2012年05月08日
2012年05月06日
吹奏楽による「奏楽堂の響き4」 於:旧東京音楽学校奏楽堂
吹奏楽による「奏楽堂の響き4」 於:旧東京音楽学校奏楽堂
演奏:リベラ・ウインド・シンフォニー
指揮:;福田滋
企画構成:西耕一
曲目
黛敏郎:映画「天地創造」より間奏曲(編曲:松木敏晃)
特集1:日本のテレビ・ラジオ音楽
信時潔:《全国放送開始》《都市放送開始》
深井史郎《日本テレビ「鳩の休日」》(復元編曲:松木敏晃)
池辺晋一郎《MBS毎日放送オープニング/クロージング》(編曲:福田滋)
たかしまあきひこ《FNNニューステーマ》
黛敏郎《NNNニューステーマ》(編曲:堀井友徳)
特集2:3人の会の仕事
黛敏郎:映画「栄光の5000キロ」よりメインタイトル(編曲:堀井友徳)
芥川也寸志:ミュージカル「みつばちマーヤ」より《みつばちマーチ》(編曲:清道洋一)
團伊玖磨:《おやさと大行進曲》
芥川也寸志:映画音楽組曲《八甲田山》(編曲:松木敏晃)
特集3:現代の作曲家達
三善晃:《祝典序曲》(編曲:天野正道)
鹿野草平:《ファイヴ・コンビネーション》
特集4:北海道の作曲家
伊福部昭:《北海道讃歌》(編曲:田野均)、バリトン:佐藤光政
佐藤勝:交響組曲《札幌オリンピック》(構成・編曲:堀井友徳)
伊福部昭:映画「わんぱく王子の大蛇退治」より《アマノウズメの舞》(編曲:福田滋)
なによりまず声を大にして問いたい
何故伊福部昭《北海道讃歌》のバリトン佐藤光政にマイクを使わせた
最初に聴いたとき、マイクを使っての歌声があまりにも響かなくて、伊福部作品の中でも幻の作品とされているこの作品に対してこのような歌手を選んだことを恨むやら呆れるやらで、とても拍手など贈れるものではなかった。
だが、アンコールでもう一度この作品が演奏される直前、マイク無しで佐藤が即興的に作品内の一節を歌ったのだが、実に朗々とした立派な声が響き渡り、マイクなど全く不要であったことが判明した。結局アンコールでもマイクを使ったのだが、本番よりはマイクと発声のバランス取れていて、なんとか拍手を贈れる程度の水準までは達していた。
何故このようないらぬお世話をしたのか、筆者には全く理解できない。原曲が合唱と管弦楽のための作品だから、合唱並の音量を取るためにマイクを使おうとしたのだろうか。しかし、ソロの歌手の声が管弦楽の全奏にも匹敵するほどの音量(もしくは音圧)を持つことは少しでもクラシックを聴いたことのある人間ならば常識ではないのか。運営関係者には実に猛省を促したい。
また、《北海道讃歌》の編曲(田野均)も、伊福部昭の管絃楽法を全く理解していないようでこれも落胆した。伊福部はユニゾンで楽器を重ねることが多く、管弦楽ならば楽器の音の特性により十分な音圧、音強が出るのだが、それを譜面のまま吹奏楽に写しても細く貧弱な音しか聞こえないのだ。
とにかく、雄渾な伊福部音楽を大いに期待して臨んだ結果がこれでは泣くに泣けない。いや、ある種絶望的な気分すら味わってしまった。
そして、一回殺した死体に鞭打つようでいささかはばかられるが、福田滋による伊福部昭《アマノウズメの舞》の編曲も先の《北海道讃歌》と同じく伊福部音楽の管絃楽法の難しさという課題をクリアせず、なんともやせ細ったアマノウズメの踊りであった。福田はこれまでの「奏楽堂の響き」シリーズにおける《SF交響ファンタジー第1〜3番》が素晴らしい仕事だったのだが、今回は正直残念であった。
一応伊福部研究者である筆者としては上記の自分で書いていてもややうんざりする批判を書かねばならなかったが、では演奏会全体はつまらなかったのかというと、これは実に面白かったと言える。
