトップスターである吉永小百合と渡哲也を共演させれば、これは話題になるぞ、中年オバサン層の心をぐっと掴めるぞ、ヒット間違い無しだ!ようしやるぞ・・・てな感じで映画が作られたんじゃないかねぇ〜。

・吉永小百合は流石だと思うし、昔のアイドル中のアイドル、日本の大女優だからふむふむと鑑賞したが、どうにもこうにもこの映画は話がご都合よく出来過ぎ。脚本があざとらしいね。中年男女の夢物語として描こうとしたのかもしれないが、ここまでなんでもトントン拍子というのはありえないだろうという展開だらけ。それはつまり、そのまま現実味、真実感が薄く話に質量が乗っていないのだ。

・こういう恋をしたいなぁとぽわーんと憧れるという人向けか。

・昭和天皇の様態悪化のニュースや、天皇崩御のニュースを間にはさんだのにはなんの意味がある? この辺も映画として変である。あんなのを入れて昭和から平成に移る時代を感じさせようとしたのか? それは浅はかすぎる。

・吉永小百合と渡哲也の純愛という奇麗な部分はまあいいとして、二人のデートや食事、会話などを眺めてへへへと思うだけで、それ以外は殆ど何も無しといってしまっても過言ではなさそうだ。

・演出もかなり態とらしい。吉永小百合、渡哲也という熟練の役者によくもまあこんなくさい演技させるなあという場面もいくつかあり驚く。

・これまた要りもしないようなイタリア・ロケを入れたり、まあまあ邦画の動員がまだ良い頃のバブルの時代にバブルに乗ってる様な映画でもある。プロデューサーや監督が映画撮影に乗じて外国でちょっと遊びたい、または海外ロケを入れると少し箔が付くとでも考えて要りもしない海外シーンを入れるという作品はよくある。劇場版『クライマーズ・ハイ』のラストもそうだった。そしてあれもまったくの無用なシーンだった。

・裕木奈江、細川直美とか当時のちょっと綺麗な若手女優をチョイ役で使ってるってのもいかにもバブル期の映画。

・二人の名優を観る以外は映画として脚本も話も質もスカスカである。

・原作小説はたぶんもっと中年の二人の恋を情緒的にしっかり丁寧に描いているんじゃないだろうか? 映画は表面的な二人しか描かずその心の動きを感じさせるような描写がまったくもって希薄。

・密林のDVD解説をみてみたらこんなことが書いてあった。

《1977年発表当時“中年男女の命のかぎりの愛を描き得た小説”と絶賛され“しぐれ族”なる流行語まで生んでベストセラーになった、今なお読み継がれる恋愛小説の白眉である。映画化にあたっては、この原作の熱烈な愛読者である吉永小百合のたっての希望で実現、その相手役も渡哲也が吉永の呼びかけに応じ実に29年ぶりの夢の共演を果たしマスコミ界を沸かせた。映画公開時は“大人の恋”に主人公たちと同世代のミドルパワーで賑わい、大ヒットを記録。》

・・・・しぐれ族・・・知らんなぁ。なにそれ?検索しても意味は出てこないが、こういう中年不倫に憧れるオバサンを《しぐれ族》とでも言ったのだろうか? それとも原作本の世界に心酔してこの本にぞっこんしてしまった人をそう言ったのだろうか?(くれない族とか夕暮れ族っていうのなら知ってるが)

これ、大ヒットしたの? まったく知らなかったけど。たぶんコケてるんじゃない? 発表された興収、配収なんてのは当てにならない数字だが、ちょっと見てみたら1998年公開作として興収が約9億。この当時としてはまあまあだが、たぶん吉永、渡のダブルキャストで大ヒットでも狙い、予算も結構注ぎ込んでいるだろうからこの興収は大きな見込み違いだったのではないか? 前年の「失楽園」が50億近い興収となってるから、やはりこれはコケたという感じだろうね。同じ年には「りんぐ」や「踊る大走査線」なんてのも公開されてるから、影は薄かったのかも?

撮影は木村大作だったのね。

しぐれ【《時雨》】 [1]初冬の頃、一時、風が強まり、急に ぱらぱらと降ってはやみ、数時間で通り過ぎてゆく雨。冬の季節風が吹き始めたときの、 寒冷前線がもたらす驟雨(しゆうう)

2012-07-04 『始皇帝暗殺』ここら辺はまだ中国映画の良さがある。

LACROIX2012-07-04

[]『始皇帝暗殺』(1998)

監督:チェン・カイコー 主演:コン・リー

・中国映画らしさがありありと浮かんでいる。重く暗く汚れてどす黒くもあるが、それもいい意味で。

・映画として作品としての格、信念、心情、情熱、一本筋の通ったものがある。ただただ受けとヒットを狙ったような演出や脚本作りの今の中国映画とは別格と言えるだろう。

・中国映画がよかったのはこの辺りまでか。2000年を超える辺りから猛烈に変化し劣化が始まったのだ、

・コン・リーは「SAYURI」以来観ていないな。チェン・カイコーに見出されたコン・リー、チャン・イーモゥに見出されたチャン・ツィー・イー。どちらも可憐なる美形だが、最終的にはどっかの事業家とか大金持ちと結婚してセレブの仲間入りして女優はおさらば。そのほうが楽で優雅でお気楽、悠々自適だろうが、女優業で名を上げたらあとは女優はポイって感じ、結局中国での女優というのはある程度の地位しかないし、大金持ちの懐に入って楽な暮らしっていうほうがいいのだろう。その意味で中国の役者は心底役者に打ち込んでいる訳でもないんだろうと思える。階段をのぼる一つの手段としてとらえている。

