推し香水をオーダーしました 後半

経緯

近年はアニメ公式グッズとして香水が販売されることも多く、ファンにとっての人気アイテムとなっている。
「グッズにないけれど推しの香水を纏いたい」「より自分の持っているイメージに近いものが欲しい」といった場合、ファンは、

  1. オリジナルの香水を作る
  2. 市販の香水からイメージに合ったものを選ぶ
  3. 刻印サービスなどで推しの名前を入れる

といった方法で拵える。

今回は漫画「東京卍リベンジャーズ」の柴柚葉の香水が欲しくて、もし気に入った香水に出会えたらリピートしやすいように、市販の商品から選んでもらう方式で注文した。

漫画の感想と柚葉推しの経緯はこちら。
※最終巻までのネタバレあり。読まなくても本エントリーの続きに進んでいただいて差し支えありません。
liargirl.hatenablog.com

※以下の文章では登場人物の生死など重大なネタバレには極力触れないようにしましたが、おおまかなあらすじ程度を話します。

オーダーの内容

利用したのはCelesさんの香水提案サービス「Celes推し活セレクト」。
推しの名前とそのひとについての説明や好きなところ、自分の考えを文章で提出して、それを読んでいただき、指定の容量に小分けされた香水を受け取ることができる。

オーダーの際には、柚葉の簡単なプロフィールと外見上の特徴、聖夜決戦のあらすじと一緒にこのようなお願いをした。

女性ジェンダーが非常に重要となるキャラクターなので、レディース香水でお願いします。
ただし家父長制にとって都合のいい女性像ではなく、誰のものにもならない、かつ誰のことをも愛している優しさと意志を持つ女性のイメージにしてください。

個人的な願望が強めではあるが、私から見た柴柚葉はこういう人物だ。
強者男性に振り回されて終わりはしない。都合のいい影やトロフィーでもない。
武道のことにしても、私はここにロマンティックラブ・イデオロギーに嵌まらない恋愛観を見るのだが、もう一つの解釈として「日向を尊重したから」という線が考えられる。決戦後も柚葉と日向、エマは友人関係を続けている。そこを逃さないようにしたかった。
ユニセックス〜メンズ商品も意識しないことにした。聖夜決戦は人間関係の外側へと追い出されかけた少女たちの物語でもある。それを打ち消すよりも、女性ジェンダーを纏ったまま表現できるものをまず見てみたかった。

守りたいものがあって、実行できる強さがあって、それを優しさと呼んでいいのかは悩んだが、この書き方であれば大きく外す可能性は低いだろう。
どうしても苦手な香りや避けたいイメージがある場合は、オーダーに書いておくと判断材料にしてもらえるようだ。
以前から欲しかった香水の小分けをいくつか一緒に購入して、楽しみに待つことにした。

届いた香水のレポート

一週間ほどで届いたのはモスキーノのI LOVE LOVE。ちょっと、BUCK-TICKを思い出した。

カードのQRコードを読み込むと、Celesサイトへのリンクとなっていて説明文やレビューを見られる。

明るい太陽と愛で満たされたブルーのボトル。オレンジで刻まれたI LOVEの文字が恋するワクワク感を呼び起こす、明るいムードいっぱいのフレグランスです。グレープフルーツとオレンジにレモンがぎゅっと絞られ、レッドカラントが弾けるように押し寄せるトップノート。イグサやスズラン、ティーローズで彩られた茶目っ気たっぷりの笑顔。ラストはウッディやムスクの優しいそよ風に包まれて。恋にも人生にも積極的でポジティブさを失わない女性に捧ぐ、オリヴィエクリスプによるフレッシュなフローラルフルーティです。

Moschino – Cheap & Chic I Love Love
Celesサイトより

まず名前を見て、あのオーダーから「愛」をキーワードに選んでくださったのだと思った。
実物のボトルにはオレンジ色でI LOVEの文字が書かれているらしい。柚葉のイメージカラーは薄いオレンジ色で、キャラクターソングも「アイムインラブ」というからぴったりだ。

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柑橘系の香水は好きでいくつか持っているのだが、I LOVE LOVEのトップの柑橘はかなり可愛らしい印象がする。聖夜決戦の時点で15歳の中学生だから案外合っているのかも。私はずいぶん柚葉を自分に寄せて考えていてしまったようだと気付いた。
時間が経つとミドルのフローラルが出てきて、特にティーローズの香りが目立つように思う。柔らかい花とほんの少しの緑。トップに比較して、こちらは20代以降の大人がつけていてもしっかり似合いそうだ。たとえば、未来の世界で大人になった柚葉にも。
ここからラストノートにかけて、オーダーに書いた「優しさ」を表していると思われる。

