小説「華厳経」1-2

ひとり暮らしの部屋でノートパソコンからログインすることもあれば、マンガ喫茶とそう変わらない部屋からログインすることもあった。今日はマンガ喫茶とそう変わらないほうの部屋にいる。ついたてに囲われた個室でパソコンに向かいアバターを動かしている。
アバターの名前はりか。わたしの名前はここでは「灯(あかり)」。
ついたての後ろからわたしを呼ぶ声がした。わたしはパソコンモニターに映るアバターから視線を逸らし、振り返った。太い腕が伸び、ハンガーの上からビニールをかけられた、チェック柄の制服がついたてのこちら側に向くようにしてかけられた。
「ありがとうございます」
わたしは太い腕の持ち主に向かってお礼を言った。彼の名前は覚えていない。何人かいる「男の人」のひとりだ。他の「女の子」たちが彼らをどう呼んでいるのかはわからないが、わたしは頭の中で彼ら男性従業員のことを「男の人」と呼んでいた。
つい10分ほど前に出勤したのに、もう客がついてしまった。アバターで遊ぶのは、また後でだ。
かけていた眼鏡をキーボードの横に置いて立ち上がった。
昼下がりに財布ひとつでオフィス街を歩いているごく普通のOL。そういった女性とラブホテルの中で事を致せたらいいのにな、そんな願いを叶えるというコンセプトのホテヘルでわたしは働いている。
 前職は文筆業。その話はまた追々。

1人目の接客を終え、待機室に戻ってきた。わたしが再びログインするとすでに、わたしのアバターの「マイルーム」に別のアバターが待ちくたびれたような様子で立っていた。待ちくたびれたよう、というのはこちらが感情移入しているからこその印象であって、アバターの表情は笑ったまんまだ。
「めいちゃん」
アバターを操作し、マイルームに遊びに来ているアバターに話しかける。
吹き出しの中に「めいちゃん」と表示される。
めいちゃんアバターの顔のあたりから伸びる吹き出しに「りかちゃん!!!!!」と表示された。「屏風買ったんだね」
 めいちゃんが言った。
「うん」と書き込もうとしてやめ、アバターで頷くモーションをした。このほうが可愛い。
「屏風、桜の柄でしょ」「わたしの遊郭に合うと思って」
吹き出しは小さいので、読みやすいよう二度に分けて文字を打った。
この吹き出しの小ささのために、30分会話したところで、家具2、3個にまつわる話しかできなかった、なんてことになりがちだ。そこがまたわたしは、気に入っていた。きっと彼女も。
めいちゃんは自分のことを、話したくないのではないだろうか。
「ねぇ。りかちゃんの遊郭、桜のアイテムが増えてきたよね」
「うん。無料アイテムばかりだけどね」

 わたしは遊郭のない時代に生きて、どこに閉じこめられているわけでもなく、客がひとり付くごとに違うホテルへ徒歩移動している。
 けれどアバターは、遊郭の中に閉じこめた。アバターのマイルームへの来客は多く、大半がめいちゃんのように同性の子だ。ここよりも運営会社の管理が厳しくないサイトで行われているらしい、エロチャットのようなことをしてもいないのに。客はやって来る。繰り返すが同性だけど。

 ホテヘルの客も「話だけしたくて来た」と言って、アバターと同じようにラブホテルの部屋の中をうろうろして「照明がいいよね。これ変わった?」「(いや、わたしが設置しているわけじゃないからわからないけど)……」というような会話をするだけで帰っていったらいいのにな、と想像して、良くもないかと思い直した。
 わたしはホテヘルの仕事が案外気に入っている。