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  映像研究

切実な表現というものがまだあり得るのならば

 
・ふと思い立ってamazon七尾旅人『兵士A』のDVDを購入した。何かしらひっかかるところがあったけれども、急に「今これをみなければいけない」と思ったのはどういうことなのか。「切実な表現というものがまだあり得るのならば」そういうものを見たい。誰もが生活することに必死であるならば、その結果としてどんどんそういった「切実な表現というものがまだあり得るのならば」からは遠ざかっていくように思った。労働が痛みを伴えばその痛みを和らげるためのアプリケーションが開発される。キャラクターが必要とされる。柔らかくデフォルメされた形態が目を和ませる。しかし一方で、テキストを記すことも、イメージを残すことも、言葉を話すことも、本来はすべては「切実な表現というものがまだあり得るのならば」ということであるはずだった。驚くほどの速度で驚くほどの距離へ運ばれていく。そういう実感がないですか? 直接的な内容のことはさておいて、『兵士A』をみて思ったのは、音楽、空間、映像、言語、そしてもちろん歌、からだ、顔、物の細部、それぞれのなし得る力について。その力が解放されるさま。その解放の手がかりが解き明かされる過程。それが記録からも伝わるように感じる喜び。 しかし、一方で、例えば「残された時間は」というようなことを、そういう言葉で考えること、考えなければいけないことは、やはり喜びではなかったはずだった。中断。


・オリンピックの不穏さ、嵐の前の小さな凪、「私たちも、ニッポンのお役に立ちたい」などという狂ったキャッチコピーを許してしまう絶望的な弱さ、アニメーションとゲームの麻薬的な役割、エンターテイメントの効能、都市以外を想像することの困難、トレンドの更新。


・例えば8年前ならば、あるいは6年前ならば、例えば『兵士A』をみたときのように、何か強力に心を動かされたものと出会ったしまったときに「うわ〜すごい、すごいからちょっと、みんな集合!」とメールまたはメッセンジャーで呼びかけたならば、即席の会合が、いつでも、どこでも、いつまででも、あり得た。あり得たのだと思う。何故か無限に時間があったように思う。お金がなくとも食事とお酒があった。そしていまそうした集まりが、化学反応が、ミーティングがないのは、年齢なのか、星回り(?)なのか、社会の何かが影響しているのか、それは考えるべきことであるだろう。しかし、ひとまず、いまは、プールを泳ぎきるしかない。だから、エネルギーは発散するとともに、(大切に)保存しておく。