全体として、つける人が自分の喜びとして纏う香り、もしくはその人が喜びとともに抱きしめている花束のようだと思った。
それでいて柚葉の面倒見のいい愛情深さも、孤独から解放された未来も感じさせる。
Aスペクトラムとしては説明に「恋」とあるのが少し気になるが、柚葉とだったら友愛や家族愛、隣人愛、そして自分への愛に上書きしていけると思う。

総括

オーダーの文章を書くのに悩んだり、待っている時間、届いた商品を開けて使用するまで、まとめて面白かったです!
言語化してみたイメージを使って、また自分から香水やアクセサリーなどを探しにいくことも出来ると思う。文章が好きな方も、アイテムが好きな方も楽しめます。

推し香水をオーダーしました 前半

※以下の文章では、漫画「東京卍リベンジャーズ」最終巻までの内容に触れています。
未読の方はネタバレにご注意ください。

血のハロウィン〜聖夜決戦までの感想はこちら。
liargirl.hatenablog.com


映画を見て以来コミックスを読破して、何度も咀嚼しているうちに「果たして私は誰を基準にして物語を読み解いているんだろう?」と思えてきた。率直に言うと、誰を推しだと言えばいいのか分かりかねていた。
場地圭介のSFミステリばりのロジックも、三ツ谷の性格もそれぞれ好き。16巻ではあの大寿が支配者どころか組織存続のための挿げ替え可能な首だったことが分かって、大寿の評価がかなり変わった。イザナのことも好きだ。家族は血縁だけではないと、どうにかしてイザナに伝えられなかったのだろうかと悔やまれてならない*1

推しとは必ずしもいなければいけないというものではないし、トリックが好きならば聖夜決戦箱推しと言っていいのかもしれない。
しかし、彼らに限らないが、東京卍リベンジャーズのストーリーは大部分が男性(少年)社会の話であり、反芻しているうちに疲れてきたのだ。
ついでに話すと、そういう話のわりに奇妙なほど実父の姿が描かれないのも東京リベンジャーズの特徴である。存在してはいるが、登場人物の総数に対して顔まで描かれている「父親」が極端に少ない。この少年たちにとっては父よりも兄や不良仲間の方が、上下関係を伴う、憧れ尊敬しつつ克すべき身近な存在なのかもしれない。
そういった土台を血のハロウィンで築き、聖夜決戦ではカトリックの聖母子イメージと重なることでさらに父親の影が薄められる。これがまるごと伏線として天竺編のイザナへと引き継がれている。

どうしても私は東京卍リベンジャーズをとことんミステリとして読んでいて、そのエピソードごとにトリックの根幹となっている人物に惹かれるのだ。中でもやはり聖夜決戦が好みで、ミステリであると同時にホモソーシャルと家父長制を解体する物語と位置づけている。ならば、そのキーパーソンたる柴柚葉のことを、そろそろ真剣に考えたいと思った。
そうしたら、これ以上ないくらいしっくりきた。なぜ最初から思わなかったのだろう。私が応援したくて、物語の中心にいて、それを解釈するためのものさしは柚葉だった。
最後まで誰のものにもならないのも良い。三ツ谷と恋愛関係になるかと思うような演出のハシゴを盛大に外し、「一方的な想いに罪はない」と八戒だけに言ってロマンティックラブ・イデオロギーに嵌まらない。リスロマンティックの星。どこまでも自分であるが故に、権力構造に都合のいい規範をなぎ倒していく。
見つけた。私が好きなのは柴柚葉だ。

そこで、柚葉のイメージに合うような香水をオーダーした。
単純にグッズになかったのと、柚葉の好きなところを具現化したような香水がもしあれば、私にとっても纏いたいものに近いのではないかと思ったからだ。

【追記】
後半にオーダーの内容と届いた香水のレポートを書きました。

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*1:おそらくそのために、きょうだい同士でひとつの家族のような付き合いを提唱できる三ツ谷が重傷によりメンバー外に配置された。そして同じ理由で、マイキーの妹であり、龍宮寺堅と新たな家族を構成するかもしれなかったエマも。 この時三ツ谷と同じ理由で外されかねない八戒がメンバー入りしているのは、下のきょうだいは上を頼り甘えているとして、アングリーが覚醒するまでミスリードするため。補強する要因として灰谷兄弟がいる。

