判子絵師は罪か?(そもそもオタ界隈の談義に於いて「芸術の歴史」を見つめている人間などいるか、と言う話)


http://d.hatena.ne.jp/n_euler666/20071106/1194361108


うーん・・・。
芸術とは縁もゆかりも無い一般人が賞賛するような絵っていうのは大体一種類だ。
つまり、実物をより見栄えするように描く、と言うもの、そしてそのやり方も大体一つだ。
逆にユニークな表現、ユーモラスな表現は、面白いと言われても「美しい」とはあんまり言われない。
そもそも現代美術以前の話、権力者達の肖像画を描くのは画家の仕事であった。
肖像である以上ピカソ宜しくの抽象的表現はご法度に近く、専ら当時の価値観で美しい、と思われるものに均一化することこそが重要であり、至上であった。
つまりどう言う事かと言うと、「均一化されすぎていて,誰が誰だかわからないし,誰が描いても同じように見えるし,誰が描いていてもあまり気にならないし,誰の描いたキャラであっても必要十分で似通った可愛さ・綺麗さ・魅力を持ち合わせている」ような絵が一番好まれた。
仕事なので芸術である以前に産業である、誰かが死んでも替えが無ければならなかったし、個性的だけど替えの利かないような才能はいらなかった。
つまり、はるか昔の大先生と呼ばなきゃ怒られるような画家達のしてきた事は、実際今のエロゲ原画家判子絵師とあまり変わらない。
みんなこぞって、当時の萌え萌えな表現を追いかけていたんだよ。
実際、名画の違いなんか、現代美術とか地域の違いとかを織り交ぜていかないと明確な差異は出てこない。
少なくとも一つの時代、一つの地域に統一すると、のいぢと七尾の違いくらいしかない程度には同じようなのしか出て来ない。
ルネッサンスとか古典派なんてマジで似たり寄ったりだ。
なので。

作画崩壊騒動で噴出した感じがするけれど,均一化されて,作家性が低く抑えられていて,コントロールが効いていて,品質が一定であるものを好む…ってのはあまり好ましくない状況であるように思う.


単に時代の潮流として、そういうものが重宝されるようになった、と言うだけの話ではないかと。
それが好ましくないと言うのなら、昔の絵画はまさに好ましくない状況に晒されていた訳であるが、
実際は当時の絵画に必要とされていた仕事を達成するため、表現技法を最適化しただけ、である。
んでその産物が、今や人類の宝扱いだったり。
価値観の順列を上下だけで考えると好ましくない以外の台詞も出てこないだろうけど。
価値の順列は横もあれば斜めや斜め上やあさっての方向だってある。
個性の容認とは、それらも全部ひっくるめて認める事なんだが。

もっと個性のある絵を評価する努力もした方がいい気がする.


これはユーザーに向けた言葉なんだろうか?、それとも作り手?
どちらにせよ個人的に同意はする、芸術の方向性としてその姿勢が誤りとは思わない。
ただ。
第二次大戦というバックボーン無しに「ゲルニカ」を評する事は難しいし、どの時代のどの流れにも分類されなかった―――要するに「個性」を極めたような作家であるM.C.エッシャーは、その作家性故に評価を得るに長い年月をかけた事も忘れてはならない。
個性的であることが、必ずしも評価に結びつく訳ではないし、むしろ個性的だから疎まれる傾向の方が強い。
オタク界隈関係無しに、芸術の世界と言うのは元からそういう性質を持っているので。
あと、現代美術はどれがどの作家か、知ってさえいれば判別付くくらい個性的だけど、それ自体も様々な派閥や体系に分類されている事を留意しなければならない。
要するに。
今の流れは、単に昔重宝されたものが回帰しているだけなので、そんな危機感を抱くようなものじゃないよ、と。
もし危ないとするのなら、当人は広い心を持っている「つもり」なだけの、実は狭いだけの価値観だろう。