LACROIXのちょっと辛口 映画 批評 ( 映画批評 感想 レビュー 業界 所感 ) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-12-05 『リトル・フォレスト 冬・春』

[]『リトル・フォレスト 冬・春』

2017-12-04 『リトル・フォレスト 夏・秋』

[]『リトル・フォレスト 夏・秋』

2017-05-19 『エヴェレスト 神々の山嶺』

[]『エヴェレスト 神々の山嶺』

2017-04-08 『リップヴァンウィンクルの花嫁』

[]『リップヴァンウィンクルの花嫁』

脚本を元にして映画を撮るときに監督の頭の中には、ある程度「この映画はこういう観客に観せたい、こういう客層に観てもらいたい、こういうタイプのこういう人に訴えかけたい」という観客設定というものが少なからず頭のなかにあるだろう。

そのことを考えれば、この映画は明らかに女性向けであろうな。そう、映画を観終えて真っ先に頭に思い浮かんだのは「これって極めて女性向けの映画だな、いやもう極めてというよりも、もう限りなく極めつけに女性という一種類の人間、生物のことを柔らかくしかし綿密に描いた映画だろうな」と思ったのだ。

カメラワークやアングル、画面のトーン、演出、その全てにおいて実に岩井俊二らしい、岩井俊二的な映画の上手さ、技工の巧みさはう〜んと観ていて唸るほどのものだ。まるで別世界に連れて行かれたようなふんわりとした柔らかい空間に取り囲まれるような感覚に包まれるのも、これまた岩井俊二の映像の技術であり魔法であり、それがよどみなく繋がって出来上がったこの「リップヴァンウィンクルの花嫁」という作品は実に作りが巧いし、映像作品としての緻密さ、完成度は極めて上質で極めて高いといえるだろう。

2017-04-02 『64(ロクヨン)前・後編』役者は粒揃い、演技もいいのだが・・・

[]『64(ロクヨン)前・後編』

久松真一 アカデミー賞優秀脚本賞

犯人の娘の心を砕いた。。。が痛々しい。

高い完成度で唸らせたNHKドラマの『64』からどうやって逃げるか。いや、それを越えようと務めた、だが超える術が見いだせなかった、だから逃げた、完成度の高いドラマ版をそのまま模倣は出来ない、映画としてのオリジナリティーも出したい、だからドラマ版にはないものを注ぎ込みたかった。だが、それが出来ず、迂回して逃げるしかなかった。

これはNHKドラマ「クライマーズ・ハイ」と映画「クライマーズ・ハイ」の関係に全く同じだ。

そして奇しくもこの2つの原作者は同じ横山秀夫であり、脚本は大森寿美男、演出の井上剛も同じ

改めてNHKのドラマ『64』を観なおすと、これだけの重厚感、密度、練り上げに練り上げ、鍛錬に鍛錬を重ね、徹底的に組み上げられた脚本の完成度に驚く。このドラマ版『64』を超えることは並大抵のことではないだろうと痛感スル。

2016-09-01 『君の名は。』予想を遥かに超える日本でしか出来ない映像美

LACROIX2016-09-01

[]『君の名は。』

・異様にでっかい目、瞳の中に星というか白い光が1つ2つ・・・なんかこういういかにも少女漫画雑誌に出てくるキャラそのまんまでアニメオタが好むようなキャラクターには正直もう、かなりの抵抗感があり、ちょっとそれはなぁ〜っていう拒絶感もあって、さてはてどうしようかと考えていたのだが、新海誠に関しては種子島が舞台になっている『秒速5センチメートル』が少女趣味ではあるがなかなかに良い作品であったし、とにかくロケット打ち上げのところとか、都会の春の映像とかがものすごく美しく綺麗だったので、今回もそういった部分に期待して観てみた。

・最初は瀧にしろ三葉にしろ登場人物の顔つきがあまりに少女漫画、アニメっぽくて、やっぱり抵抗感がありありで、ちょっと引き気味であったのだが、段々、段々と非常にテンポのいい展開にドンドン引きずり込まれていき、しかも先がどうなるか全く予想が付かない、次から次へと驚きの展開にもう「これは面白い!」と夢中になってしまった。

・昨年、かなり早い段階で公開された特報の美しい彗星と雲を突き抜けて落ちてくる隕石らしきものの映像、まさかそれがこんな話になるとは、本当に予想外で見事であった。

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・「誰そ彼」「彼は誰」薄暗くなった夕方は人の顔が見分けにくく、それが誰そ彼(たれそかれ)から黄昏という言葉になり、同じく薄暗い明け方を彼は誰(かわたれ)で、と古典の和の言葉が作中で語られる辺りから、ん、ん、なんだか話が深くなってきたぞと期待が膨らみ、それがこんな凄いストーリー展開に繋がっていくとは!!

・「誰そ彼」つまり夕方の薄暗くなる、昼と夜の移り変わる時刻、黄昏どきが、逢魔時(おうまがとき)、大禍時(おおまがとき)と呼ばれ、魔物に遭遇する、あるいは大きな災禍を蒙るという話はこの映画を観て初めて知った次第。

・入れ替わった瀧と三葉が、薄暗くなって、あなたは誰、彼は誰とわからなくなる時に時間や空間の壁、距離を超えて巡り逢う、その黄昏時のほんの一瞬の恋、しかしそれは好きな人に出逢う時間でもありながら、逢魔、つまり魔物にも出会ってしまう時間、その魔物が大きな禍(わざわい)とは・・・んー、新海誠はなんて凄い物語を考えついたんだろう。素晴らしい、見事な脚本、物語だ。

・口噛み酒(くちかみさけ)なんていう神事とか、岩室のなかにあるお洞だとか、日本の神話、伝記、古事記なんかに通じているようなモチーフも作品になんとも日本的で神秘的な響きを与えている。

・日本の映画って、なんだか外国のヒット作の、ああ、これってあのシーンだとか、あの演出とかを取ってるなぁ、と感じてしまうところが多いのだが、この『君の名は。』に関してはそういった所がまったくなかった。男女が入れ替わってしまうというは大林監督の転校生ばりではあるが、またそれとはまったく別物だし、兎に角観ていて他の作品を彷彿させる場面がほとんど全くないのだ。昨今の映画は作中に「これってあの映画のあのシーンに似てるな、取ってるな」なんて感じる所が一箇所、二箇所位あるものなのだが、この映画に限ってはまったくそういう風に感じさせる所がない。完全純粋100%オリジナルの絵であり、物語であり、展開であり、演出なのだ。もうそれは全部が今まで見たことのない映像、演出、物語と言ってよく、その連続は一瞬足りとも観ていて飽きない素晴らしい作品でありその体験でもあった。

・映像の美しさは言うまでもなく、美しいという以上に心がなんだかホッとする映像なんだな。日本人が生まれてからずっと身近に感じてきた日本の美しさ、すぐそこにあるいつも感じているだけどなかなか最近では見れなくなった美しさ、そんな感じだろうか。キラキラしてるけどキラキラした美しさではなくて、優しく包まれ心を撫でられているような美しさ、そう視覚的な美しさ以上に心情的、情緒のある心に伝わるあたたかい感覚的な美しさがあるというべきだろう。

・なんにしても、この映画は兎に角驚き! 日本にしてもハリウッドにしても最近はオリジナル脚本はダメ!興行が読めない、見込めないから映画化は出来ない!なんて言って、ある程度売れていて知名度のある小説とか漫画とかのアニメーション化、または実写映像化しかやらないような絶対安全牌主義、超保守的で興行成績が見込めない映画なんて作らない!的な風潮が蔓延していて、実に新しさのない詰まらない映画ばかり量産される状況になってしまっているが、こんな風に完全無欠のオリジナルストーリーでこれだけ素晴らしい作品が出来るということにもう一度目を向けて、ネタ切れだ、もう新しい物語は作れない。コケたら責任取らされるから作れないなんていうのはヤメて、今まで誰も見たことのないようなストーリーを作ることに全身全霊を傾けて知恵を集結させるべきだろうな。

でも、新海誠というネームバリューがなかったら、完全オリジナルストーリーで映画化なんて・・・とても出来ないだろうなとも思えてしまうけど。

・こんな素晴らしいオリジナルストーリーの美しい映画を見せてくれた新海誠とスタッフにただただ感謝したいキモチだ。兎にも角にも観ていてワクワクドキドキ、この先どうなるんだと期待して最後まで全然飽きること無く楽しめた素晴らしい一作であった。

・RADWINPSの曲、見終わって一つとして曲の歌詞が頭に残っていなかった。普通は音楽の歌詞が映像をさらにもりあげてくれたりするし、ジーンと染みこんできたりするんだけれど、全編に流れる野田洋次郎の声と、その音楽というかサウンド、音が余りに映像にマッチしすぎていて、歌詞が意識に到達しないくらい音になって歌もサウンドも全部がBGM化しているかのようだ。これって凄いことではあるが、ある意味歌詞が強い意味を持たなくなってしまっているとも言えるかも。

・最後に一言、皆が助かったのが防災訓練でどうとかこうとか・・・って説明されてたけど、それはちょっと話が飛躍しすぎてて繋がんないんじゃない? と思った。あの状況でどうやって防災訓練でみんな避難させたの? ちょっとそこだけが引っかかるというか、全部良かった中でなんか脚本ミスってるような気がするなぁ。どうなんだろ?あれ?

