『ヴィンランド・サガ』と『火の鳥 黎明編』からの情景

画像左『ヴィンランド・サガ』第一巻のレイフじいさんの回想シーン、画像右『火の鳥黎明編』のラストシーンです。これは冒頭の昔話に過ぎないんですが、多くの『ヴィンランド・サガ』の読者が、そう予想しているように、このシーンは終盤で再現があると思われます。
人の世に絶えぬ戦乱の果てに、その全てを呑込んでそこに在る大地に祈るようなその瞬間のシーンというのが、もう一度『ヴィンランド・サガ』に出現するんじゃないかと…そう思いながらこの物語を読んでいます。…いや、分かんないですけど(汗)

今、僕は幸村誠先生の『ヴィンランド・サガ』をすごく注目して読んでいる。ちょっとそのきっかけとなった6巻を読んだ時の自分の感想を引用しておきます。とにかく僕はクヌート王子の覚醒にしびれてしまった。

この巻でクヌート王子が『王』として覚醒します。ちょっとそのシーン正直シビれました。それまでこの作品、言ってしまえばアシェラッド(まあ後トルケル)の“視界”が世界を見渡す総てだったんですね。…いや、最初っからトールズっていう男の“視界”が提示されてはいたんですが、すぐ死ぬし…(汗)結局、彼が「何を観た」かは今だに謎のままであって「単なる良い父親」にも見えるわけです。
だから、アシェラッドが望んで得る事のできないものとしてトールズは在るけれども、ここまではそれ以上ではなかった。そこを…すっと風が吹き抜けるように、アシェラッドの視界を超えてしまった…。どう言えばいいんでしょうね……この物語、この時点で既に『忍者武芸帳』か『火の鳥黎明編』に比肩し得るポテンシャルを持っています。とりあえず、このクヌート『王』がどのような道を歩んで行くのか見届けて行きたいと思います。

…で、ふと、この『ヴィンランド・サガ』と『火の鳥黎明編』は非常に符合するものが多い物語である事に気がついたんですね。それをちょっと羅列して書き出して観て『火の鳥』を反射して観る事で『ヴィンランド・サガ』の物語を眺める一視点を確保してみたいと思います。
幸村先生が『火の鳥』を意識しているかどうかは分かりませんが、この符合は多分、描こうとしている物語のテーマが「人間を描く」という事において非常に近しいものだからだと思います。そしてオマージュとかそういう話ではなく『火の鳥』にあって『ヴィンランド』にないもの、『ヴィンランド』にあって『火の鳥』にないものを観て行く事で、両作品の景観もまた違ったものになってくると思います。

アシェラッドと猿田彦

トルフィン「よくも!!よくも父上を殺したなァァアアッ!!お前も殺してやる!!絶対に殺してやる!!ブッ殺してやるぞ!!」

ナギ「人殺しめ、よくも村じゅうの人を殺したな…おれのねえさんまで……ええい、このくそゴリラッおまえの目をえぐり出してやりたいっ」

『ヴィンランド』の主人公・トルフィンと、『火の鳥』の主人公…かどうかは分かりませんが(汗)中心的人物として扱われている少年・ナギは、非常に似た生い立ちを持ちます。トルフィンは父親の仇・アシェラッドに育てられ(…育てたってワケでもないかもしれないけど)トルフィンも復讐心を持ってアシェラッドに付き従っています。同じくナギも一族を皆殺しにされた仇・猿田彦に育てられ、ナギも復讐心を持って猿田彦に付き従っています。(両者に姉がいるところも似ている)
そしてアシェラッドも、猿田彦も、何の酔狂か「いつでも殺しに来い!」と宣言し、彼らが復讐を実行してもそれを跳ね返して、しかし命は奪わず、側に起き続けるんですね。

アシェラッドと猿田彦は全く違うキャラなので、その後の展開も同じになるとは考えづらいのですが…しかし、このシチュエーションは非常に似ている…。おそらく、肉親の仇に育てられる子供、という構図は人間の愛憎を描く事が凝縮されたドラマツルギーとなっているのだと思います。

トルケルと弓彦

ラグナル「…イカれた連中だ。こうまで戦バカだとはな…貴様ら全員死ぬぞ。たった500でデンマーク群1万6千を敵に回すとなんとする」

トルケル「そーゆーことはね、問題じゃないんだよ、ラグナル」

弓彦「(逃してくれたら不老不死の生き血をあげるという火の鳥に対し)いらねえ、おれはそんなもの、ほしかねえ。ただ、おめえを射落としたかっただけだ……射落せば、それでおれは満足なのさ」

