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2016-11-18

language, not belief


I have wanted, in the foregoing discussion, to distinguish between the beliefs people hold and the language in which those beliefs are expressed and which makes them possible. And I have tried to undermine the seductive idea that the grammar of our language is itself the expression of a set of beliefs or theories about how the world is, which might principle be justified or refuted by an examination of how the world actually is. This temptation is hard enough to resist in the case of our own language; so much the harder when we are dealing with a language the forms of which are alien, and even perhaps repugnant, to us.


  • Winch, P., 1987, "Language, belief and relativism," Trying to Make Sense, Basil Blackwell, 206-7.

2016-11-17

概念についての問い(信念についての問いではなく)


もしわれわれが、アザンデ族が信じている事柄という観点で彼らの妖術制度について考えるとすれば、「では、彼らが信じていることは真なのか偽なのか」という問いを招いてしまうと思われる。私はここで、この問いを招くと思われると述べた。それは実際問題、「信念」(たとえば、「他者の心に存在する信念」)と呼んでまったく問題ない事柄について、しかしつねにこうした問いを立てることができるわけではない、と私は考えているからだ。とはいえしかしこの文脈においては、議論の主題はアザンデ族の信念なのではなく、アザンデ族の概念なのであると述べた方がよいだろう。もちろん、アザンデ族の概念は彼らのもつ信念のなかで用いられ、機能する。そして、特定の文脈において彼らの持つ様々な信念を学び、またその文脈のなかでこれらの信念が彼らに対して意味することや、生活のなかにおけるそれらの信念の意義を探求することによって、アザンデ族の概念が何であるかをわれわれは学ぶことができるのである

  • Winch, P., 1970, "Comment," Borger, R. and F. Cioffi, eds., Explanation in the Behavioural Sciences, Cambridge U. P., 257.

2016-11-16

Comment


ある人物が「妖術師などいない」と述べるのに対し、私が1964年の論文「未開社会の理解」においてこれに反対したとき、私はあのような主張を否定していたのではない。「いや、実際妖術師はいる」などと言っていたのではない。つまり、私がザンデの信念を「是認」していたとかこの人々は「明らかに正しい」と述べているとのジャーヴィーの見方は誤っているのだ。彼の見方について言えば、この人々は「明らかに誤っている」との言い方と同様に、私には理解しがたいものである。「高さというものは存在しない」と述べている高さという概念をもっていない異人は、それについてのこの人の自己理解はともかく、私たちが肯定しているある特定の命題の真理を否定しているわけではない。この人は、自分がある特定の制度についての把握を欠いているということを漏らしているのである。これに対し、私たちは、この制度の文脈のなかにおいて、こうした命題を肯定しているのである。


  • Winch, P., 1970, "Comment," Borger, R. and F. Cijoffi, eds., Explanation in the Behavioural Sciences, Cambridge U. P., 257.

2016-11-15

道徳から見た行為者とその行為


この論点〔道徳が行為者の選択とその理由づけだけにではなく、それがなされる状況しかも行為者から見られた状況に関わっているという論点〕を表現するために、状況、状況が提起する問題、そしてその問題を論じるのに適しいタイプの理由、これらは或る何らかの視点を既に含んでいる、と私は言いたい。そして、当の状況のなかにいる行為者はそうした視点とどのように関係していると私は考えているのか、という質問に簡潔に答えなければならないとすれば、サルトルも同様に言うと思うが、行為者自身がこの視点であると言おう。とはいえ、私はこれ以上サルトルに倣うつもりはない。サルトルはここから先はひどい混乱に陥っているように私には思われる。それは、状況に対してある視点が存在しうる可能性を行為者の問題へ再び解消してしまうことはできない、という点を、彼が明確には理解していないからである。むしろこの可能性は、現行の言語、すなわち個人の発明では決してないところの言語、ここにかかっているのである――サルトルも繰り返しこのように語ってはいるが。


  • Winch, P. 1972, "Moral Integrity," Ethics and Action, Rutledge & Kegan Paul.(=1987, 奥・松本訳「道徳から見た行為者とその行為」『倫理と行為』勁草書房, 251頁.)