・いかにも中国的な泥々感。それは映像と演技の重厚さとも言えるのだが、やはりこのどろどろと粘着し怨念深く、人間の根っこにある意地汚いような雰囲気は中国映画独特だ。

・一時期の中国映画ブームがすっかり影を潜め、ここ数年は公開される中国映画もあまり話題にさえならない。ひっぱってくる配給会社も小さいところばかりだから、大した宣伝もしていないのだが、中堅会社も今の中国映画は日本にもってきてもダメと判断しているのだろう。

ハリウッドの流行、日本のドラマや韓国映画の典型的ラブストーリーを模倣したような中国映画には中国本土での受けはあったとしても海外で人を動員するような力はない。それはいってみれば海外で全然ひっぱられない邦画と同じ。

・90年代初めまでかな?中国映画が独特の個性、色彩をもち、その特別性で海外においても文芸作として認められていたのは。今の中国映画は定型化された大衆受けの型にはめられた俗物映画であるともいえる。

・チャン・イーモゥの『HERO』って、この映画のかなりの部分を参考にしてる。というか焼き直し的でもある。

2012-06-15 『八日目の蝉』サスペンスや犯罪映画じゃなく、人の心の原点回帰物語

LACROIX2012-06-15

[]『八日目の蝉』(2011)

・出だしのかなりわざとらしい演出と、話を変にいじくり、入れ込みをした、演出の技巧をみせびらかせようとでもしているかのような部分に「これはダメだな」と思ったのだが・・・その後は見事。

・女優の演技がみんな凄い。どの女優も女の性とか女ゆえの業とか執念とか、女が女であるがゆえの、女としての生き物としての情念、情動が怖いくらい滲み出している。

井上真央・・・驚きの演技。なんだか単なる若手アイドルと思っていたが、この表情や背中に感じる影はどうだろう。こんな悲しさを滲ませ感じさせる演技が出来たのか。驚きの驚きである。

小池栄子・・・怪演

永作博美・・・巧いと思ってたけどこの映画では他の女優があまりに素晴らしいので演技のわざとらしさが目につく。でも・・・最後まで観ると、無くてはならない存在感をだしている。

市川実和子・・・相変わらず以上の怪演

余貴美子・・・これはちょっと外してる。

子供たち、上手い!・・・・

・永作博美と子供が施設を逃げ出すところからいきなり映画が躍動を始める。逃げ出した親子を有刺鉄線の内側から見つめる子供の目。なんて悲しい目をしているんだろう。こんな子供にこんな悲しみの演技が出来るのだろうかと驚くとともに怖くなる。


f:id:LACROIX:20120617233057j:image:left・そして、小豆島に渡ってからの部分。これががなんともいえず良い。凄い、そして、とてつもなく美しい。素晴らしい。

風景描写にしても、子供との触れあい、子供たちとの触れあい、うどん作りや村芸能の場面、段々畑、お祭りの場面にしても、素晴らしい。。。これは秀逸だ。あれこれ地方ロケの映画があって、その地の風習や風景を取り上げているけれど、この「八日目の蝉」は元々がそういうご当地映画ではないのに、こんなに地方の風景を美しく情緒的に描いている。これは稀なる例だ。驚いた。

・日本の良さが輝いている。日本の夏をとても強く感じる。この風景の日本の夏の素晴らしさを肌で感じ、心でしっかり感じ受け止め感動する体験がなければ再現できるものじゃない。観ていて肌がぶるぶると震え、痺れるくらいに素晴らしい場面の連続だ。

・余りにも素晴らしくて良過ぎるものだから1時間20分位まで戻してもう一度見直してしまった。

・夏の夕暮れ、段々畑の中を竹に灯した松明を持って沢山の人が歩いていく場面なんか、音楽もいいし、もうブルブルと涙がでそうなくらいこの場面だけで心が揺り動かされ感動してしまった。「小豆島に渡ってからの場面だけでアカデミー賞やるよ。他なんかなくても」とさえ思えてしまう素晴らしさだ。

http://www.town.shodoshima.lg.jp/oshirase/youkame-semi.html

☆これは小豆島で行われる初夏の風物詩 ”虫送り” という風習行事ということだ。見てみたいなぁ。夏の夕暮れにこれを見たら感動して涙をながしてしまうかもなぁ。

四国新聞社記事:http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/locality/20100703000133

「田植えが終わる時期とされる「半夏生」の2日夜、火で稲の虫を退治して豊作を願う伝統行事「虫送り」が香川県土庄町肥土山で行われた。火手(ほて)とよばれる松明4 件(たいまつ)を手にした地元の親子連れら約300人があぜ道を練り歩き、のどかな田園地帯に幻想的な光景を描き出した。

 午後6時から小豆島霊場46番札所多聞寺で五穀豊穣を祈願し、虫塚で稲の虫を供養した後、灯明を農村歌舞伎で有名な肥土山離宮八幡神社へと運んだ。

子供らは竹で作った長さ約1・5メートルほどの火手に火をつけ午後7時ごろ、約1・5キロ先の蓬莱橋(ほうらいばし)を目指して神社を出発。青々とした水田に燃え盛る炎をかざしながら歩くと1本の長い光の帯となった。」

☆この行事は何年も行われていなかったらしい。この映画のロケを機に復活することになったという。・・・・もう、本当に素晴らしい!

