Hatena::ブログ(Diary)

夢にみる空家の庭の秘密

2015-11-13 【本田△の沈黙】 その1

【本田△の沈黙】 その1

   …… FIFAワールドカップ2010南アフリカ大会前後に見られた『本田△』という「集合知」への観察と考察。

  • (0)【序論】
  • (1)【△への道】
  • (2)【本田△の沈黙】
  • (3)【アーカイヴ】






(0)【序論】


Webを利用するようになって以来、その原理であるWorld Wide Web」という発想には何処かしら根源的な脆弱性が存在しており、「Webの社会的普及」という生存環境の変化の第一世代である我々はそのことに未だ気付いていない、という感覚が常に脳裏を離れなかった。

   ―― (追記1‐②) 【手話とTwitterの媒体としての類似性の観察〜WWWの根源的脆弱性】



本稿は上記(自己)引用部の変奏として書き始められている。

現在の社会の成員は、皆、双方向性の情報媒体に常時接続されている。
おそらく我々はそれに直面した最初の世代なのだろう。
Webとその双方向性は、人と社会を(それと気付かせることなく)『多弁化』させているように見える。
『常時接続された意識』が無自覚に喪失するものとは(人にとって、本来自然でありかつ必要なものである筈の)『沈黙』であると思える。

この状況への自覚を示し、なおかつ納得の出来る対応を示しているような人物をWebの上に探した。……
……該当するような事例は極く少数に限られたが、その中で筆者の目を一際強く惹いたのは(意外と言うべきか)2010FIFAワールドカップ・南アフリカ大会の前後期の【本田△】その人だった。

このような観点から彼に焦点を当てた言説は(たぶん)無かろう。
彼は先ず第一に本邦のプロサッカー選手として最大の業績を納めつつある存在として知られ、同時に国際的に最も著名な日本人男性の一人でもある。
だが来るべき未来には、この時代の特有の宿阿としての『双方向性の情報媒体に常時接続された意識の変性』への先駆的な一つの『解』としてこそ、彼は想起されるのではないか?と感じている。


その十月、私はGとともにモスクワにいた。
ボリシャヤ・ドミトロフカ(××××・××……)にある彼の小さなアパートはその特異な雰囲気で私を驚かせた。
床や壁は隙間無く東洋風のカーペットで覆われ、天井は絹のショールで飾ってあった。
それよりもまず、そこにきた人々―― みなGの生徒であった―― は
沈黙を守ることを怖れなかった。


これだけでも尋常なことではなかった。
彼らはやってきて、座り、煙草を吸い、何時間もの間ひとことも発しないことも稀れではなかった。
この沈黙には何ら圧迫的な、不快なところはなかった。
それどころか、そこには或る落ち着いた感じと、強制されたり、つくられた役柄を演じたりする必要がないという、自由な雰囲気があった。
しかし、たまたま好奇心の強い訪問者があると、この沈黙は異常なまでに奇異な印象を生みだした。
この訪問者たちは、いったん話しはじめると、話をやめて何か感じるのを怖れるかのように休まず話し続けた。
(〜中略〜)
Pなどはいろいろなタイプの人の〈沈黙〉に対する反応をノートにとろうとさえした。
私がその場で気づいたのは、
人々は何よりも沈黙を怖れており、話したがる性向は自己防御に起因し、またその性向は常に、何かを見たり、自らに告白するのを嫌がることに基づいているということだ。

私はすぐにGのアパートのもっと不思議な特性に気づいた。
そこではうそを言うことは不可能だったのである。
うそはすぐにばれ、明白/確実かつ疑う余地のないものになるのだった。

   ―― P.D.ウスペンスキー 『奇跡を求めて』 (浅井雅志 訳 平河出版社) 423〜424頁より引用 ※下線は原文傍点の代わり。太字強調は筆者による。

グルジュフの「沈黙のワーク」についてのウスペンスキーの記述は前稿でも引用した。
この記述はWebの登場する以前に書かれたものであるが、Webが社会的に普及した際に人が直面する問題状況の描出として、未だにこれを超えるものは無いのではないか?と感じる。……

   ※引用とは外部のデータによる論脈の補強だが、当の論脈から一旦離れて読む場合、この引用部はグルジュフとは「何者であり、何を考えていたのか」を示す象徴的な一逸話、とも言えるだろう。
   (グルジュフは人の一般的な意識状態を「眠り―― 本来の能力を制限された状態」だとみなしており、彼の(秘められた)生涯とはその「制限」から解放される為の方策の探求であった。)












〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜












(1)【△への道】



   ■【本田圭佑に「本田△」について聞いてみた。】
      ⇒https://goo.gl/60XOoa



某匿名掲示板界隈において、【△】なる尊称が住民の口の端に上り始めたのはこの動画の少し前からのことらしい。
   (この動画は2009年9月5日に行われたオランダとの国際親善試合の前日のA代表の練習を取材したもの。)

当時の本田がそういった期待を集めた理由は2つ有り、それらは
   【当時のA代表の状況】 と
   【その頃までの彼の実績】
である。



―― 【当時のA代表の状況】について。
(第二期)岡田ジャパン体制は、本来のA代表監督であったイビチャ・オシムが2007年末に急病でリタイアを余儀なくされたことを受けて、急遽用意されたものだった。
オシムの2003〜2006のジェフ千葉時代の手腕は疑いようの無いものであり、また彼の発言は(プロ・スポーツの監督というよりも寧ろ)賢者の風格を感じさせるものであり、(前回のW杯2006ドイツ大会をグループリーグ最下位の結果に終わった)A代表を一つ上の段階へと導いてくれるのではないか?というファンの期待は大きな昂りを見せていた。
だが、岡田ジャパンの戦績はそれに応じ得るものでは無く、捌け口を与えられなかった期待は狼狽から閉塞感へ、やがてスケープゴード探しから人身攻撃へと(順調な)発達のさまを示した。

   ■「負けろ、日本。未来の為」
      http://goo.gl/LzlY8C
   
   【参考資料】
      ■もはや神風頼みしかなくなった 2010年6月8日
      ■苦く悲しい「つなぎ」なき勝利 2010年6月18日
      ■日本のW杯史上、最も感動的な敗北 2010年6月22日
       ■本田に同感“日本はまだまだ途上国” 2010年6月28日
      ■選手能力任せここが限界… 2010年7月2日
      ■“結果オンリー”の岡田監督は名将ではない 2010年7月5日
            