2016-11-14

やろうと努めること


私の主要な論点を一般的にまとめて結論としよう。悪いことを行えば人は悪いものになる(キリストの言葉で言えば、人は「けがされる」)。このようにして人が何になるかは、人が入り込んでいる他人との複雑な関係の網の目と切り離すことができない。この網の目が、それ以後の当人の人生に対する道徳的評価として何を語れば理解可能であり、何を語れば理解不可能となるか、その限界を課している。悪いことを行おうと努めながらも失敗するとすれば、人は成功した場合になるようなものにはならず、それによってその人に対する道徳的評価の可能性も違ったものとなる。


  • Winch, P. 1972, "Trying," Ethics and Action, Rutledge & Kegan Paul.(=1987, 奥・松本訳「やろうと努めること」『倫理と行為』勁草書房, 207-8頁.)

2016-11-12

「人間の本性」という問い


人間の本性という概念は、通常は何らかの形の「相対主義」に関連して、社会諸科学の本性や射程をめぐる議論のなかに登場する。時と場所が異なれば人間生活の諸現象には非常に多くの、しかも明らかに排他的な多様性がある、ということに直面すると、我々は、これらの諸現象に通底しそれらを統一するものなど存在するのだろうか、と問いたくなる。しかしこのように身もふたもない問い方をすれば、問は定めし曖昧で、無意味に近いものになるであろう。むしろ我々がそのつど念頭においている人間生活の諸現象それぞれの特殊性に応じて、問自身がそれぞれ異なった形式で提起されるべきであり、又おそらくそれぞれ異なった形で答えられるべきであろう。


  • Winch, P. 1972, "Human nature," Ethics and Action, Rutledge & Kegan Paul.(=1987, 奥・松本訳「人間の本性」『倫理と行為』勁草書房, 100頁.)

2016-09-26

Convergence

ヴィヴラフォン奏者ウォーレン・ウルフ(Warren Wolf)の、この6月にリリースしたジャズ・アルバム。バックは、ベースにC. マクブライド、ピアノにB. メルドー、ギターにJ. スコフィールド。すごいですね。すごいメンツで、みなそれぞれのスタイルで演奏している。だけど、アクは強くなく清々とした印象が残る曲ばかり。出だしの颯爽とした8ビートの曲から、すこし可愛いソロの曲までの11曲。延々と聴いても聴き飽きない、久々の良いアルバム、などと思っています。

CONVERGENCE

CONVERGENCE

2016-09-20

「施設で生きるということ」

  • 有薗真代, 2016, 「施設で生きるということ――施設生活者の戦後史からみえるもの」『世界』887, 49-55.

障害者の施設生活をめぐる既存の価値観、言い換えれば、施設を否定し、脱施設化・地域生活を肯定するという二項対立的な見方に対し、本論は問題提起を行っている。この二項対立は、障害者の脱施設化と地域生活をめぐる見方にもうかがえる。こうした見方は、一方で障害者の施設への意思や障害者とその家族が施設を通じて培ってきた関係を否定し、他方で障害者の生活とそのあり方への意思をまったく置き去りにした予算削減策へと通じるおそれがある。このこと指摘したうえで本論は、こうした施設と地域生活との対立的見方を超えた支援の連帯関係を模索する必要性を述べている。


世界 2016年 10 月号 [雑誌]

世界 2016年 10 月号 [雑誌]

2016-09-10

『精神病と統合失調症の新しい理解』

Cooke, A., ed., 2014, Understanding Psychosis and Schizophrenia, British Psychological Society(国重浩一・バーナード紫訳, 2016, 『精神病と統合失調症の新しい理解:地域ケアとリカバリーを支える心理学』北大路書房)



精神病者への支援のあり方を、疾患を中心にすすめる医学モデルからその社会生活を中心にしたものへと移行させることを強く主張している。そして本書はこの主張を、障害の認識と患者への支援という二つの側面において、展開している。英国の心理学会の報告書の翻訳で、原文は下記からダウンロードできる。以下は、遅まきながらの読書メモ。



