レスギンの獅子(承前)

 砦の中には乾いた飢えとすえた恐怖の臭いが立ちこめていた。もはやお馴染みになったその臭いにたじろぐこともなく、青年はゆっくりと連射弩に太矢を詰め直し、伸びてきた顎髭をうっとうしそうに二三度掻いた。銃眼から砦の外を見やると、城壁の下からは砦の中に立ちこめる臭いにも勝る血と熱した油の臭いがしてきた。だが、下にいる兵士達はその臭いで意気消沈する様子もなく怒声をあげ、砦に対する攻撃は止む様子もない。少なくとも、彼らがこの砦を落とした時自分たちの手にはいるはずの略奪品のことを考えている限り、獣の群と化した兵が増えこそすれ減ることはないだろう。
 青年が城壁の縁から太矢を放つと、鏃が鎖帷子を突き破る鈍い音がして、補塁に取り付いていた敵兵が眼下の堀へと転げ落ちていった。続いていた敵の一団に熱したタールと矢の勢射が浴びせられ、補塁へと近づいていた他の一団の足をも止めた。兵達に何度か叱咤の声が浴びせられると、果敢かつ無謀な一団が砦に取り付くべく走り始めた。青年は傭兵らしきその一団の中で一番武装の固く見える男、傭兵隊長とおぼしき馬上の人物に狙いをつけ、連射弩の残りの矢を続けざまに打ち込んだ。太矢の一本が兜の下を貫き、喉をかきむしりながら男はそのまま馬上から落ちた。悲鳴と怒りの声が聞こえ、他の傭兵たちは男の死体を引きずると、罵声を上げて後退していった。弓弦の響きが止むと、今日何度目かの小休止が訪れ、戦場に静けさが戻った。青年は、眼下に転がる無数の屍の群に胸が悪くなった。
「いい腕だな、ソロス人。」
青年の近くに陣取っていたロカール人の傭兵が、強化弓の弦を楽々と外しながら、にやりと笑った。青年は、血と油の臭いでむかつく胸を押さえながら、何とか笑い返した。
「まぐれだ。腕よりむしろ運かな。」
青い顔で答える青年を、ロカール人は遠慮無く観察した。ひょろりとした長身には戦士らしい頑強さはないが、腰に佩いた見事な作りのグラミカ刀や連射弩の扱いは、訓練された者の手並みだ。身には銀の鎖帷子と、蒼く染め抜かれた上衣を帯び、腕を覆う籠手にはソロス独特の獅子文が精巧に彫刻されている。
 上衣を鎧に重ねて着るのは傭兵隊長騎士・貴族の特権だ。とすると、この十六・七歳の青年は何者か。
 荒くれ者揃いの傭兵隊長の一人とは到底思えない。それに自身も傭兵隊長であるロカール人は、この砦の傭兵隊長なら全員の顔を知っていた。騎士である可能性は捨てきれないが、もしこの青年が騎士だとするならば、ソロスの騎士ではないことになる。ソロスの騎士で青の上衣を許されているのは、精鋭で鳴る近衛騎士のみだからだ。残されているのは、この青年が叙爵された貴族の端くれという可能性だが、少なくとも男爵以上の歴とした貴族ならば、こんな城壁の上で弓手などしているはずがない。それとも、よほど酔狂な奇人なのか。
 ロカール人がじろじろ眺め回すと、青年は赤く焼けた金髪の下から、逆に値踏みするように見返した。その表情は大人びていたが、顔はまだ子供から一歩踏み出した程度にしか見えない。ロカール人はもう一度怪訝そうに青年を眺めた。何故こんな身なりの良い小僧がこんな場所にいるのか。身支度を見る限り、家族か親類になかなかの富裕家がいるのは間違いない。グラミカ刀も銀一色の帷子鎧も、並の傭兵には手の届かない代物だし、連射弩に至っては王侯の持ち物といっていい。ただ、もしそんな有力者の縁者がいるなら今頃首塁でのうのうとしているはずだ。そもそもここはラタールの外れで、ソロス人のいるべき場所じゃない。
