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2009-03-22

京アニCLANNADと『背中』

京都アニメーション版のCLANNADにおいては、『背中』が非常に印象深かったです。最後が『背中』だったこと、これが本当、色々あって、どうしようもなく素晴らしいことに思えました。『背中』の印象深さ、これは原作においてもそうですね。パッケージ裏、あるいは公式サイトであった、あの、坂道を朋也と渚ふたりが並んで歩いていく絵。

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アニメですと、これ。「俺たちは登り始める。この長い、長い、坂道を」。第一話以外にも、回想という形で幾度か登場していました。

『背中』の絵が示唆するもの。

実は、第一期「CLANNAD」の最後の絵(番外編「夏休みの出来事」最後の絵)も、第二期「CLANNAD AFTER STORY」の最後の絵(番外編「一年前の出来事」)も、『背中』の絵でした。

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最後が、目に見える最後が、わたしたちがCLANNADに触れるラストが、『背中』であるということ。これが何を示唆するか。

作品に照らしてみれば、アフターストーリーにおける分岐点となっているあの「坂道での渚の背中」が象徴的でしょう。

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第16話で「出会わなければよかった」と見送り、第22話(最終回)で「渚ぁー!!」と声を掛ける、あの背中。原作では、ここでは分かりやすく「選択肢」が登場しています(2周目以降)。渚を「呼ぶ/呼ばない」という選択肢で、前者を選べば二つ目のアフターストーリー(アニメ最終回)、後者を選べば一つ目のアフターストーリー(アニメ17〜21話)となっています。この『背中』に声を掛けるか否かで、物語が変わっていく。それは、この場の朋也くんの心象どおり、一番最初の坂道で声を掛けるか否かの敷衍でもあるでしょう。「声を掛ける」。出会えば、渚を喪うかもしれない、渚にとっては、自分自身を喪うことになるかもしれない。それはお互いに悲しいしキツイし嫌だし大変だしツライこと。出会った先には、傷や痛みが待っているかもしれない――というか、確実に待っている。それでも、それでもなお、この立ち止まっている『背中』に声を掛けるか、否か。


それはアフターストーリー最後の絵にも表れているでしょう。

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秋生の「動き出さなきゃ永遠に赤の他人だ」というセリフがありましたが、それの体現のような絵でもあるでしょう。あのようなところにあのような形であからさまに人為的・作為的に置かれたくす玉の紐を引くというのは、ある意味では「他者と出会う」ということと同じでしょう。紐を引いたら、何が起きるか分からない、周りの生徒が言うように、実は水とか入っててそれが落ちてくるかもしれない。つまり”悪意”がそこにあるかもしれない。そういうところから、他の誰もが紐を引きませんが、渚は、その持ち前の擦れてなさからか、あるいは鈍感さからか、もしくは、新学年で周囲に話しかけたいのに話しかけられない、その自己閉塞から脱したい想いからか、とにかく、紐を引くのです。

けれど、その先には「タライ」という、悪意のほどは分かりませんけど、いずれにせよ自身に「傷/痛み」を負わせる脅威が待っていて、それを渚はくらってしまう。「他者と出会う」というのは、必然的に大なり小なりの傷や痛みが孕まれているもの――最低でも、そのリスクはあるもの――であって、このタライはまさに、その顕現ともいえるでしょう。他人に話しかけたら。「それ知ってます。だんご大家族です」と話しかけたら。「ウルトラの母」と話しかけたら。はたして、それが何の危険もなく受け入れてもらえるか。渚が妄想で抱いたように、皆が笑ってくれたりするのか。本当は受け入れられないのではないか。危険があるのではないか。危害を加えられるのではないか。拒絶されるのではないか、断られるのではないか、嫌な顔をされるのではないか、その先に、痛みがやってくるのではないか、傷が待っているのではないか。

それはつまり、あの坂道で、声をかけたら傷/痛みが待っているのではないかという、朋也くんと同じ。

(第16話にて)声を掛けなかった朋也くんの前から、渚の『背中』は遠ざかっていってしまいます。

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「出会わなければよかった」という、彼の独白と共に。言葉通り、「出会わなかった」ことになる。立ち去っていく背中は、絵通り、「出会わなかった」背中になる。

それに対し、番外編の最後の絵、その『背中』は、”これから出会う”最初の一歩としての、立ち止まっている背中です。まだ朋也くんと出会っていない。そもそも、くす玉というのは、人間じゃありませんから、まだ他者と出会っていない、といえるでしょう。他者の上澄みと出会っているようなもの。それは「ドリフみたい」という形容が何よりも示しているように、「形式」的な、本質の手前であるということが、これには含まれているでしょう。傷/痛みは、タライという、たかだかが知れているものだし、奥にある他者も、ただの言葉。

その先の、本当の出会い――それは一年後の坂道だったり、直後の保健室だったり――は”まだ”、まだですが、『この先の困難に負けず頑張れ』という言葉が、タライという傷/痛みの向こうにあるものが、この先の出会いへと足を運ばせてくれる。つまり。この先に向かう、はじまりものとしての『背中』が、ここにある。