まず障害の認識について。患者の支援にとって、精神疾患の診断は二次的な意義しかもたないと本書は見なしている。たとえば統合失調症の「症状」、たとえば「幻聴」や「妄想」、「幻覚」を、本書は体験と表現している。そしてこの体験そのものは、その程度においては多様なものの、いわゆる「精神病患者」に限らずに、また必ずしも耐え難い苦痛としてでなく、体験されていることが述べられる。そのうえで、本書が注目するのは、こうした体験がどのようにして耐え難い苦痛として経験され、異常として認識される振る舞いへと結びついていくのか、である。

この問いに対して本書の示す鍵は、患者の生活とその社会的な状況である。すなわち、患者の社会生活とその中での経験が、これらの体験を耐え難い苦痛として経験させ、また異常として識別される振る舞いへと患者を結びつけていく、ということである。だからと言ってこれらの体験の生物医学的な基盤が否定されるているわけではない。幻聴や幻覚、不安といった体験には、思考と知覚、楽しみと同様、生物医学的な要素が介在している。とはいえ、それらが他ならない耐え難い苦痛や異常として体験されるにあたり、生物医学はじつはレリヴァントではない。こういうことだろう。こうした精神病の捉え方に対応し、本書の提示する支援法も、患者が生きている生活に根ざしたものとなる。障害の認識における生物医学の位置づけと同様、支援においても診断は必ずしも不可欠ではないという認識のもとに、支援方法が論じられていく。

おそらく支援の中心に置かれているのは、患者の認識である。すなわち、患者が自身の状態と生活についてみずから認識を獲得することが、これを支援者とともに共同で形成することが支援の核心をなしている。こうした認識を、本書はフォーミュレーションと呼んでいる。「フォーミュレーションは診断とは異なり、その苦悩の体験がいかに極端、または異常で、抗し難いものであるとしても『あるレベルですべてつじつまが合う』という前提を基盤としている」(72)。このように、患者が自身の困難とそれをもたらす状況について、患者自身が理解を得ることがフォーミュレーションの目的であり、したがって支援の中心もこの形成の支援となる。

この結果、従来の精神医学的診断は、患者支援にあたってはさほど重要性を持たなくなるだろう。「メンタルヘルスにおける診断とは、これまでに述べたように、体験の説明ではなくじつは分類の過程であるために、その意味においての診断の有用性には疑問が呈されているのだ」(73)。このように、フォーミュレーションは、その性質上、精神医学的診断と同じ水準において成立しており、したがって前者にとって代わられうることになる。

さて、こうした支援においてもうひとつ重要な要素となるのは、患者にとっての友人や家族、ピア関係である。患者を支援するために、支援者は家族と友人関係と協力的関係を作り、さらにはこれらと定期的にミーティングを行うことの重要性が指摘される(たとえば患者家族との関係を本書は「家族介入」とよんでいる(84))。そこでは、当事者の状況についての共通理解の形成や、当事者についての認識転換の支援、患者と家族関係についての洞察の促しなどが目的であるという。こうした患者の生活と社会関係を焦点をあてた支援にとって、従来の中心をなしてきた薬物療法は、その意義を限定されたうえで必要な一方法として、位置づけ直されるていくことになる。


2016-07-15

二つの学会報告についてのメモ



2016年7月2日より7月14日まで、ヨーロッパの3都市を訪れた。

目的は二つの学会報告で、これについては下に記す。ちなみにこの二つの学会の合間に少し時間があるのでマンチェスターを訪れ、エスノメソドロジーという研究領域において高名な研究者に研究上の助言をいただくという幸運にも恵まれた(さらに言うと、Against The Theory of Mindという著書の編者のおひとりであるIvan Leudarとパブにてお目にかかり、現在進めている翻訳についてのご協力を得るという信じられない幸運にも恵まれた)。

