2016年 後半ダイジェスト&2017年の意気込み

2017年も2月になりました。久しぶりの更新です!
前回の記事は9月だったので、それ以降のことについて書きたいと思います。

9月に保育園のアルバイトを終え暫くしてから、グアムへ行ってきました。田舎にいると就職活動が捗らないので東京へ行くことになり、その前に家族旅行を計画しました。実は中学3年生の時、人生初めての海外旅行へ行ったのがグアムだったので、実に16年ぶり。両親、姉の家族、母の親友と孫、9人での旅行となりました。



グアムは観光地化していて日本人も多く日本語が通じることもあるので、英語を使う機会が少なく物足りなさすら感じました。ちょうど父の誕生日だったので、みんなでお祝いもしました。ケーキは小さいけどご満悦の父。



とってもきれいな海にも感動しました。

帰国した翌日には東京へ!東京では、運よくUNIDO(国際連合工業開発機関)という国連機関でインターンシップの機会を得ることができたので、インターン生として働く傍ら就職活動を行いました。UNIDOは渋谷の国連大学内にオフィスがあり、様々な業務を担当させてもらいました。在京各国大使館の外交官をイベントに招待したり、途上国から来日した専門家と日本企業のビジネスマッチングや商談の席に同席させていただき、通訳の仕事を任されることもありました。
隣に写っているのは、日本人にも見えますがフィリピン人の専門家。ニコニコしていて人柄の良い人ですが、肩書きはすごいおじさんです。



他にも、ホームページの記事を執筆したりリサーチの手伝いをしたりと、約2か月半、充実したインターンシップを経験させてもらいました。スタッフは高学歴に加え人も温かく、働く環境としてとても恵まれていました。国連で勤務するということは非常にハードルの高い1つの夢ではありますが、今後機会があれば挑戦していきたいと思います。



肝心の就職活動。この機会に多くの企業や従業員に触れておきたいと思い、国際機関、医療機器メーカーや開発コンサルタントなど、今後も途上国に貢献できる職種を選び、面接の機会を通じて自分の経験を活かせる企業を探しました。新卒と異なってキャリア採用は、企業側もより慎重になっているように思います。このような時にいつも念頭に置いているのは、
「自分も相手企業を評価するための面接!」
といった気持ちで挑んでいます。もしご縁がなくても、
「今はその会社が自分を必要としてなかった。」
とか、
「自分を採用しないなんて後悔するだろうなー。」

など、ちょっと強気なくらいがいいと思います。気持ちが楽になりますし、聞きたいことが聞けますし、質問に対する反応を知ることで相手の情熱も感じることができるからです。
おそらく、エントリーした企業は20近くだったと思います。
色々とつきまとう悩みも、表参道のイルミネーションを見ているとどこかへ飛んで行きそうです。



年末年始は実家でのんびりと過ごし、家族や甥っ子、なかなか会えない友だちとの貴重な時間を過ごし、また東京へ戻ってきました。



早く働きたいと意気込む一方で、こんな何気ない時間も大切だったりします。




内定をいただいた企業は複数ありましたが、総合的に考えて勤務先を決めました。開発コンサルタントという仕事に携わります。

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(以下Wikipediaより抜粋)
開発コンサルティング(かいはつコンサルティング)は、国家間の開発援助政策、国際的な経済格差対策、発展途上国の貧困解消、海外への技術移転などを支援する分野。 海外における都市開発、鉄道、道路、空港等のインフラ施設に関する分野の他、環境、教育、保健医療、産業振興、公共政策、エネルギー、貧困削減等の分野に関わる。

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言ってしまえば、青年海外協力隊の延長線上にあるような仕事です。青年海外協力隊はボランティアでしたが、国際協力のプロフェッショナルとして世の中に貢献しているのが開発コンサルタントという仕事です。

聞こえは良い職種ですが、実際は泥臭い仕事も多いと聞いています。以前はウガンダ共和国で、開発コンサルタントの方々と共に仕事をしたことがありましたので、仕事のイメージもできています。始めは社内研修を積み、将来的には出張ベースの世界を飛び飛び回るエンジニアとして躍進していきたいと思います。仕事開始まではしばらく時間がありますので、新しい住居を探したり、生活を整えて新生活を始めたいと思います。


2017年もがんばります!!



Ichimasa

子どもから学ぶこと

フィリピンから帰国し、1週間ほどしてからアルバイトをすることになりました。最後にアルバイトをしたのは大学生の時に居酒屋の店員をやった以来で、実に8年ぶり。
これまでの経験を生かして、世の中に役立つように。とか考えていましたが、なんと舞台は保育園です。宮崎県延岡市に、「くまた保育園」という施設があるのですが、そこで親戚が働いていて、仕事をせずにヒマそうにしている自分に白羽の矢が立ちました。

この保育所には児童館が含まれており、夏休み期間中である小学生の受け入れをしていて、人手が必要とのことでした。特に共働きしている夫婦には、とても助かる施設です。
保育士でもないし、全くの畑違いである自分に何ができるか分かりませんでしたが、子どもと遊んでくれたらそれでいい。と言われたので、引き受けることにしました。フィリピンに行っていたので、引き受けられた期間はたった1週間でしたが、たくさんの思い出を作ることができました。


初日。
面接も何もなく、突然侵入してきた変なオッサンだと思われると困るので、まずは職員室で園長先生に挨拶しました。そこで履歴書を渡し、早速仕事スタート!後から分かったことですが、園長先生は面接もせずに、特例で自分を受け入れてくれたので、どんな人が来るか、とっても不安だったそうです。
それはそうですよね。海外にいたという髭面のオッサンが急に現れて、子どもたちに何か仕出かしては園長先生の責任ですから。いい人だと園長先生を説得してくれ、声をかけてくれた親戚に感謝です。



さっそく児童館を訪れてみると、朝の点呼をしていて、朝の会が始まりました。そこで、自己紹介をしました。子どもたちは日によって変わりますが、全部で30〜40人います。その目はキラキラと輝いていて、興味津々に自分の顔を覗き込んできました。自己紹介を終えると、質問タイム。みんなの手が下がることは無く、好きな食べ物、色、スポーツ、趣味、国とか。中には、「彼女は?結婚は?」と聞いてくる生徒もいて、子どもってこんなことを聞きたいんだなーと思いながら1つ1つ回答しました。


