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2016-09-20

「施設で生きるということ」

  • 有薗真代, 2016, 「施設で生きるということ――施設生活者の戦後史からみえるもの」『世界』887, 49-55.

障害者の施設生活をめぐる既存の価値観、言い換えれば、施設を否定し、脱施設化・地域生活を肯定するという二項対立的な見方に対し、本論は問題提起を行っている。この二項対立は、障害者の脱施設化と地域生活をめぐる見方にもうかがえる。こうした見方は、一方で障害者の施設への意思や障害者とその家族が施設を通じて培ってきた関係を否定し、他方で障害者の生活とそのあり方への意思をまったく置き去りにした予算削減策へと通じるおそれがある。このこと指摘したうえで本論は、こうした施設と地域生活との対立的見方を超えた支援の連帯関係を模索する必要性を述べている。


世界 2016年 10 月号 [雑誌]

世界 2016年 10 月号 [雑誌]

2016-09-10

『精神病と統合失調症の新しい理解』

Cooke, A., ed., 2014, Understanding Psychosis and Schizophrenia, British Psychological Society(国重浩一・バーナード紫訳, 2016, 『精神病と統合失調症の新しい理解:地域ケアとリカバリーを支える心理学』北大路書房)



精神病者への支援のあり方を、疾患を中心にすすめる医学モデルからその社会生活を中心にしたものへと移行させることを強く主張している。そして本書はこの主張を、障害の認識と患者への支援という二つの側面において、展開している。英国の心理学会の報告書の翻訳で、原文は下記からダウンロードできる。以下は、遅まきながらの読書メモ。



まず障害の認識について。患者の支援にとって、精神疾患の診断は二次的な意義しかもたないと本書は見なしている。たとえば統合失調症の「症状」、たとえば「幻聴」や「妄想」、「幻覚」を、本書は体験と表現している。そしてこの体験そのものは、その程度においては多様なものの、いわゆる「精神病患者」に限らずに、また必ずしも耐え難い苦痛としてでなく、体験されていることが述べられる。そのうえで、本書が注目するのは、こうした体験がどのようにして耐え難い苦痛として経験され、異常として認識される振る舞いへと結びついていくのか、である。

この問いに対して本書の示す鍵は、患者の生活とその社会的な状況である。すなわち、患者の社会生活とその中での経験が、これらの体験を耐え難い苦痛として経験させ、また異常として識別される振る舞いへと患者を結びつけていく、ということである。だからと言ってこれらの体験の生物医学的な基盤が否定されるているわけではない。幻聴や幻覚、不安といった体験には、思考と知覚、楽しみと同様、生物医学的な要素が介在している。とはいえ、それらが他ならない耐え難い苦痛や異常として体験されるにあたり、生物医学はじつはレリヴァントではない。こういうことだろう。こうした精神病の捉え方に対応し、本書の提示する支援法も、患者が生きている生活に根ざしたものとなる。障害の認識における生物医学の位置づけと同様、支援においても診断は必ずしも不可欠ではないという認識のもとに、支援方法が論じられていく。

おそらく支援の中心に置かれているのは、患者の認識である。すなわち、患者が自身の状態と生活についてみずから認識を獲得することが、これを支援者とともに共同で形成することが支援の核心をなしている。こうした認識を、本書はフォーミュレーションと呼んでいる。「フォーミュレーションは診断とは異なり、その苦悩の体験がいかに極端、または異常で、抗し難いものであるとしても『あるレベルですべてつじつまが合う』という前提を基盤としている」(72)。このように、患者が自身の困難とそれをもたらす状況について、患者自身が理解を得ることがフォーミュレーションの目的であり、したがって支援の中心もこの形成の支援となる。

この結果、従来の精神医学的診断は、患者支援にあたってはさほど重要性を持たなくなるだろう。「メンタルヘルスにおける診断とは、これまでに述べたように、体験の説明ではなくじつは分類の過程であるために、その意味においての診断の有用性には疑問が呈されているのだ」(73)。このように、フォーミュレーションは、その性質上、精神医学的診断と同じ水準において成立しており、したがって前者にとって代わられうることになる。

さて、こうした支援においてもうひとつ重要な要素となるのは、患者にとっての友人や家族、ピア関係である。患者を支援するために、支援者は家族と友人関係と協力的関係を作り、さらにはこれらと定期的にミーティングを行うことの重要性が指摘される(たとえば患者家族との関係を本書は「家族介入」とよんでいる(84))。そこでは、当事者の状況についての共通理解の形成や、当事者についての認識転換の支援、患者と家族関係についての洞察の促しなどが目的であるという。こうした患者の生活と社会関係を焦点をあてた支援にとって、従来の中心をなしてきた薬物療法は、その意義を限定されたうえで必要な一方法として、位置づけ直されるていくことになる。


