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昆正和のBCPブログ RSSフィード

2018-01-22

久々のミステリー小説を堪能

| 10:53 |

 前回のブログで、「デヴィッド・ボウイの愛読書リストが読書の参考になるかもしれない」と書いたのですが、このリストとは別に、最近読んだペーパーバックがとても面白かったので、少しご紹介します。

 タイトルは『Jar City』。著者はArnaldur Indridasonというアイスランド在住の推理小説家です。

 Jar City? タイトルの意味が不明で、何やら炊飯器をたくさん売っている秋葉原の街を思浮かべてしまいそうですが、ストーリーは第一級のミステリー小説です。本の裏表紙にこう書いてあります。

' A Man is found murdered in his Reykjavik flat. The only clues are a cryptic note left on the body and a photograph of a young girl's grave.'

 あるアパートの一室から見つかった男の死体とそこに残されていた判読不明のメモ、そして引き出しの奥に挟まっていたどこかの少女の墓の写真。こうした断片的な事実が次から次に出てきて、どんどん謎は深まり、そして犯罪捜査官エーレンデュルたちの手によって徐々にその謎が解明されていく…。もちろん「Jar City」の意味も明らかになります。

 本書から読み取れるのは、あることがきっかけでどん底に突き落とされたとても気の毒な女性とその幼い娘の運命、そして昔風に言えば先祖の血から受け継がれたある種の因縁、今風に言えば遺伝子的欠陥がもたらす悲劇です。

 どんよりとした暗い空、毎日のように降り注ぐ秋雨。陰鬱な雰囲気に満ちた小説ですが、ところどころで、エーレンデュルと娘(これがまた、なぜか素行不良なんです)との対話がアクセントを添えています。しょうもないヤツだが、それでも可愛い娘であることに変わりはないという彼の愛情がにじみ出ています。

 正直、(シャーロックホームズやポーの作品を除いて)犯罪小説はあまり読まないのですが、今回ばかりは非常にスリリングで一気読みしてしまいました。扱っているテーマは、わりとオーソドックスな気がします。飛んだり跳ねたりといったどんでん返しではなく、どちらかと言えば高村 薫の小説「マークスの山」で扱っているようなテーマ性と雰囲気を感じました。

 後で調べてみたら、このペーパーバックは『湿地』というタイトルで既に翻訳され、文庫本で出ているのみならず、映画化もされたようです。ただ、日本語になったり、映画になったりすると、翻訳者や脚本家や監督の持っているイメージを押し付けられるような気もするので、僕的には自分のイメージで読んだ内容で十分ではないかと(因みに僕の場合、エーレンデュルは無精ひげのくたびれた顔のブルースウィルスのイメージでした)。


2018-01-11

2018年の本の読み方

| 11:04 |

元日は、川沿いにウォーキングを楽しみながら、鶴見の総持寺へ初詣に行ってきた。帰りは電車で戻ったので歩いたのは片道だけだが、スマホの歩数計で25キロを超えていた。快晴でとてものどかな、いい日よりだった。

2日からは、原稿を書いたり、記事やコラム、本の企画提案書などを作ったり、読書したりと、それなりに時間をつぶした。たまに街にも出たが、目的はもっぱら本漁りである。

本といえば、毎年新年に悩むのが「今年はどんな本を読もうか?」である。あまり世間離れした固い本ばかり読んでいると、朴念仁になっちまうからなあ(もうなってるか…)。

良書を探すのに参考になるサイトと言えば、松岡正剛氏の『千夜千冊』などがあるし、一般人が書いたブログの読書レビューなども、けっこう読んでいて面白いものがある。で、そんなサイトで紹介されている本をメモに書き留め、本屋さんや図書館へ行って実際に手に取ってみるのだが…

残念ながら本当に読みたいと思えるのは、平均10冊中2冊ぐらいのものだ。その本を心から面白い、ためになりそうだと思えるかどうかは、本と自分との相性の問題であろう。人間関係と一緒だ。

ところで、今更ながらに知ったが、彼のデヴィッド・ボウイは、無類の読書家だったそうだ。昨春には彼の愛読書100冊を紹介する展示イベントもあったようである。惜しいなあ、行ってみたかった。その愛読書リストをのぞいてみると、小説が多い。小説かあ、読まんよなあ…。

いやしかし、必ずしも読まないとは言い切れない。

今年は久々に、バックパッカー時代のことを思い出しながら、少し別の国々をぶらぶら旅してみたいと考えている。当時は旅行に出かける前に、ペーパーバックの小説を何冊か買って、細かい単語や言い回しの意味はすっ飛ばしてがぶがぶ読んだものだ。それが役立ったかどうかは定かでないが、とりあえず一人で海外を旅する分には、とくに不自由しなかったのである。

