世界のはて

『はてな非モテ論壇』の一角だった場所

スクールカーストを取り上げる意味(2)

Cランク気質の息子・娘にモテ教育は必要なのか

前回、今更のようにスクールカーストについてあーだこーだ言ってる理由を書いたけど、ひとつ言い忘れてた。僕は、自分の子供が生まれたときに、スクールカーストとどう向き合わせるべきなのかってことを考えたいんですよ。現在のスクールカースト制に支配された学校へわが子を通わせるのは、もの凄く不安なので。
つまり、自分の子供がオタや非モテといったCランクと親和性の高い人間になりそうだったら、「ファッションに気を遣えよ」とか「もっと女の子にモテること考えないとダメだぞ」とか、Cランク気質を修正するための「モテ教育」を行うべきなのか、という。
僕は、学生時代にはある程度の「モテ体験」は必要だと考えていて、「脱オタク恋愛講座」のような「浮気しまくりで経験地UP推奨」のような方向性も、「体験」という意味では悪くないと思ってるんですよ。何事も、「やってみなければわからない」わけで、浮気の修羅場から痛い目見て学ぶこともあるだろうし。「本当はしたいけどやらない」といった裏中二病的状態が一番ヤバイと思っていますので*1

価値観に貴賎なしという理想と現実

ただ僕の中には、同時に「人間の思想や価値観に序列は存在しない」「価値観の多様性を尊重したい」という志向もありまして*2。個人が現代社会に適応するためには、ある程度欲望に忠実に、自己中になる必要があるという現実論と、でもそれだけじゃぁますますモテやカネといった欲望的なモノに価値観が一元化し、世の中殺伐としていくばっかりだよな、という理想論が自分の中で激しく交錯していて、ここらへんがジレンマなわけですよ。要はバランスなんだけど。
市場原理主義を中心とした資本主義って、行きつくトコまで行くと社会主義以上に全体主義的になると思うんですよね。いろいろやっても、結局マイクロソフトには勝てねー、みたいな。価値観弱者は価値観強者のエサとしてしか存在を許されない世界*3
これを防ぐために、オタクや非モテを含めた他者の多様な価値観を序列をつけずに認めていく必要があると思うんだけど(価値観に貴賎なし思想というか)、現在のように思い込み全体主義による「価値観の序列」が強いと、結局は市場原理によって強い価値観だけが生き残っていくことになるわけで。こういった全体主義的な社会は、自分や身内がたまたまマイノリティになったときのリスクを考えると、非常に恐ろしいと思うのですよ。
現実問題として、価値観による「有利・不利」はどうしても出てきてしまうので、「価値観に貴賎なし思想」を実践するのは大変難しいわけですが。ここらへんは、モヒカン族ムラ社会の話とも関係してくるのかな?

*1:本当にやりたくない人は、別に構わないんですが。要は行動せずにコンプレックスを溜めるくらいなら、とりあえずやってみようよ、という。

*2:他者を大切にしない人間は、自分が大切にされなくても文句は言えないと思っているから。

*3:スクールカースト環境はこの世界に近い。