2014ブラジル大会さえ過去のものと化した現在であれば、誰もが2010南アフリカ大会でのA代表が大きな成功を納めたことを知っている。
だが当時においては、大方の予想は「3戦全敗」であり、Web上の言説は悲観論一色に染まっていた。

インターネット掲示板やツイッター上を中心に、かつて岡田に対する非難や不信感を表明していた者からの「謝罪」の表明が相次ぐ事態となり[25][26]、「岡ちゃん、ごめんね」という言葉は2010年の新語・流行語大賞にもノミネートされた。

   ―― (Wikipedia日本語版 「岡田武史」 W杯南アフリカ大会の項より引用)

この引用部が象徴するように、南アフリカ大会でのA代表の成功は殆どの者にとって青天の霹靂の如きものだった。
とは言え、大会直前の公式戦において岡田ジャパンは4連敗を喫しており、当時のバッシングも幾分は理解されるべきものだったのかもしれない。

  • 4月07日 セルビア戦(キリンカップ2010) 0−3 ●
  • 5月24日 韓国戦(キリンカップ2010) 0−2 ●
  • 5月30日 イングランド戦(強化試合) 1−2 ●
  • 6月04日 コートジボワール戦(強化試合) 0−2 ●
  • 6月10日 ジンバブエ戦(急遽組まれた変則的な非・公式試合) 0−0 △

   ・・・・・・・・・・・・

  • 6月14日 カメルーン戦(W杯GL) 1−0 ○
  • 6月19日 オランダ戦(W杯GL) 0−1 ●
  • 6月24日 デンマーク戦(W杯GL) 3−1 ○……グループEを2位で突破
  • 6月29日 パラグアイ戦(W杯決勝ラウンド1回戦) 0−0 △(PK3-5 ●)……16位

だが、5月30日のイングランド戦を観戦したオシムは、(岡田ジャパンの成功を予見するかのような)「互角」との評価を下し、特に(教え子の)阿部のアンカーとしてのプレーには(平素の慎重さを保ちつつも)殆ど最大級の賛辞を与えている。
   ■【国際親善試合 イングランド vs 日本】試合後のイビチャ・オシム氏のコメント(10.05.31)
      http://goo.gl/lmcgYg

ジンバブエ戦は、6月8日に発表された時点での対戦相手はモザンビークであり、急遽行われたマッチングにスタッフが苦慮した様が伺われる。
      http://goo.gl/PjXClZ

FIFAの規約では国際Aマッチは大会5日前までしか認められていない為、ジンバブエ戦は(トレーニング・マッチ扱いしか認められず、故に)JFAの公式戦アーカイブには記載されていない。
ジンバブエ戦のメディアのレポートを眺めると、「見れば見るほど憂鬱にさせられる」という“rush in where angels fear to tread”式の放言によって文末が飾られているが、これが当時の「場の空気」であり、かつメディアの偽らざる本音だったのだろう。
      http://goo.gl/NnOKP6

筆者個人としては、南アフリカ大会は商業メディアの「欺瞞性」が見紛うことの出来ないかたちで曝け出され、Web上に記録された一つの事例として記憶している。
オシムは日本のサッカー選手やその指導/育成環境それ自体に対してよりも寧ろ、それを取り巻くメディアへの不満を隠そうとしなかったが、この言わば「黒歴史」からは「戦争はマスメディアによって起こされる。」という彼の言葉が連想させられる。
岡田監督は約10年前にもA代表を引き受けている(1998年W杯フランス大会)が、前回も急な登板であり、その時は3戦全敗の結果に終わった。
彼のA代表監督への再就任と「ベスト4入賞」を目標に掲げたことの理由、および自らの方法論については2009年12月の自身の母校での講演に詳しいが、これは一読の価値が有り、口直しとしてここに引きたい。
   
   ■【岡田武史氏が語る、日本代表監督の仕事とは】
      (1)http://goo.gl/JCiVOu
      (2)http://goo.gl/JW3ckQ
      (3)http://goo.gl/3Moib7
      (4)http://goo.gl/xJf5GL
      (5)http://goo.gl/oNccHq 
      (6)http://goo.gl/7o8alF 
      (7)http://goo.gl/tGBqML



―― 【その頃までの彼(本田圭佑)の実績】について。
【本田△】という称号が定着したのは南アフリカ大会の前後にかけてであろうが、それ以前の彼の国内世論における一般的なイメージとは「(実力を伴わない)ビッグマウス」であるように見えた。

   ■「試合には負けたが、サッカーでは勝った」
      http://goo.gl/8WiW4F
   ■3戦全敗の反町ジャパンに造反劇、本田圭選手の発言に批判殺到。
      http://goo.gl/D5mQRm

そのイメージが一般的に定着したのは、2008年夏の北京五輪の帰国会見以降のことだろう。
彼は男子サッカー部門において、U−23代表としてグループリーグ3戦全てに先発したが、チームは3戦全敗・無得点の敗退に終わり、期待されていた決勝リーグ進出は叶わなかった。
帰国後の彼の発言は(造反の主唱者として)舌禍を引き起こし、それ以降国内メディアでは「ビックマウス」というレッテルを以って彼を語ることが様式化した。
この「(人身攻撃的な)批判」こそ、彼が公人として国内のWeb上に登場して獲得した初の「世評」だったように思う。



より詳細に眺めると、彼のプロ・サッカー選手としてのキャリアは名古屋グランパスに始まる。
主戦として星陵高校を全国高校選手権で初のベスト4に導いた彼は、卒業時には複数の国内クラブからのオファーを獲得する程度の注目度を集めていた。
彼が契約を交したのはグランパスであったが、彼は程無くスタメンを獲得し、試合中FKを任される機会もあった。
彼はグランパスで3年を過したが、その間のクラブのJ1での成績は14位・7位・11位だった。
中学校卒業時に地元クラブ育成部門への昇格が得られなかったこともあったが、一般的な観点から見れば、彼は一市民としては十分な成功者と言えるのかもしれない。
だが、J1での実績は彼の心を満たすものではなかったらしく、彼は2008年1月にオランダの地方都市フェンローへ向けて旅立った。
   (なお、J1で確たる実績を築く以前の海外挑戦は、彼が初の事例であるらしい。)