ちょっと打ち解けると、早速始まりました。コンクールに応募するためにヒマワリのちぎり絵を作ったり、学校の宿題をする子、本を読む子に外で走り回る子。40人の子どもを相手にするのは大変なことです。スポーツが好きだということは伝えていたので、バスケットボール、ドッヂボール、サッカー、キックベース、一輪車。いろいろとやりました。
みんなは、「ゆうすけ先生!!」と呼ぶので、とても違和感がありましたが、最後の方では、自分でも「先生はね…」のような話し方になっていて、ほんとの保育士になった気分も味わえました。何年ぶりにやったか分からない、鉄棒、鬼ごっこ、色鬼、トランプのババ抜き。何だか新鮮に思えて、楽しかったです。


児童館は、教育の場。壁の張り紙に目がいきました。「5S活動!」。
ウガンダに居たときにも推奨していた 5S。こんなに幼い頃から整理整頓を意識している日本人って、やっぱりすごいなーと感心しました。なんとなく身についてる5Sの心は、学校の先生たちのおかげでもあります。


昼食は、おにぎりを持参すればおかずを準備してくれ、子どもたちのグループに溶け込んで、小さい子ども用のイスに座りながら食べました。

午後は、保育園近くを流れている川に遊びに行きます。この川遊びは特に危険なので、一層気合いが入りました。遊びたい気持ちもありますが、監視役として、定期的に人数を確認しなければなりませんでした。


自分が参加したのは夏休み最後の週だったので、特にイベント尽くしでした。イベントを企画する先生たちは、やっぱり大変です。
近所のお年寄りと一緒にボーリング大会を開催して交流をしたり、肝試し、プレゼント抽選会、花火大会、そうめん流し。どれも子どもたちが喜びそうなイベントばかりです。避難訓練もありました。


プレゼントを1人1人取りに行く、抽選会。


花火大会。


そうめん流し。竹のセッティングも手伝いました。


流れてくるのは、そうめんだけではありません。野菜や果物、ゼリーも流れてました。流れてくるものを取ろうと、必死になっている子どもたち。


そんな中、せっかくなので時間をもらって、経験談を語らせてもらう機会をいただきました。これまでに、普通の人では滅多にできない経験をしてきているので、特に子どもたちとその思い出を共有したかったからです。保育園側は快諾してくれました。準備にあまり時間を取れなかったものの、約15枚のスライドを30分くらいかけて、ゆっくり話しました。園長先生も、忙しい中、時間を割いて聞きに来てくれました。
 
話したかったのは、先進国のことではなく、やはり途上国のこと。その方が、如何に自分が恵まれている環境で育っているか、訴えかけることができると思ったからです。


こんな感じの、子ども向けスライドです。


たくさん写真を見せた後、最後のスライドにはメッセージも込めました。


1) いろんなことにちょうせんしてください。(しっぱいしても、だいじょうぶです。)
2) ゆめをもちましょう。
3) あたりまえだとおもわないでください。(でんき、すいどう、がっこう、たべものなど)
4) ことばをだいじにしましょう。(ありがとう。ごめんなさい。など)
5) であいをたいせつにしましょう。(ともだち、せんせいなど)


このプレゼンの後に子どもたちが1人1人感想を言ってくれたのですが、衝撃を受けた子どもが多く、恵まれてる環境にいるということが分かってくれたようです。自分なんかの言ったことを真剣に聞いてくれ、素直に受け入れてくれる子どもは純粋で可愛いなーと思いました。




また、これまで行った国の通貨を見せたかったので、きれいにファイルして、見てもらいました。「先生大金持ちー!」と言われ。そんな純粋さも好きです。笑



子どもたちは、怒られることはあっても、みんな先生のことが大好きです。最終日に、転校してしまう子がいたのですが、夏休み期間お世話になった先生に手紙を書いていて、先生の涙を誘っていました。1ヶ月前に通い始めた当初は、友だちに暴力を振るう問題児だったそうですが、この夏休み期間で大きく成長したようです。今では、そんな姿が全く想像できないくらい、落ち着いてニコニコした子でした。

改めて、子どもの成長スピードの速さ。それから、教育の大切さを感じた瞬間でした。

保育士である親戚は、子どもの発言や態度を見聞きするだけで家庭環境が分かるらしく、まさにプロフェッショナルだなーと思いました。日本では軽視されがちな、保育園や幼稚園の先生たち。それでも、先生たちは大好きな子どもたちのために、全力でぶつかって、怒ることもあれば、たっぷり愛情を注ぐこともあって、素敵な仕事です。全く異なる分野の仕事、人に触れることで、自分もまた一歩成長できたかな?と思います。
この経験は、必ずどこかで生きてくるでしょう。
たった1週間でしたが、変な髭面のオッサンがこんなこと言ってたなーとか、一緒にこんな遊びしたなーとか、少しでも記憶に残ってくれたら嬉しいです。



また機会があれば、この仕事を引き受けて、子どもたちとたくさん触れ合いたいと思います。その時までに、自分ももっと成長し、より面白い情報を子どもたちに伝えられるように頑張っていきます。貴重な経験、ありがとうございました!


Ichimasa

フィリピン・ダバオで見た現実

前回にも少し触れましたが、ドイツから帰国し、就活する間の時間を使って、暫くフィリピンに行ってきました。もう5年も前の話になりますが、会社を辞め、これから海外行こうと決意した自分を磨くために頑張った、思い出の地です。
5年前は全然英語ができず、ビギナーに近いクラスから始め、約5ヶ月間過ごしました。それからウガンダでボランティアをして、ドイツの大学院で更に2年間。長かったようで短かったこの5年足らずの期間。今回はレベルを上げて、TOEFL対策の授業を提供している学校へ行くことにしました。前回はイロイロという街でしたが、今回は、TOEFLコースで評判の良かった、ダバオという街を選びました。今、日本でもよくニュースに取り上げられていますが、フィリピンの新大統領、ドゥテルテさんの出身地です。今回は、あまり時間が取れないので4週間のみでした。

授業は1日7時間で、3時間のグループレッスンと、4時間のマンツーマン授業が含まれています。グループレッスンは、3~8人くらいで授業に参加します。そしてTOEFLは4つのセクション(リスニング、リーディング、ライティング、スピーキング)から構成されているので、各セクションの担当先生から1時間ずつ、マンツーマンで授業を受けます。また、夜は自習が必須で、更には毎朝単語テストがあり、約40問に答え、成績が悪ければ週末の外出許可が下りない等の規制もありました。平日は基本的に外出禁止でした。



食事は1日3食付いていました。オーナーが韓国人なので、基本的に韓国料理が出ます。食べかけの写真でゴメンナサイ。笑



週に2回、洗濯もやってくれます。



部屋は、オプションもありますが、自分は2人部屋にしました。学校の敷地内には、バスケットコートやトレーニングジムがあり、バドミントンや卓球も楽しむことができました!