映画「東京リベンジャーズ2 血のハロウィン編」を見ました

※「血のハロウィン」「聖夜決戦」をミステリとして読んだ感想です。上記エピソードの詳しい内容及び登場人物の生死に触れているため、ネタバレにご注意ください。


以前から知人が熱中していて、映画化された「東京リベンジャーズ」を見た。
実は遠い昔に原作漫画の第1話を試し読みして、趣味が合わない気がしてずっと敬遠していた。だが、口コミやファンアートを見ると、どうも血のハロウィン編は私の好きなタイプの物語ではないかと思えてならなかった。

映画2

さて、結論から言うとその期待は、予想外の方向であったが大当たりだった。
決戦での場地圭介の選択は、私にはSFミステリだったのだ。

  • これ以上の抗争を止めるために
  • 一虎が自分を殺したことにならないように
  • どちらの陣営に殺されたことにもならないように
  • マイキーが一虎を殺す理由をなくすために
  • 稀咲の思惑を実現させないように
  • 創設時の約束を守るために

これらを満たす唯一にして最悪の方法、たったひとつの冴えたやり方。

少年たちのアサイラムといえば、私は「尊敬する人のことを好きで慕っているキャラクター」を見るのが好きで、その意味で千冬にも興味があった。
血のハロウィンは離別の話であると事前になんとなく知ってはいたが、千冬がどんな風に場地を慕っているのかを見てみたかった。息を引き取った場地をそれでも離さずに泣きつく姿は、これが演技だということを忘れさせ、そこに本当に松野千冬という人がいるとさえ思った。
だが、もっと強固にその枠にいるのは、兄とともに生き、兄の遺したバイクに乗り、兄を殺した一虎を殺したかった、そしてその事を自らの名前に背負っている佐野万次郎だった。
見ている方も過酷だが、一虎を殴り続けるマイキーは恐らく前後編を通して最も重要なシーンだ。できれば近いうちにもう一度見に行きたい。

聖夜決戦

ついでに三ツ谷隆のビジュアルに一目惚れして、原作単行本も少しずつ読んでいる。今は15巻まで進んだ。
お顔立ちが好き。なんで不良なのにあんなに品のある雰囲気なんですか?

血のハロウィン編の次はさっそく三ツ谷が重要な役どころとなるエピソードで、この「聖夜決戦」も私に言わせればミステリである。
メイントリックである「主客転倒」の構図を、少年誌のフォーマットと不良たちの抗争に組み込んだことに着目したい。ヒントが分かりやすいため予想もつくはつくのだが、伏線は血のハロウィンどころか本編序盤のエピソードにまで遡る。メンバーの交際相手が暴行を受けた痛ましい事件を、その時は自分たち不良集団の理屈で説明していたがそこは女の子が酷い目に合わされたこと自体に怒るべきで、ああだから聖夜決戦は三ツ谷の話なのか……と回収されるあたり質が悪い。柴柚葉を慮るようで八戒ばかりに期待し、真相が見えていない。
そもそも、「武道が日向を救い出すためにタイムリープしている」という本作の筋書きもその一端を担っている。二人は対等であるはずなのに。日向の心を決めるのは日向自身であって、武道や男たちではない。八戒・柚葉を取引する大寿⇔三ツ谷、日向を取引する父⇔武道は相似形を成す。

つまり聖夜決戦で行われたのは、ホモソーシャルと家父長制の解体である。
大変遺憾ながら、神を「父」*1と呼ぶキリスト教は父権主義と家父長制、男尊女卑を強化した歴史がある。だからこそ教会が舞台となり*2、大寿は父なる神の名を讃美する。一家の長男である柴大寿が力を持ったことは、この延長とみていい。「彼なりに家族を想っている」などという弁明は通用しない、暴力は暴力だ。
ルッキズムの問題も指摘できるだろう。強い男が美しく描かれることで、八戒が長年傷を負わされていない事実がカムフラージュされる。こうして柚葉が八戒をかばって暴力を受けていたことが、家の外からは分からないよう隠蔽されてしまう。八戒が自ら語り出すまで。