特に、「黛敏郎は音楽によって人を楽しませることにかけては右に出る者のいない天才であった」ということを改めて確認させられたのは嬉しかった。既に定評のある映画「天地創造」の間奏曲は言うに及ばず、映画「栄光への5000キロ」も素晴らしかったが、筆者が一番驚いたのは《NNNニューステーマ》である。ニューステーマという「軽い」効用音楽と思ったら、これが「急・フォルテ―緩・ピアノ―急・フォルテの再現」という3部形式を持ち、どう聞いても何か立派な式典か何かの開幕音楽か何かではないかと思わせるスケールの大きな音楽で、「黛恐るべし、彼は真に天才だった」と演奏会終了後友人たちと筆者をして語らしめた名曲であった。また、この3曲を聴くと、黛は実にブラームスのような、一聴するとホモフォニックだが実は巧妙に対位法を使って音楽を豊かにするという技術の持ち主であることがよくわかった。これは編曲者(松木敏晃、堀井友徳)の技術にもよるところ大であろう。
そして、このような埋もれた名曲を発掘した企画者、西耕一氏には満腔の敬意と感謝の拍手を贈りたい。
他の曲もそれぞれに異なった魅力を持った宝石箱のような演奏会であったが(三善晃による万博の開幕式用の《祝典序曲》が全然祝典してない三善節だったのは可笑しいというかさすがというかであったが)、新人(といっても筆者と同い年だが)作曲家の鹿野草平による《ファイヴ・コンビネーション》には今後のことも考えていささか言葉を使わねばならないだろう。パンフレットに書かれた作品解説を途中まで読んだ時点で筆者は「これは《リトミカ・オスティナータ》ではないかな」と予感したのだが、解説を最後まで読んだら本当に《リトミカ・オスティナータ》に影響されたとあった。《リトミカ》と聞けば、これを卒論と修論で扱った筆者としては気合を入れて聴かねばならないと意気込んだが、いささか拍子抜けする結果となってしまった。
重要なのは、鹿野氏にはオスティナートの持つ音楽的意味や、オスティナートへの愛着があまりないのではないかと感じさせられたことである。伊福部の《リトミカ・オスティナータ》では実に第4〜第120小節まで同じ楽想によるオスティナートが続くのである(さらに再現部でも同様の反復が行われる!)。そこまでオスティナートを極めて初めて音楽的に「オリジナルな」ものとなるのであり、鹿野氏はあまりにも微温的過ぎたように思える。まだ若い(筆者と同い年)のだから、もっと過激なことに挑戦してもらいたい。それこそ伊福部昭のように。
伊福部昭作品についてはどうにも残念であったが、「奏楽堂の響き」シリーズ、毎回全くマンネリを感じさせない企画と見事な演奏で十分に満足させてくれるものであった。来年は旧奏楽堂が改修だか補強だかで休館となるそうだが、なんとかしてこのシリーズ、もしくはこのシリーズの後継となる企画を続けてもらいたいものである。改めて企画者の西耕一氏には感謝を述べさせていただきたい。ありがとうございました。この次も期待してますよ!
2012年04月06日
【告知】4月20日金曜日「思索工房読書会」立ち上げます!
告知 |
十年来の音楽学の友人と読書会を立ち上げます!
美学・哲学・芸術・音楽学など幅広いジャンルについての書物を読んで皆で語り合う会です。レポーターの興味関心が向けば小説や評論も扱います。
開催日時は毎月第3金曜日、19時から話題の続く限り
場所は高円寺の「前衛派珈琲所マッチングモール」
http://www.e-fourseason.com/site1/data/133.htm
参加費は1時間につきワンドリンクオーダーのみで、場所代などはいただきません。
第1回4月20日の課題本はホルクハイマー=アドルノ『啓蒙の弁証法』第1,2章を取り上げます。レポーターは私がつとめます。
現代思想のスタンダードであるこの本を取り上げて、「戦前」の様相を色濃くしてきている現代日本を捉え返せないかと思っております。また続けて「新音楽の哲学」や「不協和音」に進んだり、ポピュラー音楽理論からのアドルノへの文化産業論への反論へと進むこともできるでしょう。
いずれにせよ、なるべく大勢で熱く語り合いたいと望みますので、皆さんのお気軽な、かつあくまで真剣な参加をお待ちしております!
