2012-05-28
『けいおん!』第12話と、ライブ映画は何を描くべきかという話
『けいおん!』というアニメは何だったのか私なりに要約すると、「今を肯定する物語」だったのではないかと思う。
今いる学校が好き。部活動が好き。バンドを組んでいるメンバーや同級生、妹や先生が好き。『けいおん!』は基本的にそういった肯定の連続で形成されており、登場人物に緊張や問題が生じることもあるのだが、最終的には必ず現状に回帰して「今を肯定」して幕を閉じる。
基本的にドラマというものは「今の否定」を推進力に進むものだ。ドラマとは起こった問題をいかに解決するかという過程である。「問題解決」とは「現状の問題の解決」であって、すなわち「現状の否定」でもあるからだ。登場人物たちは「今の否定を達成する」に奔走し、結果巧く行ったり行かなかったりして物語は閉じる。
『けいおん!』にも「現状否定ドリブン」で進んでいくエピソードもあるといえばあるのだが、いずれもさほど深刻なものではなく、むしろ主な時間を占めるのは、全員でバイトをしたり、合宿に全員で遊びに行って花火したり、放課後に練習もせずお茶のんで駄弁っていたりといった睦み合い、共感しあい、肯定しあいのエピソードである。そこには物語的な緊張や強烈な推進力は生まれ得ないわけだが、反面『けいおん!』でしか味わえないようなゆるふわ感・多幸感が溢れており、こういう物語作法もあるのだなと感心させられる。
以下微妙に別項。『けいおん!』を観ていて一つ思ったのは、「今を肯定する物語」と「音楽ライブ」というのは親和性が高いのではないかということだ。実際に『けいおん!』のライブシーンは素晴らしく、特に第一シーズンの12話の学園祭のシーンは歴史に残る出来栄えだと思う。
「現状否定ドリブン」な物語でライブを描く場合、得てしてライブの場面が同時に問題解決としての機能も持つようなプロットに陥りがちである。不遇を囲っているバンドがライブを成功させることで社会的にも成功を収めるとか、不和だった仲間がライブを行うことで仲直りするなどだ。この手の作法、ライブの場面に問題解決の機能をくっつけること自体を悪いとは言わないのだが、下手なバランスで作ると、観客はライブを見ればいいのか問題解決を見ればいいのかで混乱してしまう場合がある。
ライブとは何か。それは「今」である。今リアルタイムに音楽が紡がれ、それを演奏している人間と聴いている人間がいて、音楽を通じてその場を共有していること。その尊さこそがライブの本質であって、ライブ映画が描くべきはそれしかないと思うし、それを描かないのなら何もライブなど扱わずともいいのではないかと思う。ライブと同時に問題解決を描くタイプの作品、例えば演奏中に主人公の回想シーンがかぶってきたり(映画版『ソラニン』など)、このライブが成功することで俺たちはブイブイ言うようになりました……とかいう後日談が入ってきてしまうような物語(映画『オーケストラ!』など)は、そういった「今」をぞんざいに扱い、ライブの尊さに泥を塗っていると思う(両映画が好きな人ごめんなさい)。
くだんの『けいおん!』学園祭のシーンはどうか。「今を肯定」する物語の主人公、平沢唯は演奏前にこう宣言する。
「でもここが、今いるこの講堂が、私達の武道館です!」
そして圧倒的な「今の肯定」がなされた後のライブシーンでは、変なイメージショットやカットバックが入ったりすることもなく、放課後ティータイムというバンドが演奏する姿、つまり「今」が曲の終わりまで延々と描かれる。登場人物たちが「今」を肯定し、「今」に身を委ねるその姿こそがライブの本質であって、故に「今を肯定する物語」と「ライブ」とは相性がいい。
以下更に余談。『けいおん!』第1シーズンでは学園祭のシーンが2回(1年生の時・2年生の時)描かれるわけだが、前者が演奏のシーンを移さずにPVみたいなものを流して事足れりとしていたのに対し、後者では舞台の上で演奏をするバンドの姿が集中して描かれている。こういう演出にしたのは後者を引き立てるためだろうが、最終回=このシリーズを通じて作り手が一番見せたかったもの、それはライブそのものであることは明らかで、その作り手としての信念にも感動させられる。ライブをライブのまんま加工せずに見せるって勇気がいることだと思う。