故に、大寿と同じく妹のいる兄で、下のきょうだいを許し守るべきだと語る三ツ谷が、それが実は目を曇らせていたのだと気付き自ら振り払うことが必要となる。
真相を知った三ツ谷は、すぐに自分の間違いを認め、今度こそ柚葉の苦しみを正視し、彼女を「尊敬する」と伝える。
三ツ谷の良いところは、痛みを受け止められることだと思う。他者が経験してきた痛みも、自分が誰かを傷つけ追い込んだことも目を逸らさない。

マイキーの「聖夜(いのり)は終わった」とは、そういった伏線が整理され、大寿の支配が解体されることを告げる声である。彼も妹のいる兄だ。どこか天使のようだと思ったら、妹のために名乗り始めた"マイキー"はミカエルに由来するのだった*3
最後の幕引きを龍宮寺堅が請け負うのも必然で、彼は幼い頃から生まれ育ちのそれぞれ違う女性たちと暮らしてきた。母と妹を大事にする三ツ谷に、その家族観を教えたのも彼だ。
キーパーソンであり弟を守り続けていた柚葉、自分の心を曲げなかった日向、友情から日向を助けようとしたエマ。私は聖夜決戦を女たちの物語として読みたいと思う。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書 3章16節

試練や裁きを与える神も確かに聖書にあるが、「一人も死なせなかった」クリスマスは、この聖句を通して語りたい。

*1:作中にも引用される主の祈りは「天にまします我らの父よ」で始まる。個人のお祈りとしては、近年では「父」ではない呼び方をされることも多いそう。私もつい言いがちなので気をつけたい。というか、性別というものが出来る以前からいる存在を性別で呼ぶのも私は疑問。

*2:ここで教会の聖堂はまた家庭の暗喩であり、黒龍100人が建物を囲むのは悪魔の支配の意味だと思われる。キリスト教圏でドラゴンは悪魔と同一視されることがある。

*3:ミカエルは悪魔と戦う天使で、竜退治の伝説もある。

SLAM DUNK単行本を読了しました

ほとんど何を知らないまま映画館に飛びこんで一ヶ月半、ついに原作旧版コミックス全31巻を読了した。
山王戦の結末こそ知っていたが、それでも自分が息をしているかさえ忘れてページを繰り続け、読み終えた時には砂浜のある海を見たいと思った。
以下は原作全体のストーリーや映画の詳しい内容に触れながら感想を書いていく。キャラクターについても私の価値観でキリスト教的に解釈しているところがあるため、ご了解の上で進んでいただきたい。

「あなたになりたい」

インターハイ前に花道のシュート訓練に参加した晴子は、自分の三年間の練習を一日で越えてしまった花道に「嫉妬している」と語る。さらに豊玉戦で花道は、会得しようとしたシュートの理想型が流川の姿そのものであったことを悟る。
もしかして、SLAM DUNKには「あなたになりたい」あるいは「私があなたであるはずだったのに」という裏テーマがあるのではないか?
スポーツものをはじめ、高い領域の目標を求めて切磋琢磨する物語にはむしろあって当然なのだが、花道が自分とは正反対の流川に理想を見ていたことは私にも衝撃で、ここを目にした時はしばらくページを開いたまま立ち尽くしていた。

こういうテーマを挟んだところで、豊玉戦では「子どもの頃の憧れ」というまたもスポーツものに欠かせない要素が描かれる。
かつて憧れた選手たちのように、あのコートでバスケがしたい。高校からバスケを始めたばかりの花道にはなかったこの願望を、しかし晴子が序盤からいつも語って聞かせていたことに着目しよう。

SLAM DUNKホモソーシャルの話に終わっていないのは大部分晴子の功績だと思う。
初期には花道を導くコーチであり、成長してからも常に晴子は敬愛され、一方で花道のいないシーンでも一個人としての意志をはっきりと持つ。都合よく花道に振り向かず、だが恋もすれば嫉妬もする。その心が侵害されることはない。
なのでSLAM DUNKの女子キャラクターでは私は晴子が好きで、「流川の頭の中はバスケでいっぱいで、私が入るスキマなんてどこにもなかった」と思うシーンで共感しすぎて古傷が開いた。

流川の親衛隊も、きっと相手にされてもいないだろうに毎回あれだけ懸命に応援に駆けつけて偉いと思う。
どんな時にも流川の声だけは花道に届き、いつも流川は花道を見つけにくる、というのが少し羨ましい。
私はといえば(三井のファンは皆そうだと思うが)見れば見るほど徳男が他人に思えなくなってくる。本当にあんな感じだった。腕力がないから旗振ってなかっただけで。私たち絶対どこかの会場で一緒に応援したことあるよね?