 冷やかし半分に声をかけた彼だったが、目の前で連射弩に太矢を詰め込んでいる青年の様子を見ていると、奇妙な好奇心に駆られた。
「おまえさん、貴族なんだろ?何でこんなところにいるんだ?」
唐突な質問にも動じずに、青年は手を止めて顔を上げた。
「僕は貴族じゃない。騎士だ。こんな目の色のソロス貴族なんていやしない。」
青年が自分の瞳を指した。淡い碧に金色の虹彩。グロクスティア人かグラムの竜の民に多い瞳の色だ。生粋のソロス人の瞳は紺か黒で、金髪の者も少ない。どう考えてもソロス貴族にはない特徴だ。ソロス語風のハキハキしたアクセントがなければ、グロクスティア人で通るだろう。
「そうか、驚いたな。じゃあ、ニカロン男爵の騎士か。」
「まさか。頼まれてもごめんだ。」
ロカール人は、ますますこの青年の正体が分からなくなった。その青年も、ロカール人を怪訝そうな眼差しで見ている。
「ソロス人が、ソーリア王家以外の誰に仕えると思うんだ。」
青年の言は、にわかには信じがたい。
「だが、その青の上衣は近衛の色だろう。」
「ああ。よくしってるね。」
「パロイコイで見たことがある。去年の夏の、星誕祭の頃かな、たしか。ワノーマスの乱やなんやらでごたごたしてた時期に。」
 自らの故国の都の名を出すときに、ロカール人は鼻をかすかに鳴らした。ロカールがソロスに属して百年以上が過ぎようとしていたが、ロカール人とソロス人の過去はこの異国の地においてもまだ、拭い切れぬしこりを残していた。青年は眉をひそめたが、気にかかったのはロカール人の態度ではなく、その口からさらりと出てきた半年前の事件の名前だった。その事件の記憶が脳裏に鮮明によみがえり、青年はわずかに顎を引いた。
「そのときは連中、甲冑に軍馬と従者付きだったが・・・そういやおめぇ、従者が居ねぇな。」
男は、彼の様子に気付かずに続けた。
「ああ、彼なら甲冑と一緒に部屋だ。肩口を射抜かれたんだ。」
「そいつはお気の毒。だが、その若さで近衛騎士とはね。おまえさんが従者でもおかしくねえ。おまえさんいくつだい。二十歳は超えてねぇだろ?」
青年ははやっとほほえむ余裕を取り戻して、ロカール人に肩をすくめて見せた。
「十七。偶然の成り行きなんだが、近衛騎士には違いない。残念ながら。」
「偶然ねぇ。」
 ロカール人は青年をじろじろ眺めた。彫りが浅く表情のよく出る顔は、朗らかすぎて軽薄そうな印象さえ受ける。緑色の瞳が金髪の下でよく動き、活力と短慮という若者独特の雰囲気を強調した。ロカール人には、この青年が偶然や幸運、あるいは実力で騎士に成り上がったとは到底思えず、むしろ生まれてきたときから決まり切った”必然”の成り行きなのだろうと勘ぐった。こいつは、ソーリアの富商の息子かなにかだろう。親が騎士位を買ってやったに違いない。その割に腕はそこそこだが。
「それで・・・なんだってソロスの若き近衛騎士殿が、こんな山城で戦ってんだ?」
「少しばかり込み入った話なんだ。」
彼が口を開いた途端、城壁の下から喚声が上がった。今日何度目かの攻撃が再開されたのだ。彼がうんざりした表情で連射弩を構えるのを見て、ロカール人は初めて皮肉の混じらない笑みを漏らした。
「俺はスワイ。あんたは?」
「マルク=レヴィス=グラムソーティス。マルクでいい。」