VVV・フェンローで過した延べ3シーズン/2年に満たない時間は、【△】たる彼のスタイルの確立期であったように見える。
この時期、彼はクラブ内のみならずホームタウンの英雄であり、オランダのサッカー界で全国的な注目を集めていた。
VVVの公式HPの「クラブ史」の項は、「クラブの栄光」の頁の画像として、08〜09シーズンのオランダ2部リーグ優勝凱旋パレードで優勝杯を掲げる彼の画像を載せており、
      http://www.vvv-venlo.nl/nl/club/Historie/Erelijst
      (※マウスホバーでカラー化します。)
また、「VVVの著名人」の項は、彼をクラブ史上最も顕著な貢献者6人の内の一人として銘記している。

「その比較的短い在籍期間にもかかわらず、Hondaは決して消える事のない印象を我々の心に残した。」

       http://www.vvv-venlo.nl/nl/club/Historie/BekendeVVVers

南アフリカ大会前に放送された特集番組を見ると、彼がこのクラブにもたらしたものと同時に、彼がクラブを巡る人々(監督やチームメイト、地元メディアや街に住む人々)から与えられたものを現在でも確認できる。
      https://www.youtube.com/watch?v=Sv9YvaZKMoM
      https://www.youtube.com/watch?v=24S1oy7SlFI

フェンローの街は彼が真の自分自身に近づく機会を与えたが、そして彼が手に入れたものは人々の予想を超えたものであり、それは彼らを熱狂させた。
シーズン半ばの移籍だった1シーズン目(2007-2008)はクラブの2部降格を防ぐことは出来なかったが、2シーズン目(2008-2009)は攻撃の主軸としてクラブを牽引、主将として2部リーグ優勝を果たし、シーズンMVPを獲得するに至った。
      https://www.youtube.com/watch?v=HsFqZpdi3yY

これは(2008-2009シーズンの)2部リーグ優勝凱旋パレードのVenloファンの手によるオーディエンスショットだが、

 “Featuring our star player: Keisuke Honda, next year probably playing for PSV, AZ or AJAX.”

本田を愛する地元ファンは、クラブの快挙を街を挙げて祝いつつも(国内の金満クラブからの来期のヘッドハントを心配して)どうやら手放しで喜べなかったものらしい。

地元ファンのこの心配は、その時は杞憂に終わる。
「その時」というのは、(名古屋グランパスのときと同じく)オランダリーグでの成功は本田の心を満足させてはいなかったが、next yearの移籍交渉は彼にとって不調に終わったからである。
彼の心は(その少年期から一貫して)欧州4大リーグのフィールドの上だけにあり、彼はVVVでの実績を元手に次年度のステップアップを熱望していた。
だが、VVVが財政面の問題で譲歩しなかった―― 高い値段を付けた―― 為、折り合えるクラブが現れず、次の(冬の)移籍シーズンまでの約半年間、彼は1部リーグに昇格したVVVの主将としての日々を過した。

      https://www.youtube.com/watch?v=F1jHyZasCQU
これは2009-2010シーズンのオランダ1部リーグ第二節、ADO戦(ホームゲーム)での一幕だが、クラブの「皇帝」として君臨する当時の本田の存在感が垣間見える。
この乱闘騒ぎの真相については、中田徹氏の(直接取材に基づく)記事が詳しい。

   ■VVV本田、乱闘騒ぎに「“やる”という姿勢を見せたかった」〜オランダからの叫び〜
      http://goo.gl/95eRk0
      http://goo.gl/4NYZw3

当時オランダ1部リーグのスタジアムに木霊していた「Honda」コールを、即時的に(A代表へのバッシングが嵐のように吹き荒れていた)国内世論に伝えていた邦人記者はオランダ在住の中田氏であった。
(「オランダからの叫び」は本田を観察するにあたっての第一級の資料だが、論脈上ここではその詳細に触れず、後述することにする。)



本田のCSKAへの移籍は2010年1月に発表されたが、「VVVからCSKAへの移籍〜南アフリカ大会終了」までの期間は、本田の評価が「オランダ国内に限られた」ものから「国際的な」それへと向上した時期に当たる。

ロシアの国内リーグは3月から始まる。(※2012年度まで。)
だがクラブは昨年12月8日にUEFAチャンピオンズリーグ・2009-10グループリーグの勝ち抜けを決めており、グループG首位通過のセビージャFCと対戦するラウンド16のホーム戦は2月24日に、アウェイ戦は3月16日にそれぞれ予定されていた。
(本田の立場から見れば、CSKAがUEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメントに出場することこそが、この移籍の大きな魅力だった。)
ホーム戦は1−1のタイに終わる。
移籍したばかりの本田は83分出場するが、UEFA公式の広報も新加入の彼について好意的にレポートしている。
      http://goo.gl/RvZQyR

続くアウェイ戦は、CSKAおよび本田自身、そして何よりも岡田ジャパンにとって運命の岐路となる一戦となった。

「本田圭佑の1得点1アシストの活躍により、CSKAがUEFAチャンピオンズリーグで初のベスト8進出を決めた。―― UEFA.com」

      http://goo.gl/jQWGON

   ※英語版にはインタビュー映像あり  ■Honda stars as Army Men march on
      http://www.uefa.org/news/newsid=940747.html

この日本田はマン・オブ・ザ・マッチに選出され、自らが世界レベルで通用するプレイヤーであることを証明した。









UEFA公式の日本語版広報の記事は、大まかに「速報」と「特集」の2つのカテゴリーに分けて書かれている。
1月のCSKA移籍から6月の南アフリカ大会の間、UEFAは(「UCL速報枠」とは別に)本田に「特集枠」で数回の個別インタビューを行っているようである。

「1回目」は、2/10に行われた新加入選手への(と思しき)インタビューだが、本田は移籍の理由を問われて「一段高いレベルでのプレーを目指した為」と答えている。
   (1回目-前半)■「本田圭佑、新天地での体験を語る」(2/10)
      http://goo.gl/EC7vcP
   (1回目-後半)■「高みへ挑み続ける本田圭佑」(2/10)
      http://goo.gl/od3atA