2016-07-15

二つの学会報告についてのメモ



2016年7月2日より7月14日まで、ヨーロッパの3都市を訪れた。

目的は二つの学会報告で、これについては下に記す。ちなみにこの二つの学会の合間に少し時間があるのでマンチェスターを訪れ、エスノメソドロジーという研究領域において高名な研究者に研究上の助言をいただくという幸運にも恵まれた(さらに言うと、Against The Theory of Mindという著書の編者のおひとりであるIvan Leudarとパブにてお目にかかり、現在進めている翻訳についてのご協力を得るという信じられない幸運にも恵まれた)。

まずは、二つの報告の情報を記しておく。

  • 7月4日、Atypical Interaction Conference(University of South Denmark)にて報告。Shigeru Urano, Kazuo Nakamura, and Yoshifumi Mizukawa, “Accomplishing understanding via analogy: An analysis of practices of self-directed research by people with mental disabilities”

  https://sites.google.com/site/atypicalinteractionconference/

  • 7月11日、3rd ISA Forum (The University of Vienna)にて報告。Shigeru Urano, Yoshifumi Mizukawa, and Kazuo Nakamura, "Creating “Idiom of of Distress” Collaboratively:An Analysis of Practices of Self-Directed Research By People with Mental Illness"

  https://isaconf.confex.com/isaconf/forum2016/webprogram/Session5788.html



こうした二つの報告、は科学研究費補助金によって2014年より進めている研究の一部にもとづいている。二つの報告では、それぞれの学会の目的にあわせて(前者はよりインタラクションに焦点があてられており、後者は”Language on health and illness"というテーマの部会だった)、強調点を異にしているものの、両方とも、当事者研究という活動を対象としている。

当事者研究については、べてるの家で始まり、またその理念が定式化されて以降、日本や韓国などの研究会に広がっている。とはいえ、それぞれの研究会は、参加者の障害や抱える困難の内容や、設置母体などにおいて、多様である。そこで、それぞれの状況にふさわしい形で工夫しながら当事者研究活動が進められているというのが現状のようである。そして僕たちの研究は、こうした研究会のひとつに足しげく通い、その活動がどのように実践されているのかを理解しよう、というものだ。

実際には結構なボリュームの収録データを得ているのだけれど、今回の報告では、まずはこうしたデータのどのような点に注目するべきなのか、といったイントロダクションにあたるような事柄を紹介した。

具体的に言えば、上に触れたような当事者研究の理念を実際の対面的状況で実現しようとすると相当な難しさとそれに見合った工夫が必要であるよね、ということを紹介した。そのうえで、一見すると何の変哲もないようなやりとりがもっているとても重要な意味についてきちんと目を向ける意義があるよね、という示唆をつけ加えて、今後の作業に繋ぐ、という体裁の報告を行った(この辺りの内容は、この7月に刊行される『保健医療社会学論集』というジャーナルにおける医療コミュニケーション研究の特集(第27巻第1号)において、「当事者研究の社会的秩序について――経験の共同研究実践のエスノメソドロジーに向けて」という(奥歯に物の挟まったような)タイトルで掲載される予定ですので、ご関心のある方はぜひメールなどでお声かけください)。

ちなみに、ここで述べた「難しさ」の中心にあるのが、自身の経験を相互行為において語ることに含まれる難しさである。こうした事柄には、語り手の素性についての評価だったり、受け手による態度の取り方に対する規範的期待だったりと、いろいろと道徳的な含意に関わる難しさがある(この辺りの話は、知っている人は知っているはずだが、もちろんH.サックスが「経験への権利」や「経験の孤立的性格」、「防御的にデザインされた物語」といった言葉で語ってきた事柄である)。上に触れた理念はこうした難しさを乗り越えようとする理念を示している。

だけれど、それではこの理念を、この場でこのメンバーとどう実現するのか、といったことはまた別の話。いろいろなやりとりの組み立て方が必要になるし、いろいろな研究会がいろいろなスタイルを開発している。だからそれをきちんと見ていく必要があるはずだろう。



内容に踏み込んでまとめると、こんな感じの報告を、少しアクセントを変えつつも、上で記した二つの場所で報告してきたのである。いずれの学会においても、部会中やそのあとの立ち話の中で、幸運にも重要な示唆を得ることができた。その中で最大のものは、次のような指摘だった。

