読書録

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「始末」ということ

「始末」ということ (角川oneテーマ21)

「始末」ということ (角川oneテーマ21)

本書のカバー(後)に書いてあるように、テーマは「死を考える」で、
『モノとこころをどうするか 「いのち」の締めくくり方を考える』 とある。

そして要点が、6項目、以下の▼のように掲げられ、本文中→のような考え方が示される。

▼なぜ土葬ではなく、火葬でなければならないのか
→火葬は明治時代からで、肉体と魂の持つ意味を改めて考える必要あり

▼日本人が遺骨にこだわる理由
→「ホネカミ」「ホネコブリ」の風習+死者を悼む深い思い&絆を深める
p60:私の一握りの散骨の気持ちには、「葬式はしない、墓はつくらない、遺骨は残さない」の三無主義が付随するのです。

現代社会は「死」が見えにくくなっている
→死の実感のもてない社会、死の隠される社会に p80

▼今も変わらない無常観と浄土のイメージ
寺田寅彦「日本人の自然観」に「天然の無常」が祖先からの遺伝的記憶 p97
ブッダの説く無常は、1.地上に永遠なるものはひとつもない、2.形あるものは必ず壊れる、3.人は生きて必ず死ぬ p105
村上春樹のスペイン、カタルーニャ国際賞スピーチ(2011年6月)で循環と再生の思想
p109〜「我々はmujoという移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人間は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々に具わっているはずです」
→(死の喪失、心の痛手には、)p112:悲しみをともに生きる気持ちで寄り添うこと

▼死と向きあうためのモノのしまつ、こころの始末
→「生老病死」は仏教語で四苦。生だけポジティブという西洋的考え方は変える必要
→所有するものを整理するとき、「自分にとっての価値」ではなく、人に迷惑をかけないようにすることだと考える p169

▼死ぬときはひとり、「いのち」の最後をどう締めくくるか
→p72:問題は、「所詮、人はひとりで死ぬのだ」ということに対して、肚をくくれているのか、覚悟ができているのかということなのです。
→p183:西行のように末期を迎えたい。そして死してのちは微塵となって無の領域に足を踏み入れてみたい。そのとき賢治の言葉のように「デクノボウ」に変身し、「宇宙の微塵となって散らばる」ことができたらしめたものであります。

著者は、「生を全うする」とは、人生によい始末をつけ、穏やかな往生を迎えることとして、過去の様々な和歌や、仏教の偉人を紹介しながら、論を進めていき、80歳を迎えてひとつの境地に達せられたようだ。

まだまだその歳ではないけれども、頭の片隅に置きながら、考えていく必要はある。

(その他、参考になったところ+引用note)
p66:著者が自らに課した3つの心得
1.食べ過ぎない 2.飲み過ぎない 3.人に会いすぎない

p135:(自殺を止めるには、人生のいまという時間を切り取るのではなく、川のように流れていくものとして)いいときもあれば悪いときもある。点の集合による「線」で考える

p149:道元の歌
「春は花 夏はほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり」
p152:良寛の歌
「形見とて何か残さむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉」

{5/5ー11読了、記入は13}