徒然狸 -タヌキの日記-

――空。美しい空。悲しい空。何かを置き忘れてきてしまったような、空。

2011年3月11日14時46分

2011年3月11日14時46分。

 

日本人なら あーねー と思い当たるでしょうか。

東日本大震災

あのとき、あの瞬間、やべえことが起きたな、と。

でもそれは違います。

間違ってます。

全然違うんだ、こんにゃろう。

なにねぼけてんだ、ぶん殴るぞ!!!

……数日前まで、おいらもぶん殴られる側でした。

 

2011年3月11日14時46分

 

これは、東日本大震災が「始まった」日時を示します。

震災はまだ、いまだ何も、何ひとっっつ「終わって」はいませんでした。

 

――2023年10月14日 午前10時くらい。

 

おいらは福島駅にいました。

まー話せば長いんですが、書いてしまえばちょびっとです。

子供のころから長いこと化学に恋し、化学は人を幸せにするためにあると信じたおいらは、2011年3月に学位を授かり、4月からメーカーの開発者として船出をしました。

でも震災直後のこと、当初は開発どころではなく、まずは生産ライン再建のため訳も分からず現場に放り込まれてひたすら作業に追われました。

果てしない労働の中おいらは、化学者として世に出たこのタイミングで災害に見舞われたってのは、つまり神様みたいな何かに、おまえちゃんと頑張ってこの国に1ミリでもいいから貢献しろよ、そのためにお前みたいなアホに学位を許してやったんだバーカバーーカ、って言われてるんだろうと理解しました。

そして、大変なことになってる福島とか宮城とか岩手とかの現状をちゃんと知って、なんとか元気づけたいなと、他人事のように、心に思い。

そのまま、だらっだらと時が流れ、12年も経た今になってようやく、実際に福島の地へ旅立つ余力が生まれたのでした。

 

12年。

この長い長い時間の中、当初はやれ原発爆発だ、やれ避難だ、帰宅困難だ除染作業だとニュースで聞き及んではいましたが、それらも報道されなくなり。

――まあそうだろうな、さすがに12年もたてばなんぼなんでも震災の痕跡はかさぶたどころか、ちょっとした傷痕みたいになってるだろうな。

それでも、遅ればせながらその傷痕でもちゃんと見て、てめぇが12年前に頑張ろうと思ったその根源を再確認しなきゃいかんな、と思い今回旅立ちました。

あ、クソ自語りがここまで延長してました。ごめんちょ。

 

さて、一人旅。

一泊二日の旅程です。

福島県は地形的に「会津」「中通り」「浜通り」の3地域に分かれています。

早い話、福島県は縦に三分割されています。

内陸側と海側が、山脈を境目にして三分割されて、それぞれが栄えている感じです。

そして津波原発事故の被害を強く受けたのは、海側にあたる浜通り地区。

東京から新幹線でアプローチするなら、中通りに位置する福島駅を活動起点とするべきと判断。

レンタカーで山地を越えて浜通りに入る計画としました。

 

当日、福島駅着。

すぐにレンタカーを借り受け、おいらは「宮城蔵王キツネ村」に向かいました。

ここは日本国内でめずらしい、キツネを放し飼いにしている動物園みたいなところで、キツネが足元をうろうろする中を普通に見て回れるのです。

絶対かわいいやつ!

……えーとね、違うんです。

おちついてください。物を投げないでください。

今回の旅、福島の今を知ることが目的で、当時の惨状を展示する資料館とかもめぐる予定だったのですが。

ちょっと一か所だけは娯楽味のある訪問地を組み込んでいたんです。

で、そのキツネ村は福島駅から(車で行けば)近いわりに結構な山の中に在るうえ、翌日は完全なる雨予報だったため、浜通りに移動するまえに訪れたほうが安全だと判断したんですよ。

 

というわけでキツネたちと戯れる。(触ることはできません、噛まれます)

当日はぽかぽか陽気で、半数くらいのキツネはのんびりお昼寝。

数十センチくらいの距離から撮影してもぜんぜん平気にしています。

超かわいい。

あと、放し飼いゾーンの中に入る扉は係の人が付きっ切りで開け閉めをしてキツネが外に出ないようにしているのですが、一匹だけどうしても扉の外に出たい様子の子がいまして。

園内を散策し終えてそろそろ外に出ようとしたおいらの足元にそのキツネが歩み寄ってきて、扉まで一緒に歩いて、そのまま一緒に外に出ようとしてて。

ヤバい超かわいい。

 