《小豆島伝統の「虫送り」復活へ 「八日目の蝉」ロケ機に》

http://www.asahi.com/national/update/0703/OSK201107030127.html

「香川県の小豆島でこの夏、夜の棚田をたいまつが彩る伝統行事「虫送り」が7年ぶりによみがえる。たいまつを持つ子どもが少なくなり途絶えていたが、小豆島を舞台にした映画のロケをきっかけに、島民のなかに復活の機運が高まった。」

f:id:LACROIX:20120617233055j:image:w300f:id:LACROIX:20120617233056j:image:w300

・これはロケをコーディネートしたスタッフの力が相当に大きく貢献しているだろう。座布団10枚以上あげても足りない位の素晴らしさだ。

・そして、なんといっても井上真央が徹底的にいい。

過去と現在を交互に組み合わせた脚本のアレンジ、演出がいい。編集もいい。音楽もいい。無理に説明しないで感じさせる映画の作りもいい。ラストもいい。ただし中島美嘉の最後の音楽は作風に合ってない蛇足。

・出だしがどうにもがっかりだったけど、そこを外せば『八日目の蝉』は良い映画に仕上がっている。

・「この島に戻りたかった・・・・」故郷、心の故郷、美しい想い出。そうか・・・それこそが映画版『八日目の蝉』の背骨であり、作品にとうとうと流れている本流なのだ

・生みの親、育ての親、不倫や愛情、犯罪、原作小説にはいっぱい色んな考えるべき要素がちりばめられているんだろうけど、この映画『八日目の蝉』はそういうところを敢えて積極的には取り上げず、誘拐された少女の心と、成長した少女の心、そしてその視点を中心として話を編成し、心の原点回帰といった部分に焦点を当てて映画として再構築したことが大いに成功していると言える。

・映画が小説を昇華させている。感動!!

2012-03-31 『婚前特急』これじゃトンデモ人間のストーカー映画だ。

LACROIX2012-03-31

[]『婚前特急』(2011)

・いくらなんでもこんな自己中というか、ここまで自分のことを良く考えている男で、調子に乗りすぎで、ここまでわがままが当然という男はいないだろう、と思うのだが、ここまでダメダメ、言ってることを理解しない男を見ているともういらいらしてくるし、ぶった切って視界から抹消してしまいたくなる。さらに、なんでそんな男との縁をいつまでもこの女は切れないのかとこれまたいらついてくる。

・なんだかあまりに男と女の我が侭が強烈過ぎて、コメディーなのに笑えないんだよなぁ。「もうここまできたらあり得ないだろう」っていう言動ばかりだから・・・・。空気読めないどころか、人の気持ちなんて全然考えていない、空気なんて感じてもいない、ただ自分の思ったことだけを正しいと思って周りに押し付けている、言ってみればこういうのはモンスターであり、手に負えないモンスターペアレントとかがいるけどそれと同じ類いの人間なわけで、途中から「自分だったらこんなやつらが前にいたら二度と関わり合いになりたくないし、これ以上の関わり合いを持たないようにするためにズバっと完全に切り離し一切の付き合いを断ってしまう」と思うようになった。こんなのが近くにいたらもう歯ぎしりするくらい苛々して頭に来て爆発しそうになるだろう。

・もう少しクスっと笑える面白さがあれば楽しめたんだろうけど、余りに我の強い、身勝手なことばかり言ってる登場人物を見ていると、もいいい加減にしろよって気持ちで、楽しいっていう笑いは湧いてこなかったな。はあぁと溜め息がでてよくやるよなぁという呆れた笑いはちょっとはあったけれど。

・この二人のあまりのダメダメさに呆れながら観る映画となったが、吉高の視線の強さに引きずられる部分がかなりあったかもしれない。『ロボジー」であまりのやりすぎ演技に監督から「もう異常、変態ですねあの娘は」と言わしめた吉高だが、まさにそのへんてこさ、異常さが表にビンビンと出てきている。

・吉高は美人というよりも宇宙人的変人。このなんともわけのわからぬ異常さ、変人的雰囲気、言動が他にはない人を惹き付ける部分なのだろう。ちょっと恐いけどこういう女性と知り合いになってみたい、深い付き合いはしたくないけど、一緒にいると知らない世界のはじっこに触れるみたいでどきどきする。わくわくする。日常性の外にある何かだから幽霊とか怪物みたいな恐さと好奇心が湧く。そういう女性なんじゃないかな。

ラストはもう予想通りの終わり方だが、話のほとんどはほぼまったく共感も同感もできず「ちょっとこれは、ここまではないだろう」というものばかり。こんなとんでもない異常な男女の話がなんとかうまく落ちがついてはいるが、本筋にあるのは異常な人間、人格、性格破綻した男女の話であり、これじゃ恋愛ものというよりホラーコメディーに近い。

・男女の性格描写と話の作りに懲り過ぎて、やりすぎて恋愛ものとは違った方向に作品がいってしまった変な作品。

・この男女の人間性ってどこかの何かに似てないか?と思ってしばらく考えていたがスティーヴン・キングの『ミザリー』の主人公アニーだな。・・・・やっぱりそうするとこの映画、あと一歩横に歩をずらせば確実にホラーになってたんじゃないだろうか?

・奇妙で不気味でへんてこな映画である。本来の話の方向からはずれてべつなところにいっちゃってると思う。失敗作かな?