『けいおん!』第12話のライブシーンはかように素晴らしいわけだが、日本には入江悠さんという素晴らしいライブ映画の作り手がもう一人いる。2011年『劇場版神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ』と『SR3 サイタマノラッパー・ロードサイドの逃亡者』はいずれも最高峰のライブ映画であって、どちらも凄く感動した。これについては別エントリに起こす予定。
2012-03-27
『ショーシャンクの空に』を観て気持ち悪かった話
今日は『ショーシャンクの空に』の感想を書いてみたい……というと、なんで今更ショーシャンクやねんと思われる方もいるかもしれないが、最近この映画を久々に観て色々思うところがあったので、感想と監督フランク・ダラボンに関する小論をまとめてみたい。
『ショーシャンクの空に』は、94年公開のアメリカ映画で、私は高校生の頃にVHSで見た。鳥の目線で撮られたかのような印象的な俯瞰のショットや、ツイストの利いた脚本、重厚な演出に一発でやられ、立て続けに何回か見た。フランク・ダラボンの名前を覚え、後に出た『グリーンマイル』に感動し、問題作『ミスト』については最後は怒ったものの力量は認めざるを得ないと思った。一流の監督だと思う。
その記念すべき『ショーシャンクの空に』だが、最近ふと思い立ち15年ぶりくらいに再見したのだが、観終わった後の印象が高校生の頃とはかなり違ったので驚いた。複雑な印象を持ったというか、有り体に言って「気持ち悪い映画だな」とまで思ってしまったのだ。なぜか。
『ショーシャンクの空に』が非常に丁寧に作られたクオリティの高い作品であることに異論はない。世評が高いのも理解できるし、一個の高校生がこれを観て深く感動するのも判る。当然、以下に書くことは『ショーシャンクの空に』に感動した方々を非難するものではない。
私が「気持ち悪い」と思った最大の理由は、作品に出てくる囚人の扱いである。囚人たちの扱いがやけにウェットというか、甘々なのが気になった。彼らは長期刑を食らっている凶悪犯罪者で、恐らくは殺人やそれに近い許されざる犯罪を起こして収監されている人々だ。彼らの起こした犯罪に踏み潰され、今なお人生が破壊され戻らない遺族だってきっといるだろう。
この映画の不思議なところは、刑務所を舞台にしながら、そういった部分が全く描かれていないところにある。収監されている人物たちの多くは、なんで投獄されているのかもよく判らないし、そもそも贖罪意識を持っているのかも不明だ。それどころか、この映画における囚人たちは、己の所業のせいで刑に服しているにもかかわらず、まるで生まれ持って不当に差別され虐げられている集団であるかのように描かれている。この部分に強い違和感を覚えてしまう。
唯一の例外は主人公だ。彼は冤罪で捕縛され、無実の罪で投獄されている人間である。彼を「不当に虐げられている人」という目線で描くのはいい。だがこの映画はその目線を何の断りもなく拡大し、そこにある囚人コミュニティ全体をまるで被差別部落のように描く。作品全体がそのようなトーンで貫かれているのだが、シーン単位で言えば、彼らが屋根仕事の後にビールを飲む下りと、スピーカーから流れるモーツァルトを聴く下り、この二箇所は象徴的だ。抑圧されている日常からの一時的な解放、それを美しくかけがえがないこととしてこの映画は描くのだけれど、そもそもの抑圧の原因は彼らが犯した凶悪な犯罪なのである。犯罪者は常に頭をたれて生きろ……とは言わないが、抑圧の原因を有耶無耶にして、そこからの解放のみを賛美的に描くというのはなんだかバランスが悪い。
ではなぜダラボンはなんでこういう描き方をしているのか。私の推測では、ダラボンという作家はストーリーには興味があるけれど、そこに関わる登場人物たちのことなんかどうでもいいから……なのではないかと思う。