で。

再び山道を降り、目指すのは福島県双葉郡

はっきり言います。

福島第一原発事故の爆心地です。

 

あの日あの時を経験していない方のために、ざっくりご説明。

2011年3月11日14時46分。

福島県沖を震源とする地震が発生。

日本周辺での観測史上最大となったマグニチュード9.0、震源の深さ、わずか24 km。

それは、およそ聞いたことのない規模のものでした。

おいらはその瞬間、遠く離れた神奈川県の大学施設に居ました。

周囲の研究棟がガラガラと音を立て、免震構造の建物は周囲のタイルを破壊しながら滑るように大地を動き回り、立っていることも困難でちかくのなにかにつかまり

ああ、これが「関東大震災」か、来るべきものが来たのだなと「勘違い」しました。

まさかその震源が300 kmも彼方だとはその瞬間、想像もつきませんでした。

でもそんなもんはほんの序の口で。

停電した街を歩き、真っ暗なコンビニでチョコレートを買い、すし詰めのバスに乗り、かろうじて運転再開した地下鉄に飛び乗り、なんとか東京の家に帰りついた、その間に。

災害の本番は幕を開けていました。

たった数時間前まで。

のどかで栄えていた福島、宮城、岩手の沿岸地域は、海の底に沈み。

一切合切を破壊されていました。

それでも、その状況を伝えなければならなかったニュースリポータの涙声が、全国に配信されました。

のちには間近にいた方々が撮影した映像がYoutubeにアップされ、いままさに、自分の家が破壊される絶望の声が、今も残っています。

そして、福島第一原発が爆発。

原子力発電とは、簡単に言えばお湯を沸かした蒸気でタービンを回して発電するものです。

その熱源が核物質……つまり核分裂なんかの核化学を利用しているので、原子力発電と呼ばれています。

ふつうの発電なら、燃料の供給をストップすれば発熱は止まりますが、原子力発電ではそうもいかず。

核物質がその場に在り続ける限り、発熱し続けます。

これを様々な方法で制御して熱くなり過ぎないようにしているのですが、この制御には電力が必要です。

福島第一原発津波の直撃を受け、原子炉を制御するための電源を喪失しました。

復旧のための現場の懸命な復旧作業も力及ばず、原子炉は過熱し、爆発。

放射性物質が噴出し、一帯は人間が居住できる状態ではなくなってしまったのです。

 

――宮城県側から常磐道に入り南下、福島県を目指す。

基本的に対面通行のため、70km/h規制でののんびりした走行の中。

ときおり、見慣れない表示が目につきました。

その地点での放射線量表示です。

赤いLEDの表示で

「0.10μsv/h」

という文字が過ぎ去っていきました。

それが怖い数字でないことは分かります。

日本人の放射線被ばく量は、健康診断のレントゲンなどなどを合わせるとだいたい0.7μsv/h。

だから0.1などという数値はほとんど誤差レベルです。

しかし。

そしてその数値は、双葉郡に近づくほどに増大していく。

0.1――0.2――0.4――0.6――。

そして常磐道を降り国道、「1.2」の数値を見て。

海沿いに、かつて町だったはずの、茫々たる平野を見て。

ほんとうに、どこまでも何にもなく広がる平野を、蟻の一歩のように僅かずつ町作らんとする膨大なショベルカーを見て。

いまもそこかしこにある、風に揺らぐ廃墟を見て。

ここまでの物を自分の眼で見て、ようやく「なにも終わってないのだ」と理解しました。

 

――廃墟がそのまま残っている。

たぶん想像するのは、壊れかけた家があって、その周りが立ち入り禁止の柵とかで囲われている感じじゃないでしょうか。

そういう廃墟もあるにはありますが。

大半は、何にも囲われず、普通に在りました。

触ろうと思えば触れるし、入ろうと思えば入れる。

なぜ??危ないじゃん??