2012-03-27 『誰かが私にキスをした』堀北真希の可愛らしさ以外なにもなし。

LACROIX2012-03-27

[]『誰かが私にキスをした』(2010)

・堀北真希・・・撮影当時20歳・・・とは思えない可愛らしさ。この頃は女じゃなくて少女だな。なんだか高校一年生くらいに見える。しっかしお人形さんにような可愛らしさだ。

・松山ケンイチ・・・撮影当時23歳・・・とわ思えないくらい若くて幼さが残っている顔。少年がちょっと大きくなったって感じだろうか。

・なんだか観ていて気恥ずかしくなるようなテ韓国のレビドラマのようであり、かなり昔夏休みとかに公開していた中味の全く無いアイドル映画のようでもあり、話しも台詞も絵も映像も・・・なんかズレまくっている映画。

・大方、プロデューサーなんかが人気の堀北真紀をキャスティングすればそこそこの動員と興収は見込めるし、それをアメリカの監督に撮らせれば巧く行けば海外公開の足掛かりにもなるし、まんまと北米公開でも決まればリクープは大丈夫だろう、さらには低迷する邦画のアメリカ輸出で、韓国や中国映画のようにハリウッドで儲けることが出来るだろう、浅はかな皮算用をして製作をスタートさせたのだろう。しかし、出来上がった映画はあまりにも冷や汗ものの出来で、これでは海外公開どころか日本でも大コケ確実だと真っ青になりいつまでたっても公開ができなかったんじゃなかろうか。

・文句無しに可愛い堀北真紀を観ることが出来る以外は、映画として全く精彩のないダメダメ勘違いのどうしょうもなさのお手本のような映画。

2012-03-08 『friends after 3.11 vol.2』世界の恥晒し国家となったボロボロ日本

LACROIX2012-03-08

[]『friends after 3.11 vol.2』

◎Vol.2はそのほとんどがインタビューだ。疑問に思う部分もなくはない。示唆に富んだ部分も、同じ考えがだと思う部分もある。

沢山の監督が撮ったインタビュー映像だけど、映像の持っている温度というか空気がでこぼこせず、しっかりと波長が揃っている、整っている。

◎この旗のマークは何を顕しているのだろうと思った。宮城県の地図だろうかと思ったが形が違う。これは「ギザギザハートの日本国旗」ということらしい。なるほど・・・ギザギザの日本だ、今は、確かに。

《宮城県復興応援ブログ》より引用。

http://kokoropress.blogspot.com/2012/01/blog-post_22.html

テーマとしては「ギザギザハートの日の丸」です。心傷ついたハートにも見えますが、メラメラ燃え上がるハートにも見えるし、なにより、人の人生ハッピーなことばかりではない。というメッセージかこめられています」岩井 俊二


監督:窪田崇、岩井俊二、カジワラノリコ、松浦徹、時川英之、荻野欣士郎

主題歌:「ブレス」野田洋二郎

☆human error あれは人災だ。

事実を知らされていないということ何じゃないですか。

☆もう完全に国と東電に騙されてたなと思いました。

☆政治くらいくだらないものは無い。

☆完全に狂った世界だ。

☆我々が世界を破壊している。

☆汚染がゼロだというのはもう無理だと思いますから。

☆逃げたいけど、家を持っているから逃げられないという人もいる。

☆放射性廃棄物は永遠に無くならない。

☆セシウムは食物連鎖に入る。

☆七代先まで続くかもしれない。

☆多くの人に不安も与える、誤解も与える。

☆みんな安全だと思うんですよ。

☆まだそれに気付いていないという人たちがいるっていう。

人間って常にそうなんでしょう。

子供たちはちゃんと見てると思いますよ。

☆広瀬隆

「極端に言えば東日本と西日本で意識が違う。はっきり言うと太平洋岸の魚介類は全滅状態だ。どういうことが起こってるか気がついていない」

「一日も早く福島の人には逃げて欲しい。空間線量を計ってもダメだ」

「日本人は民度が低過ぎる、愚劣な人間がそういう(論を封じ込めるような)ことを言う。福島の人を差別したりする」

とんでもない国ですよ、今。みんなで変えていきましょう、数じゃない質なんです。とにかく先ず原発を止めること。喧嘩はあとでやりましょう、生き残ったら」

☆今西憲之

「官房長官は爆発的事象なんて言って、いかにもポップコーンが爆発するみたいにポーンと爆発しましたみたいに言ってましたけど、見に行ったら、ああ、完全に国と東電に騙されてたなと思いました。とんでもなかったです」

「話しがぜんぜんちゃうやん、もう言葉もなんもないですね。ほんまこいつら嘘つきやと思いましたね

「第一原発の20キロ圏内は僕に言わせれば日本の国土じゃないですね」

「日本の国土でないものにしたのはやっぱ政府と東京電力ですよ一義的には」

その責任を誰もとらないっていうのはね、信じられないですよ。一定のけじめ、責任をとらんといかんですよ。それはそうでしょう、自民党は今野党になってますけど、基本的に自民党があの原発を推進してぎょうさん建てて日本に54機あるっていうのは紛れも無い事実ですよ。ほんな自民党の総裁とか幹部はそら頭丸坊主にして一ヶ月も滝に打たれてこいよ。それぐらいして当然ですよ。申し訳なかったと、与党野党関係なく現場終息させるために自分で作業員行っていいからね、がんばりますくらい言わないと」

「だから自民党にも支持こない、かといって民主党にも支持こないですよ。そりゃそうですよ、どこに燃料棒飛び散ってるかわからない。あたかも見てきたように、いやいやもう冷えてます冷温停止です間違いありません終息しました、もう原発今年一年で終わりです。来年からないです。そんなことでは国民の支持はこないですよ」

「日本で除染の技術を持ってる会社は大手で二社しかない。一つは東京電力の系列の会社。一つは東京電力と非常に密接な会社。この二つしかない。ホントの除染の技術をもってるのは。そこに仕事って集中するんですよ」

「じぶんのとこでバーンと爆発させといて、けど除染、あ、うちやりますよって、そらないやろ」

「お前らなめとんか、お前らが悪いんやぞ。反省せいよ。タダでもいいからやらせてもらいますってのが筋でしょう」

「なんでこんな見積もり出てくんの?あいつら勝手に爆発させといて、ぱっと見たら東京電力の関連会社で、なんであいつらがまた儲けんねん。そんでその原資は基本的に税金ですから。こんなおかしな話しないですよ」

