[久々湊盈子]フェミニズムの正しさゆえの空しさが手を汚さないやつにわかるか  久々湊 盈子

この作者の歌を取り上げるのは、これで三作目である。
今日は結社誌の先輩歌人である阿木津英の一首を取り上げるつもりでいた。
阿木津さんの作品には好きな歌が何首があるのだが、その中からこれと決めかねる私がいた。
道浦母都子松平盟子両氏の歌も浮かんできた。
その中から、この一首がわきあがってきたのだ。

久々湊盈子という歌人を、強く意識し出した契機となった作品は、この歌であった。

上野千鶴子の著書に影響を受け、1900年代までは「闘争型フェミニズム」の思考法に救われた、そんな一人でも私はあった。

かつて「絶滅危惧種であるところの専業主婦を、手厚く保護しよう」などと友人とジョークとして言い合っていた頃がある
まだ若かった私には、専業主婦はやがて無くなる階層であるはずだった。

その頃、上野千鶴子氏の著書を、さかんに読んでいたはずなのだが、今となっては覚えていない。
薄ぼんやりと思い出すのは、「正論」で貫かれていたことである。

結婚をし子どもを産み、「家」というものに否応なく組み込まれてしまうと
夫婦別姓ジェンダーバイアスも、山積みになった汚れ物を片付けててからなのだ。

子育てはまさに糞尿に塗れることである。
乳児のウンチとオシッコの始末に追われる。
そして、それが落ち着きひと息ついた頃に、自分と連合いの老親の介護が始まるのだ。
その後夫を看取り...。
気付くと自分自身の糞尿に塗れることになっているのかもしれない。

介護も子育ても「愛」という言葉で美化されがちだ
しかしながら
そのような欺瞞に憤りを感じよと説かれても、目の前の現実をなんとかせねば、明日は来ないのだ。

疲れきって眠りに付き、翌朝起き上がり漠々と一日を送り、また眠る日々。
そのような日々の中、久々湊盈子の歌に強い衝動を感じたのだ。

この歌と出会って、日々の生活が変ったことはなかったのだが
堂々巡りをする如く、考え続けていた何かをふっ切ることが出来た。

このブログを短歌そのものと繋がっていることのできた、一つの糸がこの一首であり久々湊盈子という歌人の存在だったのかもしれない。

真昼間に十日の月のかかりいて跳ぬる兎はせましとなげく

自作自評は得意な方ではない。
出来ることならば、避けて通りたいくらいだ。

このブログの「十日の兎」はこの歌からとったものだ。

中学2年生の三男が保育園に通っていた頃の歌であるから、もう十年以上前の自作だ。
こうして読み返してみると、一句目が「青空に」を持ってくるなど、技巧的にも稚拙だと感じる。

しかし今の自分にこれを超える歌を詠めるかとたずねられると、否としか答えようがない。

晩春の真昼、歩を止めて見上げた空に、白い月が懸かっていた。
ただそれだけの歌なのだが
ああ、兎が跳ねるには狭いだろう
そう感じたのだった。

ただそれだけの歌である。

擬人法は弱くなると、結社の先輩歌人である田中佳宏に注意されたことがある。
自分自身は擬人法と意識していなかったが、動物・植物・飲食物などを多く詠んでいた。

この歌が擬人法であるのであれば、この兎である人は誰であろうか。
幼い男の子を三人育てながら、歌を詠んでいた若かりし日の私であろうか。

その後兎は跳ね方を忘れ、それでも飛び跳ねるべくもがいていたのだ。


歌について厳しくも優しく語ってくれた田中佳宏は、すでに鬼門に入ってしまった。
まだ埼玉県で葱でも栽培しているのではないか、会いたいと強く思う。




兎は月から降りて跳ねようと目論んでいるのだ。

観覧車回れよ回れ想ひでは君には一日我には一生  栗木京子

けむり水晶―栗木京子歌集 (角川短歌叢書―塔21世紀叢書)

けむり水晶―栗木京子歌集 (角川短歌叢書―塔21世紀叢書)

短歌を楽しむ (岩波ジュニア新書 (342))

短歌を楽しむ (岩波ジュニア新書 (342))

この歌を取り上げるのは、二度目である。
以前、2006-01-01 のんびりゆっくりなんとなく でもこの歌について書いている。


今日から、私が室長をしている学習教室の、大学進学コースの授業が始まった。
学習教室の授業に短歌を取り入れることを進言してくれたのは、国公立大学へと多くの生徒を進学させている教室の室長であった。
進学教室に短歌、この組み合わせがどうして出てくるのか、最初は納得ができなかった。
「短歌」ほど、この世の中で不要のものはないだろうと思っていたのだ。
その不要のものを続けている自分に、後ろめたさすら感じているのだった。

しかし、多感な年代の生徒たちと、短歌について語ってみたいと思っている、自分もいるのだった。

五七五で今の自分の感じていることを、表現させることから始めてみた。
生徒たちは懸命に作ってくる。
それらの作品の煌きは、十代でなくては出せないものばかり。

その授業の最中、小池光・寺山修司などの歌人の歌と一緒に、栗木京子氏のこの歌の鑑賞を試みた。
男子生徒ばかりの教室は
「恋人との別れの歌だろう」「何故観覧車なのだろう」との声が出てきた。
これはまだ年若い女性の歌であること、恋の始まりの歌と鑑賞されることが多いことを話してみた。
それでも、彼らには不満であるようだった。
そこで、この歌は教員をはじめたばかりの女教師の歌であること
校外学習のでの歌でえあることを、説明してみた。
「まだ学生である生徒たちにとって、これはたった一日の思い出である」ことと
「しかし、教員になったばかりの作者にとって、この体験は一生の思い出となるだろう」ことを語りながら、ふと胸元に込み上げそうになってくるものがあった。