理由は簡単。

入ると危ないから入らないでほしい場所が多すぎて、いちいち囲ってる労力も資材も膨大になるからです。

管理しきれない廃墟が当たり前に乱立している。

それが日本の町中に在る。

すさまじい衝撃でした。

 

双葉駅周辺を一時間ほど歩き、車でさらに遠くまで見て回り。

当初計画していたよりは早い時間でホテルに入るにはもったいなかったので、翌日に行こうと思っていた場所に向かいました。

浪江町にある請戸小学校(うけどしょうがっこう)。

浪江町福島原発と同じ、あの絶望的な津波の直撃を受けました。

その海辺にあった請戸小学校も、無事では済まないどころか、壊滅的な被害に遭いました。

しかし、先生方の「とにかく高台へ逃げろ」という指揮のもと、児童全員が山の上に避難し命を取り留めたという、奇跡の小学校ともいわれています。

この学校は二階建てで、生々しいことに一階部分は文字通り壊滅し、二階部分は当時の姿をとどめています。

現在は震災遺構として保存されており、一般観覧が可能になっています。

資料館になっているという感じでは全くありません。

最低限、訪問者が危なくないように措置を施されていますが、ほとんどすべてが当時のまま、遺されています。

なんだったら、津波の被害を受けなお生き残ったその建物、そのものを手で触れながら観覧することも可能です。

逆に言えば、この場所でふざけると本当に危ないので、小さなお子様連れなどは注意が必要です。

そんな老婆心が出るほど、すさまじい場所でした。

廃墟であり、今にも崩れ落ちそうな構造物があり、吹き溜まりのように押し込まれたがれきがあり、いすや机の残骸や、泥まみれになったぬいぐるみなんかがそこら中に転がっており。

海水に洗われた木の床はそれこそ大波のように変形していて、そんな中にも当時の小学校生活を思わせるかわいらしいタイルだとか、張り紙だとかが今もまだ残っており。

筆舌に尽くしがたいとはこのことだと思います。

地震津波に対する怒りとか悲しみとか恐怖とか、当時の学校生活を思うほほえましさだとか、そのとき子供たちが、先生方が何を感じだのだろうという戦慄とか。

すべてがないまぜになって一度に自分の中に流入するのを感じました。

どういう感情とか理解できません。

「なんで」

というような鈍重な思いが、頭の中を渦巻いていました。

 

中庭に出ると、津波を想定したものだったのか、コンクリート造の高台が建設されており。

その時計は、15時39分で停止していました。

地震発生からおおよそ1時間後。

あれ?震災の時間と違うな?と一瞬おもったのですが。

それが、津波の直撃した時刻でした。

 

そういえば、当時トヨタのCMで、北野武木村拓哉が震災地をまわり、最後に海に行って。

北野武が海に「バカヤロー!」って叫ぶのがあって、好きでした。

たくさんの人々の生活、時間をかけこつこつ頑張って積み上げてきて手に入れたささやかな幸せを多分に含んでいたはずです。

そいつを、有無を言わさず叩き潰した津波、海。

だれもだれにも文句を言えないことを、北野武があえて言葉にしてくれたあのシーンを、僕は好きでした。

だから、いまさら恨み言を言ってもしかたないけれど、でもあの海だけはまっ直ぐ向き合っておかねばならない、みたいな思いがありまして。

福島の海を見ようというのもじつはこの旅の小さな目的の一つでありました。

だけど実際いってみて、ちょっとあれっとおもう。

あれが海辺の堤防かな?とおもうエリアはあるのだけれど、車で道を走れど走れどそこに近づく気配がない。

海が、全く見えないんです。

いや歩いて行けよ、って感じですが、なんというか、茫々たる空き地が道路と堤防とを隔てていて、歩いて入っていいのかどうかもわからない。

そんな景色が延々と続いていて、なんじゃこりゃ、とおもっていました。

その疑問も、請戸小学校の展示を見て氷解しました。

請戸小学校の周辺がどうなっていたか、どこに誰さんが住んでいたのか、というのを緻密に再現したジオラマが展示されていて。

茫々たる空き地だと思っていたのは、かつて立派な町だったことを知りました。

もう何度目かわかりませんが、衝撃でした。

せいぜい、田んぼでもあったのかな?と思っていた海沿いの広い空き地が、町だった。

言葉を失いました。

 

――夕刻。

予約してあったホテルにチェックイン。

これも見渡す限り茫洋たる平地の中、復興の礎とばかり胸を張る富岡ホテルを選びました。

福島原発にも近く今回の旅の目的に沿っているうえ、綺麗で風呂トイレ別で飯がうまいというスケベ心があったことは否定しません。

自販機のビールやチューハイの価格も非常に良心的で、ロビーではおつまみも豊富に取り揃えております。

福島県産の海苔を使用した韓国海苔など法外に安いレベルなのに超おいしくて、おいらはそれだけで缶ビールだの缶チューハイだのを2Lは飲みました。

きっと清掃に入ったメイドさんキチガイが来たと思ったことでしょう。正解。

いやよかったわ富岡ホテル。

超おすすめです。

富岡ホテル。

富岡ホテル。

浜通りなら、富岡ホテル。

 

