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カリフォルニア留学記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2012年03月30日

気仙沼編2【被災地のにおい】

(2011年3月最後の一週間。気仙沼

はじめの数日はアキラの家を片付けたり、東京からの物資を配ったりして過ごしたと思うのだが、あまり記憶がない。モレスキンにもほとんどなにも書き込んでいない。

ただ一つ鮮烈に覚えていることがある。においだ。津浪が襲った家の臭い。中に入ると、その強烈さで一瞬身体がこわばる。汚物のようで腐敗のようで、”くさい”というより苦しい。見てはいけないものがこの奥にあるという気がする。三つ又をふるって、木片や藁をすくい取り一輪車で運び出す。家の中にはありとあらゆるものが流れ込んでいた。隣りの農地から流れついた藁が多い。ビニールハウスの切れ端、木箱の破片、農機具、ガスボンベ。すべてが藁と泥にまみれて、奥に何があるのかは全くわからない。

三つ又が、グざっと何かに刺さった。藁じゃないよな、この感覚。

全身が震える。ああ、やっぱりだ。そうだな。来なきゃよかった。弱い人間がこんなとこに来たってしょうがないじゃないか。

ふ〜と息を吐いて、そっと三つ又を上げる。

子供の長靴だった。

この頃は遺体がみつかることも多かった。

臭いの正体は気仙沼市が撒いた消毒剤だったという。しかしまもなくして、これとは比べ物にならない異臭が町中を覆った。魚の腐乱臭だ。気仙沼は港町で魚を保存するための冷凍冷蔵設備を備えた倉庫が多のだ。この冷蔵庫が津浪の被害をうけ壁が壊され、外気にさらされた。暖かい日が続くようになると中の魚が溶け出して、ヘドロ状になってしまった。町中、顔をしかめないと歩けないほどだった。

さてそうしたか。国がこれらの魚を沖合の海に捨てることを許可した。つまり海洋投棄だ。そのためにはまず梱包しているビニールやら発砲スチロースを手作業ではがさなければならない(その後船に積んで、沖に捨てに行く。)海に捨てられるのは自然に帰るものだけだから。数Km離れていても吐気を催す臭いなのだから、過酷な仕事。漁師用の全身カッパと分厚い長手袋をするが、お風呂に入っても容易にはとれない。それでも日雇いとっぱらいで8千円というのは、津浪で離職した人々には貴重な収入源になる。(この時期の国からおりてくる仕事の相場は8千円〜1万2千円!もともと気仙沼の仕事の時給は6百円程度だから、これはおそろしく高い)。しかし、この仕事を請け負った会社は当初、シルバー人材派遣から人を雇っていた。ハローワークはほとんど機能していなかったからしかたがいけれど・・・・。って、なんでそんなに僕は詳しいのかって?。実はそれは・・・とつづきはまた今度。

2012年03月28日

気仙沼篇1【きっかけ】

「見てみるか?」と言われて夕暮れのなか車で山を下った。

このときの光景を思い出そうとすると今も息が止まる。手汗をかく。

「これ以上は行けない。すごいだろ、全部ガレキだよ」

「・・・これが津浪だ。」

宮城県気仙沼市に入ったのは東日本大震災から2週間後。手帳の記録をみると、東京からバスを乗り継ぎ丸一日かかったとある。バスはちょうど夕暮れどきに山の上の停留所についた。このとき僕は東京から来たただのボランティアの学生で3日もすれば帰れると思っていた。しかし、ふたをあけてみると3ヶ月以上のあいだ気仙沼を出ることはなかった。それどころか『気仙沼復興協会』を立ち上げ、事務局長に。そんなことになった顛末をここに書いてみる。

きっかけ

僕は千葉の自宅アパートで遅めの昼食の準備をしていた。

3月11日14時46分。

まさにパスタを熱湯に投入したときに地震がきた。外へ飛び出し、おそるおそる部屋に戻ると奇跡的に鍋は倒れずにあり、奇跡的にパスタはアルデンテにゆで上がっていた。ソースをかけて美味しく食べた。だから、ご飯を食べる余裕があったくらいだから僕自身はまったく被災していないし、被災地に家族も親戚も友人もいない。うん、いない・・・。あれ、まてよ!

アキラのことを思い出した。タイミングが良いというか悪いというか、きっかけというなら彼がきっかけだ。ふだんは東京で大学院生をしている。(カリフォルニアで仲良くなった。)その彼が3月10日のFaceBook上で「気仙沼に帰省します!」と楽しそうに呟いていたのだ。震災の前日に気仙沼に帰省する、なんというタイミンだ!

すぐにアキラの彼女から連絡がきた。「連絡がとれないの。」その時点で東京から連絡を取ることはまったくできなくなっていた。気仙沼が火の海に包まれるあの映像を僕はただ見ているしかなかった。それからの一週間、彼女を励まし続けた。お互いの知るかぎりの「思い出話」をし続けた。彼がいかに逞しいかを語り続けた。同じようにして家族の無事を祈り続けた人が何万人も東京にはいたはずである。「きっと、生きているはず!」「今頃、避難所で働いているんじゃないの?」彼女を励ましながら、けれど頭では「せめて遺体だけでも見つかってくれればいい」などと考えていた。彼の実家は海に近く津浪の被害が大きい地区だったのだ。

アキラの安否が最初に確認できたのはFaceBookだった。台湾の友人が、アキラの妹らしいアカウントを探してきて「メールを送ってみなさい!」と助言をくれメールしてみると、はたして本当に彼の妹さんでびっくり。しかも「地震の直後に『避難するから大丈夫』と連絡が取れました」とのこと。一週間後には、衛星電話で直接アキラから連絡があった。「とりあえず無事。避難所にいる。これから東京にいったん帰って、物資を買うつもり。」被災地からではどうにもならないので、秋田から飛行機を乗り継ぐルートを探して手配した。

アキラが東京に戻ってきてから、数日かけて買える限りの物資を買った。ベビー用品、医薬品、非常食、タバコ、そしてそれらを入れるための巨大な登山用ザック。彼が気仙沼に戻る前夜、有楽町の居酒屋で見送りの会を開いた。

「たくさん買ったね!アキラひとりで全部持っていけんの?(笑)」

「だな(笑)一緒にくる?」

「うん」

次の日、僕はバスに乗り込み、気仙沼に入ったとさ。


つづく