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海底800mメートル

September 21, 2007 第2部「自分」第3章『風の谷のナウシカ』

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風の谷のナウシカ 1 (アニメージュコミックスワイド判)

風の谷のナウシカ 1 (アニメージュコミックスワイド判)


 言わずと知れた国民的アニメ宮崎駿監督の代表作です。最終戦争後の世界を舞台に、遺伝子工学によって生まれた新人類と新生物が、旧世界からの遺物との闘いを繰り広げる壮大な物語です。…なんてあらすじを解説し始めると、映画しかご覧になってない方からは「おや?」と思われてしまうでしょう。アニメの知名度に対して、原作がほとんど読まれてないという不遇の作品です。「自然vs.人間」の単純なエコロジーがテーマだと思われてしまっているのが、残念でなりません。というか、なぜみんなジブリファンを自称していながら原作を読んでくれないのか、苛立ちさえ感じます。


 なんといっても僕は、自分の娘の名前まで、この『ナウシカ』にちなんで付けてしまったほどのコアなファンですから、ゆずれないものもあるのです。最近のジブリ作品と、そのディズニーブランドのような扱われ方を見ていると、憤懣やるかたない気持ちでいっぱいになってしまいます。マニア根性丸出しですが、大衆化することで失われてしまうものもあるのではないでしょうか。子供の頃に観た『コナン』や『カリオストロ』のなんと素晴らしかったことか…。ワクワク、ドキドキ。宮崎アニメを観たその日の夜は、床についてからも目が冴えてしまって眠れないほどに、子供心を掻き立てられたものです。


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 しかしこれの5巻には、それとはまた違った意味でヤラれてしまいました。もう子供とは言えない、大学2年生の時です。『ナウシカ』の連載が始まったのは、僕が中学校1年生の時、まだ宮崎駿さんの名前もぜんぜん知られていない頃でした。その後のアニメナウシカ』、『ラピュタ』、『トトロ』、『魔女宅』の製作により、幾度となく連載が中断されたおかげで、完結するまでに12年もかかった作品なのです。その全7巻あるうちの5巻、まだ物語の中盤ですが、全体を貫くテーマはここで最初の頂点を迎えていると僕は思います。明治学院大学稲葉振一郎さんは、この作品から非常に高度なユートピア論を導き出されています。『ナウシカ解読〜ユートピアの臨界』。こちらの方も是非ご一読をオススメしますが、僕が考えるこの漫画のテーマはユートピア論ではありません。最終巻の帯には「いのちは暗闇の中のまたたく光だ」という言葉が謳ってあります。僕の解釈で言えばそのテーマとは「生命と愛」です。夏の終わり。当時付き合っていた子と別れたその日に読んだので、ことさらそう強く頭に焼き付いています。


 その日は夜から新宿でバンドの練習があったのですが、別れ話が(自分の意に反して)早々にカタをつけてしまい、僕は変に時間を持て余してしまいました。経験ある人もいると思いますが、自分から切り出した別れ話に自分の方がショックを受けているような心境でした。新宿南口にある「まんがの森」にふら〜っと入り、ちょっと前から発売になっていた5巻の表紙に吸い込まれるように手を伸ばしました。そして、近くにあった銀行の植え込みに腰掛けながらパラパラと読み始めたのです。喫茶店にひとりで入る財布の余裕と気持ちのゆとりもなかったので…。


 放心状態のうちに読み始めたのですが、その後の人生が一変するような衝撃を受けました。そこに描かれていた愛の強さに打ちのめされたのです。4巻までは単なる敵対関係だと思っていた世界観が180度ひっくりかえされ、実は強烈な愛に基づいて構築されていたんだということに気付かされました。「自分の愛はなんて貧弱で、ちっぽけだったんだろう」という自責の念に追い立てられ、自分の足元がぐらつくぐらいの感覚を憶えました。まだまだ暑い日が続いていた頃ですが、アスファルトが本当にぐんにゃりと曲がるような気がしました。僕はどんな悲しい映画を観ても泣けないタチなので、その時も涙は出ないままに嗚咽していたと思います。人混みの中を歩き出した時、平衡感覚を失って倒れそうになりました。『うる星2』で面堂の足もとに水が拡がるシーンがありますが、まさにあんな感じでした。


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 何にそんなに衝撃を受けたのか。ひと言で説明するのは難しいのですが、人間の性、生き物の性を「愛」という概念で科学的に解き明かしてくれたところでしょうか。他の生物を殺さなくては生きていけない人間の性。全滅の危機に瀕しても殺し合いをやめない人間の性。肉親同士でさえ裏切り、搾取し合う人間の性。ナウシカはそんな人間の醜さ、残酷さを目の当たりにしながらも旅を続けます。いくつもの戦場、絶滅した村を渡り歩き、絶望に打ちのめされながらも、死屍累々を乗り越え、前へ進みます。