☆予告編の中ではこれが一番イイな。

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2016-08-31 『二郎は鮨の夢を見る』鮨を食べたいって気持ちに全然ならない。

[]『二郎は鮨の夢を見る』(2011)

・外国人が撮ると、どうしてもこういう映像になってしまう。情緒とか奥ゆかしさとか日本人としていつも自分が見ている日本とは違った絵が広がる。松田優作の『ブラック・レイン』のときも同じことを感じた。巨匠とまで言われるリドリー・スコットが監督なのだからどんな日本が描かれるのだろうと期待していたら、出てくる映像はまるで中国、香港映画のそれ。日本らしさ、日本的なものなんて全然ない。「これって香港で撮ってるの?」と言いたくなる絵だった。

・この映画も見ていると自分が感じている日本とは違った絵に見える。外人は日本というのはこういう風な色、こういうふうな場所、こういうふうな人として見ているということなのだろう。

・このドキュメンタリー映画を見ていて強く感じたことは、監督やスタッフは日本の鮨の素晴らしさ、その極上の美味さ、そういうものを映像で伝えようとしたのではないんだろうということだ。観ていて「これは美味そうだ」とか「こんな鮨を食べてみたい」という気持ちが全くもって、全然湧き上がってこない。ミシュラン三ツ星の日本でも最高と言われる鮨屋のドキュメンタリー映画なのに、観ていてヨダレが出てくるような美味しそうな場面は一つもなく、食欲が喚起されることもなく、まったくもって鮨の旨さだとか素晴らしさというものが伝わってこない。

・この監督は当代一の寿司職人を題材にして何を撮ろうとしたのだ。食の素晴らしさ、鮨と言うものの素晴らしさ、その限りなき奥深さ、その極めつけの美味。そういうものを撮ろうとしてないのだ。だから映画を観ていて美味そうだとも思わないし、食べたいなとも思わないし、腹も鳴らないし、ヨダレが出てくるわけでもない。一体何なんだこの映画はと見ている途中で怒りさえ覚える。

・百万歩譲って、鮨職人二郎とその息子たち、弟子という人間を描こうとしたのか? と考えてみるとしよう。人間に焦点を当てたのだと考えてみるとしよう。だとしても、二郎と二人の息子との関係や二郎本人がどういう苦労をしてきたかなどは映像の中で語られているが、それだからどうしたというのだ。こんな風に苦労をしてきて今ミシュランの三ツ星をもらう店になったんですよということを説明して、それでなんだというのだ。そんな説明を映画の中でされたって、誰も感動も感激もしないだろう。ただの情報として映像が流されているだけだ。必要なのはそれだけの苦労の末に、今コレだけ素晴らしいものが生み出されているんだというその点なのだ。今、二郎やその息子たちの手でどれだけ素晴らしい鮨が生み出されているか、それを伝えずして、それを感じさせずして何を況んやなのだ。

・鮨の素晴らしさ、旨さを映像で表現出来ずして、現在過去の苦労話を映像にしたとしてなんになる。そんなことなら《すきやばし次郎の鮨》でなくてもなんだっていいだろう。苦労の末にうみだされた傑作を伝えず苦労だけを伝える、本末転倒、愚かさの極み。この映画の監督は映画をつくる視点も感覚も洞察も表現もなにもかもが極めて薄っぺらで浅はか。ただ単に話題性になる題材、少しでも注目を集めそうな題材を選んで映画にしただけで、そこに深い思慮もなにもない、極めて低レベルのただ単に動く映像を編集しただけで感情がなにもこもっていない映画だ、正に愚策の極みである。

・これならNHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」ですきやばし次郎を取り上げた回のほうが何十倍もいい。二郎本人にも、鮨の旨さ、それをいかにしてうみだしているかという部分にしっかりと踏み込みそれを伝えようとしている。

・ようするに、この監督やらカメラマンやらスタッフらは鮨の素晴らしさやその奥深さ、その旨さというものを全くもって理解していないのだろう。分かりもしないし分かろうともしていないのだろう。日本というくにの世界でも稀な鮨という食の特異さに目を付けただけであり、その文化、歴史などはこれっぽっちも描こうとしていない。だからこんなセメントを舐めているような無味な映画になっているのだ。

・しかもだ、魚や烏賊の腹わたを取っている場面だとか、血合いを洗っている場面だとか、築地市場にならんでいる魚を品定めしてマグロの尾肉に手を入れ肉をもんでいる場面だとか、通常の食を題材にした映像なら映すことのないような場面が多々みうけられる。食材を厳選し、美味いものに仕込むために避けられぬ作業とはいえ、通常食を扱う番組、映像では映さない場面を相当に入れている。鴨肉の料理を伝える映像に、鴨の首を切り血抜きをしている映像を入れたらどうなる? ジビエの素晴らしさを伝える番組で毛をむしり、内蔵や血を取り出す場面を映したらどうなる、いかに美味い、上等な料理であろうともその前段階である言ってみれば汚れの部分を見せたら、人はその料理を食べたいと思うか? おいしいと感じるか。それはもう常識以前の問題だ。ナンセンス極まる。

・つまりこの映画の監督やスタッフは《すきやばし次郎の鮨の旨さ、素晴らしさ》を映像で伝えようなどとしていないのだ。外人に目から見た生魚を属する日本の鮨文化の奇異さ、奇特さに目をつけ、それを面白がり、好奇の目で取り上げているだけなのだ。

・外人が日本を撮ると、満員電車にギュウギュウ詰めの通勤ラッシュのシーンだとか、工場でやってる朝の体操だとか、ゲイシャ、キモノ、ニンジャ、最近ではアキバにコスプレ、そんなものがやたら出てくるが、つまりそういう好奇な外人視点とまったく同じ見方で当代きっての鮨職人を撮影しているキワモノ感覚で鮨をみている、それがこの映画なのだ。

・自転車で荷物用のエレベーターから下りてくるシーンにしても、ギャーギャーウルサイ六本木ヒルズにエスカレータで上がっていくシーンにしても、好奇の目で日本を見ている外人が、そういう外人に受けるようなシーンを集めて撮った映画、それがこの映画だとも言えるだろう。

・ここまでこき下ろしたのでついでにもう一ついうと、カメラが全部見下ろし。店の中でも、鮨を握る姿も、同窓会も、とにかく全部上から見下ろし・・・背丈のデカイ外人がカメラ抱えて、しゃがみもせず、視点を対象によって変えフレームに区切られた絵が最高の姿になる場所を選ぶ・・・なんてこと、微塵も考えてないんだろうな。みんなおんなじ背の高さからただ撮ってるだけ、素人撮影、運動会や家族ムービ撮ってるのと同じ。日本の文化《鮨》を撮るならもうちょい小津でも勉強してから撮りやがれ! とでもいって終わりにしよう。

2016-08-01 『シン・ゴジラ』おいおい、ゴジラが使徒になり巨神兵になってるよ。

LACROIX2016-08-01

[]『シン・ゴジラ』

☆作品の内容に関する記述アリ。

・なんだか最後まで誰が監督なんだ? 結局樋口は監督じゃなくて特技監督か? と訳がわからない状態で公開まで来た「シン・ゴジラ」。

・予告編で観る新しいゴジラは古めかしくもあるが、いかにも凶暴で知よりも本能で動くケダモノ的であり、子供人気を取るために日和った今までのゴジラと比べたらかなりいい感じだと思った。待望していたゴジラ新作ということでそれなり、いやそれなり以上に期待はあった。

・そして、観終えた後の最初の印象は・・・「面白かった、なかなかに面白かった、映画を観た満足感もそれなりにあった・・・だが・・・」というものだった。

・一つの映画としての面白さはあった。だが、なんだ、なんだこの納得のいかなさは、釈然としない感覚は。自分は本当にゴジラの映画を観たのか? これはゴジラ映画だったのか? なにかゴジラ映画を観た気がしない、待ちわびていたゴジラ映画を遂に観たのだという気持ちが全然しないのだ。

