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日記は毎日書くから日記というわけだが、月一を遥かに下回るペースで更新している。この間、生活環境はいろいろ変わり、現在はアメリカにいる。今後は方針を変えて、英語力向上のために、日常生活を通じて学んだ表現をここに記録として留めることにする。
accelerator アクセル
step on the gas アクセルを踏む
foot brake ブレーキ
parking brake(hand brake) サイドブレーキ ※サイドブレーキは和製英語
turn signal ウインカー
hit the right-turn signal.(Signal right.) 右にウインカーを出す
fill up the tank 満タンにする
stalled engine エンスト
blow the horn クラクションを鳴らす
rear-view mirror バックミラー
side-view mirror サイドミラー
前回の日記から、早いもので三ヶ月が経った。この間、特に忙しかったわけでもないが、気がついたらあっという間に時間が経っていた。だからといって、今日特別なことがあったわけでもない。ほんとうにただ何となくページを開いたまでである。
今日のケースディスカッションは、衛星通信電話のイリジウム計画についてであった。モトローラ社が90年代に巨額の資金を投じ、結局大失敗に終わった巨大プロジェクトである。人工衛星と携帯端末を直接電波でつなぐもので、エベレストの頂上でも南極でも、世界中どこにいても使える携帯電話というわけだ。モトローラ社の技術の結集であったこのプロジェクト、結局、損益分岐点となる加入者数に遠く及ばず、事業は二束三文で売却されていった。高額で持ち運び不自由な端末機器、稚拙なマーケティング、建物の中で使えないという技術的なネック(世界中どこでもという謳い文句はウソだったわけだ)、決定的だったのは地上携帯の急激な低価格化、ローミング等の技術面でのブレイクスルーだろう。こうした競争条件の変化によって、イリジウムのもたらす付加価値は非常に狭められていったわけだ。
といった内容は別にして、今回のグループメンバーは香港人のパートタイム学生が四人。つまり私以外はNative Cantoneese Speakerなわけである。困ったことにこの四人は私よりも英語が遥かに堪能。いちおう英語で議論をしたが、彼らにしてみれば怪しげな英語をしゃべる日本人は無視して、広東語で議論できれば、どれほど楽かということになる。今回のケースは戦略論・ゲーム理論のコースなので、Five Forces, Added Valueあたりのフレームワークを使えばいいと思い、あまり細かい数字はフォローしていなかった。しかし私以外は昼間は金融機関で働く人間で、どうしても投資採算、NPV分析をしたいみたいで、ホワイトボードにいろいろ数字を並べ始めた。結局彼らの主導で議論は進められた。夜も10時半になったところで、「明日、別の授業の試験があるから。。。」と言い、そそくさと逃げてきてしまった。幸いプレゼンテーションも免れそうで、最も楽に単位が取れそうな授業になりそう。
この授業は、ハーバードビジネススクールの現役教授による特別授業で学生の評判も上々のようだ。ゲーム理論は、ビジネスパーソンにとって非常に有益な思考トレーニングになるので、卒業前にもう一度理論書を読み返しておきたいと思っている。
時間が経つのは早い。この日記を書くのも、二週間ぶりである。意気込んでスタートさせたが、ボーっとしているうちに時間が経ってしまった。先週から今週にかけてイースター休暇で時間はいくらでもあったはずなのに。。。
で、この二週間を改めて振り返ってみると、実は書くネタはいろいろあった。まずイラクの日本人人質事件。自衛隊を撤退させなければ、人質を生きたまま殺すという衝撃的な脅迫が届いた。先日のスペインの列車爆破もあったし、多くの人は本当に殺されるだろうと考えたに違いない。
これについてはいろいろな意見がある。ニュースでは自衛隊派遣に反対するデモや署名活動の様子が報じられているようである。が、一方で、自己責任、自業自得と考えている人も少なからずいる。
某巨大掲示板サイトを見ると、外務省の退避勧告を承知の上で、イラクに行った人間に同情する余地はないとか、家族が日本政府を非難する権利はない、何でもかんでも政府の責任にするのは日本人のお上意識の現われ、等々の意見が散見される。