自分はもちろん、放課後にはバスケットをやってました。フィリピン人の先生もバスケ好きなので、一緒に楽しむことができました。


1週間目の月曜日にダバオに到着して授業に参加したので、合計4回の週末がありました。初めての週末は、授業で仲良くなった学生さんたちと一緒に、スキューバーダイビングへ。久々のダイビングでしたが、とってもきれいな海に癒され、高校生、大学生と友だちになることもできました。水温が高かったので、Tシャツ海パンに機材という初めてのスタイル。



そして2週目。仲良くなった大学生の1人が話を持ちかけてきました。


「自分は経済学を専攻していて、フィリピンの政治、経済が悪い影響で、しわ寄せを受けている貧困層に目を向けたい。中でも、身体を売る売春婦についてもっと知りたいし、彼女たちを助けたい。」


と言っていました。彼は協力してくれる先生やNGOを探し、提案書まで作成していて、一緒に調査を行う人を探していました。そこで話を持ちかけてくれたので、快諾!せっかくフィリピンに来たのだから、もっとフィリピンのことを知りたいという思いに賛同しました。自分も調査経験があるとはいえ、全く違う分野での調査は初めてでした。

まずは、人身売買や子どもの売春婦を救うために活動しているNGOを訪ねてみました。そこには、10代前半の女の子たちが20人くらいいて、NGOで働くおばさんたちが面倒を見たり、教育をしているそうです。そのNGOで働くスタッフの中には、かつて売春婦として働いていた人もいます。とても明るく振る舞っている子どもたちですが、それぞれが酷い家庭環境や劣悪な生活環境で必死に生きている子どもたちのようです。


7月30日。この日は、国連の掲げる人身売買撲滅デーでした。このイベントはNGOの活動に直結しているため、参加させてもらいました。



その女の子たちを中心に、街の人を呼び留め、このような現状があるという話を聞いてもらい、賛同したらキャンペーンの旗に賛同の印を示す、署名をしてもらいます。
中には署名したがらない人、全く関心の無い人もいましたが、驚くほど真剣に聞いてくれる人が多かったです。フィリピン人は、何かしら思い当たる節があるからなのかもしれません。偶然このイベントに参加できたことは、幸運でした!


そして本題。売春婦から情報を聞き出すために、自分たちはアンケートを作ったり、場所の選定をし、週末を利用して売春婦に直撃取材をすることとなりました。ここでは、アフリカで培った経験が活きたと思っています。売春婦が働き始めるのは夜中。調査は夜11時くらいから始まり、長い時には日が昇るまで。コンタクトを取ると、まず初めは客だと思われるので、所属NGOの説明から、調査の趣旨を説明。ここでも意外に、すんなりと回答してもらうことができました。


アンケートを記入する姿は真剣で、いつも明るい彼女たちも、表情を曇らせながら書いているようでした。
売春婦は、教育を充分に受けられなかった子どもたちが含まれているので、読み書きできない子が多かったように思います。生まれつき聴覚を失っているのに働いている女の子にも会いました。あまりプライベートな情報は載せられませんが、最終学歴が小学校だったり、14歳の子がいたり、ドラッグの経験があったり。



質問した中で、一番衝撃だったこと。それは、客の国籍を聞いた質問でした。
一番多いのは、やはりフィリピン人。これは理解できますが、次に多いと答えたのは、

なんと、『日本人』…。


自分は、アフリカにいる時、税金を使って勤務していた病院が拡張され、医療機器が供与され、とても感謝される立場にあり、日本人として誇りを感じていました。ドイツに行けば、クラスメイトから日本の技術力はすごい!と一目置かれており、自分の功績ではないけど、日本人であることを誇りに感じることが多かったように思います。
その思いが、自分の中で崩れ去ったような気がしました。


「ほんとに?日本人…?」


嘘であって欲しい、そして認めたくない、という気持ちでいっぱいでした。
ですが、これは自分の関わった範囲で、約30人に聞いたことなので、間違いありません。決定的だったのは、日本語を話せる娼婦がたくさんいたこと。調査中に、娼婦宿周辺をうろつく日本人のじいさんを目撃したことです。自分は日本人だと気付きませんでしたが、売春婦から、あのじいさんは日本人だと知らされました。
何となく感じていました。戦時中、日本人は酷いことをする民族だとアジア諸国から思われており、日本とフィリピンは行き来しやすく、売春ツアーまで存在していると聞いたことがあったり。快楽を求めた、ストレス社会に生きる日本人は、彼女たちの家庭環境すら知らず、英語も話せないのに若い女の子を買い、楽しんでいるのです。


何だか。日本人であることが、本当に情けなくて、悔しくて、恥ずかしくて、調査しながら憤りすら感じました。


彼女たちの家庭環境は、両親を失っていたり、両親が働けずに一家の大黒柱を担っていたり、多すぎる兄弟を養うことであったり。生きるのに必死で身体を売っているのです。しかし、一度身体を売っても、稼ぎは500円〜1000円程度。そのうち、10〜25%くらいは、『ままさん』と呼ばれる、売春婦を取り纏めているおばさんに支払います。この『ままさん』という言葉。察しの通り、語源は日本語。このシステムを作ったのは日本人ではないかと思ってしまいます。

フィリピン政府は、オフィシャルでは売春婦を認めないそうですが、NGOによると、フィリピンには身体を売って生活する人々は約80万人いると言われており、正確な数字はそれ以上とも言われているそうです。月1回はHIV-AIDSの検査を無料で行えるように政府が施設を提供しているようですが、実際にテストしている人は少なく、AIDS患者も蔓延しているだろうと言われています。

改めて、日本に生まれて良かったと、両親に育てられて良かったと感謝することもできます。でもこの現実から目を背けてはいけないと思っています。
専門である医療機器とは異なる調査でしたが、非常に学ぶことの多かった調査でした。目的だったTOEFLの勉強もできて良かったのですが、また自分にできることが1つ増えたような気がして、実りあるダバオ生活でした。

帰国し、図書館で人身売買についての本をいくつか読みました。やはり世界中で問題になっているようですが、日本も他人ごとではありません。むしろ当事者とも言えることもやっています。日本の抱える『闇』についても触れることができた、いい経験です。


帰国して約2週間後。このダバオで、テロがありました。この売春婦の調査で度々通りかかっていた場所でした。友だち、先生などは無事ですが、今後も緊張状態が続きそうです。