まずは、二つの報告の情報を記しておく。

  • 7月4日、Atypical Interaction Conference(University of South Denmark)にて報告。Shigeru Urano, Kazuo Nakamura, and Yoshifumi Mizukawa, “Accomplishing understanding via analogy: An analysis of practices of self-directed research by people with mental disabilities”

  https://sites.google.com/site/atypicalinteractionconference/

  • 7月11日、3rd ISA Forum (The University of Vienna)にて報告。Shigeru Urano, Yoshifumi Mizukawa, and Kazuo Nakamura, "Creating “Idiom of of Distress” Collaboratively:An Analysis of Practices of Self-Directed Research By People with Mental Illness"

  https://isaconf.confex.com/isaconf/forum2016/webprogram/Session5788.html



こうした二つの報告、は科学研究費補助金によって2014年より進めている研究の一部にもとづいている。二つの報告では、それぞれの学会の目的にあわせて(前者はよりインタラクションに焦点があてられており、後者は”Language on health and illness"というテーマの部会だった)、強調点を異にしているものの、両方とも、当事者研究という活動を対象としている。

当事者研究については、べてるの家で始まり、またその理念が定式化されて以降、日本や韓国などの研究会に広がっている。とはいえ、それぞれの研究会は、参加者の障害や抱える困難の内容や、設置母体などにおいて、多様である。そこで、それぞれの状況にふさわしい形で工夫しながら当事者研究活動が進められているというのが現状のようである。そして僕たちの研究は、こうした研究会のひとつに足しげく通い、その活動がどのように実践されているのかを理解しよう、というものだ。

実際には結構なボリュームの収録データを得ているのだけれど、今回の報告では、まずはこうしたデータのどのような点に注目するべきなのか、といったイントロダクションにあたるような事柄を紹介した。

具体的に言えば、上に触れたような当事者研究の理念を実際の対面的状況で実現しようとすると相当な難しさとそれに見合った工夫が必要であるよね、ということを紹介した。そのうえで、一見すると何の変哲もないようなやりとりがもっているとても重要な意味についてきちんと目を向ける意義があるよね、という示唆をつけ加えて、今後の作業に繋ぐ、という体裁の報告を行った(この辺りの内容は、この7月に刊行される『保健医療社会学論集』というジャーナルにおける医療コミュニケーション研究の特集(第27巻第1号)において、「当事者研究の社会的秩序について――経験の共同研究実践のエスノメソドロジーに向けて」という(奥歯に物の挟まったような)タイトルで掲載される予定ですので、ご関心のある方はぜひメールなどでお声かけください)。

ちなみに、ここで述べた「難しさ」の中心にあるのが、自身の経験を相互行為において語ることに含まれる難しさである。こうした事柄には、語り手の素性についての評価だったり、受け手による態度の取り方に対する規範的期待だったりと、いろいろと道徳的な含意に関わる難しさがある(この辺りの話は、知っている人は知っているはずだが、もちろんH.サックスが「経験への権利」や「経験の孤立的性格」、「防御的にデザインされた物語」といった言葉で語ってきた事柄である)。上に触れた理念はこうした難しさを乗り越えようとする理念を示している。

だけれど、それではこの理念を、この場でこのメンバーとどう実現するのか、といったことはまた別の話。いろいろなやりとりの組み立て方が必要になるし、いろいろな研究会がいろいろなスタイルを開発している。だからそれをきちんと見ていく必要があるはずだろう。



内容に踏み込んでまとめると、こんな感じの報告を、少しアクセントを変えつつも、上で記した二つの場所で報告してきたのである。いずれの学会においても、部会中やそのあとの立ち話の中で、幸運にも重要な示唆を得ることができた。その中で最大のものは、次のような指摘だった。

お前の報告は、物語り(storytelling)や物語(story)という概念を使っているが、この二つの概念は、常識的に考えてかなり規範的な制約の強い概念で、これにもとづいてお前のやっているような現象を記述していこうってのは、そのままではちょっと無理が大きいんじゃないかな。そもそも物語ってのは、はっきりしたあらすじ(plot)とオチ(punch line)を持っているもののことだ。だから普通の会話の中で物語りをするって時には、語り手は相当おっきなタスクを背負っているわけで、だからあれこれと(例えばstory prefaceなどのような)道具立てが必要になってくるじゃないのかな。

