WikipediaのSharingとPeering


を読んで少し思ったことを。


まず、私のように本を読まない人にとって、「[書評]Wikinomics:ウィキノミクス(Don Tapscott:ドン・タプスコット): 極東ブログ」のような書評記事は大変ありがたい。梅田氏の最近の本も、finalvent氏の評を読んで知ったような気がする。ホントはこれを見て、その本を買って読むべきなのだが、実はそれもほとんどせず、書評を読んで済ませてしまっている。という感じで、最初に謝意を表したいと思います。

1.で、まずはSharing

finalvent氏は「収益性」の観点から論点を提示しておられます。そこではまず、

たとえば、オープンソースと収益については議論しやすい。

とありますが、まさにfinalvent氏自身が言うように

もし企業人、特に企業経営者なら、オープンソースに関わる社内エンジニアを一人呼び出し簡単な関連の質問をすれば、そのエンジニアがウィキノミックスという大著を読まずに、これらの指針の詳細を明確に伝えることができることを理解するだろう。

[書評]Wikinomics:ウィキノミクス(Don Tapscott:ドン・タプスコット): 極東ブログ

ということであれば、ベースはオープンソースをどう収益化していくか、ということなのではないでしょうか。その具体例は、使い古された事例でいえばLinuxでしょうし、英次郎→アルクなのでしょう。


もちろん、finalvent氏もそれは通り過ぎ、次の論点として

だがウィキノミックスによって、世界全体、あるいは産業界が、収益の側面でどうシフトするかはまったく見えてこないと言っていいように思える。

とし、その後長い余談として「Res publica」の話が展開されるのだが、その冒頭

コモンズについて法学的な発想からの議論は多いようだが、私は歴史的に見た場合の、「ローマ帝国」の概念が気になっている。

というところに、法学をやった人はまず躓くのではないでしょうか。少なくとも日本で法学を勉強する場合、その伝統はローマ法学から発するものであるというのは前提となっているわけですから、「法学的な発想」と「歴史的に見た場合のローマ帝国の概念」が別個であるとは考えられないでしょう。おそらく、ここで言っておられる「法学的な発想」というのは、狭い意味での現行の著作権法に係る解釈に限定しているのでしょうが、「ローマ帝国の概念」は当然法学に内包されるという感覚は世間では通じないのでしょう。


さて、この躓きを乗り越えてその先を読むと、突如「Res publica」→「Commonwealth」→「大英帝国」となり、

これらが、帝国=国家として、人々(西洋人)に意識されている、あるいは西洋人にとっては国家の原義が共有性の財産として理解されているということであり、国家を生み出す情熱もまた、この共有志向の流れから考察が可能だ。共有性とは国家の領域なのである。

と言われると、それはあまりに飛躍があるのではないかと思わざるを得ません。finalvent氏自身も指摘しているとおり、「Res publica」は「Republic」の原語であり、それは日本語訳すれば「共和国(制)」であるわけです。


私自身はローマ政体について勉強したことはありませんが、聞いた話では、ローマ時代というのは財産について原則が公共物であり、例外が私有であったらしいです。いまはまさにそれが逆転しています(原則私有、例外が公共物)。このように財産権のあり方は大変興味深い論点ではあるのですが、少なくともローマと現代の国家との間には「王政」があり、それが現代の種々の法制度に対しても影響を与えているわけですから、西洋人にとってしても「国家=帝国=共有制の財産」というのは極めて短絡的・恣意的な捉え方とみなされうるのではないでしょうか。


また、現代において、私有か公有かという次元と、単独所有か共有かという次元は、制度的には分けられています。もちろん、私有財産制の現行法制が原則として単独所有を支持しており、例外的に共有という形態を認めているという構造はあり、それはfinalvent氏指摘の点かとは思います。しかし、現代において共有=国家とはならないのであって、そこにむしろ昨今話題となっている「新しい公共性(=国家(官)に属さない公共の領域)」が存在するわけでしょう。非営利の民間法人がクローズアップされるのはそういう文脈であり、こういう時代にありながら、

共有性とは国家の領域なのである。

というのは誤解を生む表現ではないかと思います。

2.ついで、Peeringについて

こちらはそれほど論点はないのだが、finalvent氏はリーダー論に触れておられます。当然、これもオープンソースから引っ張ってくれば、既に「バザール方式」における「優しい独裁者」というモデルが提示されています。これは一般の非営利民間活動においても同様です(逆に言えば、非営利民間活動におけるリーダーシップ論はそれほど成熟していません)。


一方、finalent氏が指摘しているピアグループの特性という観点からすれば、いわゆるアカデミックの世界におけるPeering(論文の査読等をボランティアで行い、Peerな関係での言論・評価によってReviewが行われ、質が保たれる世界)が、「バザール方式」には影響していることは知られています。これは一種のコミュニティが前提となっているわけで、例えば化学学会であれば「化学」に関する基礎知識等が「教養」となっているわけですが、がGoogleであれば、それが「数学とITとプログラミング、そして『スター・ウォーズ』」であるわけでしょう。


しかしながら、WikipediaコミュニティとGoogleコミュニティは同じなのでしょうか?また時代を通じて同じであり続けるでしょうか?おそらく私はそれはないのではないか。すなわち、「教養(あるいは文化)」は2ちゃんねるの板ごとに違うのと同様、WikipediaGoogleでも違うでしょうし、時代によっても変わってくるのではないかと思います。それを超えた普遍的「教養(あるいは文化)」がありうるのか、という問いかけをfinalvent氏がされているのであれば、それは分かりませんが。