もぐらだってそらをとぶ

2014年03月14日

3月14日 中村和枝+河合拓始ピアノ連弾コンサートvol.4 ・・・ピアノを2人で弾くことは・・・ 於:両国門店ホール

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中村和枝+河合拓始ピアノ連弾コンサートvol.4 ・・・ピアノを2人で弾くことは・・・ 於:両国門店ホール

演奏(連弾):中村和枝(なかむら・かずえ)、河合拓始(かわい・たくじ)

曲目

河合拓始:「何#3」(2014新作初演)

山本裕之(やまもと・ひろゆき)「土耳古行進曲(とるここうしんきょく)」(2011)

高橋悠治(たかはし・ゆうじ)「とげうた」(1980/2009)

原田敬子(はらだ・けいこ)「4 Hands for a grand piano」(2010)

渡辺俊哉(わたなべ・としや)「透かし織り」(2012中村・河合委嘱作品)

平石博一(ひらいし・ひろかず)「アップ・トゥ・デイト」(1990)

伊左治直(いさじ・すなお)「機関二人猩々(からくりのににんしょうじょう)」(2014委嘱新作、世界初演

ピアノを2人で弾くことは・・・」とはなんとも魅惑的な副題である。2人のところに母娘を代入すれば何かハイソな家庭的雰囲気がかもしだされ、家庭教師と生徒を代入すれば男女、女男、男男、女女、と色々なパターンで色々な色気のあるシチュエーションが考え出せる。しかし、今回の2人とは中村和枝(古武道使い)と河合拓始(見た目は限りなく僧侶に近い。裸足)というわけで、聴衆たる我々はそのような色気は期待していない。期待しているのは「現代」の「日本」の「音楽」のみである。

まず初戦を切った河合の自作自演であるが、ややサティを思わせる奇怪さ、さっぱりとしていてさわがしくないのに確実に妙ちきりん、調性を思わせる順次進行や和音やリズムが弾かれながらもそれぞれの断片が不連続につながることによる乱反射的音楽構造に作曲者=演奏者の確実な音楽設計を聴いた。

山本作品は、筆者の耳には「トルコー、トルコー、トルコー」というイントロで始まったのだが、異常に不協和で響かない旋法(つまりメシアンの正反対の旋法)で、一定のリズムが最高音もしくは最低音で行進曲風に響きわたり、一つ一つの音に妙にテヌートがかかって粘っこく耳に入ってくるといういつも通りの山本作品で、安定の不安感を掻き立てられて実に豊かな音楽体験となった。「自分たちの文化とは異なる文脈からくる奇妙さや畏怖をいささかでも感じ」てしまったのは筆者だけではあるまい。

そして高橋作品、ひたすらに禁欲的に同音をぽつりぽつりと弾き、またそれがヴェーベルンの点描音楽のような論理構成、構築的な音楽とならない。筆者はその語のあまりに陳腐さゆえに避けている「精神的な」という形容詞を使わねばならないような音楽。第4楽章でガラッと音が多くなったものの、最後まで、ひたすら寂しく、静かな怒り、あるいは怨念を感じさせる、曰く言いがたい音楽が現前した。井上光晴のエッセイによる(つまり、井上が「全身小説家」であるゆえに嘘かもしれない)九州の海辺の民謡に題を取ったというこの作品、ある意味では高橋悠治の真の姿を現していたのではないか?

前半最後の原田作品は、まず、「弾かない」「叫ぶ」「鍵盤をひっかく」という第1楽章から始まり、第2楽章では半ペダルでわりとシステマティックに構築された音楽なものの、第3楽章では再び「tu」という無声音やピアノを「コンコン」と叩く音、内部奏法などが主体となり、最初から最後まで「ピアノを弾くという行為、ピアノから出る音」を異化してやまない作品であった。しかし、先の3作と違うのは、原田作品のその乾き・冷たさ・無機質さであろう。まさに冷静な「解体」作業が行われたのである。

休憩を挟んでの渡辺作品、これは名作・名演であった。決して小さい音量や少ない音数ではないのだが、一音一音がとてつもなくはかなく、触れなば消えなむ音楽なのである。2人、4手の音のピアニズムの妙技たるや、言葉に言い尽くせないほどの繊細さであり、この作曲家と演奏者の可能性をお互いフルに引き出した名曲・、名演と言えよう。「ピアノを2人で弾くこと」の難しさを越えた面白さ・音楽的豊かさを改めて知らしめられた。

平石作品は、演奏に必要なカロリー量においては今回随一だったであろう。70年台、スティーブ・ライヒが一番輝いていたころに限りなく近い、一つ一つのフェイズがきらめき、そしてそのフェイズが変換されるときにたまらなく盛り上がるというミニマル・ミュージックの妙技である。しかし、予想はしていたが、2人の拍子が違っていて(1小節を4拍子か5拍子で弾くかなどで2人の拍節がズレている)非常に疲れる曲だそうである。しかし輝かしい音楽である。

最後を締めた伊左治作品は、酔っ払ってろれつが回らなくなった民謡をさらに変奏曲的に展開するようなこれまた作曲・演奏両方の技術的限界に挑む作品。素直に面白いのだが(すなおのシャレではない)、よくこれを書き、弾いたものだと今回の演奏会の締めにふさわしいものであった。終曲は少し切なさを感じるディミヌエンドであり、楽しいこの演奏会の一時に別れを告げるようであった。

今回の「現代日本音楽」を聴いて抱いた希望は、「どの作品も同じものがない」ということであろう。どれもこれも皆オリジナリティにあふれた、それぞれが個性的な作品である。そして、それがただ奇をてらったものではなく、音楽としての意味にあふれた充実した作品であること、さらにそれを再現できる逸材がまだこの国にいるということ、これほど喜ばしい事実はあるまい。いつものように吠えてこの批評を終わりたい。まだ現代音楽は終わってない!と。