女子の生き方という意味では、宮城アンナのこともずっと考えている。
彼女だって家族の喪失に直面してきたのに、母や兄弟の悲しみは書かれても、アンナは死の事実にさえ触れさせてももらえない。 すべてを知ってからも、兄の顔を忘れてしまいそうになるまで遠ざけられていた。さらに次兄も死にかける。そんな中で顔を背け続ける母とリョータの間に挟まれていたアンナ……。

山王戦

山王戦は先に映画で結果を見てはいたが、「あの試合があったからこう運ぶのか」と思うようなところもあれば、映画ではカットされていた部分もあり、新鮮な気持ちで読んだ。

中でも31巻の宮城から三井へのノールックパスが漫画表現として秀逸である。
光は前を向いているのに、瞳孔が、目の一番暗いところが三井を捉えている。
命を取り合う寸前までいったのはこのためだったのか、と思ってしまった。

さて、桜木花道の負傷について。
誰も花道を止めなかったことを語ろうとすると、その非難の声が、私は自分に返ってきてしまう。私にもあるのだ。怪我していることを知っていて、この手で選手をピッチに送り出したことが。
詳しくは映画初見時のエントリーに書いたので、興味ある方はお読みいただきたい。もう一度書くのも辛いから。
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せめて選手生命の危機を経験した三井は止めてくれないのか、とも思うが、やはり彼もできないのだ。あれが自分の再現でもあるが故に止められはしない。
また、ラインを出そうなボールを追って倒れこむシーンも原作初期から頻繁に描かれており、これも選手を止められないひとつの要因になっている。怖いほど漫画表現が上手い。現代の倫理観を持って読んでさえ、本の中の世界ではこれが成立してしまう。

回心の物語

ここまでスポーツファンの一読者として書いてきたが、少し違う話をしたい。
プロテスタントの話だ。

宮城が沖縄の海で大雨に降られ、崖の隠れ家で号泣するシーンは、キリスト教文化の洗礼の暗喩とみられる。
キリスト教徒となるための洗礼式には、水に体を浸すか頭にかけるなどして、象徴的に死と再生を経験させるという意味がある。転じてフィクション作品なとで、以前の自分から新たな人生を始める時などにも暗喩として用いられる。
事故で死にかけた宮城が故郷の海のこういう場所で、しかも同じ誕生日の兄と過ごした場所でとなれば、胎内回帰→再び生まれるという意味で見て間違いないと思う。

THE FIRST SLAM DUNKは、家族の再生の物語でもある。
この映画は縁側やフェンスといった境界*1が効果的に用いられている。家族から顔を背けていたリョータはついにその境界を越えて手紙を書き、カオルは振り向いて客席に駆けつける*2。そして家族の顔を忘れないよう取り戻させるアンナ。
私の教派にはクリスチャンネームはないのだが、もしあるのなら名乗りたいと前々から思っていた名前がアンナだった。
あの後の宮城アンナの幸せを願っている。


では。宮城と対の三井*3には、さらに回心というテーマがあるように思われる。

私が真っ先に思い出すのはパウロである。
パウロ新約聖書の重要人物のひとりで、もともとはサウロという名で、イエスの死後に発足した初期教会を迫害していた。ある時天からの光と声によって目を見えなくされると、イエスが弟子を遣わされ、目からうろこのようなものが落ちて見えるようになる。以来回心して洗礼を受け、伝道の第一人者となった*4
自身が迫害される立場になっても、投獄されても信じ続け、各地の信徒に送った手紙は後に新約聖書聖典として採られている。
聖書にはこのように、悪事を働いたり神から離れていた者が回心するとしばしば厚遇されることがある。他ならぬイエスが、そのような人たちさえ見放さなかったからだ。私も完全には納得していないのだが(そもそも最初から悪いことをしない方がいい)、三井を見ているとどうもこの回心や罪の赦しというテーマを考えてしまう。
新装版6巻の装幀はどうして紫にしたのだろう。キリスト教では悔い改め、神への回帰、償いなどを表す色だ。


もともと私がTHE FIRST SLAM DUNKの三井を好きになったのは、自分のシュートで自分を救う姿を好きだと思ったからだ。
しかし今は、自分だけで自分を救っているのではないということも分かった。友人を愛して、仲間を信じ、時に自分を使えと呼びかける献身性も持ち合わせている。
「あきらめの悪い男」を名乗る三井からは、虚飾を脱ぎ捨て、自分をやり直して生きていく姿勢さえ感じる。

