もぐらだってそらをとぶ

2016年08月01日

映画 庵野秀明総監督「シン・ゴジラ」

| 20:51

(ほとんどネタバレしてませんので未見の人でも読んで大丈夫のはずです)

多くの人が同感であると思うが、作中そんなに多くはないゴジラ東京蹂躙シーンには何もかも持って行かれた。日本特撮技術がまだここまで生きていたのかと随喜の涙を流しつつ目を皿のようにして大興奮して見ていた。

だが、東京蹂躙シーンを「特撮技術に感嘆した」だけで済ませてはいけない。現実に東京が蹂躙されることをこそ筆者は深層心理の中で望んでおり、それが映像の中で実現されたことに、いささかの後ろめたさと共に暗い喜びを感じていたのであろう。この腐りきったクソッタレの現実の日本が蹂躙され尽くす、そのことこそ、筆者がひそかに抱いていた願望であり、ゴジラはそれを果たしてくれたのだ。

だが、実際に日本において起こった2011年3月11日の東日本大震災そして福島第一原発事故において日本が自然と自らが生み出した力によって文字通り蹂躙されたとき、筆者はそれに対して恐怖以外の感情は持たなかったではないか。このことこそ、筆者が自分の願望に対していささかの「後ろめたさ」を感じる理由である。

一方で、ゴジラに立ち向かう日本政府の面々の活躍っぷりは筆者はなんともいえない気持ちがした。このように理想的な人間によってこの腐った現実は動かされていない、と。といっても現実のとおりに腐った面々によって日本が壊滅していく様を見るのはまたそれはそれで嫌だったであろうとは思うのだが。

やはりここでもキーとなるのは東日本大震災と福島第一原発事故である。腐った人間によって日本が蹂躙されていくのを黙って見ていたのは紛れも無い現実ではないかと。そして腐った人間は今も日本の中枢でのうのうと美味い汁を吸っているのではないかと。

ここで筆者の中には「2つの日本」があることに気づく。1つは「蹂躙されるべき、腐った現実としての日本」であり、もう1つは「守るべき人々が懸命に生きている日本」である。映画内の人間たちの「立派さ」に違和感を覚えるのは、現実世界において彼らが「腐った日本」に属しているからであり、「腐った日本」によって「守るべき日本」が守られるという、現実と作品世界での齟齬に納得いかないからである。

だが、ゴジラが蹂躙していった日本は、この「2つの日本」が重ねあわせになったものである。「腐った日本」が蹂躙されるのに喝采を浴びせるのと同時に、同じ程度に、筆者は「守るべき日本」が蹂躙されていくのを喜んだのに違いないのである。それは筆者の中にある、後ろめたい「悪意」に他ならない。

この映画を見ている時には自覚できない自分の悪意、それはあるいは破壊衝動や本能とも言うべき、意思とは別のものかもしれない。善悪や道徳の埒外にある破壊衝動に身を委ねる限り、本作は単純に興奮する一方の怪獣映画に過ぎないかもしれない。だが、一度その映像を現実とシンクロさせたとき、自らの内面にある善悪や道徳、そして自らの心の奥底にある願望との対話を余儀なくされる。この映画は決して単純な怪物映画ではないのである。

2016年07月29日

7月29日 ヴォクスマーナ第35回定期演奏会

| 01:53

ヴォクスマーナ第35回定期演奏会 創団20周年シリーズVol.1 未来を担う女性作曲家

於:東京文化会館小ホール

指揮:西川竜太(にしかわ・りゅうた)

曲目

大熊夏織(おおくま・かおり):「空を泳ぐ」(2015委嘱作品・再演)

小出稚子(こいで・のりこ):「春宵感懐」(2013委嘱作品・再演)

渋谷由香(しぶや・ゆか):「黒い森から」12声のための(委嘱新作・初演)

山根明季子(やまね・あきこ):「お名前コレクションNo.02」(委嘱新作・初演)

(アンコール)伊左治直(いさじ・すなお)「ヨルガオ」(委嘱新作・初演)

現代音楽界の男子率の高さには筆者もその男子自身ながら辟易していたところである。何故このように現代音楽には男子しかまとわりつかないのか、と。しかし稀有な例外も実在し、その稀有な例外的な作曲家を4人集めた今回はヴォクスマーナと委嘱作曲家達とその聴衆の稀有な邂逅の場として格別の機会となった。そういえばヴォクスマーナの聴衆は現代音楽にしては女性が多めであると改めて気づいたのであった。

