もぐらだってそらをとぶ

2018年07月14日

メルキュール・デザール7月15日号が出来いたしました!

23:04

ウェブ音楽評論・批評誌メルキュール・デザール7月15日号が出来いたしました!

私は都響・カエターニ・宮田大、ディオティマQ・バルトーク全曲演奏会、木下正道個展、ミュージックトゥモロー、の演奏会評を寄稿いたしました!

どうぞご笑覧ください!

http://mercuredesarts.com/2018/07/14/contents-20180715/

2018年06月14日

細田守「家族三部作」を巡る言説――マジョリティとマイノリティの逆説――

| 05:50

もうずいぶん昔の話になるが、映画ファンの友人に「サマーウォーズ」の感想を尋ねたとき、はなはだ意外な返答をされた。

友人曰く、「あの家族、大家族なのにサラリーマンが一人もいない。普通じゃない、異常な家族ですよ。あんなので家族の絆とか語られたくない」

その友人は(私の友人たちと私自身と同様に)「普通じゃない」人間だと思っていたのだが(そもそも私は「普通の人間」など存在しないという考えの人間であるが)、その友人が「普通じゃないから」という理由で細田を拒絶したのが今でも忘れられない。

そして細田守作品で最も物議を醸した、そしておそらく、否定的な言説が「論理的には」勝利をおさめたと思われる「おおかみこどもの雨と雪」、筆者は肯定的な立場で当ブログに批評を書いた。

http://d.hatena.ne.jp/MOGURAmaru/20120819

さらに脚本的に明らかな失敗作と筆者は評価して批評は書かなかった「バケモノの子」、この3作をこれまでの細田守の「家族3部作」と呼ぶことができよう。そして近日公開の「未来のミライ」はおそらくまた「家族」を主題にしたものと予想される。

そこで本稿ではこの「家族3部作」を巡った言説と、家族、そしてマジョリティとマイノリティについての言説を分析・批評することとする。

まず、細田の母親観について論駁した、前掲の筆者の批評でも取り上げた文章を再掲したい。

http://rootport.hateblo.jp/entry/20120723/1343052351

「女は生まれながらに母性を発揮し、子供ができたら自動的に母親になる――この映画の根底に流れているのは、そういう母性信仰だ。薄っぺらな神話だ。序盤にヒロインを追い詰めた社会の無理解やシングルマザーの問題も、結局は母性信仰を描くための道具に過ぎなかった。そう気づいて、ぐったりと脱力した。」

 

おそらく、ここに書かれたことは全く正しい。細田は、母親になることの葛藤と困難をほとんど描いていない。描かれたのは「子供を母親一人で育てて幸福になった母、そしてその母を尊敬する子供たち」であり、シングルマザーとその家庭の「現実の不幸」をほとんど描いていない。その「母表象」は「幸福なマジョリティによる幸福なマイノリティという表象」であり、この作品が「現実のマイノリティの不幸を隠蔽する文化的装置」(他者表象する際の暴力とその装置について論じたサイードオリエンタリズム」を想起されたい)であるとすることは極めて「正当」である。

そして「バケモノの子」、筆者がツイッター上で見た見解で(現在たどることができず、記憶を頼りにしていることをお断りしておく)、「子供にとって一番重要な教育を受けさせずに暴力だけを植え付ける存在を「父」として理想化することは許されない」というものがあった。これも、論理的には、そして人間が社会の中で生きていくための「常識=普通の視点」からは「正当」であると言えよう。また、この作品においても指摘できるのは、細田の「幸福なマジョリティによる幸福なマイノリティという表象」であり、「現実のマイノリティの不幸についての視点」の欠如は明らかである。「バケモノの子父親毒親である」というスラングを含んだ意見を読んだ記憶もある。

だが、ここでこれらマジョリティとマイノリティを巡る言説の屈折を指摘したい。

おおかみこどもの雨と雪」を巡る言説において、「現実のマイノリティ(ここではシングルマザー、ひいては女性一般)は不幸である」という「社会的に正当な事実」が、「マイノリティは不幸でなければならない」という「当為」へと変質し、さらにその「マイノリティは不幸でなければならない」と主張するのがマイノリティ自身であるという「逆説」を上記の「正当」なマイノリティ言説は含んでいる。

つまり、「マイノリティが不幸なのは何故か、それはマイノリティがマイノリティだから=マジョリティでないからである」という論理をマイノリティが自分のものとしており、そしてそれが(フーコー的な)「言説」として社会を分断=支配していることが見えてくるのである。

そしてこの「マイノリティは不幸でなければならない」という「当為」は、本論冒頭で記した筆者の友人の言、「サマーウォーズ」の家族は「普通じゃない、異常だ」から拒絶するという「普通=マジョリティ」の差別意識、あるいは日本的同調圧力を内面化した視点と接続されるのである。

