愉快的陳家@倫敦

ロンドンで、ちょっと雑だが愉快な暮らし。

2年前のフランス旅行話⑥コロナ渦の旅あれこれ・パリ

(もう3年前2021年夏の記録)

イギリスへの帰国数日前に、再度コロナの陰性証明を取らなければならなかった。AirBnBのホストの人が教えてくれて、宿の近くで検査が受けられる場所を予約して出向いて行った。クリニックの中庭みたいなところに通されて、お約束の綿棒で鼻ほじほじ、喉にグッ、である。思えば当時は子供が学校に行くのにも定期的にこうやってテストしては、アプリで報告していたな。

テストをしてくれた人は、夫や子供には英語で対応していたが、私のBonjourの発音だけ超絶良いので、私にはフランス語だった。心の中で少しガッツポーズをしたが、ややこしいことを言われてもわからないので、それはそれで困る。

結果はメールで送られてきた気がするが、こういうのはたいてい国境で陰性だという情報を携帯画面をちらっと見せれば良いだけで、送られてきたバーコードを誰かがスキャンする、といったことも特になかったと思う。まあ日本以外の国ではみんなそんな感じだった。

ストラスブールからパリ行きの電車に乗るときはコロナパス(陰性証明みたいなの)を見せて、中ではずっとマスクをつけていた。そんな時代も、あったのね・・というくらいもう何年もマスクしてないな。

パリ東駅近くの凱旋門だけど、みんなが考える凱旋門とはまた違う凱旋門。もともとは中世、パリの街を守る城壁がここにあり、そこから出入りする門があったのが始まりらしい。

パリの街は住むのは面倒くさそうだが、やはり歩くだけでウキウキする。ブラタモリでもやっていたが、建物の高さが均一なのと、近くでとれる石灰岩を使った全体的に白っぽい見た目がとても良い(ロンドンだとこれがレンガで全部茶色になる)。

モンマルトルの丘へ。サンフランシスコでの生活が長かったので、これくらいの傾斜の階段は脳があまり坂と認識してくれない。

教会はミサの真っ最中で歌声が聞こえてきた。

この界隈は芸術家の街だったのもあり、周囲にはアトリエや美術品を売るお土産屋さんみたいなのがたくさんあったのだが、今見返してみるとかたくなにそういうところで写真を撮っていない(苦笑)

サクレクールのすぐ横にもコロナテストができるテント。防護服の人。こういうテントが当時はあちこちにあった。

ディナーは東駅近くにあるイタリアンLibertino。多分オンラインで見つけてオンラインで予約していった。当時はレストランに入るにも陰性証明が必要だったと思う。持ってない人は、外のテーブルで食べるというオプションがあった。

ここのお店はお皿やプレゼンテーションが楽しかった。

パパはトリッパ(いわゆるハチノス)を食べてご満悦である。

後で気が付いたのだがこのお店、欧州の色んな都市にイタリアンレストランを展開しているBig Mammaグループ系列のお店だった。ロンドンで友達が似たようなお皿と雰囲気のレストランの写真をポストしていて、おおこれは・・となったのだった。

このころから、レストランではテーブルにQRコードが付いていて、そこからメニューを見て注文、お会計もそこから携帯で済ませちゃう、という形式が増えたような気がする。こうやって見るとコロナでロックダウンしてたのつい最近と思ってしまうけれど、もう遠い昔ですね。

2年前のフランス旅行話⑤:コルマール

年をまたいで書いているので、今はもう3年前のフランス旅行話である。

ストラスブールから電車に30分ほど乗ってコルマールに向かった。中世の街並みが残る街、ジブリみたいな景色の街(ハウルの動く城に出てくる建物のモデルになった場所があるということで)とよく言われている場所である。

駅から旧市街までは徒歩で15分ほどかかる。観光地の周辺にある、地元の人が普通に生活している現実の世界を見るのも結構好きだ。

途中シャン・ド・マルス公園というのがある。戦争の神様マルス神にちなんだ公園には、コルマール出身のナポレオン時代の海軍大将の銅像があった。よっ、地元の名士!