まずは大熊作品。笑い声が全体を支配していく中に単音もしくは2,3音でできたフレーズのロングトーンが差し込まれる。ロングトーンはやがて複雑さを増しユニゾンからハーモニーへと至り、笑い声は疑問形の音型へと形を変える。ハーモニーはポリフォニックな歌へと進化し、そしてクスクス笑いと共に「ねえ、おいしかった?」の声が混じり始め、そして歌と声は解析不可能なまでの複雑なカオスへと進み、「ねーーーー」の一声で終わる。「集団の音楽」を追求したとプログラムノーツにあるが、集団の中で没個性に埋もれるのではなく、集団の中で個性をいかにして獲得するか、あるいは個性がどのように集団化していくのかという逆説的なプロセスを見聴きさせられたと思った。そしてその過程における歌声の豊かさは言うまでもない。

小出作品、イントロからかすかな、ほのかな香りを放ちつつ音が舞台上を動いていくのが感じられた。この表現は比喩的に使っているのではなく、実際に歌声が声部を越えて動くことによって声の位置が動いていったのである。このように歌詞を声部ごとに時間的にずらして現すことによって動きを得た、その歌声、中原中也の「春宵感懐」にのせられた「なまあつたかい、風が吹く」中にいることのなんたるかぐわしいことか!

後半の新作委嘱作品、まずは渋谷作品であるが、12人12声部というその時点でもうヴォクスマーナ以外に演奏できる集団がいないことは予想できるが、それにしても4分音を多用したひそかな響きに縛られるその感覚のなんと恐ろしいことか!音が凪いでいるのかこちらに迫ってきているのかわからないが、とにかく身動きがとれない、金縛りにあったかのような音楽体験をしたのである。12人12声部がお互いに絡み合い一体のものになりながらも、決して最後の所で1つにならずお互いを拒絶しているようなこの感覚、実に豊かかつ恐ろしいものであった。人間の耳がどこまで音を把握し得るのか(作曲家演奏家、聴衆のそのレベルごとにおいて)という一つの挑戦でもあっただろう。

プログラムの最後を飾った山根作品は、「○○さーん」という掛け声を、「○○」の所に実在する人物(作曲家などが多く聞こえてきたと思う)の姓や名を当てはめて延々と連ねていくという怪作である。途中口笛が入ったり声が多声部になったりするが、基本的に日常会話における「○○さーん」という掛け声がそのまま連ねられる。作曲者自身のコメントで「感情・感覚の質感を掴もうとした」とあったが、日常会話的な掛け声が連ねられるこの技法(?)によって、確かに聴いていてどこか「返答しないといけないのではないか」といった「日常的なレベルでの疑問という感情・感覚」を覚えたのは確かであった。とにかく怪作であった。

アンコールの伊左治作品も今回妙に技巧的にすごいことになっていた気がするが、とにかく日本の女性作曲家というまことにニッチなジャンルにおいてかくも豊かな実りを得ることができて筆者としては至極満足のいく演奏会となった。現代音楽、現代合唱曲の世界最先端を行く西川竜太とヴォクスマーナ、まだまだ面白いことは終わりそうにない。

2016年07月10日

7月10日 東京交響楽団 名曲全集第119回 指揮:井上道義 於ミューザ川崎シンフォニーホール

| 19:28

東京交響楽団 名曲全集 第119回

於:ミューザ川崎シンフォニーホール

指揮:井上道義(いのうえ・みちよし)

演奏:東京交響楽団

曲目(全て伊福部昭(いふくべ・あきら)作曲)・ソリスト

オーケストラマリンバのためのラウダ・コンチェルタータ マリンバ:高田みどり(たかだ・みどり)

ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲 ヴァイオリン:山根一仁(やまね・かずひと)

二十絃箏と管絃楽のための交響的エグログ 二十五絃箏:野坂操壽(のさか・そうじゅ)

ピアノオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ ピアノ:山田令子(やまだ・れいこ)


ブラボー!の一言に尽きる、しかしそれだけでは批評にならないので、ブラボー!と叫んだ自分と自分が聴いた音楽を思い返しつつ音楽体験を言語化せねばならない。しかしなんたる音楽体験であったことか!

演奏順に記そう。まずはラウダ・コンチェルタータ、ついに安倍圭子の呪縛を離れて高田みどりのソロによる演奏であったが、しかし筆者が感嘆したのは井上道義の采配によるオーケストラの響きである。伊福部昭=爆音・フォルテシモという通俗的な(そして筆者にとっては否定されるべき)固定観念を捨て、ピアノからフォルテフォルテシモにあらず)の音量でなめらかにオーケストラを動かす。そうすることによってややもすれば音楽的に意味のない単調な調べとなってしまう、この曲の難点を見事に克服してくれた。中盤から終盤にかけてのソロとオーケストラのやりとりから、終盤の全員での大乱舞へと見事に音楽的に繋がって聴こえたのはまさに井上道義の采配ゆえであろう。

ヴァイオリン管弦楽のための協奏風狂詩曲はなにより若干21歳の山根一仁のヴァイオリンの切れ味の凄まじさにつきる。中学生で日本音楽コンクール第1位入賞という前歴に偽りなし。伊福部の意図したジプシーヴァイオリン的な、華やかで優美というより凄絶で濁りのある音響を見事に再現してみせてくれた。オーケストラソリスト対話するような場面における井上のオーケストラとのアンサンブルも完璧であった。恐るべき後世が現れてしまった!