2012年03月09日
東京フィルハーモニー交響楽団 第812回サントリー定期シリーズ 広上淳一指揮 黛敏郎個展
東京フィルハーモニー交響楽団 第812回サントリー定期シリーズ 広上淳一指揮 黛敏郎個展
トーンプレロマス55
饗宴
BUGAKU
涅槃交響曲(合唱:東京混声合唱団、合唱指揮:水戸博之、平林遼)
今回の広上の音楽作りは、「単純」という一言に尽きよう。だがただの単純ではない。恐るべき単純と言うか、凄い単純とでも言うか、ただならぬ単純というか、このあたりは言葉の綾レベルとなってしまうのであまり追求しないが、しかしとにかくひたすら「単純」であり、それゆえに感動的だったのである。
涅槃交響曲、現代音楽の中にあって数少ない古典的地位とポピュラリティを両方勝ち得ているこの作品において、常に言及されるのは、梵鐘の音をスペクトル分析して、それに沿ってオーケストラで梵鐘の音を合成したという逸話である。これは逸話と呼ぶにはあまりにも音楽的に有意味な事実であるが、しかし従来の演奏解釈がこの逸話に縛られて、常に分析的アプローチ、噛み砕いて言えば各声部の音をなるべく多く聴衆の耳に届けるという音楽設計をしてきたと見るのは著者だけではないだろう。
それに対し、広上の音楽設計は分析的アプローチの対義語として考えられる総合的アプローチ(と書いても著者にはどんなアプローチなのかわからないが)とも違う、限りなく「単純」なアプローチであった。
音楽の大黒柱となる声部を最大音量とし、他の声部がそれにかき消されようとも構わない、あるいは他の声部も最大音量のさらに上を目指して頑張り、結果としてホール内はかつてない音量に満たされ、しかも良い席ならば前後から音塊に埋め尽くされる
という、書いてみるとこれでいいのだろうかとすら思えてしまうほど(そして実際広上がこんな音楽設計を意図していたのか筆者も不安になる)単純なアプローチであった。
だが、これが実に圧倒的なMassとしての音響を生み出し、黛的な、肉体的かつ快楽的な音楽となって聴者の耳を究竟の世界へと誘うのである。それは仏教における涅槃が本来何もかも捨て去った境地であるというのとは正反対かもしれないが、しかし、黛の音楽というのは元来その肉体性、官能性において非常に親しみやすく、ある種ポップなものであるがゆえに現代音楽畑を超えたポピュラリティを勝ち得たのではないだろうか。その意味で、今回の広上の解釈は非常に黛音楽の一つの正鵠を射たものであると言えよう。そして、肉体的かつ官能的であるが、最終的にたどり着くのはやはり宗教的としか形容しえないようなあの崇高な境地であり、やはりそれは涅槃であったのではないかと評者には思えるのである。
しかし、涅槃交響曲では恐るべき音楽となった広上の単純さは、前半のトーンプレロマス55、饗宴、BUGAKUでは、各声部の多声的書法やポリリズムなど、複雑な黛のエクリチュールをさばくにはいささか包丁が大きすぎたようで、どうにもモッサリしてグルーヴ感のない消化不良な音楽となってしまったのは否めない。
だが、今回の涅槃交響曲の圧倒的な音響を聴かせてもらったからには、どうにも広上の「勝ち」だと言わざるを得ないだろう。現代の古典への解釈にまた新たな1ページが、もしかすると誰もが気付きつつも避けていたのかもしれないほどの「単純」な1ページが加わったことを喜んでこの評を終わりとしたい。
2012年02月21日
坂田X芳垣 バースデイ・ライブ 於:新宿PIT INN
坂田X芳垣 バースデイ・ライブ 於:新宿PIT INN
大友良英(G)
水谷浩章(B)
高良久美子(Per,Vib)
高岡大祐(Tuba)
坂田 学(Ds)
ブラボー坂田さん(67歳)!なんという圧倒的音楽!いや、音楽という言葉では最早捉えきれないかもしれない音響!最後の最後で坂田さんがサックスを取り上げるまでの音楽の盛り上がり、そして坂田さんのサックスを聴いた時の高揚感は私の聴いてきたあらゆる音楽を超えたかもしれない。なんということだ!これが坂田明という音楽家の実力か!ブラボー!
