もぐらだってそらをとぶ

2013年04月16日

4月16日 會田瑞樹・溝淵加奈枝デュオリサイタル 於:杉並公会堂小ホール

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會田瑞樹・溝淵加奈枝デュオリサイタル 於:杉並公会堂小ホール

曲目

見澤ゆかり:四苦(2010/.改訂初演)

田口和行:螢(2013/初演)

糀場富美子;ぽるとがるぶみ(2002)

山根明季子;水玉コレクションNo.2(2007)

伊福部昭:アイヌの叙事詩による対話体牧歌(1956)

一柳慧:私の歌(1994)

モダニズムを端的に言うならば、「様式に対する作曲家の個性が「外面上ではあっても」無限に開拓された」ということであろう。無論、「外面上」のことであって、作家が真に個性的になるのにどれだけの血涙を流すような試行錯誤をしなければならないのか、あるいは個性的になるためにあえて歴史を勉強せねばならないのかは言うまでもなかろう。だが、やはり現代に生きる我々は現代音楽に対してこう挑まねばならない。「ここに真の個性がどのように形を成しているのか」と。「様式」とは不自由な拘束であるが、「様式」なくして音楽的個性はないという逆説をどのように突破するのか。

その意味で、今回の演奏会における前半の作品(見澤から糀場)までは「個性的な様式」という逆説を突破することに失敗していたと言わざるを得ない。「一種の儀式的趣」という様式にとらわれることによってただひたすらに観念的であるが、しかしその内実、音楽的体験には疑問符をつけざるをえない見澤作品、「感情と理性が同居し、拮抗の果てに和解を取り持つ」というより會田のヴィブラフォン耽美的な響きと溝淵の歌の表現主義的な響きがただアンバランスなまま進み、また、これは會田の演奏上の癖かもしれないが、激情的な部分になると會田が自らを制御できなく、アンサンブルとして成り立たなくなることにより、聴きどころが最後までわからなかった田口作品、歌詞内容に沿った歌唱に対して(この点で溝淵の歌唱は素晴らしかったとは言い得る)、打楽器パートが音楽的に平板すぎ、長い物語的構造を音楽的構造として構築することに失敗していた糀場作品、どれも「様式」と「個性」という相克を超え、突破できていなかった。

しかし、それに対して「個性的な様式」という逆説を捉え、それを超えていたのは山根作品である。源テクストは不明ながら、歌詞のテクストを全て「パピプペポ」に変換し、それを山根の「ポップな毒性」あふれる水玉文様の音楽として構築するという、このコンセプト→様式→演奏解釈が一続きの連続体として構築されるという「個性的ながら確固たる様式」をものした作家には改めて敬意を払いたい。ショッキングピンクと紫色と水色の毒々しい色の料理を供され、自分はそれにたじろいでいるのに主人は嬉々として美味そうにそれを食しているのを汗ばみながら見ているような悪夢的な経験、さすがは山根と言えよう。

また、「個性的な様式」というと、もうその存在自体がそれを体現していると言っても良い伊福部昭についてはもう語るも愚かという感もあるが、會田のティンパニの野趣あふれる重く荒々しい土の匂いのする音、溝淵の哀愁とともに歌うことへの素朴な喜びに満ちた、やや他人をくさするのは悪いとも思うが、藍川由美の「あまりにも堂々としすぎてる歌声」(同じ作品の藍川演奏について以前書いた批評はこちら http://d.hatena.ne.jp/MOGURAmaru/20110327/1301249736 )とは違った歌唱には感嘆した。やはり會田が荒ぶりすぎているのではないかと思われる部分もあったが(帰宅後楽譜を確認したらメゾフォルテだった部分が、演奏を聴いていた限りフォルテシモくらいだったと思われた)しかし、それもまた伊福部音楽の持つ原初的な喜びのなせるわざとも言えよう。

最後の一柳作品はモダニズムとは距離を置いた古典的な作品であるが、會田と溝淵の静かなハーモニーに心安らいで演奏会を終えられることができた。しかし、声楽作品として、「歌詞を聴かせる」という点においては、今回この作品が一番優れていたのではないかとも思わされる。実に、音楽、様式、個性というものは難しいものである。

かなり辛辣なことも書いてしまったが、語るに足る演奏会であったことは保証する。作曲家演奏家とも皆、現代音楽という難問に立ち向かっていることはよくわかった。これを書いている自分もまだまだ現代音楽という難問の門前で倒れてへばっている最中であるが、とにかく、「どうにかしてやろうではないか」と檄を飛ばして、次の機会を待つことにしたい。

見澤ゆかり見澤ゆかり 2013/04/22 01:55 >音楽的体験には疑問符をつけざるをえない
と、思った主な理由はどのへんでしょうか?

また、もし「個性的な様式」がないと自作品に感じていただけたのであるならば、個人的には今回の改訂は成功したものであるといえます。そのように書いていただいてありがとうございます。

MOGURAmaruMOGURAmaru 2013/04/22 13:20 >三澤様
身も蓋もない言い方ですが、聴いても見てもどこも面白く感じられなかった、それにつきます。「儀式的」ではあるが、しかし「儀式」の真似事であって、儀式的行為から何も生まれてくることはなかった、つまり、私の心を動かすなにかが生まれてはこなかったということです。