休憩を挟んでの交響的エグログであるが、しかしこれは流石に野坂操壽の年齢では曲についていくことができなかった。たしかに楽譜に書いてある音符は全部鳴らせているが、それが音楽として一体性をもってこちらに届くことはなかった。若き時代の野坂の超絶技巧に合わせて作曲された本作、もはや野坂の身ではその技巧についていけていない、そう悲しく確認してしまった。

そして筆者がベスト・オブ・伊福部昭とみなしているリトミカ・オスティナータであるが、これはなんというか「滅茶苦茶すごかった」としか言いようがない気もするが頑張って言語化すると、まず山田令子のピアノオーケストラの全てのパートが最後まで一丸となって突き進んだということだけですごい。井上道義は以前藤井一興ピアノでこの曲に挑んだことがあるのだが(FONTECのCD「伊福部昭 協奏三題」所収)その時は最後にオケとソリストが崩れ落ちてしまって終わっていた。だが今回は最初から最後まで崩れることなく終わった。全パートがとんでもない変拍子で最強音を鳴らすというこの作品で「最後まで崩れないこと」がどれだけ難しいことか!また山田が譜面通りに音にアクセントを置き複雑なリズムを再現していたことにも賛辞を述べたい。これが私の聴きたかったリトミカ・オスティナータだ!と。

ともすればフォルティシモを最大限に奏でれば良いというような解釈が蔓延する中で井上とソリストたちの繊細微妙、だが押し出すべきときには押し出すという解釈・再現には感じ入った。そして同時に、「伊福部音楽にはまだまだ先がある」という確信も持つことができた。まだまだ伊福部昭は終わらない!そう断言して今回の批評を終わりにしたい。

2016年04月23日

ジョナサン・ノット指揮、東京交響楽団川崎定期演奏会第55回、於:ミューザ川崎シンフォニーホール

| 22:01

東京交響楽団川崎定期演奏会第55回

演奏:東京交響楽団

指揮:ジョナサン・ノット

於:ミューザ川崎シンフォニーホール

ソプラノ:チェン・レイス

バス・バリトン&語り:クレシミル・ストラジャナッツ

合唱:東響コーラス

演目

シェーンベルク:「ワルシャワの生き残り」

ベルク:「ルル」組曲

ブラームスドイツ・レクイエム

まず最初に前菜というには重すぎるシェーンベルクで始まった。しかし、この「ワルシャワの生き残り」、過去のどの経験から見ても穏やかなのである。語り手が語るその惨劇に惨劇ならではの苦痛が感じられないといえばわかってもらえるであろうか。だが、惨劇を惨劇のまま凍りつかせてはならないという思いには男声合唱ヘブライ語の厳しい音が対応する。沈黙を保つ主への讃歌、それは20世紀からの置き土産となろう。

そしてベルクの「ルル」組曲においてシェーンベルクの柔らかさへの回答が与えられた。あまりにも甘やかな、あまりにも柔らかなその和声よ!12音技法を使ってなおその和声の甘やかさにたよるそのあざとさよ!組曲第一曲の出だしの時点で筆者にはその甘やかさは毒を感じさせた。もともとこの「ルル」というオペラは毒婦たるルルが最後には聖女たるルルに変わっていくという芝居の魔法を見せられるものであるが、毒婦たるルルが最初から聖女となって我々の前に音楽的に現るという点で元となるオペラとは違う作品として我々の前に現前した。そして音の解像度がすばらしい。各楽器各セクションのアンサンブルが完璧なゆえに、ソロのソプラノを響かせつつ伴奏たるオーケストラが響くという魔法、さらに第4曲ではかくパートごとのポリリズムがそれとは思わせないほど平然として音楽化されたのである。第5曲、スラムに陥ったルルの悲惨な最期を音楽化したその悲愴な音楽のその叙情性、理知に裏付けられた叙情として確かに我らに届いた。素晴らしい音楽体験であった。

本公演のメインディッシュたるドイツ・レクイエムに至っては何をか言わんや、ノットの指揮による柔らかく甘やかな、丸く入り丸く消えていく各楽器のアンサンブルの妙味を堪能し尽くした。主の御手の中にありつつ罪を犯す人間のその原罪、そして主の人間への赦しを歌った格別のレクイエムとして本作は今日の3つのドイツ音楽を締めくくった。「主のもとで死を迎える人たちは幸いである」(ドイツ・レクイエム第7曲、ヨハネの黙示録より)これが前半のシェーンベルクベルクへの回答でなくてなんであろうか?音楽は救いであり赦しである、それ以上のことは求め得られまい。

