もぐらだってそらをとぶ

2016年07月10日

7月10日 東京交響楽団 名曲全集第119回 指揮:井上道義 於ミューザ川崎シンフォニーホール

| 19:28

東京交響楽団 名曲全集 第119回

於:ミューザ川崎シンフォニーホール

指揮:井上道義(いのうえ・みちよし)

演奏:東京交響楽団

曲目(全て伊福部昭(いふくべ・あきら)作曲)・ソリスト

オーケストラマリンバのためのラウダ・コンチェルタータ マリンバ:高田みどり(たかだ・みどり)

ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲 ヴァイオリン:山根一仁(やまね・かずひと)

二十絃箏と管絃楽のための交響的エグログ 二十五絃箏:野坂操壽(のさか・そうじゅ)

ピアノオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ ピアノ:山田令子(やまだ・れいこ)


ブラボー!の一言に尽きる、しかしそれだけでは批評にならないので、ブラボー!と叫んだ自分と自分が聴いた音楽を思い返しつつ音楽体験を言語化せねばならない。しかしなんたる音楽体験であったことか!

演奏順に記そう。まずはラウダ・コンチェルタータ、ついに安倍圭子の呪縛を離れて高田みどりのソロによる演奏であったが、しかし筆者が感嘆したのは井上道義の采配によるオーケストラの響きである。伊福部昭=爆音・フォルテシモという通俗的な(そして筆者にとっては否定されるべき)固定観念を捨て、ピアノからフォルテフォルテシモにあらず)の音量でなめらかにオーケストラを動かす。そうすることによってややもすれば音楽的に意味のない単調な調べとなってしまう、この曲の難点を見事に克服してくれた。中盤から終盤にかけてのソロとオーケストラのやりとりから、終盤の全員での大乱舞へと見事に音楽的に繋がって聴こえたのはまさに井上道義の采配ゆえであろう。

ヴァイオリン管弦楽のための協奏風狂詩曲はなにより若干21歳の山根一仁のヴァイオリンの切れ味の凄まじさにつきる。中学生で日本音楽コンクール第1位入賞という前歴に偽りなし。伊福部の意図したジプシーヴァイオリン的な、華やかで優美というより凄絶で濁りのある音響を見事に再現してみせてくれた。オーケストラソリスト対話するような場面における井上のオーケストラとのアンサンブルも完璧であった。恐るべき後世が現れてしまった!

休憩を挟んでの交響的エグログであるが、しかしこれは流石に野坂操壽の年齢では曲についていくことができなかった。たしかに楽譜に書いてある音符は全部鳴らせているが、それが音楽として一体性をもってこちらに届くことはなかった。若き時代の野坂の超絶技巧に合わせて作曲された本作、もはや野坂の身ではその技巧についていけていない、そう悲しく確認してしまった。

そして筆者がベスト・オブ・伊福部昭とみなしているリトミカ・オスティナータであるが、これはなんというか「滅茶苦茶すごかった」としか言いようがない気もするが頑張って言語化すると、まず山田令子のピアノオーケストラの全てのパートが最後まで一丸となって突き進んだということだけですごい。井上道義は以前藤井一興ピアノでこの曲に挑んだことがあるのだが(FONTECのCD「伊福部昭 協奏三題」所収)その時は最後にオケとソリストが崩れ落ちてしまって終わっていた。だが今回は最初から最後まで崩れることなく終わった。全パートがとんでもない変拍子で最強音を鳴らすというこの作品で「最後まで崩れないこと」がどれだけ難しいことか!また山田が譜面通りに音にアクセントを置き複雑なリズムを再現していたことにも賛辞を述べたい。これが私の聴きたかったリトミカ・オスティナータだ!と。

ともすればフォルティシモを最大限に奏でれば良いというような解釈が蔓延する中で井上とソリストたちの繊細微妙、だが押し出すべきときには押し出すという解釈・再現には感じ入った。そして同時に、「伊福部音楽にはまだまだ先がある」という確信も持つことができた。まだまだ伊福部昭は終わらない!そう断言して今回の批評を終わりにしたい。