・この映画をポリティカル・サスペンス(まあ、日本語なら政治緊張劇とでもいうか?)と呼ぶ向きもあるようだが、まさに、そういう政治的な部分にかなり焦点を当てた話になっていることは確かだ。それが面白かった、それが良かったと、政治家や官僚どもの描写を評価する向きもあるようだが・・・そんなものを観たかったわけじゃない。たとえその部分の脚本や演出、描写が今までに無く優れていたものだとしても、ゴジラ映画で観たかったものはそんなものじゃないんだ。

・3.11の東日本大震災でメルトダウンを起こした福島の原発をゴジラに置き換え、あの当時の本当にどうしょうもなかった民主党の最低で最悪な対応を元にして、今ゴジラがが東京に現れたらどうなる? と想定した話を作り上げた発想は非常に面白い。クズ政治家やクズ官僚どもの描き方も至って緻密であり、よく観察し、よく調べ、よく練り上げて脚本にしていると感心する。しかしだ、この映画はその政治的な部分の作り込み、それを主として描くことに執心してしまい、一番肝心なものを、一番大事なものを、本来は主としてあるべきものを、あろうことか脇役に降ろしてしまったのだ。いわずともがな、それがゴジラだ

《この映画は主役をゴジラから政治家や官僚どもに置き換えてしまっている》

・この映画の最大の批判すべきところは、ゴジラ映画からゴジラを主役から外し、危機対応する(のちに書くが全然危機感がない)政治家や官僚どもを主役として本を、映画を作っている点なのだ。

・公開から日が経つにつれて「シン・ゴジラ」の評価は上り調子で、傑作だ、素晴らしい出来だ、その多くがこの映画の中の政治的なやりとり、駆け引きの部分、ポリティカル・サスペンスと言われる部分に面白さや、評価を与えているようだが・・・おい、ちょっと待てよ、話の面白さに巧くのせられて、ゴジラ映画であることを忘れていないか? この映画にはなにか大事なものが抜けて落ちていないか? 1954年に本多猪四郎が撮った「ゴジラ」にあったもの、それは《恐怖》だ! 得体のしれない巨大な未知の生物に襲ってくる恐怖、それがほぼ、全くと言っていいほどこの映画からは感じられないのだ。

その原因は、映画の描き方にもよる。

・巨大生物がやってきて逃げ惑う人々の恐怖・・・それがまるでスクリーンに描かれていないのだ。ゴジラがやってきて怯え、悲鳴を上げ、我先にと逃げようとする恐怖にかられた人間、その表情、そういったものがほぼまったく映し出されていない。

・蒲田での人々が逃げ惑うシーンの撮影時に演出部からエキストラに配られたたという「蒲田文書」なる“演技心構え”の文書がネットに流れ、これを読むことが出来るが、そこには「巨大不明生物に襲われて逃げ惑う市井の人々」役の心得が書かれ、

《まず、巨大生物の恐怖を観客に感じさせる最も効率的な方法は、「逃げ惑う市井の人々がまるで本当に襲われているように見えること」。だが、単に芝居で恐怖の表情をしたり、大きな叫び声をあげたりすれば良いわけではない》

《もし本当に巨大不明生物に襲われた場合、人はその人の個性によって違った反応をすると思います。猛ダッシュで逃げる人、ノロノロと逃げる人、体が固まり動けない人、興味が勝り写真を撮る人、顔を巨大生物から背けず体だけが逃げる人、子供を必死に守ろうとする人、連れとはぐれ人波の中で探し続ける人……それら個性の集合体が、画面に力強さと、リアリティと、本物の恐怖を与えてくれると、我々は考えています》

《それぞれのエキストラが「自分が巨大不明生物に遭遇したらどうするか」の想像力を稼働させることを求め、「皆さまお一方お一方にしかできないお芝居をしてください」》

等々、エキストラの人に対する演出部のお願いが書かれている。確かにこの文章を読むと製作スタッフの意気込みや熱い気持ちも伝わってくる・・・しかし! あの蒲田のシーンに恐怖はあったか! あの蒲田のシーンに巨大生物に襲われ我先にと必死に逃げる、生きたい、死にたくないと必死で逃げる人間の恐怖が映っていたか、映し出されていたか、映像にその恐怖が滲み出していたか! 断言する。あのシーンに恐怖はなかった。そしてあのシーンからブルブルと震えるような恐怖は微塵も感じられなかった、ゴジラが迫り来る恐ろしさなどあそこに映っている人、逃げ惑う群衆から、これっぽっちも、まったくスクリーンから伝わっては来なかったのだ。

それは、この映画が恐怖に逃げ惑う一般の市井の人々の表情をほとんど映していないことに大きく起因する。

1954年の「ゴジラ」にあった人々の恐怖、それはこの河内桃子のワンカットだけの表情でもありありと、ひしひしと伝わってくるものだった。

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・そういった人々の恐れおののく表情がシン・ゴジラにはまったく描かれていない。人々が逃げ惑うシーンに恐怖を感じさせようとしたではあろうが、出来上がった映画から感じられるのはただ単に逃げろと言われて逃げているふりをしている群衆の後ろ姿、動きまわる絵でしかない。表情はまったく映していない。そこに悲壮感、必死さがない、恐怖もない、だからゴジラにも恐怖が感じられなくなってしまっている。

・そして、この映画で主役の座を占めている、首相、官房長官、大臣、官邸の人間、官僚にも、全くと言っていいほど、これっぽっちの欠片さえも、あんなょ巨大な生物が東京に襲いかかってきているという前代未聞の恐怖が感じられないのだ。まったくもって、ゴジラを恐れている、もう自分だけでも我先に逃げ出してしまいたいという震えや恐れが感じられないのだ。

・どいつもこいつも、あんなゴジラへの対応をしているというのに、全然シャキとしていてて、顔から恐怖や恐れが微塵も感じられない。未曾有の危機が間近に迫っているというのに、さも平然とした顔で会議をし、対策を練り合わせ、ミサイル攻撃が効かないとわかっても「はあそうですか」といった顔つきをしているの。まるで役者が映画の中で役作りの脚本読み合わせをしているかのように、全く以て1人として恐怖が演じられていない。唯一常にしかめっ面をして周りから浮いて見える余貴美子だけが、ゴジラに対する恐怖を演じているといえよう。しかし、その周り全部がさらっとした顔で平然としているものだから、余貴美子の演技と恐怖が逆に浮いてしまっているというなんとも惨憺たる状態だ。

・長谷川博己、竹野内豊にしろ余りにスッキリ、シャッキリしていて、ゴジラに対峙しているなんていう恐怖がどこにも出ていない。この連中が退治しているのは、政治闘争や権力闘争をしている同じ政治家や官僚どもであって、日本をまさに破壊し潰してしまおうとしている人知の及ばぬ怪獣ではないのだ。ゴジラと対峙している人間を描いているのではなく、決して心底の恐怖など感じない政敵や出世のライバルである人間とやりあっているのだ。だから、なんども繰り返すがスクリーンから登場人物から、恐怖が、恐ろしさが、まったく、これっぽっちも感じられないのだ。それは市井の人々を誰一人としてしっかり描いていないからだ。ただ逃げる遠景を取っているだけだからなのだ。

・その他にも石原さとみにしろ市川実日子にしろ、完全におちゃらけのギャグキャラ設定になっていて、もう全くなにも怖がっている様子がない。

・さも現実味をだそうと「シャツが臭いですよ」なんてシーンを入れているのも、まさに取って付け。そんなこと言っている場合かと言いたくなった。

・ゴジラ対策で会議室に泊まりこんで椅子で寝ている官房長官なんかよりも、まだボサボサ頭の市川実日子のほうが疲れているように見えるが、それにしても恐怖はどこにも存在していないのだ、まるで全部がギャグだ。

・で、結局この映画は何をいいたかったのか、何を表現したかったのか? それはゴジラの恐怖じゃないだろう。官邸の巨大生物登場対策シュミレーションの予行演習を描きたかったのか? それを見せられただけか?

・3.11をベースにした話の作り方は面白いが、それがゴジラ映画か?

・この映画を評価している側にしてもそうだ、おまえらは災害政治シュミレーションを見て面白がっている、内容が濃かった、出来が良かったと言っているだろう。それは、ゴジラを、ゴジラ映画を語っていないだろう。脚本の上手さ、展開の早さに見事に騙され乗せられて拍手をしている。ならばこれがゴジラ映画である必要など全くないだろう。どこを見ているんだ!