 さらには、人間の残酷さだけではなく自然の残酷さ。森や蟲が持つ狂暴な側面も容赦なく暴かれます。弱肉強食を基本原理とする自然界。人間に数々の災害をもたらす自然界。漫画だけではなく現実世界でも自然が過酷なのは、地震、洪水、冷害とあたりまえのことですが、物語の中では粘菌という生物兵器まで登場させて、自然の脅威を描き出します。宮崎アニメの残酷さは様々なところで指摘されている通りですが、マンガ版の『ナウシカ』ではさながら地獄絵図のような様相を呈しています。


 「自分は生まれて来てはいけなかったのか」。生物兵器である粘菌にも、巨神兵の子であるオーマにも、そしてナウシカ自身にもこの重い命題がふりかかります。自己否定、自己疎外、自己嫌悪。誰もが若い時に一度は直面する苦しみでもありますが、ナウシカの場合、人類すべてのそれを背負い込んでしまいます。人類は滅びるように定められた、この星にとっての災いの種なのか。


 その答を探す旅を続け、ナウシカが辿り着いた結論が「いのちは暗闇の中のまたたく光だ」でした。7巻の最後で登場するセリフですが、文明批判を機軸にして進行していた物語を、生命賛歌へと転換させたのがこの5巻だったと思います。「どんな生命でもよろこびや充足を知っているのに」、「食べられながら自分も食べてまじりあって」、「苦しみを食べようとしていたんだ」、「それが蟲と木々との愛情なんだ」…、セリフを並べるだけでは伝わらないと思うので、ぜひ原作をお読みになってください。弱肉強食という難しいテーマに見事な解答をつけています。阿鼻叫喚の極限状態を描ききってこそ発揮される素晴らしい説得力です。


 他の動物を殺さなければ生きていけない人間の罪深さは、様々な宗教でも取り沙汰される通り、人類普遍のテーマです。菜食主義は東洋にも西洋にも存在しますし、ブームにさえなったりもします。が、僕はその命題に対して、満足のいく解答に出会ったことがありません。そもそも肉を食べなくても、殺生をまったくしないで生きていくことは不可能です。人間の体のつくりに反する、自然の摂理に逆らうような偽善性すら感じてしまいます。


 それがこのように「愛」という概念で括られて、はじめて納得できたのです。生き物同士の殺し合いを「愛」で説明しようというのは、ずいぶん無理があるように思われるかもしれません。ひと言に「愛」で括ろうとしてもそれは決して生易しいことではありません。性悪説のように人間の存在を否定したり、禁欲を強いる教えが多いのに対して、人間を全面的に肯定する宗教はなかなかありません。人の所業を全肯定することはそれだ難しいことなのです。それはまさしく人間という存在を愛することの難しさにつながります。


 ナウシカは罪深き人間や、遺伝子操作による新生物、存在すら許されない生物兵器までをも愛そうとします。しかも生半可に愛するのではなく、何度絶望しながらも命がけで愛そうとするのです。その姿は痛々しくすらありますが、自分の愛の矮小さに恥じ入りたくなるほどの力強い姿でもあります。ただ闇雲に愛しているのではなく、この世界の謎を解き明かし、真実に近づくことで、彼らの、そして人類の存在を肯定しようとするのです。そしてナウシカが辿り着く真実は、勝手な思い込みなどではありません。納得のいく科学的な考証に裏付けられています。


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 そもそも自然の摂理と言ってもよい「愛」でさえも否定されることが多々あります。こちらの方を先に問題視した方が良かったかもしれません。弱肉強食の食欲以上に、性欲が多くの宗教タブーとされるのは何故でしょうか。人間の3大欲求のうち2つまでもが禁じ手となってしまうというのはおかしな話です。僕も長い間疑問に思ってきましたが、第二次性徴期からこちら、様々なコンプレックスや自己嫌悪と結びついて、弊害をもたらすことも多いのが、この性への罪悪感です。生命の根元に関わる大切な問題において矛盾する人間感情を、デズモンド・モリス*という動物学者は以下のように説明します。『ナウシカ』の解説としてはちょっと場違いな気もしますが、有名な著書『裸のサル』から引用して、ここに要約させて頂こうと思います。