『ミスト』の結末がいい例だ。あれは非常にショッキングな結末だったけれど、同時に恐ろしく酷薄な結末だ。そこには登場人物たちを思いやる気持ちなど微塵もなく、ラストの陰惨な展開に登場人物たちを巻き込み、翻弄し、絶望の底に叩きこむ。この「ストーリーの面白さのためには、登場人物たちのことなんかはどうでもよくなる」という点こそが、ストーリーテラーとしてのダラボンの作家性なのではないだろうか。
『ショーシャンクの空に』において、囚人たちはなぜ生来の被差別者のように描かれるか。なぜ彼らに惨殺された被害者たちはほとんど語られないか。ここまでの話を踏まえれば結論は一つで、そう言う風に描かないとストーリーに支障が出てしまうからだ。登場人物たちの贖罪をきちんと描き、踏み潰された被害者たちのことを描写する、そういう登場人物たちに寄り添う形での作劇をしてしまうと、このストーリーは語れない。車座になってビールを飲むシーンは撮れない。『フィガロの結婚』が流れる中庭で囚人たちが空を見上げるシーンも作れない。ならば、囚人たちをストーリーに沿わせ、彼らを贖罪意識を持った受刑者ではなく、不当に弾圧されている被差別部落として描くことを厭わない。この映画は「受刑者」という社会的弱者を語り部にすえた物語だけれど、その語りの視点は上記のような超強者なマッチョ視点なのである。
映画・物語というのは観客を巧妙に結論に誘導していくものだ。その「誘導」の塩梅に、作り手の倫理観やバランスが反映される。『ショーシャンクの空に』はモラルなんざクソ食らえとばかりに、直線的に観客を結末まで誘導していく。その誘導の見事さこそがダラボンの力量であり、誘導のためらいのなさこそがダラボンの資質である。ほんと、倫理としてどうかとは思うのだけれど、皮肉でも何でもなく彼にしか作れないものを創る偉大な監督だと思う。改めて思う。
2012-03-22
大畑創『へんげ』――映画ファン絶対必見の大意欲作(途中までネタバレ無し)
大畑創の『へんげ』は映画ファンならば必見の映画である。なるべく前知識なしで見に行ったほうがいいと思うのだが、一言で言えば意欲作。よくもまあこんな話を映画化しようと思ったものだと感心し、特に終盤の展開にぶったまげた。
意欲作であると同時に、『へんげ』には製作陣の確かな力量が画面に漲っている。ホラー、サスペンス、○○映画とジャンルがくるくると入れ替わっていく作品なのだが、これ下手な人たちが作ったら本当にチャチな画面になってしまうだろうに、まずそうは思わせない。この映画に潤沢な資金が投入されているとは思えないのだろうけれど、大資本をベースに作られた諸々の映画よりもリッチな絵面になっており、どうやったらこんなことが出来るんだろうと唖然としてしまった。凄い才能が出てきたと思う。
と同時に、個人的には心底感心した作品ではあったものの、胸を締め付けられるような感動には至らなかった。これは好みの問題かもしれないが、個人的には脚本のある部分が決定的に気に入らなかったせいだと考えている。その部分とは、主人公・恵子の心理の変化が今ひとつよく判らないところにある。
以下、この映画のネタバレを含みます。
『へんげ』とは奇想ホラーであると同時に、恵子の心理の変遷の物語である(この映画が誰のどういう台詞で終わるかを観ても明らかだ)。最初は夫の異常に怯え、なんとか対処しようとするも無力感を感じていたものの、ある瞬間から夫の庇護者になり、最終的には共闘者として社会全体に牙を剥くことになる。
ここでキモになってくるのは後者二つ、「夫を庇護することを覚悟する」瞬間と「社会全体に牙を剥く」瞬間が説得力を持って、切迫感と共に描けているか、ということだと思う。この映画はそこを描こうとしているものの、私はまだ足りないと感じた。
