::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

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 柴田勝家 “ニルヤの島”










 ちょっと前に読んで、一応全部のページをめくりはしたもののあまりきちんとは理解してなかった本。
 sakstyleさんのレビューhttp://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20150119/p2がかなりの部分で自分の感想と一致してて、きちんとメモしておきたい気分になったので書いとく。以下はどちらかというと本そのものというよりむしろsakstyleさんのエントリから触発された取りとめない雑想といった感じ。




作品感想

 生体受像技術と主観時刻、および死後の世界概念……という組み合わせは最初聞くとすごくおもしろそうで非常に興味を引くんだけど、小説の構成がけっこう複雑なところもあり自分の理解が追いつかなかったところがある。時制の文体なんかけっこう挑戦的でかなり期待したんだけど、結局自分のなかでは消化しきれていないと思う。

 加えて、これら以外に登場するタームがわりと自分の嗜好とずれていることもあって。
 とくに「ミーム」がやっぱり抵抗感があった。
 俺のなかにこういう「遺伝子概念至上主義」みたいな発想があまりないので……。こうした考え方でものごとを捉えて研究してたりする人もいるんだろうけど、あまり興味持ったり刺激的だと思ったりはしない。
 対して俺は「言語還元主義」な見方が好きなタイプのはず。その意味でこの作品は、「叙述」「物語」といったタームを出しているわりには「言語」に対する関心が薄いな…という思いはある。
 「ミームコンピュータ」なるアイデアも、あまり理解してる自信はないんだけど、どうも人々の行為や振る舞いといったものがその演算要素っぽい? かならずしもそうでないかもだけど、「行為や振る舞い」という概念を出す以上、「それをどうやって記述すべきか」という社会学的な問題に行き当たるはずで、しかしそういう思考へは向かっていかない……という点でも自分の関心とのすれちがいがあった。
 ただ、「積荷を運ぶ乗り物」という言い方に接続できるという意味では「ミーム」という語を持ち出すメリットはあるのかも、と思ったりはした。

 
 テーマ自体はけっこう好きではある。
 イーガンに代表されるような、人工的ハードウェアへの精神アップロード技術が確立してて不死はおろかコピーも自由自在、みたいなSF世界だったら、それこそ死や生の概念は一変するかもって思うんだけど、この作品のSF設定では、記憶ログをいつでも再現可能っていうだけで、死自体は克服されていない。にもかかわらずそれだけでも死後概念の変容が起こってる社会、っていうところが設定としてちょっとおもしろいと思った。
 また、この作品で全編的に語られているのは「死」そのものというより「死後の世界」という概念の方なんだけど、最終的にそれが個人にとっての主体的な「死」につながっている。ここは主観時刻概念と叙述概念がうまくむすびついてると思う。(けっこう雑な読み方してしまってのできちんと理解できてないかもしれない気もするけど、あとで読むときのためのメモとして書いとく。)




ここから先は作品から少し離れた雑記。



完全な「不死」というのはあり得るか

 「死」といっても、[P1] 自分にとっての死と、[P2] 他者の死(他者の死をどう弔うか、どう扱うか)とはぜんぜん異なるっていうのが自分の基礎認識にある。
 自分の関心にとって「死」はP1の方として問題化されている。なおかつそれは「自己が完全に消え去ってしまうという事態」のことであって、「そのあとに何かがある」というようなものではない。もし「死後の世界」なるものがあったとしても、それは俺にとって「自己の完全な消失」という事態に匹敵するほどの恐怖は引き起こさない。死後の世界というのは結局のところ、現世における「引越」の延長上にあるようなものでしかないと思う。そして死後の世界がもしあるとしても、そのうえでなお、自己が完全に消失する事態というのは想定され得るし、それこそが真の死であると言えるはずだ。(このあたりについては、トールキンに絡めて一度書いた。トールキンの神話世界に二種類の「死後」が設定されていることは、なかなかおもしろいと思っている。http://d.hatena.ne.jp/LJU/20100925/p1

