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  映像研究

言葉の実験を

 
・書く時間はふと訪れる。ホームセンターで木材をカットするのに意外と時間がかかるからちょっと入った駅前のコーヒーショップで書く。日常的な事柄を、起こった事柄を、考えている事柄を書こうとするけれども、そのすべてを書けるはずがない。さしあたり自分は引っ越しのただ中にいる。あるいは引っ越しの大きな波が少し落ち着いた時間の中にいる。住む場所、住む環境、住む空間のことについて自由研究したい。それは当面の自分の(許された)研究とはまた違った研究だ。だけれどもほんとうはそれは確実に繋がっていることでもある。映像について・美術について・抵抗運動について・その他の色々について考えることと「住まい」について考えることが繋がっていないはずがない。


・それは去年一年で一番楽しみにしていた雑誌の連載だった山本理顕という人の『個人と国家の〈間〉を設計せよ』に書いてあったことを思い出すきっかけにもなる。そういえばその連載は『権力の空間/空間の権力 個人と国家の〈あいだ〉を設計せよ』という本になったのだから、それをあらためて読み直したい。可能ならば何人かでそれを読みながら、住むことや住宅、そして生活することについてフリーダムに話をしたいけれども。あるいはその本を読みながら考えることは、たとえば「都市」と「物質」について、それは商品について考えることや、かつて商品だった物が打ち捨てられてゴミになっていることや、家の中に個人が特別な想いを持っている物がひっそりと置いてあることについて考えることになるかもしれない。


・同時にもっと言葉の実験を。あるいは映像の実験を。ずっと「記録」だと、「メモ」だと、「備忘録」だと考えてきたことに対して、この慌ただしい時間の中に「記録ではない言葉」「記録ではない映像」を残すことができるならば。それ以上にわくわくすることはないかもしれなかった。その予感の中に手がかりがあるかもしれなかった。「必要に迫られて何かをすること」と「必要だから何かをすること」を区別してみる。その「必要」はどのような種類の「必要」なのか、考えてみたいかもしれなかった。言葉を書くことの、映像を撮る/見ることの自由を、もう一度(自分のこととして)考えてみたかった。


・とかについて考えつつ、カットされた木材を車に積み込んで新しい家に帰る(その後また別のホームセンター的な店に出かける)。