だが、あえて苦言をいたすならば、合唱の精度の低さであろうか。ドイツ・レクイエムにおいて倍音の響きならぬ音高のずれによるうなりが聴こえてしまったのは否めない。是非とも今後精度を高めていってほしいものである。

ジョナサン・ノット東京交響楽団の音楽監督となってからずっと注目してきたが、今回彼の演奏を批評として書き上げられて非常に嬉しい。音楽の地平を切り拓くものとして現れてきたノット、日本現代音楽界に新たなるムーヴメントをこれからも起こしてほしいものである。少なくとも、今回の演奏会においてその甘やかなる調べは現代音楽の通俗的な先入観を覆すものであった。これからも注目していきたい。

2016年03月31日

3月31日 ヴォクスマーナ第34回定期演奏会 於:東京文化会館小ホール

| 01:05

ヴォクスマーナ第34回定期演奏会

於:東京文化会館小ホール

指揮:西川竜太(にしかわ・りゅうた)

曲目

山本裕之(やまもと・ひろゆき):「水の音」(2006、再演)

近藤譲(こんどう・じょう):「薔薇の下のモテット」(2011、再演)

渡辺俊哉(わたなべ・としや):「影法師」(委嘱初演)

木下正道(きのした・まさみち):「中心/記念すべき谺」(委嘱初演)

(アンコール)伊左治直(いさじ・すなお):「雪」(委嘱初演)

日本現代合唱音楽の地平を切り開き続けているヴォクスマーナ、さて、今夜はどんな音楽が展開されるのかと期待して臨んだ。

テクストの意味性から離れて音としての声を現した山本作品、「ふ」「ほ」「い」「け」「や」などの声が人と人のたつ「位置」を変えて現れ、結果として8人の8声部が対位法とはまた違った立体的な形で浮かび上がってくる。ある音を歌唱する歌手の移動(連続する音を続けて違う歌手が歌う)により音響が立体感を備えて現れ、またそれとは別に単音が吹き上がって消えていく。決して一つ所にとどまらず、音楽としての「輪郭」をずらし続ける山本の確かな異能を聴かされた。

近藤作品、ハミングの海に泡のように歌詞が様々な方向から浮かび上がってくる。静寂に支配され聴きながら身動きが取れないほどの緊張感に満たされながら、つかの間現れてくる日本語が言語としてほのかに浮かび上がってくる。だが、その言語は日本語として意味をなさないま(意味を聴き取れないまま)に消えていく。言語と非言語=音の淡いに立ち上る匂やかな音楽として特筆に値するものであった。

近藤作品とある種の類似性を持って現れたのは渡辺作品である。前半、静かに立ちのぼる日本語の中に異物が混入、挿入される。後半のフォルテの部分では声の強い波の中からテクストの破片が漂って来る。いずれにせよ客席に届く声・音はプリズムで白色光が分光されたかのような色彩を帯びてやってくる。言語的意味も音楽的音声も未完のまま届いてくるその音楽に「美」を感じないわけがあろうか?

そして後半をただ一曲で締めた木下正道作品である。筆者としては「日本現代音楽界がこの人物を無視する限り俺は日本現代音楽界を認めない」と公言する人間であり、実際この批評ブログにおいても相当な登場回数を遂げている木下氏であるが、今回はすごすぎた。遠吠えのようなイントロに始まり、安らぎを拒絶する厳しく張り詰めた音楽が続く。12人の歌手に極限にまでの技巧を求めつつ、しかしその音楽は技巧のみで完結するものとしない。「問い」と「回答」がどこまでもずれたまま現れるというのはプログラムノーツにあるとおりだが、しかし「どこにある?」という問いは「実存」、すなわち「今」「ここにある」「自分」を問いかけるものにほかならず、そしてそれは「回答できない」という形において実存的に現れるものである。「我は我なり、だが我は我なるを知らず、しかし我は我ならざるをえず」という実存的な問いかけとその回答(?)を木下とヴォクスマーナ・西川は音楽化した。人間の存在をただ日常あるがままに受け止めるがごとき「ヌルい」回答を拒絶し、「実存的」に、そして実存的な「音楽」をもってその音楽の問いかけと回答とした。おそるべき音楽が現実化してしまった。この音楽は天才・木下正道の代表曲として今後君臨することになろう。

アンコールでの伊左治直の雪が降り積む中の静寂を合唱化したような暖かい音楽に触れてやっと日常人の感覚を取り戻したが、今日の演奏会は木下の圧倒的傑作をおいても実に充実したものであった。このヴォクスマーナがどこまで進み続けられるのかはわからない。だが、最後まで聴き続けてやろうではないかと思ったのは筆者だけではあるまい!