・まあ、巷では非常に評価が高まっている作品をここまで批判するのも、ゴジラ映画がゴジラ映画であってほしいからだ。

・最初に書いたように「面白かった、なかなかに面白かった、映画を観た満足感もそれなりにあった・・・だが・・・」なのだが、見終わって時間が経てば経つほど釈然としない気持ちが強くなってくる。

・すくなくともシン・ゴジラは、大量生産された第二作以後の子供向けゴジラシリーズよりはよっぽどイイ、平成ゴジラ・シリーズよりもよっぽどイイ、ミレニアム・シリーズなんかよりもずっとイイ。エメリッヒのGODZILLAよりもずっとずっとイイ、ギャレスのGODZILLAなんかよりも何万倍もイイ・・・しかしだ、だからこそ厳しく言いたい「これがゴジラ映画なのか」と! ゴジラを主役から外して政治家や官僚の災害シュミレーション・ゲームに終始したこの映画はゴジラ映画とは言えない。本多猪四郎が描いた《恐怖》や《人類への警笛》がまるで感じられない映画など、ゴジラがでていようがゴジラ映画とは認めない。そういうことだ。

余談:

・それにしても最初に出てきた第二形態のゴジラには面食らった。まさかあんなものを出してくるとは。第三形態もボタボタと体液やら血肉の塊のようなものを落とす様子が描かれていて、両方共それなりに気持ち悪く、不気味であったが、あのピンポン球の目はなんなんだ? あのピンポン球の目のお陰でせっかく不気味な気持ち悪さが出ていた第二、第三形態のゴジラがまるでアニメのヘンテコキャラのようになってしまった。そう、なんというかあの第二、第三形態はまるでエヴァンゲリオンの使徒じゃないか。予告編で見ていた白い目のゴジラは原始生物のような不気味な怖さがあって期待を持てたのだが、第二、第三形態のあのピンポン球はもうダメダメ。思わず笑ってしまうよあれは。

・都会に燃え上がる火の中をのっしのっしと歩くゴジラ・・・これ、巨神兵そっくり。

・背中から紫の放射能光線を四方八方に発射するのはまるでイデオンか? ゴジラじゃないだろうこれも。しかもその放射能光線があちこちビュンビュンとのべつまくなく飛び交っているのに、ビルの屋上で放射能防護服に見を包んでぶつくさ言いながらゴジラを見ている官房長官らには笑った。おまえらそんな所にいたらあの放射能光線一発ビュンと来たら全員一瞬でお陀仏でしょう。いやはやまったく悠長なことだよ。

・最後の半減期の話はなんたるとってつけ、酷すぎ。

・白組のCG技術はここまで来たのかと思うほど凄い。ゴジラがビルに崩れ落ちるシーンなどもう見事としかいいようのない素晴らしい出来。「同じ予算を与えられて、ヨーイドンで同じCGIのシーンを作ったら日本の方がハリウッドなんかよりも上だ」と言っていた人がいたのだが、今回のシン・ゴジラを観たらその言葉に納得した。白組のCGI技術はレベルはもう世界水準といっても過言ではないだろう。

☆2017年7月8日再見

やっぱ、浅いな、コレは明らかに、おちゃらけ映画だなぁ。なにがポリティカルサスペンスだっちゅーの。という感想が。再び。やたら米国が、米国、米軍が、米軍ががとか、もううんざりうざったし。石原さとみの困ったちゃんアメリカ中枢に関わる女子ぶりは、改めてみていても、もうヘッ?という感じ。さらに評価は下がってしまった。なんだか再見したら、ギャレスのゴジラのほうがまだましだったかも? と思えてきた。いやはや、なんだこのゴジラ映画は。もうダメダメ。

2016-07-27 『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』なにこれ?守銭奴の餌食にされた原作

[]『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』

・『シン・ゴジラ』の公開前に、昨年公開されて映画史上イチニを争う超駄作、どうしょうもない映画と評される『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』の前後編を観てみたが・・・。

・なるほど、最近の映画製作にありがちな、人気女優、俳優、アイドルをズラリと並べて出演させれば、それだけ客の入りが見込めるという作品の本質にはほとんど関係のない客寄せキャスティングの典型のような映画。個々にどれだけ人気があろうが、雁首ずらりとならべたところでその人気が累乗して重なっていくわけではない。こういう見苦しく浅ましくおぞましいまでの“雁首並べキャスティング”が行われるようになったのは『20世紀少年』あたりからだろうか。豪華キャスト勢揃い!なんて宣伝コピーじゃ動員は稼げないってことが未だにわからないのか。作品の中身、クオリティーよりも兎に角コケないように、大失敗して自分が責任とらされないようにってことで、人気者、知名度の有る者を集めよう!なんてやって、却って大ゴケを導いているってことに・・・気がついてもそれを是正できない、それが日本映画界というやつかもしれないが。

・それにしても本の酷さは有り余るほどだな。映画になにより大事なのは脚本だというのに、その脚本、物語がここまででたらめでメチャクチャじゃ誰も支持するまい。一本でまとまるような内容の作品を二本に分けて興行収入少しでも稼ごうってのも最近の邦画界のしょうもないところだが、今回の「進撃の巨人」に至っては前編が1時間38分、後編が1時間27分と・・・もうね、そこまでして観客から金を巻き上げたいのかと。前後編二本にするならどっちも2時間ものにして、内容もじっくり練り上げて、どっちを見ても充分満足というのにしろよと! 映画一本分の製作費で撮ったものを冗長に編集して2本仕立てにして鑑賞料倍にして取り上げようという魂胆があまりに酷い。

・監督の樋口真嗣にしろ、脚本に顔をだした映画評論家の町山智浩にしろ、また、今回の映画化に首を出した原作者の諫山創に、この映画のラッシュでも見た時に「なんだこれ、話の整合性がなってない、筋が通ってない、わけわかんないじゃない」って思わなかったというのか。いやぁ、普通に考えたらこれだけメチャクチャな展開で「なんでこうなるの?」ってストーリーに疑問をもたないわけがない。というかもっと最初の脚本の段階で話のつながりがおかしいだろう!って気がつく。そして撮影をしている最中でも、編集をしてるさいちゅうでも、どうかんがえてもフツーにこうくるのは見ていて疑問詞が着くだろうと思うはず。少なくとも映画という世界で仕事をしている人間なら、ギョーカイの外にいる一般の観客よりもその点にかんするアンテナは敏感なはずだ。いやそうでなくてはならない。それが・・・・

・その辺の裏事情に関しては嘘か誠かは不明として、ここに詳しく書いてあった。これを読むと町山は悪くない、悪いのは樋口と渡辺と諫山だ!ってことになってしまうが。http://d.hatena.ne.jp/type-r/20150822

・結局のところ、いろんな人間がいろんなところから首を突っ込んで、自分勝手なことを主張して、エゴモロ出しにして、ひとつの作品としての全体像を誰も見ることをせず、あっちこっちをネズミがガシガシ齧ってボロボロにするように脚本と映画をボロボロにしてしまったということだろう。

・正直、樋口真嗣にはアクションシーンや特撮シーンなどの「シーンをつくる」ことにかけては秀逸だと認めてはいるが、こと物語を紡ぐということ、一本の映画として物語をまとめあげるという能力にかんしてはもうダメダメどころかゼロといってしまってもいいくらいだ。特撮に力を集中させて監督なんて大業には今後手を出さない方がいい、出すのだとしたら脚本家が綿密に組み上げた映画の設計図である脚本を一字一句修正せず、脚本のままに映画として撮り上げることだろう。残念ながらこの『進撃の巨人』においては脚本そのものが最初からダメだった上にさらに改悪が随所に繰り返され、最後には見るも無残なボロボロつぎはぎだらけで、ストーリーにリズムも一貫性もなにもない最低映画に成り下がってしまったというほかあるまい。

・最初にキャスティングのことを書いたが、一人ひとり単独で見てみると、石原さとみにあのクレイジーなトンデモキャラをやらせたのは良かった。(話としてではなく、単純に一人のキャラとしてだ)映画のなかでは浮きまくりトンデモまくりだったが、石原さとみにあの手のキャラクターがこれほどピッタリとは驚きでもあった。

・水原希子もミカサ役として映画のなかで他の登場人物と絡むと、なんだかなぁ〜という感じだが、じっと黙って何かを訴えるようなシーンで一人だけスクリーンに映っていると、なかなか味のある顔だし、顔だけで演技が出来る風でもある。顔に力があるのだな、モデルということもあるし。しかしそれが喋ったり演技をし始めると・・・ダメになる。

・サシャ役の桜庭ななみもナイス。大食のお馬鹿ちゃん的イメージが実にピッタリだが、弓を射るときはなかなかの眼力でカッコイイ。まああんまりセリフもなかったし、この娘も他と絡むシーンになると大根っぷりが出てきてしまっていたが、それでも存在感はあった。