彼の物語を読めば、私の人生をかけて付き合っていくテーマと重なるところがなんと多く見つかることだろう。

思春期に出逢っていたら大変なことになっていたかもしれない、と思っていたが、大人になってから出逢う三井寿も大変だ。
毎日打ちのめされて絶望をして、時に届かないと突きつけられて、諦めようとしても忘れられなくて、でも好きでしょうがなくて離せないものを、それを好きな自分のままたとえ汚くても生きて愛していたいと思える。この人のように。

三井には、どうかこの物語の後もバスケットと、そして友人を愛して生きていてほしい。
いつでも応援している。

*1:しかし、この装置を軽々と無視してコートに侵入するわ屋上に呼び出すわ体育館に乗り込むわの三井は宮城の何なんだ?

*2:このシーンでさえ一年前に会場のスタンドにいた三井があっての「再現」なので、みっちゃんあんた……。

*3:三井にとって宮城は「自分であるはずの人」だった。

*4:使徒言行録9章より。「目からうろこ」という諺もこれに由来する。

SLAM DUNK単行本を読んでいます②

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映画「THE FIRST SLAM DUNK」を見てから原作コミックスを読み始め、旧版単行本の22巻まで読んだ。県大会決勝トーナメントの陵南戦が終わり、キリのいいところなのでここでブログを書こうと思う。

ベンチメンバーの戦い

まず語りたいのは、陵南戦における木暮の出場である。

私はもう六年間、グランパスの第二GKを応援している。出場する機会が限られていても常に良い準備をして、いつ試合に出てもJ1正GKにも引けを取らないプレーをしてくれる武田洋平を尊敬している。

だから、ずっとチームに居続けて、強力なメンバーが加入してからも彼らの練習や日常を支え、いざ出場すれば起死回生のゴールをもたらす木暮を見て本当に感動したのだ。
湘北バスケ部は層が薄い、ベンチが弱いと再三言われているが、そもそも木暮は赤木のペースについていける人で、まずそこを見誤ってはいけなかった。私達は桜木花道というレッドへリングを掴まされていたのだ。
木暮がチームに貢献する姿がとりわけ日常パートで光るように描かれていたこと、また体育館襲撃事件があのような結果に終わったことも、一種のトリックである。
実力で届かないとしても、木暮を「層が薄い」と見るなら、研究が足りていないのだと思う。事実それを甘く見たが故に点を決められている。それも高い実力を持つ選手の代名詞ともいえるスリーポイントで(ずっと努力していた宮益のことも思い出される)。


その木暮が夢を見たのが三井寿だったというのが何とも切ない。
映画で先に山王戦を見ているので、三井が倒れたシーンは、彼が自分以外の何者でもないと突きつけられたようにも思われる。スーパースターのままでいられなかったという厳しい意味でも、もう一度自分をやり直すという意味でも。

先の話をひっくり返すと、陵南戦は「三井がベンチから応援した」試合でもある。

弱いと言われたそのベンチに、三井寿がいる。すなわちコートには、三井に勝るとも劣らないメンバーがいる。
コート上と変わらない大声で、ベンチから戦う三井に、また私は人は何度でも立ち上がれるという希望を見る。蝋燭の火をもらうように。

だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らす時のように、全身は輝いている。

ルカによる福音書 第11章35-36節


陵南のベンチワーク、また双方の部員の応援を含め、これほどベンチが重要になる試合が、安西監督不在のまま行われている。
チーム全員で掴んだ勝利だ。
そしてキーパーソンは間違いなく木暮であった。

応援席の人たちのこと

話は変わるが、流川の親衛隊の子たちはおそらく相手にされることもなく、感謝の言葉を受けたりもせず、時には部員たちに締め出されたりしているだろうに毎回応援に駆けつけていて、純粋に凄いと思う。私は「私の入りこむスキマなんてどこにもなかった」という晴子のモノローグに古傷を抉られる側の人間です。
罪を被ってまで応援してくれる友達のことを三井は大事にしなよ……。

映画「THE FIRST SLAM DUNK」応援上映に行ってきました

念願の応援上映

3月はチケット販売開始と同時にアクセス過多で弾かれているうちに完売、今回は上映館が増えたためまず会場選びに賭けて、開始1分で通路側の座席を確保することに成功!
当日映画館で知り合った方たちとそのまま打ち上げに行くという、楽しい1日になりました。