とりあえず健康な姿で帰ってこれたので、平和を祈りつつ、もう暫く日本を満喫します。


Ichimasa

2016年 前半ダイジェスト

気付けば今年初めての書き込みです!
前回はウガンダからドイツへ戻ったところまでだったので、そこからのことをざっくりと書きます。

昨年末ドイツへ戻ってからは、修士論文を執筆することに精を出す毎日でした。自分の言いたいことを根拠づけるために文献を読みあさり、信頼、引用できるものを自分の論文の一部として取り入れました。大学側からは、論文の書式やフォント、字数などは特に規定されておらず、始めは文の構成に時間を費やしました。

担当教授が、論文を執筆するうえで常々口にしていたこと。


「論文は小説のように1つのストーリー。起承転結は当然だけど、それぞれが自然な流れでリンクしていて、研究全体を通して首尾一貫していること。」


なぜ自分がその研究に情熱を注いだか。仮説を明確にし、自然な流れで概論を語る。どうすれば解決へ導くことができるか、方法論を語り、その方法論を実際に適用してみた結果を報告。最後に考察と結論。

構成が決まれば、あとは内容を詰めていくのみ。言いたいこと、書きたいことは山ほどありましたが、長ければ良いってものではなく、ポイントを抑えつつ、簡潔に。語学も絶対の自信があるわけではないので、誤解を生まないように。

そんなこんなで、試行錯誤しているうちに、3ヵ月が過ぎたころ。ついにドラフトが完成しました。ワードを用いてA4の紙で約90ページ。使った単語数は20,000以上。その後は、自分自身で何度も読み返し、更には、数年前にフィリピンの学校でお世話になった先生に添削をお願いし、ひたすら校正を繰り返すのみでした。

そして5月初旬。ついに論文完成!しかし、論文を提出して終わりなわけではなく、プレゼンテーションを行わなければなりません。自分の大学は、教授やクラスメイトに声をかけ、自分の調査や研究についての報告を行います。医療機器を勉強していると一言で言っても、クラスメイト一人一人の研究内容は様々です。例を挙げると、iPS細胞を用いた再生医療MRIやPETなどの画像診断機器、臓器を複製する3Dプリント技術の開発・研究など、多岐にわたります。自分のように、医療機器×国際協力と結びつけて研究を行うのは稀なケースなので、教授やクラスメイトと情報共有することは貴重です。

ドイツで勉強している生徒は、裕福な家庭で育った人ばかりです。先進国で勉強していると、当然、技術の進歩に関心を向けがちですが、電気があること、電気が安定していること、病気やケガをしたときに、迅速で適切な医療サービスが受けられることなど、当たり前の環境への感謝も忘れて欲しくありません。なので、自分は途上国での経験や現状を、論文を通して知ってもらうということも使命だと感じています。先進国に生まれたからこそ担わなければならない責任もありますので、先進国で勉強する彼らにも伝えておきたい、大切なことです。


5月13日。プレゼンテーションの日。
この日は13日の金曜日。開始時間は13時。空いてた部屋は13番。教授は、「13が重なりすぎて、何かミラクルなことが起こる!」と冗談をほのめかしていました。

研究結果のプレゼンテーションは約25分。それから研究に関する質問を受け、それが約40分。全てが終わると、自分とクラスメイトは一旦部屋から退出させられ、スコアを決めるために教授陣だけの論評会が始まります。

暫く待っていると、ドアを開けた教授が「おめでとう!」と言ってくれました。その瞬間はホッとして、一気に肩の荷が下りたように感じました。

フィリピンでお世話になった先生の助けもあり、修士論文はベストスコアの1.0を、プレゼンテーションは1.3をいただき、無事に卒業することができました!スコアがまたも1と3の組み合わせ。でも、ジンクスなんて関係ない!笑

お世話になった大学の教授と。
左がロシア出身、右がイラン出身の教授です。しかしドイツで育っているので、ドイツ語もネイティブ並みです。



ドイツから日本へ帰国するまでは時間があったので旅行を計画し、行き先は、約3年前にも行ったタンザニアへ。タンザニアは東アフリカの中では発展している国で、ウガンダが学ぶべきヒントがたくさん隠されています。ウガンダで活動をされているボランティアの方とタンザニアで合流し、病院見学を含めたツアーに加え、もちろん観光にも行きました。何か月も論文執筆に時間を割いていたので、ストレス発散のために美しいビーチに行ったり、買い物やグルメを楽しんだり、満喫してきました。



そして5月31日。待ちわびた日本帰国。
宮崎はやっぱり良い気候です。その日は母の誕生日だったので、ドイツで購入した犬の置物をプレゼントしました。



帰省してからは、海外で活躍されている開発コンサルタントの方々に話を伺ったり、友だちに再会したり、身内の看病を手伝ったり、中型バイクの免許を取ったり、宮崎キャンプに来たサッカー日本代表の香川選手に会いに行ったり、充実した生活を送りました。



せみの脱皮を、初めてリアルタイムで見ました。



羽を広げると、きれいなミンミンゼミへとなりました。クマゼミかも?



修士を取ったということは大変うれしく思いますが、これからは、その資格を活かして自分をどうアピールし、これまでの経験を基に自分はどのように世界へ貢献していくかを見出していくことが、自分の生きる道となります。修士号は、世界へ飛び立つ「切符」が手に入ったというだけです。その切符に行き先は書いてなく、その切符でどこまで行けるかはわかりませんが、自分次第で可能性は無限大。いろんな選択肢を考えながら、自分の納得いく道を探してみます。

後日、大学から届いた卒業証明書。



もうしばらく就職活動に時間を費やすことになるかと思いますので、約1か月間フィリピンの語学学校で勉強してきたところです。
フィリピンでも、たくさんの良い出会いがあり、特に目標を持った若い学生たちに刺激を受けました。31歳。まだまだやることはたくさんあります。
フィリピンの生活については後日書きます。

これからも良い報告ができるように、精進していきます!


Ichimasa

再びウガンダで思うこと

前回のブログ更新から約5か月。
フランスではテロが起きたり、中東からのヨーロッパへの移民問題も一向に終結する気配がありませんが、元気に過ごしています。自分自身にも、いろんな事がありました。


まずは7月下旬。期末テストがすべて終わり、残すは修士論文のみとなりました。これから、自分の興味のある分野についての研究を、更に掘り下げて行っていきます。一言で医療機器と言っても、研究や仕事の幅は限りなく、自分がどの分野に踏み込んでいくのか、将来何がしたいのか明確にし、細分化していく必要があります。

まずは論文のテーマを探すため、興味のあったいくつかのインターンシップや研究機関に応募。ドイツに居ながらも、やっぱり最終的には国際協力を意識しているので、応募先をアフリカへと絞っていきました。

WHOのコンゴ共和国オフィスでのインターンシップ、そして海外コンサルの一員として西アフリカのベナンでのインターンシップ等、将来へのステップアップに繋がりそうなプロジェクトを当たりました。

そして忘れてはならないのは、以前にウガンダで過ごしたという経験を活かしてのプロジェクト。これは全て自分でアレンジする必要がありましたが、未だにウガンダのことを考えている自分がいて、アイデアが次々と浮かんできましたので、とても魅力的に感じました。
そして何より、もう一度ウガンダの空気を吸える、同僚に会える、友だちに会える!