原因を考えるに、主人公・恵子への追い込みが足りなかったのではないかと思う。特に前者、「夫を庇護することを覚悟する」場面における、単に友人の医者と揉めてるだけという描写がいけない。あそこで怪物化した夫が恵子を助けなかった場合、恵子は死ぬか相当酷いことになっていたことを予感させない限り、助けた夫に転ぶ下りに説得力が出ないと思う。
この部分の説得力がないせいで、その後の『ぼくのエリ200歳の少女』的な、夫の庇護者として食料を調達する展開が、止むに止まれぬ同情すべき行為として映らずに、単にエゴイスティックな犯罪行為にしか見えず、故にラストの社会全体に牙を剥く瞬間にカタルシスが生まれていない。素晴らしい力作だけにこの部分だけはもったいなかったと思うのだが、Twitterなどを観ると泣いたり感動したりしている人も多いようなので、まあ私の受け取り方の問題かもしれない。
なんにせよ、大畑創というド凄いクリエイターが登場したわけで、次回作が本当に楽しみ。いつかビッグバジェットな映画を作ってもらいたい。
2012-03-21
スティーヴン・スピルバーグ『戦火の馬』(ネタバレ有り)
スティーヴン・スピルバーグ新作の『戦火の馬』は、丁寧に作られた重厚なドラマで、かなりいい映画だったと思う。第一次世界大戦下を生き抜いた一頭の馬の物語。
結束のとれた騎兵隊がガトリングガンの一斉放射を前に為す術もなく惨殺されていく無常さや、『プライベート・ライアン』もかくやという壮絶な塹壕戦など、第一次世界大戦をドキュメンタリックな側面から切り取った作品でもあるのだが、個人的には「凄惨な殺戮が繰り広げられている戦場においても、人間らしい心というのは存在し続けるのだ」という人間賛歌だと思った。
戦場に赴くこと、軍隊に属すること、もっと言えば組織の一員になり、その論理の下に行動するということは、多かれ少なかれ「人間らしい心」から遠ざかることとも言える。本当は殺したくも殺されたくもない、目の前に助けを求めている人間があれば助けたい、そういうものが「人間らしい心」であるとして、ただそういう個人の気持ちを尊重しては軍隊は動かない。大義という大きなフィクションに個々人たちを取り込んでいかなければ、戦争には勝てない。
戦場を駆ける馬ジョーイは、あるときはイギリス軍の軍馬として、ある時はドイツ軍の作業馬として、ある時はペットとして、戦場のあちこちを転々としてゆく。馬の視点での群像劇というのはそれだけでも斬新なのだが、面白いのは、ジョーイに関わった人々が、冷徹な組織の論理から距離をおいて、温かい気持ちで馬と行動を共にし始めるところにある。ジョーイという物言わぬイノセントが「人間らしい心」を取り戻させているかのように。塹壕戦のさなか、イギリス兵とドイツ兵がジョーイを挟んで向きあうシーンはこの映画の白眉である。
そしてこの映画がフェアなのは「人間らしい心」を発揮した人間が、必ずしも幸福な着地を迎えるわけではないところにある。ある人間は戦死し、ある人間は無残に処刑され、ジョーイがいなければひょっとしたら生きて祖国の地を踏めた人間もいたかもしれない。無残な環境で一瞬だけ発揮される「人間らしい心」と、それすらも何事もないように飲み込んでいく戦争という怪物を、この映画はしっかり切り取っている。
その上で二点注文がある。ひとつは、これは多くのハリウッド映画に通底する問題なのだが、ドイツ兵もフランス人も全員英語を喋ることだ。この物語は、ジョーイがイギリス軍やドイツ軍、更にはフランス人の農夫たちの間を行き来し、祖国や立場のいかんを問わず彼らに一瞬の人間性を取り戻させる話なのだから、彼らの間に厳然と存在する言語の壁を表現したほうが、いい映画になったと思う。もちろんそういう作りには出来ない事情があることは承知の上で、しかしタランティーノの『イングロリアス・バスターズ』のような素晴らしい前例もあるわけで、ここは挑戦して欲しかったなと無理を言う次第。
もう一つは、戦場のシーンで血や人体の欠損描写などがまるでないことだ。『プライベート・ライアン』のノルマンディー上陸作戦であそこまで攻めたスピルバーグなのだから、今回のこのバランスはもちろんレーティングを意識した意図的なものなのだろうけれど、ここでもまたそれを承知の上で、戦場の悲惨さをもっとラディカルに描いて欲しかった。それでこそ「一瞬だけ発揮される人間らしい心」がより輝いたと思う。