「2回目」のインタビューは、CSKAがクラブ史初のUCLベスト8進出を決めた後に行われた。
UEFAの設問は、(サッカー先進国たる)彼らから見て本田が「UCL準々決勝に出場する初の日本人」であり、かつ「決勝トーナメントで初得点した日本人」である、という枠組みに添った上での好意的な設問だったが、彼の返答は「日本人初という言葉は好きじゃない」というものだった。

「勝てて次のステップに進めたというのが、今日の一番の喜び。世界でプレーしている選手にとっては、日本人初など関係ないことなので、どうせなら、世界でトップになることを目指してやっていきたい。自分たちはまだ(UCLの)ベスト8にたどり着いただけです」。強敵セビージャを下したことも、彼にとっては一つの過程にすぎないようだ。

   (2回目)■「殊勲の本田、さらなる高みを視野に」(3/17)
      http://goo.gl/VN9OUl

「3回目」はUCL準々決勝のインテル戦・第1戦(3/31)の前に行われ、計4つの記事に分けて掲載されている。
   (結果論としては、第1戦、第2戦とも0−1に終わり、CSKAの更なる上位進出は果たされなかった。―― なおこの年のUCL優勝チームはインテルだった。)
UEFAの設問は、(眼前のインテル戦についてのみならず本田のサッカー選手としての来歴やA代表での抱負についても触れる等)多岐に渡っている。
この記事を通じて窺えるのは、国際的な注目度の上昇の様と共にエキゾチックな取材対象へのUEFAの興味の深さであり、それは図らずも我々が今知っているような本田のVisionと人物像を活き活きと描出している。

   (3回目-①)■「本田圭佑、準々決勝を前に思いを語る」
      http://goo.gl/WztfOY
   (3回目-②)■「本田圭佑、インテル戦では心構えを重視」
      http://goo.gl/OAzfbu
   (3回目-③)■「幼少期の夢を叶えた本田圭佑」
      http://goo.gl/LOzfKA
   (3回目-④)■「本田圭佑、代表での抱負を語る」
      http://goo.gl/JpNIJ1

本田が現時点で最も世界的な成功を納めつつある日本人選手であることは誰の目にも明らかであり、南アフリカ大会を控えた岡田ジャパンの低調と相俟って、彼のA代表における去就は国内世論の注目を集めずには措かなかった。

   「本田が代表の新しい顔・初の単独CM」(2010 3/21)
      http://goo.gl/5nQOKN

「過去のサッカー選手の単独起用は元日本代表の中田英寿氏、現役ではFW三浦知良(横浜FC)、MF中村俊輔(横浜)ら日本代表の顔となる選手がそろう。本田もCM業界から認められた形だ。」


■「言わせろ!Number<結果レポート>本田圭佑こそ日本代表のエースか?」(実施期間2010 3/25〜4/7)
      http://goo.gl/Zn8M91

■「凱旋帰国!本田圭佑緊急記者会見速報!」(2010 5/16)
      http://goo.gl/niQw4O
      (※コメント欄は当時の空気をありありと伝えているので通読を推奨します。)

【△】のイメージは、言わば逆輸入のかたちで国内世論に伝えられた。
だがそれは無批判に受け入れられた訳ではない。
事実、彼はVVVを二部リーグ優勝に導いた頃からコンスタントに召集されていたが、彼が加入したことの効果はなかなか(今言うのであれば、南アフリカ大会が始まるまで)目に見える結果を示さず、彼の能力およびA代表とのマッチングに対する疑問視の声も無視出来ぬ規模で存在した。

   ■【日本代表】中村俊輔の苦言が気になったオランダ戦〜本田圭佑という強烈な個の融合は不可能か?
      http://goo.gl/o3svJc
   
   ■FK巡り口論?本田で日本崩壊/親善試合
      http://goo.gl/5tGGfj

本田がCSKAからA代表に合流したのは南アフリカ大会緒戦(カメルーン戦6/14)の約1ヶ月前であり、この短い期間には4試合が詰め込まれていたのは前に見たとおりである。
5/24に行われた韓国戦のレポートは、(日本との縁が深く、当時マンチェスター・ユナイテッドの不動のレギュラーであった)パク・チソンの次のような不吉な言葉を伝えている。
   ■「僕が京都に居た時より、確実に日本は弱くなっている。」
      http://goo.gl/KBVnXz



岡田監督は周囲の喧騒をよそに戦術の模索を続け、ジンバブエ戦(6/4)で漸く(または、人知れず)彼の最適解を見出すに至った。
だが、この1ヶ月弱の期間は、A代表に関わる全ての者が追い詰められ、安らかに眠られもせずそれぞれの孤独な時を共にしていたのではないか、と思う。
そして追い詰める者たちもまた、何ものかに操られ、その見えざる手によって使役されているかのようだった。

国際的な実力、注目度共に群を抜き、(北京五輪の前例からして)持ち上げても叩いても大きなリターンが見込み得る本田のニュースバリューはA代表随一であり、メディアが彼に殺到するのは必然の帰結だった。
だが彼は、(人々の思惑を反故にするかのように)誰もが予想すらしなかった奇妙な振舞いを始めた。












〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜












(2) 『本田△の沈黙』



―― ここで漸く本稿の本題に至る。
この章では『沈黙』への「Web上のメディア」の反応の事例を時系列で観察する為に―― 南アフリカ大会前後の2010・5/23から2014・3/12までの約4年間に渡る―― (A)(H)の8つのWeb上の商業メディアの記事を集めた。



Webの情報媒体としての画期的な特質とは、情報の流通の速度と量が既存の媒体と比べて桁違いであることと、かつ情報が双方向性で流通することであるだろう。
Webが社会全域に普及して久しいが、それが人に及ぼす変化の一つとは「共同体の成員全ての意識がかつて無く密接な相互の距離に置かれること」ではないか?と思う。
この(社会規模での)「変化」を「進化」に準えて歓迎する向きもあるのだろうし、現在ではそれが主流なのだろう。
だが、この傾向は何かしらの著しい「退化」の要素も潜在しているように感じられる。

