YouTubeより アルティメット・ウォリアーvsリック・ルード戦

YouTube - Rick Rude Vs Ultimate Warrior


レッスルマニアV」のインターコンチネンタル選手権試合。
CS/CATVでWWE関連番組が放送され、DVDも販売されるようになったことから、日本でも手軽にWWEの映像を見られるようになりましたが、それ以前にWorld Wrestling Federationの映像を見ようと思ったら次のような手段しかありませんでした。

  • 日本語版VHSテープを購入する、またはレンタルビデオ店で借りる
  • コロシアムビデオの輸入ものを購入する(プロレス専門ショップまたは通販で入手)
  • 独立系UHFや地方局でたまに放送されていたものを見る(1年以上遅い)
  • WOWOWで放送されていたものを見る(何度か放送したものの長続きしなかった)

私は地方在住だったので(今も地方在住ですが)もっぱらレンタルでした。
当時の日本語版はだいたい実況・土居壮、解説・斎藤文彦だったのですが、二人の軽妙なトークはWorld Wrestling Federationの雰囲気によくマッチしていたので、試合そのものと喋りの両面で楽しめるものになっていました。
一部の作品では別の人が解説していたのですが、それを見た時には「やっぱり土居・斎藤じゃなきゃ面白さ半減だな」と思ったものです。
(ター山とWCWワールドワイドのゲロ田中は半減どころか足を引っ張っているくらいでした)


それはさておき、レンタルは基本的に取り扱い店舗が少ないのですが、置いてある店でもシリーズ全作品が揃っているようなところはめったにありませんでした。
大抵「レッスルマニア1〜4」は揃っていたのですが、以降のレッスルマニアや「サマースラム」「サバイバーシリーズ」「ロイヤルランボー」などの品揃えはまちまちで、なぜか「レッスルマニア5」だけは1店でしか見たことがありません。
そして、そのビデオに収められていた中のひとつがこの試合です。


インターコンチネンタル王者はアルティメット・ウォリアー
前年の「サマースラム」でホンキートンクマンを秒殺してタイトルを奪取しました。
(その試合映像もありますので興味のある方は検索してみてください)
荒っぽい(雑な)レスラーでしたが、当時はまさに「日の出の勢い」という表現がピッタリ嵌っていました。
現在でいえばジョン・シナのように将来のスター候補として大プッシュされていたのですが、この頃はまだ一介の若手レスラーとしか見られていなかったので、実力者ルードと名物マネージャのボビー・ヒーナンとの抗争を展開して格を上げようとしていたのだと思われます。


挑戦者は“ラビッシング”リック・ルード
日本語解説では「ヌルヌル男」と呼ばれていたのですが、この映像を見ればその意味はお分かり頂けるかと思います。
なにしろ定番技の一つに「自分の急所打ち」があったくらいですから、まさに「おバカ」としか言いようがありませんでした。
この頃はパフォーマンス全開の典型的なショーマンスタイルだったのですが、その後徐々にパフォーマンスが控え目になり、WCWに移籍してからは真っ当な試合運びの合間にグラインド(腰クネ)を見せる程度になりました。
WCWに所属していた頃には新日本プロレスのマットに上がり、意外な実力者ぶりを発揮して日本のファンを驚かせました。
その前に全日本プロレスにも参戦したのですが、タッグマッチのタッチワークがとんでもなく下手だったのが理由なのかどうかは分かりませんが、1シリーズだけの参戦に留まりました。
しかし、実際には見た目からは想像もつかないくらいタフで、少ない技で試合を組み立てる巧さも併せ持っていたので、シングルマッチが組まれることが多かった新日本プロレスでは実力を発揮することができました。


荒削りのウォリアーを引き立てるのは難しい役目でしたが、ルードは見事にこなしました。
この抗争を通じてウォリアーは次代のエース候補にまで格を上げ、翌年の「レッスルマニア6」でホーガンを倒してチャンピオンに登り詰めたのです。
ウォリアーと良い試合を見せられるレスラーはそう多くはありません。
この頃だとアーン・アンダーソン、テッド・デビアスランディ・サベージがいましたが、アンダーソンはタッグ屋ですし、デビアスは受けが柔らかすぎて迫力を引き出せませんし、サベージはホーガンと抗争していました。
アンドレ・ザ・ジャイアントとも試合をしていますが、アンドレは既に膝がガタガタでまともに動ず、ウォリアーにコテンパンにやられていたという印象しかありません。
ウォリアーの力強さを引き出すことができ、しかも連日の対戦にも耐えられる打たれ強さを有していたのは、おそらくルードくらいしかいなかったと思われます。
レッスルマニア5」の試合はルードが反則絡みで勝利し、「サマースラム」まで抗争が引っ張られることになります。
「サマースラム」のIC戦は、ロディ・パイパーの介入があったものの、それまではなかなかいい試合でした。
ウォリアーは抗争を通じて確実に成長しました。
ただ、この抗争はルードが引っ張っていたのに、ウォリアーが勘違いして天狗になってしまったのが惜しまれます。


ルードがあれだけの肉体美を維持する為に、相当無理を重ねてきたことは間違いありません。
セミリタイア状態になった頃には、筋肉増強剤や鎮痛剤の副作用で体はボロボロだったようです。
1999年4月20日、心臓発作で亡くなりました。享年40歳。


ウォリアーはまだ健在ですが、法外なギャラを要求するといわれているので、今後レスラーとしてリングに上がることはないと思われます。
バックステージでも浮いていたそうで、今でも親交のある現役選手はスティングくらいしか知られていません。
現在はなぜか極右運動家として講演活動などを行っているそうです。