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『アラブ、祈りとしての文学〈新装版〉』(岡真理 みすず書房 2015//2008)

著者:岡 真理[おか・まり] (1960-) 現代アラブ文学、パレスチナ問題、第三世界におけるフェミニズム思想の研究。
NDC:929.763 アラビア文学


アラブ、祈りとしての文学【新装版】 | みすず書房


【目次】
もくじ [/]


1 小説、この無能なものたち 001
  檻の中の生
  小さき人々
  バルコニーの花、そしてリヴィングのレモネード
  祈りとしての文学
  註 018  


2 数に抗して 019
  アーミナの縁結び
  数に溺れて
  数のシニシズム
  「命」の側に
  註 037


3 イメージ、それでもなお 041
  閉じてゆく世界の中で
  ナクバ――大いなる禍い
  記憶の非対称性
  イメージの不在
  メモリサイド――記憶の抹殺
  イメージ、それでもなお
  註 061


4 ナクバの記憶 063
  ラムレの証言
  悲しいオレンジの実る土地
  まだ幼かったあの日
  歴史の天使
  オリーヴの種子
  註 084


5 異郷と幻影 085
  ゴルバ文学
  アフリカの魔術師
  人間ヨーヨー
  私だけの部屋
  註 103


6 ポストコロニアル・モンスター 105
  あの時代
  二匹の野獣
  殴打の哲学
  ポストコロニアル・モンスター
  註 121


7 背教の書物 127
  肉の家
  アル=ハラーム――真の禁忌
  禁忌の書物
  註 145


8 大地に秘められたもの 147
  エジプト固有の文学
  隠喩としてのヒロイン
  生への意志
  隠喩としてのサバルタン
  21世紀のアジーザたち
  註 165


9 コンスタンティーヌ、あるいは恋する虜 167
  純粋恋愛小説
  怒りの秋
  砕け散った夢
  未来の記憶
  起こらなかったけれども、起こりえたかも知れない過去
  註 185


10 アッラーとチョコレート 187
  ムスリム性文学の可能性
  イスラームを生きる女性たち
  女たちの抵抗
  共犯する女たちのシスターフッド
  註 209


11 越境の夢 211
  豊穣な記憶
  ひまわり
  零度の女
  越境の夢
  註 229


12 記憶のアラベスク 231
  ある一族の物語
  物語のポリフォニー
  ヘブライ語小説
  単一の物語に抗して
  註 248


13 祖国と裏切り 249
  制裁される女たち協力者[コラボレーター]
  ファーカハーニー広場を見下ろすバルコニー
  至高の祖国、宿命の愛
  裏切りとジェンダー
  註 267


14 ネイションの彼岸 269
  ナクバとは何か
  女たちの経験
  占有に抗して
  母語という祖国
  未来の祖国[ワタン]
  註 289


15 非国民の共同体(二〇〇八年 ナクバから六〇年目の五月に) 291
  演じるということ
  シャティーラの四時間
  祈りとしての小説
  非在の贖い
  想像の共同体


あとがき(二〇〇八年十一月 岡 真理) [309-311]
新装版へのあとがき(二〇一五年十一月 岡 真理) [312-313]




【抜き書き】
・著者による小説引用部分は、二重山括弧《 》で括った。
・註は引用部分の直後に置いた。
・引用者による中略は〔……〕で示した。


□p. 29

 毎日十数人の命が奪われるのはパレスチナの日常であって、それが日常であるかぎり、特別の関心は払われない。結局のところ「大量殺戮」を私たちが問題にするのは、数字が喚起するセンセーショナリズムのゆえであって、そこで殺される一人ひとりの人間たちの命ゆえではないということになる。他者の命に対する私たちの感覚は、桁違いの数字という衝撃がなければ痛痒を感じないほど鈍感なものだということだ(さらに言えば、私たちが生きている社会は、暴漢に殺されるいたいけな幼児の死に反応して犯人に死刑を叫んでも、冬を越せずに命を落とす無数の路上生活者にはおそろしく無関心である。〔……〕)。

□p. 30

 日々の殺人そのものが統計的観点から管理され、「日常」として遂行されているという事実に、殺人がシステマティックかつ日常的に遂行されたホロコーストとの類似性をどうしても感じないわけにはいかない[註11]。同時に、死者数の統制という戦術を裏打ちしている人間に対するシニシズムにも、六〇年前、彼らの父祖たちが体験したホロコーストを思わざるを得ない。
 ホロコーストを体験したユダヤ人がなぜパレスチナ人に同じことを繰り返すのか、という問いをよく聞く。〔……〕シオニズムにおいては当初より、パレスチナ人に対してユダヤ人と対等な人間性がそもそも否定されていたのであり、パレスチナ人の人間性の否定のうえに建国されたイスラエルユダヤ人国家維持のためにパレスチナ人に対して行使する暴力において、パレスチナ人の人間性が顧みられないのは、実はきわめて当然のことなのだ。
 だとすれば、先の問いは、ホロコーストというレイシズムによる悲劇の経験を、私たちはいかにして、イスラエルユダヤ人がパレスチナ人に対するレイシズムを克服する契機となしうるのか、と言い直されるべきかもしれない。