火の鳥』の天の弓彦は、僕は本当の本当に好きなキャラで手塚先生の作品の中では五指に入るほど好きなキャラなんだけど、残念だけど、そこらへんを語るのは置いておいて…(笑)
『ヴィンランド』も『火の鳥』もアシェラッドや、猿田彦とは別タイプの戦士が現われます。そして彼らは武力自体はアシェラッドや猿田彦を大きく凌駕する。それがヨーム戦士団を抜けて“本物の戦士”を求めて戦いに流離う巨人トルケルと、ヨマ国を離れて“強い獲物”を求めて流離う狩部・天の弓彦です。強さ順位をつけるマンガじゃないのでハッキリしないのですが、おそらくは作中で最強の戦士です。(トルケルの上を行くキャラが今後出てくる可能性はありますが…)

トルケルは軍団を率いていて、弓彦は一匹狼という違いがありますが、共に“強い敵”を求め、そのためには“誰の味方になるか?”には拘らない生き方をしています。それは人間として異端の生き方を描いているという事なんでしょう。
トルケルが軍団を率いているのは、そもそもヴァイキングという存在が文明化して行く人間社会において異端であり、その狂いはやがて消えゆくものとして描かれているからだと思います。

また『ヴィンランド』で、トルケルがアシェラッドを捕まえ、絶体絶命のピンチにトルフィンが割って入って、結果的にアシェラッドを救ったように、『火の鳥』でも弓彦と猿田彦が勝負をする瞬間にナギが弓を放ち、結果的に猿田彦を救うシーンが、重なって見えるのが興味深いです。…どちらも、トルフィンやナギが割って入らなければ、生命は無かったはずなんですよね…。
そして、弓彦が火の鳥の“永遠の命”を「いらねえ」と言い放ったように、トルケルもまた“永遠の命”が手に入るとしても、それを欲する事はあり得ないでしょう。ここもまた、この二人の戦士の似ている点と言えるかと思います。

クヌートとニニギ

クヌート「父よ、もはや、あなたの救いは求めぬ。あなたが与えてくれぬなら、我々の手で、この地上に再び楽園を……!!」

ニニギ「おれが血も涙もない鬼と思っているだろうな。たしかにそのとおりかもしれん。倭人どもにあわれみなどかけては、おれの大計画は実現しないからな。ここはいい土地だ…ふるさとの大陸など問題じゃない。ここにおれの城とおれの国を築くのだ…」

火の鳥』のニニギは、僕は本当の本当に好きなキャラで手塚先生の作品の中では五指に入るほど好きなキャラなんだけど(やや、デジャブー…?)…クヌートが6巻でただ者では無くなるのは、読めば分かると思うんですが『火の鳥 黎明編』のニニギのただものじゃなさは、あまり知られていない気もしますので、少し補足したいと思います。
そもそも『火の鳥 黎明編』の中でニニギが登場するコマはほんのわずかで、その中のほとんどでニニギは「服従か?死か?」を迫る、冷酷な征服者として描かれています。でも、画像で張ったみたいに、この人は猿田彦に「おれを血も涙もない鬼と思っているのだろうな。たしかにそのとおりかもしれん。倭人どもにあわれみなどかけては、おれの大計画は実現しないからな」と言いにくるんですね。それは血も涙もない鬼の行動としては似つかわしくない(笑)

そしてニニギの言う大計画とは何か?単にひたすら侵略と蹂躙を繰り返すだけなのか?そうではない。多分、大陸からきたニニギはそうではないんだと思う。ニニギが何を考えていたかは、多くが語られないが、実はおそらくはニニギの野望を代弁し続けているキャラがいます。ヤマタイ国のスサノオがそうだ。ニニギの登場と入れ違いで、スサノオヤマタイ国から追放され二度と物語に姿を見せなくなる。むしろニニギはスサノオの意志を継ぐために現われたようなキャラに思えます。

スサノオが何を目論んでいたか?それは女王であるヒミコとの会話の中で散々語られる。「ヤマタイ国を近代化させましょう」と。「まじないで国を治めるやり方を止めよう」と。そして「魏やそのほかの国々とも立派につきあえる国に…」と。

おそらくニニギが見ているものもこれだと思うんです。むしろ大陸出身であるニニギが魏(大陸の王朝)を強く意識していたであろう事は想像に難くない。…あ、というか今、気がついたけど、ヤマトの地はニニギにとってのヴィンランド(ここではないどこか)なんだなあ…。だから、その地でニニギは王者として強い国家を築こうとしていた。そういう事なんだと思う。