↑入場時の案内と組立て式メガホン。

服装自由、発声可、応援グッズも持込可。
グッズは人というか応援スタイルによってあってもなくてもいいとは思うが、そもそも私は見に行くようになったばかりで、すでにグッズは軒並み完売に近く何も持っていないし、サポーターやっていた割にゲーフラやボードを作ったこともない。潔く色紙に短歌を書いていった。
こういうものは「あなたを応援している人がここにいるよ!」と示すためにある。赤で14と書いてあれば充分だろう。
あとはナイトゲームサイリウムも持って行った(10分で自分には向いていないことが分かった)。

所感

※以下は映画の詳しい内容に触れています


私がやりたかったことは2つ。

  1. 三井の名前を呼ぶ
  2. 音楽に合わせて応援する

完全にただ試合の応援に来た人ですね。
試合のシーン以外にも、登場人物に呼びかけたり「○○して〜!」と声が上がったりして、個人的に「マーガリンしまって〜!」が面白かった。確かに真夏にマーガリン出しっぱなしは止めてあげたい。カオルさんのために。

その他聞こえた範囲の所感

  • 湘北推しの人が多い中でも、山王の応援は声量が凄い。あの応援団が「いる」。
  • 男子たちの木暮推し。「メガネー!」と呼んでいた声はたぶん大半が男子だった。
  • 直接の出番でなくても名前を呼ばれるキャラクターがいた。愛されているんですね。
  • 赤木が倒れて悪魔が降りてくるところでクラップが入り、ただでさえ毎回笑ってしまうシーンがさらに面白くて大変なことになった。あれ皆どうやって堪えてるの?
  • 山王の監督コール少なかったような。私が聞こえなかっただけ? あの場で一番大人として信用できて格好いいと思うんだけども。
  • 静かなシーンは皆で見守る。全体的に集中して見られた。

怪我していることが分かっていて花道に拍手するところはやはり辛かった。
ただ、あのシーンはちょうど作中でも体育館のスタンドから声援や拍手が聞こえてくるところだから、スクリーン前方の座席だとよりコート上で聞こえているのに近い臨場感がありそうで興味を唆られる。


私はもう、ひたすら三井を見ていた。
名前を呼ぶということは、その人に愛していると伝えることである。何回でも、疲れても、昔とった杵柄で濁点付きになろうとも、気の利いたことなんて言えなくても、たった一言名前を呼べば気持ちは全部伝わる。そう思わせるところが三井にはある。
そういえばリョータと衝突していた頃の会話からも、言葉にしていないことを含めて授受するチーム競技者としての能力が高い気がする(自分からはしっかり言葉で示す傾向があると思う)。
ミッチー呼びだけやけに声を出しやすいなと思ったら、グランパスのGKミッチェル・ランゲラックの愛称がミッチだから呼び慣れていたようだった。経験は何も無駄にならない。
魂の叫びとして名前を呼ぶことは出来たが、選手を鼓舞し力を与えるような応援が出来ていたかは反省が残る。


もうひとつの目当てである「音楽に合わせた応援」は、何と言ってもDouble crutch ZEROに尽きる。
リョータのドリブルのリズムの良さがここでも生きている。前進する勢いに乗ってついついクラップが速くなってしまいそうになるのを抑えながら、ギターをよく聞いて合わせた。

一方で、クラップが入ることでやはり流川のボールの音が重いことも強調されるように思う。
そこだけリズムも違う気がするし、スタンダードな造りの楽器とはまた違う、最低音域のついたインペリアルのような印象がある。
映画や原作を見るまで、流川は顔立ちが綺麗だからと勝手に線が細いイメージを持っていたのだが、実際身長も高ければ体重もあって、その大きな体をあのスピードで運べるパワーがある選手なのだと音からも表現されている。
映画館上映もいいけれど、ライブハウスでフィルムをかけてみても面白いかもしれない。円陣で声揃うよ。

エンドロールの最後には井上雄彦先生への感謝のコールも。

応援したい人

ここからは私の話。

この春から合唱隊に参加して、そこで歌わせてもらうことになっている。
昔は自信があった。高校まで金管楽器をやっていて、自分の体は楽器であると自負していた。
ある時期から楽器も歌もやらなくなって、病気で寝込みがちだったり、昨年新型コロナウィルスによる発熱で弱ったこともあり、歌う体としては衰えていると思う。正直今はあまり上手くもない。
でも、ずっと考えて悩んでいた時に三井寿に出逢った。
ブランクを経てバスケに復帰し、毎試合ヘトヘトになりながらも戦う三井を見ていたら、私もそうしたいと思った。