また、「メディア」というものの―― 古今変ることのない―― 本質とは、「需要への供給」であって、それ故メディアの言説の凡そは、実は「読者」更に「その帰属する共同体全体」によって書かれている、とも言える。
つまりメディアとはそれが属している共同体の「集合知」の自律的な集積装置でもあるのだろう。
(この「集合知」は、「時代精神」の語で換言可能な場合もある。)
そして「Web上のメディア」の性質とは、言わば「Webの特質」と「メディアの特質」の「化合物」なのだろう。

記事群に見られる『本田△の沈黙』への反応の様に注目されたし。
それらは(気付くと気付かないとにかかわらず)我々がその裡で生きているところの「時代精神」の「声ならぬ声」なのである。



まず(A)(B)だが、両者は共に5月24日に行われた韓国戦の前日のA代表合宿への取材である。

(A)[2010・5/23]
■【サッカー/日本代表】本田圭佑、元名古屋の先輩・山口素弘氏のインタビューに応じずバスに乗り込む
   http://goo.gl/yoIDqA

……(A)は元記事が見つからなかった為、元記事についての匿名掲示板のスレを引用するが、元記事の題は
■本田 不言実行!集中力高め結果残す
というものだった。

得点能力を期待されるレフティーは、普段の多弁な姿から一変、報道陣の問いかけに終始無言を貫いた。
(中略)
北京五輪代表、そして、岡田ジャパンで度重なる“本田節”を炸裂(さくれつ)させてきた男が、取材に一切応じなかったのは、初めての出来事だ。
ただ、それも「結果」がすべてであることを自覚しているからこそだ。

この記事からは、
   ●メディアの既存の本田のイメージが「多弁」および「雄弁」であること、
   ●今回の取材時の本田の言動が(記者の予想を裏切り)それとは異なったものであったこと、
が読み取れる。
最後の一文は(かけ離れた二つのイメージを整合するための)記者の憶測と思われる。



(B)[2010・5/23]
■トップ下で先発濃厚の本田「自分ができることは日本の中では数少ないものと自覚してる」

   http://goo.gl/q3eGbA

「ゲーム前は、どこかで自分をコントロールしないといけない。自分のメンタルの中で、しゃべりすぎている自分がいる。それだと自分のことができない場合がある。自分をコントロールしないと。そのためにも、今日もしゃべりたくなかった」
本田はここ数日、口数が激減した理由をこう説明した。本人はそう思っていなくても、ファンは“救世主”だと信じている。
“ビッグマウス”をあえて少なくしたのも、すべては勝つため。周りの期待に応えるつもりだ。

太字強調部(筆者による)は直接話法での『本田△の沈黙』の解題であり、この記事の一次資料としての価値は高い。
(このくだりを読むと、ロシアのスポーツ・トレーニングのカリキュラムにおいては、ワークの援用が一般化しているのではないか?と想像する誘惑に駆られる。)
ここに(それと理解されることなく)描かれ開示されているのは、誰もが多弁化しつつあるこの時代では滅多に表面化することの無い、人の或る傾向への深刻な指摘である。

彼は「渦」の中心に居た。
メディアの注目は彼の一挙一動全てに注がれていたにもかかわらず、その時彼と最も近い距離に居た筈の記者たちの中からは、その真意を汲む者は誰一人として現れなかった。
「彼は世に在り、世は彼を知らず。然るに世は彼に拠りて成りにしものを。」―― ヨハネの福音の一節に準えるのであれば、
「然るに」南アフリカ大会の成功は(A代表の全4得点の内で2得点1アシストを記録し、全4試合中実に3試合でMOMに選出された)「彼に拠りて成りにしものを。」、と言うことも出来るだろう。

そこにきた人々は沈黙を守ることを恐れなかった。―― これだけでも尋常なことではなかった。

   ―― ウスペンスキー「奇跡を求めて」前掲部の再掲 ※太字強調は筆者による。

結句は((A)と同様の)憶測だろうが、これは我々がその裡で生きているところの「時代」が『沈黙』を扱う流儀の一標本として受けとめても良いだろう。
……『沈黙』を選ぶ真意がそれを直視する勇気に欠けた者たちの目に映ることは決して無い。……共同体は「見慣れぬ理解不可能な」事象を「見慣れた理解可能な」それに歪曲しすり替える一連の手順を通じて自らの存続を図るのが常であって、その作用機序は「同調圧力」とも呼び為されている。



(C)[2010・5/29]
■本田1人練習で走り込み「気持ち高める」
   http://goo.gl/MLXJ00

本田 もうオレは、あまり話したくないです。試合2日前は話さない。自分の中で気持ちを高めていかなければいけないのでね。申し訳ないですけれど、話しかけられてもこたえられません。
(中略)
奇跡を起こすため、本田は極限まで自分を追い込んでいく。

(例に拠って)太字強調部は筆者による。
この一節も(前記事と同様)直接話法での『本田△の沈黙』の解題の一変奏であると言える。
前記事二つと併せて、言外に浮き彫りにされている彼と記者たちの思惑の解離の様とは何だろう?

記者たちは社会的に成熟した大人の筈であって、また(フェアな言い方ではないが、「高卒の」彼と比べて遥かに)高い学歴を備えている筈だろう。
にもかかわらず、その言葉は一様に空疎に響き、まるで操り人形でもあるかのように同じ「不在」を露呈している。

今顧みるのであれば、「渦」の中心に居た一人の若者を巡って同心円状に展開していた孤独と断絶の深刻さには同情を禁じ得ない。
だが筆者の想像は、あの当時彼はそのことを殆ど意に介してはいなかったのではないか?と信じる方向に傾いている。
A代表のグループリーグ第一戦、運命のカメルーン戦は約二週間後の6/14に迫っており、それは彼が「本当の彼」になる為の千載一遇の契機であって、その当時彼の想いは全てそれへの準備の為に充てられていたであろうから、である。
「自由」と人は言う。
だが「自由」には2種類あって、「〜からの自由」「〜への自由」がそれにあたる。
人が無理解から自由になっても、それはその人が本当にその人自身になる自由を獲得することとは別の問題であるのだが、しばしば両者は混同され同一視されている。
(実際には「〜からの自由」の獲得は「〜への自由」を保障しないことが殆どであるにもかかわらず、前者を後者とすりかえる種の自己欺瞞が後を絶たないこととは、後者の獲得が前者より遥かに困難であることの裏返しの証言なのではないか?)
全ての人はその人固有の困難な人生を歩んでいる。
だがその困難に傾注することの誘惑は(唯一の「観測者」たるその人自身にとって)抗い難いものであると同時に、それは自己憐憫に惑溺させる陥穽でもあるのであって、人をその最良の可能性から遠ざけているような事例がWebのそこここに散見される。
時間は限られたものであり、故にそれは些事ではなく最良のものの為にこそ優先して捧げられるべきだ、と思う。
   (これは倫理的な判断というよりも、単に能率の問題として処理されるべきだろう。少なくとも筆者の経験ではそうである。)