遊びではないけど、きっとボランティアだった頃の自分とは異なる何かを得られるだろうと思い、いくつかの選択肢の中からウガンダへ行くことを決意しました。

…と決意したものの、難題だったのが教授選び。前回の記事にも書いたように、医療機器+国際協力という経験を持った教授は居なく、自分のやってきたこと、考えていることを伝えるところから始める必要がありました。簡単なプレゼンを作り、教授の部屋を訪れてはウガンダで調査したい内容について話し合いました。そしてついに、統計学の教授をメインに、流体力学と材料工学を教えている教授にもサポートしてもらうこととなりました。

その後、ウガンダのJICA事務所に連絡を入れ、ウガンダの保健省から正式な調査許可が得られるか、いくつかの病院に協力をお願いできないか、依頼をしてみました。


そして約1か月後。自分が以前に勤務していた病院含め、運良くも快く受け入れてくれる医療施設が複数見つかり、本格的にウガンダへ行く準備を進めることになりました。航空券の手配やビザ申請、予算の策定等、全て自分でアレンジしなければなりませんが、ウガンダへ戻れるという喜びで気持ちが高ぶっていました!

準備が整うと、出発まではしばらく時間がありましたので、勢いそのままにドイツ国内旅行へ。すごく素敵な街でしたので、国内旅行については別途書きます。


9月下旬。3ヵ月ビザを取得できたので、12月中旬まで滞在すると決め、いざウガンダへ!
ボランティアとして初めてウガンダへ降り立った時とは、全く心境が異なりました。故郷に戻ってきたような懐かしい感じ、フレンドリーに話しかけられた時に感じる心温まるような感じ、やたらとしつこく絡まれたときに感じる不快感、ルールのゆるーい感じ、のんびり進む時間の感覚など、全てが新鮮に思え、ウガンダへ戻ってきた喜びに浸ることができました。約2年ぶりでした。


さっそく、以前お世話になったJICA事務所の職員や、お世話になる病院へのあいさつ回り、そして待ちわびた、マサカ病院の同僚や村の子どもたちとも再会でき、泣きそうなくらい再会の喜びを分かち合いました。



現在でも、ウガンダではたくさんの日本人ボランティアが活動しており、多くの同世代のボランティアとも会うことができました。
ボランティアとして海外へ来ている日本人はとても志が高く、悩みながらも懸命に赴任国へ尽くしている姿には、本当に感心させられます。言葉の壁、文化の違いを感じることも多々あるはずですが、前向きに笑顔を振りまいて頑張っていて、その姿は非常に魅力的に映りました。一生懸命な人、目標を掲げて前向きに頑張っている人は、自然と応援したくなります。

2年間の任期を既に終えた立場として、当時の記憶を思い返しながら、自分の姿と重ねながら経験を共有することで、アドバイスになったり、何かのきっかけを掴む手立てとなってくれたら、それもウガンダに戻ってきた甲斐があったと思えます。また事実、自分も彼らから刺激を受けることができ、国際協力へもう一歩踏み込むモチベーションとなりました。


調査の主な目的は、3年前に日本の税金を使って供与された医療機器がその後どのような状況になっているか。そして、全体的なウガンダの医療機器事情を把握すること。更には、医療施設による医療格差を見てみたいという思いもありました。
以前に自分が勤務していた病院は、現在ウガンダ国内に14ある地域中核病院のうち1つで、国内トップクラスの病院です。この病院に加え、対象は他の地域中核病院を2つ。格下の地域病院を3つ。更に格下であるヘルスセンター3つを対象に調査することにしました。ビクトリア湖に浮かぶ島、カランガラという街のヘルスセンターは、車とフェリーで行く必要がありました。浜辺はリゾート地になっていて、調査の合間をぬってくつろぐこともできました。



どのような医療機器が使用されているか、どのような問題を抱えているか、どうすれば改善できるか。現状把握と同時にアンケートを取ったりなど、聞き込み調査も行いました。中には医療機器に全く関心のない人もいて、その関心のなさが医療機器を修理や点検をしてケアする、という発想に結びつかせないことも問題です。



この調査で特に自分に課した目標は、短期間の調査期間内に、しかも自分の名前、顔の全く知られていない病院で、どれだけ調査ができるか、医療スタッフから情報を聞きだせるか、また、人間関係を築くことができるか、ということ。もし今後、どっぷりと国際協力に携わっていくのなら、自分の宣伝ポイントを知り、うまく相手に伝えることが大切。自分を売りこむことができなければ、失格だと思ったからです。



ちょっとした工具や資料を持参していたので、修理をしたり、使用方法を教えたりと、調査に協力してくれた恩返しとして、時間の許す限り調査以外にも時間を割きました。



以前に勤務していた病院では当然ながら調査はスムーズでしたが、初めて訪れる病院では、まず医療機器を見せてもらえないこともありました。恐らくは、医療機器を持っていると判断されれば医療機器を今後、提供してもらえなくなる可能性があるから…?という思惑があるように感じます。WHOの調査では、開発途上国に存在する約80%の医療機器が、海外政府からの援助、寄付に頼っているそうです。
[http://apps.who.int/iris/bitstream/10665/44568/1/9789241501408_eng.pdf :WHO Medical Equipment Donation



寄付があるということは良いことですが、寄付された医療機器がどこまでケアされているかということについては悩ましく、医療機器のエンジニアとして懸念していることです。寄付される医療機器の質、ユーザートレーニングや据付けが充分に行われず、使われない、使えない、またはすぐに壊れる。スペアパーツや消耗品が手に入らず、輸入に頼ると莫大な費用が掛かる。寄付する側も、寄付の在り方についてもっと真剣に考えなければならないのです。国際協力だと謳い、粗悪品を送りつける国々があるのは事実で、それらの国には声を大にして言いたいです。