そして何より火の鳥に接した時のニニギの言葉が好きなんですね。火の鳥を仕留めますか?と伺う部下に対して「ほうっておけ、おれは火の鳥なんかに興味はない。永遠の命?ふん、そんなものが何の役に立つ?火の鳥よ、お前を祝福してやるぞ、おまえが不老不死なら、この征服者ニニギの事を子々孫々まで伝えるがいい!」と火の鳥を見送って行くんですね。…非常にシビれるシーンです。
それは、先に述べた弓彦の「要らねえ」とは意味の違うもので、彼は本当に単に要らないだけなんでしょうけど(笑)ニニギはもっと己の生命を見つめた上での「おれの生命の在り方にとって役に立たない」なんですね。(実は欲しいけどやせ我慢をしているというニュアンスを含めるのもアリ)…だって!普通なら野望を持つ王者には“永遠の命”は絶対に役に立つものなんですもの!
だが断る(笑)…そして、それなのに、この人、美女ウズメが去ってしまう事はめっちゃ悔しそうに見送るんですよね!!w不老不死は要らんけど美女は要る!そこにシビれる、あこが(ry や、すみません。すっかりニニギの話が長くなってしまいました(汗)

クヌート王子が歴史にあるデンマーク王クヌーズ一世で、ニニギの高天原一族が歴史にある大和朝廷の始祖であるなら、両者は歴史に大きく刻まれる成果を残して行く事になります。
今、僕はニニギの心象に潜ろうとしましたが、実際のところニニギはそんなに分かりやすいキャラではありません。恐らくスサノオを同じ事を考えている人間だと僕が勝手に想像しているだけです。同じようにクヌートも“愛”(この愛って非常に難しいので解説は避けますが)を識り、全てを愛そうとするが故に、その振る舞いは誰も愛していないかのように見える人間になって行くと思います。その心象は、およそ常人に測れるものではない。そういう孤独なる王者の物語が描かれようとしているのだと思います。

そして彼らが打倒して行く“旧時代”の国を取り仕切るものが、老人、老女であるという構図…まあ、これ自体はよくある定型なんですが符合の一項目として付けておきます。

トールズと火の鳥

トールズ「オレは……わかったんだ。本物の戦士とは何かが」

火の鳥「(火の鳥だけ死なないのは不公平だと言うナギに対し)不公平ですって?あなたがたは何が望みなの?死なない力?それとも生きて幸福が欲しいの?」

最後に対比の話ではないですが…『火の鳥』に在って『ヴィンランド』に無いものは、当然ながら“火の鳥”なんですけど、『ヴィンランド』に在って『火の鳥』に無いものは、トルフィンの父、トールズ……とクヌートと言えると思います。先ほど、僕はクヌートとニニギを対比して扱ったのですが、それは彼らの持つ歴史的な業績をあげて物語の構造対比をしているわけで『ヴィンランド』という物語が持つ大きなテーマという意味では、トールズが亡き後のクヌートの存在は大きく、そこは単純にニニギとの対比は測れない領域であると思います。
これが何を意味するかは『ヴィンランド』という物語がまだ続いて行くものでもありますし、僕も興味を持って見守りたいと思います。
…少しだけ触れておくと『火の鳥』自体は生命の象徴たる火の鳥を具現化する事で、宇宙全体の生命の輪廻転生が描かれて行く事を射程に組まれている物語ではあります。(まあ、ちょっと手塚先生、『火の鳥』もいろいろ描きなおしてるっぽいので、そこらへんは調べる必要がありますが…)それに対して『ヴィンランド』は、やはり“死んだら終わり”の世界に見えます。死ねば無に帰す、その世界で如何に生きるべきなのか?を問いかけているように思えるんですね。
まあ、画像で張った火の鳥とナギの問答のシーンは、クヌートが覚醒をした情景の話と非常に近いものを感じますので、同じような事を言うかもしれませんし、言わないかもしれませんw

まあ、要するに『火の鳥 黎明編』を読んで『ヴィンランド・サガ』を読んでない人は『ヴィンランド・サガ』読んでみてね!『ヴィンランド・サガ』を読んで『火の鳥黎明編』を読んでない人は『火の鳥黎明編』読んでみてね!両方読んでない人は、両方読んどげ!!ごらぁああ!!(`・ω・´)…って事です。以上。

2008/08/14
整形/修正 2012/02/15