ところで、だ。こんな風に物語りがおっきなタスクを要求するからこそ、とくに道徳的にヴァルネラブルな困難を物語ることはとっても難しいんじゃないか。そしてだからこそ、それを語るための色んな道具立てが必要となるんだろ。この辺りのことはお前(つまり僕のこと)も報告しているとおりだ。それはそのとおりだ。だけれども、こうした色んな試みを呼び指すのに、また再び「物語り」という概念を使ってしまっちゃ、うまくない。むしろこれらの試みは、物語りの制約を超えて、困難を公に口にするための道具立てなんだ。つまり物語りに期待されるあらすじもオチもない、そもそも秩序づけられないいまだに自分にも訳が分からないことを、それでも口にするための道具立てなんだ。それを、ふたたび物語りって言っちゃあ、彼らのやっていることをうまく捉えられないだろ。Alcoholic Anonymousの始めた取り組み(つまりは、言いっぱなし聞きっぱなしのこと)を見ればわかるだろ、な。

こんな感じの指摘を、デニス・デイ(Dennis Day、とても有名だったアメリカのタレントと同名)さんからいただいた。たしかに現象をどう名指すかの指摘という意味でとても些細なように見えるのだけれど、現実に私たちが生活において持っている物語や物語りの概念についての内容とそれゆえの問題をきちんと踏まえた指摘だと思う。ねらいとしては僕もその通りの報告を行ったのだけれど、この点については考えが及ばなかった。その意味でとてもありがたかった。

ただ、疑問は残る。それは、上のようなやりとりを受けて、部会終了後のやりとりのなかで生じてきた。ちょっと僕は訊いてみた。

あなたの言っていることはまったくその通りだと思う。それでは、こうした物語と物語りを超えようとする試みにおいてなされている行為をあなたは何と呼んでるんだろう?

すると彼は、こう答えた。

ナラティブだよ。

うぅーん、と僕。

ストーリーとナラティブとの違いがよく分からないんだけど、その辺、どこが違うの?

すると彼はこう答えた。

ナラティブにはプロットがなくてもいいんだ。だからナラティブって呼んだ方が良い。

ふーん、ちょっとまだ理解できないんだけど、うーん、僕が訊きたかったのはストーリーを超えるものを作る行為を何と呼ぶか、なのだったけれども…。

と、ぼやく僕に向けて彼は、それはtellでいいだろ、それしかないだろ、な。と、こんな感じのニュアンスのことを彼は答えてくれた。

英語についてはふーんというしかない(彼も英語が母語ではないはずだけれども)。あえて日本語で対応する言葉を探すとすれば、「語り」なのかもしれないけど、これも、うーんとうならざるを得ない、常識的にも学問的にも色んなニュアンス(手垢とは言いたくないけれども)の染みついた言葉である。そのようなわけで、ひとまずの課題は、上記のような行為と対象を呼び指すのにふさわしい日本語の言葉を探すこととなった。

小さなことだし、あるいは僕のたんなる知識不足のせいかもしれない。けれど、まずはこの言葉を、勝手に造語しちゃったり借り物で雑に済ませちゃうのでなく、探しだし見つけ出すことから始めなければいけないかな、と感じている。そうじゃないと、社会の成員が実践し、経験している現象を記述するという当初の目的に背くことになってしまうだろうし。




追記

と、とても幸運に恵まれた対価なのか、今回の道中では結構さんざんな目にあった。ひとつはコペンハーゲン駅において財布を(おそらく)すられたこと。もうひとつは、一つ目の報告後に風邪の症状が出てきて、コペンハーゲンでは寝込んでいたこと(デンマークはとても寒かった)。そんなこともあったけど、上記の収穫があったことと、二つ目の報告までには何とか回復して新規内容を少し加味して報告できたこと、そしてウィーンにおいてストンボロー邸を見学できたことこともあり、まあ良かったのではないかと考えている(建物内部の撮影はできませんでした)。


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