20060627

ゼミ。同期の友人の発表はルイス・キャロルヴィトゲンシュタインについて。
もともと哲学プロパーの人なのでついていくので精一杯。面白かったが普段全くしない方向に思考を持っていく(ついでに自分の言葉に直して質問を組み立てる)のに苦労(そこで相手の言葉で質問が出来ればいいのだがそれほど哲学に足を踏み入れていないのです)。
よく考えたら幼稚園のお絵かきの時間に「僕の見ているこの赤という色と隣のみなみちゃんの見ている赤という色は同じなのだろうか?それって確かめられるんだろうか?」というようなことを思い、拙い言葉で先生に何とかその疑問を伝えようとしたときには既に僕は彼的な思考領域に足を踏み入れていた。けれどその時は「そんなことより早くお庭を描きなさい」とすげなくあしらわれ、後に(中三か高一)頑張って論哲を読もうとしたが2ページで挫折した。僕にとっては一番気になる人でありながらどうにもうまくお付き合いができない相手なのだ。
しかしどうも頭が発表内容とは関係ない方向へ飛んでしまう。説明の中で「Aさん」「月曜日」「平日毎日」という言葉がでてきただけで、なぜか抜き打ちテストのジレンマ*1(あれは何となくわかるんだけれど未だにうまく説明できないので、どなたかお願いします)を思い出したり。いや、全く別の思考回路に触れるのは面白い。
  
帰り道、ふと、研究という仕事のために一番大事なのはcuriosityなんだろうな、と思った。もちろん僕が「研究という仕事」なんて語るのは百万年早いのだが。
例えば自分と全く違うキャロルの読み方や全然理解できないヴィトゲンシュタイン(あるいはそれを論じる人やそれに質問を向ける人)という「他者」を、何かに使うためや自分の成長のためでなく、面白そうだというだけの理由で、何とかもっと触れたいと手を伸ばすこと。予め指向性をもって情報を収集するのではなく、面白そうなもの全て反応できるような(それを飲み込むのでもなくコントロールされるのでもなく、ひたすらに触れ合うこと)、無闇にわくわくするような心。小説をとりあえず一生の仕事にしようと思った頃、多分小説を読む面白さの一つはそれなんじゃないか、と思い始めてから、小説の読み方が少しだけ、変わった。
 

村上龍映画小説集 (講談社文庫)

村上龍映画小説集 (講談社文庫)

村上龍の自伝的短編集。時期的にもテーマ的にも『69』と『限りなく透明に近いブルー』の間を埋めるような位置づけ、ということになるのだろうか。「ケン」という名の18歳の少年が、上京してから友人らとの共同生活をやめて「美術大学」に入学し、そこを引き払って小説を書き始めるまで、あるいは「痩せた女」と付き合い、別れて別の女と生活を始め、そこから離れて一人で行き始めるまでを描いた青春群像もの、といえばいいだろうか。村上特有の「無力感」とその自覚・乗り越えとしての強烈なエゴイズムが60年代的テーマと絡み合い、そこに(「甘い生活」などの)当時の映画がテイストを添える。個人的には「ワイルド・エンジェル」を取り上げた最後の短編がわりと好き。
で、文庫本の解説には龍のHPに読者が寄せた感想の全文が取り上げられている。こんなことする人いないよ、と解説の編者は書いているのだが、それが珍しい行いだったということ、そしてその感想が全部で11しか来なかった(だから全部取り上げたのね)ということがむしろ今から見ると面白い(出版は98年なのに!)。
 
という適当な紹介であれだが、わりと良かった。やっぱりこの人小説がうまい、というのを短編だとしみじみ感じる(いくつかダメなのもあったけど)。
実は昔は龍は今ひとつ好きになれなかった。多分主人公の強烈なエゴイズムに対して、優等生的にかはわからないけれど無性に反発したんだろう(ひょっとしたら、反発しなくちゃ、という危機意識が働いたのかもしれない)。大学に入って専門で小説を読み始めてようやくこの人の「うまさ」がわかったけれど、それでも好きにはなれなかった。けれど一年ほど前、小説を読むっていうのはひょっとしたらその「距離」を読むことであって、つめられないその距離をなんとかして詰めようとする、その感覚が―恋愛みたいに―気持ちいいんじゃないか、と思うようになって、そうしたら初めて村上龍が面白いと思うようになった。
 
それとも単にえろくなったのかもしれない。
 

*1:月曜日に先生が「今週のいつか抜き打ちテストをやる」と予告するというもの。ここで先生は抜き打ちテストという言葉で「その日の朝になっても今日テストがあるとはわからない」ということを意味している。だがこれはありえない。なぜなら①先生はまず金曜日には試験は行えない。木曜日まで試験がなかった時点で金曜日にしか試験はありえないからだ。そうすると試験は月から木の間にあるということになるが、②木曜日にも試験はありえない。なぜなら①から金曜日には試験はありえないため、水曜が終わった時点で試験がなければ生徒達は木曜に試験を予期するからだ。そうすると③水曜日にもしけんはありえない…。というのがこのジレンマ。「だから先生は抜き打ち試験をやることはできません」と自信満々に言った生徒の前に、「では今から試験を始める」と先生が問題を配り始める、というオチがついたりもする。

2006062702

 
深夜、研究室に引きこもる前に本屋に立ち寄り「Waseda Bungaku」というフリーペーパーを入手。日本で初の文学・思想系フリーペーパーだが、もとは「早稲田文学」というかなり歴史のある月刊の商業文芸誌。ロリペドナルシストな僕の大好きな*1大久秀憲という作家も連載していた。二年位前から「End of Literature―文学の終わり/目的?」というかなりアレなサブタイトルがついていて不安だったのだが、文学より先にこちらが死ぬとは予想通り。しかし同人誌というジャンルに今ひとつ未来を見出せない(その最大の理由はそれが圧倒的に閉じたものであり、主体的に読もうとする人以外には働きかけないものであるから)僕としては文学・思想系のフリーペーパーにはかなり期待しています。
 
ところで今ぱらぱらしてみたら肝心の大久君は執筆陣からはずされていた模様。すばる文学賞受賞時には「人間隠居しないとだめだ」「28歳の大学8年生だが、バイトはせずに親からの仕送りで暮らしている。その一部で宝くじを買って送っているのが最大の親孝行だ」などの名言を放っていたのだが、今どうしているのだろうか。無事を祈る。

*1:「僕は笑いながら犬を追いかける姉を見ていた。」