宇沢弘文『「成田」とは何か』(2)

住民が大切にしたもの

 第一回公開シンポジウムでの石毛博道さんの意見発表は心を打つ。

 「つねに指摘してきたように、運輸省と関係住民、関係市町村の公開討論の場は、空港位置決定のときに、当然、開かれるべきであったからです」。


 「もし1966年にこのような公開討論の場が設定されていれば、私たちは、かけがいのない友人を失うこともなかったし、この地域の村々が味わった、いわれもない苦悩を薄らげることが出来たかもしれないのです。また国家にとっても、警察官の生命を失うこともなく、貴い国民の税金を、これほどまでに無駄使いすることはなかったはずです。」(p190)


 「空港利用地内とされた農家の多くは、戦後の食糧難を救うために、国のすすめによってこの地に入植した開拓農民であり、国家のために艱難辛苦を乗り越えて食料増産に励んできた民であります。……中略……赤紙一枚で人生の決定権を奪われた人々ではありましたが、荒廃した国土を眺め、飢えに泣く子どもたちの姿を見て、ふたたび国の要請を受けて、御料牧場の開放地に開拓に入ったのでした。耕耘機もない時代、とんび鍬といわれる鍬一本で、陽が昇ってから月明かりの夜まで、松林や竹林を切り倒し、少しずつ畑を作っていったのです。
 そこへ、突然、空港が降ってきたのです」(p191)。


 まただまし討ち的な代執行で家屋を破壊された小泉よねさんについて「肝心なことは一人の人間が住み慣れた家や田圃を失っただけではなく、薪を拾った裏山や洗濯をした家の前の川など、自然や人間の関係をすべて断たれたということなのです……中略……一体、隣近所との関係をすべて断たれて、老婆一人、見知らぬ町で、どのように生きていけというつもりだったのでしょうか」(p193)。


 「この25年間、私たちが見てきたものは、常に人間の心を無視し、人間が他の人間や自然との関係によって成り立っているということを考えもしない、傲慢な行政の態度でした」。


 この意見発表には「私たちは成田の教訓を、日本の国家と民衆に分かち合って欲しい(p201)」「一歩遅れても、二歩遅れても、丁寧に合意を形成しながら進むべき時代が、もう来ている」と書かれている。だが、第1回シンポジウムから19年を経た我われは、この思いに応えられているのだろうか?

成田闘争が提起した様々な問題

 成田闘争が提起した問題は、広く、深い。
 それは、土地所有とは何か、というところから、農業と消費者のあり方にいたるまで、今日的な課題を多数含んでいることが、本書だけからでも伺える。

関係者は誰か

 たとえば、成田闘争はまた、空港予定地内に直接土地を所有するか、土地所有者と直接何らかの経済的利害関係をもつ人々に当事者を限定しようとする政府・公団と、予定地内に居住し農業を営む農民だけではなく、周辺に居住し、農業を中心として生活を営む人々を包含した反対同盟との対決でもあった。
 前者の、問題を狭く狭く押し込め、土地所収者だけに限定しようとする政府の姿勢は大きくは変わっていない。都市計画法も未だに借家人の参加すら認めていない。

ハーヴェイ・ロードの要件

 また宇沢さんはケインズ主義の考え方をもっとも端的に表したものとして「ハーヴェイ・ロードの要件」をとりあげ、「統治機構としての国家が、一般大衆よりすぐれた知識と大局的観点をもって、一般大衆にとって望ましい政策を選択して、実行に移してゆくという考え方であって、日本の土地収用法の前提条件とまさに合致するものである。成田問題は・・非民主主義的、専制主義的政治機構のなかで、その極限にまで推し進められた結果」(p173)だとされている。

 都市計画にしろ公共事業の場合、悪意をもって進めようとする専門家や官僚はめったにいないだろう。だが、善意と知識が良い結果をもたらすとは限らない。

土地とは、農業とは

 石毛博道さんの意見発表には「私たちの農耕と生産活動は、自分の家族の生計の支えであるばかりではなく、たくさんの消費者から委ねられた業(なりわい)なのだ、ということです。さらに、この業の重要な構成要素である土地は、単に、私が所有権を有する土地であるばかりではなく、公の生命を育む共生の大地であり、生命を維持していくための、最低限必要な社会的共有の財産だったのだということを、改めて思い致しているところであります」(p189)と書かれている。


 また宇沢さんは反対同盟の中心的な動機は、農の営みを守ることであったという。
 僕は、学生の頃、「三里塚に援農に行こう」という立て看板を見たことを覚えている。今風に言えば、農業体験、都市農村交流の魁だ。
 宇沢さんによれば、青年行動隊の石井新二さんは有機農業に取り組まれたという(p142)。

 また三里塚微生物農法の会ワンパック・グループは産直も実践した(p143)。島村昭治さんは卵と野菜を消費者に届ける運動を続けた(p144)。
 支援に駆けつけた佐山忠さんは漬け物工場をつくった(p147)。今でいう農村加工所だ。


 宗田好史さんの「イタリア世界遺産物語〜人々が愛したスローなまちづくり」によれば、「イタリアの農業がどう生き残るか、イタリアの農村がどう生き残るかを、(60年代の)学生運動を担った人たちがまじめに考え」アグリツーリズモが広がったという。


 西山康雄さんの『イギリスのガバナンス型まちづくり―社会的企業による都市再生』によれば、イギリスの開発トラストを担ったのも、やはり闘争世代だという。


 ひるがえって日本の運動は?と思っていたが、三里塚の問いかけは大きく、奥が深い。


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