「アフリカはゴミ捨て場ではありません…。」


ヘルスセンターレベルの医療施設では、医療機器があっても医療スタッフがいない等、とても深刻な問題も抱えています。



何を隠そう、ここウガンダで日本政府が行っている国際協力も、深刻な問題を抱えています。日本製の医療機器を供与し、アフターケアは、ボランティアの派遣、医療機器のケアを促すプロジェクトは動いているものの、やはり医療機器の寿命を延ばしきれていないのが現状だと思います。使用方法、修理方法が分かっていたとしても、スペアパーツや消耗品の流通がなければ、壊れた医療機器は何も変わらないからです。そこに日本企業、代理店のサポートの手薄さがあります。

医療機器が寄付された数年後に調査団体が来て、


ウガンダ人は俺たちが供与した医療機器を壊しまくってる。」


と報告するのは、あまりにも無責任な発言。充分な事前調査や、考えられる問題への対応をシステム化しなかった、寄付する側の問題も含まれていると思います。

当然、医療機器が供与される際には、代理店が責任持ってケアするのが筋なのですが、信頼できる代理店が存在しないのがここアフリカで大きな問題であり、日本製医療機器がアフリカで定着できないのは、代理店がごく限られていること、そして中国やインド製品などとの価格競争に負けてしまうからです。

安価=質が悪い=製品の寿命が短い。これでは、医療機器が全て「使い捨て」と思われても仕方ありません。

現実問題、寄付が多すぎて、医療機器を修理するより、他の国や団体からの寄付を待つ方が早かったりもします。

今回調査した病院の中に、手術灯の電球やUPS無停電電源装置)が壊れ、スペアを購入すればいいだけなのに、ヒューズ1個を交換すればいいだけの話なのに、新しい医療機器を購入していた病院がありました。ほんの些細な問題で、ゴミ箱行きが決まってしまう機器を目の当たりにすると、心が痛みます。


この現状はとても目をつぶって見過ごせるものではなく、日本人として、日本製品の信頼を得られ続けるため、そして医療機器の本質を伝えたいと、いつも歯がゆく感じています。日本製品の質の良さを知っているウガンダ人は多く、まさに日本人が着目すべきなのはその点です。価格競争に負けても、製品の質やサービスで補い、長期間のスパンで見れば、良いものを長く使用する方が良い、ということを証明しなければなりません。



病院での調査とは別に、ウガンダ国内にある医療機器を取り扱う会社も訪れてみました。主要15社の中から数社に絞り込んで聞き込み調査を行いましたが、製品販売に力を入れていても、サービス内容や修理対応については、疑問を感じることもあり、顧客との契約が結べないと嘆く会社ばかりでした。日本製の医療機器にはめったにお目にかかれません。




他にも、ウガンダ最大であるマケレレ大学には、自分の現在専攻している学科と同じ、Biomedical Engineeringコースが2012年に発足しており、2016年1月に学士の卒業生が出ることがわかり、彼らにコンタクトを取ってアンケートを取らせてもらいました。就職先があるかとか、給料についても聞いてみました。

もともと知り合いはいなかったのですが、以前マケレレ大で勤務していた専門家を当たったり、以前にマケレレ大の学生に混ざってバスケットしていたので、懐かしの友だちを伝に現役学生まで辿り着きました。何とかなるもんです。
ここに混ざってバスケットしていたころが懐かしい。



更には、ウガンダの電気会社であるUMEME、水質を管理しているNational water officeに出向き、話を聞いてもらったり、聞き込み調査を続けました。医療機器と関係ありそうなことはすべてクリアにしておきたいと思ったからです。



調査すればするほど、課題は次々に挙がってきます。エンジニアの教育の質、雇用問題。電気、水道のインフラの不安定さが引き起こすトラブル。政府の汚職により保健省への予算が下りず、結果として医療機器のマネージメントが滞ったり…。


一筋縄ではいかないのがアフリカ諸国に共通して言えることだと思います。
そこにどうアプローチし、自分は貢献することできるのか、非常に考えさせられた3ヵ月間でした。


ウガンダを去る直前、以前勤務していたマサカ病院のスタッフから、とても嬉しいプレゼントをいただきました。写真&メッセージ付きアルバム。約30人のスタッフが、再会の喜びと、再び別れなければならない思いを綴ってくれました。



特に印象に残った言葉を一部抜粋。


「The beauty of life doesn't depend only on how happy you are, but also how happy others can be because of you.

人生の美しさは、どれだけあなた自身が幸せかということだけではなく、あなたが、どれだけ周りの人をも幸せにできるかということで決まる。」



再会と新しい出会いに恵まれた、充実した3ヵ月。ドイツに戻り、ポケットに残っていたウガンダシリングはただの紙へと変わりました。



ドイツはすっかりクリスマスモードです。



日焼け顔で薄いジャケットを1枚はおり、大きなリュックを背負った自分は完全に場違いでした。




とりあえずお腹がすいてたので、空港近くのラーメン屋に駆け込み、その後はしばらくスタバでくつろぎました。ウガンダで過ごした3ヵ月は何だか夢を見ていた気分です。


「YUSKA!ホットチョコレートができたよ!」


考えたら、日本のスタバでは名前を聞かれ、紙カップに名前を書かれることはありませんね。飲み物ができたら呼んでくれます。スペルなんて毎回適当なので、こうなります。




またしばらくはドイツで論文まとめに精を出すことになりそうなので、頑張ります!
同時に卒業後のことも具体的に考えていきます。



Ichimasa

医療と工学の可能性

日本からドイツに戻り3学期が始まりましたが、約3か月が経ち、ようやく学期末試験も終盤を迎え、落ち着いてきました。ここ3か月、季節は春。暖かくなり、道端にはきれいな花が咲いていましたので、撮った写真を話の間に入れていきます。

ドイツの桜。


今更ですが、勉強している内容にはあまり触れてこなかったので、どんな授業を受けているか、ちょっと紹介します。

当然、学期を重ねるごとに授業内容はだんだんと難しくなっていきますし、ほぼ全ての教科で実技やプレゼンテーション、そして筆記試験にパスすることが求められ、そしてようやく単位がもらえます。
実技は実験がメインで、会議や展示会に参加したときには報告書をまとめたりもします。
プレゼンテーションは、限られた時間内(1週間くらい)に、その教科に関するテーマを見つけ、リサーチを自分で行い、教授と他の生徒の前で15分から20分程度で発表します。
各項目から点数が出され、最終的には合計されて成績となります。ドイツでは、一番良い成績が「1.0」で1.3、1.7、2.0…と評価され、5.0を取ると単位が出ません。数字の大きい方が良い成績の日本とは逆です。