東京電力の大丈夫ですほどいい加減なものはないですよ。あんだけ原発大丈夫ですって言い切っててこの様ですから。東京電力が大丈夫っていうことのほうが危ないんです。

☆田岡俊次

「半分人災ね、今回のは。ちゃんと管理してればあんなことにならなかった可能性が高いわけですよ。たとえば電気が全部アウトになることを予測しないとか」

「一番初期型のをいまだに使っていたと。飛行機で言ったらライト兄弟の作ったのが危ないという話しであって・・・」

「石油の獲り合いで何千万と人は死んでいる。石油の獲り合いをするくらなら原子力発電所のほうが安全性が高いと思っている。地震と廃棄物のことはあるけれど」

「黒潮を使って発電すればいい。世界中の川を集めたくらいの流れが三宅島沖とかにあるんだから」

☆川根眞也、マーチン・トンデル

「チェルノブイリで一番汚染されたのは遥かに離れたスウエーデンだった。スウェーデンで一番セシウムが高い場所は一平方メートル10万ベクレル。チェルノブイリでスウェーデンは汚染され、最初の二年間で一番高い人は8ミリシーベルトから10ミリシーベルト被爆しました」

☆崎山比早子

「ICRP〈国際放射線防護委員会〉はずっと内部被爆を無視してきているのは確か。日本の原子力安全委員会が言っているデータはICRPのモデルを本当に絶対正しいとして掲載している。内部疾患系の病気を全部無視して何でもないですって言うわけですよ。そうするとそれはRadiophobia〈放射線恐怖症〉っていう診断名を付ける。放射線を恐がることでそういう病気になるんだって。これは放射線の影響ではありませんと言う。・・・・(それは悪質ですね)」

「毎日4ベクレルずつ食べ続けていったら少なくとも体のなかに溜まることは確か」

☆マエキタミヤコ

「給食は地産地消だから福島の野菜を使ってますと言われた。学校側はそれを大丈夫ですと言った」

☆田中優

・・・天城抗火石・・・まだ疑問だ。

☆マイケル・マドセン

「核廃棄物の隔離をすることが不可能な国は世界にあるか?一つだけある日本だ。日本は地震大国だ。今回の事故は天災ではなく人災だと僕は思っている。思うに日本に原発を設置するのは元々アメリカの意見でそれは日本の置かれた状況を考慮して地震も含めた特別な設計などされていない」

「もし日本に原発問題に口を出さない文化があるのなら、もしそれを社会全体が許しているならば日本人は社会の一員としての義務を放棄したことになる。

☆坂本龍一

「アメリカに住んでいるのが影響しているのかもしれないけど、みんな誰でも自分の意見を言う国なんで。で、そっちから見ると日本の人は奇異に感じます。こんなデカイ大っきな事故を起こしておいて黙っているなんて不思議ですよね

「それが犯罪として捜査もされないというのがおかしいと思っています。実際害を受けているひともいるわけですから。この矛盾、理不尽なことを子供たちはちゃんと見ていると思いますよ。なんだいい加減なんだ、法律なんて守んなくていいのか。って思うかもしれないわけですよね」

「これだけの事故を起こしておいてまだ原発を売ろうとしている。しかも外国に。自国の事故の処理も出来ないのに」

「今すぐ全部の原発を止めても厖大な放射性廃棄物と福島の事故処理が永遠と何十世代も続くわけで、誰が責任をとるんだって話しですよね。みんな責任あるんだけど推進してきた国は大きな責任がありますよね」

「原子力村とガチンコで対決したら向こうはお金もあるし巨大権力だし、大企業は付いてるし頭のいい学者はいるし、負けますよ」


☆松田美由紀

「お金が欲しいわけですよ、どの人種もどの人もそう。自分の生き方を恥ずかしいとおもわないのかってね。恥ずかしくないことをして生きていますかって、個人に説いていく、そういうところに来ているのいかなって」

☆岩井俊二

「今まで原発を推進してた人が今もやっている。本当は全部辞めてもらって新しい人たちでやらないと、それがある種世界的規模でいえば必ず革命とかが起こるわけですよね。出てってくれ、新しい人たちでやるからって感じで。日本の場合それが起きない、まだ」

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2012-03-07 『friends after 3.11 vol.1』少なくとも、この涙と悲しみに嘘はない

LACROIX2012-03-07

[]『friends after3.11 vol.1』

◎わざとらしさ、あざとらしさ、嘘、作為的な演出は見ていれば分かる伝わる、感じられる。同じように、いやそれ以上に、物事を見つめる真摯さ、真剣さ、真面目で実直で嘘偽りのない心も、確実に伝わる。目や表情や言葉、口調、体から発する熱によって。

◎被災地に立ったら、その有り様を見たら、真剣な顔にならざるを得ない、言葉を無くして黙りこくるだろう。それが普通でそれが当たり前だけど、その思いを別の何かで塗り固め、塗り替える人もいる。この作品はそれをしていない。在りのままで、何を被せようとも、色を付けようともせずそのままの思いを、感情を気持ちを悲しみを移し出している。だから、本物であり、心を打つ。