私も最初はそう思った。でも今回のような事態になることを一体誰が予想していただろうか。退避勧告というのは、どの程度の危険を伴うものか、これは平和ボケした日本人には今ひとつピンとこない。一歩間違えば、戦闘に巻き込まれて命を落とすこともある。そんなことは、あの三人なら十分承知していただろう。しかし自分たちが人質にとられて、日本の外交政策が揺さぶられるほどの事態は、想像力の範囲を遥かに超えている。そこまでのリスクは退避勧告を出した当の外務省の幹部でも認識していなかっただろう。
動機はそれぞれにせよ、戦場に赴く行動力と勇気、ボランティア精神を無下に非難してはいけないのではないかと思う。あのようなバイタリティを今の多くの日本人は失っているからだ。
3人の人命を救う。このことに日本政府は最大限頑張って欲しいと思う。万が一、一人でも殺された場合は、政権基盤さえ危うくなりかねないだろう。しかし仮に無事に助け出されたとしても、いろいろと思いは尽きない。
人間の命は平等ではない、そう思った。日本人三人だから、我々はこんなに大騒ぎしている。しかし今この瞬間でも、世界のどこかで無実の民が無下に殺されているはずである。内戦の絶えないアフリカの某国かもしれない。中国もはっきりいってそれに近い。それはアメリカの利権が絡まないから、話題にならない、話題にされないだけの話である。
人の命は地球よりも重い、といった人がいる。それは認める。だがその命は決して平等ではないという現実を忘れてはいけないのである。
MBAは過酷といわれる。宿題の多さは、日本の大学とは比べものにならないし、グループディスカッション、プレゼンテーション、試験準備等々、自分の能力をストレッチする場が延々と続く。あまりのキツさに耐え切れず、ドロップアウトしてしまう学生もいる。ある友人は軽いうつ病にかかり、本国に帰ってしまった。
しかし慣れてくると、どこに力を入れるか、手を抜くかが段々と見えてくる。あとは空いた時間を、興味ある分野の勉強をするもよし、就職活動をするもよし、遊ぶもよし、である。こうしたギアの入れ加減は、ビジネスパーソンにとって重要である。真面目な学生というのは、常に全力投球で全てを勉強に費やしてしまう。これで思うような結果が得られないと、真面目なだけに精神的なショックを受けてしまうようである。
そのへん、自分はいい意味でいい加減であり、授業をサボったこともあるし、試験前に飲みに出掛けたこともあった。適当な息抜きをしつつ、要所では集中力を発揮すればよいと割り切っていた。ただ私の通う学校では、卒業のための成績要件があり、これが結構プレッシャーになっている。また勉強熱心な女性が多く、Non-Native Speakersが平均以上の成績を取るのはなかなか難しい。
それでも一科目くらいは最高の成績を取って、卒業したいものだと思うが、最近分かってきたが、かなり一生懸命やっても、あまり勉強しなくても、自分にとっては成績があまり変わらないのである。努力の限界的効用が小さいと、あまりインセンティブは湧かないものである。それとも一生懸命の度合いが小さいのかどうかはまだ分からない。
海外で長く生活していると、どうしても日本料理が恋しくなる。しかし中には、日本料理もどきの店も少なくない。こうした店はメニューを見ればすぐ分かる。だいたい「揚げだレ豆腐」「梅サフー」といった間違いが必ずあるからだ。
Non-Japaneseが作る日本料理は、どうしても地元テイストになるので、日本人の口には残念ながら合わない。ラーメンの中にトンカツを入れて、ボリューム感を出そうなどとは、普通の日本人では思いつかない独創的な料理にお目にかかる。
最近はバスと電車を乗り継ぎ、わざわざ一時間もかけて、日本人が経営するトンカツ屋に足を運ぶ(高いが味は確か)。学生の頃、海外で日本料理を食べたいなどと思ったこともなかったのだが、年を取ったのかもしれない。
以前、ロンドンにいたとき、ドイツ人・イタリア人の友人から本当においしい日本料理を食べたいといわれ、ある鉄板焼屋に連れて行ったことがある。ロンドンで生活している人は、聞いたことがあろう有名な店である。確かに美味かった。特にシーフード系はいいネタを使っており、目の前の鉄板で踊るロブスターを見て、皆えらく興奮していた。ワイン通のイタリア人は、新潟の久保田の味が気に入ったらしく、日本から直輸入する方法はないか真剣に聞いてきた。
さて会計である。正確な数字は忘れたが、四人で500ポンドくらいだったと記憶している。190円/ポンドとすると、一人24000円である。何かの間違いではないかと思い明細を確認したが、確かにそれくらいの量を注文している。いろいろなものを食べたい、そして本当に美味しいものを、というリクエストに応じたわけだが、さすがにこの金額にはびっくりした。
友人には泣いて頼んで4分の1ずつ出してもらった。ドイツ人の友達は、レストランでこれだけカネを出したのは初めてだよと半分嫌味を言われたが、それを言ったらこっちも一緒である。日本に来たときは、安くて美味しい店に必ず連れて行くから、と約束して納得してもらったが、日本料理はとにかく高いというイメージを強烈に与えてしまったようである。
