2009-12-06
自殺について
- 作者: ショウペンハウエル,Arthur Schopenhauer,斎藤信治
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1979/04
- メディア: 文庫
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最近ショウペンハウエルの『自殺について』を読んで色々と思うところがあったので書いてみます。
俺が買ったのは岩波文庫ので、自殺についての散文以外にも他4編が書かれているんですが、そちらの方もなかなか面白かったです。彼はカント派の観念論者で、唯物論者な俺からすると、色々と変なこと言ってるなと感じる部分もありますが、世界の捉え方、人間の本質、人間の「死」における考え方についてはかなり理解できる部分が多かったです。
彼は仏教マニアだった
ショウペンハウエルは仏教が大好きなようで、本書の中で輪廻という概念をよく使っている。彼によると、この世は劇場の舞台のようなものであり、俳優達が仮面を被って繰り返し違う脚本の劇を演じていることになるらしい。そしてその俳優達は人間であり、世代は代わってもその核心(魂みたいなものか?)は涅槃に入るまで、輪廻の仕掛けによって踊らされつづける。彼らが演じている劇は本質的には同じことをしているに過ぎない。けれども時間という概念によって自分たちが同じことをしていることには気づけないということだ。
もし輪廻なんて概念が本当にあるとしたら、それこそ俺にとっては無限地獄ですね。あ、でももし、ソクラテスが未だに解脱してなくて、現代人として働いていたらそれはそれで面白そうだ。しかしそうなると、彼はまた処刑されてしまうことになるのでは。というかこれってニーチェの世界は無限回繰り返されているっていう考えにちょっと似てますね。
物事の本質と現象
ショウペンハウエルによると、我々は煙や火のような現象と同じであり、時間という概念によって常に変化することを強いられているらしい。例えば人は常に物を食べ、それを排泄するというプロセスを繰り返していかなければ生きていけないし、石は水や風によって風化する。
現象とは物自体と対立するもの、というより物自体から生み出されたものと考えることができる。例えば赤色という概念はいつの時代でも赤色である。それは物として人間が認識できる赤ではなく、あくまで概念としての赤である。それが物自体という物事の本質ということになる。その理論から導き出されるのは、人間というのも物自体として雛形のようなものが用意されており、我々の現存在自体はそこから生み出された単なる現象ということだ。赤という概念から生み出される赤い物体のように。そして物自体という本質には時間からの束縛を受けていないという共通点がある。
後の説明は以下2つの引用で十分だろう。
通例、人間の生涯とは、希望に欺かれて死のかいなにとびこむ、というこのことにほかならないのである。
我々の人生の場景は粗いモザイックの絵に似ている。この絵を美しいと見るためには、それから遠く離れている必要があるで、間近にいてはそれは何の印象をも与えない。それと同じ道理で、何かしら憧れていたものを手に入れることは、それを空しいと覚ることである。
写真や絵、思い出といったものが時に人の眼に美しく映るのは、それが時間という概念から切り離されているからなのかも知れない。また、それは日常に潜む非日常への可能性への示唆により、人の潜在的な欲求が満たされるからではないかとも思った。
自殺について
これが本書の中で俺が一番興味をもった部分であり、今回書きたかったことでもある。文章が長くて痛いので覚悟してください。ショウペンハウエルによると、
世界はまさしく地獄にほかならない。
これで完。 としたい所だが、それでは理解してもらえないので書くしかない。
俺は昔から「死」について妙に気が引かれることがよくあった。例えば小学校のときなんかは江戸川乱歩の作品をよく読んでいたが、その中でも「人間解体ショー」の部分を読んだときの興奮は今でも忘れられない。タイトルは忘れたけど。というか以外にグロいですよね江戸川乱歩の作品。でもあの雰囲気がたまらないというか。
中学校の頃はネットにはまり、エロ画像そっちのけでグロ画像というか死体画像みたいのをたくさん見て回った。その時の興奮も忘れられないだろう。これって人として普通だろうか?一般の常識とかじゃなくて、思春期真っ盛りで色んなことに興味津々な子供の反応として。まあ今となってはどうでもいいんですが、少なくとも人の一形態であることには変わりない。
そういえば「絶望の世界」っていうネット小説があるんですが、同じく中学校のときは友達と一緒にハマって読んでました。内容を簡単に説明すると、作品自体がネットで公開する日記の形式になっています。最初の主人公はイジメを受けている男子中学生。その子が暴走して人を殺したり、近親に走ったりして、だんだんその周りの人も狂っていくっていうものです。小説自体は途中でグダグダになってしまったので全部は読んでないんですが、序盤の主人公の苛められっぷりが凄かった。弁当の中に虫詰められたり、犬の小便かけられたりするんです。で、なんと主人公はその弁当を食べちゃうんです。その後やっぱりトイレで吐くんですけど。おかげでバトル・ロワイアルが流行った時には既に色々と耐性があって、普通のエンタメ小説って感じで読んでました。