2016年04月23日

ジョナサン・ノット指揮、東京交響楽団川崎定期演奏会第55回、於:ミューザ川崎シンフォニーホール

| 22:01

東京交響楽団川崎定期演奏会第55回

演奏:東京交響楽団

指揮:ジョナサン・ノット

於:ミューザ川崎シンフォニーホール

ソプラノ:チェン・レイス

バス・バリトン&語り:クレシミル・ストラジャナッツ

合唱:東響コーラス

演目

シェーンベルク:「ワルシャワの生き残り」

ベルク:「ルル」組曲

ブラームスドイツ・レクイエム

まず最初に前菜というには重すぎるシェーンベルクで始まった。しかし、この「ワルシャワの生き残り」、過去のどの経験から見ても穏やかなのである。語り手が語るその惨劇に惨劇ならではの苦痛が感じられないといえばわかってもらえるであろうか。だが、惨劇を惨劇のまま凍りつかせてはならないという思いには男声合唱ヘブライ語の厳しい音が対応する。沈黙を保つ主への讃歌、それは20世紀からの置き土産となろう。

そしてベルクの「ルル」組曲においてシェーンベルクの柔らかさへの回答が与えられた。あまりにも甘やかな、あまりにも柔らかなその和声よ!12音技法を使ってなおその和声の甘やかさにたよるそのあざとさよ!組曲第一曲の出だしの時点で筆者にはその甘やかさは毒を感じさせた。もともとこの「ルル」というオペラは毒婦たるルルが最後には聖女たるルルに変わっていくという芝居の魔法を見せられるものであるが、毒婦たるルルが最初から聖女となって我々の前に音楽的に現るという点で元となるオペラとは違う作品として我々の前に現前した。そして音の解像度がすばらしい。各楽器各セクションのアンサンブルが完璧なゆえに、ソロのソプラノを響かせつつ伴奏たるオーケストラが響くという魔法、さらに第4曲ではかくパートごとのポリリズムがそれとは思わせないほど平然として音楽化されたのである。第5曲、スラムに陥ったルルの悲惨な最期を音楽化したその悲愴な音楽のその叙情性、理知に裏付けられた叙情として確かに我らに届いた。素晴らしい音楽体験であった。

本公演のメインディッシュたるドイツ・レクイエムに至っては何をか言わんや、ノットの指揮による柔らかく甘やかな、丸く入り丸く消えていく各楽器のアンサンブルの妙味を堪能し尽くした。主の御手の中にありつつ罪を犯す人間のその原罪、そして主の人間への赦しを歌った格別のレクイエムとして本作は今日の3つのドイツ音楽を締めくくった。「主のもとで死を迎える人たちは幸いである」(ドイツ・レクイエム第7曲、ヨハネの黙示録より)これが前半のシェーンベルクベルクへの回答でなくてなんであろうか?音楽は救いであり赦しである、それ以上のことは求め得られまい。

だが、あえて苦言をいたすならば、合唱の精度の低さであろうか。ドイツ・レクイエムにおいて倍音の響きならぬ音高のずれによるうなりが聴こえてしまったのは否めない。是非とも今後精度を高めていってほしいものである。

ジョナサン・ノット東京交響楽団の音楽監督となってからずっと注目してきたが、今回彼の演奏を批評として書き上げられて非常に嬉しい。音楽の地平を切り拓くものとして現れてきたノット、日本現代音楽界に新たなるムーヴメントをこれからも起こしてほしいものである。少なくとも、今回の演奏会においてその甘やかなる調べは現代音楽の通俗的な先入観を覆すものであった。これからも注目していきたい。

2016年03月31日

3月31日 ヴォクスマーナ第34回定期演奏会 於:東京文化会館小ホール

| 01:05

ヴォクスマーナ第34回定期演奏会

於:東京文化会館小ホール

指揮:西川竜太(にしかわ・りゅうた)

曲目

山本裕之(やまもと・ひろゆき):「水の音」(2006、再演)

近藤譲(こんどう・じょう):「薔薇の下のモテット」(2011、再演)

渡辺俊哉(わたなべ・としや):「影法師」(委嘱初演)

木下正道(きのした・まさみち):「中心/記念すべき谺」(委嘱初演)

(アンコール)伊左治直(いさじ・すなお):「雪」(委嘱初演)