MBAの学生たるもの会社の一つや二つを興せないようでは失格、とは誰も言っていないが、起業家精神(Entrepreneurship)を抱くことはビジネスパーソンとしては大事なことだ。
先日、昼食を共にしながら、友人とあるビジネスプランについて議論をしていた。二時間くらいの話し合いの中で、かなり具体的な姿が見えてきたので、とりあえず小規模でも始めてみようかという結論に達した。こういうのはスピードが大事である。どこまで本気にやるかは別として、小遣い銭くらい稼げればいいかなと考えていた。
が、少し調べてみると、すでに日本の某大手企業が、全く同じビジネスを去年末に立ち上げていることを知った。パートナーとの提携、資金回収、ITの活用法、プロモーションプランなどを見ると、我々の議論の中で、こんな感じでできたらいいね、とイメージしていたことが見事に実現されていた。
さすが日本の企業だ、と感心している場合ではない。こうしたベンチャービジネスは、大手企業が資金力で本気で乗り出したら、中小企業には勝ち目はない。我々の目の付け所は間違ってなかったと思うが、実現化させるまでのスピードがやはり大事だと思った。あとは先見性である。今回のプランも3年前に思いつけば成功したかもしれない。今成功するにはこれから5年から10年先の需要をイメージすることが大切になってくる。創造(Creation)ではなく、想像(Imagination)が勝負だ。
今回のプランはお蔵入りとなったが、その友人との議論は実にエキサイティングな時間であった。友人とは、また次のプランを考えようと誓いあった。
Operation Managementの試験が終わった。
生産・在庫管理などのプロセスマネジメントを学ぶわけだが、この分野は日本企業が最も得意とする部分である。日本人学生にとって、継続的改善、自働化(にんべんのついた自動化)などコンセプトとしては目新しいことはないが、試験ではひたすら数学的な問題処理が問われる。
一例を挙げると、ある病院で一時間あたり20人の患者が訪れるとする。受付にかかる時間が平均5分、診察に20分とし、患者一人当たりの診察料が5000円、医師の賃金を時給1万円とする。患者の待ち時間1分あたりコストが1000円(顧客満足度が低下することで、他の病院に患者が流れる可能性を考慮する)かかるとすると、医師の数はどれくらいにすると利益を最大化できるか、といった類の話である。
こうした分析をQueuing Theoryというが、必ずしも行列を分析するのが目的ではない。企業にとっては生産ラインを組む場合の基本的な考えであり、様々な分野に応用が可能だ。
しかしながらヨーロッパへ行くと、どこへ行っても行列だ。ロンドンから長距離バスで郊外に行こうとした時、切符一つ買うのに30分以上並んで、予定が大幅に狂ったことを思い出す。
先日スーパーで買い物をしていると、閉店間際ということもあって、20人くらいがキャッシャーの前で並んでいる。キャッシャーは二つあるのに、一つしか使われていない。人が足りないのかと思ったら、他の店員は早々と店じまいの準備をしている。日本だったら…と考えるのはナンセンスだが、片づけをする前にやることがあるだろ!と日本のオバサンの声が聞こえてきそうだ。
本当に重要なのは、小難しい理屈を並べる前に、従業員一人一人が目の前のボトルネックを解消するために主体的に考え、行動する、そのための動機づけである。トヨタの現場主義の哲学はまさにそこにあるわけだ。
蛇足だが、日本語で言うレジはcash registorの略であることに初めて気づいた。だがこの略し方は間違った英語である。Where is the "regi"?と言っても通じない。cash registerかcashierが正しい。
つい先日までは別の「ちょうさん」が倒れて大騒ぎしていたが、そのちょうさんは順調に回復しているようで、こっちのちょうさんは帰らぬ人となった。もっとも昨年あたりから、入退院を繰り返していたようだが。
私が小学生の頃、ドリフの全員集合は全盛期。下品な冗談や食べ物を粗末にするコントで、多方面から低俗番組のレッテルを貼られていたが、それでもというか、それであるがゆえに、多くの子供たちは毎週土曜夜に、いかりやの「おぃーっす!」の掛け声に応じていた。いつしか世の関心は、ビートたけし・明石屋さんまに移っていったが、ドリフがお笑いの一時代を築いたのは間違いない。そして、その中心にいかりや長介がいたことを、この死をもってあらためて強く認識させられた。
数年前、いかりや長介がキリンビールのCMでアップライトベースを弾いていたが、これが惚れ惚れするほど実にキマッていた。もともとドリフターズの母体はバンドであり、ビートルズの来日公演の前座をつとめたこともある。なかでもいかりやのベース奏法は高く評価されている。ただのコミックミュージシャンではなかったのだ。