 彼の主張によると、人間という名の裸のサルは、霊長類史上もっともエロティックな進化を遂げた存在なんだそうです。そもそも体毛が無くなり、裸の皮膚を持つようになったのも、性交時にお互いの感触をより強く感じ合うという機能に一因があるんだそうです。その証拠に霊長類に於いてだけでなく、全ての生物に於いて性交時間が最も長いのが人間なんだそうです(本当? 個人差大きくありますが!)。前戯から始まり、長い時間をかけて、お互いの体の部位を重ね合わせつつ、性的な刺激を交換し合う。人間のオスはゴリラを凌ぐ霊長類最大比率のペニスを有し(本当? 個人差大きくありますが!)、メスは自己擬態と呼ばれる進化を遂げます。この本の説によると、人間のメスが丸く膨らんだ胸を持つようになったのは、自己のお尻を擬態しているからなんだそうです。授乳という機能に関してだけなら、他の類人猿と同じように萎んで垂れ下がった乳房の方が、乳児に吸いやすくて都合が良いのだそうです。これは人間が直立歩行をするようになり、性器が体の下位にまわって目立たなくなってしまったからで、性的な信号を発する部位を、体の前面に持ってきているのです。人間だけが赤くめくれあがった唇を持つのも、自分の性器を擬態しているからだそうです。


 モリスは人間のこのセクシャルな進化を、他に6つの理由を挙げながら説明しています。その中でも最大の理由は、やはり最大の脳を持つことに起因するとしています。人間の子供は、その大きな脳を発育させるために、長期の親の擁護を必要とします。他のほとんどの動物が誕生直後から直立し、生後1年をかけずに親元を巣立つのに対して、人間の子供が第二次成長を終えるまでには少なくとも15年以上の歳月を要します。その間母親は、狩猟をし、家族を守る父親を、強力な性的刷り込みで、自分の元に惹きつけておかなくてはなりません。他の動物と違って発情期を持たず、逆を言えば四六時中発情していて(妊娠期間中も)性交可能なのは、この夫婦間の結びつきを強めるためなのだそうです。交尾をする前にも、儀式付けられた婚姻制度を持ったり、さらにその前にも言語や接触によるコミュニケーション(つまり手紙やデート)にじっくりと時間をかけたりするのも、この長い婚姻生活のための前哨なのだそうです。


 また一方で人間は、その大きな脳を使い、自分の貧弱な体を補う強力な武器と、言語コミュニケーションによる協力体制、つまり社会を発展させることに成功しました。これは、ゴリラやニホンザルのようなポリガミーや、チンパンジーのようなオルジガミー*の否定を意味します。オスが一匹の魅力的なメスを巡っての闘いを繰り広げると、致命的な武器による殺害や、社会の崩壊を招いてしまうからです。よって人間は無益な性競争を避けるため、顔の特徴による個体識別に過度に頼り、特定の個体との性的成熟を遂げるように進化してきたのです。彼に言わせれば、これまた人間だけに特有な処女膜の存在も、一種の貞操帯としての機能を説明しているそうです。(世界には一夫多妻制を採択している社会が少なからず存在しますが、前述したように、彼はあくまでも成功した主流社会をサンプルとする学問的姿勢を取ります。)


 さてこうなると人間は、互いに強い性的吸引力を持ちながらも、性競争を回避しなくてはならない宿命を負わされることになります。セクシーで敏感な体と強い性衝動を持ち合わせながらも、それをひた隠しにしなければいけないという矛盾した存在になるのです。ここからは僕の私見も織り込みますが、これが多くの社会や宗教において性がタブーとされる理由です。ほとんどの社会において、生殖活動は夜、人目のはばかれるところで行われます。女性は自分の体をセクシーに発達させながらも、それを衣類で覆い隠さなければいけません。強すぎる性的信号はより優秀な異性を惹きつけますが、異性同士の敵対心をも煽ってしまうからです。特に男性が好戦的だったり、多妻制を採る社会では、全身を覆い隠すまでの必要が生じます。教育において性は罪悪感とともに刷り込まれ、日常生活の場から隔離されることになります。


 しかし、あまりに性が抑圧されてしまっても、それはまた種の破滅へとつながります。大脳の理性に打ち勝つだけの強烈な報酬、というか快感を性に付随させなくてはなりません。特に人間に於いて生殖活動は、必ずしも繁殖だけを意味するのではなく、夫婦間の強い結び付きと、子供の育成、健全な家族生活を意味するので重要です。大脳と性感は、先をこぞってより大きく、大きくと進化してきたのです。理性が強くなれば、そのぶん性欲も強くなり、性欲が強くなれば、そのぶん大脳が発達する…、というシーソーゲームが人類の進化だったのです。人間のメスがあらゆる生物の中で最も強烈なオルガスムスを体験できるというのもこのためで、他の動物のメスは快感すら感じていないという説です。


