2005年のダイノジ大谷

4月25日に放送された『お願い!ランキング』内のコーナー「芸人交換日記」でダイノジ大谷ノブ彦は、相方大地洋輔にある告白をした。(※以下、特に注釈のない引用は「芸人交換日記」からの引用です。)

俺からもまだ一度も大地さんに伝えてなかったこと。
(大地が)二度目のエアギター世界一をとって、TVに呼ばれるの大地だけ。2008年の頭ぐらいかな。
ダイノジを解散する方向で動いてたんだわ。
社員に相談して。大地さんはピン芸人としてエアギターを武器にタレントとして活躍してもらい俺はネタを書くのが好きだから構成作家の道を行こうと一度決めました。

いくつかの芸人としてブレイクのチャンスを得ながらも、それを完全には掴むことができず悩み続けた大谷。エアギターで脚光を浴びる相方に対しチャンスという思いよりも嫉妬が強くなってしまう*1ほど苦悩していた。

大谷のブログ「不良芸人日記」からは、そのどん底が2005年だったことが読み取れる。
前年に行われた『M−1グランプリ』のラストチャレンジにも結果が出ず、仕事を失っていったダイノジ
その2005年の初頭。

義父が殺された。*2

大谷の家庭は母子家庭。だから正式な義父ではない。いわゆる母にとっての「内縁の夫」、大谷にとっては「育ての親」と言える存在だった。


1972年に山口で生まれてすぐ大分に引っ越した大谷は、「しばらくして親父に捨てられた」。

母は一度一家心中を計画した。
自宅に遺書を残し、さぁ行こうと覚悟を決めたとき、
私がいないことに気がついた。
そんとき私は
佐伯にある唐辛子畑に忍び込み
唐辛子を一心不乱に食っていたそうだ。
母は一瞬私が狂ったと思ったそうだ。
私は腹が減っていたのだ。狂ったように唐辛子を食った。
やがて辛さに気づいた私はひたすら泣いた。
それを見た弟が泣き、母が泣き、母は生に執着する私にほだされた形で
死ぬことを諦めたそうだ。*3

母はスナック勤めをしていた。母が不在の家で大谷を癒してくれたのは漫画、アニメ、映画、そしてバラエティ番組だった。
うそ臭い、きな臭いものを茶化す姿から「色気と狂気をプンプンに感じた」ビートたけしに憧れた。

私は狂気を凶器に変えてしまう安易な奴らが大嫌いだ。狂気を侠気に変える男が好きだ。*4

中学1年生の頃。「非行に走る勇気もなく、女を抱く器量もなかった」大谷がとった行動は「タンポンを水に浸して天井に貼り付けていくということ」。その意味不明な行動に教師たちは頭を抱えた。
14歳の頃、「もっと将来の事考えろ。みんなとコミュニケーションとってみろ。そうしなきゃオマエ、手遅れになるぞ」とある先生に言われる*5ほど「ただただ空気の読めない、虚勢をめいいっぱい張った自意識の高い思春期の男」だった。


そして、中学3年になって、大地と出会った。
中学ですでに人気者だった大地に対して、友達が全くいなかった大谷。
初めて交わした言葉は大地の「消しゴム取って!」だった。
まだ心を閉ざしていた大谷はその消しゴムをシャーペンで突き刺して返した。
打ち解けたきっかけは遠足の時だった。
独りで石を投げている大谷に大地が「一緒にメシ食おう」と誘ったのだった。

あの一年は本当に楽しかった。
人を笑わせたり、人に笑わされたり、他人から見たらどれもくだらないことばっかりだったかもしれない。
でも俺は”笑い”の偉大さを教えてもらったよ。大地さんに。

”笑い”と大地が大谷ノブ彦を救った。

18歳になると上京した。
何の目的も見いだせずに彼がとった行動はバックに包丁を忍ばせて「コンクリート詰め殺人事件の主犯者や共犯者の住んでいた周辺をパトロール」するということだった。

そう、私は普通に狂っていた。そんなものが正義であるわけではない。安っぽいヒロイズムと狂気をとてもつまらないものに転化したことが許せなかった。*6

そこで大谷を救ったのはまたも”笑い”だった。
立川談志の落語や若手のネタライブを見て再びその偉大さに気付く。

人とはなんなんだろう。毎日笑って暮らせればいいのに、突然つらいことや突然やりきれない悲しい出来事が頭の上から降ってくる。それをゆっくり噛み締め、受け入れていくことでしか生きていけない。人生ってそういうものならば、笑いとはなんと優しい浄化方法なのだろう。私は猛烈にお笑い芸人に憧れた。ここで死ぬのが一番だと思った。それは自分に与えられた笑えない狂気の正しい転化方法のような気がした*7