それは同時に、わたしたち視聴者からすれば、遠ざかってしまうもの、近づけないもの、終わってしまうものとしての『背中』でもあるでしょう。

第一期最後の絵。

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朋也「どこに行きたい」

渚「ど、どこでもいいです!その……朋也くんと一緒なら」

渚「ずっと一緒です……」

このやりとりの後、ふたりは前へ歩いていきますが、カメラはそれを追わず空の方へと動いていき、そしてお話は終わります。

僕はかつて、これについて「視聴者にとっての終わりを描いている」と思ったのですが、今でもそう思うところは多いです。「ずっと一緒です」と言った彼らは、「どこでも」に向けて歩いていくのですが、カメラはそれを追いません。その先を決して見せてくれません。「どこでも」というのは、わたしたちにとっても知らない「どこか」かもしれないのに、その先を追わない以上、わたしたちに知る由もなく。カメラがそれを追わないのだから、わたしたちがその「どこか」がどこなのか知る由もなく。わたしたちは彼ら・彼女らと「ずっと一緒」にはいられない。つまり。ここで言う「ずっと一緒」に、わたしたち視聴者は含まれて居ない。彼ら・彼女らは、わたしたちを連れずに、何処か分からないところに、ふたりずっと一緒で行ってしまったのです。その『背中』だけを残して。


『背中』を向けられると、その『先』を想起させられます。その先に道がある。どこかある。何かある。

単純に、視覚レベルで「離れていく」ことも想起させられます。わたしたちの視覚でもある、カメラから離れていく。わたしたちを連れずに。彼らは何処かに行く。わたしたちも知らないかもしれない場所に。

その表情が見えないことも、その「離れていく」感をより加速させます。前者が肉体的に離れていくならば、表情は心理的に離れていく。どんな顔をしているのか。彼らはどんな感情を抱いて、そのわたしたちにとっての未知に向かおうというのか。まるで分からない。

『背中』を見せられることにより、向かっていく先が存在し、そこに彼・彼女が向かっていくことが、そして同時にそれは、わたしたちから「離れていく」ことでもあることが、予期させられる。

だからこそ、一期も、二期も、「おわり」が「背中」であることに、強い意味を感じるのです。


ただし。これはどちらにもいえることで、かつ、どちらにも言うことで、新たな意味を見出せる。

たとえば、「夏休みの出来事」の離れていく背中は、アフターストーリーに繋がる背中を示唆している。朋也と渚が「ずっと一緒」の、その時点のわたしたちには知りえない「どこか」という、アフターストーリーに通じている背中。それは「夏休みの出来事」というタイトルどおり、ここから先もある。

そして「一年前の出来事」の背中も、同じ。これが、この経験が、この出会いが、未来に繋がっていく。

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原作(光見守る坂道で)において、体育館で紐を引くだったのが、校門に変わっていたのが、それに対する見た目レベルでの補足にもなるでしょう。このパッと見「ゲート」のような、校門の飾り。いやそもそも校門というのからしてゲートなのですが。これは見た目どおりでよいのだと思います。他者という未知(くす玉)の中に潜むリスク(タライ)と、その奥の他者自身(文章)。そこに挑むということの喜び、楽しみ(紙ふぶき)。あの渚が、偶発的であれ、ここは”まだ”の地点であれ、その最初の一歩に立てたことは、入り口(ゲート)に立てたということ。言うなれば「楽しいことは、これからはじまりますよ(最終回ラストのセリフ)」の、”これから”に向かう場所、その地点に立てたということ。まだ歩き出していないこの背中は、しかし、その地点には立てている。

そしてこの背中は、一年後の背中に通じていく。

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視聴者にとってこの『背中』はどうかといえば、同じくでもあるでしょう。これは一年後の背中に通じる背中。では一年後の背中はどこに通じるか。それはここまで45回に渡り描かれてきた、このCLANNADに繋がっていく。

『背中』の先には道がある。

わたしたちにとっては、その先は「知っている」こと。この背中の行き着く先は知っている。これは円環を閉じることにより、終わらせている、とも見て取れるでしょう。てゆうか僕はそう取りました。第一期のときは、離れていく、知らないところに去っていく朋也と渚だと思った。けれど今回は違う。この背中の向かう先がどこなのか、わたしたちは知っている。けれど知っているだけであり、それは実は「過去」である。僕らにとっては。だからこそ、終わりを強く想起します。最後が最初に繋がるという丸い輪、もう見るものがないという意味での終わり。つまり。わたしたちは、CLANNAD終わって、これからCLANNADを見ない生活を送るわけだけれど、彼女たちは、永遠にCLANNADの世界にいる。どうしようもなく離れてしまう。どう足掻いても届かない。もう遠ざかることもなく知らないどこかに向かうこともないけれども、それは翻ると、知ってるどこかにしか行けないということ、つまり終わってしまったということ。それこそ、言うなれば、「ここは終わってしまった世界」。円環を閉じることで、この背中は永遠にCLANNADを繰り返す背中となり、だから、僕はこのアニメの最後がまた『背中』であることが、どうしようもなく素晴らしい終わり方だと思うのです。

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