おっと、心のCMが漏れ出てしまいました。

 

さて、

 

ただ意外?なことに。

窓から海が見える。

歩いて行ってみる。

ふつうにアスファルトの坂道を歩き、ふつうに堤防の上に登り、見えたのは。

ふつうの海。

ただの太平洋。

この海が、たくさんの生活を、命をさらっていったなどと、思えないふつうの海。

どこにも何もぶっつけようのないあたりまえの風景。

でも振り返れば、堤防からホテルをへだてる、なにもない平原。

何を思えばいいのか混乱しました。

どこにもぶつけようのない、湧き上がる思いを、どこにもぶつけられぬ。

そんな思いがこの土地にはあったのか、いまもあるのか。

だとすれば、最悪の災厄を生き残られた方々は、どれほど巨大なものをその内に押しとどめておられるのだろうか。

そんなもん、おいらが推し量ろうとするのは失礼というか、お門違いですが。

それほどのものが、同じ日本の中に存在するのだなと、その欠片だけはこの胸に大切にしようと思いました。

 

請戸小学校内、かつて教室だった空間の片隅

 

徒然狸 ―タヌキの日記―

 

筆者は盲導犬尊敬し、個人的に応援しています。
中部盲導犬協会:http://www.chubu-moudouken.jp/

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あたらしい景色について

お久しぶりです。

あ、おいらは生きています。

アホウは風邪をひかないとの学説通り、ピンピンしております。

そして飲んでいます。文章がめちゃくちゃです。

 

ふりさけ見れば、ほぼ1年ぶりくらいの「日記」のようです。

書きたいことも、叫びたいこともたくさんありました。たくさんありました。

自慢したいことも、後悔したことも、笑ったことも、泣いたことも。

ただねぇ。なんというか――

齢を重ねてきますと、自分という存在は、たくさんのほかの存在の一部となっていく。

そのうえで日記的に、書きたいことを書いてしまうと、どうしてもたくさんの何かを巻き込む形になってしまう。

この垂れ流し日記でなにをいまさらと思われるでしょうが、社会的責任ではないですが、そういうものを背負っていることに気づいてしまうと――

キーボードの上を、指が撫でるばかりになって、ギシギシと音を立てつつ、打ち込むことが躊躇われる。

そんなまあ、あれでしたが。

どうしようもなくときめいたことがあったので、未来の自分へ書き残しておきます。

 

このブログには礎となるWeb日記があり、おいらが高校生のころに始まりました。

1999年ごろですかね。

コミュ障でただただ化学に恋しただけの自分は、寡黙な化学者になっていくんだろうなと。

ばくぜんと想像していたころから24年もの月日が、夢のように過ぎ去りました。

ほぼ四半世紀。うふ。

その実、いまとなれば、お気楽な、がさつと言い換えてもいい、調子っぱずれの化学技術者を目指す日々。

技術の結晶で出来上がったわが社に化学のメスをぶっ刺し、ほじくり返して大笑いしている。

おぉ・・・おいらの日常が一文で表現できてしまった・・・最☆低☆

つい先日も、工業ガンガンの我々が社が、全く関係ないはずの農村に視察に行くという破天荒な仕事をしていました。

なにやっとんねん、って感じですが。

はっきり言って、その農村に立ち、平野を見渡した時。

ああ、うちの会社はこういう、全くあたらしい景色を見るに至ったか――と、ほんとマジでちょっと泣きそうになったり。

それはたぶん、陰鬱に化学者を目指していた自分が、科学は人を幸せにするためにあると頑なに信じた自分がついに、農業という人間と自然との営みに向き合えたのだという、深い感慨を確かに孕んでいました。

 

この新プロジェクト、担当者はおいらではなく、別にいます。

おいらはその担当者の上司として存在しており。

これも感慨深いところですね。

いや感慨深いというか、はぁ?おいらが上司?アホかこの会社は。

的な。

現在、一般的に言えば課長代理の立場にあり、いまだに管理的なことがまったくの苦手で。

化学者の眼でしか物事が見えず。

管理職モドキとしてはまったくのダメダメ0点であることは自覚しており、さればとてすぐには切り替えもできず、目の周りの筋肉が痙攣する日々です。

実験したいのに!有象無象の会議に呼ばれ、んぬぐおああああああああって感じ。

ですがまあ、自分の指揮系統にある方々に迷惑をかけるわけにはいきません。

化学者を目指し、化学技術者を目指し、未だすべてが中途半端ではありますが、中途半端なりにこれからは化学技術指揮者を目指していかねばなりません。

人間に目を向ける。

結局はそれが、人間と自然との営みにかかわる新プロジェクトの糧になっていくのだと、自分を洗脳していくのがこのGWの課題なのだと思いました。

 

真面目か!