私は、十代で家庭教師や塾講師として、「教える」事を始めていた。
結婚前の数年から昨年まで、20年近いブランクがあり、この仕事を再開した。
昔の私は、良い先生ではなかったように思う。
今よりわかりやすい授業をし、生徒に人気があったとしても
あの頃の私を、全面的に肯定できない気持ちがあった。
もしやり直せるのならば、そう思い昨年総合塾で講師の仕事をしてみた。
高校受験を控えている中学生相手の仕事であった。
生徒からは「先生の数学わかりやすい」と好感触ではあったが、「良い先生」であるのか、自信はなかった。
本当に生徒のためになる授業をしているのか、一点でも多く点数を積み重ねることに気をとられている、そんな自分がそこにいたからだ。

体力的限界もあり、その職場を辞し暫らくたってから、また「教えたい」との衝動が湧き上がってきた。
中学生の生徒を教えていたが、常に自問自答する部分があった。

そして、この十月から高校生の教室も持つこととなり
生徒としてもう一度向き合いたいと思った生徒がいた。
彼とその母親は、快くこの教室への入会を決めてくれた。
今日の授業は私が個別指導の教室としてはじめるにあたり、教えたい生徒の中のメンバーが参加してくれた。

一斉授業ではなく、個別に生徒と向き合う教室だ。

最初は、個人紹介から始まった。
同じ高校へと通学していても、別の中学からの進学で、別々のクラスにいる生徒たちにとって、話題は尽きないものだった。
弾みのある雰囲気の中、授業は始まり「観覧車」の歌となり、件の説明であった。
生徒たちは、作者が教師であることで、納得が行ったようだった。
一人の生徒から「あの歌のはなしを聞いて、じぃんと胸がなった」と伝えられた。


この仕事に就くことができ、良かったと思った。

判らするための努力がけだるくて目まひする別れかたして来たる  石田比呂志

(「石田比呂志全歌集・初期歌編」より )



 短歌研究第14号10巻、昭和32年9月号の「第五回五十首詠」の入選作の中に、この歌はある。
 その号に大きく「絶賛発売」として「松田さえこ歌集『さるびあ街』」の公告が大きくされていた。
 その年の特選はなく、推薦に大寺龍雄(一路)片山静枝(遠つびと)伊藤登世秋(形成)の三人が推されている。
 石田比呂志は標土の所属として、作品「轉身以前」が他15作品と共に「入選」となり掲載されている。
 その当時、石田は公共職業安定所の職員として、主に失業者対策事業に従事していた。
 「訛多き会合にいたくつかれつつあがり際の雨を窓に見て立つ」「十一月の昼の映画館広くして椅子の間に黒き犬をり」などの歌が並ぶ中、丁度真ん中あたりにこの歌が位置をしているのだ。
 「判らする努力が」虚しいでも詰らないでもなく「けだるい」と26歳の石田青年は感じ「目まひする別れかた」をしてきたと言う。
 その相手は恋人ではないように、一連から感じられる。
 それでは一体相手は誰なのか、そしてタイトルにもなっている「轉身以前」の転身は何からなのであろう。
 その当時、政治運動に身を挺していた、そのような話を聞いたことはあっただろうか。確かに職場柄そして時代性は、労働組合運動
の盛んであったろう。
 その辺りのことを、本人に尋ねたなら照れながらもかたってくれっるであろうが、なぜかそれをしたいとは思わずにいる。
 それは私自身も「判らするための努力がけだるくて目まひする別れかたして来たる」と感じることが、対社会においてままにあるからであり、よく口誦する一首なのだからかもしれない。
 石田比呂志の「転身」は一生謎のままでも良いのだろう。  

冬の皺寄せいる海よいま少し生きておのれの無惨を見むか  中城ふみ子

(先日の分も、まだ書いていませんが。この季節になると、ついつい思い出すのがふみ子ですので)

もう何年も前のこととなってしまった。
今小学五年生の三男はまだ、就学前だった。
あれは海の日だったのだと思う、唐突に十勝の海を見たくなったのは。
子供達三人を車に詰め込み、峠を越え走り続けた。
道筋の両側に、いつも見慣れた十勝の街並みとは違った、平坦で殺風景な景色を眺めながら。
自宅を出て、三時間余りも経った頃だったろう
十勝の大樹の浜に着いたのだった。

その海は、同じ太平洋でも、噴火湾から襟裳岬へと続く海岸線とは、まったく別の太平洋があった。

遠くまで続く砂浜の向こうに、それはそれは何処までも、何処までも真平な海が広がっていたのだった。
遠く彼方、深い色をした海から空が、立ち上がって私たちの頭上へと、のびあがってきていた。


またあの風景を見てみたいと、家族旅行のついでに、立ち寄ってもみるのだが、夏の海は深い海霧に隠れ、見ることは出来なかった。
地元の人たちの会話により知ったのだが、夏の大樹の浜は天気の良い日はほとんど霧に閉ざされているのだそうだ。
あの日の私たちは、大層幸運だったのだ。

あの海を見てから、どれほど経ってからだったろう
掲出歌の海は、ふみ子の妹の家のあった小樽から、札幌への病院へと通う列車の窓から見た日本海の風景であると、そう解説されていたのだが
実は、大樹の海であると知ったのは。

真冬の大樹の海は、早朝に気嵐が立つという。
冷たく広がる海を目の前に、ふみ子はこの歌を詠んだのだ。
足元は、凍結した地面だったのだろう。
何処までも広がる、絶望的なまで広い太平洋を前に、ふみ子はこの歌を詠んだのだった。


あの後、オホーツクの海も何度か見、日本海も太平洋も眺めているが
あの日の海と同じ海を、見たことは未だ無い。  (9/11)