・・閑話休題、とにかくそういった経緯で昔から死に対して一種の憧れみたいなものを感じていた。いや、むしろ死に恋していたのかもしれない。高校の時だって恋愛そっちのけで毎日のように死にたいと思っていたし、告白とかされても適当に流してばかりで逃げていた。どっちにしても彼女たちの望むものは提供できなかっただろうが。
ちなみに俺は、人が苦しみながら死ぬのが好きだと言っている訳ではない。一度その手の動画を見たことがあるが、あまりの生々しい恐怖、驚き、苦痛、絶望、そして諦観といった感情を目の当たりにして軽いトラウマになった。絶対痛い死に方はしないと決意する程度には。だから俺は「死」そのもの、言い換えれば自分がこの世から消滅すること自体を望んでいると言える。
しかし何故自分がこれほどまでに死にたいと思うようになったのだろう。もしかしたら、人はみな潜在的に死に対する欲求を持っていて、その中でも俺はたまたま死に対して強い興味を抱いてしまっただけなのかもしれない。そして人間の社会では自殺は禁忌とされている。だから、犯罪者が自分の欲求に対してどうしようもなくなり犯罪を犯すように、俺も自分の欲求と社会の禁忌との板ばさみによって、死ぬことが自分にとっての最高の幸せだと思うようになってしまったのではないだろうか。
自殺について、アリストテレスは『ニコマコス倫理学』でこう語っている。
自殺は自分自身に対する不正とは言えないとしても、国家に対する不正である。
確かに、自分にとって自殺をすることが幸福でも、それが国家に対してマイナスになる場合は不正である。みんなそんなことをしたら国家が崩壊する。(もっともこの時代の哲学者たちにとって国家とは特別な意味を持っていたと思われるが)だから自己中心的な人間だけが自殺を難なく選ぶことができるのだろう。そして恐らく、俺が今生きている理由もそこにある。国家ではなく、自分の周りのため。もっと具体的に言うと、親のため。だから、もし今自分の親が死ねと俺に命じたら、確実に迷うことなく自殺する。もっとも、俺の親は子供に対して絶望する親ではないので、そんなことは言わないだろう。本人が絶望しているにも関わらず。ただ、人は老成すると自分という現存在に絶望し、過去を思い出して幸せに浸りたがるようになるともいう。それが幸福なことなのかどうかは知らないが、なんだかそれは幸せな夢を見て眠る植物人間を連想させた。
そう考えてみると、人は現存在に絶望するからこそ子供を作り、それに希望を見いだすのかと思った。そしてその子供も大人になると絶望し、子供に希望を求める。こういった形のプロセスがいくつかあり、その繰り返しがショウペンハウエルの言っていたことなんだろうか。いつか、といってもそう遠くない未来かも知れないが、親が晩年を迎えたとき、自殺について彼らに訊ねてみたいと思う。その時が実に楽しみだ。
ちなみにショウペンハウエルの人間の幸福についての結論は以下のようになっている。
幸福な人生などというものは不可能である。人間の到達しうる最高のものは、英雄的な生涯である。
英雄的な生涯を送ったものは、涅槃に入るという。すなわち本当の「死」であり「無」だ。もし、本当に極楽なんてものがあったとしたら、それは人間にとっては地獄にしかならないのだろう。と思った。
生きる理由
俺は今でも学校やバイトの帰りで、あえて暗くて人通りのない道を選び、どっかの殺人犯にでも殺されないかなと想像しながら家に戻っていくことがよくある。しかし、幸か不幸かそんなことが起きたことは一度もない。あ、でもよく考えたら、小学校の頃に両腕垂らして鉄パイプ構えてるおじさんに呼びかけられたことがあったな。あの時は本気で命の危険を感じて全力疾走して逃げたけど。まあ確かまだ低学年の頃だったし、普通は逃げるわな。
そんなこんなで適当に生きている訳ですが、こんな状態の俺が何故自殺をしないのかと言うと、やはり他人に「生きていてほしい」と思われているからなんだと思う。それは向こうの勝手な思い込みで、こっちは死にたいと思ってるのに搾取されながら生きていけってのか、全然Win-Winじゃないよ!と理性が思うと同時に、どこかで嬉しいと感じている。・・完全に自家撞着に陥っているが、その自己矛盾こそが今の俺の原動力となっているのだろう。そもそも真理は言葉にすると矛盾するものだ。
俺にとって他人とは、賽の河原にいる鬼のようなものだ。鬼といっても色々な種類がいて、怖い顔で脅してくるやつもいれば、優しい顔をして励ましてくるやつもいる。俺は塔を作るため、無造作に石を積み上げていくのだが、それは鬼たちによって崩されたり、風で倒されてしまったり、自分でぶっ壊したりする。実際には塔を作ることなんてどうでも良くて、ただひたすらにいつか必ず来るであろうお地蔵様に助けてもらうことだけを切望している。
他人を鬼に例えること自体が自己中心的で、他の人が感じる苦痛を理解しようともしていない考えだということは分かっている。でも結局人間というのはプラトンが言ったように、拘束されて壁しか見ることの出来ない囚人であり、他人と気持ちを同化させる事など不可能なのだ。そして今の俺にとって、鬼たちはどんな優しそうな顔をしていても中身は鬼であり、塔を完成させることを強要してくる存在にしか思えない。