とはいえ、下の二つは私なんかが言わずともスピルバーグはとっくに承知していて、その上で今回のバランスで作りきったのだろうから、突っ込むだけ野暮かもしれない。若干の不満は残ったが、非常に力のある、スクリーンで見るべき映画であるのは間違いない。ラストの夕景のシーンの美しさには息を飲んだ。ジョン・ウィリアムズもいい仕事をしていると思った。次作はいよいよ懸案だったアブラハム・リンカーンの映画が来るらしい。楽しみ。
2012-01-31
園子温『ヒミズ』感想(ネタバレ有り)
『冷たい熱帯魚』『恋の罪』とこのところの園子温作品はいずれも面白かったのだが、『ヒミズ』についてはどうも乗れなかった。色々と整理されていない作品で、整理されていないならいないでいいのだが、未整理という瑕疵を覆い隠すような巨大な魅力も感じられなかった。
「3月11日の震災を要素として入れたことが問題である」という切り口で語られることが多いのだが、個人的に最大の問題は主人公の成長/青春物語の部分が巧く描けていないことだと感じた。特に父親を殺害して以降、悪人を探して街中を徘徊して回る主人公が、その遂行に挫折して家に戻ってくる辺りの心理描写が判らず、説得力がない。最後は河原をヒロインと走りながら「住田、頑張れ!」と連呼して幕となるのだが、エキセントリックな茶沢さんはともかく住田くんはあの時点でああいう行動をするキャラクターに見えなかった。故に結末が浮いている。
最大の問題はバスの妄想シーンで、原作漫画では優先席に座っていたデブを住田がきっちりと殺害し、浮かれていたところが実は夢だった……となるので「悪人が見つからない」という住田の虚無に説得力が出ていたのだが、映画版ではデブの殺害すら未遂に終わり、「こいつを殺させろ」とかギャーギャーわめいて終わりになる。これは微妙な違いのように見えるが「完遂し達成感を感じたあとに実は出来ていなかった」ことと「そもそも未遂に終わってしまう」ことは大きな違いで、一旦希望を掴んでしまった分前者のほうが「もういっちょやってやんべ」と腰を上げられないというか、より絶望が深い。プロットにおいて後者を選択してしまったことで、「悪人を見つける」ことに住田が諦観を覚え、家に帰るという説得力を削いでしまっている。
大きく改変された結末について、古谷実の漫画のほうでは住田が唐突に自殺をして幕になるのだが、私にはあの結末がよく判らなかったので、住田を生かして幕となるのは構わない。だがあれだけ低体温のキャラクターに絶叫させながら河原を走らせるというシーンはやりすぎで、それに震災の瓦礫映像をオーバーラップさせるという表現も効果的とは思えなかった。『ヒミズ』は住田君の個人的な内省の話であって、日本人全体の問題として一般化するのは飛躍のしすぎだ。これをやるならば、住田君が家庭や遺伝子の問題で悩んでいるのではなく、震災の問題「のみ」で悩んでいるという風にプロットを大胆に改変すべきだったと思う。
園子温監督はCINRA編集部のインタビューに答え「希望に負けた」という表現を用いている。これは本作を観ると凄く合点の行く表現でさすがだと思うのだが、そもそも死体をバラバラにしたり令嬢が娼婦に落ちたりと人間の負の面をグリグリと書いてきた監督に、いきなりこんなストレートな青春映画を作られても受け取る方は戸惑ってしまう。それはこっちが勝手に園監督に何かを期待しているからなのかもしれないが、作家性を出した「作品」を作り続け、その部分を受容されてきた監督なのだから、説明なしに希望を投げてきた本作よりも、絶望から希望へと変心した経緯をこそ作品として観たいと思った。それこそが作家の描くテーマだと思うからだ。今後そういう作品は作られるだろうから、そういう意味で『ヒミズ』は私にとっては観るタイミングも悪かったと思う。





