CLANNAD AFTER STORY 第10話の「牛乳Tシャツ」、その謎をここに解明しました!

京アニCLANNADの服装――特に朋也くんの服装については、これはもう第一期の頃から、私たち視聴者の常識を遥かに越えた幾何学的で形而上学的なデザインを幾度も披露し、その度に私たち視聴者はそれを様々手段で読解し・解釈するという、それはもう海岸の砂粒がいくつあるのかを数えるような、あるいは遺跡発掘していたら水晶ドクロを発見してしまった考古学者かのような、徒労にも無駄にも虚しさにも似たその工程を、飽きるほど踏んできたのです。
今回、このアフターストーリー第10話において、その系譜――朋也くんの服装――の後継が大きな主張を伴って表れました。私たち視聴者の目をなんら憚ることなく、シリアスな場面なのに、画面の中心にでかでかと、それも長い時間に渡って、己を主張するかのように――そう、視聴者が決して無視できないように、大胆にも表れた「牛乳Tシャツ」。
そしてそれは、その主張が大胆であるからこそ――視聴者が決して無視できないくらい大胆に主張していたからこそ――私たちは(てゆうか僕は)、そこに意味があるのではないかと勘繰ってしまい、そしてその意味を見出さなくては済まないのです。これほど大きなモノを、ただその文言がネタ・ギャグっぽいから”程度の”理由で、「ネタだ・ギャグだ」と唾棄してしまう、それほど愚かしいことがどこにあろうか! ネタ・ギャグという理解を示すにも、ネタ・ギャグであるという理由を、必然を、その構成に見い出さなくては、それは音が左耳から入って右耳から出て行くのと同じ様なもの、映像が左目から入って右目から出て行くのと変わらないのです!
ということで、やはりここは三度のメシより京アニ作品の謎を牽強付会することが大好きな僕が、主に僕のために、真のこじつけを行わなくてはならないでしょう。
さて、この意匠深い「牛乳Tシャツ」の謎。前置きが無駄に大仰なのでいささか煽りすぎな感じもしますが、それは意外とありふれていて、斬新な意味も持たず、なるほど皆様はがっかりしてしまうかもしれないものでした。こじつけといいながら、人類滅亡へのカウントダウンも地底人や宇宙人の侵略もはじまっていません。しかし京アニ厨の京アニ作品解釈としては、これこそが健全足る姿でしょう。



まずこれが、どこの、どんな場面かということを思い出さなくてはなりません。
進学か就職か、その選択をしないまま高校を卒業し、宙ぶらりん状態になった朋也くんが、居候先の古河家から「ウチで働かないか?」と誘われ、それを承諾するという場面です。
ここはネタでもギャグでもなく、朋也の進路に深く関わり、彼自身もそれを自覚しているという、真面目でシリアスな場面なのですが、しかしながら彼の服装が「牛乳Tシャツ」で、その文字が画面にでかでかと主張している。このことに、私たち視聴者は「おいおい真面目なシーンなのに牛乳ww どんなネタだww 京アニ自重しろww」などと思ってしまう、そういった感想を抱いてしまうのではないでしょうか(事実僕も初回視聴時はまさにそういった感想で、内容がふわふわとしか頭の中に入ってきませんでした)。
しかし、これはコントラスト』なのです。
Aパート終盤の、芳野さんに「働かせてください」とお願いしたあの場面。ならびにその時の朋也くん。
そことの強烈な対比になっているのです。
芳野さんにお願いした時は、「自立したい」という指向のもと、「自分の意思(決断)」で、「自分から(働かせてください)」の行動、そして結果的に仕事内容も「大変な仕事」だった。
逆に、牛乳Tシャツの場面は、「特に何も指向していない」取りあえず的な状態で、「深い動機も目的も無く」、「誘われるがまま」に決める、そして結果的に仕事内容も家事手伝いのようなものと杏に告げるように「(比較的)楽なもの」だった。
そのコントラストを高めるのが牛乳Tシャツです。これを「ネタかよww」みたいに思ってしまうのは、その観点からは正確。というより、そうする為にわざわざこの場面でこんなTシャツ着せたのでしょう。古河パンのお手伝いというのは真剣な仕事に比べたら全然気楽なもので、朋也の決断も全然真剣には程遠い、流されるがまま・モラトリアムの延長線上のもので(表情もそれを際立たせるでしょう)、所詮ここでの彼は後のAパート終わりに比べれば「ネタ・ギャグ」みたいなものだというアイロニカルな視線がそこに含まれていたのです。古河パンで働くことを決めたとき、そこは真面目でシリアスなシーンだと思っていたけれど、実は、相対的には”そうではなかった”、そのことが牛乳Tシャツとそれを見て生じた違和に含められていたのです。真剣に仕事には程遠い、大人になるために足掻いている子供というわけでもない、そこはまだ入り口ですらないということを、強調していたのです(実際、原作での朋也くんは(てゆうか来週あたりのお話で出てくるかもしれないけど)古河パンでの仕事と電気工の仕事を比較して、前者がどれだけ守られた環境だったかを認識しています)。


えっと、なぜ文言が『牛乳』かってところは、『母乳』との対比で、偽の母性を牛乳と比喩する、つまり母親の居ない朋也くんに欠けている母性から来る様々なものを、本当の(血縁的な)母親(母乳)ではないけれど与えてくれる古河家(牛乳)、みたいなことを思ったのだけど。そしてそれは古河家の庇護の下に朋也くんがこの時点ではまだいる(まだ乳飲み子である)ということの象徴でもある、みたいな。上もまあアレですが、さすがにこっちは牽強付会すぎる気もするw けどまあ京アニ厨的にはそれっぽい(必然っぽい)意味が見出すのが目的なんだから取りあえずいいよね!(えー)



ちなみに、芳野さんに「仕事させてくれ」と頼みに行ったときに朋也が着ていたシャツに書かれた言葉は『NEUE WELLE』。ドイツ語で『新しい波』という意味。『牛乳』との対比的なシリアスさが、そこには分有されています。