理性がそのように感じると同時に、先ほどのように、それと矛盾した考えをもつ理性も自分の中に存在する。例えば俺は上で引用したショウペンハウエルの言葉を信じていない。何故なら、それは彼が幸福の定義を間違えているからだ。人は幸福をあたかも永遠に存在するもののように取り扱うが、実際のところ幸福とは刹那的で、霧のように手にした瞬間ふっと消えてなくなってしまう現象のようなものなのだ。それは霧のようなおぼろげなものではあるけれども、我々にとってはまぎれもない事実であり、それは、個人個人から見れば時間から切り離されたと感じられるような存在となって残るのだ。
結論として、現在の俺の生きる理由っていうのは、そういった自己矛盾を抱きつつ、自分の経験によって自分なりの解答を得ていくことにあるんだと思う。その為の努力として、自分の中でいくつかやりたいことがあるとして、もしくはそれらを見つけ、それらに埋もれさせることによって自殺の優先度みたいのをできるだけ下げるようにしている。それは自殺から逃げることではなく、むしろ自殺について深い理解を求める行為だと思っている。その中で自殺について忘れ去ることができたのなら、それはそれで僥倖だろう。
鬱
最後にこんなことを書くのもアレなんですが、見たい人はまあ金魚のフンみたいなものだと思って見てください。
鬱に入っているときは自殺なんて考える精神的余裕さえなく、ただひたすらにこの世界から消え去りたいとしか思えなくなる。それこそ、それだけで自分を殺せるくらいに。でも、完全に狂いたくはないから現実逃避をして逃げるようになる。・・結局何をすれば正しいのかなんて未だに全く分からない。結局のところ、俺は永遠に精神的に子供で、アタマもヨくないしどうでもいいことにつまづきながらみじめなじんせいをおくるんだとおもう。
- 179 http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090323/1237774180
- 28 http://ezsch.ezweb.ne.jp/search/ezGoogleMain.php?query=三十路奴隷&start-index=4&adpage=3&mode=02
- 11 http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/mobile?date=20090323§ion=1237774180
- 9 http://d.hatena.ne.jp/keyword/絶望の世界
- 9 http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=異質なものを排除&source=web&cd=1&ved=0CB4QFjAA&url=http://d.hatena.ne.jp/MYST/20091104/1257303207&ei=D1rcTqDlOOnamAXh5t32Cw&usg=AFQjCNGx5M-NGCSZEt
- 7 http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/mobile?guid=on&date=20090323§ion=1237774180
- 7 http://search.yahoo.co.jp/search?p=異質 排除&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt
- 7 http://www.google.co.jp/search?hl=ja&source=hp&q=異質、排除、日本&btnG=Google+検索&lr=&aq=f&oq=
- 6 http://d.hatena.ne.jp/keitaro2272/20091213/1260653984
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記事内でひっかかったことがあります。"鬱に入っているときは自殺なんて考える精神的余裕さえなく、ただひたすらにこの世界から消え去りたいとしか思えなくなる。"自殺と消えるはやはり別物なのでしょうか。
あ、ぼくもどうでもいいことに寄道する人です。本気で寄道できるくらい大きな人間になれればいいのですが。
そしたら自分も自殺に向かって本気で努力する気が起きますし、そうすることによって充実した人生が送れるような気がします。この本の中でも、昔のマルセイユとケオス島では、死なねばならぬ尤もな理由を述べることのできた人には、正式に毒人参の汁が提供されたと書いてあります。
m26さんみたいな考え方のできる人達が人の上に立てるような社会があったらいいなあと個人的に思いました。
自殺と消えるについてですが、それは俺にとっては同じようで全く違うものです。「自殺」は物質的なもの、時間的なものに縛られています。例えば、今俺が死ぬためには、体の機能を停止させるための行為をしなければいけません。で、実際に自殺しようとすると、体が勝手に死に対する恐怖を感じるので、なかなか難しいです。それに自分が死んだ後のことを考えると、色々な人に迷惑をかけるので、自殺に対する「許し」がないと踏ん切りがつかないんです。
後、俺みたいな人より、本気で嫌な事があって落ち込んでいる普通の人の方が自殺しやすいと思います。その人は先に述べた諸問題に対して鈍感になってるでしょうから。
俺にとっての「消える」とは逆にそういった物質的、時間的概念から外されているので、先の諸問題についての心配はなくなります。分かりやすく言えば、俺が生まれてこなかった世界を望んでいる、ということになります。