ラストで津波に呑まれ流され崩され荒涼とした廃虚のような被災地の現場に立つ岩井俊二と藤波心。脱原発アイドルなんて言っている藤波心の顔が、目が、瞳が、唇が、肩が、腕が、足が、悲しみの現場で悲しみを体中に受け止めている。その表情に、その姿に嘘や偽善や欺瞞はこれっぽっちも無い。嘘偽り無く悲しみを感じ、受け入れ、そして体から発している。藤波心の涙に嘘も演出も演技もない。これが、これこそが沢山の人の命が奪われたその場所に立った人間の人としての自然な、在りのままの素の心の表情なんだ。

◎このラストだけを何度も何度も見返した。それまでのインタビューなどの映像意味あるものだけど、このラストのシークエンスは、他の何よりも何千倍も、この震災と津波を、そして3.11を顕している。このラストシーンがこの作品が辿り着いた結論と言えるだろうか。このラストシーンに、3.11の悲しみや怒り、憤りすべてが詰まっている。このラストシーンを観れば、3.11の悲しみや怒り、憤りのを感じることが出来る。

3.11を扱った色々な映画、映像作品のなかで本当に心を打たれたのはこの作品が最初だ。

以前にこのブログで批判した”「3.11 ア・センス・オブ・ホーム・フィルム・プロジェクト」”の作品は、どれもこれも”ふざけるな!”と言いたくなるものだった。あんなものが3.11の悲しみや苦しみ、怒りを伝えられるか、伝えようと真剣に考えているか、いいかんげんにしろ、クソ映画人・・・と思った。だから3.11を扱った映画だとか映像作品というものに拒絶反応さえ持っていた、でもこの「friends after3.11」は全く違った。さすが岩井俊二というべき。

松田美由紀・・・・この人が出ていることはよくわからないけど、何かの力になっているのだろう。少なくとも不真面目さや不謹慎さは感じられない。この人もこの人なりに真剣に3.11と原発事故に向かい合っているということはわかる。

○冒頭から心臓を抉るような歌が、その言葉がぐいぐいと胸に突き刺さってくる。

○なんだ、脱原発アイドルって、藤波心って。ふざけてるのか、また売名行為か、災害便乗のビジネスか、吐き気をもよおすような偽善か・・・と思った、思っていたのだけれど、カメラに向かって語るその目、表情、言葉に、嘘や偽善が纏っているわざとらしさやあざとらしさや薄汚さが感じられない・・・チーンと鳴り響いて真っ直ぐにどこまでも空間を刺し突き抜けていくような、そんな真摯さ、純粋さ、一途さが感じられた・・・だから、これは今まで、あの3月11日から一年の間に作られた映画や映像や音楽やライブや・・・そういった偽善が見え隠れするようなものとは違うなにかがありそうだ、開始から数分でそんな風に思い背を伸ばし、威儀を正した。

○新宿のアルタの前でこんな反原発の街頭演説というか集会が行われていたのか。霞が関のテント村のことにしても、高円寺のデモのことにしろ、テレビや新聞はほとんど報道にのせない。大きな動きなのになるべく多くの人に知られないように、伝えないようにしている。スカパーでこういった明白な反原発のドキュメンタリーが作られるということは、大きな、そして貴重な、重要な、大事な意味がある。それを岩井俊二が絡んで撮ったということは、この作品とこの内容が、反原発の思いが一人でも多くの、意識をもった人に伝わるということで、その認知度を上げるために大きな力となる。

☆後半、岩井俊二と藤波心が被災地を訪れてからの映像が、さらりとなんでもなく被災地を移しているようでありながら非常に濃く、そして重くこちらに様々なことを問い掛けてくる。映像の持つ力、その静かに強く押し寄せる力がある。TVでたくさん流れていた被災者のインタビューや被災地の映像より、絵が、映像が、それが発する力が強い。

○ボロボロになって焼け焦げた被災地の建物、その場所に立つと、人間は嘘偽りない素の心を、感情を表に出す。そう、あざとさやわざとらしさや演出や嘘のない人としての姿に目を耳を体を惹き付けられ黙って凝視してしまう。

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●エンドロールでビールを運ぶ映像がでてきて、パーティーをする映像が流れる。最後にこんなのを観ると、やっぱりこの人たちは震災も原発も他人事なんじゃないかと、この作品に対する気持ちが引き戻された。震災後に「支援を呼びかけてパーティーを開催しました」なんて言って、都内で人を集めて酒をのんで美味そうな料理を食べている写真をブログにアップしてる芸能人や経営者なんて連中が結構いた。それを見て「こいつらは偽善だな、本当に被災地や被災者のことなんか考えてないな、うそっぱちの善意、支援だな」と思った。あの大変な状況で避難所で苦しい生活をしている人を、放射能から逃げている人を”支援”するといって青山や六本木でパーティーを開いている。こんな連中の支援という言葉は偽善だと思った。そして、この作品の最後に出てきたパーティーで楽しそうに食事をし歓談をする映像を見たら、この作品に出ている人も、やっぱり真剣に心の底から震災や津波や原発や被災者のことなんて考えていないだろうと思えた、見えた。このパーティーがきっかけとなってこのドキュメンタリーの企画が進んだということだけど、まだまだあの大災害どまんなかの頃にこんなことをしているのかと思うと、最後にかなりがっかりした。どうなんだこれは、ホントに考えてるのかって気持ちになった。その気持ちを否めない。

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☆後藤政志氏

「制御棒でトラブルが起こった事故が沢山隠されていた。2000年以降でも制御棒が入らないという事実がのきなみあって、しかも隠されていてしかもいっぱい大量にあった。それはもう原子炉を運転する資格などないのだ」「ベントも動かなかった。あとから取ってつけたようなものだ。明らかに舐めている。真面目に考えていない。班目委員長はそんなことを考えたら設計できませんと言っていた。それは想定外というのではなく、事故の想定が想定不適切なのだ」「「安全に対する哲学が無い」「炉心が溶融したらダメです。格納容器は炉心溶融に対して設計などしていない」