・それに引き換え、男性のキャストは、なんだか薄っぺらで印象に残らない連中ばかり。シキシマ役の長谷川博己はいい感じかと思ったが、リンゴを食わせたり、シャンパングラス傾けたり・・・オイオイ、勘弁してくれよという演出の軽薄さが俳優の良さを台無しにしていた。

・2004年は「デビルマン」「キャシャーン」と最悪の実写映画が続いたが、10年経って悪夢は蘇り、この「進撃の巨人」の後に「テラフォーマーズ」という更に最悪の漫画実写化作品が公開されたわけで、考えてみると2015年は史上最低映画といわれる「進撃の巨人」で、その次の2016年に更に最悪といわれる「テラフォーマーズ」が続いたわけだから、去年から今年は邦画史上でも最悪の年だったのかも。まあ、その間にも「ガッチャマン」とかもあったけどね。

・そして今年2016年夏は「シン・ゴジラ」が公開される。監督の樋口真嗣は最近じゃプロモーションに一切出てこない。噂では、当初は樋口真嗣に「進撃の巨人」の監督をさせて、そのヒットの勢いで樋口の名前を広め、次に“あの「進撃の巨人」の監督である樋口真嗣最新作「シン・ゴジラ」と宣伝するつもりだったのが、あまりに「進撃の巨人」の評判がわるく酷すぎたので「シン・ゴジラ」の宣伝班は「だめだ、樋口の名前は使うな。せっかくの東宝の看板映画であるゴジラで失敗するわけにはいかん! 樋口の名前をだしたら「あの進撃の巨人を撮った監督だろう、じゃあだめじゃん」となってしまう。今後プロモーションで樋口の名前は極力伏せろ、そうだそのために総監督としてもっとオタク層に人気のある奴をもってきて樋口の名前を隠してしまえ」なーんてことになってるんじゃないだろうか。「シン・ゴジラ」の完成報告会見にも監督の樋口真嗣は顔も出さず、どこのも映らず、メディアの取材や記事も総監督庵野秀明で統一されちゃってるからね。もう明らかに樋口の名前を伏せようという意図が見えていてなんというか可哀想というか・・・監督やってるのにねぇ。

・そんなことを思いながら、進撃の巨人に出てくるあの巨大な巨人を見ていたら・・・ん、なんかに似てないか? 体の表面の奥に筋肉というか赤い肉のようなものが見えているこの造形、イメージ・・・・おいおい、シン・ゴジラも似たデザインじゃない・・・大丈夫なんだろうか? シン・ゴジラ・・・・・

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2016-07-11 『インデペンデンス デイ リサージェンス』愛すべき最高お馬鹿映画

LACROIX2016-07-11

[]『インデペンデンス・デイ: リサージェンス』

・「インデペンデンス・デイ」第一作からもう20年かぁ、時が経つのは本当に早いなぁという感じ。

・第一作はあの巨大なUFOが衝撃的で大ヒットしたけど、段々と中身のデタラメさに“お馬鹿映画”の称号が付き、それが高じてさらには「こういうお馬鹿映画も面白いじゃない!」と逆な意味でいう評価が上がった珍しい映画。自分も映画館で最初に見た時はそれまでになかった圧倒的な映像でスゲェ〜と思ったけれど、DVDとかで見返すと、なんともお馬鹿なシーン、ストーリーが満載で、次第に「これはSF映画じゃなくて、ギャグ映画だな」と思うようになった。

・その「インデペンデンス・デイ」が20年という時を経て続編の製作と聞いて、うわー、どうなるんだろうと面白半分で期待していた。なにせ監督のローランド・エメリッヒは「インデペンデンス・デイ」(1996年)以降はと、トンデモ映画、オイオイ映画ばかり作ってきている監督で、作品の質を期待することは殆どない。「エメリッヒでしょ? どうせ!」と言われるような監督だったからだ。(興行収入はそれなりにいってるところは凄いが)

「GODZILLA ゴジラ」(1998年)

「デイ・アフター・トゥモロー」(2004年)

「紀元前1万年 10000 BC 」(2008年)

「2012」(2009年)

・さて、そして20年ぶりに帰ってきた「インデペンデンス・ディ:リサージェンス」、CMや予告編を見るとCGIのレベルが相当に上がっているし(20年前の第一作の時は爆発シーンなどで火薬を使っていたり、日本の特撮のような撮影方法であった)、真面目でしっかりした超SF大作のような雰囲気だ! 第一作を知らない人、見たことのない人がこのCM、予告編を見たら「なんか、凄そうな映画が来たな。映像も凄いし面白そう」と思うだろう。しかし第一作を知っていると、この映像を見ながらプッと思わず笑ってしまうのである。「雰囲気は真面目で凄そうなSF映画だけどこれって・・・」と笑えてしまうのである。

・ジェフ・ゴールドブラムがまたマジ顔でセリフをしゃべっていると、それだけで思い出し笑いしてしまうし、ビル・プルマンが出てくると、おお!あの大統領がまだ生きてたのか!とか思ってしまうし。「今度のは前のよりでかいぞ」なんてセリフを聞くと「ギャッハー、20年経っても前と同じことをしようとしてるぅ、デカさで売ろうとするエメリッヒは健在だぁ!」と大笑いしてしまうのである。

・ということで、今回は作品の質に期待するというのではなく、20年経っても(映像はすごくなってるだろうが)また同じお馬鹿な映画作ってるのかなぁと、そういった期待が大きく、ある意味どれだけそのお馬鹿さの期待に応えてくれるかを大いに楽しみにしてこの映画を見た!

・そして、その期待は100%裏切られることはなかった! エメリッヒは全ての期待に応えてくれた。やっぱりエメリッヒは“お馬鹿監督だw!”

「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」は史上最高のおバカ映画と言っていい。ただし、頭に“愛すべき”という言葉を付け加えておく。

この映画は古今東西稀に見る、映画史上最高の“愛すべきおバカ映画”である。(監督のエメリッヒもお馬鹿映画の代表としよう)

・いやー、予告編を見て、なんかモノスゴイ、かっこいいSF映画を期待した人は逆に頭にくるんじゃないかな? なんだこの映画は!くだらん!と怒りだすかも。20年前の第一作を観て知っていて、そのバカバカしさに愛着を感じている人にとっては「20年経ってもおんなじバカなことやってるバカ映画だねぇ」と微笑んで楽しみながら観れるけれど、初見の人にとっては「どうしょうもない映画だ」となるかも。この映画を観る人には世代のギャップが大きく広がっているかもしれない。

・今回の宇宙船は前作よりはるかにデカイというのは聞いていたが、映画の中のセリフでは全長3000キロとか言ってたなぁ。www アホちゃう? 第一作の宇宙船が全長24キロでこれはデカイなぁと驚いたのだが、今回のは言ってみれば日本列島の端からは端までと同じくらいの大きさなわけで、ここまで大きくしちゃったら、人間から見たら空全部が宇宙船なわけで、逆に巨大さとか物凄さが感じられなくなってしまっている。頭の上、見渡す限り全部が宇宙船なんだから、大きいとか小さいとかじゃなく、空に蓋がかかってるようなもの。これはやり過ぎの大失敗、流石エメリッヒ!と言いたくなったね。

・まあ、その他にもツッコミ所は満載なのだが、この映画はツッコミ所をギャグとして観なければならない。いや、エメリッヒはスタッフは至極真面目に作っているのかもしれないが、それがことごとくお馬鹿なギャグ化しているのだから、そこを指摘してもしょうがない。楽しんで笑うのがこの映画の観方とも言えるだろう。

・それにしてもなぁ、まさかインデペンデンス・デイが怪獣映画になって帰ってくるとは思わなかった。日本の怪獣映画ファン、オタクであるギレルモ・デル・トロが作った「パシフィック・リム」やギャレス・エドワーズの『GODZILLA ゴジラ』は日本のロボットや怪獣映画を尊敬し、その流儀やスタイルを踏襲してハリウッド方式で日本映画を作ったものであり、作品の出来はイマイチだったが日本の怪獣映画をここまで愛してくれているんだなという気持ちは嬉しかった。しかし、しかしだ! なんとローランド・エメリッヒはその怪獣映画ヲタの二人よりも更に更に凄い日本映画式怪獣映画を作ってくれたのだな。

・いやー、もう驚き。エメリッヒの『GODZILLA ゴジラ』は日本のゴジラの良さを全然わかってないダメダメ作品だったが、今回の「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」は設定からバカバカしさはまるで日本のTV特撮怪獣シリーズ(ウルトラマンタロウとかに近い)であり、怪獣の描写は日本の怪獣映画のニュアンスが強く感じられる。