お前の報告は、物語り(storytelling)や物語(story)という概念を使っているが、この二つの概念は、常識的に考えてかなり規範的な制約の強い概念で、これにもとづいてお前のやっているような現象を記述していこうってのは、そのままではちょっと無理が大きいんじゃないかな。そもそも物語ってのは、はっきりしたあらすじ(plot)とオチ(punch line)を持っているもののことだ。だから普通の会話の中で物語りをするって時には、語り手は相当おっきなタスクを背負っているわけで、だからあれこれと(例えばstory prefaceなどのような)道具立てが必要になってくるじゃないのかな。

ところで、だ。こんな風に物語りがおっきなタスクを要求するからこそ、とくに道徳的にヴァルネラブルな困難を物語ることはとっても難しいんじゃないか。そしてだからこそ、それを語るための色んな道具立てが必要となるんだろ。この辺りのことはお前(つまり僕のこと)も報告しているとおりだ。それはそのとおりだ。だけれども、こうした色んな試みを呼び指すのに、また再び「物語り」という概念を使ってしまっちゃ、うまくない。むしろこれらの試みは、物語りの制約を超えて、困難を公に口にするための道具立てなんだ。つまり物語りに期待されるあらすじもオチもない、そもそも秩序づけられないいまだに自分にも訳が分からないことを、それでも口にするための道具立てなんだ。それを、ふたたび物語りって言っちゃあ、彼らのやっていることをうまく捉えられないだろ。Alcoholic Anonymousの始めた取り組み(つまりは、言いっぱなし聞きっぱなしのこと)を見ればわかるだろ、な。

こんな感じの指摘を、デニス・デイ(Dennis Day、とても有名だったアメリカのタレントと同名)さんからいただいた。たしかに現象をどう名指すかの指摘という意味でとても些細なように見えるのだけれど、現実に私たちが生活において持っている物語や物語りの概念についての内容とそれゆえの問題をきちんと踏まえた指摘だと思う。ねらいとしては僕もその通りの報告を行ったのだけれど、この点については考えが及ばなかった。その意味でとてもありがたかった。

ただ、疑問は残る。それは、上のようなやりとりを受けて、部会終了後のやりとりのなかで生じてきた。ちょっと僕は訊いてみた。

あなたの言っていることはまったくその通りだと思う。それでは、こうした物語と物語りを超えようとする試みにおいてなされている行為をあなたは何と呼んでるんだろう?

すると彼は、こう答えた。

ナラティブだよ。

うぅーん、と僕。

ストーリーとナラティブとの違いがよく分からないんだけど、その辺、どこが違うの?

すると彼はこう答えた。

ナラティブにはプロットがなくてもいいんだ。だからナラティブって呼んだ方が良い。

ふーん、ちょっとまだ理解できないんだけど、うーん、僕が訊きたかったのはストーリーを超えるものを作る行為を何と呼ぶか、なのだったけれども…。

と、ぼやく僕に向けて彼は、それはtellでいいだろ、それしかないだろ、な。と、こんな感じのニュアンスのことを彼は答えてくれた。

英語についてはふーんというしかない(彼も英語が母語ではないはずだけれども)。あえて日本語で対応する言葉を探すとすれば、「語り」なのかもしれないけど、これも、うーんとうならざるを得ない、常識的にも学問的にも色んなニュアンス(手垢とは言いたくないけれども)の染みついた言葉である。そのようなわけで、ひとまずの課題は、上記のような行為と対象を呼び指すのにふさわしい日本語の言葉を探すこととなった。

小さなことだし、あるいは僕のたんなる知識不足のせいかもしれない。けれど、まずはこの言葉を、勝手に造語しちゃったり借り物で雑に済ませちゃうのでなく、探しだし見つけ出すことから始めなければいけないかな、と感じている。そうじゃないと、社会の成員が実践し、経験している現象を記述するという当初の目的に背くことになってしまうだろうし。




追記

と、とても幸運に恵まれた対価なのか、今回の道中では結構さんざんな目にあった。ひとつはコペンハーゲン駅において財布を(おそらく)すられたこと。もうひとつは、一つ目の報告後に風邪の症状が出てきて、コペンハーゲンでは寝込んでいたこと(デンマークはとても寒かった)。そんなこともあったけど、上記の収穫があったことと、二つ目の報告までには何とか回復して新規内容を少し加味して報告できたこと、そしてウィーンにおいてストンボロー邸を見学できたことこともあり、まあ良かったのではないかと考えている(建物内部の撮影はできませんでした)。


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2016-05-26

ウィンチェンシュタイン?