(D)[2010・6/15]
■本田が満額回答「ストライカーじゃない」  (2/2ページ)
   http://goo.gl/7iYsh1

普段は実に冗舌な本田だが、この日も「あまりしゃべりたくない」とコメントは最小限にとどめた。
それこそが欧州チャンピオンズリーグを戦う中で発見した集中方法で、試合前日となればチームメートとも話をしない。

集中を切らさないよう、神経を使うのも、次戦を見据えるからこそ。「オランダはこんなに甘くはいかない。いいスタートが切れたけど、大事なのはここから」。
同国のVVVフェンロで得点感覚を磨き上げた24歳は、E組最大の難関撃破へ、いっそう気持ちを高ぶらせた。


この記事はカメルーン戦終了後のものである。
日本A代表は予選グループリーグでは抽選によりE組に振り分けられていたが、他の3チームは(今大会準優勝の結果を残した)オランダ、デンマーク、カメルーンだった。
下馬評で頭一つ抜けたオランダを除外視してさえ、デンマークとカメルーンは当時のA代表より格上と見なされており、万が一A代表に決勝トーナメント進出の可能性が有るとしたらそれはカメルーンとデンマークに競り勝っての2位抜けであろう、というのが戦前の大方の予測だった。
第一戦の「オランダVSデンマーク」(2010/6/14)は(予測通り)2-0でオランダの勝利に終わった。
同日に行われた第二戦、「日本VSカメルーン」(2010/6/14)は1-0でA代表が予想外の勝利を収めた。
(この勝ち点3をもぎ取る虎の子のスコアを記録したのは39分の本田のゴールである。)
A代表が勝ち点3を獲得したのと比較して、「2位抜け」のライバルであるデンマークとカメルーンは共に勝ち点0であり、青天の霹靂の如く現実味を帯び始めた決勝トーナメント進出の可能性に国内世論は俄然として色めき始めた。
続く6月19日の第二戦、A代表はオランダ戦で敗北を喫しこそすれ、スコアは最小失点差の0-1に留められた。
同日に行われたデンマークVSカメルーン戦は2-1のデンマークの勝利に終わり、カメルーンは同日付けでグループリーグ突破の切符を永遠に失った。
なおかつ、A代表の2位抜けのもう一つのライバルであるデンマークは、6月24日の第3戦、A代表との直接対決で勝利/勝ち点3を獲得しない限り、勝ち抜けの可能性を得られぬことが確定した。
   (……なお、現在の我々の知るとおり、デンマーク戦は本田(無回転)と遠藤(カーヴ)の2本の対照的かつ甲乙の付け難い2本のFKによる得点、および本田の(目の覚めるようなCruijff Turnを交えての)1アシストによる3-1の完勝に終わり、A代表は決勝トーナメントへの切符を手中にした。)

この勝利は(「ベスト4入り」を掲げた岡田ジャパン自身を除く)国内世論にとって「望外の喜び」だった。
このような場合報道記事の成功は約束されたも同然であって、自然と文面全体が開放感に満ちている。
スポーツ報道としての様式(というか限界)は依然固持されてはいるものの、この記事の特筆すべき点とは、彼の『沈黙』がサッカーという競技の為の「正しい」方法論として語られていることだろう。
これは、それまで「逸脱」であった筈の『沈黙』が、それがもたらした結果を勘案されることで共同体から容認されるに至ったのだ、と思われる。
しかし、その容認とは損得勘定に基づく表面上なものに過ぎず、両者は依然として永遠に断絶している。



(E)[2010・8/26]
■<モスクワ直撃取材>本田圭祐『革命児の美学』
〜ついに明かした“W杯を語らない理由”〜南アフリカW杯後、メディアから本田圭佑の「声」が消えた。(中略)なぜ、本田圭佑は口を閉ざしたのか?
   (1) http://goo.gl/QEw74F
   (2) http://goo.gl/gCj1Jv

南アフリカW杯後、メディアから本田圭佑の「声」が消えた。
TVをつけても、新聞や雑誌をめくっても、本田がインタビューに答えている姿が一切見つけられないのだ。
W杯で活躍できず、戦犯扱いされていたのなら、メディアを避けても不思議ではない。だが、本田は日本のベスト16進出に貢献したエースなのだ。にもかかわらず、「声」を残さず、そのままロシアへ旅立った。
なぜ、本田圭佑は口を閉ざしたのか?

―― 本題に入りたい。本田くんがW杯について話したくないのは、サッカーのスタイルに不満があって批判的な内容になるからだと想像していた。
―― なるほど。ただ、ある意味、それは「勝ち逃げ」だよ。W杯で本田くんは日本で一番のサッカー選手になった。それでしゃべらないというのはどうかと。
―― 確かに日本は盛り上がりすぎたのかもしれない。
―― お祝いムードに水を差したくなかったから、TVに出なかったのかな?
―― 確かに今、質問に答えてくれている。
―― ただし、しゃべらないということも、ある意味、自分に跳ね返ってくると思う。たとえば2006年W杯後、語らない選手が多かった。でも、そのときちゃんとメディアに出た遠藤保仁や中澤佑二は、4年後活躍した。自分の中に溜め込むのもよくないと思う。
―― メディアも申請してダメでしたであきらめていたら、日本サッカーも強くならないと。


