もぐらだってそらをとぶ

2016年11月21日

11月23日文学フリマに出店いたします。

| 17:16

11月23日に東京流通センターで開催される第23回文学フリマに「言語音楽工房」としてカー54ブースで出店いたします。

このブログで書いてきた2014年10月から2016年7月までの演奏会評と映画評をまとめた個人誌新刊「浮遊する音楽を捕獲する言語」ならびに既刊「旋回する言語、解放への音楽」「回転木馬と言語音楽」を頒布いたします。

このブログで批評を書くのをやめたので個人誌を作るのもこれが最後になり、したがって文学フリマへの参加もこれが最後になる予定です。

ぜひ万障お繰り合わせの上お越しください。

2016年11月16日

【告知】ウェブ音楽批評誌「メルキュール・デザール」11月15日号です。

| 13:44

ウェブ音楽批評誌「メルキュール・デザール」に寄稿いたしました。http://mercuredesarts.com/ 10月1日「ひびき、あたらし、雅楽」、10月6日「望月京の音楽世界」、10月10日大井浩明POCシェーンベルク、10月28日「作曲家の個展II西村朗X野平一郎」を書きました。ご高覧のほどよろしくお願いいたします。

2016年10月15日

【告知】ウェブ批評誌「メルキュール・デザール」同人に加わりました

| 23:30

告知が遅くなりましたが、ウェブ批評誌「メルキュール・デザール」http://mercuredesarts.com/同人に加わりました。

7月のコンサートレビュー「ヴォクスマーナ第35回定期演奏会

8月のコンサートレビュー「鼓童創立35周年記念コンサート」

9月のコンサートレビュー「能Xイタリア現代音楽

セレクト>ピックアップの10月15日号「シン・ゴジラ君の名は。

を寄稿いたしました。

今後、批評はこのメルキュール・デザールで取り上げるものを書くことが主となりますので、このブログで批評を書くことは少なくなると思います。即興的に1晩で書くものと何日も練って編集長のディレクションを受けて書くのではかなり勝手が違いますが、どうか今後はメルキュール・デザールで私の批評をお読みくださるようお願いいたします。

2016年08月01日

映画 庵野秀明総監督「シン・ゴジラ」

| 20:51

(ほとんどネタバレしてませんので未見の人でも読んで大丈夫のはずです)

多くの人が同感であると思うが、作中そんなに多くはないゴジラ東京蹂躙シーンには何もかも持って行かれた。日本特撮技術がまだここまで生きていたのかと随喜の涙を流しつつ目を皿のようにして大興奮して見ていた。

だが、東京蹂躙シーンを「特撮技術に感嘆した」だけで済ませてはいけない。現実に東京が蹂躙されることをこそ筆者は深層心理の中で望んでおり、それが映像の中で実現されたことに、いささかの後ろめたさと共に暗い喜びを感じていたのであろう。この腐りきったクソッタレの現実の日本が蹂躙され尽くす、そのことこそ、筆者がひそかに抱いていた願望であり、ゴジラはそれを果たしてくれたのだ。

だが、実際に日本において起こった2011年3月11日の東日本大震災そして福島第一原発事故において日本が自然と自らが生み出した力によって文字通り蹂躙されたとき、筆者はそれに対して恐怖以外の感情は持たなかったではないか。このことこそ、筆者が自分の願望に対していささかの「後ろめたさ」を感じる理由である。

一方で、ゴジラに立ち向かう日本政府の面々の活躍っぷりは筆者はなんともいえない気持ちがした。このように理想的な人間によってこの腐った現実は動かされていない、と。といっても現実のとおりに腐った面々によって日本が壊滅していく様を見るのはまたそれはそれで嫌だったであろうとは思うのだが。

やはりここでもキーとなるのは東日本大震災と福島第一原発事故である。腐った人間によって日本が蹂躙されていくのを黙って見ていたのは紛れも無い現実ではないかと。そして腐った人間は今も日本の中枢でのうのうと美味い汁を吸っているのではないかと。

ここで筆者の中には「2つの日本」があることに気づく。1つは「蹂躙されるべき、腐った現実としての日本」であり、もう1つは「守るべき人々が懸命に生きている日本」である。映画内の人間たちの「立派さ」に違和感を覚えるのは、現実世界において彼らが「腐った日本」に属しているからであり、「腐った日本」によって「守るべき日本」が守られるという、現実と作品世界での齟齬に納得いかないからである。

だが、ゴジラが蹂躙していった日本は、この「2つの日本」が重ねあわせになったものである。「腐った日本」が蹂躙されるのに喝采を浴びせるのと同時に、同じ程度に、筆者は「守るべき日本」が蹂躙されていくのを喜んだのに違いないのである。それは筆者の中にある、後ろめたい「悪意」に他ならない。

この映画を見ている時には自覚できない自分の悪意、それはあるいは破壊衝動や本能とも言うべき、意思とは別のものかもしれない。善悪や道徳の埒外にある破壊衝動に身を委ねる限り、本作は単純に興奮する一方の怪獣映画に過ぎないかもしれない。だが、一度その映像を現実とシンクロさせたとき、自らの内面にある善悪や道徳、そして自らの心の奥底にある願望との対話を余儀なくされる。この映画は決して単純な怪物映画ではないのである。

2016年07月29日

7月29日 ヴォクスマーナ第35回定期演奏会

| 01:53

ヴォクスマーナ第35回定期演奏会 創団20周年シリーズVol.1 未来を担う女性作曲家

於:東京文化会館小ホール

指揮:西川竜太(にしかわ・りゅうた)

曲目

大熊夏織(おおくま・かおり):「空を泳ぐ」(2015委嘱作品・再演)

小出稚子(こいで・のりこ):「春宵感懐」(2013委嘱作品・再演)

渋谷由香(しぶや・ゆか):「黒い森から」12声のための(委嘱新作・初演)

山根明季子(やまね・あきこ):「お名前コレクションNo.02」(委嘱新作・初演)

(アンコール)伊左治直(いさじ・すなお)「ヨルガオ」(委嘱新作・初演)

現代音楽界の男子率の高さには筆者もその男子自身ながら辟易していたところである。何故このように現代音楽には男子しかまとわりつかないのか、と。しかし稀有な例外も実在し、その稀有な例外的な作曲家を4人集めた今回はヴォクスマーナと委嘱作曲家達とその聴衆の稀有な邂逅の場として格別の機会となった。そういえばヴォクスマーナの聴衆は現代音楽にしては女性が多めであると改めて気づいたのであった。

まずは大熊作品。笑い声が全体を支配していく中に単音もしくは2,3音でできたフレーズのロングトーンが差し込まれる。ロングトーンはやがて複雑さを増しユニゾンからハーモニーへと至り、笑い声は疑問形の音型へと形を変える。ハーモニーはポリフォニックな歌へと進化し、そしてクスクス笑いと共に「ねえ、おいしかった?」の声が混じり始め、そして歌と声は解析不可能なまでの複雑なカオスへと進み、「ねーーーー」の一声で終わる。「集団の音楽」を追求したとプログラムノーツにあるが、集団の中で没個性に埋もれるのではなく、集団の中で個性をいかにして獲得するか、あるいは個性がどのように集団化していくのかという逆説的なプロセスを見聴きさせられたと思った。そしてその過程における歌声の豊かさは言うまでもない。

小出作品、イントロからかすかな、ほのかな香りを放ちつつ音が舞台上を動いていくのが感じられた。この表現は比喩的に使っているのではなく、実際に歌声が声部を越えて動くことによって声の位置が動いていったのである。このように歌詞を声部ごとに時間的にずらして現すことによって動きを得た、その歌声、中原中也の「春宵感懐」にのせられた「なまあつたかい、風が吹く」中にいることのなんたるかぐわしいことか!

後半の新作委嘱作品、まずは渋谷作品であるが、12人12声部というその時点でもうヴォクスマーナ以外に演奏できる集団がいないことは予想できるが、それにしても4分音を多用したひそかな響きに縛られるその感覚のなんと恐ろしいことか!音が凪いでいるのかこちらに迫ってきているのかわからないが、とにかく身動きがとれない、金縛りにあったかのような音楽体験をしたのである。12人12声部がお互いに絡み合い一体のものになりながらも、決して最後の所で1つにならずお互いを拒絶しているようなこの感覚、実に豊かかつ恐ろしいものであった。人間の耳がどこまで音を把握し得るのか(作曲家演奏家、聴衆のそのレベルごとにおいて)という一つの挑戦でもあっただろう。

プログラムの最後を飾った山根作品は、「○○さーん」という掛け声を、「○○」の所に実在する人物(作曲家などが多く聞こえてきたと思う)の姓や名を当てはめて延々と連ねていくという怪作である。途中口笛が入ったり声が多声部になったりするが、基本的に日常会話における「○○さーん」という掛け声がそのまま連ねられる。作曲者自身のコメントで「感情・感覚の質感を掴もうとした」とあったが、日常会話的な掛け声が連ねられるこの技法(?)によって、確かに聴いていてどこか「返答しないといけないのではないか」といった「日常的なレベルでの疑問という感情・感覚」を覚えたのは確かであった。とにかく怪作であった。

アンコールの伊左治作品も今回妙に技巧的にすごいことになっていた気がするが、とにかく日本の女性作曲家というまことにニッチなジャンルにおいてかくも豊かな実りを得ることができて筆者としては至極満足のいく演奏会となった。現代音楽、現代合唱曲の世界最先端を行く西川竜太とヴォクスマーナ、まだまだ面白いことは終わりそうにない。