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「80年代地下文化論講義」を読んでたら、宮沢章夫を痛烈にDisってやりたくなってきた

東京大学「80年代地下文化論」講義

東京大学「80年代地下文化論」講義

とりあえず半分くらい読んだけど、80年代的「ネアカ>ネクラ」「軽い・明るいは正義!」的なものと、それを熱烈に信奉する宮沢章夫の「ピテカン的価値観」に支配されており、非常にムナクソ悪い内容。
ただ、「ピテカン的価値観」を持った人間と「おたく的価値観」を持った人間が対立する背景には、90年代〜00年代前半に僕が接してきたゲーマー界や、脱オタといった文脈にいたるまで、共通した「なにか」を感じさせるものがあって興味深い。
その「なにか」について考えているんだけど、これは「おたくをスケープゴートにした差異化ゲーム参加者のいやらしさ」という問題に、最終的に行き当たる気がしている。そしてそれは、「脱オタ者」「渋谷洋一(ファミ通)的エクストリーム系ゲーマー」「飯野賢治的なるもの」「ギャルゲーマーをバカにする一般(?)ゲーマー」といった、90年代〜00年代前半、僕の青春時代とも完全に重なる時期にゲーム業界で観察された一連の現象とも繋がっていて、その根っこにあったものは、ここで凄まじい悪臭を放っている宮沢章夫と同じ類のものだったのではないかという「予感」だ。つまり僕が宮沢章夫に対して激しいムナクソ悪さを感じるのは、同属嫌悪そのものなのだろう。
この「ムナクソ悪さ」と向き合っていくのは、自分自身の醜悪さに正面から向き合うことになるわけだけど、ここは自分的に避けては通れない、とても重要な場所のような気がする。しばらくこの本の内容について、いろいろ考えてみたい。ここにある80年代的価値観というものは、僕が青春時代にずっと内面化させられていて、最終的に「脱オタ」という形で表出された「なにか」そのものであるような気がするからだ。