この記事は南アフリカ大会の約2ヵ月後に書かれているが、ロシア〜モスクワでCSKAの練習に参加中の本田へのインタビューに基づいている。
この記事の(Webに公開された範囲内での)前半部は「ついに明かした“W杯を語らない理由”」のレポートであり、後半部は「革命児の美学」=本田のサッカー観のそれである。
本稿の『本題』と関係するのは前半部であり、その部分(約20分ほどの現地モスクワでのインタビュー)における記者自身の発話のみを抜粋して列挙した。

「ついに明かした」とは記者本人の願望の吐露とみて差し支えないだろうが、それはこの記事(のWebに公開された範囲内)では遂に読者の目には示されていない。
まず、記者は『本田△の沈黙』を「何らかの秘められた目的に基づく代償行為」だと断定しており、その自らの推測を保証する言質を得ようとしきりに誘導を繰り返している。
次に、その延長として「秘められた目的」を何とか聞き出そうと努めている。
記事を通じて窺えるのはその二つ位だが、本稿の観点からは、記者の脳裏からは沈黙それ自体の目的性―― 「沈黙それ自体への志向」という可能性が始めから除外されている点に注意を促したい。

この沈黙には何ら圧迫的な、不快なところはなかった。
それどころか、そこには或る落ち着いた感じと、強制されたり、つくられた役柄を演じたりする必要がないという、自由な雰囲気があった。
しかし、たまたま好奇心の強い訪問者があると、この沈黙は異常なまでに奇異な印象を生みだした。
この訪問者たちは、いったん話しはじめると、話をやめて何か感じるのを怖れるかのように休まず話し続けた。

   ―― ウスペンスキー「奇跡を求めて」前掲部の再掲 ※太字強調は筆者による。



我々が今その裡で生きているところの社会は、高度に観念化されている。
我々は物理現象の中で生きるのと同じ位、共有された観念の中で生きることに慣れている。
現実のかなりの部分を占めているところの「観念」は、主に言語を介して共有される為、「沈黙」は共同体の一員としての資質の欠如、若しくは共同体全体への敵対行為と見なされる傾向にある。
だが、「伝道の書」の第5章3「愚かなる者の声は言葉の多いことによって知られる。」のように、発言の多寡は思慮深さと必ずしも比例しないことの指摘は紀元前から存在してもいる。

このWebの普及に伴い「誰もが多弁化した」時代の内に在って、「沈黙を守ることを恐れない」ような者が居るとしたら、それは彼が「一時の流行」や「場の同調圧力」に左右されることのない「強い個」であることを意味するのではないか?
   (翻って考えると、(共同体の大多数を占めるであろう、共有された観念の外へ出ることの出来ない)「弱い個」は、その一生を集合知による「洗脳」にも似た状態の内で過ごすのではないか?
   これは言葉が過ぎるだろうが、しかしグルジュフの「眠り」という概念は、一つにはこの状況を指すものだろう。)

「沈黙」それ自体への志向は、言語的な資質の欠如に由来するものどころではなく、むしろ一般的な水準のそれよりも確かな言語感覚を前提として必要する。
『本田△の沈黙』は、彼の言語との本能的な結びつきの指標であるだろう。―― 彼は一般的なこの時代の人よりも遥かに深く、彼自身の言語を介して自分の意識を観察している。)

   (少し脇道に逸れるが、ここで(「沈黙」よりも更に貧しい状態だと見なされることの多い)「緘黙」について言及しておきたい。
   「緘黙」は障害性で語られることが殆どであって、それが或る種の豊かさを内包する可能性について指摘するものはまず読んだ記憶が無い。
   それは発語以前の状態での一種の停滞なのかもしれない、だが同時に、それは言語自らが或る変容を遂げる為の必要な準備の期間でもあるのではないか?と筆者は感じている。)



(F)[2010・9/2〜3]
■〜〜〜〜のふぁぼられ
   http://goo.gl/gwfd2m

「本田や松井らと会ったのは南アのパラグアイ戦以来でしたが、本田はまだワールドカップの時と同じように、メディアに多くを語らない姿勢を貫いているようですね。彼はもともと気さくでよく話す人なんで、ああいう姿を見ていると、どうしてなんだろうと疑問に感じてしまいます。」2010-09-02

「それだけメディアの数も多くて、矢継ぎ早に質問されるのが嫌なのかもしれませんが、本田はもともと男らしく潔い人なので、その姿をもう1回、我々に見せてほしいなと思ってしまいました。」2010-09-02

本田には今日も「話してくれないよね」と聞いたら「分かってるでしょ」と苦笑いされてしまいました。試合前日はペン記者には喋らないという流儀は今後も続けていくようですね。まあ、少なくとも試合後にしっかりやってくれればいいですけどね。」2010-09-03

太字強調は筆者による。
これは記事ではなくて公開設定されたTwitだが、「沈黙」がどのように受けとめられていたのかを示す資料として引用した。
   (蛇足かもしれないが、自分の共感の及ぶ範囲の外に在る事象に対して本能的な反感を抱く(そしてそのことを自覚出来ない)ようなタイプは、取材という業務には不適格なのではないか?と思う。)



(G)[2013・8/1]
■ザックジャパンの停滞を生んだ、過剰な本田礼賛―― 「オレのコメントないオレの特集」
   http://goo.gl/y8nkNF

突然ですが、本田圭佑は好きですか? 僕はあんまり好きじゃないです。
だって、代表戦のあとミックスゾーン(記者が取材を許可されているエリア)をしゃべらずに素通りするから。時々、口を開いたと思ったら「しゃべらへん」と一言、記者の声を振り切って突破してゆく。協会も特別扱いしないで他の選手同様、メディア対応させろ、って話ですわ。
某メガスポーツ専門誌の本田特集である。本人のコメントが一切なく、「オレのコメントないオレの特集」と本人に言われる始末で、中には「どんだけ追いかけても話聞けなかったよう」という泣きの記事すらある。

(ソースは出さないが)この記事へのWeb上の反応は概して否定的なものであり、従ってこの記事は当時のWeb上の言説の主流に位置するものとは言えない。
本稿の観点で言えば、この記事の価値は以下に(再)引用する観察の正しさを保障する一つの(そして、我々がその裡で生きているところのこの時代において、あまりにありふれた)事例であることに拠る。