日本現代合唱音楽の地平を切り開き続けているヴォクスマーナ、さて、今夜はどんな音楽が展開されるのかと期待して臨んだ。

テクストの意味性から離れて音としての声を現した山本作品、「ふ」「ほ」「い」「け」「や」などの声が人と人のたつ「位置」を変えて現れ、結果として8人の8声部が対位法とはまた違った立体的な形で浮かび上がってくる。ある音を歌唱する歌手の移動(連続する音を続けて違う歌手が歌う)により音響が立体感を備えて現れ、またそれとは別に単音が吹き上がって消えていく。決して一つ所にとどまらず、音楽としての「輪郭」をずらし続ける山本の確かな異能を聴かされた。

近藤作品、ハミングの海に泡のように歌詞が様々な方向から浮かび上がってくる。静寂に支配され聴きながら身動きが取れないほどの緊張感に満たされながら、つかの間現れてくる日本語が言語としてほのかに浮かび上がってくる。だが、その言語は日本語として意味をなさないま(意味を聴き取れないまま)に消えていく。言語と非言語=音の淡いに立ち上る匂やかな音楽として特筆に値するものであった。

近藤作品とある種の類似性を持って現れたのは渡辺作品である。前半、静かに立ちのぼる日本語の中に異物が混入、挿入される。後半のフォルテの部分では声の強い波の中からテクストの破片が漂って来る。いずれにせよ客席に届く声・音はプリズムで白色光が分光されたかのような色彩を帯びてやってくる。言語的意味も音楽的音声も未完のまま届いてくるその音楽に「美」を感じないわけがあろうか?

そして後半をただ一曲で締めた木下正道作品である。筆者としては「日本現代音楽界がこの人物を無視する限り俺は日本現代音楽界を認めない」と公言する人間であり、実際この批評ブログにおいても相当な登場回数を遂げている木下氏であるが、今回はすごすぎた。遠吠えのようなイントロに始まり、安らぎを拒絶する厳しく張り詰めた音楽が続く。12人の歌手に極限にまでの技巧を求めつつ、しかしその音楽は技巧のみで完結するものとしない。「問い」と「回答」がどこまでもずれたまま現れるというのはプログラムノーツにあるとおりだが、しかし「どこにある?」という問いは「実存」、すなわち「今」「ここにある」「自分」を問いかけるものにほかならず、そしてそれは「回答できない」という形において実存的に現れるものである。「我は我なり、だが我は我なるを知らず、しかし我は我ならざるをえず」という実存的な問いかけとその回答(?)を木下とヴォクスマーナ・西川は音楽化した。人間の存在をただ日常あるがままに受け止めるがごとき「ヌルい」回答を拒絶し、「実存的」に、そして実存的な「音楽」をもってその音楽の問いかけと回答とした。おそるべき音楽が現実化してしまった。この音楽は天才・木下正道の代表曲として今後君臨することになろう。

アンコールでの伊左治直の雪が降り積む中の静寂を合唱化したような暖かい音楽に触れてやっと日常人の感覚を取り戻したが、今日の演奏会は木下の圧倒的傑作をおいても実に充実したものであった。このヴォクスマーナがどこまで進み続けられるのかはわからない。だが、最後まで聴き続けてやろうではないかと思ったのは筆者だけではあるまい!

2016年03月22日

3月22日 低音デュオ第8回演奏会 於:杉並公会堂小ホール

| 01:26

低音デュオ第8回演奏会

於:杉並公会堂小ホール

演奏

松平敬(まつだいら・たかし)(バリトン)、橋本晋哉(はしもと・しんや)(チューバ、セルパン)

曲目

パウル・ヒンデミット:「8つのカノン」(1928)より

川上統(かわかみ・おさむ)):児童鯨(こくくじら)(2016、委嘱初演)

トーマス・モーリー:「二声のためのカンツォネット第1巻」(1595)より

ゲオルク・フィリップ・テレマン:「詩篇による12のカノン」(1735)より

鈴木治行(すずき・はるゆき):「沼地の水」(2009,低音デュオ委嘱作品、再演)

ヤコポ・ダ・ボローニャ:「彼女の恋人が」(1350)

ジル・バンショワ:「悲しみにくれる女のように」(15c)

杉山洋一(すぎやま・よういち):「バンショワ「悲しみにくれる女のように」による「断片、変奏と再構築」(2014,低音デュオ版初演)

パウル・ヒンデミット:「8つのカノン作品」より

徳永崇(とくなが・たかし):「感情ポリフォニー」(2016,委嘱初演)