最終曲の終幕の素晴らしさは言語を超えた次元に至っているのでもうこれ以上書くことは不可能ではないかと筆者には思えるが、しかしなんという演奏会であったことか!
事前にどれくらい打ち合わせをしているのかは演奏家ではない筆者には全くわからないが、即興演奏という「なんでもあり」の音楽において、何故これほどまでに「音楽的論理構成」として完璧なものが可能なのであろうか。
おそらくそれは、演奏者が音楽的論理をリアルタイムで把握し、かつその先を読み(楽譜を読むときは弾いている部分よりその先を読むように)、さらにこれまでの音楽を記憶・想起するという、現在、未来、過去を一度に把握するという荒業をやってのけているからであろう。
以前松平頼暁についての論においても書いたが、音楽とは「ただ滅茶苦茶」なだけではなんの面白みもない。そこにある種の「論理性」がなければ音楽足り得ない。その論理性を把握することによって、「その向こう」に突き抜けるのが音楽と音楽家の凄みなのだ。しかしてその論理性とは言語を超越したものであるから恐ろしいのだ。わかる、感じられるけど言い表せない、その境地に達してやっと音楽を把握できたと言える、実に音楽とは厄介なシロモノではないか。
その厄介なシロモノ、もしくはケダモノとでも言うべき音楽を、楽譜のようなロゴスの檻に閉じ込めることなく、これほどまでに「ナマ」のまま晒そうとする即興演奏とは人間がやっていいものなのだろうか?端的に言って、こんな音楽があっていいのだろうか?
そこにおいて、反逆的な肯定としての即興音楽の姿が現れるのだ。「こんな音楽はあってはならない、音楽とはもっと秩序だった美しいものだ」という「世間的良識」に対する反逆として、即興演奏がその全貌を現すのだ。賢い人間共によって「無秩序」「なんでもあり」「ぐちゃぐちゃ」と否定される「バカ」な人間が「これでいいのだ」と反逆的に肯定する、そこに即興音楽の人間的意味があるのだ。「これでいいのだ」と君は断言できるか?この言葉の重さを受け止められるか?即興音楽の恐ろしさとはこの肯定の重さに他ならないのだ。
それにしても、最終曲で坂田さんが楽器を持たず瞑想するように目をつぶっていたところから、あの味わい深い声で謡のようなうめき声をあげたときの「やられた!」感といったらなかった!まだこんな音楽があったのか!と目からうろこが落ちるというより目を潰されるような感覚すらした。そして最後の最後にサックス登場の瞬間と終幕までのあの高揚感・・・・・・・はもう冒頭で書いたから改めて書くことはないか。あと、大友良英のギターによる音楽の展開・構成がいちいち完璧で、ジャパノイズのカリスマ的存在として名前だけは知ってる人物の実力を見せてもらった。
坂田さん!俺もっともっと坂田さんの音楽聴きたいです!だからずっとずっと元気でいてください!約束ですよ!