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 これで、人間が強い性欲とそれへの罪悪感を背負って生きていること両方への説明となったでしょうか。単なる下ネタを開陳しただけかもしれません。が、もともと人間はその矛盾を抱えている訳ですから、自分の生に、性に、もっと肯定的になって良いと思います。もっと肯定的に愛し合って、恋をすれば良いと思います。僕流に言わせれば、裸のサルは、唯一「恋をするサル」なのです。時間をかけて異性と出会い、さまざまな手続きを踏み、深く濃厚な性交をし、面倒な子育てをしていくように進化してきたのです。ここで言う「恋」とは、儀式や慣習までを含めたその過程すべてです。愛のために交わされる言葉、詩、文学も含みます。僕たちは野生的な「性欲」を文化的な「恋愛」へと昇華させる力を持っています。


 なんだか言葉の定義のようになってしまいましたが、それでは「愛」とは何かというと、ここでは人間だけではなく、生物すべてに備わっている相手を求める感情を意味します。本能と言っても良いでしょう。いや、『ナウシカ』では、弱肉強食食物連鎖をも「愛」で説明していました。「食べられながら自分も食べてまじりあって…それが蟲と木々との愛情なんだ」食欲も、性欲も、生命には必要不可欠な欲求ですから、両者に快感が伴うのも、偶然の一致ではありません。たとえそれが粘菌のような痛みであってもです。クサい言い方ですが、その別れた当時『ナウシカ』が僕を責め立てたのは、「自分は彼女の痛みを食べることが出来なかった」のだという悔恨です。人の痛みを共有できる喜びを、青い僕はまだ知らなかったのです。愛とは生命にとっての喜びです。考えてみれば、この地球はなんとたくさんの喜びで満ち溢れていることでしょう。ある者にとっての死も、またある者にとっては生命の源です。それは喜びへの活力となり、新しい命へと生まれ変わっていきます。食物連鎖生殖活動、ふたつの競争原理を機軸に僕たちは進化してきたのです。


 僕たちがもし、原始の単細胞生物のままだったら、雌雄の区別もなかったら、弱肉強食食物連鎖はないけれど、愛もまたない、無色、無臭、無音の世界に生きていたことでしょう。珊瑚礁の海からアマゾン熱帯雨林アフリカサバンナからアラスカの雪原まで。様々な色、形、鳴き声、大きさ、スピード…。花は交配の為に甘く香り、色とりどりに咲き誇ります。鳥たちは異性を求めてさえずり、美しさを競い合います。より生き残るための驚異的な擬態や戦略、寄生や共生の形態。この地球の生態系は、食欲と性欲により、これだけ豊かな世界、生態層を実現したのです。


 ナウシカは訴えます。「私達は世界の美しさと残酷さを知ることができる。私達の神は一枚の葉や、一匹の蟲にすら宿っているからだ。」…八百万の神とは、この世界の生命をつなぐ目に見えない絆です。目に見えない愛です。すべての物体の間に万有引力の法則が働くように、すべての生物の間には吸引力が作用しています。それを文化的に言うと「愛」となり、科学的に言うと「遺伝子」となるのです。一枚の葉にも、一匹の蟲にも宿っている遺伝子の力を、僕たちは愛と定義しているのではないでしょうか。僕たちは文字通り愛の結晶であるのと同時に、遺伝子の結晶なのですから。


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 最後に前章の『ガタカ』に戻ります。僕は前回、「人間は遺伝子の奴隷にすぎない」とか「遺伝子至上主義は世襲制社会を復権させる」などと、遺伝子を否定するような態度をとってきました。が、人工授精でバースコントロールをし、デザイナーズチルドレンを生み出す『ガタカ』のような社会は、真の意味で遺伝子を理解している社会とは言えません。遺伝子や進化というと、自然淘汰、優秀な遺伝子だけが残っていくように錯覚をしがちですが、自然とはそのような画一性からはほど遠いものです。ゆらぎと多様性こそが豊かな生態系を築いているのです。問われるべきは遺伝子自体の優劣ではなく、その多様性から無限に拡がっていく可能性の方です。『ガタカ』で夜明けの海に漕ぎだしていった若者たちはその可能性の象徴であり、ナウシカ突然変異体の生物兵器の中に愛を見いだし、遺伝子レベルで完璧に計算された新人類を否定したのも同じ理由からです。予定調和の閉ざされた世界よりも、現にこの世に生きている生命の可能性に賭けたのです。前時代の人間が押しつけるユートピアよりも、自分が愛する人や蟲、木々の持つ喜びや苦悩、生命の息吹を優先させたのです。どんな価値観を持ってしても、遺伝子に絶対的な正義や善悪をつけることはできません。どんな遺伝子を持っていようが、個々の生命は暗闇の中のまたたく光、僕たちは愛のネットワーク上における結節点、相対的、相互補完的な存在なのです。


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「デズモンド・モリス」

1928-、英。


ポリガミー、オルジガミー」

ポリガミーは複婚、一夫多妻制。オルジガミーは乱婚制度のこと。現代の恋愛の風潮はオルジガミー?

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