・ほんと、科学特別捜査隊とか地球防衛軍とか宇宙科学警備隊とかが怪獣から地球を守るって設定とその中で出てきたお馬鹿な怪獣攻撃とかの映像が今回の「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」で巨大宇宙船や宇宙人に向かって戦いを挑むアメリカ軍の姿と似てるんだよね。おかしなくらい。この脚本家、日本のウルトラシリーズを土台にして脚本かいたんじゃない? ッて思う位。そしてなんとも、エイリアンとの戦いが・・・・おいおい、これってまんま日本の怪獣映画になっちゃったじゃないか〜と、スクリーンを観ながらびっくり仰天、そして大笑い。いやはやエメリッヒさん、ここまでやってくれるとは御見逸れしました。

・前作で出てきたキャラクターが沢山でてきて、前作をネタにしたようなギャグ(本当は真面目にやってるのかも)を披露するし、ビル・ブルマンが前大統領のくせにエイリアンを格納している場所に入っていって「俺が犠牲になる!」といって首を触手でグゲゲと締められて、エイリアン語を翻訳するシーンとか、もうホントによくもここまでお馬鹿シーンを真面目に復活させるもんだなぁと恐れ入る。

・途中からは段々先が読めてきて、あのスフィア(球体)が出てきて「敵の敵は見方」なーんて言い出すところなんかもう予定調和。アフリカの黒人の部族長かなんかがスウォード(剣)でエイリアンをズッタバッタやっつけるところとか、あんまり名前が知れていないギャラの安い、だけでかなり美形で可愛い女優をぞろぞろ出演させてるところとか、中国の巨大市場を意識して軍のトップが中国人だとか、その娘が美形のパイロット(アンジェラベイビー(楊穎)という中国人アクトレス)だとか、この女優もぱっと見、日本の昔の女優の若いころみたいな感じで可愛いとおもったが、役はスカスカのただの飾りでしかなかったし、エイリアン研究者は同性愛カップルだったんだとか、もう、いやはやサイコーですねと言えるお馬鹿の連発にただただ顔がほころぶばかり。

・意外と言えば超意外で、冒頭からシャルロット・ゲインズブールが出てきたこと。映画の情報サイトやキャストの紹介でもシャルロット・ゲインズブールに言及したり取り上げている所はほとんどないね。あの「なまいきシャルロット」の時の妖精のように可愛らしかった女の子がこんなにシワクチャなオバサンになって出てくるのはちょっと目を背けたい気分も。同じフランス人女優でも「ラ・ブーム」でブレイクしたソフィー・マルソーは歳をとっても妖艶な美しい女に成長したのだけれど、S・ゲインズブールはそれとは逆になってしまっているみたいでちょっと悲しくもあり。

・まあそんなかんなで、この史上最高のお馬鹿SF映画は、お馬鹿をどんどんと積み上げていき、最後にはお馬鹿なりにスッキリ気持よく楽しめるラストでしめくくってある。ジトジト梅雨の湿っけと、ジリジリ暑い夏の中、ひんやりと冷えた映画館でこういうお馬鹿映画を観て、あんまり難しいことを考えず、頭を空っぽにして楽しむってのがこの映画の観方なんじゃないかね? そう考えていれば充分に楽しめる。

ただし、前にも書いたがそれは前作がおバカ映画に変化していき評価を逆の意味で上げたという前作を知って楽しんでいる世代に限ったものであり、まったくなにもその辺のことを知らない人が、期待してこの映画を見たら「なんだこれは、どうしょうもない、馬鹿げた映画だ」となる可能性は非常にたかいだろうな。現にこの映画のことをネットで書いているページはそういう内容のものが多いようだ。

・この映画を観て、くだらない、馬鹿げてると思った人は、前作を観て、そのお馬鹿加減をハッハッハと笑いながら楽しめるようになってから、もう一度この新作を見返せば、楽しめると思うな。

・愛すべき、史上最高のお馬鹿映画に乾杯!

2015-06-15 『海街diary』期待は大きかったのだが・・・かなり期待外れ

[]『海街diary』

・『誰も知らない』(2004)では親に置き去りにされた子どもたちの誰からの助けも受けず生きていこうとする生への足掻きを静かに、そして壮絶に描いた。『歩いても歩いても』(2008)では老いていく父母とその息子、そして嫁の関係とその中にある毒をこれぞまさしく小津の世界というべき見事さで描き切っていた。そう、『歩いても 歩いても』を観た時に強烈に感じた事、それは「是枝監督は名匠・小津安二郎のあの映画の雰囲気を、そしてあの映画の味を遂に、そして見事に現代の日本映画に蘇らせたのだ」という感激だった。『歩いても 歩いても』は小振りな作品ながらも、その年一番の作品だとも思った。日本での興行は振るわなかったが、その後海外で高く評価され、なんとあのクライテリオンがこの映画をソフト化した。これはきっと海外の映画ファンにとっても「歩いても 歩いても」は小津をほうふつさせる古き良き日本映画の伝統を継承する作品だと感じられたのだろう。

・チクリチクリと皮肉をうまい具合にまぶした「歩いても あるいても」は老舗の逸品のごとく味のある作品で、その年は何度も何度も観返し、ロケ地を探したりして歩いたものだった。

・この監督は次はどんな驚きを与えてくれるのだろうと期待した。そして次作の「空気人形」はエグさをも躊躇せず写しだし「歩いても 歩いても」とはまるで異なる作品。まさかこう来るとは予想もせず、その内容と表現にこれまた驚かされた。

・是枝作品といえば、毎回内容や描く対象ががらりと変わり、しかし多種多様に切り替わるその作品の中に一本ゆるがぬ筋が通っている。それはいってみれば社会性といわれるもので、今の社会や制度、この日本のあり方に対する批判であると考えている。その怒りや批判、悲しみのエネルギーが多種多様な作品の中でプツプツプツと温泉の底からたゆまず湧き続けている熱い泡のように、全ての作品の底流となっている。そんな感じを持っていた。

・そして『海街diary』だ。

・是枝監督の2年ぶりの新作ということで、さて今回は一体どんな映画を楽しませてくれるんだろう!と期待が膨らむ。今回はフジテレビや小学館と組んだということで公開前の番宣やコマーシャルも多々。住友林業と組んだCMはなかなか良かったし、BSの日本映画専門チャンネルでは是枝作品の特集が組まれ、その一部として放送されたメイキング番組である《映画『海街diary』が生まれるまで》が特に良かった。(前ページ)

・メイキングでは古民家の茶の間で、飯台を囲む三姉妹の位置や構図にこだわり、そのセリフの掛け合いから姉妹一人ひとりの心の中、表には見えない気持ちや、日々の生活の背景を浮かび上がらせ観客に伝えようとする是枝監督の撮影と演出の様子をがたっぷりと映しだされていた。「これぞまさに小津安二郎の様式美に成瀬巳喜男の人間味表現を加味した是枝作品のなんともいえぬ味わい、情緒の源なんだな」と、メイキングを見ながら更に映画への期待が膨らんだ。

・最初に言ってしまうと、この作品、絵は綺麗だ、絵は美しく、絵には情緒が漂っている。だが、途中まで観ていく内にその絵と話がゆるやかな流になっていないと感じ出す。パッ、パッと瞬間、瞬間にスクリーンいっぱいに映し出される“絵”に、はっとする美しさ、情緒、味がある。だが、それが繋がっていくにつれその情緒や味わいにちりちりと裂け目が入り、バラバラに細かく破れてスクリーンの外に飛び散って消えていく、そんな感じなのだ。

・この映画は四姉妹の一年の物語ということで、鎌倉を舞台として四姉妹の成長、変化を四季の移り変わりとともに映像にしている・・・ということなのだが、季節がまるで“移り変わって”いないのだ。季節から季節への移り変わりというものはゆっくりと気がつかないうちに、徐々にだけど早く、ある日ふと「ああ、季節が変わったんだなぁ」と気が付き感じるもの、そういうものだ。しかしこの「海街diary」の中での季節の変化は唐突にエッ!とう感じで出てくるのだ。たとえば桜が咲く春だなぁと思って見ていたら、なんでか急に半袖、夏服になって花火・・・え、いつの間に夏になったの? なんか急すぎない? と思っていたら、こんどは夏と思っていたのがセーラー服にマフラー・・・あれ、いつのまに冬になってるの? とそういう感じだ。

流れていないのだ。

2014-06-09 『春を背負って』魂と情熱の籠った映像美。朴訥であるが爽やかな映画

[]『春を背負って』

・美しい映像、そして爽やかな映画であった。

・あの『剣岳 点の記』(2009)から5年。黒澤組に仕え、あの『八甲田山』の撮影監督をし『剣岳 点の記』で素晴らしい映像を観せてくれた木村大作が、再び山を題材にした映画を引っさげて戻ってくるのだからこれは観ないわけにはいかない。いや、これは絶対に観たい。それもなるべく大きなスクリーンで。両目の視野いっぱいにスクリーンが入り、映像以外はなるべく観客も椅子も目に入らないようにして、体中が映像に包まれ、どっぷりと映像に浸るように観たい。そんな思いで映画を観たが『春を背負って』は前作『剣岳 点の記』以上に映像の美しさを、北アルプスを、山と自然を、あの場所の空気を感じ取れるような映画だった。正に、自分があの立山の懐に、あの山小屋に、あの空気の中にいるような思いをさせてくれる映画であった。