 ……という前提のもとで、SF的な技術がそのような意味での死を克服できるか、ということを考えてみる。
 精神アップロードみたいなのが行き渡った「死を克服したSF世界」では、P1・P2のあり方が両方とも大きく変化していくはず。社会的にも哲学的にも。
 ただ、そうはいっても、ではその世界でP1のタイプの死が完全に無縁になっていると言い切れるのかというと、実はそこまで徹底した不死はなかなかないかもしれない。何らかのハードウェアに自己を移して不死が達成されている世界の場合、そのハードウェアが物理的に消滅する事態は考えられるので、そのときやはり「自己が無となる状況」という意味での死は今と同じようにある。そして、たとえ極端に低確率であってもそういう事態が彼らのような「克服者」たちにとっても想定可能であるならば、死という概念の意味合いは残り続けるのかもしれない。
 では、これに加えて自己のコピーが自由自在ともなっているような世界ならばどうか*1。ハードウェアの事故が生じたとき自動的にバックアップが立ち上がり、直前の物理的状態が完全に再現されリスタートされる、という世界なら。その場合には自己同一性の問題が関わってきてややこしくなるけど、物理的状態が完全同一だと保証されてるなら、さしあたり自己同一性も担保されてると思う、かな……。そうした場合なら完全な不死が達成されると言えるかも?
 だけどその場合でも、宇宙そのものが終焉を迎えるビッグクランチであれ熱死であれ)ことは考えられるから、やっぱり同じように、いつか自己が消えるかもしれないという事態は払拭できない。
 自己が絶対に消失しない完全な不死というのは、SF的想像を最大限に用いても、想定することが難しい。




のぞましくないタイプの「不死」

 完全なものではあり得ないかもしれないにせよ、技術によって達成される「不死」というのは、良いあり方、「そういったことが実現されたらよいな」とシンプルに思われるようなタイプのものとして扱われていると思う。もちろん、「不死が実現されたって飽きるだけ、知人友人が誰もいなくなってひとりで生きたってつまらない」……といった常套的な否定論もあるだろうけれども。(ひとりだけ不死となるならともかく、人類全員が不死化したら社会構造もまったく変わるはずなので、このような否定が常に有効とは思わないのだけど、ただそうした社会がどのようなものになってるかは想像もつかない。)
 しかし「不死」というものが、人によっては拒否するかもしれないけど、人によっては肯定するだろう、という仮想であることはたしかだろう。(だから古来より不老不死はさまざまに追求されてきたわけであって。)

 一方でこの逆、のぞましくないタイプの不死、万人が拒否するであろうタイプの不死というのも考えられる。
 どういうものかというと、簡単に言えば「永遠の牢獄」というようなかたちでの不死。最近のフィクション事例で言うと、『未来日記*2での、何も無い世界のなかで1万年の間ただ存在し続けるような状態。あるいは、この系統でもっとも端的に表現されてるのは、いわゆる『5億年ボタン』*3か。(これは哲学命題設定としてもよくできてると思う。)
 こうした状況がフィクションのなかでしかあり得ないかというと実はそうでもないかもしれない。最近、従来「植物状態」とされてきた脳も、健常状態と同じ程度の活動をおこなっている可能性があるという研究結果が発表されている*4。また、植物状態と診断されたけれど意識があったケースも報告されている*5。それがどのような主観体験なのかはわかりようもないが。暗闇のなかでただ何もできない状況なのか。そうではなく、夢をずっと見続けている状態だったり、記憶をずっと反芻してる状態だったりということもあり得るのだろうか。……いずれにしても、こうした事態はSF技術もフィクショナルな魔法原理なんかも必要なく、今この世界で現に生じているかもしれないこと、そして自分にだって起こるかもしれないことではある。そしてそれが仮に永遠に続く場合、その「不死」はのぞましいどころか、なんとしてでも逃れたい事態であることはまちがいない。

 さらに、このような「何もない無限の退屈」よりもっと突き進めたケースを考えることもできる。
 それは、単に退屈なだけでなく、無限に苦痛が続くような事態。*6
 具体的な表現事例としては、『新世界より*7のスクィーラが受けた「無間地獄の刑」なるもの。
 『新世界より』では魔法によってそうした事態が引き起こされているわけだけど、もう少し現実世界の制約範囲内でもそうした事態を想定することはできる。
 たとえば、コンピュータ上に何らかの人工精神を構築し、「苦痛を感じている」という状態をつくりだす。そしてその状態を永続させる。その精神は、逃げ出すことができない。なおかつその「状態」が、ある時間範囲内で完結したままループし続けている、という設定を加えてみよう。その者には、死という終わりもこない。
 現在われわれが持っている技術で既に可能かどうかはともかく、原理的にはそのような事態が想定し得るし、それは恐怖を喚起する。