貴ブログが実名制ではなかったため、失礼ながらこちらも匿名にて表記させて頂きます(しかしながら読者の方々にはわかってしまうでしょうが・・・)
さて、先日は当該演奏会にお越しいただき、ありがとうございました。
拙作についての評論もありがとうございます。熟読させて頂きました。
これにつきまして、少し反論がありますので、「今後のことも考えて」書き込みさせて頂きます。
まず申し上げたい事は、私が『リトミカ・オスティナータ』からヒントを得たのは、解説に書いてある通り5拍子の中の複数の拍数組み合わせを同時に演奏する、という事であり、『リトミカ・オスティナータ』そのもの、或いはオスティナートを極める事を目指したものではないという事です。
オスティナートについての愛着についての貴ブログの考察は正に卓見と言うべきもので、私にはオスティナートへの愛着はあまりありません(もちろん、排除するつもりもありません)。
『リトミカ・オスティナータ』の名前を出されたとき、身構えるのはファン意識として大変よくわかります。
しかし、貴ブログはこの題名を見て、オスティナートの技法に意識が偏向し過ぎたのではないでしょうか。
「「オリジナルな」もの」や、「もっと過激なこと」というのは、ご承知の通りオスティナートに限った事ではもちろんありません。MOGURAさまの様な知識が豊富な方に目指したものが伝わらなかったのは私の未熟ゆえとも思いますが、もし手ぬるいと批判をされるのであれば、せめて私がやりたかった事、試みた事をある程度汲み取って頂いた上で批判をして頂きたいです。
最後に、この反論は貴ブログが評論と呼べる水準に達しているからこそのものであることをご理解頂ければ幸いです。
それでは乱文失礼いたしました。今後のご批評も楽しみにしております。
丁寧なコメント、誠にありがとうござます。
どうも私が「リトミカ・オスティナータ→オスティナートが重要」という色眼鏡で作品にあたってしまったようですね。美味しいコーヒーを出したのに「まずい紅茶だった」と評価するようなことをしてしまったかもしれません。この点にかんしては評者の審美眼が足りなかったとお詫びいたします。
ただ、「私がやりたかった事、試みた事」が作品を聴いても私にはわからなかったということも事実ですので、そこは撤回できないところです。これは黒澤明の言葉ですが、「映画は一言でどんな映画か言えなければならない」という言葉がありまして、これは音楽においても同じで、「私がやりたかった事、試みた事」をもっと明確に、そして先鋭的に提示し、演奏者や聴衆に「なるほど、この作品は〜〜だったな」と一言で言わせる、そんな音楽をこそ、特に若い鹿野さんのような作曲家の方には求めたいと感じております。
また、長々と難癖とも自己弁護ともつかない言葉を連ねることになってしまいますが、管絃楽法もしくは演奏もしくは会場の音響特性のせいか、音のエッジが切れ味悪く、リズムがベタ塗りに聴こえたのが残念でした。
いずれにせよ、私の評論の目の付け所がいささかズレていたことに関してはご批判甘受いたします。作曲者様の今後のご活躍を期待しております。
石丸基司と申します。
江戸の親友たちに誘われるまま、拝読いたした次第。
実に柾目の通った文章に、読むに値するものを読ませて頂いた。そんな実感です。
音楽を言葉で解説するのの至難な事ではありましょうが、折りをみてまた、読ませて頂こうと存じます。
小生北海道の田舎者ゆえ、匿名だなどの面倒を好まず。そのままご挨拶させて頂きました。
またのご健筆をお祈り申し上げます。
石丸基司 拝
過分のお褒めいただきまことに恐縮の至りであります。
まだまだ物書きとしての技量不足ではありますが、なんとか書き続けたいと思っておりますので、おつきあい下されば幸いです。
ご貴殿は伊福部研究者なら、伊福部作品の曲の名前を間違えての表記は評論以前の大失礼です!!
アメノウズメ です。
ご確認を!
申し訳ございません。只今CD「伊福部昭の芸術7」と、『現代語訳 古事記』で「アメノウズメ」との表記を確認いたしました。
ただ、私が子供の頃読んだ『松谷みよ子のむかしむかし』では「アマノウズメ」と表記してあったと記憶しております。
伊福部先生の作品名としては「アメノウズメ」を選ぶのが妥当だと思われますが、「アメノウズメ」以外に「アマノウズメ」という呼称もあると思われます。
ご指摘感謝いたしますが、私の誤記に理由があることもご承知くださるようお願い申し上げます。