Pなどはいろいろなタイプの人の〈沈黙〉に対する反応をノートにとろうとさえした。
私がその場で気づいたのは、
人々は何よりも沈黙を怖れており、話したがる性向は自己防御に起因し、またその性向は常に、何かを見たり、自らに告白するのを嫌がることに基づいているということだ。

   ―― ウスペンスキー「奇跡を求めて」前掲部の再掲 ※太字強調は筆者による。



(H)[2014・3/12]
■本田がメディアに話さなくなった4つの理由=イメージトレーニング、世界基準、自己への問いかけ
   (1) http://goo.gl/6ZFLRA
   (2) http://goo.gl/Vb2Xau
   (3) http://goo.gl/8QHsVn
   (4) http://goo.gl/5e7Ejw

いつしか「本田の言葉」は日本代表で最も注目されるコンテンツになり、ミックスゾーンでのコメントの全文がネットメディアに掲載されるようになった。一言ももらさず掲載されるのは、本田だけである。
かくいう筆者も、スポーツ総合誌『Number』から本田の言葉を引き出してほしいという依頼を受けて、この4年間、ロシアを中心に世界中を飛び回ってきた。
毎日が失敗の連続で、3週間モスクワに滞在して、引き出せたのがわずか一言ということもあった。その一言とは、「俺のコメントなしの原稿、楽しみにしてるよ」というもの……。
(中略)
もともと本田は、日本代表で最もミックスゾーンで長く話す選手のひとりで、オランダのフェンロの試合後は椅子に座りながら質問に答えていた。それゆえに2010年W杯の直前に口を閉ざしたのは、メディアにとっては大きな驚きだった。
なぜ本田は、メディアにあまり話さなくなったのだろう?

本文中の小見出しによると、記者は『本田△の沈黙』について
ひとつ目の理由は、「イメージトレーニングの邪魔をされたくない」というものだ。
2つ目の理由は、「メディアの手のひら返しへの憤り」である。
3つ目の理由は「つねに世界基準で物事を見ている」ということだ。
そして4つ目の理由は、「言葉はすべて自分に向かって投げかけている」と考えているからだ。
と解釈しているものらしい。
(表題の下の「理由」が何故か「3つ」だけなのは、メディアに属している記者にとって、メディア批判を最上段に掲げるのは憚られた為、と思われる。)
実はこの記事の記者は(E)と同一人物であり、記事(H)は記事(E)を補完している関係にある。
(なお、記事(H)は再取材によってではなく、想像で書かれている。)
この記事には記者がメディアから本田の言葉を引き出すことを4年前から継続的に依頼され続けていたことが記されており、『本田△の沈黙』は記者個人のみならずメディア全体にも少なからぬ衝撃を与えていたことが窺われる。
以上のような来歴から、この記事は『本田△の沈黙』に対する解題の決定版であることが期待される。
だが、残念なことに、この記事を見る限り「沈黙」は(単に取材への拒絶を主目的としたものではなくて)何か大切な目的の為の行為ではないのか?という予感は朧気に感じられてはいるものの、その具体像は依然として記者(およびメディア全体)の脳裏には映し出されていないように見える。



4年前の(E)記事において、本田は当の記者に対して、自分は難解なことを言う気は無く、また自己韜晦の趣味も無いことを伝えようと努めている。
(おそらく本田は「真の疎通」を彼の側から望んでいるものと思われる。)

「シンプルですよ。ヨメにも言われますもん。こんな扱いやすいやつはいないと」

   ―― 記事内からの本田の言葉の引用。






……(A)〜(H)の8つの記事(南アフリカ大会前の2010・5/23から2014・3/12までの約4年間に渡る)を通読すると、それらは皆一様に「沈黙」―― 『本田△の沈黙』への半ば無意識的な拒絶と混乱を示し、文脈はどれも(或る法則に厳密に法ったかのような)同じ類の齟齬を来たしている様が窺われる。
それらに目を通す都度、翻って「彼」という人となりが浮き彫りにされるように感じる。

いつ彼はその「隔たり」を超えたのだろう?またそれを彼に促したのは「何」だろう?
(全ての「他者」と等しく)筆者は彼の真実を知り得ることは無いだろう、だが事実から推し量れるのは、彼が

「人が何故、そしてどのような時に話したくなるのか、またそれが何を意味するのか」を知るような機会を過去に持ったのであろうこと、
および、
「それ」を理解するに足るような人であったこと、
である。

全ての「伝記的記述」は、書き手の個人的憶測と脚色を完全に脱却する術は無く、それは取材対象を巡る「偶然」と「必然」の二種類の糸で織り成されている。
彼の言動を仔細に追う程、「現実」がどのようなカードを配り如何なる過程を経たのであれ、彼は(彼自身である以上)早晩「沈黙」の真の意味に到達していたのだろう、という印象が強くなる。
そしてそのような彼の(稀有の)資質こそ、本稿が彼を「この時代の為の主人公」として扱う当の理由なのである。
(年令を勘案すると、これは人として驚くべき早熟と言わざるを得ないだろう―― 彼のこうした側面に目を留める向きは少ないが。)

Webとその双方向性は、人と社会を(それと気付かせることなく)『多弁化』させているように見える。
『常時接続された意識』が無自覚に喪失するものとは(人にとって、本来自然でありかつ必要なものである筈の)『沈黙』であると思える、と冒頭で筆者は述べた。
『本田△の沈黙』とは、2010年のひと時、この主題が我々自身の凡そを(それと気付かせることなく)役者として舞台に導き、或る演目を演じさせた一つの事例なのだろう、と思う。
本稿における筆者の底意はこの観察の敷衍に在った。

表面的に言えば、南アフリカ大会は催事として予想外の成功と見なすべきなのだろう。
だがそれが結果として、或るひとつの「契機」から我々の目を遠ざけてしまったことは残念なことであり、非常に大きな損失であったように感じる。
繰り返しにはなるが、彼と彼がその時示した『沈黙』は、この時代特有の宿阿への先駆的な一つの『解』としてこそ、後の時代には想起されて欲しいものだ、と思う。

   (※なお、こういった見方に興味を感じるような向きには、『本田△の奥さんの沈黙』についてもひと時想いを巡らせることをお勧めしたい。)



   ―― 【本田△の沈黙】 その2 へと続く。


























   




   

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