役者としても実にいい味を出していた。「踊る大捜査線」での活躍も記憶に新しく、他に換え難いキャラクターなだけに、その死は実に残念である。
しかし72歳というのは微妙な年齢である。日本男性の平均寿命からは若干早い死だが、特別に若い年齢でもない。あの高木ブーもすでに70を過ぎているらしい。
全員集合をやっていた時、いかりや長介はすでに50歳を過ぎていたわけだ。彼の役者・芸人としての魅力はそこから磨きがかかったように思う。当時のいかりやは、ただのウルサイ親父にしか見えなかったが、その後は実に美しく齢を重ねている。
織田信長は人生50年と言った。欧米社会では40代後半のオジサンは、ハッピーリタイアメントのことで頭が一杯だ。が、古典芸能の世界においては50台なんてまだまだ新人。人間の才能は本当にどこで開花するか分からない。人生短いようだが長い、そう思った。
海外に出ると、特に欧米社会ではFirst Name Basisだから、自分をどう呼んでもらうかはちょっと迷うところだ。今、私は本名のFirst Nameをそのまま使っているが、日本人の場合、若干縮めた名前にする場合が多い。例えば「たかあき」ならTAK、「としひろ」ならTOSHIといった感じ。この例に倣うと、私の場合MASAになるわけで、東京で英会話を習っていたときは、先生にこう呼んでもらっていた。しかし日本人の男性で「まさ」で始まる名前はかなり多いらしく、クラスで重複する日本人男性がいた場合は困るなということで、日本を発つ前に改めて自分をどう呼んでもらうかいろいろ考えたものだ。「まさ」という漢字の意味から、EARNESTというのはどうだ?と言ってくれた会社の先輩がいたが、自分の胸に手を合わせて考えると、ちょっと名前負けしそうなので辞退した。あとはMARCYなんてのもあった。外人には分からないけど、この名前はある有名な日本の芸能人の愛称で、かなりネガティブなConnotationを含むので、これも却下した。ロンドンにいたとき、学校の先生がMASと呼んでくれた。これも短くていいかなと思ったが、結局、本名を通しても、欧米人は割とすんなり覚えてくれたので、そのまま通すことにした。メール等のアカウントを作るうえでも本名で通したほうが楽である。
逆にほとんどの中国人の学生は、English Nameを使う。クラスメートをざっと見回しても、Alan, Connie, Jerry, Helen, Williamといった名前で堂々と自己紹介する。したがって、いまだほとんどの中国人学生の本名は知らない。中国名をローマ字に置き換えた名前は欧米人には覚えにくいともいう。しかしこうした風潮に異を唱えて、断固本名を通している中国人学生もいる。彼にこの話をしたところ、親からもらった名前は唯一無二であり、別の名前で呼ばれるのは心理的にかなり抵抗があると言っていた。この心情は非常に共感できるものだ。彼とはそれ以来結構仲良くなったのも何かの縁かもしれない。
しかし、日本人の名前でも時には覚えてもらうのに大変苦労することもある。例えば大学の時にお世話になったある先生は、姓が「飯田」で、「Professor IIDA」と呼ばせるのに四苦八苦したらしい。IIDAというのはどうやって発音するのか。「アイアイダ」では笑ってしまうし、一歩間違えるとテロリスト集団と勘違いされるかもしれない。何かの略称にも見える。苦し紛れにこの先生は、「EIDA」と綴ることにしたらしい。姓は変えることはできないので、せめて憶えやすい名前を子に授けることが親の責務かもしれない。
今日から日記を付けようと意気込んでいる。
某大学院のMBAコースに来て、早いもので7ヶ月が経った。少しBurn outしてきた感じもするし、授業が楽になって気が抜けてきているのも事実だ。日々少しは成長していることを自分自身で確認するためにも、この日記をつけることにした。
DEPOTというのは、英語で停車場・貯蔵庫・倉庫くらいの意味。あまり深い理由はない。The MBA Lifeなんてのは大袈裟すぎるので。備忘録的な感じ。
ハンドルネームのMarsyas(マルシュアス)はギリシャ神話に登場する山野の精。森と山の自然の霊を象徴したものとされる。彼は無謀にも音楽の神アポロンに楽器で戦いを挑み 敗れた末に殺される。そのときに彼の死を悲しみ山野の神が流した涙が清らかな川の流れ (マルシュアス川)になったとされており、このことから河の神であるとされる。
という御託だが、全く興味はない。本名が「ま」で始まるので、MAで始まる適当なEnglish Nameを探していたら、この名前を見つけた。ギリシャ神話に由来するなんて格好いいじゃん、ただそれだけである。