・そうそうたる役者陣を実際の北アルプスに引き連れ、山小屋での本当の生活を映画スタッフと一緒にさせ、実際に山も登らせ、その姿を大自然の懐で撮影する。下手な演出や演技よりも役者の内面から湧き出てくるものが、嘘ではない気持ちとしてフィルムに写し撮られている。



・出だしの北アルプスの映像がフィルター無しで山の風景を撮ったかのように、青が被っているような感じがしたのだが、これは小屋側のDLPの調整が巧くなかったせいかもしれない。

携帯電話での捜索

キャストと撮影

アルミの匂い

あの空気、雰囲気

蒼井 演技過剰になっている。

滑落の場面や、厳しい山の場面はちと白々しい嘘臭さがある。

挿話はどれもこれも取って付けたようで話に馴染んでいない。



・あの『剣岳 点の記』(2009)からもう5年も経つか。時間の流れは早い。初監督作品で日本アカデミー賞の"最優秀監督賞”"最優秀撮影賞”まで取り、その他の映画賞にもズラリと名前を連ねたのだから大したものだ。それまでは《黒澤明監督映画のカメラマン》《「八甲田山」のカメラマン》とばかり言われた、としか言われてこなかった木村大作に“『剣岳 点の記』の監督”という勲章がくっついたのだからこれは一人の映画人を判断する材料としてかなり大きなものを授かったのだと言える。

・その木村大作が5年の月日を経て“『剣岳 点の記』の監督”という勲章か、はたまた大きな看板をぶら下げてまたやって来たのだから、これはいやがおうにも期待せざるを得ない。しかし・・・・

・5年前の『剣岳 点の記』は映像が本当に素晴らしかった。大きなスクリーンで観ていると、まるで自分があの剱沢にいてあの剣岳の山頂で美しい北アルプスの峰々にの中に居るかのように思えるほど、美しい映像だった。あの美しい大自然の中に自分が包まれている、あの場所に自分が立っているような気持ちになる、それだけで『剣岳 点の記』はいいと思えた。映画の一番大事な部分である脚本が粗だらけだったのだけれど。

2009-06-19日記: 『剣岳 点の記』 山と自然を愛する人に!美しく貴重な一作。

・『剣岳 点の記』は脚本がうーんと言いたくなるところがたくさんあって、一本の作品としてはとても褒められたものではなかった。だが、一先ずそこには目をつぶってカメラマン木村大作の写し撮ったあの美しい映像に心をあずければ、映像を、映画体験を楽しめる、味わえる、心で感じられる映画ではあった。「ストーリーがもっとちゃんとしていたら、本当の傑作になったかもしれない」そう思ったけれど、あの映画はあの映画として素晴らしい体験を観るものに与えてくれる映画として好きだし評価している。

汚し、カメラとキャスティング、

2014-04-06 『永遠の0』物語として◎ 映画としては△

2013-12-10 『舟を編む』2013年の邦画NO.1なんじゃないかな。

LACROIX2013-12-10

[]『舟を編む』

本屋大賞を取った作品を、話題性が残ってるうちにチャチャチャとテキトーに人気俳優を使って映画にしてチャチャチャとそこそこの興行だけせしめればいいや。というようなテキトウの極みみたいな映画と思って、ポスターに出てる宮崎あおいと松田龍平を見て、ああぁまた日本映画の最低くだらないパターンの繰り返しか・・・と思っていたら、出だしから絵がイイ。

今はなきNHK-BSに名番組「週刊ブックレビュー」にて紹介。

八千草薫は相変わらずの素晴らしさ。病院で夫の死をしらしめる場面の演出は見事。これぞ映画的演出、これぞ映画という表現。この監督若いのに立派だ。

大渡海の辞書パッケージは、あれは変でしょ。

2013-08-18 『HOME 愛しの座敷わらし』

[]『HOME 愛しの座敷わらし』

・監督:和泉聖治.... 「オン・ザ・ロード」が良かった!

・岩手の風景が美しい。多少色の彩度を上げすぎているというか、緑を強く出しすぎていると感じる部分がある(夏の色、ホントの風景というは朝や雨の後などの空気の透明度が上がり、チリなどもすくないときでないと、遠目でみたらもっとぼんやりとしている)

2013-08-02 『風立ちぬ』こんなにも美しく切ない純愛物語だったのか。

LACROIX2013-08-02

[]『風立ちぬ』

・零戦を作った男の物語と聞いていたので第二次世界大戦やその時の兵器工場などの絵を頭に描いていたのだが・・・、映画が始まるといかにも宮崎アニメといった穏やかで平和そうな昔の町並みの映像が流れる。その風景描写が実に美しく心を和ませる流石という巧さで、アニメーション独特の柔らかい色と映像がほのぼのとした気持ちを醸し出す。しかし、ホッとしてその気持ちに浸っていると、唐突に美しい風景の中を静かに波紋のようなものが走る!「え、なにこれ? これって地震な? いきなり地震がくるのか!」と、ハッと息を飲み込み目を見開いて驚く。静かに地面を伝わり広がっていく波の線がこれから起こることへの身震いするような恐怖の予感を駆り立てる。そして、次に現れたのは幾重にも強烈に上下に揺れ動く家屋と耳の奥まで届き脳みそを振動させるような重低音。まさに今ここで自分が地震のど真ん中にいるような錯覚におちいる。この場面が出てきた時、まさか零戦を作った男の物語に地震が出てくるとは考えてもいなかったため、かなりの衝撃であった。(この上下に揺れ動く家屋の映像は『風の谷のナウシカ』にでてきたオームの外郭の動きに似ている。いかにもジブリ流の表現なのかも。それがこんな地震の描写にも生かされているというのもまた驚き)

・出だしからいきなりこの関東大震災描写地震の描写にとは、これにはガンと頭に衝撃を受けた、そしてこの地震描写はまるで今自分があの3.11の時に戻ったかのように、あの強烈な地震の中にいるかのように激しく怖かった。いままで映画で観た地震の映像でこんなにも本物の地震を感じ、その押し寄せてくる恐怖を感じ。まさに自分が地震のどまんなかにいるような恐怖感を覚えたものは未だかってない。それほどまでにこの地震の描写は凄かった。ざまな実写映画の地震の描写よりも遥かに凄まじく恐ろしかった。3.11の東日本大震災を体験してしまったことも一因かもしれないが。

・そしてその後の大火、逃げ惑うたくさんの人々。一気に心は映画の世界に引きずり込まれた。

・TVのインタビューで宮崎駿は「昭和を描くには関東大震災から始めなければいけない」というようなことを言っていた。(関東大震災は大正に起こったが)巨大地震の後のボロボロの中からの復興ということが昭和の始まりということなのであろう。昭和は日本の真ん中の東京がボロボロになってゼロになって、そこから立ち上がって行く時代だったということであろうか? そして戦争に突入し、再び焼け野原になりまたそこから立ち上がっていく、それが昭和という時代だということであろうか。

・また、宮崎駿は「とにかく軍隊が行進するとか、戦火が広がるとかそういうことは映画着たくなかった、そうしたらドキュメンタリーに取り込まれてしまう」「堀越二郎を描かないと、この国のおかしさは出てこない」とも言っていた。

・なるほど、そういう気持ちで作られた映画なのかと改めて思う部分はあるのだが、実際に自分がこの映画を観た後に感じたものは、先に書いた地震描写の凄まじさはその1つとして、映画を見終えた後にすぐに映画全体として映画全てとして感じた印象は、戦争でも戦争の悲惨さでも、あの頃の軍隊のおかしさや、この国のおかしさでもなくて、《純粋で純粋で純粋極まりない“恋愛”》というものだった。



生きて、生きろ、生きろという言葉は愛する妻への言葉、全人類でも戦争当時の日本人でも、だれにでもなく極めて個人として愛する結核にかかって残り少ない命を灯している妻への言葉。