(アンコール)バルトーク、ベラ:「カノン

フリードリヒ・K・ヴァネック「空飛ぶ蛙」

今回の演奏会を強引にでもまとめると「美奇美奇美奇美奇美?(奇?)」となろう。音楽を美の探求の道としてきた者には「なんと音楽は堕落したものか」と嘆くものになろうし、音楽を何らかの新しさの探求の道としてきた者には「なんと音楽は新しいものとなったのか」と感嘆すべきものとなったであろう。美の中に奇を見、奇の中に美を見つける、そのような人間にのみ今回の演奏会への道とそこから先へ行く道は開けている。

「美」の系譜の中にいまだあるヒンデミット、モーリー、テレマン、ダ・ボローニャ、バンショワ、については改めて言うまい。松平と橋本の確かな音楽に心安らいだ、そのことで十分満足である。

だが、「奇」の系譜に連なる川上、鈴木、杉山、徳永については字数をものせねばなるまい。彼らの奇想をそれぞれに捉える、それが批評の仕事である。

川上の児童鯨、松平がファルセットで高音のロングトーンを発する中、橋本がチューバマウスピースに当てた口で破裂音を出して、それが鯨のクリック音であるというイントロの時点で既に川上の術中に落ちた。やがてチューバ重音奏法になり松平は「ポッ」「クワッ」といった声とも言えない声を発するようになり、そして二人ともものすごく必死に音で遊び始め筆者のメモ帳にも記述しきれないほどの特殊奏法にあふれる「音楽」から、人間とは異なる知的生命体たる児童鯨の音楽が聞こえてきたのである。奇想の系譜において音楽はもはや人間のものではないのである。

鈴木作品、「音名を歌う」「チューバの奏法の解説(レチタティーヴォ様式)」「散文的謎の文章(レチタティーヴォではなく日常会話のように)」を松平があっちこっちに行きながら歌い上げる(?)中チューバあっちこっちに行きながら奏でるというあっちこっちに行っては何かにぶち当たって方向転換をする怪作中の怪作。4分30秒をキッチンタイマーで図ってコーダに行くなど作曲者の意図とは別なのかどうなのかわからないが笑いをとりつつ最後の二人のコーダ「オーオーオー」に突き進むこの作品に旧来の「美」など存在しない。あるのは「新しい奇想」のみである。まこと日本には恐ろしい作曲家がいたものである。鈴木治行、その奇想の果てなどあるや?

杉山作品、途切れ途切れの柔らかい断片がゆるやかにつながりつつ現れ消えていくという中盤までは「美」の系譜に入れても良いくらいの穏やかな曲だった。だが、断片だったものが次第に長くなってくるにつれて次第に狂ってきたのである。断片と断片の間にあった休息がなくなり、おそらくナンセンスなシラブルが音高の上下に大きな幅を持って反復される。そこに至ってもはや安らぎはない。バンショワの歌曲、パレスチナ旧国家、イスラエル国家を用いたこの作品は「政治的なまでに」安らぎはないのである。最終的に旋律へと回帰するのだが、だがここにつきつけられた問いかけに終わりは未だないであろう。

アンコール前のとりを締めた徳永作品、「感情」をパラメーターとして操作するというコンセプトだそうだが、なるほど、感情が音楽と演奏の中でクルクルと変わっていく。松平は重音声法(モンゴルホーメイのようなもの)を使い、橋本は重音奏法を使うという序盤から、感情に関するメタ的視点に立った歌詞がうたわれ、チューバの橋本も一緒に歌うということになってもう筆舌に尽くし難いほどのカオスっぷりであった。だが、竹中直人のデビュー芸「笑いながら怒る人」ほどの一撃必殺の威力はなかったのも事実。といっても、竹中直人の個人芸を歌手と奏者に要求するのもまたこれは間違いだろうからこれで良いのかもしれない。いずれにせよ、面白い作家が現れてくれた。

アンコールのバルトークとヴェネクは「美」と「奇」の間を行くようなあっという間の音楽であって批評は避けるが、しかし「奇」の可能性について深く思い知らされた演奏会であった。現代音楽における「奇」の系譜にこれだけの豊かさがあるのであれば、あるいは現代音楽における「美」の系譜にもまた新たな沃土が開けているのではないか、そうも思えるのである。だが今回は奇想の系譜に連なる面々に大いなる喝采を浴びせて終わりとしたい。現代音楽とはなんと面白きものであるかと!