徒然狸 ―タヌキの日記―

 

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電子工作について 第2話~壊れた機械が好きだ~

というわけで、約1年前にはんだ付けで遊び始めたわたくし。

その後、中国サイトから電子工作キットを格安で買いあさり、ラジオだのゲーム機だの金属探知機だのアーク放電装置だの直流安定化電源だのその他もろもろもろもろ。

アホのように作りまくりました。

おかげで家の中がガラクタの山です。

しかし、それもそろそろ終わりを感じていました。

中国の通販サイト「アリエクスプレス」は広大ですが、それでもあらかた作りたいものは作りつくしてしまいました。

困った。はんだ付けがしたい。もはや中毒です。

ところで、半年前からYoutubeで電子工作というか、わざわざ壊れた電化製品を買ってきて修理する通称「ストリートジャンカー」の動画を見るようになっていました。

素人目に見ると魔法です。

そりゃ、ごつごつしたでかい機械だったら、なんだか大雑把な観察眼でも異常個所を発見できそうな気がします。

しかし彼らは、任天堂switchみたいな超精密機械を鼻歌交じりで分解して異常個所を見つけ出し、ゴマ粒より小さい部品を交換して見事直して見せます。

おじーなんかは「俺文系だしなんだよこれ全然わかんねー」とか言いつつ、きっちり直しちまいます。

まあたまに火を噴いたりもしてますが。

とにかくすごいのです。

で、こんな動画を毎日みていると、洗脳されてきます。

なにかが故障したら買い替えるか、メーカー修理か・・・と思っていたのが、

これどうやったら修理できるかな?とりあえず分解するか!

という思考になってくるんです。

で。

家にある小型家電を分解して修理しようとして失敗したり、失敗したら開き直って魔改造し始める。

 

図1.音量を上げるためにアラームを外装された哀れな温度計

 

図2.トルクチューンモーター搭載&電圧2倍の超強力鼻毛カッター(危険)

 

そんなこんなをやっていると、会社でも嗅覚が働いてくる。

……電源の接触が悪い電子天秤を発見。

DCジャックのちょっとした接触で電源が落ちて使い物にならぬ。

まあこの手のはあれでしょう。

ACアダプタの断線、よくある奴です。

断線箇所が分かったらそこをぶった切って、接ぎ木の要領でコネクタを再接続してやればいい。

原因究明のため、家から電圧可変式のACアダプターと、世界中のどんなDCジャックにもたいてい接続できる多種多様なDCコネクタセットを会社に持ち込む。

 

図3.どこのご家庭にもあるやつ。

 

で、いろいろ調べた結果。

どうやらACアダプタに異常はないらしい。

一応ACアダプタも分解してみたが、これと言って異常なし。

ということは、電子天秤側のジャックがおかしいのであろう。

この手のジャックはふつう、基板上に直接はんだ溶接されている。

そのはんだ溶接にクラックが生じて導通不良になっているのだろうと推定した。

ならばはんだ溶接を直してやれば治るはずである。

というわけで鼻歌交じりに分解。

 

図4.接触の悪い電子天秤。30年物くらいだろうか。

 

図5.接触の悪いDCジャック。

 

図6.分解分解~♪

 

図7.らんららんらら~ん♪

 

図8.くだんのDCジャック。基盤の裏側で溶接されている。

 

図9.DCジャックの裏側。3つの端子がはんだ溶接されている。矢印で示す端子には、根元に黒い亀裂が走っているのが見える。これがはんだクラックである。

 

つまり、はんだ溶接された部分が割れてるんですな。

ジャックにはコネクタを刺すときに負荷がかかるため、こういう不具合が起きやすいのです。

もちろんそれを見越して、DCジャックの端子は大きく設計されていて、多量のはんだで溶接できるようにしてありますが、まあ経年劣化には勝てません。

直し方は簡単。

割れたはんだをはんだごてで融かし、新たにフラックス入りはんだを流し込みながら溶接しなおすだけ。

5秒くらいの作業で、おいらのような初心者でも簡単にできるのです。

ラッキーな簡単故障でした。

 