☆鎌仲ひとみ

「爆発前にたくさん放出されているはず」「見えないし食べても分からない。なにもかわらないんだから」

☆田中優

「日本の電力会社は発電所を作れば作るだけ儲かる仕組みに鳴っている。経費を出せば出した分だけ電気料金でとれてしまう。広告宣伝費は合計すると日本第一位のトヨタの二倍にもなる。それでテレビ、新聞、ラジオといったメディアを広告宣伝費で支配した。金融の中では金利を高く払ってやるという仕組みの中で金融機関に最大の利益を与えてきた。そして金融機関は電力会社の株主になり原発を推進する側になってきた。結局電力会社は金融機関を儲けさせる仕組みで市場も支配してきた

「日本の省庁、官庁は電力会社から電気を買っていない」(原発は電気が安いと言いながら自分たちはより安い第二の電力会社から買っているのだ)「日本の電力消費の内、家庭で使っているのは23.4%しかない。これ2011年のデータだ。電力消費の70%以上を事業者占めていて、しかも電気は最大消費に合わせて発電所を作っている。平均消費みれば発電所は58%位しか動いていない。現在時点でも60%位。一年の40%はお休みしている」

「電気が足りなくなるのは最大ピークの時だけ。その最大消費は一年のうちで10時間程度しか出ない。パーセント表示にして0.1%でしかない。電気が足りなくなるピークは。それに合わせて発電所を作るのではなく消費を減らせばいい」

「事業系の電気料金は使えば使うほど安くなるような仕組み。そうじゃなくて、減らせば減らすほど安くなる仕組みに変えればいい。そうすれば事業者はあっというまに省エネ製品に替えてくれる。そうすれば電気消費を半分に減らすことが出来るからもちろん原発なんてまったくいらなく、即座にすることが出来る」

☆山本太郎

「近々経済が崩壊したとしても、そこに健康が担保されていればいい。でも今この国がやろうとしているのは目の前のお金の回収。経済が破綻したとしても、そこに健康で働ける人がいなければ復興なんてできない」

「チェルノブイリに入っていた放射線の専門家が福島に入って、ここはパラレルワールドだって言ってた。目で見える生活は普通だけど、実際に線量を計ると子供たちが放射線の瓦礫の周りで遊んでるようなものだ、そういう景色が広がっている世界だ」

「今回日本がこういう状況に陥って、放射能を世界中にばらまいて迷惑をかけている。おまけに子供たちに対して数値を引き上げたりして、たぶんどこの国の独裁者にも負けないくらいの不条理を押し付けられている。それなのに海外からの声は聞こえない。原子力は世界中の闇なんだと思う。日本だけじゃなくて闇が深く、広いんだ」

☆上杉隆

「国会議員にしろメディアに出ている人にしろ放射能はもう止まったと思っている。原発事故以降何人も作業員は亡くなっている」「とにかく何十万人という人が避難を余儀なくされ普通の生活に影響を受けている。単純に言って業務上過失致死傷といってもいいのに、不思議なのはだれ一人として東京電力に捜査が入るという質問も無いし、実際に入っていないし。記者は全員、お上の情報は正しいという前提で報じてしまう。それをそのまま報じる。放射能は出ていません。格納容器は健全です。安全です。直ちに健康に影響はありませんと」

「報道の人たちはなんで放射能のことを報じないのか。これを報じないのはメディアの自殺行為ではないか?あなたたちは良心の呵責に嘖まされないのか? 人間としておかしくないのか?

「東電の職員は自分たちの奥さんと子供だけは最初に逃がしている。報道関係者はみんなそれを知っているじゃないか、なんでそれを黙っているのだ」

「危機に直面したダチョウは砂の中に頭を突っ込む。現実から目を逸らすことで危機回避をしようとする。最もやってはいけないダメージコントロール。それが今回の震災で起こってしまった」

「あなた達は3月11,12,13日から一週間の記事をもう一回紙面に載せることが出来るか、テレビは同じものを報じることが出来るのか?そして私たちは間違っていなかったと胸を張れるか?出来ないわけだ、全部嘘だったわけだから」

「自分やメディアに対して忠誠を誓うのではなく、真実に対して忠誠を誓うべきだ」

「ベラルーシでは健康に生まれてくる赤ちゃんが15%らしい。東電の事故はチェルノブイリを越えているんですよ、ベラルーシに日本を重ね合わせることが出来る。がんばろう日本、がんばろう東北なんて言葉は寒々しく聞こえる。本当にやるべきことは他にある。国がやろうとしていることを止めなければならない。包囲網を作っていかなければならない。全員参加で」

☆飯田哲也

「原子力は必然的に無くなっていく。チェルノブイリの事故が旧ロシアの崩壊に繋がった。チェルノブイリがロシアの崩壊を後押しした」

「民主党は官僚主導からの脱却を掲げて政権を獲ったが、あっという間に官僚に飲み込まれてしまった。官僚は非常に狡くて厖大な情報を持っているけれどそれを都合のいいように捩じってメディアに流す。この翻訳装置を変えなければ我々はいつまでたっても騙され続ける」

☆吉原毅

「公共的な使命を忘れるな。企業は損得のみを考えるものであっていいのか。企業とは志をもって社会に何ごとかをなすために作られた組織。物心主義、拝金主義、知らず知らずにお金に毒されているのではないか。健全な社会、人間の理想のもとにお金をコントロールしなければならない。それが金融機関の使命ではないのか」

