社会性・社交性・ソーシャリティ

社会性があるとか、そうした能力がないといった判断基準は、どこにあるのか?


その判断は、個体と個体の出会う仕方にもとづいておこなわれるはずだろう。つまりそうした判断は、具体的な状況における関わりの仕方についてのものであるはずである。そしてその判断は、具体的状況に埋め込まれている。


したがってこの基準も、やはりその具体的状況のなかに、その状況特有の基準として、ある。そしてこの基準のあり方は、この判断がどのような状況においてなされるかによって、大きく左右される。そしてこの状況は、時間的にも空間的にも多種多様である。これまでもそうだったし、現実にそうだし、これからもそうあり続ける。


以上より、社会性をめぐる判断がもつ特徴とは、間個人性、状況性(ゆえにまた多種多様性)というものになると思う。つまり社会的(社交的、ソーシャル)かどうかは、多種多様な状況のなかに埋め込まれた多種多様な基準により、判断される。


親子の会話に参加する、通りで出会った知人とすれ違う、数学だったり体育の授業に参加する、儀式に参加する、親密な相手と身体的な関わりをもつ、赤ん坊とかかわる、認知症の高齢者とかかわる、インターネット上でメッセージを交わす……。それぞれなりに適切とされるかかわり方があるだろうし、そのなかでそれぞれの基準によって個人の社会性は判断されるだろう。


これをさらにまとめていえば、こんな感じだろう。


社会性とは社会的秩序のもつ特徴である(当たり前のこと、だけれども)。すなわち、ある個人が社会的・社交的であるかどうかは、その個人が含まれる状況のなかのひとつの特徴である。また言いかえると、社会性(の程度)の帰属じたいが、それがなされる社会的秩序の一部なのである。


以上を踏まえると、こうした事柄について考えるさいには、つぎのような態度が必要になるだろう。


社会性を、具体的な実践への参与として捉える。その判断の基準も、実践への参与の方法として捉える。したがって、社会的かどうかどうかを測る「単一の基準」などは存在しない。現実の実践の多種多様性に応じて、多種多様な参与の基準があるはずだろう。そしてかりにある特定の個人が、その基準によってこの特性を欠いていると判断されたとしても、それが当の個人の心や身体にそなわる特定の状態と一対一で対応するなどと期待することは難しい。


ここまで述べたことは、ひょっとしたらつぎのようにまとめることができるかもしれない。すなわち、「個人の性能を評価するには、それに先だって・その前提として、消すことのできない形で社会的な秩序が存在する」と。


けれどもそんなふうにまとめてしまうと、おそらくつぎのように反論が来るだろう。「しかしそれは当たり前のことだろう。聴力・視力なんだってそうだ。個体の性能を判定するには一定の社会秩序がある、それだけのことではないのか。聞くことができる。見ることができる。それと同様に、人と関わることができる。どこが違うのか!」

 
もっともな反論だと思う。たしかに検査の仕方とその結果を個人に帰属する手続きを見れば、両者は外形的には同じかもしれない。その意味においては、これらの能力は区別できないだろう。


けれどもそこで帰属される能力の特徴、その能力の性質は、だいぶ異なっているのではないだろうか。上で述べたように、社会的であることの基準は、間個人的・状況的・多種多様なのだから。煎じ詰めていえば、多種多様な多様な「できる」があるはずだろう。そして現実に私たちが知らなかったような「できる」も、この先現れてくるだろう。こうした多種多様性を念頭におけば、こうした「できる」を、個人の内部に個体にそなわる単一の能力として把握することはできないように思う。


これに対しては、たとえば「現実の生活といった曖昧なものじゃなくて、厳密な検査でわかるのだ」と考えたくもなる。でも、これについてはこう述べるべきだと思う。「そのような検査は、現実における多種多様な社会性をどの程度適切に反映しているのか」と。つまりは、現におこなわれているだろう限定されたいくつかの検査によって、こうした多種多様性を捉えられるとは、考えられないように思う。