自分の素直な印象では、宮崎監督が描こうとしていた昭和という時代、戦争、この国のおかしさ・・・そういったものは映画全体から感じ、受け取ることはなかった、部分的にそういう描写があったという記憶は残っているが、全然、マッタク、戦争の映画には思えなかった、感じなかった。純粋な、純粋すぎるほど美しく、汚れない、極めて真っ直ぐでなんのけれんもない本当の純愛物語だと思った。人それぞれであるけど、監督が戦争や昭和を描きたかったと言っていたのに、その作品から受けるものがマまったく違っていたというのは、監督の思いと、描いて出来上がったものが発するものが別の方向を向いているということではなかろうか。そういう意味で皮肉な言い方をすれば、この映画は監督が当初描こうと思っていた思いが伝わってこない、別のものが伝わってくる、つまり描こうとしたものを伝えきれない失敗作という捉え方も出来る。だがそれは作品としての失敗作ということではなく、監督の思いの描き方としての失敗作であり、作品としてはジブリの中でも断トツの素晴らしい作品であると思う。結局宮崎監督には戦争の悲惨さやあの時代やこの国のおかしさを描くことは出来なかったのだ、完成した作品は別のものになっていた、別のものが強く描かれていた。作品には監督の心が宿る。とするならば、監督の優しさや純粋な愛という心がこの映画に強く宿っている、宿ってしまっているのだと思う。そして監督が口にしていた戦争や昭和やこの国のおかしさが描かれていなくても、自分はこれでよいと思う。

・この映画は監督の思いや意図が全然違う方向へ伸びて、発展して作品となった大いなる失敗作であり、だけどそれ以上に、口に出していった考えや思いを遥かに超えて、監督の心が投影され描き写された素晴らしい作品だともいえる。口に出す思いよりも心のなかにある思いのほうが本当なのだ、その人をあらわすものなのだという証明なのかもしれない。

声優の声も実に良かった。

2013-07-27 『神様のカルテ』

2013-07-25 『るろうに剣心』なるほど、大したもんだ。

[]『るろうに剣心』(2012)

脚本もしっかりしている、破綻もまるでなし、話の展開もリズムにのっていて淀むところもない、なんでこんなバカな場面をいれているとムカつくところもない。充分に面白い。いうなれば総合点が非常に高い。カット、アングル、アップ、とくと研究され研鑽され尽くしているいるハリウッドの手法、様式がしっかり咀嚼され映画の血肉を担っている。それが少しばかり鼻につくと言えなくもないが、この程度がハリウッドで基準、スタンダードといわれるかもしれない。

しっかりとした技術、それをまとめる力、全体を構築し俯瞰するする視点、そして脚本のまっとうさ。それが結実すればこれだけの映画が出来るというお手本か。

敢えて難癖をつけるとしたら余りにハリウッド的すぎるというところか?ハッと驚くような、息を飲むようなそういった今まで観たことのないような映像、シーンというもは無い。いうなれば標準中の標準、それより少し上という中身と映像である。ここになにかワンシーンでも極めつけの驚きや、うわっといいたくなるような今までみたことのないような驚きの映像や演出があれば、傑作になっていたか?


これならば日本映画のレベルが上がったといって差し支えない。大したもんだ。

アクションシーン、立ち回りがいい。CGIに頼りきっていないところがいい、CGIにおんぶにだっこでありえないような画角や動きで今まで観たことのないような場面を作ろうなんてしたものは大概失敗している。CGIならなんでもどんなことでも出来るからと映像を作ったはいいが、現実的にありえない動きや角度ばかりが目立ち観る側からすると嘘っぱちの映像がミエミエであるから白ける。

対してこの映画はしっかりと格闘も肉弾戦も行っているし、CGIで誤魔化したりしていない。そこが非常に好感が持てるし、絵に嘘ではない迫力がある。

武井咲はいい女優になるな。アイドルがちゃらちゃら映画に出演して棒セリフ、棒立ち、のっぺら表情で声の大小だけで演技をしたつもりになっているのとは段違いで、役者らしい落ち着きや雰囲気が顔や体から出てきている。これは驚き。もちろん顔は美形だが、それだけではなく女優として、演技として様になっていて美しい女優になっている。

さすがの蒼井優でも武井咲の美しさとこの雰囲気では主役を食うことはならずといった所。

北村龍平が「あずみ」でCGIだらけのチャンバラを撮りハリウッド進出なんてやっていたのは一昔前だが、この映画を見ると歴然とした映画の差がある。

走って壁を蹴って宙返りってアクション、場面はもういいかげん使われすぎなんだからヤメるべきだろう。

2013-07-21 『深呼吸の必要』極めて適当な粗製映画

[]『深呼吸の必要』(2004)

・長澤まさみが脇役中の脇役、というか端役。ぜんぜん輝きも煌めきもない、ぼさーっとした暗い少女・・・というのが驚き。2004年といえばセカチューの年か。まだデビューしたてとはいえ、この映画のなかではまるっきり長澤まさみの若い輝きを生かさず、合わない役に押し込んで押し殺してしてしまっているかのようだ。これはないな。翌年のタッチではキラキラした適役を演じていたのを考えても、女優の使い方が間違っている。

・Dr.コトーのパクリみたいなエピソードもなんだか。

・わざとらしいエピソードとわざとらしい台詞ばっかりで興ざめする。

・2004年、沖縄ブーム、邦画の似非バブルまっただ中。そんな中でつくられた粗製映画。それでも沖縄があったらかなんとか観れる? 人も目を向ける? 沖縄を題材にしてればなんくるないさ〜とはならない。  

・静かでボンヤリとして癒し系映画のようにも見えるが、沖縄の方言を離すお年寄りを出して、サトウキビ刈ってるだけ。転がってた、拾ってきた、たまたま聞いたようなエピソードを並べて繋げただけで、なんらそこから手を物語の奥に差し込もうとしていない。足を踏み出そうとしていない。ちゃちゃちゃと撮ってしまえばそれでよかったという映画づくりだったのかもしれないが、極めてテキトーな粗製映画。それだけだ。

2013-07-18 『Dolls ドールズ』

[]『Dolls ドールズ』

北野映画のなかでは好める作品。しかし数年前に観た時とは改めてみて随分印象が変わった。

つながり乞食。人形浄瑠璃。お祭りのときの風車やお面を背景にしている映像は美しいが、これはよくある絵だ。たけしが徹底批判した稲村ジェーンでも使われていた。

映像の美しさ、ライティングの故意的ではあるが情緒的でパッと観ただけでハッとする美しさは間違いない。

しかし、ここにヤクザ映画を入れる必要はあるか?

待ち続けていた女性の話も美しいのに。

あえてヤクザ映画の要素を入れる必要があるか? それが北野武の根なのだろう。しかし映画としては余計でしかない。それがなければもっと評価は高まっていただろう。

2013-07-17 『BRAVE HEARTS海猿』悪くない!ちょっとウルウルだな、

[]『BRAVE HEARTS 海猿』(2012)

・CGIに関しては前作のレガリスの描写の方が上。

・といいつつも、見ていると引き込まれるし、なんとかしろー!!と叫びたくなる。

・吉岡を救い出すシーンに至っては、ここで殺さないだろう、殺しはしないだろうと願い、握り返してきた手で思わずウルウルしてしまった。

・海猿4作の中では一番いいか。

・仲里依紗なんかズケズケした顔ではいままでどうも嫌いだったのだが、この作品では正直いい役を演じている。

・飛行機事故の映画というのは本当は好きじゃない。日航機事故を頭に描いてしまうから。

・このシリーズの映画がやたらと女性人気が高い、観客も六割以上女性だ、とかいうのは、やはりカッコいい男優がぞろりと揃って出てるということか? それに出産、結婚、プロポーズ、子供、若い夫婦の不安、うんたらかんたら・・・で、女性はカッコいい男を見ながら、これって女性の気持ちもよく描かれているよねぇ、となってジーンと来てしまうから女性に受けてるのか? 男がAKBにギャーギャー騒いでるのを見てシラッとしている女性が、EXILEにキャーキャー叫んでいる。要するにEXILEは女性向けのAKBであり、海猿もその要素を多分に織り込んでいるということなんだろう。

2013-07-16 『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』

[]『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』

・踊る大捜査線3はなんだかあまりに酷かったので、なんだこれは状態で頭のなかから消え去っていて、もうストーリーも覚えていない。それを考えればこの最終話はまあなんとか観れる、話もある、ちょっとした主張もある。見応えとまではいかないが、観てもスッカラカンという3とは違って少しは楽しめた。


この国のシステムは何も機能していない。政治も、組織も、その事のほうが犯罪。

2011-08-15 『踊る大捜査線 THE MOVIE 3 』

2013-07-09 『THE LAST MESSAGE 海猿』

2013-07-08 『はやぶさ/HAYABUSA』

2013-07-01 『真夏の方程式』

2013-06-20 『奇跡のリンゴ』

2013-06-03 『体脂肪計タニタの社員食堂』

[]『体脂肪計タニタの社員食堂』