2016年03月21日

3月20日 Just Composed 2016 in Yokohama 現代作曲家シリーズ「接続せよ!」 於:横浜みなとみらいホール小ホール

| 18:00

Just Composed 2016 in Yokohama 現代作曲家シリーズ「接続せよ!」

於:横浜みなとみらいホール小ホール

演奏

ヴァイオリン:亀井庸州(かめい・ようしゅう)(1)、辺見康孝(へんみ・やすたか)(2)

ヴィオラ:多井千洋(たい・ちひろ)(3)、安田貴裕(やすだ・たかひろ)(4)

チェロ:川上統(かわかみ・おさむ)(5)、多井智紀(たい・ともき)(6)

ソプラノ:太田真紀(おおた・まき)(7)

曲目・演奏(上記の数字で表記)

アルノルト・シェーンベルク弦楽四重奏曲第2番(1908)(2,1,4,6,7)

池田拓実(いけだ・たくみ):step into the same river(世界初演)(1,2,4,6)

三輪眞弘(みわ・まさひろ):「369ハルモニア2」(1,2,3,4,5,6)

山根明季子(やまね・あきこ):「畸斑(きはん)の肖像、ピカピカの太陽」(弦楽四重奏版再演)(1,2,4,5)

宮内康乃(みやうち・やすの)「Metamorphosis―弦楽アンサンブルのために―」(委嘱初演)(1,2,3,4,5,6)

始まりのシェーンベルクの複雑な書法を精緻にアンサンブルで匂い立つような色気に満ちて聴かされたとき、シェーンベルクから100年以上、現代音楽はどこまで来たのか、という企画者の意気込みを感じた。我々はどこから来てどこへ行こうとしているのか、それを聴きに来たのだと居住まいを正したのである。

池田作品、作曲者に後で聞いたところによると、ある型を決め、それを規則にそってずらしつつ反復して、一巡したら次の型に入る、というはなはだ機械的な決まりで作曲したとのことであったが、しかし耳に届くのは強烈な「きしみ」が全体を支配した、旋律の不在が不自由な即興音楽様式をつくりだしたかのような(しかし本作品は全て確定記譜されている)しかしそれでも「弦楽四重奏曲」として形をなした作品であった。どんなに機械的に、システマティックに作曲しても弦楽四重奏という型にはめたが最後弦楽四重奏となってしまうという型の恐ろしさ、面白さを再確認した。

三輪作品、平均律などの調律ではなく、弦を整数で分割し、それと開放弦とのトレモロフォルテシモで擦弦しまくるという荒々しい作品。音楽、コンポジション(作曲・構築)というより音響や音塊というべき巨大なシロモノが舞台上から迫ってくる。しまいには「あー」「えー」「いー」「おー」「うー」と奏者が叫ぶなど、三輪眞弘ワールド全開の怪作であり快作であった。だが美しいのである。ここまで無茶苦茶でなおかつ美しいのはまさに稀有の才能、作品である。

山根作品、音質・テクスチュアを作曲者が絶対のもととして固定し、音程やリズムを奏者に委ねたというものであったが、正直テクスチュアの違いはあまりわからず、特殊奏法による音質の変化に耳をそばだてられた。「ポップな毒性」に満ちた山根ワールドは依然健在で、終始「普通」から奇妙にずれた音が連続して現れてくるのに身と耳がこそばゆいような感覚を覚えた。

最後の宮内作品は6人の奏者が円を描くように立ち、しかし円の外側を向いて立つので奏者は他の奏者を見られないという異様な舞台にまず驚かされた。奏者はおじぎをするように体を前におるような動作をし、おそらく呼吸音で他の奏者とのコミュニケーションを取っていた。始めはピチカート、やがてコル・レーニョ、そしてアルコと音量が大きくなっていき、一瞬ユニゾンになったように聞こえてもすぐにずれてしまう。やがて音がディミヌエンドしていきピチカートで終わる。これもまたコンポジションというよりパフォーマンスの設計と言うべき怪作・快作であった。

シェーンベルクより百年以上がたち、音楽の先端はかくも危険なものとなっていたのかと感極まりない体験をさせてもらった。作曲者と演奏者には最上級の敬意と賞賛を払いたい。現代音楽にはまだ未開拓の地がある、そう信じてこの批評を終わりにしたい。