今年も、当時と同じようにペーパーバックの小説にかじりつけば、またピンポンのような会話のやり取りや、状況描写や感情や、スラングなどもひっくるめて英語のウォーミングアップになるのではないか。そしてそのペーパーバック選びに、デヴィッド・ボウイの愛読書リストが使えるかもしれん。

そうにらみながら、再び僕は愛読書リストに目を落としたのである。そのリストがこちら↓

https://davidbowieis.jp/column/19056/

さて、今年はどんな一年になることやら。

2017-12-27

リスクマネジメントはヒューマンファクターのマネジメントである

| 19:31 |

(本記事は「アゴラ 言論プラットフォーム」でもご覧いただけます。)

「とうとう新幹線神話も崩壊か…!?」

今月半ば、博多発東京行き新幹線のぞみ34号」の台車に亀裂が見つかったとニュースが報じた時、私たちの誰もがそう思ったに違いない。

このインシデントには「なぜ?」が付きまとう。例えば私たちがマイカーで高速道路を走行中に、車の床下から異音や異臭がすれば、ただちに車を止めて保安サービスを呼ぶだろう。たとえ目的地への到着時間が遅れることになっても、だ。そのまま走行し続けるなんて、怖くてできやしないのである。

ところが輸送車両(バスやトラック)や鉄道、あるいは航空機になると、こうした個人では可能なはずのリスク回避の判断ができなくなってしまうのだ。今回のインシデントについて、JR西日本が公表した調査結果では、運行に関わった担当者たちに次のような「認識のズレ」があったそうである(以下12月27日付の神戸新聞の記事より抜粋)。

  • 岡山駅で添乗した保守担当者は、異音を感知して「床下を点検したい」と東京の指令員に連絡。指令員が走行への影響を確認したところ「そこまではいかないと思う、見ていないので現象が分からない」と答えた。
  • その後、保守担当者は指令員に電話で「安全をとって新大阪で床下点検をやろうか」と告げたが、指令員は別の指令員に報告を求められたため耳から受話器を外し、聞き逃した。
  • これらのやり取りを通じ、指令員は「床下点検の必要性はない」と捉え、一方で保守担当社員は「点検実施の要請が伝わった」と考えたという。

これらのやり取りは、双方の「認識のズレ」という言葉で片づけられている。JR西日本の発表は、今回の重大リスクに至った原因を、暗に"現場の個人"に帰したいようにも見える。一方、さまざまな報道で「重大事故の危険よりも過密ダイヤの厳格な運行の方を優先したのでは?」との見解も数多く聞かれる。かつての福知山線脱線事故の教訓が生かされていないことを指摘する声も少なくない。

確かにこれらの意見は当たらずとも遠からずだと思う。では、経営陣が利益よりも安全運行管理を最優先するように会社の方針を改め、現場教育を徹底すればそれで解決するだろうか。というのは、東京の指令員が「そこまではいかないと思う、見ていないので現象が分からない」と答え、「別の指令員に報告を求められたため耳から受話器を外し、聞き逃した」と言っているのが引っかかるからだ。

もしこれが冒頭のように自分の車に起こったインシデントならば、ただちに緊急停止して点検を最優先しただろう。しかし、このときはまったく逆の姿勢で答えている。なぜこのような応答をしたのだろう? 新幹線と言えども、これまで車両トラブルや悪天候による大幅な遅延や運休は何度も起きているではないか。このときだけ危険を冒してまで厳格な運行ダイヤを維持しようとしたというのは考えにくい。

会話から見えてくるのは、指令員の"たいした問題ではなさそうだ"と思われる判断である。彼は心からそう思ったのではないか。なぜ他人事のような意思決定がなされてしまうのだろう? なぜこのように応答するのが「当たり前」だと判断したのだろう。これを一個人の危機意識の問題として処理するのは十分でないどころか、むしろ危険でさえあると思う。

人が介在することで、リスクが1にもなれば10にもなる。いわゆるヒューマンファクターが正しい予測や判断を狂わせることがあるのだ。その根本的な原因は今後の詳しい究明を待たなくてはならない。たとえ台車の亀裂の原因が判明し、物理的により安全な解決策が見つかったとしても、ヒューマンファクターに関わる根本問題を解決しなければ、今後もそのリスクは残り続けるだろう。

1940年代に初めてゲーム理論を提唱したジョン・フォン・ノイマンとオスカー・モルゲンシュテルンは、こんなことを述べている。「どんなシステムもそうだが、とくに重要な要素はヒューマンファクターである。最も管理が困難で不確実な最大の源泉だからだ」。これは人の経済行動の意味合いで述べたことと思われるが、リスクマネジメント一般にもピタリとあてはまる言葉であろう。

とかくリスクマネジメントと言えば、人間の外にある物理的なリスクを対象とするように思いがちだが、実はその半分、いや大半は、私たち内部のヒューマンマネジメントのことに他ならないのである。