ここ最近ではさらにもう1台、壊れた電子天秤を発見。

どうやら電源スイッチがおかしいようなので、おうちに持って帰り、新しい電源素子(4円くらい)に交換してやったらこれも簡単に治りました。

 

いやまあ趣味ですがね、こういった精密電子天秤って普通に5-10万はします。

しかも古いモデルだとメーカー修理は不可。買い替えることになります。

それが、ちょっとの手間と数円の部品で治る。

……面白いですよ。こっちにおいでおいで。

 

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約束について

その人と出会ったのは高校の授業だった。
うちの高校は三年次に選択科目が色々選べて、完全理系だったおいらはそのひとつに「理科実験」ってのを履修した。
その人が講師だった。
高校の先生じゃなく、外部の教育系企業から来ていた。

若い女性だ。
せんせーの専門は物理学。
おいらは化学畑で物理学なんてほとんど触れたことがなかったんだけど、せんせーの授業は超実践的で奇想天外で、あっというまに引き込まれた。
あるときなんか、授業開始と同時にストロー100本とテープ1巻き、そして生卵が1つ配布された。
「いまから皆さんに、卵ケースを作ってもらいます。
 卵ケースの材料はストローとテープだけ。テープはタマゴに貼り付けてはいけません。
 出来上がった卵ケースに卵を入れて、3階から地上に落としてください。
 卵が割れなかった人だけ点数(出席点)を与えます」
アホほど興奮した。

高校卒業・大学進学と同時に、せんせーの所属する企業でアルバイトさせてもらった。
内容は、子供向けの科学実験教室とか科学ショーのサポート。
実験に必要な資材の買い出し、下ごしらえ(工作)、そして本番のサポート。
実験教室とかショーは、日本全国から依頼を受ける。
だからバイトなのに泊りがけの出張が頻繁にあった。
北は北海道から、南は広島・高知まで全国を渡り歩いた。
東北の最果てみたいな漁村にも行ったし、広島の地下街だの東京の公園だのの特設ステージとか、
小中学校の体育館とか科学館とか、ほんと色んなところで教室やショーをした。
イベントが立て込んでるときは、一つのイベントを終えたらあとは他のスタッフに任せて、
せんせーと二人で次のイベント地に旅立ったりとか。
ほとんど旅芸人だ。
出張先で時間が空いたら観光とかもいっぱい行った。
いちどだけだが、仕事とは関係ない旅行に行ったこともある。

ショーのサポートと言っても、おいらもいろいろ役割が与えられた。
きぐるみを着て楽器を演奏したり、飽和食塩水を頭からかぶるピエロ役になったり、
せんせーの「いじわる」で実験に失敗して子どもたちを笑わせたり、
場面転換の時間稼ぎにパントマイムをやったり、講師が複数必要なイベントではおいらもひとりで講師をやったり。
技術的なところでは危険物や高圧ガスを任されたり。
大舞台の音響制御やスクリーンに映す映像出力とか、本当にいろいろなことをさせてくれた。
テレビやラジオにも何度も出演した。
みんな知ってる有名番組に出て、有名な芸能人にもたくさんあった。
数年前も正月特番に出たから、たぶんおいらの顔を見た人もいるはず。

時間がちょっと戻って
二十歳になってからは打ち上げでせんせーとお酒を飲むのが楽しみになった。
打ち上げ以外でも飲みに行って、その後は当たり前のように二人でカラオケ。
ふだんはザ・仕事のできる女だったけど、お酒飲むとはちゃけて、飲みすぎて踊りだしたりして。
べろんべろんになったせんせーを担いで自宅に送り届けたりとか。
本当に楽しかったんだ。
ほんと、お仕着せのリア充を鼻で笑っちゃうくらい素敵な年月を過ごした。
いつしか、おいらはせんせーが東京に出てきてから一番古い友人になっていたらしい。

そんなこんなを、結局大学を卒業して大学院に進んで称号を頂いて、就職してからもずっと続けてきた。
就職してからは副業不可だったから、ボランティアって形で。
せんせーと出会ってから、まる20年。
わお。

でも少し前から急にせんせーからの連絡がすくなくなって。
あるとき、LINEメッセージで胃が凍りついた。

「体調悪くて病院行ったら、癌なんだって。びっくりだよね^^;」

メッセージは、本当にこんな文面だった。
死の恐怖に直面してなお、誰かを思いやれる、優しくて強い人だったんだ。

そこからせんせーの闘病生活が始まった。
抗がん剤治療のときは入院しなきゃいけなくて、でも病院食が美味しくないんだよねぇ・・・
だから病室でも作れるレトルトみたいなの探して、これどうよ? お、いいね~
なんども入退院を繰り返していた。