アルジェリアとかポリネシア近辺、最後にはカリブ海などあちこちで役職についていたようだが、コルマール出身で海軍大将とは、思えば海のない群馬県から立身出世したようなものではないか。

こちらもコルマール出身のナポレオン時代の軍人さんである、ナポレオンの命を何度も救ったらしい。

日本で言うなら江戸後期の軍人を讃えた公園には回転木馬もあり子供の遊び場もある。観光客が立ち寄るところでもないので閑散広々としていて、なんだか気持ちの良いところだった。

旧市街に入るともうすべてがフォトジェニックである。ここはテーマパークでも何でもない、本当にこういう街なのだ。

綺麗~素敵~かわいい~ともうキョロキョロして写真を撮るしかない。しかしここにきている8割ぐらいの人が同じ事をしているので、やっぱりある意味テーマパークなのだ。

お約束のハウルの建物もこのとおり。

建物の名前はMaison Pfisterというらしい。

1537年に財テクに成功した帽子屋が建てたものらしい。ここにはいつ誰が建てたか、その後誰が所有者になっていつ改修工事があったか、その時々の所有者の名前などが書かれている。これくらいのフランス語なら、読める!読めるぞ!!(ジブリ違い)

コルマールでもフラムクーヘンを食べた。ここでも片言のフランス語で注文をし、トイレはどこだと聞けば店の奥の右側にあるよと言われたのがわかって通じる!通じるぞ!と一人ほくそ笑んだ。

まだまだコロナの時期だったので、歴史ある街にも薬局前にはこういうテントがあった。こういう写真、何十年もたった後で見返すと、本当に歴史の一ページみたいな感じになるんだろうな。

なんだかんだいって、景色の他にコルマールで印象に残っているのは、反ワクチンパスのデモを見たこと。反ワクというよりは、ワクチン証明がないと旅行やら建物に入ったり、色々行動に制限がかかることに反対するものだったのだが、数千人はいたと思う。

ラ・マルセイエーズとかを歌いながら行進していて、それを道端で見ていた若者がだんだん雰囲気に興奮して踊りだし、今にも参加しそうになっていた。アジェンダそのものより、そういう熱気や雰囲気に共鳴して仲間になっちゃうという・・なんとも歴史的に繰り返されてきたであろう事象をまさに目撃した感があった。

浅い外食日記

ここ1-2か月の外食日記。ただ食べたものを羅列するので非常に浅い。

金田家のラーメン

昼はパスタにしようと決めて街を歩いていたのに、あまりの寒さにパスタの口ではなくなってしまい、通りがかったラーメン屋に入った。井之頭五郎だ。

うまかったが、ぬるかった。
アメリカやイギリスで食べるラーメンは、ぬるい。熱々をすすってみたい。
そしてラーメンをロンドンで食べるときは、決して円換算をしてはいけない (日本の約2.5倍)。

記念日ディナー

なんと結婚20周年である。家族3人でカジュアルなお祝いディナーに行った。

ブラッドオレンジの季節です、ということでエンダイブと合わせたサラダが良かった。

メインにはシュニッツェルを頼んだ。和のフュージョン風を頑張っているようで、衣には胡麻入りで、サイドに照り焼きソースが付いていた。
普通にとんかつソースじゃあかんのかーい。

かつて100で抹茶にまみれる

ポルトガル在住のブラジル人元同僚がロンドンに来ていたので、お茶をする。

チーズケーキは上が焦げていればバスクになるのか。

抹茶まみれで夜眠れるか多少心配になりつつ、つもる話をし、ショーディッチをうろうろして、色んな店を冷やかしては、面白いファッションやアイテムを一緒に見てコメントしあった。思えばこういうのも都会のエンターテイメントだな。

夜は思いのほかちゃんと眠れた。

Fabrique Bakery

よく名前を聞くベーカリー、通りがかったのでランチには早いが入ってみる。

甘いものしか残っていなかったのでバニラ・バンをもらった。座ったとたんに、ケースに季節限定のセムラが置いてあるのに気が付いてこっちが良かったなあとちょっと後悔する。隣に座っていた人はバンとセムラと二皿並べて食べていた。隣の人が優勝。

後から英人ジジババ集団がやって来る。客の爺さんの一人は、注文を取ってくれた人、サーブしてくれた人の名前をいちいち聞いては、「ありがとう、〇〇さん」と名前で呼びかけていた。とても良い。

ニューモルデンで焼肉

若者ばかりと韓国人街ニューモルデンで焼肉食べ放題。

この歳では食べ放題は進んで行くことはないが、若者の食べっぷりは気持ちの良いものである。

時間制限があるので、慣れた客はパパっと取り皿を三つぐらい並べて、そこに肉をどばーっと入れて持って行っていた。慣れていない若者は最初からチャーハンに取り掛かろうとしていた。食べ放題とは食べ放題の色んな戦略があるものである。