基本的に教授はパワーポイントを使って授業を行い、説明が必要なところは、ホワイトボードやOHPを使いますのでノートにメモをとります。中には、面倒なので板書を写真に撮る人もいますが…。
授業が終わるとパワーポイントは大学のサーバーにアップロードされます。そのファイルを使って復習しますが、パソコンの画面で勉強してもいいし、プリントアウトしたければ、自腹を切ってプリントアウトします。専らアナログ世代の自分は、なかなかパソコンの画面で勉強できませんので、プリントアウトを好みます。
足りない情報はインターネットや図書館の本を使って勉強しますので、教科書を買う必要はありません。



現在、医療機器の修士をとるために勉強していますが、学科は生体医用工学。英語ではBiomedical Engineeringといいます。簡単に言えば、医療と工学が組み合わせられた学科です。授業は、医療、化学的なものに加え、電気電子関連の授業もあります。心電計、パルスオキシメーターなどを実習で製作することもできます。

学士を取るための大学生時代、医療電子工学科を卒業し、国家試験に受かり、自分は臨床工学技士となりました。英語では、Clinical Engineeringと言います。Biomedical EngineeringとClinical Engineering ではあまり違いはなく、国、大学や教授によって教えている内容に若干の違いはありますが、基本的に勉強できる内容は統一されています。

全教科ではありませんが、教科一覧。
FH Aachen University course contents

1. 解剖学
2. 物理学
3. 生化学
4. 流体力学
5. 人工臓器
6. 材料工学
7. 統計学
8. 電気・電子回路
9. レーザー技術
10. 生体センサー
11. 計測工学
12. 医療画像
など



去年のちょうど今頃、1学期は、Biomedical Engineeringへ参加するための単位を補習するための期間でした。自分が学士を取ったのは2008年。もちろん日本語での授業だったので、この補講期間は本当に助かりました。学士で勉強したことの復習に加え、それを英語で理解するという期間が約4か月間ありました。
英語で単位が取れるかどうかも分からず、不安いっぱいでした。


一番大変だったのは、解剖学の授業。悲鳴をあげそうでした。骨、間接の名前、構造や機能、血液の成分…日本語の単語なんて一切通用しませんし、知識不足を痛感しました。
かなりまれですが、中には日本語が世界に知れている単語もあります。


生化学の授業中。教授が質問してきました。

「人間には味を感じる受容体があります。1.甘味(Sweet)2.酸味(Sour)3.塩味(Salty)4.苦味(Bitter)。もう1つは?」


何だろうと考えていると、待ちきれなかった教授は答えを言いました。

「5つ目は…うまみ(UMAMI)!」


そして自分に向かって、

「これ日本語だろ?発音合ってる?」

と聞いてきました。




目科学の授業では、

「目の色覚異常を探るために、カラーテストを行います。このカラーテスト、何ていうか知ってますか?」
……。これも誰も答えられませんでした。

「知っておいてください。Ishihara-testといいます。」
「え?石原さん?」


ということもありました。眼科に掛かった方は経験があるかもしれません。
絵の中に隠された数字を言い当てるものです。色覚に異常がなければ、数字が認識できます。




日本人は本当に優秀で、時に開発者の名前や地名が使われています。そういった、自分にとっては馴染みのある単語は、すんなり頭に入ってくれます。


新たな知識を身につけると、アフリカに行く前に知っていたら、もっと充実した活動ができたと感じます。


なんとかここまで単位は無事に取れていて、成績は学期を重ねるごとに良くなっています。それは専門用語に慣れてきたり、ドイツ人英語に慣れてきたり、勉強の方法が確立出来てきたからだと思います。それが分かっただけでも、ドイツに来た意味は大きいです。


医療+工学の組み合わせは、現代医学に無くてはならないものです。活躍できる幅は広く、将来は自分次第でいくらでも可能性は拡がります。

例を挙げるときりがありませんが、腎臓の機能を失った患者が行っている血液透析、足を失った患者が再び歩けるようになるための義足、乳がん患者が失った胸をインプラントにより、元の生活を取り戻したり、心臓手術中の人工心肺装置など…失われたり、機能しなくなった身体の機能を治療、代替したり、人の生活の質向上のために、かけがえのない分野です。
再生医療でいえば、臓器を3Dプリントするような技術、そして、日本が誇れる京都大学の山中 伸弥教授のiPS細胞は、まさにこの分野です。
ドイツでも、たくさんの研究者たちが、iPS細胞を用いた研究を重ねています。

あるクラスメイトは、STAP細胞について調査し、プレゼンテーションを行いましたが、その後のスキャンダルを知らなかったようでしたので、
「調査研究をしてますが、現在のところやっぱり存在しないみたいですよ。」
と、やんわりコメントしておきました。日本人として今後の望みも込めて。



実は、親戚の叔父が10年以上も前に交通事故により脊髄損傷を負ってしまい、会話はできるものの、日常生活は介護を必要としています。どうにかしたい気持ちを長年もっているので、再生医療には非常に期待しています。
治験はすでに札幌医科大で行われているので、一刻も早く一般的な治療法として確立することを望んでいます。


そして、同じくらい頭の傍らにいつもあることは、やっぱりアフリカのこと。アフリカで過ごした2年間で、医療機器の大事さを身に染みて分かったので、どうにか得た知識を活かして現状を変えたい思いがあります。
医療機器と国際協力というマイナーすぎる組み合わせは、クラスメイトと話していても、大学の教授と話しても、国際協力に興味を持っている人は少ないのですが、どのように社会貢献ができるかいくつかアイデアはありますので、新たな道を切り開きたいと思っています。



これから修士論文に向けて準備を進めていかなければなりませんが、もし国際協力に興味や経験を持つ教授がみつかり、協力が得られれば、医療とアフリカという組み合わせで論文への調査や研究をしたいと思っています。
無理だとしても、医療機器の開発研究で論文を書くなど、他の選択肢もありますので、可能性を潰さずに、自分がやりたいことの優先順位をつけて、無事に卒業することを目標に頑張っていきます!

この夏、充実した時間が過ごせるようにします。


Ichimasa

大忙しな帰省

2月に期末テストを終え、春休みに入りましたので、日本へ一時帰国しました。
今年の目標どおり、会いたい人には会う!そしてこの貴重な時間を濃くすごそうと心に決め、帰国しました。

帰国直前、長らく英語のテストを受けていなかったので、TOEFLを受験してみました。今年は就活を行っていきたいので、TOEFLのスコアが必要になるからです。簡単に点の取れるテストではないので、継続して受けていこうと思います!

