檜垣立哉著『ベルクソンの哲学―生成する実在の肯定』(2000)

ベルクソンの哲学―生成する実在の肯定

ベルクソンの哲学―生成する実在の肯定

絶えず変化し、新たな質を生み続ける実在、それをありのままに記述しようとするベルクソンの哲学。ジル・ドゥルーズの読解に即し、整理することで、生成のリアリティーを巡るベルクソンの思考の原理を浮かび上がらせる。

序論 ベルクソンの哲学とその位置
 ベルクソンの哲学について
 流れとしての実在
 私という実在
 忘却と継承 思想史の中のベルクソン
 超越論性と内在性――現象学ベルクソン
 差異化という方法論――ドゥルーズベルクソン
 統合という存在論
 内在を描く諸相――肯定性と潜在性
 ポストモダンのなかのベルクソン

第一章 連続的で異質的な持続――『試論』について
 『試論』の主題
 質と量との差異化
 多様性の二種
 持続としての質的なもの
 持続の実在
 自由という問題
 予見不可能で自己根拠的な持続
 持続の充溢制についての註記的補足

第二章 知覚の機構と実在する過去――『物質と記憶』について
 イマージュを巡る認識と存在の議論
 Ⅰ 純粋知覚について
  知覚について
  イマージュのなかの知覚
  不確実性としての主観性
  情感と主観性
 Ⅱ 記憶と認識の機制
  主観性についてのまとめ――記憶の問題への移行
  記憶の二つの類型
  親密性の認識とその裂け目
  回路としての認識
  失語症論としての記憶論
 Ⅲ 記憶の即自存在とその心理的な働き
  即自的過去である純粋記憶
  現在という位相
  記憶の生成――現在と過去との差異化
  精神の領域としての記憶――一般観念
  心的装置の相対性と精神の均衡
 Ⅳ 持続の存在論
  屈曲点の向こう側の再構成
  流れである持続の知覚
  持続のリズムの差異による統合――三つの場面
  自由・本来・生命

第三章 分散する一者としての生命――『創造的進化』について
 生命の論理
 生命の認識論――拡散させる目的論
 進化の諸学説
 生命の段階論
 知性への跳躍
 知性の限界と別種の分岐
 生命の意味論

第四章 持続の一元論/結晶と層――ベルクソン存在論について
 持続の一元論
 流れの同時性――『持続と同時性』について
 時間の結晶へ――ドゥルーズ『シネマ』について
 決勝・識別不可能な点・クロノロジックでない諸層
 運動のリアルを越えた受難的=受動的なリアル
 存在の情感性 創造の情感性

93「イマージュは心理的概念でも物理的概念でもない。それは、観念論者が主張する「表象」と、(湯物論的、素朴科学論的な)実在論者が主張する「事物」との「中間」に位置するものである」
98「イマージュのなかに知覚する脳が存在し、その働きの仕方において私の知覚や意識が描かれるのである」
111「実在する知覚は、いつも時間的な流れのなかに存立するので、どのようなものであれ「持続の一定の厚みをしめる。これに対し純粋知覚は、本質的に瞬間的な知覚である」「純粋知覚は、あくまでも知覚の「非人称的な基底」なのである。これにすぐれて主観的な記憶の領域が「接木」されることになる」「記憶はいつも知覚の場面に控えており、そこで過去が入り込む条件をなしている。しかしこれだけではない。記憶は、知覚に居あわせるのみならず、知覚と記憶とを一度に把握させ、主観的な認識=再認を構成する働きをなすのである。この第二の操作を、ベルクソンは収縮させること(contracter)や凝縮させること(condenser)の働きと呼んでいる」
140「現在が流れの断面であるかぎり、それは想定されるだけの境界にすぎないだろう。光のように短い知覚を考えても、そこにはすでに無数の知覚が介在するのである。だから現実的は知覚を考えるとしても、それが遂行されるのはほとんどが過去においてである。つまり知覚される実在とは、感覚運動的な現在が支配するものというよりは、むしろ記憶の領域において、その潜在性の働きにより語られるべきものなのである」
155「記憶の収縮による持続の形成とは、ベルクソンの言い方によれば「主観的」である。しかし『試論』以来明らかなように、ベルクソンのいう主観性とおは、客観的なものに対して囲まれる内面的領域とは関わりがない。ここで主観性とは、むしろ時間の実在に連関する一つの機能のようである。それは個人的なものと捉えうる記憶イマージュや個別の観念の根底に存するものとして、真に主観的でありながらも個人というあり方とは隔たったものである。時間の働き(=異質性)をもたらすものが主観的なものである。それが捨象される場面(=等質的現在)に客観性が現出する」
168(2)「奇妙な表現になるが、純粋知覚とは時間を欠いた運動として物質(ー身体)の状態を際立たせ、逆にそこから時間(実在)への視界を溢れさせる場面といえるかもしれない。この記述のなかで観念論と素朴実在論の対立が解消され、しかもその解消の原理(全体における部分の分離)が、以降の議論すべてに(生命の論理にまで及んで)適用される論理になっていく」
242「『創造的進化』第4章でなされたこの指摘は、映画とベルクソンの思考との鋭い対立を示すもののようにもみえる。バラバラにされたコマの連続的な集積により、運動が存在するかのように映像を展開する映画の装置とは、ベルクソンにとって、運動に関する錯視的な姿勢を代表するものに見えただろう」
250 ドゥルーズの時間論「しかし時間の一元論的な視点に立つならば、この流れそのものが問われるべきになる。それは差異化をはたす一つの時間として、区分しうるが識別不可能な場面をもつのである。結晶というイマージュは、まずはこの同一的な分裂という時間の推力的な姿を示すものだろう」
272(8)「この構成上の不安定さは、『物質と記憶』の構成上の不安定さをそのまま引き受けるものともおもえる。『物質と記憶』第1章冒頭では、実在の現れであるイマージュの描写がなされ、また主観性の議論に繋がる情感が導入されている。イマージュが中心なく相互連関的に漂う純粋知覚の描写は、ベルクソンの実在理解にとって重要である。また、身体的切迫として語られる情感性も、すでに主観性の議論を先どりしている。しかしこれらは(とりわけ第2章で展開される)身体の感覚運動系にとってまさに余剰のようなものである。そして記憶が導入されると、これらの場面すべてが権利上のものとみなされる。だがこの乗り越えがなされる際に、すでに論じられた諸議論が(とくに記憶の側面から)どう』処理されるべきかが論じられることはない。この点でも『物質と記憶』と『シネマ』の構成は類似している」