Dupré, John., 2016, Social Sicence: City Center or Leaft suburb, Philosophy of the Social Scienes, 1-17.

DOI: 10.1177/0048393116649713


ウィトゲンシュタインに依拠した社会科学論――その中心にはP. ウィンチのそれがある――について、批判的立場を示す論文(OnlineFirstを通じて入手)。著者は高名な生物学の哲学者。したがってその議論も、生物学を中心とした科学哲学的論点にもとづいている。これはもともと、英国で開催されたウィトゲンシュタインに関連する学会で報告された論文である。

末尾の注記において著者は、自分はウィトゲンシュタイン研究者じゃないけどP. ハッカーとG. ベイカーの薫陶を受けたとも述べており、ウィトゲンシュタイン的な議論としての自負もあるようだ。そしておそらくその立場から、ウィトゲンシュタイン的社会科学論を批判している。批判されるべきその社会科学論の源泉は、著者によるとウィンチの新カント派的なウィトゲンシュタインの使用法にあり、著者はこうした使用法を皮肉を込めて「ウィンチェンシュタイン(Winchenstein)」と呼んでいる。

その論点の中心にあるのは、科学的言語の多様性、つまり家族的類似性である。それは生物学からやって来る。そして社会科学の言語はそのような家族的類似性の一つに過ぎないと述べる。そして翻って言えば、これを科学から除外させるような科学観が実情に沿わない時代遅れの遺物である。そしてこうした諸科学の言語の家族的類似性にもとづきながら、しばしば指摘される社会科学の不可能性の主張を批判する。

他方、社会科学の主題が課す制約については、著者はどう考えるか。この制約とはすなわち、社会科学の対象じたいがルールを用いる存在であるということである。それが、社会科学を自然科学から区別し、ひいては前者を科学ではないとする議論の根拠とされてきた。

これについて著者は、二つの議論をしているように思う。

第一は、まず対象の特性ゆえの方法としてウィンチが対象の実践への参与挙げているのは行き過ぎだと断じた上で*1、たとえば遺伝の働きについてのホーリスティックな理解の必要性を引き合いにしながら、社会科学を科学から除外する論調を批判している。

第二は、社会科学の対象となる日常言語が、「濃い(thick)」言語であり、したがって価値中立的でありえないことに触れている。しばしば進化生物学における言語が、無自覚に倫理的に濃い概念を用いて説明を作っていることの問題に触れている。しかしこの点を認めたうえでも、それは社会科学を科学から除外するものではないとまとめているように思われる(この点の論拠が今ひとつはっきりしないのだけれども)。

というわけで個々の論点はともかくとして、この論文の結論。科学は多様であり、たとえば物理学のみならず化学、生物学(遺伝学から生態学)に連続する形で、社会科学も含まれる。そしてウィトゲンシュタインに依拠した社会科学論とくにウィンチのそれは誤っている。かなり粗いけれども、こんな感じにまとめられるように思う。

他方、読んでいて不足を感じたのは次のあたりである。

ウィンチがその著書において批判した社会科学のあり方(たとえばデュルケムやパレート)が科学でありうることをデュプレは主張している。しかしその一方で、ウィンチが積極的に提示しようとした方法――つまり日常言語的概念の用法の記述を通じての社会研究――について、著者がどう考えているのかについては、ほとんど述べられていない(あるいは上述のフィールドワーク的参与の話からわかるように、かなり雑な理解しかしていない)。ちなみに前半の主張は科学というものをどう捉えるのかの問題である。他方、後者は社会を理解するためにはなにが必要なのかという問題である(そしてそこで必要となる手続きを組み込んだ営為が科学かどうかはあまり重要ではない事柄であるように思う)。そして著者は、ほとんど前者のみを取りあげて、ウィンチを断じてしまっているように思う。この点がこの論考についての個人的な疑問である。

*1:この議論は、Winch(1958: 87f)における、規則の二重性について述べた箇所にもとづいてなされている。この箇所のウィンチの議論によると社会科学において文化人類学的フィールドワークが不可欠となるがそれは適切ではない、とデュプレは批判している。しかしウィンチはこの箇所で「実際の参与」を理解の条件としてはいない。彼はこう述べている、「社会科学者の作業は、自然科学者が同僚とともに科学的探求活動に参与することの方にむしろなぞらえられる(analogous)はずである」(87)。著者は、この「なぞらえられる」という表現を無視し、理解するためには実際に参加しなければならない、などと極めて強い主張を行っているものとして受け取ってしまっているるようだ

