新刊:『「ゆとり」批判はどうつくられたのか: 世代論を解きほぐす』

しばらくまえの いただきもの。
昨年後半から、バタバタしすぎていて、こういったことさえ、おろそかに。
反省。

「ゆとり」批判はどうつくられたのか: 世代論を解きほぐす

「ゆとり」批判はどうつくられたのか: 世代論を解きほぐす



【関連文献】

「若者論」を疑え! (宝島社新書 265)

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「ニート」って言うな! (光文社新書)

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 ↓ こういった御仁たちは、議論の非科学性に責任をもつことはない。本質主義的なバッシングを、実にあやしげな「データ」で立証したと喧伝して、大衆を洗脳した。
 実は、右派だけではなく、大学人には、こういったこまったさんが、すくなからずいる。

新版 分数ができない大学生 (ちくま文庫)

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【2015/02/27付記】

『「ゆとり」批判はどうつくられたのか 世代論を解きほぐす』 ジャーナリスト・永井多恵子
http://www.sankei.com/life/news/141213/lif1412130022-n2.html
(2/2ページ)

〔……〕
 では、「ゆとり教育なるもの」は全てネガティブなのだろうか?

 そうではない、というのが本著の言わんとするところだ。この21世紀初めに教育を受けた世代が「ゆとり世代」として忌み嫌われ、世代批判にさらされている理不尽を正そうとしているのだ。

 事実、12年、国際学力調査で「脱ゆとり教育」の成果として学力が回復したという報道は真実なのか、むしろ、調査対象となった1996年生まれの15歳はゆとり教育を受けてきた世代ではなかったか、という重要な指摘にも注目したい。(佐藤博志、岡本智周著/太郎次郎社エディタス・1700円+税)

 ↑ この記事は、〔あえてかくが〕あの産経新聞掲載の記事である。
  産経新聞の基本的論調は、つぎのような見解のはずであり、ネトウヨとか一部の大学人などと一緒に「ゆとり教育」をはげしく攻撃してきたのだ。
 教育社会学周辺の研究者などから、こういった「ゆとり」バッシングの根拠のあやしさは、再三指摘されてきたのに、一向にみみをかさなかった典型的媒体にも、自浄作用がはたらきはじめたのだろうか? 産経新聞の公教育観が、そうあったりとすっかりかわったとは、到底おもえないのだが。
 そもそも、「ゆとり教育」は、民主党政権そのものとは、全然関係がない。右派が攻撃した日教組など教職員の運動とも無関係だ。
 戦後体制のうち、恣意的に現象をえらびだしては、自分が気にいらない、ないし利害対立している標的をたたくために援用する。かれらが くりかえす「比較」に、科学的なところなど、カケラもなさそうだ。

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http://www.sankei.com/column/news/141118/clm1411180002-n1.html
2014.11.18 05:03
【主張】
大学入試改革 「ゆとり」失敗繰り返すな

 大学入試改革が検討されている。中央教育審議会は、国立大学などの1次試験に当たる大学入試センター試験を廃止し、新たなテストの導入などを盛り込んだ答申案をまとめた。
 知識偏重を改め、思考力や表現力重視の入試に変えようとしている。方向性は理解できるが、同様の狙いで学力低下を招いた「ゆとり教育」の二の舞いを演じないよう十分な検討が必要だ。
 政府の教育再生実行会議が「一発勝負、1点刻み」の入試を見直すよう提言したのを受け、中教審が具体策を検討している。
 答申案ではセンター試験に代わる新たな「学力評価テスト(仮称)」を設け、出題内容も複数教科を組み合わせた総合問題などで、知識の活用力を重視するよう提案した。各大学の2次試験も筆記試験だけでなく、高校時代の社会活動を評価するなど、選抜方法の工夫を求めている。
 こうした多様な尺度で意欲ある学生を選抜しようという入試は、米国を参考にしたものだろう。しかし、米国の大学教育は、勉強しなくては授業についていけない厳しい教育内容が伴っている。
 日本は、受験勉強はしても、入学後に勉強しなくてもすむ甘い大学教育が改善されていない。中教審の資料でも、授業の予習などに充てる時間が1週間当たり11時間以上の学生は米国で約6割を占めるのに、日本はわずか約15%にすぎない実態が紹介されている。
 大学入試は、制度を触る度に悪くなるという批判がある。少子化で受験人口が減り大学に入りやすくなっている現状で、「学力不問」が強まり、面接でのPRばかりうまい学生が増えるような「入試改悪」になる心配はないか。
 入試改革は5、6年先の実施を目指しているが、慎重に議論を進めるべきだろう。各大学も、入学後に学生をいかに勉強させ鍛えるか、指導体制や教育内容の改善を先に考えてもらいたい。
 中教審は大学入試だけでなく、高校の教育を含めた「一体的改革」を求め、高校での「基礎学力テスト(仮称)」の導入を盛り込んでいる。こうした学力向上につながる施策を優先してほしい。
 変化の激しい時代に国内外で活躍できる人材育成を進める上でも、高校、大学を通して、基礎学力を固め、教養を高める改革とすべきだ。

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2014.9.27 07:00
【日本人の座標軸(9)】
利己欲、大衆迎合ゆとり教育、欲望の肥大化…「日本の自殺」から学ぶ4つの教訓
http://www.sankei.com/west/news/140927/wst1409270007-n1.html
(1/2ページ)【自殺問題】


 神戸に単身赴任していた昭和50年頃のことである。帰宅途中にふらっと立ち寄った書店で、「グループ1984年」という匿名グループが執筆している「日本の自殺」と題した論文が掲載された『文藝春秋』に出会う幸せに恵まれた。以下はその要点と感想である。

 《過去6千年間における21の文明について、栄枯盛衰の歴史のドラマを比較研究した。諸文明の没落の原因を探り求めて、われわれの到達した結論は、あらゆる文明が外からの攻撃によってではなく、内部からの社会的崩壊によって破滅するという基本的命題であった。トインビーによれば、諸文明の没落は宿命的、決定論的なものでもなければ、天災や外敵の侵入などの災害によるものでもない。それは根本的には「魂の分裂」と「社会の崩壊」による「自己決定能力の喪失」こそにある》

 要するに、過去の没落した文明のすべては、社会の衰弱と内部崩壊を通じての“自殺”だったというのである。

 《諸文明没落の歴史からの第1の教訓は、国民が狭い利己的な欲の追求に没頭して、自らのエゴを自制することを忘れるとき、経済社会は自壊していく以外にないということである》

 平成22年9月、東京で死後3年たち、ミイラ化した死体が家庭から見つかる事件が相次いだ。家族は「お金がかかるから弔いはしない。年金がもらえなくなるから死亡届を出さなかった」と答えたと言う。「第1の教訓」の顕著な例である。

 《第2の教訓は、国際的にせよ、国内的にせよ、国民が自らのことは自らの力で解決するという自立の精神と気概を失うとき、その国家社会は滅亡するほかないということである。福祉の代償の恐ろしさはまさにこの点にある。エリートが精神の貴族主義を失って大衆迎合主義に走るとき、その国は滅ぶということである。およそ指導者は指導者たることの誇りと責任とをもって言うべきことは言い、なすべきことはなさねばならない》

 鳩山、菅、野田と続いた民主党政権はこのとおりであった。いま振り返ってみると全く、ひどかった。何も決めないし、決められなかった。この様子を、かつての野田首相からとって“のだる”という流行語が若者の間で流行したものだ。〔後半略〕

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