☆清水康之

「日本の自殺者は年間3万人。それが単年度ではなく毎年です。アメリカの2倍、イギリスやイタリアの3倍。突出して高い」

「なぜ世界屈指の経済大国が世界屈指の自殺大国になっているのか」

☆タン・チュイムイ

「1980年代にブキットミラー事件というのがあった、アジアレアアースという三菱が投資している会社がレアアースを精製していた。レアアースがその精製過程で放射性廃棄物を出す。トリウムやウランが廃棄物に含まれる。政府は肥料工場だと言っていたが住民がレアアース工場だということを突き止めた。そして反対運動を始めた。10年掛かって訴訟に勝利したその工場はすべてを覆い隠し、再びレアアースの精製工場になっている」

☆小出裕章

「今現在、戦争よりも酷いことが進行している。福島で。そのことにほとんどの人は気がついていない。関西の人はほとんど他人事に思っている。絶望したらその時が最後の負け。自分に出来ることがある限りはやり続けるしかない。人間って一回しか生きられない。自分の人生で。やっぱりやりたいことをやるしかない、言いたいことを言うしかない」

「原子力はいずれにしても衰退する。これ以上は出来なくなると確信している。でも原子力が生み出してしまった核のゴミは、100万年に渡って重りをしなければいけないゴミはもう気の遠くなるほど厖大に溜まっている。その一部は既に環境に漏れて人々を被爆させている」

☆この人はちがうんじゃないか!本当の反原発じゃなくて風見鶏、日和見の学者じゃないかと思う人のインタビューも入っていた。そういう人はなぜか大抵、堂々とした偉そうに踏ん反り返った態度でヘラヘラと笑っている。何かを誤魔化す人は大概そうだ、ニヤついたり笑ったりしている。

http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65766871.html

http://888earth.net/staffblog/2012/01/friends-after-311.html


f:id:LACROIX:20120309004430j:image:w300http://www.cinematoday.jp/movie/T0012391

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2012-02-04 『ファイブ・イージー・ピーセス』これは意味ないな。

LACROIX2012-02-04

[]『ファイブ・イージー・ピーセス』(1970)

・「イージーライダー」の元となった作品?とも言われているようだが、なんだかここまでただ当時の反発的な青年をただ描いているだけじゃ、なにも感じ入るものがないな。

・はあそうですかといって終わりだ。

・当時を知る人にはなにか懐かしさや思い出もあるかもしれないが、今見てみると、これってただうるさく問題を起こす男とその周りの人々を撮って、これが青春ですなんて語っているだけなんじゃないのって思う。

・ま、あとでまた暇があったらじっくりみてみようかとは思うが、初見の印象はダメダメ

2012-01-25 『恋するトマト』出だしはダメだったが、後半は良作。

LACROIX2012-01-25

[]『恋するトマト』(2005)

・副題「クマインカナバー」タガログ語で「ごはん食べましたか?」の意味

・最初のあまりにベタベタないかにもといった話しと展開に、もううんざりして「こういう映画か・・」と観るのをもう止めようかとさえ思ったのだが・・・そこを我慢して観続けていたら、フィリピンで農作業を手伝う辺りから俄然、絵も話しも良くなってきた。最初の1時間近くのふざけた演出は全部取っ払ってしまったほうがいい。(それが実際だとしても、あれではまるで田舎の農業と嫁不足、結婚できない中年を馬鹿にしチャカしているかのような内容だ)後半の真摯さと前半のオフザケがあまりに乖離し過ぎている。真面目な作品はきっちり真面目に作ったほうがいい。変なウケ狙いや観客に媚を売るようなギャグの演出は最低なのだ。前半をしっかり作り、素晴らしい内容の後半に繋げたら、ひょっとしたら名作にさえなっていたかもしれないのに・・・・。

・公開当初、シネパトスや地方の小さい小屋でなんとか上映されていたような作品であるようだが、それを6年という歳月を経て、NHK-BSで放送するというのは、これも素晴らしいことだ。こういう一般にあまり知られていない良作をNHKが取り上げるという姿勢は極めて高く評価できる。今回の放送が無ければ自分もきっとこの作品を知ることもなかっただろう。埋もれている良作を人目につく場所に持ってくるという意味でNHK-BSは映画製作者にとっても邦画にとっても貴重な場所となっていくだろう。回転率重視のレンタルマーケットではその役を担うことは出来ないのだから。

・こういうことが出来るのもNHKならではであり、NHKでしかできまい。批判も多いNHKだが、こと最近の映画放送作品の取り上げ方は非常に素晴らしい。こういう、ある意味埋もれた良作を家庭のTV画面に届けてくれるということではNHKは極めて価値ある存在だし、がんばって映画を作った監督や製作に関わった人たちにとっても、作品が多くの人の目にふれ、知って見てもらえるということでとても嬉しい事だろう。そういう機能は今の日本の邦画界や劇場、レンタル、ソフトといったビジネスの場には無いのだから。

こういったことも映画製作にとってDVD以上にBSの価値を高めていく一端になっていくのかもしれない。

まあ、その分、映画館やソフトの売り上げという部分ではもっと厳しさが増していくのかもしれないが。

JVAの調べではDVDソフトの売り上げは最盛期2005年の半分まで減少したという。http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/120117/ent12011708560007-n1.htm 潤沢なソフト売り上げから見込まれる製作費リクープに頼った邦画バブルは短日で完全に消沈し、同じく二次利用のソフト収益に胡座をかいていた洋画も収益構造の改変に喘いでいる。

企画・脚本・製作総指揮・主演:大地康雄

原作:『スコール』小檜山博、文芸誌「すばる」掲載小説

http://www.daichiyasuo.com/tomato1.html



配給&ゼアリズエンタープライズ