インド

レスタースクエアの観劇の前、お目当てのお店が長蛇の列すぎたので、近くのインド料理屋Hankiesに入る。名前の通りハンカチのようなロティが出てくる。

写真はパニプーリである。デリーの道端で食べると3つで10ルピーぐらいらしい。10ペンス。ロンドンの一等地で食べると6つで8ポンド。

インド料理をロンドンで食べるときは、ルピー換算してはいけない(インドの40倍)。

2年前のフランス旅行話④:だいせいどう

変な話だが欧州の都市を旅行していて一番記憶がごっちゃになるのが、大聖堂である。

どの大聖堂もそれぞれ特徴があって違うのに、どーん!これでもか!神は偉大だ畏れろ敬え~的なメッセージはどこも変わらない気がして、それが視覚と感覚にガツンと来る。

ましてや数年前の旅の記録を今頃書こうとすると、当時の記憶や印象はもう忘却の彼方・・・。

しかしストラスブールの大聖堂は、やはりその中でもでっかさが際立っていた。それもそのはず、この建物は過去200年間世界一のキリスト教建造物だったそうな(明治7年ごろまで)。

なのでまあどう頑張ってもカメラには収まりきらない

142メートルあるというから、40階ぐらいあるタワマンと変わらない。そんな建物をふもとから写真に収めようとしても無理なのは当然だった

大聖堂の前は広場になっていて、カフェがぐるっと並んでいる。昔はどうだったか知らないが、今では皆に解放された広場的な雰囲気が良い感じであった。

これが建てられた当時、人々は大聖堂に入ってどんな気持ちになっていただろう。ひたすら他よりも高い建物は、それこそ自分の存在を小さなものに感じ、圧倒され、この世にいるとは思えない気持ちになったかもしれない。

ここにどんな人が埋葬されているか、またどんなメモリアルがあるかということも、欧州の宗教施設を訪れる上で興味深い。地元の名士はまあ良いとして、特に戦争の慰霊碑は、この地から各国に送られた部隊のことだったり、この地で戦った部隊のことが書かれていたりする。

ここでは第二次大戦中のアルザス解放に関わったアメリカ軍のことが刻まれていた。1945年1月にあったノルトヴィント作戦、だけでアメリカ軍の犠牲者は1万数千人はあったらしい。

天文時計。時間だけでなく、太陽や月、星の動きがわかるように作られている。中は精巧な時計仕掛け。人間が脳みそを振り絞ったらこういうすごいものが出来る。こういうのを見ると、どうしても自分の脳みそはずいぶん怠けているようにしか思えない。

大聖堂に行くと何百段もある階段を上って上に行くのもお約束である。意外と息切れはしないものであるが、階段が急だったり狭かったりするのがちょっと怖い。あと上りより降りるほうが目が回って意外と怖い。

大聖堂の周辺はたいてい旧市街で、遠くにより近代的な建物が見えるのもお約束である。目の下を小さな人や車がうごめいているのも見える。ふと人間世界や歴史を俯瞰している気持ちになる。

レミゼラブル

シアター・ウィークでウェストエンドのミュージカルやお芝居が安く見られるのを狙って、久しぶりにレミゼラブルを観てきた。自分の中ではレミゼは高校の文化祭で上演したことがある思い出のミュージカル。サンフランシスコで本物を一度見て号泣し、今回は二度目。まだ見た事がなかった夫と子供に見せたかった。

あの心に残るメロディや、登場人物たちの色々な思いが切ないミュージカル、しかも高校の青春の一ページの舞台。今回も目から水がどばどば出るんじゃないかと思ったら、久しぶりに観た感想は、うわ、昔のフランスずいぶんひっどいところだな!というものだった(苦笑)

しかし実際原題の通りで、本当のところは滅茶苦茶みじめで救いようのない話やー!よくあんな歌詞を高校生で歌ったよな、と今は思うのはやはり加齢のせいだろうか。原作は一度手にとってあまりの長さと話の冗長さに読むのを挫折してしまったけれど、何となくちゃんと読まねばならない気もしている。

また、この話はざっくりフランス革命の頃の話・・とつい思っていたけれど、実は六月暴動の話だったというのも今までちゃんと認識していなかった。原作ではなんだかんだいってマリウスは男爵のポジションに落ち着いているし、革命だ平等だ云々掲げていても、ハッピーエンディングの着地点そこかっ!と色々突っ込みたくなったり。

思えばフランスの歴史、共和政と帝政が行ったり来たりしていたことなど、学校で習ったはずなのに詳細をずいぶんと忘れてしまっているなあ。ついでに日本語で覚えていたミュージカルの歌詞もだいぶほとんど忘れてしまっていることにも気が付いて、フランス革命も自分の高校時代もずいぶん遠い昔になりけりだなあと思うなど。

子供は舞台に圧倒されたらしい。それは良かった。