2016-04-12

『概念分析の社会学2 実践の社会的論理』

『概念分析の社会学2 実践の社会的論理』という論文集が刊行されることになりました(4月12日の時点では、紀伊國屋書店新宿本店にて限定的に販売しています)。

多様な実践を対象に、それぞれの固有性を構成している概念連関を記述することを目指した論文集です。とりあげている実践は、障害や医療、ソーシャルワーク、司法、教育、経営、スポーツ、観光と、多種多様です。社会学に興味のある方だけでなく、これらそれぞれの領域に関心をお持ちの方にもお手にとっていただけると嬉しいです。

ちなみに私は、「「神経多様性」の戦術 自伝における脳と神経」というタイトルの論文を寄稿しています。そこでは、「神経多様性neurodiversity」の概念を用いた言説の眼目がどこにあるのかを、その初発の議論を読み直すことによって捉え直すことを試みています。こちらについてもご検討いただけますと嬉しいです。




なお、この論文集の発売を記念したブックフェアが、紀伊國屋書店新宿本店3階にて開催されています。

この論文集の著者たちが寄稿論文に関わりの深い書籍を紹介し、会場ではそれを販売しています。エスノメソドロジーのごく基礎的な書籍から、各寄稿論文の主題の核心をなすような書籍まで、この論文集とおなじく多様な書籍を手にとることができます。また、会場ではこのブックガイドを入手することができます。お時間のおありのさいには足を運んでいただけますと幸いです。

  • ブックフェアの案内(紀伊國屋書店)

   https://www.kinokuniya.co.jp/c/20160408100252.html

  • 企画者酒井泰斗さんによるウェブページ(現在、ブックガイドを部分的に読めます)

   http://socio-logic.jp/ethnomethodology3.php

  • 出版社による案内(ナカニシヤ出版)

   http://www.nakanishiya.co.jp/book/b222499.html

  • 関連書籍についての出版社による案内(ナカニシヤ出版)

   http://www.nakanishiya.co.jp/book/b134647.html

2015-09-16

「普通の人生」

  • Atkinson, M., 1980, "Some practical uses of "a natural lifetime," Human Studies, 3, 33-46.

【目的】この論文の目的は、「普通の人生」とか「自然な人生」といったものについての概念について、それがどのようなときにどのように用いられているかを、明らかにすることだ。具体的に言えば、どのように人は人生を通過していくのか。どのような段階・順序があり、それぞれにはどのような特徴があるのか。

普段は一切そんなことを語ったりしない。その意味でこれらは自明視されている。けれどもそのようなものを前提にして私たちの生活ができていることは、数々の「普通でない」考えや語り方、行動を「見つけ」またそれに「直面し」たときに私たちがとる振る舞い仕方に、明らかである。

たとえばこの論文の冒頭に引かれた、幼いままでいたいというピーターパンの願望。これを「非現実的」とか「空想的」と扱う場合(これは、年齢の違いを使って、実質的にM. ポルナーのいうリアリティ分離を行うようなものだ)。あるいは、逸脱例や成長などについて、それらを「注目に値するもの」として「注目し」、「語るに足るもの」として「語り」、「説明が必要」なものとして「説明する」。こういったさいには、「普通の人生」は資源として前提にされている。

そしてこの論文は、こうした具体的な記述や活動をとりあげ、人生の段階にかかわるもろもろの概念やそれと慣例的に結びついた活動や特徴といった道具立てを使って、明確にする。


【問題】人生の段階をとらえる概念には、例えば乳児〜少年〜老人とか、小学生〜高校生〜大学生などといったものがある(H. サックスはこれを「人生の段階」というカテゴリー化装置として、分析の対象としている)。こうした概念群には、一定の秩序がある(具体的に「これ」と断定できないが、こうした概念を用いる人は、そこに何らかの秩序を想定して用いているだろう)。たとえば概念間の順序だった秩序が想定されている(「成長」とか「右肩あがりの人生」だとか、あるいは「降りていく人生」とかといった、ある一定の流れが想定されている)。またそれぞれの概念は、活動や性質、能力などの概念と自然に理解できる連関が想定されている。そしてこうした概念は、複数の人物や、相異なる時点での同一人物に、用いることができる。そして後者の場合、その時間的な変化が、成長や退行といった移行・変化であることが含意され、あるいは明示的に記述される。

そのうえでこうした概念群がどのような場面で用いられているかというと、たとえばある人物の特徴を注目に値するものとして着目したり評価したり、成長として把握したり、退行として問題視したりする。さらにはそうした変化を、理解できるように時間的に説明したりする。