ふたつの極限的恐怖

 「死」すなわち「自分が完全に消え去ってしまうこと」こそは究極の恐怖だ。そして、「永遠に苦痛が続く状態」というのがこの逆の極致ぐらいの恐怖だという気もする。

 自分は偏頭痛の傾向を持っているんだけど、頭痛勃発時はほんとにのたうちまわってただ時間が過ぎるのを待つしかない状態になる。もちろん偏頭痛はいつかはおさまる。そう思って毎回耐えているし、実際その通りになる。世の中にある疾病の種類によってはもっと激しい苦痛もあるだろう。他の疾病だって、永遠に苦痛が続くことはなく小康状態も訪れるだろうし、何らかの鎮痛処置だってあるかもしれない。何にせよ究極的には「死」が苦痛を完全に終わらせる。
 でも、もし苦痛を終わらせる「死」が到来しない事態だったら。
 「無限の苦痛」「無限の退屈」と比べたら、「死」の方がマシかも、とは思う。
 この二極のうち、「無限の苦痛」「無限の退屈」はいまのところ仮想的にしか存在しないと思われるけれど、「死」はあらゆる人間に確実に到来する。また、「無限の苦痛」「無限の退屈」は体験することが(理屈としては)可能だが、「死」そのものを主観的に体験することは絶対に(原理的に)できない。

 〈「無限の苦痛」「無限の退屈」はいまのところ仮想的にしか存在しない〉と書いたけど、先ほど書いたように、コンピュータ上に「ただ苦痛だけを、あるいは退屈だけを感じている状態」の人工精神をつくりだすことは、まったく不可能なことではないかもしれない。仮にそうした存在がつくられたとして、その「生」にはいったいどのような意味があるのだろう? すくなくとも俺自身が今後そのような存在になることはおそらくないと思うけれども。しかし、もしそういう存在を技術的につくることができるようになったとして、それは何かの倫理に抵触するだろうか。議論自体は巻き起こるとは思う。でも人類というのは、いかに倫理が止めようとも、それが可能ならばきっとそのような存在を誕生させてしまうだろう、という予感はある。
 



捕捉

 あと、これは「死」そのものとは少し違うんだけど、「知性の後退」という事態もわりと「死」に近いかなと思ってる。
 事例でいうと『夕方、はやく』*8とか『アルジャーノンに花束を*9とか。
 現実の事態としては、認知症など。
 あるいは、睡眠に入る直前ぐらいの状態って実はこれに近いかなと思ったりする。


 そもそも睡眠というのは「死」にかぎりなく近い。
 めざめる、というのが後続する点が決定的に違うけれども。




捕捉の捕捉

 ……なんてこと書いてたら、今日のNHKスペシャルネクストワールドがちょうどこのエントリの諸々に近い話だったみたい。8割ほど見逃した……。
 再放送見とくか。





*1:コピー技術が完成した世界では、むしろP2が解決する、かも。でもP1はやはり難題として残っているような。(実践で解決される問題ではないし。)

*2:未来日記えすのサカエ

*3:『BUTTON A PART TIME JOB』菅原そうた

*4:WIRED 植物状態の人にも意識がある:脳波解析で明らかに
   http://wired.jp/2014/10/20/neural-signature-consciousness/

*5:the guardian - Trapped in his own body for 23 years - the coma victim who screamed unheard
   http://www.theguardian.com/world/2009/nov/23/man-trapped-coma-23-years

*6:あるいは逆に無限に快楽が続くという事態もあり得るけれど、その場合それは、好ましい事態なのだろうか? ……そう即断できるようなものでもない気はする。

*7:新世界より貴志祐介

*8:『夕方、はやく』イアン・ワトスン

*9:アルジャーノンに花束をダニエル・キイス






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell