もぐらだってそらをとぶ

2016年12月20日

【告知】ウェブ音楽批評誌「メルキュール・デザール」12月15日号です。

| 18:38

告知が少しおくれましたが、ウェブ批評誌「メルキュール・デザール」12月15号ではアール・レスピラン、柴田南雄ゆく河の流れは絶えずして、みるなの座敷、サントリーホール30周年記念、神奈川フィルの演奏会評を寄稿いたしました。ご高覧くだされば幸いです。

http://mercuredesarts.com/

2016年11月21日

11月23日文学フリマに出店いたします。

| 17:16

11月23日に東京流通センターで開催される第23回文学フリマに「言語音楽工房」としてカー54ブースで出店いたします。

このブログで書いてきた2014年10月から2016年7月までの演奏会評と映画評をまとめた個人誌新刊「浮遊する音楽を捕獲する言語」ならびに既刊「旋回する言語、解放への音楽」「回転木馬と言語音楽」を頒布いたします。

このブログで批評を書くのをやめたので個人誌を作るのもこれが最後になり、したがって文学フリマへの参加もこれが最後になる予定です。

ぜひ万障お繰り合わせの上お越しください。

2016年11月16日

【告知】ウェブ音楽批評誌「メルキュール・デザール」11月15日号です。

| 13:44

ウェブ音楽批評誌「メルキュール・デザール」に寄稿いたしました。http://mercuredesarts.com/ 10月1日「ひびき、あたらし、雅楽」、10月6日「望月京の音楽世界」、10月10日大井浩明POCシェーンベルク、10月28日「作曲家の個展II西村朗X野平一郎」を書きました。ご高覧のほどよろしくお願いいたします。

2016年10月15日

【告知】ウェブ批評誌「メルキュール・デザール」同人に加わりました

| 23:30

告知が遅くなりましたが、ウェブ批評誌「メルキュール・デザール」http://mercuredesarts.com/同人に加わりました。

7月のコンサートレビュー「ヴォクスマーナ第35回定期演奏会

8月のコンサートレビュー「鼓童創立35周年記念コンサート」

9月のコンサートレビュー「能Xイタリア現代音楽

セレクト>ピックアップの10月15日号「シン・ゴジラ君の名は。

を寄稿いたしました。

今後、批評はこのメルキュール・デザールで取り上げるものを書くことが主となりますので、このブログで批評を書くことは少なくなると思います。即興的に1晩で書くものと何日も練って編集長のディレクションを受けて書くのではかなり勝手が違いますが、どうか今後はメルキュール・デザールで私の批評をお読みくださるようお願いいたします。

2016年08月01日

映画 庵野秀明総監督「シン・ゴジラ」

| 20:51

(ほとんどネタバレしてませんので未見の人でも読んで大丈夫のはずです)

多くの人が同感であると思うが、作中そんなに多くはないゴジラ東京蹂躙シーンには何もかも持って行かれた。日本特撮技術がまだここまで生きていたのかと随喜の涙を流しつつ目を皿のようにして大興奮して見ていた。

だが、東京蹂躙シーンを「特撮技術に感嘆した」だけで済ませてはいけない。現実に東京が蹂躙されることをこそ筆者は深層心理の中で望んでおり、それが映像の中で実現されたことに、いささかの後ろめたさと共に暗い喜びを感じていたのであろう。この腐りきったクソッタレの現実の日本が蹂躙され尽くす、そのことこそ、筆者がひそかに抱いていた願望であり、ゴジラはそれを果たしてくれたのだ。

だが、実際に日本において起こった2011年3月11日の東日本大震災そして福島第一原発事故において日本が自然と自らが生み出した力によって文字通り蹂躙されたとき、筆者はそれに対して恐怖以外の感情は持たなかったではないか。このことこそ、筆者が自分の願望に対していささかの「後ろめたさ」を感じる理由である。

一方で、ゴジラに立ち向かう日本政府の面々の活躍っぷりは筆者はなんともいえない気持ちがした。このように理想的な人間によってこの腐った現実は動かされていない、と。といっても現実のとおりに腐った面々によって日本が壊滅していく様を見るのはまたそれはそれで嫌だったであろうとは思うのだが。

やはりここでもキーとなるのは東日本大震災と福島第一原発事故である。腐った人間によって日本が蹂躙されていくのを黙って見ていたのは紛れも無い現実ではないかと。そして腐った人間は今も日本の中枢でのうのうと美味い汁を吸っているのではないかと。

ここで筆者の中には「2つの日本」があることに気づく。1つは「蹂躙されるべき、腐った現実としての日本」であり、もう1つは「守るべき人々が懸命に生きている日本」である。映画内の人間たちの「立派さ」に違和感を覚えるのは、現実世界において彼らが「腐った日本」に属しているからであり、「腐った日本」によって「守るべき日本」が守られるという、現実と作品世界での齟齬に納得いかないからである。

だが、ゴジラが蹂躙していった日本は、この「2つの日本」が重ねあわせになったものである。「腐った日本」が蹂躙されるのに喝采を浴びせるのと同時に、同じ程度に、筆者は「守るべき日本」が蹂躙されていくのを喜んだのに違いないのである。それは筆者の中にある、後ろめたい「悪意」に他ならない。

この映画を見ている時には自覚できない自分の悪意、それはあるいは破壊衝動や本能とも言うべき、意思とは別のものかもしれない。善悪や道徳の埒外にある破壊衝動に身を委ねる限り、本作は単純に興奮する一方の怪獣映画に過ぎないかもしれない。だが、一度その映像を現実とシンクロさせたとき、自らの内面にある善悪や道徳、そして自らの心の奥底にある願望との対話を余儀なくされる。この映画は決して単純な怪物映画ではないのである。