もぐらだってそらをとぶ

2015年09月02日

9月2日 高橋アキ+河合拓始 二台ピアノによるデュオ・コンサート

| 00:44

高橋アキ(たかはし・あき)+河合拓始(かわい・たくじ) 二台ピアノによるデュオ・コンサート

於:両国門天ホール

曲目

ジョン・ケージ家具の音楽エトセトラ」(1980)

モートン・フェルドマン「二台ピアノのための二つの作品」(1954)

同「二つのピアノ」(1957)

同「垂直の思考1」(1963)

クリスチャン・ウォルフ「ピアニストのためのデュオ2」(1958)

湯浅譲二(ゆあさ・じょうじ)「プロジェクション・エセムプラスティック」(1961)

三宅榛名(みやけ・はるな)「反世界詩篇」(1987/95)

西風満紀子(にしかぜ・まきこ)「メロディア・ピアノ4」(2015、世界初演

ピアノ二台による即興演奏

(アンコール)ジョン・ケージ「エクスペリアンシズ第1番」

もはや語ることも不要なほどの大家でありながら大家然としたところが驚くほど全くない、唯一無二だが孤高ではないピアニスト高橋アキと、独特の姿勢で音楽と向き合う異能の音楽家・河合拓始のピアノデュオと聴いては行かずばなるまいと臨んだ今回の演奏会、果たしてそのピアノデュオはどんな音楽を奏でるのか?

1曲めのケージ、サティの断片を反復する、跳ねまわるように弾く、点描に近い形で弾く、の概ね3パターンを音高や順列などを変えてつなげたように聴こえた。跳ねまわるように弾くところなど非常に激しい音楽なはずなのだが、何故か安らぐ。そして時折(3回だったか?)挟まれる二人とも休止するゲネラルパウゼの部分で会場のエアコンの音などの音を聴くとき、「ああ、この安らぎはケージだなあ」と思わされてしまうのである。これはケージ初心者の病であろうか?しかしともかくもこの時既にピアニスト二人の術中にはまったと言えるのである。

続いて3曲ほぼ連続して演奏されたフェルドマンであるが、やはり名人によるフェルドマンの生演奏はオーディオを通しての音楽とは全然違う。いつまでも聴いていられる。飾り気の全くない、素材のみによって構築された音楽がここまで豊かな体験をさせてくれるのかと改めて感動した。

ケージとフェルドマンがそれを体験する人間をその内面に向けていくベクトルを持っているのに対して、ウォルフは逆に外に向かって開かれていく。図形楽譜と内部奏法によって次に何が来るのか全くわからないスリリングな体験、何故か「雄大さ」を感じさせてくれる音楽であった。

後半始めの湯浅譲二図形楽譜を使い内部奏法などを持ち込んだ点でウォルフに似ているとも言えるのだが、何故か湯浅の場合は音楽が物語的な色彩、それも悲劇的な色彩を帯びて現れてくる。「悲」であり「劇」であるというのは全く音楽というものの不思議であるが、しかしそのように感じる音楽というものも確かにあるのだ。

そして三宅榛名の音楽は狂気をはらんだ喜劇と言うべきか。明るいんだか怖いんだかわからないのである。特にマーチの調べに低音のドローンがつきまといつつクレシェンドしていく所など最高に不気味な音楽であった。映画版「ドグラ・マグラ」のために作曲したモチーフが使われているという話であるが、なるほど、と思わされた。

西風はフェルドマンmeets日本情緒とでも言えようか。ものすごく低速度でのテニスの試合を聴いているように静かな中で二つのピアノがボールを投げ合う。日本情緒の原因は定かではないものの、何故かそう感じられたからしょうがない。フェルドマンほどの純化された音楽であったかと言われるとこの「日本情緒」が邪魔をするようだが、しかし逆にこの日本情緒がオリジナリティとなっているようにも聴こえた。少なくとも筆者にとっては面白く心地良かった。

触れなば切れなむと言った風情の即興は高橋のクラスターがゴンゴンなる序盤から中盤を経て、最終的には二人で高音をキラキラと光るように弾いて終わるという、聴いている最中にはその音楽的論理がわかるが、しかし聴きながらも次に来るものがどういうものかは最後までわからないという即興の妙味を味わえた。まさに当意即妙である。

アンコールのケージの初期作エクスペリアンシズ第1番まで至ってこの演奏会を振り返ってみると、実に味わい深いものであった。沈黙と語りあい、噪音ともまた語り合う。そのようなかけがえの無い音楽をもたらしてくれた二人のピアニストに心よりの「ありがとう」を言い、そして彼女・彼らがまだ終わりでないことに喜び、そして問いたい。現代音楽はまだ終わってなどいませんよね?と。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/MOGURAmaru/20150902/1441208678