註11  現代世界、とりわけ欧米社会においては、イスラエルナチスになぞらえる言説は反ユダヤ主義プロパガンダの最たるものとして即座に糾弾されることになる。ほかの社会に関してならば語りうる(サッダーム・フセインやナセルがイスラエル社会で積極的にヒトラーになぞらえられたように、それがアラブ社会であるなら、むしろ語ることが推奨さえされる)ナチスとの類似性も、ことイスラエルに関してはタブーとされる。そうしたタブーが、何を隠蔽し、何に資することになるのか、私たちは考えなければならないだろう。これら社会で「反ユダヤ主義者」のレッテルを貼られることの致命性ゆえイスラエル批判を控える知識人も少なくない。Judith Butler, `No, it's Not Anti-Semitic`, Adam Shatz ed, Prophets Outcast: A Century of Dissident Jewish Writing about Zionism and Israel, Nation Books, 2004. 参照 。



□pp. 30-32

 ホロコーストはそれを体験した人間たちに何を教えたのか?〔……〕それはかつて起こったのだから、また起こるかもしれない。人間にとって他者の命などどうでもよいのだから。そのことをとりかえしのつかない形で体験してしまった者たちにとって、同じことが二度と繰り返されないためには、人間の命の大切さなどという普遍的命題をおめでたく信じることではなく、それがいかに虚構であるかを肝に銘じることのほうがはるかに現実的と思われたとしてなんの不思議があろう。
 世界が関心を示すのは数であって、他者の命に対してはどこ でも無関心であるのなら、600万という巨大な数字が、その巨大さゆえに強調され特権化され、彼らの死者は、ほかの死者たちの死から区別されるだろう。「人間とは決してこのように死んではならないという真理」は彼らだけのものとされ、他者の殺戮は、世界を刺激しないように統計的観点から管理されるだろう。〔……〕「命の大切さ」などと言いながら、この私たち自身がいかに人間一個の命をないがしろにしているかを思い出せば、私たちは果たして彼らのシニシズムを批判できるだろうか。
 死者の統計数値から炙り出される彼らのシニシズムは、彼らの振る舞いが、ホロコーストを経験したユダヤ人「にもかかわらず」ではなく、むしろホロコーストを経験したユダヤ人「だからこそ」なのだということを物語っているように思えてならない。シオニズムはナチズム同様、他者に対するレイシズムを分有しているが[註12]、イスラエルによるパレスチナ人迫害がホロコーストと決定的に異なるのは、その根底に、世界に対するこのシニシズムがあることだ。少なくともナチスは、世界が事実を知れば、ユダヤ人問題の「最終的解決」は達成不可能になると考えていたのではないか。だからこそ、実態を隠蔽する婉曲語法が編み出され、証拠隠滅が図られたのだと言える。同様に、「私たちは知らなかった」という言葉が、もし戦後ドイツ社会において免罪符としての機能を果たしうるのであるとすれば、それは、その言葉が同時に「知っていれば必ずや反対していた」ということを意味するからである。だが、ほんとうにそうなのか。彼らはほんとうに「知らなかった」のだろうか。そうではないことを犠牲者は知っているのではないか。
 パレスチナで起きていることを私たちは知らないわけではない。知ろうと思えばいくらでも知ることができる。〔……〕他者の命に対する私たちの無関心こそが殺人者たちにシニシズムを備給し、彼らが他者を殺すことを正当化し続けるものとして機能しているのである。
 だとすれば、パレスチナ人が人間の尊厳を否定され、日々殺されゆくことの「あってはならなさ」を描くとは、このシニシズムに抗して、世界に抗して、人間一個の命の大切さを語ることにほかならない。

註12  実際にホロコーストで殺されたヨーロッパ・ユダヤ人は「人種」的にはキリスト教徒のヨーロッパ人と同じ人々であるが、近代ヨーロッパ社会において「ユダヤ人」は、ヨーロッパ人とは人種の異なる、アラブ人などと同じアジア系の「セム人」と見なされた。「反ユダヤ主義」を英語で Anti-Semitism「反セム主義」と 言うのはそのためである。つまり、反ユダヤ主義は、キリスト教徒と信仰を異にするユダヤ人に対する差別と同時に、アジア人に対する人種差別をも内包している。同様に、パレスチナの地にユダヤ人国家の建設を企図したシオニストユダヤ人たちは、自らをヨーロッパ人と見なし、パレスチナ先住民を遅れたアジア人と見なす、レイシズムに浸潤された近代ヨーロッパのオリエンタリズムのまなざしを共有していた。



□pp. 34-35

〔……〕そして、この、あらゆる死に抗して、人が他者の命に寄せる愛ゆえに、世界はなお善として肯定される。ここに、殺人者たちのシニシズムに対する根源的な「否」が宣言されている。占領に抗して、すべての死に抗して、それでもなお私たちは他者の命の大切さ、世界の美しさを決して手放しはしないのだという宣言。〔……〕「アーミナ」とはアラビア語で「信じる人」を意味する。夫のジャマールは生前、アーミナにこう語った。

《人間とはいつ、自ら敗れ去るか、ねえアーミナ、きみは知っているかい? 人はね、自分が愛するもののことを忘れて、自分のことしか考えなくなったとき、自ら敗れ去るのだよ。たとえ彼にとってその瞬間、大切なものは自分自身をおいてほかにないと彼が思っていたとしてもね。それは本当のところ街をからっぽにしてしまうんだ。人もいなければ木々も、通りも、思い出も、家すらなく、あるのはただ家の壁の影だけ、そんな空っぽな街に……。》

 自分と自分たちだけのことしか考えなくなったとき、人間は自ら敗北するのだというその言葉は、パレスチナ人に自分たちと等価の人間性を認めず、自分たちの安全保障しか眼中にないユダヤ人国家の国民たちに対する根源的な批判であるだろう。空っぽな街とは、ホロコーストの犠牲者の末裔を名乗る者たちが生きる、シニシズムに侵された空しい世界の謂いにほかならない。人間の尊厳を否定された自分たちだからこそ、占領に抗して〔……〕世界が善なることを信じ続けること、それが彼らの根源的な抵抗になる。




pp. 4-6

〔……〕占領下で若いパレスチナ人の男性であることは潜在的テロリストであることと同義であり、日々、恥辱にまみれることにほかならない。
 ジハードにとって生きるとは、ただただ己れの無力を思い知らされるだけの毎日を送ることだ。未来への展望など何ひとつ思い描けない。自らの努力によってこの八方塞がりの情況が好転する望みはどこにもないのだから。外出禁止令がしかれていなくても、フェンスに囲まれた小さな街の囚われの人生であることに変わりはない。25歳の青年が生きるには残酷すぎる、まさに飼い殺しのような人生。ジハードの人生を想像して思った。彼がある日、自爆したとしても、私はちっとも不思議に思わないにちがいないと。祖国解放のために抵抗者となって殉じることは、生きているかぎり彼から奪われている社会的尊敬を手に入れる、唯一残された手立てなのだから。むしろ不思議なのは、このような救いのない情況のなかで、それでもなおジハードが、そしてほかにも無数にいるであろう彼のような青年たちが、自爆を思いとどまっていることのほうだった。
 あなたが置かれている情況を考えれば、自爆しても何の不思議もないと思う。いったい何があなたに自爆を思いとどまらせているの? そう率直に訊ねると彼は言った。

「ぼくはテロリズムには反対です。ぼく自身死にたくはないし、人も殺したくない。でも、分かりません。ぼくの友人にも、そう言いながらある日、突然、自爆攻撃をした者がいます。ぼくも同じようにしないとは言い切れません……。でも、ぼくは生きたい。パレスチナ人が正当な権利を回復するという希望がある限り……」。

「希望があるの?」

「希望は……あります」

「いったいどこに? どんな希望があるというの!?」

 残酷にも重ねて訊かずにはおれなかった。未来への展望などまったくない、どう考えても救いのないこのような情況のなかで、それでもジハードや、彼のような青年たちに自爆を思いとどまらせているものがあるとしたら、それは何なのか。いかなる力が彼らをこの世界に踏みとどまらせているのか。その力を明らかにすること、それは今、この時代の思想的急務であるように私には思われた。

「どこにどんなとは言えないけど……希望はあると信じています」。

 それは決して確信に満ちた口調ではなかった。むしろ、懐疑と苦渋のなかから絞りだされた言葉だった。希望を託したいと思う現実の何事も、理性による吟味に決して耐ええないことを彼自身よく分かっている。しかし、だからこそ、希望はあると信じないなら、あとに残されているのは他者の命を巻き添えに自らの肉体をダイナマイトで木っ端微塵に吹き飛ばすことだけだ。希望とは今日を生き延びる力のことであるとすれば、明日また新しい日が始まるから、新しい別の未来がありうるかもしれないと根拠なく信じることこそが、今日を生きのびるためには、どうしても必要なのではないか。
 ジハードに出会い、彼が生きているこの生こそがパレスチナ問題なのだと思った。ジハードが、そして無数にいる彼のような青年たちの生、その一つひとつこそが「パレスチナ問題」であるのだと。



□p. 203

〔……〕歴史的にはイスラーム世界を植民地化した西洋の帝国列強主義が、イスラーム社会における女性差別イスラーム文化全般の後進性の証とすることで植民地支配を正当化した。そして近年では、2001年9月11日「同時多発テロ」に見舞われた合州国の「対テロ戦争」において、イスラーム原理主義」政権とされるターリバーンによる抑圧からアフガン女性を解放するという言説によって、アフガニスタン空爆の正当化が図られた。このように、「イスラームと女性」とは、一文化におけるジェンダーという問題を越えて、現代世界において特殊な政治的負荷を帯びた問題である。