いつもはドバイ経由で移動するのですが、今回は初めてロシア経由で帰国してみました。航空券が安かったこともありますが、ロシアの雰囲気を味わいたかったためです。モスクワでいったん乗り換え、空港で数時間過ごすことができました。ガラス越しに見るロシアは猛吹雪で、景色はほとんど見えませんでした。そのせいで出発が2時間くらい遅れましたが、無事に成田へ帰ってきました。
飛行機からの眺め。いかにも寒そう…



まず東京へ着いてやったことは、青年海外協力隊のころの友達と会うこと。
アフリカへ派遣される前に福島県で行われた研修で知り合った人で、彼はモザンビークに派遣されており、1年間滞在を延長し、ちょうど帰国したばかりでした。ということは、3年ぶりの再会になったわけですが、渋谷のハチ公口に人が溢れんばかりに居るのに、携帯電話なしで、すんなり会えました。笑
話しても3年前と変わりなく、アフリカでの経験を語り合い、今後の予定をお互い話しながら、あっという間に数時間話し込みました。


翌日には宮崎まで戻り、家族や地元の友達と再会しました。
地元へ帰省するたびに思いますが、やっぱり落ち着くし、食事はおいしいし、日常会話が100%頭に入ってくるし、独り言は聞きとられてしまうし、変な感じです。

そして帰国する一番の目的だった、いとこの結婚式。彼女は自分がウガンダに居るときに母と遊びに来てくれたほど、海外好きです。まだ22歳で、旦那さんは23歳。自分よりずっと若いのに大きな決断をしたことを尊敬します。




翌日は、高校の頃のバスケ部で、大学生の頃にも大変世話になった先輩の結婚式に出席させてもらいました。熊本市で結婚式があり、熊本で有名らしいアナウンサーが司会進行する、同窓会も含めた楽しい結婚式でした!



料理も最高でした!


2組ともとても幸せそうで、結婚式に出席すると心温まります。

さらに翌日、大学のころにお世話になり、現在もらっている奨学金を得るためにも一役かっていただいた教授に、お礼を兼ねて会いに行きました。卒業した大学は福岡県の某大学でしたが、教授は現在、九州東海大学(熊本)にいらっしゃいます。先生とはメールでやり取りしていますが、実際に会うのは卒業して以来で、実に7年ぶりでした。
東海大学の校舎内を拝見させてもらいながら、日常生活も含めて積もる思いを語り、そのままの勢いで飲みにも連れて行ってもらいました。馬刺しやモツ鍋に囲まれながら、食事も会話も楽しませてもらい、充実した時間を過ごせました。先生行きつけだった、タレントのスザンヌさん家族が経営する、キャサリンズ・バーにも行ってきました。
スザンヌのお母さんと。ミーハーです。笑


結婚した先輩夫婦と飲みに行くこともでき、熊本城に行ってみたり、久しぶりに一人カラオケしてみたり、存分に熊本を楽しみました。



宮崎へ帰った後、楽しみにしていた、元青年海外協力隊員が主催する、ルワンダ人の講演とコーヒー会。
宮崎市で開催され、興味があった母を連れて行きました。ルワンダ人のマリー・ルイズさんの講演会は、衝撃的なものでした。20年近く福島に住んでいるので、日本語はぺらぺらです。温かい、ゆったりした話し方をしていました。


マリー・ルイズさんは20年前どこにいたか? …ルワンダです。
20年前にルワンダでは何があったか? …大量虐殺です。


以前にも紹介しましたが、自分はルワンダの虐殺記念館を訪問したことがあり、大変衝撃を受けました。
ルワンダで大量虐殺が行われているまさにその時、マリー・ルイズさんはルワンダ国内で恐怖に怯えていた一人でした。明日死ぬかも知れない恐怖、逃げるために子どもと歩いた、何十キロにも渡る長い道のりと人との出会い。食べたカビだらけのパンの味。涙が出る話でした。
また、マリー・ルイズさんはイスラム国に拉致されてしまった、後藤健二さんと仕事をした経験もあり、全世界に発信された映像のことを、自分たちと同様、大変遺憾に感じているようでした。

4年前、マリー・ルイズさんは東日本大震災をも経験し、自分も被害者ながら、被災地で講演したり、被災者を勇気づけるために話しかけ続けていたそうです。とても心の強く、広く、優しい方です。

ウガンダ共和国で2年間生活したこと、ルワンダを訪れたこと、現在ドイツで勉強していることを伝えると、応援してくれました。たっぷり元気をもらいました!



そして宮崎にはもう一人、どうしても会いたかった人がいたので、都合をつけてもらいました。この方は以前にも紹介しましたが、先生見本市(あこがれ先生プロジェクト)で講演されている、自分の忘れられない先生の1人である藤田司先生です。
なんと先生は、家に招いてくれ、手料理を振舞ってくれ、家族にも自分を紹介してくれました。先生の奥さん、可愛い2人娘と、先生に似てイケメンの息子は、自分のような客にも簡単に打ち解けてくれ、先生とは当時の話や、お互いの空白だった約15年のストーリーを語りながら、懐かしさと共に貴重なひと時を過ごしました。
当時のバスケ部の写真。あれから15年…



人生を心から楽しんでおり、学校では尊敬される先生、そして家庭では尊敬される父親としての姿、人生の歩み方に感動しました。同時に、自分も先生のように魅力的な人間になることを誓いました。



先生は帰宅するときに一冊の本をくれました。付箋だらけの、先生が読み尽くした「男の品格」という本です。人生の楽しみ方を教えてくれる、男としての魅力を高める秘訣が書かれた本です。先生の生き方を見ていると、付箋を貼っている項目にも納得。



その後、ドイツへ戻るまでの残り4日間は、普通免許のオートマ限定を解除するために、自動車学校へ通い、最終日に試験を受けてきました。恥ずかしながら、実は数年前にスピード違反で免許を取り上げられてしまったことがあるので、以降、オートマ限定でした…。
自動車学校は高校生ばかりだったので、この歳で自動車学校は新鮮でした!試験は見事合格!笑

他にも、地元の友だちに飲み会を開いてもらったり、動物園で犬の出産を偶然見たり、母校で高校生とバスケットしたり、城下町のきれいな大分県の杵築城に行ったり、従弟の双子娘の初節句に招いてもらったり…


3週間くらいの帰省でしたが、とても充実した時間を過ごすことができました。時間が限られていたので、残念ながら都合が合わずに会えなかった人も居ますが、またいろんな人と触れていきたいと思います。都合を合わせて会っていただいた方々に感謝です。

母親といとこがドイツの帰国に合わせて遊びに来てくれたので、それは次回書きます。


Ichimasa