こんな時に、人生の段階にかかわる諸概念とこれを用いた「普通の人生」なるものが、用いられている。


【事例】例を挙げると、こんな感じだろう。店の商品を持ってきてしまったある幼児について、その将来(「大人」の時の状況)を想定して、語る。たとえば育て方に問題あるものとして、現状を語る。こんな育てられ方をすると、将来盗人になる。だからその現在の振る舞いは、万引きの始まりだ、と(あるいは「嘘つきは泥棒の始まり」などと言ったりしないだろうか)。

たしかに現時点では、その子に幼さを想定するゆえに、その子の振る舞いを「盗んでいる」といった言葉で把握することも、盗む意図を帰属することもしない。しかしそのような状態で過ごした先にある「将来」において、そこ子はそうした意図を持ち始めると予想するかもしれない。こうしたとき、「将来」を前提にして「現在」の状態を「問題」とする。

また別の例。対象となる人物を見ていると、たとえば「小学生」とかではなくて「幼児」として見ることができそうである。そうすると、そこからこの人物に一定の能力(あるいは無能力)が想定されることになる。しがたって、この人物が行っている振る舞いをたとえば「皮肉っている」などというちょっと複雑な行為をしているとは把握することはできない。だから「<あたかも>皮肉ったかのようなことをした」と把握されることにあり、「なんか笑える」とか「すごい!」といった、「注目に値する」「語るに足る話」となる(この辺と関係するのは、司法領域における年齢と帰責の問題である)。

このように、用いられる概念群が、行為についての認識・評価の仕方を左右している。

さらに別の例。ある行為者の性質や状態についての評価において、人生の段階の概念群が用いられる例。たとえば、行為者に「注目すべき」点や問題を見いだすこと。そして、(ほかでもありうるなかで)人生の段階の概念群によって、見たり語ったりすることがある。たとえば「大人げない」とか「幼児的だ」、「早熟だ」「いい年して」といった評価(B. ウィリアムズのいう「濃い倫理的概念」にあたるのだろう)。こうしたとき、人生の段階の概念連関の順序性が想定され、そこからの逸脱が観察、評価、診断される。さらには、こうした逸脱を、人生の段階カテゴリーを用いて説明する。この場合、説明は、成長や発達上に関連づけた説明となるだろう。

精神分析や発達心理学などが行っているのはそういったことだ。たとえば、逸脱に結びつきのある出来事が、当人の前史に探し求められる。すなわち、関連するだろう何らかの「顕著な」出来事が、自然な人生に即して探し求められる。そのうえでこうした過去の出来事によって、現在の状態が意味づけられ、説明される。

現在と過去との相互構成的な関係。H. ガーフィンケルは、これをドキュメント的解釈方法と呼んでいた。ここでは意味づけ説明する過去は現在の顕著さを出発点に特定され意味が与えられる(遡及的な意味づけ)。そしてこの過去によって、現在はその意味を明確にされ、説明される(遡及による意味づけ)。


【含意】アトキンソンは、こうした人生の時間のことを、自然誌(natural history)と呼ぶ。そしてこうした自然誌は、個人のほかにコミュニティや社会、結婚などの社会関係にもあてはまるという。そして検死官などが行っている作業も、ガーフィンケルやアトキンソン自身が明らかにしたように、こうした一例である。さらには社会学者いうキャリア(たとえばゴフマン由来の「道徳的キャリア」)も、こうした方法的知識の産物である。このように、社会学的分析における常識的な知識を特定する作業にもなっている。

このような形で、人生の初段階をなす概念群やこれと結びついた諸概念からなる「普通の人生」「人生における普通」というものは、具体的観察や説明を作るさいの方法的知識となっている。社会学的知識についても、同様である。こうした方法的知識がそのつどどう使われ、どのような特徴を備えた帰結をもたらせているのか。こういったことを特定していくさいに役立つ論文だろう。個人的にはこの辺りを用いて、年来の課題にもう一度もどってみたいと考えている。

2015-07-31

フーコーとハッキング:実践の可能性条件としての概念空間の探究

これもまた、前エントリーの内容と同様、あるリーフレットの読書案内として書いたものです。フーコーについては何度読んでもわからないにもかかわらず紹介している点が情けないのですが、やはり記録としてそのまま掲示しておきます。


