Hatena::ブログ(Diary)

MA_Oatsの日記

2010-03-03 2chは「大手」メディアになったか

2chサーバーが落ち、一部民放では大々的に報じられた。

とかく在来メディアから敵視されがちな2chがここまで注目を集めたのも、そして「落ちた」こと自体も、確かに「事件」ではあったのだと思う。

ただ、えてして世間の注目を集めるようになった次点で、それは「新しい」メディアとはいえず、後からみればそれが衰退のはじまりであったというメディアは少なくない。2chもそうなるのかもしれないな、と感じた。

一方で、下記のような「自らに起きたことをネタにする」力があれば、まだ大丈夫かとも思うが……。

http://b.hatena.ne.jp/articles/201003/903

2009-12-17

不幸な誤解

00:29

最近忙しくて増田を見ている暇はなかなかないのだが、ちょっと気になったのがコレ。

http://anond.hatelabo.jp/20091209162626

まあ手際よくまとまっている。タイトルから文章の内容は予測しにくいが。

これも「失われた十年」(どうも最近の様子を見ている限り二十年くらいになりそうだが)によって変わってしまい、もうもう戻らない事象のひとつなのかなぁと感じる。

不況しか知らない世代が若者ので多数派になってしまい、コストとベネフィットを秤ににかけ、その上でリスクを考量した行動する方式が普通になってしまったからこそ起こる現象だ。

就職氷河期世代やゆとり世代は、不景気による収入減をきっかけに、いとも簡単に家庭が壊れる姿を見せられてきた(当然ながら、それが必ずしも事実であったかどうかは問題ではない。事実であるかのように語られただけで充分だ)。

その結果として、結婚をすることや家庭を持つことが、リスクヘッジではなくリスクそのもの、あるいはデメリットであると見られるようになってしまった。

結婚や家庭を持つことで幸せを手に入れる人はいるだろう。

でも、自分がそうできるとは信じられない。

なら、結婚しない方がリスクは低い。

こう考える若者は、決して少数派ではなくなっている。

発展途上国や日本の貧しい時代を考えると、そういう社会においてこそ婚姻率は上がり、早く結婚しそうなものだが、いったん崩壊した社会制度や社会通念に対する信頼を回復することは難しい。

とはいえ、仕事が単なる自分の生存のための手段としか捉えられない人間が多数派の社会とは……

かなり気が滅入る社会であるのは間違いない。

Changeだの「新」だの言ってのぼせ上がる前に、多くの人が共有してきた枠組みが壊れてしまう、あるいは改革者気取りで壊してしまうことの恐ろしさと希望のなさは、もっと多くの人が共有してよいように思うのだが。

2009-10-09

非モテは単なる不平屋か

23:46

 以下の記事についての人様のエントリにカッとなったので書いてみた。後悔はしていない。

 非モテは彼女ができても非モテ

 この記事の要点かつ突っ込まれているところは、

 俺はセックスしたかったんじゃない

 青春がしたかったんだーー

 という部分だろう。

 これに対して、ツリーでも様々な反論が出されていたが、それを洗練させるとこうなるのだろう。

 この手の“自称非モテ”の文章は、インターネット上にほとんど定期的にあがってくるが、一体全体、彼らはどういう状態まで辿り着いたら満足の境地に至るのか、本当にわからない。

一歩前進した自分を評価するでも、彼女に感謝するでもなく、不満と不足を口にする人の欲求に際限があるとは思えない。

非モテ餓鬼道

2009-10-07 - シロクマの屑籠

 確かに元増田の文章は誤解を受けやすい文章ではある。

 ただ、「非モテ論」の枠組みを理解している人、もしくは見慣れた人なら、元増田の書いていること=したいことだと考えることはしない。だいたい、書いてある願望を文字通りの願望と受け取らない、というのはテクスト読みの初歩ではないか、と思う。

 正直、「非モテ餓鬼道」にある通り、非モテが精神的飢餓感ということで説明できるなら、ネット界隈でここまで非モテ議論が賑わうことはなかったと思う。単純な精神的飢餓感であれば、昇華や代償といった方法が確立されているから。

