ケータイ小説の起源(5) 電話というメディア

今回のエントリーは

  • ケータイ小説はケータイメール文化圏から生まれたもの。
  • だから、同人小説とかオンライン小説とは、ちょっと違う背景を持っている
  • 読者はメールと同じ画面でケータイ小説を読んでいる。 作家と読者の関係は、活字時代とはちょっと違う。

という考察です。

長電話

最近の「ケータイ依存症」は、長電話で話すのではなくて、「メール依存症」が問題になっているのかな?
90年代は「電話依存症」というのが問題になっていた。 要するに「長電話」のこと


とある1997年作成の用語集の項目「携帯電話の文化」より

PHSは外出時に使えるコードレス電話として開発されたが、実際は安価な携帯電話として受容され、最近は十代の若者が長電話するための道具として特化しつつある。ポケベルはかつて専ら業務用だったが、90年代に十代の若者に普及し、数字や文字をやりとりしながらコミュニケーションを楽しむ文化が生まれた。参考:中村功他著『情報生活とメディア』北樹出版、1997年。(中村功)
http://www.soc.toyo.ac.jp/~nakamura/yougo.html


う〜む、たかだか10数年前のことを明治時代のことと同じ調子で説明するのも、なんだかな〜、と思いつつ (苦笑
80年代ころから、電話の新しい機能を使った商売が流行りだした。 テレクラ、パーティーライン、ツーショットダイアルダイヤルQ2等等、いろいろ社会問題にもなった。
電話というのは「耳元でささやく」という、なんちゅうかエロいメディアという側面が有るからなぁ。


ちなみに宮台真司は、この手の問題の研究というかフィールドワークで有名になった、という印象がある。


そういう時代に、さっき会ったばかりの友人・恋人と電話でだらだらと何時間もおしゃべりを続ける不思議な「病気」が話題になった。
1998年に、こんな本が出版されていた。(今世紀になって文庫化)



面と向かっては話しにくいことでも電話なら話しやすいのは何故か? という研究を紹介。
「命の電話」が有効な理由なども興味深い。

電話は対面に比べて視覚的情報が欠如しており、それがさまざまなコミュニケーション上の違いをもたらすことが検討されてきた。


ここでラター(Rutter,1987)はキューレスネス(cuelessnes)モデルという考えを提出している。視覚的情報や物理的存在が欠如した状態はキューレス(手がかり欠如)の状態であり、これが心理的距離に影響を与える(時には遠ざけ、時には近づける)。


その結果、コミュニケーション内容に影響を与え、それが一方ではコミュニケーションスタイルに、他方でコミュニケーションの結果に影響する、という図式だ。


たとえば、業務的場面では電話が心理的距離を遠ざけるために、ビジネスライクな内容になり、強者がより有利な交渉結果を得やすい、などということが起こる。 逆に「命の電話」などではキューレスが匿名性を生むことで、心理的近さを招き、パーソナルな内容につながるという。


電話は対面よりキューレスなメディアであるが、携帯メールは電話よりさらにキューレスなメディアである。そのキューレスさがどのような影響もたらすのか、ということになる。


たとえば、面と向かっては話しにくいことでも電話なら話しやすい、ということがある。ジークマン(Siegman,1978)の実験では、話題があたりさわりのないものだと対面条件の方が発話量が多いが、個人的内容の時には非対面条件の方が発話量が多くなるという。


あるいは飯塚ら(1985)によると、性に関するような当惑的話題では、対面より非対面条件の方が発話量が多くなるという。


顔が見えないと恥ずかしさが薄れるために、個人的な話題や話しにくいことも話しやすいのである。電話よりさらにキューレスな携帯メディアでは、この傾向は強まるはずである。


中村功「携帯携帯メールの人間関係」東京大学社会情報研究所編『日本人の情報行動2000』東京大学出版会 より
http://www.soc.toyo.ac.jp/~nakamura/email.htm
(改行は引用者)

タイトルを見て解るように、実はこれは2000年のメールの研究です。
このとき既に「大学生の携帯電話利用を考えた場合、音声で話すより、むしろ携帯メールのやりとりのほうが活発であるといえる。」という状況だった。
長電話がメール中毒に変化していったのかな? このころからケータイ依存症が問題となる時代になった。

ケータイメール

こんな大学生の言葉が紹介されている。
「会ってとか、電話とかで言えないこともメールで簡単に自分の気持ちを伝えられるようになったとこもあり、喧嘩とかも増えたりしたけど、よかったことの方が多い。」(2年、女)


ケータイメールの特徴をまとめると

  • まだあまり親しくない間柄におけるコミュニケーションが促進される。
  • 面と向かっては言いにくい、ちょっとした感謝や励ましの言葉を簡単にかけられるから交友が深まりやすい側面がある。
  • あまり親しくない関係で、近づきすぎてしまう危険性がある。突然人生相談されたりとか
  • 携帯メールでは相手の反応が伝わりにくく、コミュニケーションの齟齬が起きやすい。
  • 送信されたメールが即時的に相手に届くと考えられているため、返信の遅れもメッセージになってしまう。

携帯電話の画面は事務的な用件や軽いコミュニケーションのツールでもあるが、よりパーソナルな気持ちを伝え合うメディアにも成っているようだ。



2004年頃「ぱどタウン」を初めとする小中学生向けサイトが話題となった。 古参のネットユーザーにとって衝撃だったのは、そこではユーザーがケータイそのままの流儀で振る舞っていたことだった。
ネットの掲示板だと「多対多」のコミュニケーションであるというのは大前提だけど、ケータイの文化圏では必ずしもそうではなかった。


ここあたりの事情についての、興味深い潜入記(?)

  • ぱど厨になってみる」(読冊日記)

http://homepage3.nifty.com/kazano/200406b.html#14_t1

彼らは、お互いに相手の掲示板に書き込むことによって会話を交わしているのだった! なんと面倒なことを、と思わず呆れてしまったのだが、これはつまりケータイメールによるコミュニケーションの流儀をそのまま掲示板に持ち込んだものであり、彼らにとってはこのやり方が自然なのかもしれない。


 このような作法がある以上、ひとつの掲示板に複数のゲストが書き込みをしていたとしても、ゲスト同士で会話をすることはありえない。あくまでオーナーとゲストという一対一のコミュニケーションが複数並行しているだけなのである。

  • ぱど厨になってみる」より「"つまり彼らは、お互いに相手の掲示板に書き込むことによって会話を交わしている*"」について(香雪ジャーナル)

http://d.hatena.ne.jp/yukatti/20040616#p1
2001年頃の楽天広場に、そういう作法があったという報告です。

現在のケータイ小説の読者は、2004年に小中学生だった世代。つまり「ぱど厨」世代が中心だ。


なんか、話がずれてきたような気もするが……


ケータイ小説の読者は、プロの作家先生の作品を、金を払って自分のケータイで読んでいるわけじゃぁない。 無料サイトで、同年代の素人が「実話」として書いたものとして読んでいる。  
作家と読者の関係は、活字時代とはちょっと違うはず。 心理的距離は、おそらくものすごく近い。
読者は、メールと同じ画面でケータイ小説を読んでいるのだから、なおさらだ。