                    *


私たちが何者としてどのような他者とどのような実践を行いうるのかという問いは、ともすると個々人の能力やその偶然的状況についての問いと考えられがちです。とはいえ、こうした「ある能力をもった」個人が、「何らかの人物」として、「特定の実践」を行いうるためには、こうした能力や人物、実践、さらにはそれを支える制度についての理解可能な概念が存在していなければなりません。概念空間というすこし奇妙な用語は、このような個々の実践をその前提として支えている一連の概念連関のことを指しています。そしてM. フーコーやI. ハッキングの行ってきた仕事は、歴史的でローカルな具体的実践に着目しながら、そのつどの概念空間を掘り起こしていく作業だったと言うことができると思います【文献1〜5】。ちなみに彼らがその作業を名指すのに用いた「歴史的存在論」という用語が、具体的実践のなかにあるものとしての概念連関がもつローカリティを強調したものであることを踏まえるならば、彼らの作業は、現在の実践をフィールドにして行われている実践学の作業と緊密な結びつきをもっていることに気づくことができるように思います【文献6〜8】。

  1. M. フーコー(渡辺一民佐々木明)『言葉と物――人文科学の考古学』新潮社、1974年.
  2. M. フーコー(田村俶訳)『監獄の誕生――監視と処罰』新潮社、1977年.
  3. I. ハッキング(広田すみれ・森元良太訳)『確率の出現』慶應義塾出版会、2013年.
  4. I. ハッキング(石原英樹・重田園江訳)『偶然を飼い慣らす』木鐸社、1999
  5. I. Hacking, Rewriting the Soul: Multiple personality and the Science of Memory, Princeton U.P., 1995年.
  6. I. ハッキング(出口康夫・大西琢朗・渡辺一弘訳)『知の歴史学』岩波書店、2012年.
  7. M. リンチ(水川喜文・中村和生訳)『エスノメソドロジーと科学実践の社会学』勁草書房、2012年.
  8. M. Lynch, 2002, "The Contingencies of Social Construction," Economy and Society, 30(2), pp. 240-254.

2015-07-28

精神障害

少し前に、あるリーフレットに記した読書案内です。内容が普通すぎるので案内としてあまり役立たないという反省もありますが、記録として掲示しておきます(ただし、一部の誤植を改めました)。


                    *


精神障害というと 私たちは、まずはそれを持つとされる個人の心理や身体の問題と見なし、これらの内にその原因を求めようとする。あるいはこれとは反対に、精神障害は社会によって作りあげられたものであるとの主張もかつてなされてきた。しかし、これらのいずれの見方からも見落とされてきた事実がある。それは、「誰かが精神障害をもっている」という推測や判断は、文化的に組織された日常生活状況の細部のなかにおいて、そしてそれを不可欠な背景とすることによって、はじめて成立するということである。言いかえるならば、精神障害の概念は、日常生活の組織された状況とのかかわりにおいて意味を得ているということである。こうした視点はゴッフマンによって明確に導入された【文献1, 2】。以後、精神障害について行われてきた実践学的研究は、このゴッフマンの視点を重要な導きのひとつとしながら進められてきている【文献3〜6】。またハッキングが精神障害について提起した「エコロジカル・ニッチ」というアイデアも、その射程の範囲は異なってはいるものの、こうしたゴッフマンの視点と同じ狙いをもっているように思う【文献7】。

  1. E. ゴッフマン(石黒毅訳)『アサイラム――施設被収容者の日常世界』誠信書房、1984.
  2. E. ゴッフマン(丸木恵祐・本名信行)『集まりの構造――新しい日常行動論を求めて』誠信書房, 1980.
  3. J. Coulter, Approaches to Insanity, John Wiley, 1973.
  4. J. クルター『心の社会的構成』新曜社.
  5. H. ガーフィンケルほか(山田富秋・好井裕明・山崎敬一編訳)『エスノメソドロジー――社会学的思考の解体』せりか書房、1987.
  6. ダルク研究会編著『ダルクの日々――薬物依存者たちの生活と人生』知玄舎、2013年.
  7. I. Hacking, Mad Travelers: Reflections on the reality of transient mental illness, University of Virginia Press, 1998.

2015-07-08

社会性・社交性・ソーシャリティ

社会性があるとか、そうした能力がないといった判断基準は、どこにあるのか?


