アスペルガー医師ロンの日常

医師でもあり、アスペルガー症候群当事者でもあり、更には911GT3&ロードスター乗りでもあるワタクシのささやか(?)な日常

LIFE

 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m


「根性、執念、努力、思考力。貧しい生活の中でしか学べない生活の知恵がある。これは財産。苦あれば楽あり」

By 美輪明宏


 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


*根性論の原点

 桑田真澄曰く、昔のニッポンには根性論なんて無かったらしいのである。根性論がスポーツに浸透したのは戦後からであり、敗戦後にニッポン軍が解散させられて、職を失った元兵士達の食い扶持として体育教師やスポーツ指導者が宛がわれて、ソコから軍隊式の体育会系が広まったんだそうである。ソコまでは何処の国でも良くある話なので驚きはしないが、じゃあ何故ニッポンだけ他国には無い特有の気質が生じたんだって話である。ワタクシが思うに、ソレは旧ニッポン軍の成り立ちにあると思うのである。ニッポンが開国して維新やら何やらがあって近代化して明治政府が樹立された当時、世界は欧米列強がアフリカやアジアや南アメリカに植民地を作りまくってた時代なのである。アジアもその当時、ニッポン含む一部を除いて、軒並み欧米の植民地だったワケである。



 んじゃあ技術もカネも資源も人材も不足してる当時のニッポンがどうやって欧米列強から独立を守るかといえば、答えは「唯一の資源であるニッポン人そのもののポテンシャルを最大限に引き出す事」であり、ソコで生まれたのが精神論や根性論である。要は精神論や根性論ってのは、持つモンを持ってるヤツ等に対するアンチテーゼであり、国を挙げた一大ルサンチマンなのである。実際その効果は実に高く、日露戦争でロシアをフルボッコにして「ニッポン侮るべからずッ!」と欧米の連中にアピールできた上に、他のアジア諸国からは「さすがニッポン!俺達にできない事を平然とやってのけるッ!そこにシビれる憧れるゥ!」って言われるようになったのは御存じの通りである(笑)まぁその後は天狗になって色々とやり過ぎて、逆にフルボッコにされて今に至るワケであるが(^_^;)


*弱者の最終兵器

 だから未だ以ってニッポンで根性論が持て囃されるのは、その頃の欧米列強に一泡吹かせられた古き良き思い出(?)がニッポン人の記憶に残ってるからだと思うのである。でもって戦後も何だかんだ言いながら根性論で働きに働いて、欧米からエコノミックアニマルと呼ばれながらも世界第2位の経済大国に上り詰めたんだから、ニッポン人の根性論に対する信仰は根深いのである。だからつい最近の【プリンセス駅伝の選手が膝を血だらけにして這ってタスキをつなぐ】って話に感動するヤツが少なからず居るのである:

まぁ意見は色々あるだろうと思うけど、ワタクシの意見としては「あの状態を棄権扱いにできなかったレギュレーションに問題がある」といったトコである。選手の立場からすればあの状態になったらそうするだろうし、ワタクシだって同じ事をするであろう。だって繋げば万が一の可能性があるけど、繋がなければゼロだからである。だからああいうのを止めさせたいのであれば、レギュレーションを変えるしかないのである。例えば「意識を保った状態で、一定の速度(仮に10km/h以上)で二足移動できなければ棄権と見なす」てな具合にである。今回はしゃーないとして、次回からそうすれば良いと思うのである。


 じゃあ何故21世紀になってもこの手の話が好まれるのかをワタクシなりに考えた結果、上記の旧ニッポン軍のソレ同様「ソレが持たざる者が持つ唯一の対抗手段だから」に辿り着いたのである。才能も環境も資金も無いヤツがソレを持つヤツに対抗する手段は、根性しかないからである。全てを持ってる強者を、弱者が根性を用いて立ち向かい、あわよくば倒す。その瞬間に同じく持たざる人々が興奮し感動し、自分自身と重ねて応援するのである。正しいか否か、合理的か否かではなく、共感と共鳴なのである。コレを否定されたら強者に立ち向かう手段は無くなり、絶望しか残らなくなるのである。ソレの典型的な例が今夏の甲子園決勝の大阪桐蔭と金足農の決勝戦である。



 全国から有望な選手が集まってきて何もかにもが充実していて、大会を余力を残しながら悠々と勝ち上がっていく大阪桐蔭。ソレに対し金足農は唯一の武器である吉田君のポテンシャルをフル駆使して、必死こいて決勝に上がっていく。冷静に考えればムチャな酷使以外の何でもないし、褒められた事じゃないとは分かっていても、でも金足農が勝ちあがる方法はコレしかないのである。酷使があるからこそ弱者が強者に下剋上できるのであり、その下剋上があるからこそ同じ様な立場にいるファンたちが希望を持てるのである。その希望を味わえるからこそニッポン人は甲子園に熱狂するのであり、酷使を禁止すればただのやきう大会になってしまい、恐らくは廃れていくだろうとワタクシは思うのである。何ちゅーか、強烈なジレンマである。


*格差か救済か

 じゃあ根性論を否定したら何が残るかといえば、その答えは根性論の無い欧米にあるのである。ズバリ「バリバリの格差社会」である、実力のあるヤツが得るモンをガッツリ得て、実力の無いヤツは何も得られず、結果として1%対99%の格差社会の誕生である。持つ者と持たざる者で社会が分断され、階層間のイザコザも少なからず起こる。ニッポンの「和の精神」とはかけ離れた社会である。そう、ニッポン人が根性論を好むのは、ソレにより持たざる者の為に下駄を履かせる事にあるのである。結果を出せなくても根性を示す事で「お前は根性のあるヤツだッ!気に入ったッ!」ってなって、重宝はされなくとも仲間として加えてもらえて、生活も立場も安定するといった具合にである。そうやって格差を減らす事で和を保って、平和に暮らせる社会にしてるのである。


 そう、ニッポンでブラック企業云々が何をどうやっても改善されないのは、この根性論が幅を利かせているからである。実力が無く要領が悪いせいで残業しまくっていても、その残業を「会社の為に一生懸命やってるんだから」って理由で評価して、窓際でも会社に残してあげる。そういう風潮をブラック企業の運営者に悪用されているのである。欧米にブラック企業云々が無いのは、そういう残業頼りのヤツが速攻クビになるからであり、実際欧米の失業率はニッポンよりも遥かに多い&ナマポ頼りもずっと多いのである。健全さを得る為に弱者を切り捨てるか、不健全なのを承知の上で弱者を救済するか、ワタクシ如きが必死こいて考えても答えが出そうにない、そんな今日この頃であった。