それでも寝たきりみたいなのじゃなくて、調子のいいときは普通に仕事をしてるらしかった。
電話でも話した。
その企業の手伝いでせんせーの家の直ぐそばまで行って、だけどたまたませんせーの調子が悪くて会えないこともあった。
せんせーは電話で「会いたいなぁ・・・」って言ってくれて
おいらは「近くにいるんだから、またすぐ会えますよ」って返した。
元気づけるつもりだったんだ。
このときのおいらは、本当にアホだった。
抗がん剤が効けば、以前のようにはいかなくても、また一緒にステージに立てるんだって、ほんとうにそう思ってた。

しばらくのち、せんせーが緩和ケアに入るという連絡を受けた。
つまり、抗がん剤が効かなかったんだ。
抗がん剤のせいであんなにも苦しんでたのに。
お見舞いに行きたかったが、コロナ云々で病院は面会謝絶。
コロナのせいで死に目に会えなかったっていうニュースが思い出された。
このとき、本気でコロナを恨んだ。
世界が死にゆくものに見えた。

ある日、先生の調子が悪いっていう連絡を受けた。
おいらにはなにもできることがなくて。
そこからは一瞬だった。
4月26日、メールが届いた。
「先生が亡くなりました」
おいらの部屋には、せんせーのサイン色紙が飾ってある。
2007年の日付で、ペンギンのイラストが入ったかわいいやつだ。
それが、形見になった瞬間だった。

せんせーとは2つの約束があった。
ひとつはおいらの無責任な一言「またすぐ会えますよ」。
今書いて、この文字列を見るだけで自分を滅多打ちにしたくなる。
そしてもうひとつは
「キミがノーベル賞を取ったら記者会見で、今の自分があるのは先生のおかげです、って言いなさいw」
これは15年以上も前か、せんせーがふざけて言ったのだと思ってた。
だけどおいらが就職したとき、せんせーが自著にサインしてプレゼントしてくれて、そこには

「そのとき」が来るのを楽しみに待ってます

って書いてあったんだ。
あまり昔のことだからおいらは一瞬なんのことかわからなかったんだけど。
すこしして気づいた。
ノーベル賞は大げさにしても、
せんせーはおいらを信じてくれてるんだって。

約束。
ひとつめのはもう、だめになっちゃったけど。
ふたつめのは、まだ 手遅れではないんだ
おいらが生きている限り。
だからせんせー、高いところから見ててよ
おれ 頑張るから。

 

徒然狸 ―タヌキの日記―

カレーについて

何を隠そう、これまでおいしいカレーを作れたことが一度もありません。

何かコクがないような、スパイスのバランスが悪いような、味気ないような、脂っぽいような。

こんなことを書くとスパイスを自分でブレンドしていると勘違いされますが、市販カレールゥを使ってこの体たらくです。

とにかく手を変え品を変え、いろいろやってもおいしくない。

意味が分からない。

もういいやと思ってから数年経ち。

ふとシチューが食べたくなったのでこれも市販ルゥを使って作製してみる。

……普通にうまい。

2L鍋一杯のシチューが2日でなくなるほどうまかった。

ふむ。

 

カレーがおいしくならない理由。

料理の腕や火力や鍋のサイズなど根本的なところに原因があるのかと思っていましたが、もしかしたらそうではないのかもしれない。

ちょっと一度リセットして、作製条件を見直そうじゃないか、と科学者の心に潜む暗い悪魔がささやきました。

そしてXMINDを使用してマインドマップを作成し、問題のありそうな因子を抽出。

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一つずつ潰していく。

結果。

 

・使用するカレールゥ

最も当たり前の味と思われるバーモントカレーを使用。

辛いのが好きだが、辛口だとスパイスのブレンドが望まない方向に振られている可能性があるため、中辛を採用。

エバラ焼き肉のたれでも、辛口は豆板醤の香りが強くてあまり好きではなかったりする。

 

・具材の分量

できるだけ箱裏の指示に従う。

カレーの肉ってあまり興味なく、少なめに入れていたがきちんと指示書通りに投入。

ただ、牛肉だと肉の味が強くて研究に支障が出そうだったため、豚の切り落としを採用。

 