その判断は、個体と個体の出会う仕方にもとづいておこなわれるはずだろう。つまりそうした判断は、具体的な状況における関わりの仕方についてのものであるはずである。そしてその判断は、具体的状況に埋め込まれている。


したがってこの基準も、やはりその具体的状況のなかに、その状況特有の基準として、ある。そしてこの基準のあり方は、この判断がどのような状況においてなされるかによって、大きく左右される。そしてこの状況は、時間的にも空間的にも多種多様である。これまでもそうだったし、現実にそうだし、これからもそうあり続ける。


以上より、社会性をめぐる判断がもつ特徴とは、間個人性、状況性(ゆえにまた多種多様性)というものになると思う。つまり社会的(社交的、ソーシャル)かどうかは、多種多様な状況のなかに埋め込まれた多種多様な基準により、判断される。


親子の会話に参加する、通りで出会った知人とすれ違う、数学だったり体育の授業に参加する、儀式に参加する、親密な相手と身体的な関わりをもつ、赤ん坊とかかわる、認知症の高齢者とかかわる、インターネット上でメッセージを交わす……。それぞれなりに適切とされるかかわり方があるだろうし、そのなかでそれぞれの基準によって個人の社会性は判断されるだろう。


これをさらにまとめていえば、こんな感じだろう。


社会性とは社会的秩序のもつ特徴である(当たり前のこと、だけれども)。すなわち、ある個人が社会的・社交的であるかどうかは、その個人が含まれる状況のなかのひとつの特徴である。また言いかえると、社会性(の程度)の帰属じたいが、それがなされる社会的秩序の一部なのである。


以上を踏まえると、こうした事柄について考えるさいには、つぎのような態度が必要になるだろう。


社会性を、具体的な実践への参与として捉える。その判断の基準も、実践への参与の方法として捉える。したがって、社会的かどうかどうかを測る「単一の基準」などは存在しない。現実の実践の多種多様性に応じて、多種多様な参与の基準があるはずだろう。そしてかりにある特定の個人が、その基準によってこの特性を欠いていると判断されたとしても、それが当の個人の心や身体にそなわる特定の状態と一対一で対応するなどと期待することは難しい。


ここまで述べたことは、ひょっとしたらつぎのようにまとめることができるかもしれない。すなわち、「個人の性能を評価するには、それに先だって・その前提として、消すことのできない形で社会的な秩序が存在する」と。


けれどもそんなふうにまとめてしまうと、おそらくつぎのように反論が来るだろう。「しかしそれは当たり前のことだろう。聴力・視力なんだってそうだ。個体の性能を判定するには一定の社会秩序がある、それだけのことではないのか。聞くことができる。見ることができる。それと同様に、人と関わることができる。どこが違うのか!」

 

もっともな反論だと思う。たしかに検査の仕方とその結果を個人に帰属する手続きを見れば、両者は外形的には同じかもしれない。その意味においては、これらの能力は区別できないだろう。


けれどもそこで帰属される能力の特徴、その能力の性質は、だいぶ異なっているのではないだろうか。上で述べたように、社会的であることの基準は、間個人的・状況的・多種多様なのだから。煎じ詰めていえば、多種多様な多様な「できる」があるはずだろう。そして現実に私たちが知らなかったような「できる」も、この先現れてくるだろう。こうした多種多様性を念頭におけば、こうした「できる」を、個人の内部に個体にそなわる単一の能力として把握することはできないように思う。


これに対しては、たとえば「現実の生活といった曖昧なものじゃなくて、厳密な検査でわかるのだ」と考えたくもなる。でも、これについてはこう述べるべきだと思う。「そのような検査は、現実における多種多様な社会性をどの程度適切に反映しているのか」と。つまりは、現におこなわれているだろう限定されたいくつかの検査によって、こうした多種多様性を捉えられるとは、考えられないように思う。

2015-07-05

ある会議にて

昨日、ある研究プロジェクトの全体会議に参加した。この分野でもっとも進んでいると思われる方々の様々な研究報告を、うかがった。開発中の技術や進行中の実験のアイデアを聞き、登壇者のみなさんの旺盛な探求心に感服した。


しかし基礎的な概念についてのビジョンが欠けているように思われ、この点に――そしてこの点に限り――疑問をもった。


このプロジェクトの主題のひとつは、感覚・知覚経験や社会的場面といった日常生活における様々な困難(あるいは障害)であるはずだ。しかしその知覚経験や社会的行為とは、どのような現象なのか。こうした経験や行為のあり方に対して、脳神経からとられたデータはどのような関係に位置づくのか。乳幼児と大人との相互行為を母子関係として概念化することにどの程度の適切性・有用性があるのだろうか。


おそらくこういった事柄は、このプロジェクトのもとで進められている各研究にとってみると、小さな事柄だと思う。とはいえそうした研究が、他でもなく日常生活における困難の経験やそのような経験をもっている人たちについての研究でありえるためには、こうした点について明確な理解を得ておくことは欠かせないように思う。


40年ほど前、ある社会学者が精神科医たちに対して示した問題提起は、いぜんとして十分に追究されることのないままに残っているように思う。