 問わなくてはならないのは、青少年期における恋愛経験の欠如がなぜここまでの精神的飢餓感をもたらすのか、ということだと思う。で、答えはまあ、諸ブログの論点を繰り返せば出てくるわけで、その中でも最も秀逸だと思う増田をあげよう。少々長いけれど。



今日の問題の構造はもう明らかだ。

「恋人、セックス相手としての異性との物語だけが我が物顔をしすぎていること」。


そうなった理由は

バブル期軽佻浮薄文化にどっぷりだった元若者が引きずり続けてる、でもあるし

デート文化で金使ってもらおうと企んだ企業やマスコミの陰謀だー、でもあるし

恋愛白熱が自分達の価値高騰に繋がると睨んだ女性が加担したー、かもしれないし

惰性と無能と思考硬直でそれしか作れなくなっちゃっただけだー、もいくらかありそうだし

それ以外の物語が縮小・希薄化しすぎているせいだ、でもある。


とにかく、なんだかいろんな不自然な力が働いて今日の日本では物語と言えば「恋人、セックス相手としての異性との物語」になってしまった。

・恋人、セックス相手としての異性を持っている人間

・もしくはそれを近日獲得予定でその途上の人間

でなければ物語に参加できない。


このメッセージが、社会から繰り返し繰り返ししつっこく与えられてきた。

そのせいで人の心に産まれた無用の疎外感や虚無こそが「非モテ」の正体ではなかろうか。


本来は恋愛に向いていなかった人、興味が薄かっただろう人まで恋愛・SEX物語のプレッシャーを受ける。当然のように恋愛・SEX相手の異性がいることが「まともな人間」の前提として求められる。それ以前にその獲得のためのアクションと努力が無制限に求められる。人間の「型」が恋愛へのアクション・努力に適していなければまず徹底した自己否定と改造が求められる。努力して結果が駄目であったら人格領域にまで踏み込んだ自己批判が求められる。


これはウザかろう。最大与党の物語としては薄っぺらいしポンコツ過ぎる。異性は「非モテ」を救わない。その獲得はこのウザい物語の枠組みの強調でしかないから。加藤が救われるには、安定した職場や彼を気にかけてくれる職場のオジサン、友や仲間としての男達、やりがいのある仕事をしているというプライド、社会に貢献していると言う自負、そういうものこそが本当に必要だった。


昨今はさすがに、自分が選んだでもない恋愛物語の価値上で努力や実現を強制されることについて苛立ち・拒否の表明みたいなものも珍しくなくなってきたが(過去はこれを言うと「強がっているw」「すっぱいブドウw」などと言ったありがちな石がバラバラ振ってきてしかもそれを必死に投げてる人達をよく見ると恋愛物語下で苦しんでいる非モテもいっぱい参加してたり、という脱走奴隷と体制側奴隷のジレンマみたいな悲惨や喜劇があった)それでもまだまだミソジニーだと言われたり無気力だと言われたり問題把握に混乱や誤解が多い。

加藤も彼自身が恋愛物語の支配的影響に毒されて、自分の不満や問題点が概念としての「彼女」に集約していた。自分を苦しめていることの本質がモヤで見えなくなってれば暴れるぐらいしか解決策が思いつかないこともあるだろう。


この不幸で有害な恋愛物語支配はいつになったら打倒されるんだろう。

潜在的にはかなり支持率低下してるようにも感じられるのだが

対立野党選挙がない。


非モテが救われるのに異性は不要

以上より、最初の元増田の文章から透けて見えてくるのは、書いてある通りのこうしたい、という願望なんかではない。自分の努力だけではいかんともしがたい要素で人から判断されたり、自分が劣等感を抱え込むことの苛立ちだ。それだけに、そうした虚無感や劣等感から無縁な人は、何に苦しんでるの?何でいらだっているの?いらだつことはおかしくない?と言いたくもなるのだろう。

だから、元増田がどうなれば幸せになるかは僕の目からすれば明らかだ。それは、元増田が青春時代に戻って可愛い彼女ができて青春することなんかじゃあない。ごく限られた期間の恋愛経験の有無が人間の評価に影響を与えない社会、より抽象的な言い方をすれば、個人を特定の思想や基準のみで評価しないというごく当たり前の社会の実現だ。

たかが恋愛ごときが、ここまで人間の評価に影響を与えているこの社会は、やはりおかしいと思う。恋愛なんかは、周りに流されてするものじゃなく、本当に大切にしたい人ができた時、その余裕がある時にするものじゃないのかね?