・調理過程

玉ねぎはあめ色になるまで……という説があるが、あまり意味がないと判断。

薄く色がつくくらいに具材を炒め、さっさと水を投入。

シチューの作製指示書によるとジャガイモは後入れでも問題なさそうだったので、水を張ってから投入することに。

またリードの「あくと油を取るシート」みたいなのをかぶせ、余計な油を吸わせる。

 

・味調整 酸味

ルゥまで指示通りの量を入れてもやはり味気ない。

そこでまず酸味を加える。

……カレーに福神漬けを入れる通り、カレーというのは甘酸い方向に寄せるとうまくなるのである。

加えるのはウスターソース

加減しながら徐々に加えていき、大匙4(60ml)がベストと判断した。

バーモントカレーのルゥ半量、6皿分の場合。

 

・味調整 辛味

やはり辛くあってほしい。

情報筋によればカレーの辛味は唐辛子に含まれるカプサイシンと、胡椒に含まれるピペリンから成るとのこと。

一味と胡椒をそれぞれ10振り投入。

 

・味調整 スパイシーさ

やはりこのままでは味に尖りがない。

ので、エスビーのカレー粉(赤缶)をティースプーン山盛り1杯投入。

 

この結果。

想像していた完璧な味のカレーになりました。

ウスターソース大量投入のせいで多少甘みが強く賛否分かれそうですが、家庭のカレーの味としては最高峰と自画自賛できます。

 

以上、自分のためのメモ。

 

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新年について

新年あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い致します。

そして例年ですとここに今年の抱負を書くのですが、本日、朝から晩まで脚を棒にしてやっていた実験が

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状態だったので、ちょっと何も考えられません。

そのうち抱負ります。

 

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徒然狸 ―タヌキの日記―

 

追記1/26

第2弾実験が斜め上方向で暴れていますが、

今年の目標は ギアアップ です。

 

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警察について

今夏、区画整理により住所が変更になりまして。
引っ越してもいないのに各所に住所変更手続きをする必要が生じていました。ちくしょう。
Webでできるものはすぐ済ませたのですが、紙の手続きが必要なものはなかなか時間がとれず、放置しておりました。
しかし幸い、綿密なる根回しと仕事の濃縮の結果、24日の仕事納めを達成。
12連休を勝ち取りました。
休み明けには完全にボケていることでしょう。
初日から実験の予定なので、200ボルトで感電死しないように気を引き締めなければなりません。

で、本日ひさしぶりに平日の休み。
放置していた住所変更手続きやら、なんやらかやら、町を徘徊しまくりました。
手始めに床屋、銀行3軒、役場でマイナンバーカードの住所変更、警察で免許証の住所変更、病院で常備薬受けとり。
ちなみに銀行はもう1軒、口座を開設しようと思っていましたが。
師走も相まってか、月曜の午後って結構混んでるんですね。
40分待ちするほど急ぎではなかったのでまた後日ということにしました。

で、警察にてふと思う。
正面玄関から入ると、ふつうに免許関係の窓口がずらり。
免許センターの回し者かよと思うほどで、自動化も進んでいてスムーズに手続きできるようになっていました。
しかしこれでは、自首しにきた人はどうすればいいかと戸惑うことでしょう。
気の弱い方なら、なんだか場違いだな、やっぱやめとこうか……などと思うこと請け合い。
これではいけません。
公共機関たるもの、弱い立場の人こそ歓迎し優先すべきです。

 

警察の正面玄関にはまず、ピンクに白抜きで「自首の方、大歓迎!」「自首仲間紹介キャンペーン実施中!」「いま自首すれば(裁判長の心証)ポイント3倍!」「国選弁護人のチェンジ2回までOK!」云々と書かれたのぼりが軽やかに翻っているべきです。
そして一歩ロビーに入れば真正面に立看板。縁には金のモール、白板にポップ体で
「歓迎 ようこそお越しくださいました 自首の方は1番の窓口へ」。
ふと見ると壁のポスターにはほっこりと微笑む竹下景子の胸元に「きょう、自首びより」。
窓口では恰幅のよいおばちゃん警官が待ち構えていて、「なーにあんた、やっちゃったの?まあ、よくきたね。こっち上がんなよ、ほらほら」などと、なんだか御輿を担ぐ感じで案内してくれるーー。

と、これくらいのことをすれば、犯罪者諸兄も「天気も良いし、ちょっくら自首しようかナ?」などと軽い気持ちで自首することができるのではないでしょうか。

警察機関の皆様、ぜひご一考を。

 

徒然狸 ―タヌキの日記―

 

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