応援したいと思う人は、もしかすると、「この人に私を応援していてほしい」と思う人なのかもしれない。

SLAM DUNK単行本を読んでいます①

これまでのあらすじ

ほぼ何も知らないまま映画「THE FIRST SLAM DUNK」を観て、少しずつ原作コミックスを読み進めている。

↓映画の感想はこちら
liargirl.hatenablog.com

親切な知人から旧版コミックスを借りることができて、
せっかくの厚意なのでそちらを読みつつ、優先的に読み返したいところから自分で新装版を買っていこうと思う。
今は海南戦後のがけっぷちのあたり。
キリのいいところだと思われるので新装版の6巻を買った。

体育館襲撃について

前述の知人から、事前に「ミッチー相当すごい喧嘩してるけど大丈夫?」と念を押されたため、三井が相当やらかしてるらしいことは承知していたつもりだったが、まさか単行本まるまる2巻かけて喧嘩しているとは思わなかった……というのが正直な感想。
90年代初頭ですでに花粉症だった私に言わせれば、この頃の子どものマスクといえばガーゼマスクしかなかったのだ。ガーゼマスクなのは仕方ない。

そう、子どもだし思春期なのだ。
新しい人に出逢うことは新しい自分を知ることだと思うが、三井を見ていると自分の思春期の頃が思い出されてならない。かさぶたをはがすような気分。
いい大人になってから出会ってまだ良かった。

あまり暴力を美化したくないのでバスケの話をしたいのだが、その前に野次ラーとしてひとつ疑問が浮かぶ。
「なぜ三井は、2年も不良をやっていて喧嘩の戦術を立ててこないのか」
バスケの戦術理解にはあんなに長けているのに。
話が前後するが、山王戦で安西先生が三井の長所として「知性」を挙げているのも戦術理解の意味だと思う。
チーム内の意思疎通ができているか、どこに自分が必要か、そのポジションにいるためにどう走るか、時間帯をどう考えるか。こういったコート上の情報を整理し三井が走る時、非常に洗練されたセンスを感じる。
サッカー界では「監督のやりたいサッカーを表現する」という言い方をよくするが、スタミナ不足でも長時間の出場を求められるのは、監督がこの役を欲しているからではないか。個々の戦力を繋ぎ、戦術として成立させるためには三井が必要なのだ。
書いていて思うが、技術だけでなくこれだけ戦術に貢献して、個人としても大量の点を取れる、ブランクがある割に当たり負けもしない、モチベーターとしても優秀、体力さえ追いつけば本当に化け物だな……。

それを考えると、宮城を集団リンチしようとして初手で鼻に頭突きを喰らったのは何だったんだ?
私でも知っているような初歩の戦術(?)だ。殴るならまず鼻だと、Angelo時代にキリトさんが言っていた。
だから余計に、「三井が本当にいたかったのは、コートがありリングがあり、ルールありきで行われる競技スポーツの世界だったのだ」と思ってしまう。
道具の使い方を教わればやけに素直に聞くあたりにも、逆説的に規則を重んずる傾向が感じられる。ルール無用の殴り合いバトルロワイヤルに滅法弱いのも頷ける。

なまじ人の期待を実現できるからこそ、周りからも大人たちからも、おそらく自分自身からも過信されていた「武石中の三井寿」のことを思うと胸が苦しくなる。
怪我をしっかり治さないまま強行出場して、さらなる大怪我を負う選手を大勢見てきた。あなたもなのか。

繰り返すが暴力を美化したくはないし、動機があるからといってやっていいことではない。
木暮の「同情なんてするんじゃなかった」には心の底から同意する。
ただここから先のストーリーは、主人公・花道が物事を一つずつ進めていくようなタームから公式戦へ、つまりより高度な技術と連携、戦術を持つチームを作る必要がある。
そのため、本来なら同等の選手であるはずの三井と宮城が衝突し、その後仲間に引入れられるという、ストーリー上の必然性は認められてしまうのだ。
三井にできることはただひとつ、暴走を止めてくれた人たちに感謝することである。
迎えてくれたバスケ部、本当にやりたいことのために送り出してくれた友人たち、そして自分のために、一緒に燃えよう。
自分のシュートで自分を救う三井が、私は好きなのだ。