また、「バケモノの子」の主人公は「不幸だ」(これは作品内では否定されているのは明白のはずだが)という意見が、「父親とその育て方が普通でないから」ということを根拠とすることは、「父親像」の「当為」を「普通=マジョリティ」の側から決定することに他ならない。

「幸福なマジョリティによる幸福なマイノリティ表象」を批判することが、「マイノリティの自己否定」「マジョリティのマイノリティ蔑視をマイノリティが内面化する」ことを促進し、「マジョリティの支配を「当為として正当化する」」ことになり、「マイノリティがマイノリティのままで生きること=普通でない人間がそのままで生きること」を抑圧することになる、これが細田守の家族観を巡る言説の屈折である。

細田のマイノリティ観ははなはだ楽観的で、軽いのは確かである。現実においてマイノリティとして生きるとは、不幸を生きることに等しいのかもしれない。だが、「マイノリティであること自体が不幸であること」ではないはずだ。ましてや、「マジョリティでなければならない」などという「当為」があって良いはずがない。

ブログ元が消去されたが、前掲の筆者のブログ記事で引用した言葉を再掲する。

「特に自分は人とはちょっと違うとか、マイノリティの意識を心に持っている人ほど、この作品をより楽しめる気がする」

細田守のマイノリティ観が楽観的であっても、彼はマイノリティを「肯定」している。それゆえに、(おそらく幸福な)マイノリティであろう筆者は「おおかみこどもの雨と雪」を捨てることができないのである。

また最後に、先に引用したブログの締めを取り上げたい。

「この映画を見て「母の強さに感動した」とか言っちゃう男を見ると、理想の母親像を見せられたマザコン野郎が幼児退行を起こしているみたいで超絶キモいです」

http://rootport.hateblo.jp/entry/20120723/1343052351

マザコン野郎」が何故差別されねばならないのか。まさにここにマイノリティであるはずの人間がマジョリティと一体化し、社会を「マジョリティ=普通の人間の当為」で拘束している事実が現れている。

今なら私はこう答えるだろう。「私は幸福なことに理想の母親に恵まれ、母親のことが大好きです。そのことが何故悪いのでしょうか?何故、私は幸福であってはならないのでしょうか?」と。

サマーウォーズ

サマーウォーズ

おおかみこどもの雨と雪

おおかみこどもの雨と雪

バケモノの子

バケモノの子

メルキュール・デザール6月15日号が出来いたしました

| 21:27

ウェブ音楽評論・批評誌、「メルキュール・デザール(mercure des arts)」、6月15日号が出来いたしました!

私は山根一仁&北村朋幹デュオN響パーヴォ・ヤルヴィ、日フィル・ラザレフ、コンポージアム2018・ウンスク・チン、神奈川フィル・バーンスタイン個展、武満徹作曲賞本選の演奏会評を寄稿いたしました。どうぞご笑覧ください!

http://mercuredesarts.com/

2018年05月14日

【告知】ウェブ音楽批評誌「メルキュール・デザール」5月15日号です。

| 21:19

音楽批評・評論のウェブマガジン「メルキュール・デザール」5月15日号が出来いたしました!

私は神奈川フィル・川瀬賢太郎、清水一徹個展、トーマス・ピアシー、ミサ・ミード、トーマス・ヘルの演奏会評を寄稿いたしました。どうぞご笑覧ください!

http://mercuredesarts.com/2018/05/14/%E3%80%8Acontents%E3%80%8B/

2018年04月16日

【告知】ウェブ音楽批評誌「メルキュール・デザール」4月15日号です。

| 21:50

ウェブ音楽評論・批評誌メルキュール・デザール4月15日号が出来いたしました!

http://mercuredesarts.com/

私は日フィル=下野竜也、ロンドン響パーカッションアンサンブル、鈴木理恵子&若林顕デュオ、ピョートル・アンデルシェフスキ、シュニトケショスタコーヴィチプロジェクトII、アンサンブル・コンテンポラリーαの演奏会評、そして野々村禎彦氏へのクセナキス『形式化された音楽』メールインタビュー最終回を寄稿いたしました!どうぞご笑覧ください!

2018年03月14日

【告知】ウェブ音楽批評誌「メルキュール・デザール」3月15日号です。

| 20:50

ウェブ音楽評論・批評誌メルキュール・デザール3月15日号が出来いたしました!

私は新日フィル=シュテンツ、クニャーゼフ、N響諏訪内=パーヴォ・ヤルヴィJFCニューカマーズの演奏会評、そして「形式化された音楽」野々村禎彦氏へのインタビュー第2回を寄稿いたしました!どうぞご笑覧ください!

http://mercuredesarts.com/