2009-09-25

ミスマッチは雇用だけでない

22:24

なぜ我々は、好意を持ってくれる異性に対して好意を返すことができないのか。

かつて小谷野敦は『もてない男』の中で、人間は生まれ変わることができないからだ、と述べた。何度も生まれ変わることができたら、今回の人生ではこの人と一緒にやってみよっか、という気分になるが、人生一回きりと考えたら、そう簡単に踏み切れるものではない、と。

このことを考えたのは、以下のような増田を見たから。

http://masuda.livedoor.biz/archives/51313207.html

別に元増田を非難しようとは思わない。誰しも気に入らない人間を袖にするのは当然の権利だから。でも、格差婚は滅多にないからこそ話題になるわけで、世間のカップルを見ていると、それなりに釣り合った人と一緒になっているのは否定しがたいと思う。

ただ、恋愛という要素には、釣り合いは存在するけども、大学の入試難易度とか、会社の質みたいに可視化しやすいものではないから、ミスマッチが増えてきたのだろう。かつてのお見合いという制度は、そのあたりをマッチングさせるという点では、得難い仕組みだったわけではあるが……。

何でも、結婚相談所というところは、そのあたりのマッチングがきわめてシビアなものらしい。平均以上の収入がなくて、身長が一定以上ないと、女性側から全くアプローチがなくなるので、最初からマッチングする相手がいなさそうな場合は入会をお断りされるのだとか。今のご時世を考えると極めて高い足切りを、まったくの見ず知らずの他人にされるというのは、やはり残酷な話ではある。

かつてのお見合いは家の都合で行われるものが多かった(最近読んだ『華麗なる一族』はまさにそうした話)から、個人の恋愛や結婚を家の都合のみで縛るのは否定されるべきだと思う。ただ、そうであるならなおさら、出会いの形についてどうこう言うべきではないはずだ。ネットでの出会いであろうと、お見合いであろうと、人の出会いを卑下すべきではない。職場結婚だって、最初に配属された部署の数十平方メートル内で成立したモノがほとんどという話も聞いたことがある。

かつての日本では、許嫁やお見合いといった仕組みがあった一方で、遊郭から身請けする、という例も少なくなかったと聞く。しかし、結婚すれば立派な女主人であったわけだ。もちろん、その背景には妾との間の歴然たる差があったからこそなのだが、ネットでの出会いやお見合い、というと後ろめたく感じたりすることが多い我々は、過去の人々を笑えるのだろうか。自由を手にしたはずの我々は、かえって不自由になっているのではないか、とつくづく思う。

2009-08-16

男の理想、ズレる女

23:45

 今日、NHKで放映されていた『気骨の判決』を見た。

 話の内容自体は実のところとりたてて絶賛すべきものではないように思う。

 厳しい状況の中、信念を守り通した気高い男。パチパチパチ。

 どの役者の演技もNHKらしくよくまとまっていたけれど。

 このドラマを見て、いいなぁと思ったのは主人公である吉田裁判長と麻生祐未演じる奥さんとの関係。

 麻生祐未がそもそもしっとりとした美人であるが、苦しい状況の中、夫の仕事の意義とそれにかける気持ちを理解して支えようとする姿は、月並みながら心が安まるなあと思ったのだ。

 フェミニズム的にいえば、夫の好き放題に振り回されて堪え忍ぶ妻の姿、ということになってしまうのかもしれない。実際、最近のドラマや映画では、夫を支える妻の姿はとんと見ない。天下のNHKも、いやNHKだからこそ、もはや過去を舞台としてしか夫を支える妻を登場させることができないのだろう。

 でも……

 夫を支える役割を否定し、対等なパートナーとなることを選んだ女性は本当に魅力を増したのだろうか。そもそも、「パートナー」となる女性は増えたのだろうか。夫を支える女性が減り、「対等なパートナー」となる女性も増えていないのだとしたら、それはあまりに救われないと思うのだ。