そして、また大谷の前に大地があらわれる。偶然再会した二人はダイノジを結成した。

義父は「中野さん」という名前で、8歳の頃、大谷の家へやってきた。タクシーの運転手だった。
大谷が家出して補導された時も、リンチにあって血だるまになった時も、まだテレビに出ていない頃に無謀に行なった大分凱旋ライブで当然のようにチケットが売れてなかった時も、「大丈夫、大丈夫」と大谷を励まし続けてくれていた。

その中野さんが2005年の頭、中野さんの実弟に殺された。正月、酒に酔った中野さんの弟は口論の果てに、包丁で心臓をひとつき。
即死だった。
私は今だに狂気を暴力にしか転換しないやつが好きじゃない。殺すことはねー。殺すことはさ。
母の狼狽は激しく、電話越しでひたすら泣き続ける母に私は何か言葉をかけてあげることもできなかった。*8

「誤解しないで欲しい」と大谷は言う。「私は不幸自慢したいわけじゃない」。
上京する前の朝、「母から首を絞められ殺されかけた」。そして上京後は「ひたすら必死に東京に住む私に金を送ってくれた」。そんな母だった。

母の生き方、母の意地、母の愛憎。
それは他人が作った歌やドラマや小説とは違う
私だけの母の姿だ。
そう思えるとなんだか笑えた。
一生背負っていくものがあるとしたら、その答えなんぞいらないから
ネタにだけしたいなって思った
芸人になって、なんとやさしい世界だと思ったとき、そう思ったからだ。
ここでは悲劇が喜劇に変わる
なんてやさしい世界なのだろうか。*9

2005年、仕事も金も義父も失っていた大谷に「DJをやってみないか」という誘いがきた。
その誘いに大谷は飛びついた。
しかし当然のようにDJはまったくうけなかった。

お客さんは終始無反応で、一番後ろのテンガロンハットの太った女性のお客さんから「芸人かえれ〜やめろ〜」とヤジられた。

この時もまた大地が彼を救いにあらわれた。
心配になって見に来てくれた相方とのミニコントだけがうけた。
その後、回を重ねるうちに大谷のDJで客も踊りだし、そこでのやりとりで大地がエアギターを始めた。
それが翌年の「エアギター世界一」につながっていく。

エアギター世界一。本当に凄いしあれで一時期ちゃんとテレビにでれた。芸人つづけれた。
いつもそうだな。もうダメかな。もう終わりかなって時、いつもいつもヒーローみたいに大地さんが助けてくれる
あん時、先生に言われた”手おくれ”かって時に必ず俺を助けに来てくれる。大地さんはお笑いのヒーローだ(笑)。
本当に、本当ね。
俺やっぱり大地のファンなんだよ。14歳の時から大地のファン

2008年解散を真剣に考えた大谷は知り合いの構成作家大井洋一に相談すると「あんたくやしくないのか!って。あんたこのまま終わっていいのか」と怒られた。

それで大井ちゃんと話してね。
俺が大地を世界一面白く紹介すればいいんだと。
おまえの面白いところを一番うまく引き出すのが俺なんだって。それでまた続けることにした。

ヒーローは必ず現れる。
大谷にとって大地がヒーローであるのと同じように大地にとって大谷がヒーローだ。

(大地から大谷へ)
大谷さんが「もしオレが芸人やめるって言ったらどうする?」って聞いてきたんです。
で、プライド高いオレはかっこつけて、「すぐに新しい相方見つけるわ」って言ったんです。
ごめんなさい…それはウソです。正直言うとそんな気全くありませんでした。
オレは大谷さんじゃないとムリって言うのが自分がよく知ってます。
他の人じゃムリなんです。

大地に同じ問いをされたら、大谷はどう答えるのだろうか。

“一緒にやめる”違う。
俺の答えは“でもやる”だよ。
どんな手を使ってもオマエとお笑いをやる。どんなにみじめで、どんなに笑われても、プライドなんかかなぐり捨てて、泣いて、土下座して頭下げて下げて下げて。
それでも一緒にやろう”って言う。
お前じゃなきゃとっくの昔にやめてたわ。
ずーっとダイノジやってたいわ。
これが俺の夢。

ダイノジは2010年、『めちゃイケ』の最終オーディションに残ったり、その後も『オモバカ』などでバラエティ番組でも活躍しテレビ界に爪痕を残した。
彼らにまた何度目かのチャンスが訪れている。


【関連】
ダイノジ大谷ノブ彦の日記「不良芸人日記」
  ・2009年11月 6日「不良芸人日記」
  ・2010年12月24日「強い気持ち強い愛」
  ・2011年3月 4日「母子家庭パンク」
お願いランキング「ダイノジ芸人交換日記」書きおこし(4/25)-Sugarsの日記

*1:めちゃイケ』オーディションでの白紙の手紙で告白している。

*2:「強い気持ち強い愛」

*3:「不良芸人日記」

*4:「母子家庭パンク」

*5:「芸人交換日記」

*6:「母子家庭パンク」

*7:「母子家庭パンク」

*8:「強い気持ち強い愛」

*9:「不良芸人日記」